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2011年10月11日火曜日

ハート・ロッカー('08)         キャスリン・ビグロー


<「戦場のリアリズム」の映像的提示のみに収斂される物語への偏頗な拘泥>




 1  「ヒューマンドラマ」としての不全性を削り取った「戦争映画」のリアルな様態



 テロの脅威に怯えながらも、その「非日常」の日常下に日々の呼吸を繋ぎ、なお本来の秩序が保証されない混沌のバグダッドの町の一角。

 そこに、男たちがいる。

 米陸軍の爆発物処理班の男たちだ。

 この日もまた、いつものように、彼らがカメラ付きの軍用ロボットの遠隔操作によって発見したIED(即製爆発装置)を処理するため、再び、軍用ロボットを向かわせた。

 
ところが、舗装されていないガラクタ道のため、軍用ロボットの車輪が外れ、故障してしまうに至った。


 
ここで、およそ45kgの重量がある防爆スーツに身を包んだ爆発物処理班のリーダーが、手動でIEDの処理に向かい、何とか無事にセットした。

 件のリーダーの任務を援護する処理班の二人は安堵し、束の間ジョークを交わし合うが、遠方に携帯を持ったイラク人と思しき男を、処理班の若い技術兵が視認することで緊張が走る。

 恐らく、それもまた、殆どルーティン化された、彼らの「非日常」の日常の様態なのだろう。


 「携帯を捨てろ!」と叫ぶ技術兵。
 「そいつを撃て!早く撃て!」と処理班の軍曹。

 逃げる男を追う技術兵。

 「撃てない!」と技術兵。

 狙いが定められないのか、射殺する行為に躊躇しているのか定かではない。

 その時間の一瞬の空隙に爆発が起こった。


 大地が盛り上がるほどの砂塵が舞った。

 別の携帯のスィッチを押した白人による犯行だった。

 ドキュメンタリー映画のような手持ちカメラは、一瞬、その相貌を写しただけだった。

 無論、逃げる男との絡みは不分明である。

 分明であるのは、防爆スーツに身を包んだ爆発物処理班のリーダーが吹き飛ばされ、絶命したという現実だけ。

 以上、この10分間に及ぶ冒頭のシークエンスに、本作のエッセンスが詰まっていると言っていい。

 即ち、この映画で確信的に捨てられているものが、そこに凝縮されているのだ。

 この映画で確信的に捨てられているもの ―― それは、テーマ性を内包した「戦争映画」に付きものの「政治」であり、「友情」「愛」などという「感動譚」である。

 敢えて言うなら、「ヒューマンドラマ」としての不全性を覚悟してまで、そこで削り取った「戦争映画」のリアルな様態が執拗に描き出されるのである。

 だから、「戦争映画」に付きものの「政治」=「暑苦しい反戦の主張」や、「友情」「愛」などという「感動譚」を本作に求める者は、爆発物処理班のリーダーの「戦死」の代りに派遣されて来た「命知らずの男」による、爆発物処理の描写を繰り返し見せつけられることで、すっかり置き去りにされた気分になるに違いない。

 支払った「木戸銭」に見合わない映画を、130分間も見せつけられたストレスが昂じて、本作に「糞映画」紛いの酷評を加える心理は理解できなくもないが、しかし、それは大袈裟なキャッチコピーに乗せられた応分の報いとも言えるだろう。

 独断的主観に基づき、敢えて書く。

 この映画が、イラク戦争に辟易するアメリカ人の厭戦気分にマッチした作品に仕上がっていたり、或いはその真逆で、昂揚感を高める効果に結び付くものであったり、等々の見方を仮定しても、必ずしも、「アメリカ映画の祭典」の結晶としての「アカデミー作品賞」に相応しい完成度の高い秀作であるか否かについては、相当程度、疑問の余地があるかも知れないが、それにも拘らず、本作がイラク戦争肯定のプロパガンダ・ムービーと見るのは、明らかに誤読であるか、それとも「論理的過誤」を心理的ベースにした、濃密なマインドセットに起因する曲解である。

