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2011年11月13日日曜日

十三人の刺客('10)       三池崇史


<てんこ盛りのメッセージを詰め込んだ娯楽活劇の「乱心模様」>



1  「戦争」の決意→「戦争」の準備→「戦争」の突沸という、風景の変容の娯楽活劇



この映画は良くも悪くも、物語をコンパクトにまとめることを嫌い、エンターテイメントの要素をてんこ盛りにすることを大いに好む映画監督による、力感溢れる大型時代劇の復権を目途にしたと思われる娯楽活劇である。

だから長尺になった。

最も描きたいと思われる、立場の異なる侍たちによる、「戦争」の壮絶なシークエンスをクライマックスに持っていくためである。

そんな娯楽活劇を、私は単純に、三つの風景によって成る物語構成で分けてみた。

「戦争」の決意→「戦争」の準備→「戦争」の突沸(とっぷつ)である。

この風景の変容は、「陰」→「陽」→「『陰』と『陽』の情感的止揚による炸裂と爆轟(ばくごう)」という具合に流れていく。

「陰」を主調音にする、凄惨な描写を含む、映像としての凛とした構図によって繋がれる「戦争」の決意の風景の中で、「全身闘争者」が立ち上げられる。

冷厳なリアリズムが貫流する風景には殆ど破綻がなく、力感溢れる大型時代劇の復権を、観る者に期待させるのに充分な映像構成だったと言える。

ところが、「陽」を主調音にする「戦争」の準備の風景の中で立ち上げられた「全身闘争者」たちの、「戦争」への果敢な継続力が劣化することない好テンポに水を差す、ユーモア含みのエピソードが挿入されるに及んで、本作の物語の骨格が、物語をコンパクトにまとめることを嫌い、エンターテイメントの要素をてんこ盛りにすることを大いに好む映画監督による、過剰なまでの訴求力の高さを狙った娯楽活劇であることが判然としてくるのである。


これは、13人目の刺客となった「山の民」の、「戦争」への自己投入によって、「全身闘争者」たちの「戦争」の準備の風景に、価値観の異なる彩色を施すことで、一気に「陽」を主調音にする風景の変容を具現して見せるのだ。

但し、そこには、訴求力の高さを狙った娯楽活劇への固執ばかりとは言えない要素をも読み取れる。

即ち、「山の民」の「戦争」への自己投入の意味は、「全身闘争者」たちによる、地味な「戦争」の準備の風景を、観る者に飽きさせずに保持させようとする作り手の意図であると同時に、価値観の異なる「全身闘争者」たちの「戦争」の、その本来的な目途を相対化させる役割性を担っているとも言えるだろう。

寧ろ、後者の役割性こそ、「全身世俗者」としての「山の民」の人物造形の本質であるに違いない。

かくて、「戦争」の決意→「戦争」の準備に移行する風景の変容は、「陰」→「陽」への主調音の変容を特徴づけながら、「全身闘争者」の立ち上げ→「全身闘争者」の継続力という流れをも包括して、「『陰』と『陽』の情感的止揚による炸裂と爆轟を主調音にする「戦争」の突沸という、それ以外にない決定的な風景に流れ込んでいくのである。

もっとも、「全身闘争者」の継続力と形容しても、ごく短期間のスパンなので、件の「全身闘争者」たちの継続力の強化は必然的に保証される。

この国の闘争者は、短期爆発的な決起なら相当程度、その能力を身体表現することが可能であるからだ。

ところが、元禄赤穂事件のように、同志を1年9カ月間も待たせてしまうと、「全身闘争者」としてのリアリティが世俗との往還の中で脱色され、脱盟者が続々と出て来てしまうのは、「最後まで戦い抜く心」を本質にする「闘争心」において相対的に欠落する、この国の人々の農耕民的メンタリティが露呈されてしまうからである。

だから、一気の勝負に賭けた闘争にこそ、この国の人々には最も相応しい「散り方」なのである。

その致命的なリスクが、本作の決起では回避されたのだ。

木賀小弥太(山の民)
その辺りが、本作での「全身闘争者」の強さの精神的骨格であったと言っていい。

だから彼らの闘争には、世俗に塗(まみ)れた「日常性」という、極めて厄介な「間」が侵入する余地がなく、一気呵成(いっきかせい)に、「戦争」の突沸のうちに自己投入することが可能だったのだ。

