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2011年10月24日月曜日

第9地区('09)            ニール・ブロンカンプ


<突貫精神の屈託のなさを全開させた、視覚情報効果のアナーキーな「初頭効果」のインパクト>


 1  視覚情報のみを掻き立てる訴求力の高いコンテンツを供与した、「初頭効果」の戦略性が見事に嵌った映画



 手を変え品を変え、より刺激的に視覚情報を与え続けることによってしか成立しなくなったハリウッドムービーが、遂に、このような形によってしか需要者に商品提示できなくなったことを証明する一篇でもあった。


 それが、より心地良い快楽を求め続ける娯楽の本質であることを認知している私としては、言うまでもなく、「それもあり」と考えている。

従って、「音声解説」での監督の思いは理解できる。


ただ私が気になるのは、次稿で引用する「アパルトヘイト世界とSFの融合こそが、“第9地区”の狙いである」という言葉にある。

「融合」という概念を使うには、位相の違う両者が、作り手の中で「等価値」であるか、それに近いものとして把握されているということだろう。その場合、SFは映像表現の手段であり、フィールドでもある。


 
当然ながら、そのフィールドの俎上に乗るのは、「融合」という言葉に象徴される、「アフリカの貧困者・被抑圧民・難民」というテーマ性であることに間違いないだろう。 

即ち、SFを物語のフィールドにして、後述するように、「アフリカの圧政権力」=「それを放置する先進国家」⇔「アフリカの貧困者・被抑圧民・難民」=(或いは、「格差で遺棄される先進国家の貧困者」)という、包括的なテーマ性を持った映像の構築を目指したということであると言っていい。

しかし、決して長尺でない100分間の映像を観る限り、このテーマに関わる描写の挿入がふんだんに含まれてはいるが、観る者がこのテーマを正確に咀嚼し、受容し得る映像になっていたかについては相当に疑問が残るのである。

夫婦愛あり、エイリアンの親子愛あり、件の「心優しきエイリアン」の友情への哀感あり、過激なアクションシーンあり、等々のごった煮の物語を、本作の中で最も感情移入し得る対象として描かれた、クリストファー親子(件のエイリアン)の誠実で、前向きな振舞いによって相対化されたのは、「差別する者」=「悪」なる「人類」ばかりでなく、悪戯に時間を浪費するばかりの他のエイリアンたちであった。

この一連のエピソードの挿入が、恐らく本作を、「ヒューマンドラマ」に近いSF作品のうちに、限りなくイメージされた何かに昇華させる推進力になっているに違いない。

そこに、作り手が言わんとする、ネガティブで凄惨な「アフリカの貧困者・被抑圧民・難民」の現実を、より照射させる効果を認知するのに吝かではない。

ならば、なぜ、目まぐるしくテンポの速い物語を、最初はドキュメンタリータッチで、そして半ば辺りから、ハリウッド的な効果音を執拗に垂れ流し、最後は、そこもまた、殆ど予約済みのハリウッド的カタルシスを保証せねばならなかったのか。

そのように、加速的にヒートアップした物語の、超ハイテンポなノリによってて失うものは、観る者の「半身思考停止」の様態であると言わざるを得ないのだ。


 
要するに本作は、単に「面白いだけの娯楽」としての商品価値を、パワード・スーツ(筋力強化のためのロボットスーツ)の如き、文明の極北の産物等の利器を駆使することで、初監督作品としてのビギナーズラックを目途にし、相当にクレバーな戦略性を保持し得た、巧みな商品価値性を獲得するに足る、相応のクオリティーを内包した娯楽ムービー以上ではないという感懐を持たざるを得ないのである。

 確かに、「それもあり」だが、私としては、「アパルトヘイト世界とSFの融合こそが、“第9地区”の狙いである」という監督のコメントに接したことで、どうしても、ある種の戦略的で、低強度(緩やかな、という意味のアイロニー)の欺瞞的映像の印象から解き放たれないのだ。

 「初頭効果」(第一印象効果)の戦略性が見事に嵌った映画を作りながらも、前述したように、視覚情報のみを過剰に掻き立てる訴求力の高いコンテンツを供与したに過ぎないのである。

