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2011年10月27日木曜日

ウエスト・サイド物語('61)         ロバート・ワイズ ジェローム・ロビンス


<個性的なアートとしての「ミュージカル」の「表現の外発性」>



序  凝ったオープニングシーンから開かれる本作の、時代相応にフィットした「ミュージカル」としての完成度



NYのマンハッタン島の超高層ビルから始まった説明的な鳥瞰ショットが、ストリートギャング紛いの不良少年グループの溜り場であるスラム街にシフトしていく、凝ったオープニングシーンから開かれる本作の、時代相応にフィットした、「ミュージカル」としての完成度は高いものと言えるだろう。

しかし本稿では、本作への「映画評論」をするつもりはない。

結局、「好みの問題」にしか落とし所のない類の批評を繋いでも、殆ど意味がないと思うからだ。

「心の風景」への投稿にこそ相応しいと思われる本稿で触れたいのは、この映画を初めて観た青年期の「心地悪き思い出」と、そこに張り付く「人生論的」な言及に尽きるだろう。

以下、その問題意識に則して起筆していく。



1  乾き切った心の土手っ腹に、ストレートに侵入してきた形而上学的な文脈の凄み ―― ウナムーノという、「苦悩と実存」の哲学者との出会いの中で



20代の初め頃、私はかつてないような深いペシミズムに襲われていた。

自分の〈生〉をどのように転がしていっていいか、全く分らなくなってしまったのである。

それまで辛うじて保持し得ていた、〈大状況〉との関係の継続性が覚束なくなって、まるで野に放たれた老犬のように、輝きを失った空洞の冥闇(めいあん)の森の中で彷徨していたのだ。

「これ以上、この状態が続いたら危ないな」

そんな、追い詰められた心境下で、私は内側に貯留された僅かな熱量で自己を駆動させていくしかなかった。

当時の私にとって、「観念としての死」は甘美なものでは決してなかった。

9歳の頃に発病した、二度に及ぶ癲癇発作の際に、毎夜、魘(うな)されるように見た悪夢の風景こそが、震撼すべき「死後の世界」であると考えていたので、爾来、私は死に対して異常な恐怖感を持っていたのである。

ここでは、とうてい書けないような、愛憎渦巻く「全身世俗」の個人的体験のトラウマもあって、死にたくても死ねない〈生〉を引き摺って生きていくこと ―― それが、何より厄介なまでに圧迫されるような、 胸苦しい苦悩の全てだった。

苦しくて、苦しくて、なお苦しい日々が永久に続くという生物学的な感覚は、〈生〉を引き摺って生きていく現実の恐怖そのものだった。

そんな私が、僅かな自給熱量を推進力にして読書と学習三昧の世界にのめり込んでいったのは、それ以外の〈生〉の転がし方を知らなかったからだ。

22歳から24歳までの2年間、そのときよりも遥かに厳しい、肉体の崩壊の危機を日常下している現在から追想してもなお、信じ難い日常性を繋いでいたのである。


「全身無頼派」の坂口安吾(画像)が、5時間の睡眠時間で1年間を過ごしたという話を聞き知った私は、「5時間睡眠」の生活規範を設定し、残りの殆ど全ての時間を、読書と学習三昧の世界に集中しようと自らに課し、そして、ほぼそのルール通りに実践躬行(きゅうこう)していった。

正確には5時間すらも切っていたと思うが、「5時間睡眠」の実践躬行に自己投入すれば、〈生〉を引き摺って生きていく現実の恐怖を相対化できると考えたのである。

私の「地下生活者」の生活の最初の試行によって犠牲にされたもの ―― それは、父親が不治の疾病に罹患しているのに、それを十全にサポートし、「善き介護者」として自己を普通に立ち上げる倫理的な態度であった。

その疚しさが、精一杯、我が家の家計に最低限の仕送りを継続させていったが、「半身エゴイスト」の私は、それで「地下生活者」の権利を得たと勝手に解釈した訳だ。

かくて、ビルの夜間警備員の仕事を探しては、転々とする日々が続く。

誰もいないビルの地下の狭隘なスポットこそ、私の「地下生活者」としての継続を保証するのに最も相応しい空間だったのである。

ありとあらゆる世界中の文学、哲学、心理学、宗教書などを片っ端から濫読していって、その度に、ノートに感想を書き、日記もつけていく。

その日記の表題は、「飛翔と侵蝕」。

「飛翔」するか、「侵蝕」されるか、、一か八かの生活風景を淡々と繋いでいったのだ。

「何のためにこんなことをやっているのだ」

しばしば、こんな思いが内側から噴き上がってきて、その度に、「まだ死にたくないからだ」と自問自答していた、精神的圧迫感に押し潰されるような重苦しい日々。

読書ばかりでなく、ありとあらゆる映画を観たのもこの時期だった。

しかし、私の心にフィットした映画は、フレッド・ジンネマン監督による「真昼の決闘」(1952年製作)と、イングマール・ベルイマン監督の「野いちご」(1957年製作)
のみ。