その中で、一際(ひときわ)異彩を放つ、「山の民」だけは存分に世俗を吸収し、それをマキシマムに愉悦するのである。

「全身闘争者」との決定的な対比によって炙り出される、「全身世俗者」としての「山の民」の〈生〉の有りようが、「戦争」の準備に移行する風景の変容の中で鮮烈に印象付けられるのだ。

この男にとって、「死に場所」を求める侍たちの虚構の一切を相対化し切ること ―― それが、「全身世俗者」としての「山の民」の存在価値であり、作り手のメッセージでもあるだろう。

それでも、「戦争」の突沸のうちに自己投入する「山の民」の情感世界を支配したのは、単に、「痛快なる命取りのゲーム」への好奇心をそそられることで、愚かなる侍たちが仮構した大仰な戦場を、一大ゲームセンターに変換させる快楽を、位相の異なる世界で占有したいという欲望だったのである。

その類の解釈も含めて、不死身なる男の妖怪性の造形は、エンターテーメントの要素をふんだんに注入せねば済まない作り手の、極限まで描き切る快楽を簡単に手放せない、作家性の濃厚な性癖であると読む方が的を射ているだろう。

「全身世俗者」としての「山の民」の、〈生〉の有りようによって壊されたリアリズムの価値に対して、特段の拘泥を見せない作り手の映画空間とは、恐らく、作り手のイメージの激情的氾濫のうちに収斂される何かでしかないのだ。

それ故に、「それもあり」という風に了解する以外にないだろうが、それにしても、スノッブ効果(他人との差別化によって希少価値性を追求する現象による効果)に呼吸を繋ぐ、何とも破天荒な映画監督であることか。



2  「陰」の映像が決定的に印象づけられた、「全身闘争者」たちによる「戦争」の決意表明



「戦争」の決意→「戦争」の準備という流れを経て開かれた、「全身闘争者」による「戦争」の突沸は、彼らの身体表現するに足る格好の戦場になっていくが、ここでは、「全身世俗者」を含む「全身闘争者」の「戦争」参加へのモチベーションと、それを吸収した人間学的展開の様態について言及してみよう。


立場の異なる侍たちによる「戦争」を描くこの物語は、それまでの多くの娯楽時代劇がそうであったように、見事なまでに善悪二元論に峻別され、大袈裟に言えば、200人の「絶対悪」に挑む13人の「絶対善」なる男たちが集合し、「斬って、斬って、斬りまくれ!」という首領の合図の元に、「主君押込」(行跡が悪いとされる藩主を、家老らの合議による決定により、強制的に監禁する行為のこと・ウイキより)の支配力を突き抜けた、極北的ポジションを占有する「絶対悪」(明石藩藩主・松平斉韶)を屠(ほふ)っていくのだ。


配下の御徒目付組頭、御小人目付組頭、御小人目付、御徒目付、足軽、居候の居合抜きの剣豪、剣豪推薦の槍の名手、そして「戦争」のリーダーの甥、等。

「戦争」の突沸という一大プロジェクトに集合した、「全身闘争者」たちの心理的推進力になった者たちの主力メンバーを仔細に見ていくと、それぞれが、極めて存在論的な心象風景を内在させていることが分る。

彼らは、その内側に、様々な形で自我同一性の問題を抱えているのである。

島田新六郎
ある者は、侍としての自分の〈生〉の有りようを疑問視し、博打三昧の生活に逃避する。

彼は、特権階層としての侍の存在それ自身を相対化しているのである。

妻を喪って生き甲斐を失った鑓の名手は、生き甲斐を見つけられない社会を相対化し、その自我の空洞感を一大プロジェクトへの自己投入によって昇華させ得ると考えた。

また、その佇まいの魅力を周囲に放ち、侍としての「死に場所」を待ち続ける居合いの名手は、頽廃的な世俗を嘆き、武士道精神を失ったと信じる侍の有りようを相対化するのだ。

更に前述したように、13人目の刺客となった「山の民」(木賀小弥太)に至っては、虚勢ばかりの侍の特権性の一切を剥ぎ取る愉悦のうちに、「敵味方論」を突き抜けて、アンチテーゼとしての武士階級の存在そのものを根柢的に相対化し切るのである。