 私にとって、それ以上でも、それ以下の映像でもなかった。



 2  突貫精神の屈託のなさを全開させた、視覚情報効果のアナーキーな「初頭効果」のインパクト



 「差別する者たち」が「差別される者たち」の異界の存在体に変容していくことによって視認し得た、自らが「差別する者たち」であったゾーンで馴染んだ風景は、その者が「差別する者」であったときには気づき得なかった、言語に絶する「弱肉強食」の凄惨な現実だった。

 「差別する者」=「悪」なる「人類」⇔「差別される者」=「善・弱者」なる「宇宙人」(或いは、「組織性」を解体された悲哀なる「宇宙人」)という二項対立の構図を仮構する。


 具体的イメージとしては、前述したように、前者が「アフリカの圧政権力」=「それを放置する先進国家」、後者が「アフリカの貧困者・被抑圧民・難民」=(或いは、「格差で遺棄される先進国家の貧困者」)という二項対立の構図に拡大させていく。

 この基幹的な問題意識を、後者に収斂される政治的映画で真っ向勝負することなく、どこまでも、前者の枠内で処理していけば、当然の如くSF映画になるだろう。

 しかし、この映画の作り手は、「アパルトヘイト世界とSFの融合」という、かつてない「物語設定の斬新さ」の構築を目指したらしいのである。

 それこそが、“第9地区”の狙いであったのだ。

 以下、この映画の作り手の不必要なまでの自作のレクチャー、と言うより、過剰な長広舌の、そのほんの一部分である。

 「・・・これらの映像が示すものは“外国人嫌悪”なのだ。実際のスラム居住者に多く見られる意識だ。アレクサンドラやソウェトの一部など、ヨハネスブルクの全居住区でね。ここ数年、南アで外国人嫌悪が広がっているんだ。貧窮したジンバブエ人が、良い暮らしを求め南アに来た。でも南アの国民も貧困に喘いでいて、同じく良い暮らしを求めている。だから、乱入して来たエイリアンに嫌悪感を抱いた。貧困に喘ぐ第三世界を描きつつ、SFの要素を重ねたんだ。エイリアンが象徴するのは、ジンバブエ人やナイジェリア人だ。(略)僕はこの初監督作品を政治的な映画にするつもりはなかった。当時の状況をカメラに収めただけだ。それが今、より一層深刻な問題となった。真剣に扱わざるを得ない重大な問題だ。(略)間違いなくこの映画には、南アの生きた現実が示されていると言える。人々の心に潜む意識が顕在化されているし、僕が幼い時に見た史実も含まれている。アパルトヘイト世界とSFの融合こそが、“第9地区”の狙いである」(「ニール・ブロンカンプ監督による音声解説」より)

 
ニール・ブロンカンプ監督(ウィキ)
厚顔にも、よくぞ、ここまで語って見せてくれたものである。

 思いは充分に了解し得るが、コモディティ化への懸念を払拭し、下振れリスクの一切の不安を完膚無きまでに粉砕した、「娯楽映画」としての商品価値のグレードアップに成就するという自信に漲(みなぎ)っている若者像を、殆ど厭みなく、その心理的風景のうちに見る思いだ。

 ともあれ、この作り手は、本作を政治映画にするつもりはなかったと言い訳しながらも、このようにDVDの特典映像で、滔々と、「今、アフリカで起こっている凄惨な現実」を語ってみせるのだ。

 そんな青年監督(1979年生まれ)が作った本作の中に、この作り手の基幹メッセージ、と言うより、イメージ喚起性が容易に感受されるように作られてはいるが、しかしこの映画は、本質的に「娯楽映画」の範疇にしか収まらない物語構成を成している。

 天の邪鬼な私には、ゲームセンターで響き続ける雑音のようにしか聞えない、ハリウッド的な効果音の不断の連射と、そこもまた永遠に変わり得ないだろう、後半の大部分を占有する、陳腐の極致とも言える、愚かなまでのアクションシーンの過剰な氾濫に辟易するばかりなのだ。

 そんな本作に思い入れする鑑賞者の中には、「娯楽作品とは一線を画した映画」(ユーザーレビュー)などという、訳知り顔の「深読み」を自己顕示して見せるが、さすがに、この類のレビューに接すると、その説得力ある論理的根拠を求めたい思いに駆られたが、一切は観る者の自由だから、己が突っ込みのアホらしさに失笑を禁じ得なかった。