 
IED/即席爆発装置に使われる爆発物(ウィキ)
それ故、一見、訳知り顔の、ナイーブなまでに青臭い、センチメンタルな反米主義に拠って立つ数多の批判の放射は、完全に的外れであると言わざるを得ないだろう。

 以下、私なりの簡潔な批評を加えていきたい。



 2  アディクション性向が巣食っている男の、内側深くで特化された「戦場のリアリズム」



 「政治」の空白や、「ヒューマンドラマ」としての不全性によって炙り出されるもの ―― それは、「戦争は麻薬である」という冒頭のキャプションを体現したような男の、そこだけは抜きん出たプロフェッショナルの仕事の内実だった。

 このキャプションの前には、「戦闘での高揚感は、時に激しい中毒となる」という、ピューリッツアー賞受賞の「ニューヨーク・タイムズ」紙記者である、クリス・ヘッジスの明瞭な反戦的メッセージが張り付いていたが、そのキャプションの挿入によってインスパイアーされる必要も特段にないし、正直言って、こうした類のキャプション自体が不要である。

 仮に、キャプションに込められた物言いが相応のメッセージ性を包含していたとしても、そこに屋上屋を架す説明を張り付ける、あまりに分りやす過ぎる映画は過剰なサービス精神ですらなく、観る者の想像力の広がりを遮断する行為と化すのだ。

 物語に入っていこう。

 ここに、一人の男がいる。


 その名は、ジェームズ二等軍曹(画像)。

 ジェームズ二等軍曹は、爆発物処理という任務を累加させてきた結果、今や、873個の爆弾を処理し、それがいつしか、「爆弾処理班は必要だ」と言う男の誇り得る「勲章」になっているのだ。

 「でも知ってるか。年を取ると、好きだったものも、それほど特別じゃなくなる。このオモチャも、ただのブリキとぬいぐるみだと気づく。そして大好きなものを忘れていく。パパの年になると、残るのは1つか2つ。今は1つだけだ・・・」

 これは、帰国したジェームズ二等軍曹が、まだ言葉を発し得ない、赤ん坊の我が子に吐露した言葉。

 「今は1つだけ」というのが、何を指しているかは自明である。

 再び、前線に出て行く男のラストシーンは、恐らく、それなしに括り切れない映像の、予約された着地点であった。

 男にとって、最も死亡率が高いとされる特殊任務の存在は、殆ど感覚鈍磨した男の自我を安寧に導くに足る、唯一のアイデンティテイ以外ではなくなっているのだ。

 だから男には、今や、任務の遂行を継続させる意味の内化すら劣化しているのである。

 本作のクライマックスシーンである、ジェームズ二等軍曹の爆弾処理における任務の頓挫の後、彼の爆弾処理を補佐するサンボーン軍曹との会話がある。


 帰路の軍用車内での会話である。

 「お前は、よくやれるな。危険を賭けて」とサンボーン(画像)。
 「さあな、俺は・・・何も考えていない・・・」とジェームズ。
 「皆、気づいている。現場に出れば、生きるか死ぬか。サイコロを振り、あとは分らない。知ってるはずだ」
 「知ってるさ・・・だが、分らない。何で、俺はこうなんだ・・・」

 ここで、イラクの少年たちに投石される軍用車内のカットが挿入されるが、ジェームズ二等軍曹の反応の曖昧さこそ、彼の自我機能を劣化させている因果を的確に言い当てているのだ。

 「数え切れない命を救う たった一つの命を賭けて」(本作のキャッチコピー)という浮薄な言辞に集約されるに足る心的風景、即ち、高い死亡率であるが故に、それによって得られる特段のヒロイズムが張り付くインセンティブの大きさによって、既に彼の内側深くに、それ以外にないアディクションの性向が存分に巣食っていたのである。

 このことは、男にとって、爆弾処理における任務は、まさに彼の人生そのものであることを意味するだろう。

 前述したように、そんな男の、命を賭けた「麻薬」のような任務=アディクション性向を執拗に描く物語には、もう青臭い社会派濃度の高い「政治」や、「友情」、「愛」などという、万人受けのする「感動譚」の「ヒューマンドラマ」が入り込む余地すらないのだ。