先走って書いてしまうならば、それ故にこそ、博打三昧の生活に逃避し、「全身闘争者」たちの心理的推進力において微妙に乖離していた、「戦争」のリーダーの甥(島田新六郎)を含めて、武士階級の存在そのものを相対化し切る立場を保持した件の二人(あと一人は、言うまでもなく「山の民」)だけが、「戦争」の突沸という一大プロジェクトの遂行の果てに生き残ったのは偶然などではなく、そこにこそ、武士道精神の具現と信じ、「死に場所」を待望した者たちが逝く中にあって、力感溢れる大型時代劇の復権を目途にしたと思われる、差別化し得た娯楽活劇を構築した三池崇史監督のメッセージ性が読み取れるだろう。(これについて後述する)

だからこれは、絶対的な規範が揺らぐ時代状況下にあって、主に侍の存在の有りように関わる根源的問題に立ち竦み、それを相対化せざるを得ない者たちが集合し、そこに個人的差異があろうとも、その自我に穿(うが)たれた空洞を埋めるに足る物語によって、「戦争」の突沸の坩堝(るつぼ)の内側から、全人格の炸裂と爆轟に自己投入していった男たちの映画でもあった。

そして、自我に穿たれた空洞を埋めるに足る物語を必要とする、そんな男たちの魂を集合させた決定的推進力こそ、「戦争」を決意させた稀有な求心力を有するリーダーの存在と、そのリーダーの堅固な意志によって鼓吹された大義名分だったのである。

工藤栄一監督の秀作・「十三人の刺客」
従って、その映像構成の基幹の骨格において、13対53騎の「戦争」であった、1963年製作の工藤栄一監督による作品と殆ど切れていたと思える本作は、大義名分を手に入れることによってのみ、観念としての〈死〉の「非日常」に最近接した、「全身闘争者」たちによる、「絶対悪」である「敵対勢力」に対する、テロもどきの自己実現の映画であった。

この映画で繰り返し語られる大義名分によって、屠られねばならない「絶対悪」が仮構される物語の純度は、「勧善懲悪」の純度と同義であることによって、「全身闘争者」である男たちが作り出した、突沸の坩堝たる「戦争」の渦中のうちに、男たちの「絶対善」としての「正義」のテロが、一貫して映像を支配するのだ。

だから本作は、「戦争」の決意を描く前半の物語の流れが、最も重要な伏線となっていく。

それは、以下のエピソードによって決定的になったと言っていい。

幕府の老中である土井利位(どいとしつら)が、御目付の島田新左衛門を屋敷に呼んで、「絶対悪」である松平斉韶(まつだいらなりつぐ)の悪行の数々について説明し、次の老中職が内定されている斉韶暗殺の密命を下す有名なシーンでのこと

その土井が、島田新左衛門の前に、一人の女を招いた上で、その悲劇の顛末を語っていく。

農民一揆の首謀者の娘であった彼女が、明石藩主・松平斉韶に両腕をもがれ、両膝を落とされ、斉韶の「慰み者」として領国に連れられたが、飽きて山中に捨てられたと言う。

驚愕する新左衛門の前で、女は舌を千切られた全裸の姿形を見せられ、更に、口に咥(くわ)えた筆で、身内の者が「みなごろし」にされたと書いた和紙を見せたのである。

「捨ておけば、災いは万民に及ぶのだ」

御目付・島田新左衛門(左)と老中・土井利位(右)
幕府老中・土井の言葉だ。

「拙者、この太平の世に、侍として善き死に場所を探し続けておりました。それがここに及んで、手の震えが収まりません・・・お望みの儀、見事成し遂げて御覧に入れましょう」

これが、幕府御目付役・島田新左衛門の答え。

将軍の弟である明石藩主の暗殺を目途にした、「戦争」の決意が語られた瞬間である。

このエピソードが、本作の男たちの、滾(たぎ)らせた情感系を収斂させていく決定力と化したのは言うまでもない。

それは同時に、島田新左衛門の求心力に誘(いざな)われた男たちを、「全身闘争者」に立ち上げた瞬間でもあった。

彼らの彷徨う魂は、異議申し立ての余地なき、この「平和のための捨て石」となるだろう、「絶対善」としての大義名分のうちに集約され、強化されていくのだ。

「全身闘争者」たちによる「戦争」の準備は、この伏線の延長上に開かれて、そこに前半の主調音である「陰」の映像が決定的に印象づけられたのである。

件の「全身闘争者」たちを惹き付ける幕府御目付役の島田新左衛門の人間的魅力について、本作は比較的丁寧に描いていたが、私にとって最も印象深かったのは、若き日に同門で競い合った仲であったにも関わらず、今や、「絶対悪」である松平斉韶の腹心となっていた鬼頭半兵衛の鋭利な観察眼であった。