 閑話休題。

 異形の如き外見や相貌の「醜悪さ」は、人間が未知の他人を受容する最も大きな障壁になっているという、有名な「メラビアンの法則」(注)という仮説を想起させる程に、一見しただけで「生理的嫌悪感」を抱いてしまいそうな「宇宙人の造形」を、戦略的に設定した突破力のないエイリアンたちの中にあって、「心優しきエイリアン」であるクリストファー親子の「人格造形」は、本作の肝であると言っていい。


 その「心優しきエイリアン」であるクリストファー親子との「異文化溶融」を、まさに、その異文化に棲むエイリアンに変容した、主人公の英雄譚もどきの振舞いで閉じる予定調和のカタルシスを用意することで、観る者の多くは、その主人公と連携した「心優しきエイリアン」の、「ヒューマン」な一挙手一投足に情感投入することで、作り手の基幹メッセージを呆気なくスル―するか、或いは、形式的に納得したつもりになって、ほんの少し目先を変えただけの、「独創性」、「斬新性」という名の、エンドレスなまでに刺激的で、マキシマムな視覚情報効果のアナーキーな突貫精神の屈託のなさと睦み合う、多様なる映像文化のコンテンツ供与の方図なきトラップに嵌っていくばかりだろう。

 これは同様に、政治的映画を作ることを拒みながらも、物語を決して娯楽映画のカタルシスに流さないことによって、充分に基幹メッセージが観る者に伝わってくるミヒャエル・ハネケ監督の構築的映像と比較すれば、その完成度の高さの決定的な差異は否めないのだ。

 それにしても、視覚情報効果のアナーキーな、突貫精神の屈託のなさを全開させた感のある本作が、第84回(2010年度)キネマ旬報ベストテンの3位の評価を得たとは驚きであった。

 どう見ても、その完成度の高さから言えば、この年に公開された外国映画のNo.1を得ると信じる、ミヒャエル・ハネケ監督の「白いリボン」(2009年製作)が、本作より下位の評価(第4位)であった事実に拍子抜けするばかり。

 
そのことは、およそ凡作にしか思えなかった、クリント・イーストウッド監督の「グラン・トリノ」(2008年製作)が、ポン・ジュノ監督の「母なる証明」((2009年製作)より高評価(2008年製作/第1位)を得たときの思いにも重なるが、このケースを見る限り、必ずしも、「娯楽性」の濃度の有無と無縁であることの証左でありながらも、本作の高評価の因子が、そこに含まれていたであろう、蛇足的とも誤読し得るメッセージ性でなかったとしたら、トップランナー紛いの「初頭効果」のインパクトによって決定付けられたと揶揄していいだろうか。

 無論、私の独断的評価の偏頗(へんぱ)性を認知しつつ、出稿した一文であることは百も承知。

 もっと揶揄するならば、予定調和のカタルシスに流れることで、時には、「肝」の辺りを劣化させる事態への問題意識や、適正サイズの抑制系を持ち得ないような青年監督の、内側に隠し込んだ切っ先を、ほんの少し揺らさせて見せただけで相応の効果を持つと信じる、作者限定の切り売りのナルシズムだけが際立つ映像だった。

 少なくとも本作は、私にとって、その類のインプレッションしか受容し得なかったのである。

アルバート・メラビアン
(本稿で、敢えて本作の簡潔な梗概にすら言及しなかったのは、その気を起こさせる感情すら惹起しなかったからである)


(注)アルバート・メラビアン(米国の心理学者)が提示した有名な仮説だが、俗流解釈の横行で通俗的な議論にまで流布されているが、件の研究者には申し訳ないと思いながらも、ここでは敢えて、その俗流解釈の一端を書いておこう。それによれば、「外見」、「態度」、「話し方」、「話の内容」という「四つの壁」が、他人を受容する最も大きな障壁になっているということ。(以上、「ブログ ビジネス心理学」参照)

 このことを考えるとき、男女の恋愛感情を惹起しやすい最大の要件が、表面的には判断し得ない「人間性」よりも、「相手の異性の外見」であるという、心理学の各種のデータを裏付けるとも言えるだろう。従って、本作のエイリアンに対する差別感情には、根拠のない「生理的嫌悪感」であることが判然とするのである。「生理的嫌悪感」という言葉を多用することの怖さについて、私たちはもっと自覚的でなければならないのだ。

 その意味で、クリストファー親子の「人格造形」は、「外見」よりも「人格」の中身こそ重要であるという作り手のメッセージだろう。そんなシンプルな把握でOKということか。

(2011年11月)

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