前者は、共に闘う仲間を求めて、一度は捨てた町を彷徨い歩く、苦悩する孤独な元保安官(画像)。

この「苦悩する孤独な元保安官」を演じたゲイリー・クーパーに、脆弱な自分を重ねていたのだろう。

後者は、老境の孤独の極みを描き切った大傑作。

この世に、これほどの映像を構築する映画監督が存在するのかと驚嘆した。

かくて、イングマール・ベルイマン監督は、私にとって最も重要な映像作家になっていった。

そして、文学と言えば、ドストエフスキーと椎名麟三。

この二人だけだった。

それもまた、「苦悩」というキーワードの共通性があった。


とりわけ、ドストエフスキーの「悪霊」(画像は、アンジェイ・ワイダ監督による「悪霊」より)。

腰が抜けるほどの衝撃を受けた、唯一の文学だ。

文学の世界の中の虚構の物語とは言え、「全身思索家」のキリーロフの孤独な生き方は、作者のドストエフスキーと同様に癲癇患者であったことに我が身を重ねても、「人神思想」という究極の体系に殉教する壮絶さに弾かれるばかりだった。

後にも先にも、これほどの衝撃を越える文学と出会ったことはない。

哲学では、キルケゴールとウナムーノ、そして、「弁証法の根源と結果とには構想力がなければならぬと言い得るだろう」(現代仮名使いに直す)という言葉で結んだ、「構想力の論理」を上梓した三木清。

この三人だけである。


中でも、ミゲル・デ・ウナムーノ(画像)の存在は決定的だった。

まさに、「苦悩と実存」の哲学者だったからだ。

当時、「生の悲劇的感情」という、ウナムーノの主著の名をどうして知ったか全く覚えていないが、その刊行が待ち切れず、戦前の1941年版の「理想主義者の悲劇」(進藤遠訳/「生の悲劇的感情」の邦訳)という古い本があることを知って、どうしても読みたくなった私は、矢も楯もたまらず国会図書館に赴き、一か月という期限付きで借用し、眼の色を変えて貪り読んだ記憶だけは、今でも脳裏に焼きついている。

「苦悩は生命の実現であり、人格性の基礎である」
「苦悩することの可能なくしては、享楽することの可能は不可能である」

「生の悲劇的感情」の中で眼にした、これらの簡潔な言葉に、雷に打たれたようなインパクトを受け、およそ経験したことがないような名状し難い精神状態に陥ったほど。

更に、ウナムーノは書いている。

「苦悩を癒す方途は無意識を意識の衝撃にまでもたらすことであり、決して無意識の裡に沈潜させることではなくして、意識にまで自らを昂揚し、而もよりいっそう苦悩することである。(略)苦悩の悪は、より大なる苦悩によって、より高次の苦悩によって癒える」

