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2011年10月19日水曜日

サウンド・オブ・ミュージック('64)         ロバート・ワイズ


<訴求力を決定的に高めて成就した「内的清潔感」という推進力>



 1  訴求力を決定的に高めて成就した「内的清潔感」という推進力



 本作を根柢において支えているもの ―― それは、ジュリー・アンドリュース演じる修道女マリアの人物造形が、眩いまでに放つ「清潔感」である。

 「素直で、健全な若者育成映画」、「観ると心が洗われる」という多くのユーザーレビューに典型的に現れているように、マリアの人物造形がに放つ「清潔感」とは、私の把握で言えば、以下のようなファクターの集合であると言っていい。

 そのファクターを列記してみよう。

 その1。

 透き通るような高音を、響き合う旋律の中で、高らかに歌う「美しい音楽」。


 その2。

 子供と素朴に戯れ、歌い、教育することを全く厭わない「純粋無垢」のメンタリティ。

 その3。

 〈性〉をイメージさせない「純愛志向」の愛情観。


 その4。

 アルプス山麓の美しく、壮大な風景から開かれるシーンに集約される「自然への愛着」の深さ。

 その5。

 修道院(理解力のある修道院長のサポートも手伝っていたが)や、トラップ家の「絶対規範」を相対化するメンタリティ。

 以上、この5つのファクターの集合が、マリアの人物造形がに放つ「清潔感」を体現させていると、私は考えている。

 この中で、5つ目のファクターである、修道院やトラップ家の「絶対規範を相対化するメンタリティ」とは、「絶対規範」の遵守によって、知らずのうちに作られる「濁り」の空気感を相対化し、それを弾くことで、「自在性」を手に入れるメンタリティのことである。

 それは本質的に言えば、世界観、人生観を狭隘なイデオロギーよって固めないことでもあるだろう。

 ここで、私は改めて考える。

 一体、「清潔感」とは何なのか。

 普通に定義すれば、「清潔感」とは、「異物への拒否感」である。

 思うに、「清潔感」についてこの定義は、私たち日本人の感覚に最もフィットするものだろう。

 なぜなら、多くの日本人にとって、「清潔感」とは、「異臭」を嫌う我が国の、「物理的清潔感」のイメージに近い何かであるからだ。

 従って、殆ど「生理的嫌悪感」という欺瞞的言辞を被せた、この「物理的清潔感」は、「外的清潔感」という概念に置きかえられるものと言っていい。

 ところが、マリアの人物造形がに放つ「清潔感」は、「異臭」を嫌う我が国の「物理的清潔感」=「外的清潔感」に収斂されるものではないのだ。

 それは、「内的清潔感」とも言える概念に最も近いだろう。

 
本作は、修道女マリアの人物造形が放った「内的清潔感」の推進力によって、観る者への訴求力を決定的に高めて成就したミュージカルである。

 これが、本作についての、私の基本的把握である。
 


 2  寸分のノスタルジアを感受し得ない、賞味期間限定の「感動譚」を予約したエンターテイメント



 「山が誘うままに、私は登りました。その山の上で私は歌います」

 これは、我が子を笛で呼び出すという、7人の子供たちへの厳格な躾を実践躬行(きゅうこう)する、資産家であるトラップ家への家庭教師の派遣の際に、ザルツブルクにある修道院長に悪びれることなく釈明したマリアの言葉である。

 「試練は神の恵みです」

 そう言い切る院長の強い要請で、同じ街に屋敷を構えるトラップ家に向かうマリアは、透き通るような高音を辺り一帯に響かせながら、一貫して前向きな態度で、「神の恵み」としての「試練」に臨んでいくのである。