 然るに、そのことが却って、本作を「反戦映画」の濃度を高める効果を持ち得てしまったのである。

 なぜなら、青臭い社会派濃度の高い「政治」や、「感動譚」の「ヒューマンドラマ」を極力削り取った物語の中で描かれるのは、爆弾処理の任務に特化された「戦場のリアリズム」以外ではなくなってしまうからだ。


 その「戦場のリアリズム」が、どこまで描き切れていたかについては意見が分れるところだろうが、終盤に用意された、爆弾を巻かれたイラク人への爆弾処理のシーンを観る限り、一定の表現達成を得たと言っていいだろう。

 以下、本作のテーマを集約させた感のある、その問題のシーンのみを再現することで、作り手の基本モチーフを確認し得るだろう。



 3  「戦場のリアリズム」の内実の、その身体性の懐ろに肉薄しようとしたシークエンス



 爆弾を体に巻き付けられた男が、ジェームズ二等軍曹に救いを求めた。

 「悪党じゃない」と通訳のイラク人。
 「俺たちを巻き込む気だ」とサンボーン軍曹。
 「任せろ。ゆっくりシャツを広げて、中を見させろ」

 そう言って、爆弾を体に巻き付けられた男に近づくジェームズ二等軍曹。

 爆弾を見せる男。

 「75メートル以内に誰も近づけるな。跪(ひざまず)いて、手を上げさせろ」

 ジェームズの指示だ。

 
米海兵隊の『IED DETONATOR IEDの無力化や除去に使われる(ウィキ)
手を上げ、跪く男。

 「よし。無線をよこせ」とジェームズ。
 「撃っちまおう」とサンボーン。
 「ダメだ」とジェームズ。
 「彼は悪くない。助けて欲しいんだ」と通訳のイラク人。
 「いいから、お前も後ろに下がってろ」

 サンボーンに指示するジェームズ。

 「早く!」と通訳のイラク人。
 「俺たちは、よく喧嘩した。色んなことで。だが、全て水に流す。これは自殺だ」

 サンボーンの言葉だ。

 「だから自爆と言う。行くぞ」

 ここで、防爆スーツで完全武装したジェームズ二等軍曹は無線を持って、男の傍らに立った。

 「手を挙げていろ」とジェームズ。
 「家族がいる。助けて」と男。

 恐怖に怯える男の感情もピークに達しつつある。

 「お前が騒いでいると、爆弾も探せない」

 
拳銃を男に向けるジェームズ。

 「手を頭の後ろへ。さもないと撃ち殺す」

 通訳との無線連絡で指示し、即座に通訳させた。

 その言葉を、通訳が大声で伝える。

 「いいか、分ったか」

 男の額に銃を突き付けたジェームスは、そう言って男を了解させた。
 
 「どうなってる?」とジェームズ。
 「家族が4人いる」と男。

 ジェームズの具体的な問いに応えず、救いを乞うだけの男。

 「ダメだ。タイマーが付いている。ワイヤーも。悪いが、力を貸せ」

 男に巻き付いている爆弾を点検したジェームスは、サンボーンに無線で連絡する。

 「何が必要だ?」とサンボーン。

 男の表情は恐怖感で引き攣っている。

 「カッターだ。2分で届かないと終わりだ」
 「30秒で持っていく」とサンボーン。
 「頼む。家族がいる」

 男の悲痛な思いを、通訳が代弁する。

 通訳も必死なのだ。

 「分った」とジェームズ。
 「見捨てないで」と通訳の声。

 ここで、男は祈り始めた。

 
IED
サンボーン軍曹は、走ってカッターを持って来た。

 「ヤバイ。鉄鋼製だ」とジェームズ。

 作業が捗らない現実に、焦りが生じた。

 「バーナーで焼き切る」とジェームズ。
 「バ―ナーはない。おしまいだ」とサンボーン。

 その間、男に拳銃を向けるサンボーン。

 「ダメだ。サンボーン。時間が足りない。鍵を切るしかない」とジェームズ。
 「あと、1分半だ。早く離れよう」とサンボーン。
 「お前は行け!すぐに行け!俺は防爆スーツを着てる!サンボーン、あと45秒だ、早く行け!」
 「死んじまうぞ!」
 「行け!」
 「皆、下がれ!」