明石藩御用人・鬼頭半兵衛(右)
「何があろうと殿を守る」

これが、鬼頭半兵衛の絶対規範であると同時に、今や「攻撃的大義」を手に入れ、幕府御目付役(実質的に老中のブレーンであり、徒目付、小人目付を配下に置き、旗本、御家人の監視など幕府中枢の政務を担う)にまで出世した島田新左衛門への、「防衛的忠義」のうちに隠し込んだ屈折した競争意識による、それ以外にない表現であった。

その半兵衛が、家来から島田新左衛門について問われるシーンがあった。

「できますか、この男」

この問いに対する半兵衛の答えは、新左衛門の本質を衝くものだった。

「切れるという訳ではない。恐ろしく強い訳ではない。だが負けぬ。無理に勝ちに行かず、押し込まれても中々動かず、最後には少しの差で勝つ。そういう男だ」

まさに、「闘争のリアリズム」に徹する「全身リアリスト」をイメージさせる人格像が、その簡潔な言葉のうちに垣間見えたのである。

「最後には少しの差で勝つ」という「全身闘争者」としての人格像が、「絶対善」としての大義名分を持ち得たとき、その穏健な人柄の求心力に誘(いざな)われた男たちを、「全身闘争者」に立ち上げていく物語の流れには殆ど破綻がなかった。

その辺りを評価するが故に、その後の物語の展開に愕然とするばかりだったのである。




3  心理的緊張感・恐怖感が希釈化された「戦場のリアリズム」の大騒ぎ




「戦争」の決意→「戦争」の準備という流れについては前述した通りだが、後者の「陽」の主調音を支配した、精力絶倫の「山の民」のエピソードの中で、相手をする女の不足を、まもなく「戦争」の前線と化す、落合宿の庄屋で間に合わせるという件(くだり)は、紛う方なく、スケールアップさせたエンターテーメントの要素をふんだんに注入せねば済まない作り手の性癖であるとと言っていい。


かくて迎えたクライマックス。


50分間に及ぶ「戦争」の突沸である。

物語の最後の風景である、「戦争」の突沸のシークエンスを要約してしまえば、テレビ時代劇の剣劇の立ち回りとしての「チャンバラ」以外の何ものでもなかった。

辺り一面に血飛沫(ちしぶき)が飛び散る中で、俳優の渾身の演技によって表現された「全身闘争者」たちの形相の凄みを、カラーフィルムに張り付ける技巧でカモフラージュさせただけで、「戦場のリアリズム」が分娩するに足る心理的緊張感・恐怖感が、観る者にまるで伝わって来ないからである。

敢えて下品な苦言を呈すれば、ミヒャエル・ハネケ監督の「ファニーゲーム」(1997年製作)という、バイオレンスへのアイロニーによって無化されたように、致命的打撃を執拗に受けても決して斃れない、ハリウッドムービーの粗悪さが集中的にダダ洩れてしまったかの如く、単に、長尺記録を狙ったとも思える50分間のシークエンスでしかなかったということだ。

凄惨な描写を含む前半の重苦しい主調音を台無しにした、このクライマックスの長尺なシークエンスが露わにしたのは、テレンス・マリック監督の「シン・レッド・ライン」(1998年製作)がそうであったように、命と命が限界状況下の恐怖の中で激突し合う、全き「戦場のリアリズム」の致命的な欠落であった。

それは、巧みな殺陣さばきを誇示する武士や、件の戦場をゲームセンターに変えた男を含む、「全身闘争者」たちの「チャンバラ」ごっこであり、13人対53人という、合理性を持つ「戦争」の突沸をクライマックスに据え、リアリズム時代劇に徹し切った工藤栄一監督のマスターピースとの比較を無化し得るだろう、超ド級の、過剰なだけの馬鹿騒ぎ以外の何ものでもなかったという辛辣な批評をも添えたい程だ。

この「戦争」の突沸のシークエンスを、最大の見せ場と把握する作り手によって達成された表現の本質は、単なる娯楽活劇の範疇に予定調和的に収斂されていく、そこだけは特段にスケールアップさせた「命取りのゲーム」であったと断じていい。