この決定的な一文に接したとき、私の精神状態は殆どピークアウトに達したと言っていい。

23歳の冬だった。

自分の乾き切った心の土手っ腹に、ストレートに侵入してきた形而上学的な文脈に、衝撃と興奮と感動が入り混じった情感世界の騒擾の坩堝の中で、私は只々打ち震えていた。

この世に、「この本によって救われた」と言う人がいるが、大袈裟に言えば、私の場合も、それに当て嵌まっていた。

凄い表現だった。

苦しくて、苦しくて、なお苦しい日々が恒久に続くだろう、〈生〉を引き摺って生きていく、己が恐怖との厄介な共有が許容された思いだったのだ。

「苦悩、それは死ぬまでつきまとって来るでしょう。でも誰かが言ったではありませんか、苦しむためには才能が要るって」


これは、奇しくも23歳で逝った北條民雄(画像)の名作、「いのちの初夜」の中のラストで、主人公の尾田(北條民雄)に放った佐柄木の言葉。

「癩者に成りきって、さらに進む道を発見してください」

佐柄木は、そこまで言い切ったのだ。

癩者に成りきらない限り、癩者が、その死に至るまで食(は)まれ続けるだろう、無間地獄への負のスパイラルを断ち切ることができないと言うのだ。

「死ぬまでつきまとって来る」苦悩を、己が脆弱なる自我に引き受けて、引き受け切って、なお引き受け切って、息絶えろ。

「より高次の苦悩によって癒える」まで、苦悩の奥深い闇を突き抜けていけ。

「意識にまで自らを昂揚し、而もよりいっそう苦悩」の奥深い闇の彷徨から、見え透いた方便を使い捨てて、安直に逃げるなかれ。

そう言っているのだ。

いつもの風景と明らかに異なる、この特別な時間の中で、私の内側に巣食っていた、得体の知れない異界の刺客の恐怖を相対化できたと、私は信じた。

信じねばならなかった。

そこだけは、信じない訳にはいかなかったのだ。

そんな心境を手に入れた信じることによってしか、私は救われなかったのである。

この〈生〉と〈死〉の危ういタイトロープの中で、偶(たまさ)か、私が観た映画が「ウエスト・サイド物語」だった。

それは、私にとって最悪のクロスだったと言っていい。



2  個性的なアートとしての「ミュージカル」の「表現の外発性」



〈生〉と〈死〉の危ういタイトロープの中で、「より高次の苦悩によって癒える」まで、苦悩の奥深い闇を突き抜けていけというゴールデンルールを手に入れたと信じる私にとって、「愛と友情と、敵意が生んだ苦悩」を、歌い、踊りながら描いた映画の浮薄な感傷など、全くどうでもいい何かだった。

しかも、不良同士の愚劣な自己顕示の顛末を、一端(いっぱし)の社会派ぶった視線を投入して、最後まで暑苦しく描き続けた過剰なる「ミュージカル」は、殆ど「全身娯楽映画」の本質を隠し込む欺瞞の極致だった。

何が、「現代のロミオとジュリエット」だ。

笑わせるな。

死にたければ勝手に死ね。

これを、延々150分も見せつけられた私は、空疎な気分になった心地悪さの中で、見るからに重い帰途に就いた。


元々、日本大学芸術学部出身の「元祖ジャニーズ」の面々が本作に憧憬していた程に、伝説化していた本作を観る気になったのは、既に、「砲艦サンパブロ」(1966年製作)を感動的に観ていた私が、巷間で、「ジョージ・チャキリスは格好良い」などという薄気味悪い雑音が入って来ても、ロバート・ワイズ監督(画像)なら駄作にはならないだろうと考えたからだ。

しかし、完璧に裏切られた。

と言うより、そこで描かれた物語のアホらしさに辟易してしまったのである。

あまりにアホらしい映画空間に幻滅して、「苦悩」という、純粋に内的な風景とは縁遠い物語を唾棄したのだ。

要するに、歌とダンスが俳優の演技と溶融し、それらが非独立的に最適熱量を自給する運動を繋ぐ関係の中で、映画空間での劇的効果を高めあげていく、「ミュージカル」という個性的なアートに対する基本的理解が皆無だったのである。

「表現の内発性」と「表現の外発性」という概念を、ここに提示したい。

自我の内部から惹起するものにのみ「価値」を措定した私が、「苦悩」という特別な概念に象徴される「表現の内発性」だけが由々しき何かだった。

外部刺激によらずに揺動されない自我の構築だけが、私の関心領域の全てだったからだ。

人間の〈生〉の根源的問題である「不安」が、厄介で不気味な継続力を持ち、その浄化が困難な内的風景を晒していった末に「苦悩」に結ばれたとき、それが表現に変換されるときの、極めて人間学的現象こそが「表現の内発性」の様態である。