 サンボーン軍曹はそう言って、走り去って行く。

 ここで、ジェームズ二等軍曹は、鉄鋼製の鍵を一個切り取ったが、それ以上の作業は困難になった。

 「鍵が多過ぎる!もう無理だ!外せない。無理だ。すまない」

 遂に断念したジェームズ二等軍曹は、男に英語で説明するが、英語が分らない男は助けを乞うばかり。

 「すまない!」

 そう言って、走り去って行くジェームス二等軍曹。

 爆弾が激しく炸裂したのは、救いの道を絶たれた男が祈る瞬間だった。

 この間、7分。

 被弾による瓦礫の洗礼を受けたジェームズ二等軍曹は、防爆スーツで守り切る際どい距離を保持し得ていて、辛うじて命拾いしたのである。

 
MRAP(ウィキ)
MRAP(IEDの攻撃から兵士を守るための重装甲車)のイラクへの投入以前、戦場の恐怖と地続きの只中で呼吸を繋ぐ特殊任務の下士官兵にとって、IEDがどこに仕掛けられているか一切不分明であるという戦場の有りようこそ、「戦場のリアリズム」以外ではないだろう。

 どこに仕掛けられているか一切不分明であるIEDへの恐怖が、遂に、強制的に「爆弾ベスト」(注)を着用させられた〈状況〉と本質的に変わらない恐怖の現実を描き出すのだ。

 この7分間のシークエンスこそ、まさに「戦場のリアリズム」そのものであった。

 世間に知られることの少ない男たちの特殊任務を描き切ることで、戦争の内実の、その身体性の懐ろに肉薄しようとした本作のエッセンスが、このシークエンスのうちに凝縮されていると見るのが自然であり、恐らく、それ以上でもないし、それ以下でもないだろう。

 訳知り顔の解釈を無効にする、本作の基本モチーフが抱え込んでいるものから、特段の深読みを要請し得るメタファーを拾い上げる何ものもなく、極めてシンプルな基本モチーフの裸形の様態を感受するだけで括り切るような、ただ単に、そういう映画だったのだ。

 私はそう思う。


(注)「イラクの首都バグダッド北東65キロのバクバで24日、爆弾ベストを着た15歳の少女が自爆攻撃を行おうとしたところを拘束される事件があった。地元警察当局がAFPに明らかにしたところによると、少女は母親も自爆攻撃を計画していたと自供したという。また、ベストを少女に届けた親類の女も同時に逮捕されたが、自爆攻撃を計画したのは女の夫だったという」(「AFPBB News 2008年08月30日付け」より)



 4  「戦場のリアリズム」の映像的提示のみに収斂される物語への偏頗な拘泥



 「フィルムメーカーとして自分にできることは、判断を下すことで、自分の意見を押し付けることではなく、無数の人間の命を犠牲にしている終わりの見えない戦争の一部を見る人に体感してもらうということなの。結果、それぞれが自分なりの意見を見つけてくれば、それでいいのよ」(「映画.com キャスリン・ビグロー監督インタビュー/取材・文:中島由紀子」より)


 これが、作り手(画像)の、あまりに素っ気ない言葉。

 「戦争の一部を見る人に体感してもらう」という言葉の意味は、本作の基本モチーフが「戦場のリアリズム」の映像的提示にあることの証左であると言っていい。

 「戦場のリアリズム」の映像的提示を体現したのが、ジェームズ二等軍曹という人物造形であるのは自明だ。

 軍用ロボットに頼らず、煙霧を吹き上げる目くらましを放ちながら、爆弾に近づくことで勇気を顕示するかのような男にとって、既に、危険な戦場の緊張感にこそ快感を覚える過剰なパーソナリティを立ち上げていた。