 「今、冒険を前に、私は恐れている。後戻りができない。未来に向かわねば」

 こんな思いを高らかに歌いながら、マリアはトラップ家の屋敷に前に立ったのだ。


 かくて、家庭教師の派遣の度に繰り返していただろう子供たちの悪戯を、ポケットに蛙を入れられたマリアもまた「受難」するが、その手痛い「受難」を、父であるトラップ大佐の前で秘匿したことで、小さな子供たちが泣き出したエピソードに象徴されるように、本来的に明るく、子供好きのマリアは、アルプス山麓の壮大な風景に抱かれて、子供たちに「美しい音楽」を身を以て教え、子供と素朴に戯れ、歌い、教育することを全く厭わない「純粋無垢」のメンタリティを全開させていったのである。

 トラップ大佐の遺伝を受け継いだのか、マリアの自然な導きによって、あっという間に、音楽の魅力に憑かれていく7人の子供たち。

 そして、子供と素朴に戯れ、歌い、教育することの「逸脱性」によって、束の間、大佐の不興を買いながらも、「美しい音楽」の響き合う旋律が推進力になることで、トラップ家の「絶対規範」を相対化させて見せたマリアの振舞いは、遂には大佐の心を掴み、〈性〉をイメージさせない「純愛志向」の愛情の様態が、トラップ大佐との絡みの中で表現されるに至るのだ。

 大佐の婚約披露のパーティでの場違いな空気の中で、大佐と踊るマリアの視線が交叉し、それを受容する大佐との心理的距離を最近接させたとき、頬を赤らめる修道女の内側で、経験したことのない感情が沸き起こったのである。

 この出来事で修道院に戻ったマリアは、禁断の世界に侵入した現実に身震いするが、その行為自身が、既に、「強いられた者」の「純愛志向」の愛情の様態の範疇を逸脱し得ない規範の文脈であったものの、その後の展開が見せた風景は、マリアの「純愛志向」が、彼女の本来的なパーソナリティーのうちに収斂される何かであるというイメージを壊さないものだった。


 このような一連の物語のプロセスで、マリアの人物造形がに放つ「内的清潔感」が、観る者の心を浄化させていくという流れは必至であるだろう。

 要するに、「サウンド・オブ・ミュージック」の訴求力の高さは、「内的清潔感」を存分に表現し切ったマリアの人物造形の魅力によって支えられているのである。

 敢えて、独断と偏見を交えて言えば、「サウンド・オブ・ミュージック」を深く愛好する日本人が、「物理的清潔感」=「外的清潔感」との心理的共存を、必ずしも擯斥(ひんせき)するとは思えないが、少なくとも、マリアの人物造形の中で表現された「内的清潔感」に敏感に反応し、そこに、人畜無害のノスタルジアを感受するメンタリティを自己確認する心地良さを生み出しているに違いない。

 その意味で、「物理的清潔感」=「外的清潔感」どころか、辛うじて、「自然への愛着」や、「絶対規範を相対化するメンタリティ」以外のファクターとは無縁で、あらゆるものを美しく描き過ぎる本作とは違って、人間の醜悪で脆弱な側面を執拗に描く、イングマール・ベルイマンやミヒャエル・ハネケの映像を深く愛好する、私のような天の邪鬼には、「サウンド・オブ・ミュージック」の「内的清潔感」は、あまりに敷居が高過ぎるのである。

 それは、ミュージカルという極上の娯楽が、観る者の「感動譚」を予約したエンターテイメントのファクターの集合であるが故に、「描写のリアリズム」を無視することが認知していても変わり得ないものである。

 思えば、この名高いミュージカルを含めて、「革命」などという言葉に、恥じらいもなく、そこだけは堂々と酔っていた青臭い時期に、うんざりするほど観た数多の情感的な映画から受けた賞味期間限定の感銘に、もはや寸分のノスタルジアを感受し得ないほど、「リアリズム」の厳しい洗礼を被浴した現在、もう、この類の映画と睦み合えなくなっているということ。(この点については、「ウエストサイド物語」の「評論」の中で、「人生論的」に言及するつもりでいる)

 それだけのことである。

(2011年10月)




 

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