「脆弱性」という本質的瑕疵から逃れられない人間の〈生〉にとって、この「苦悩」に耐え切る力こそが、人間の「強さ」のギリギリの様態なのだ。

そんな認識を持つ私の、「表現の内発性」への短絡的な拘泥が、「現代のロミオとジュリエット」を軽侮した根っこにあるものだったに違いない。

「ミュージカル」という個性的なアートは、多くの場合、外的な刺激に振れていく、「表現の外発性」の様態を描くことを身上とするものであるだろう。

その辺りの論理的過誤を犯した私の、恥ずべき偏頗(へんぱ)な狭隘さ。

何のことはない。

私自身の青臭さを棚に上げて、自らが、外見的なものにキャーキャー騒ぐ浮薄さを軽侮していたのである。

それほどまでに乖離してしまった、己が内的風景を突き進めれば、世俗から切れた孤独の〈生〉を、なおも継続的に転がしていくしかなかった。

それは、それで良かったのだろう。

それ以外に、「飛翔」と「侵蝕」の危うい綱渡りを突破し得なかったからだ。

それが、己が〈生〉の本来的な有りようだと信じていたこと。

それで良かったのだ。

これほどまでに、突っ張っていかなければならないほどの何かがそこにあり、それによって救われたと信じる自我を作り上げてしまったこと。

それで良かったのだと、切に思う。

「激情的習得欲求」に自己投入せねば、簡単に壊れてしまう自我をを作り上げていたからである。

だから、30代になって、極めて個性的な私塾を開くまでの数年間という時間の内実は、特定のイデオロギーに拠って立つ自己像に、必要以上にのめり込む内的風景を繋いでいくばかりだったのだ。



3  初見時同様の違和感を覚えた、「気障で、格好つけただけの」ダンスや台詞回しへの違和感



そして今、特定のイデオロギーから解き放たれた自分が、ここにいいる。


そんな私が、40年ぶりに観た「ウエスト・サイド物語」。

さすがに、初見時の愚かな印象を払拭し切れていたが、正直、相変わらず馴染めなかった。

「気障で、格好つけただけの」ダンスや台詞回しに、初見時同様の違和感を覚えたのである。

「ミュージカル」が、そういうアートであると認知し得ていても、ダメなものはダメなのだ。

誤解を避けるために書くが、「ミュージカル」としての本作の完成度は極めて高い。

ロバート・ワイズ監督の力量にも脱帽する。

それでも、人種問題や貧困の問題を絡めた、社会派的メッセージを拾い上げた映画として受容するには、相当程度無理があると思っている。

或いは、単に私の趣味に合わないだけなのかも知れないが、それでも、単なる「ミュージカル」の娯楽映画として一級品であって、それ以上でもそれ以下でもない作品であるという評価は変わりようがないだろう。

改めて、全ては「好みの問題」であることを、つくづく感じさせる映画だったという外にないのだ。

とりわけ、「現代のロミオとジュリエット」を演じた若い二人が、愛を込めて歌う有名なシーンには、その表現の意図が充分に理解し得ていても、とうてい受容し得なかった思いだけは、「好みの問題」の典型的描写であったことを言い添えておこう。


殺人事件を犯した「ロミオ」と、その「ロミオ」に自分の兄も殺されているのに愛を交歓する「ジュリエット」が、「恋は永遠に(Somewhere)」を歌う有名なシーンである。

以下、その歌詞の一部分を書いておく。

二人だけの場所へ
どこか僕らだけの所へ
静かな安らぎと青い空が
僕たちが待つ場所へ
(トニー=「ロミオ」の歌)

私たちの時が
いつの日か来る
二人で分かち合う時が
見つめ合い
触れ合う時がいつの日か
(マリア=「ジュリエット」の歌)

今、眼の前にいる「一目惚れ」の恋人によって、自分の兄を殺された女が愛を交歓するシーンの中では、一向に「葛藤」の描写が削られているのだ。

心理描写に拘泥する私にとって、たとえそれがブロードウェイ仕込みの「ミュージカル」であろうとも、一貫してシリアスな「物語」のラインを捨てていない映画であるならば、このシーンだけは看過し難かった。

正直言って、ここで私は強制終了し、一度は「人生論的映画評論」の本稿の起筆を断念した。

しかし、その思いを翻意して、自分の過去の青臭い日々との関連で、本作への正直な感懐を残しておこうと考えたのである。

それが、本稿のモチベーションの全てである。



結局、私は、「冬の光」(1962年製作/(画像))のように、「苦悩」する人間が無惨に曝す「脆弱性」を容赦なく描き切る、イングマール・ベルイマン監督のような映像としか、心底から睦み合えないのだ。

そんな私が、「ミュージカル」をうんざりするほど観て来たのも、「教養の幅」を広げる範疇でしかなかったのである。

そのことをも痛感させる、今回の映画鑑賞だった。

「ヘビーなミュージカル」を狙った、ラース・フォン・トリアー監督による「ダンサー・イン・ザ・ダーク」(2000年製作)は例外だったが、もう二度と、この種の「ミュージカル」を観ることはないだろう。

「教養の幅」を広げるための映画鑑賞を繋ぐほど、私には残り時間の余裕がないからである。

(2011年11月)

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