 「面白かった」

 これは、危険な爆弾を処理した後の男の呟きだ。

 それが、ジェームズ二等軍曹という、過剰なパーソナリティを有する男の人物造形だった。

 男はいつしか、自己防衛のための適応が昂じて、戦争に過剰適応していったのだ。

 戦争への過剰適応は、戦場への過剰適応と同義である。

 戦場への過剰適応することで保持し得る自我が、拠って立つ安寧の拠点に搦(から)め捕られたとき、搦め捕られたものが手に入れたアイデンティテイを簡単に捨てることなどあり得ない。

 それ以外にないアディクションの性向を形成し切ってしまう怖さを持つほどに、私たちの自我の抑制系は脆弱であるということだ。

 
「地獄の黙示録」より
これは、「地獄の黙示録」(1979年製作)における、ウイラード大尉と酷似する精神構造であると言っていい。

 但し、過剰適応して感覚鈍磨させた主人公が、なお残るヒューマンな情動を攻撃的に展開する振舞い(例えば、知っている子供の体内に埋め込まれた爆弾を取り出すことで、情動的な行為にのめり込んでいったり、シャワー室で嗚咽したり、等々)を抑制し得ない崩れ方を描くエピソードを挿入することによって、ヒューマンな情動系の文脈と切れたかのようなウイラード大尉との人格構造と別れるところと言えるだろう。

 しかし、自ら解体処理した爆弾の回数に拘泥したり、その爆弾を蒐集したりする行為が垣間見せるのは、まさに、爆弾処理という任務が彼の人生の軌跡の証であって、そんな男の、命を賭けた「麻薬」のような任務=アディクション性向の呪縛性の様態であった。

 それこそ、戦場に過剰適応した人格構造の偏頗(へんぱ)性を示す何かであり、そこに、アディクション性向に捕捉されやすい人間の脆弱性の一端を見ることが可能となるに違いない。

 そういう意味で、本作は、その行為がアディクション性向を露わにする、人間の脆弱性の偏頗な様態の一端であるにも関わらず、勇敢にも(?)、長期に及ぶ前線に赴くラストシーンを誤読させかねない描写の挿入に象徴されるように、その脆弱性を見えにくくさせる現実もまた、私たち人間の脆弱性の様態であることを包括的に印象づけられる作品であった。

 それは、「数え切れない命を救う たった一つの命を賭けて」(本作のキャッチコピー)という浮薄な言辞が、ナイーブなまでに青臭い、センチメンタルな反米主義に拠って立つ者を、決定的な誤読に導くトラップでもあったとも言えるからだ。

 それ故に、本作がヒューマンドラマとしては不完全であったのは、前述したように、元々、本作が「友情」や「愛」などという、万人受けのする「感動譚」に収斂させる物語の構築を志向していなかったからであって、ただ単に、「戦場のリアリズム」の映像的提示のみに収斂される物語への偏頗な拘泥だけが、本作の基本モチーフであることが判然とするであろう。

 〈生〉と〈死〉の辺りに身を置くことなしに、〈生〉を実感し得ないほど過剰適応し切った人間の脆弱性を分娩するもの ―― それこそ、「戦場のリアリズム」の真の怖さである。

 恐らく、この辺りが作り手の着地点であったに違いない。

 感情移入できない映画はアウトと決め付ける人たちに共通するように、だから本作は、「面白くない映画」であるとも言えるし、まさに同様の文脈で、それ故に、「腑に落ちる映画」であるとも言えるのだ。

 私の場合、「戦場のリアリズム」の映像的提示の文脈が了解し得ていたとしても、それだけで「撮り逃げ」したかのような本作への評価は決して高いものではなかった。

 130分もの長尺であるにも関わらず、最後まで物足りなさを感じたのは、その辺りが看過し難い荊棘(けいきょく)になっていたからである。

 それだけの映画だった。


(2011年10月)

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