勿論、「それもあり」だが、しかし本篇を以(も)って、「完全無欠のエンターテーメント」の達成を果たしたと自負するならば、それもまた主観の相違でしかないだろう。


要するに、三池崇史監督は、「戦争」のリーダーである島田新左衛門の、「斬って斬って斬りまくれ!」という号令一下、「戦争」の突沸のシークエンスの中に、「全身闘争者」たちの体力の限界を遥かに超えた、スーパーマン的パフォーマンスを全面展開させるに足る、超ド級で過剰な描写をベッタリと張り付けることで、作る者も観る者も殆ど偏差のないマキシマムなカタルシスを手に入れる快楽のうちに、「時代劇の決定打」を存分に放ったつもりなのだろう。

「全身闘争者」たちの中にあって、参謀役の御徒目付組頭を演じた松方弘樹による、殆どそれだけで完璧な構図を構成し得るような見事な殺陣に象徴されるように、存分に剣劇の大立ち回りを楽しんで手に入れられるマキシマムなカタルシスに浸ればいいではないか。

その辺りが、三池崇史監督の直截(ちょくさい)な思いであることが分っていても、なお残る、「戦場のリアリズム」の徹底的な欠落。

然るに、件の大御所役者による見事な殺陣が最も抜きん出ていたことで、「戦場に殺陣は似合わない」と考える私から見れば、却って、そこで失ったリアリティもまた、少なくとも看過し難い何かなのだ。

そんなに堅苦しく考えるな、と言う向きも多いだろう。

無論、その辺りの感懐を否定すべくもない。

一切が好みの問題に尽きるからだ。

但し、心理的緊張感・恐怖感を随伴することのない映像からは、本物のリアリズムが分娩されようがないということ ―― それだけは確かである。



4  力感溢れる大型時代劇の、その雄々しい立ち上げの映画空間を支配した歌舞伎もどきの世界の遊び方



リアリズムの問題から離れて、ここで考えてみたい。

テーマ性についてである。

相当程度において面白い映画を構築した三池崇史監督のメッセージを、本作から拾うことがあるとすれば、本作の中で執拗に語られた、「天下万民のために起つ」という胡散臭いまでの、「絶対善」としての大義名分の連射である。

この連射の留めは、ラストシークエンスにおいて炸裂した。

仲間たちを次々に喪っても、なお生き残った島田新左衛門は、「みなごろし」と書かれた例の和紙に象徴される、「民の苦衷」を救う集団としての「全身闘争者」たちを糾合し、その「戦争」の突沸の括りを収斂させる戦場の中枢で、それ以外にない大義名分を放って見せるのだ。

「天下の御政道のため、我らはこの無謀な戦いに参画した」

これが、そのときの大口上。

200人以上の敵を相手にする「戦争」の突沸の中で、いつしか、「何があろうと殿を守る」と言い切った鬼頭半兵衛を筆頭に、僅か数人しか家来を随伴していない松平斉韶の前に、毅然と立ち塞がった島田新左衛門の口上である。

口上の手順通りと言うべきか、殆ど間髪を容れず、「絶対悪」である松平斉韶に忠義に殉じる鬼頭半兵衛と、「絶対善」としての大義名分に殉じる島田新左衛門の対決が開かれるが、所詮、防衛一方の剣客は、攻勢一方の剣客に敵うはずもなく、そこもまた予定調和的に収斂されていく。

「絶対悪」への忠義が、「絶対善」としての大義名分を持つ「全身闘争者」の気迫と対等に渡り合うには、主君の人格に張り付く「最も愚かな為政者」=「絶対悪」という認知を超克する以外にないのだ。


要するに、元禄赤穂事件がそうであったように、件の認知を擯斥(ひんせき)し得てもなお、「防衛的忠義」は多くの場合、「攻撃的大義」の前でひれ伏すしかないのである。

だから、この対決の帰趨は予約済みだったと言う外にない。

そこに残った二人の男。

「絶対善」という大看板を担う島田新左衛門と、「絶対悪」というラベリングを「全身闘争者」たちから張り付けられた松平斉韶である。

かくて、命と命が限界状況下の恐怖の中で激突し合う、全き「戦場のリアリズム」の渦中に、殆ど歌舞伎の世界が開かれたのである。

敢えて解釈すれば、大義名分なしにテロもどきの「戦争」を合理化し得ないが故に放った口上であるだろう。

だから、「絶対善」としての大義名分に対して、同様に、己が立場の大義名分を誇示する口上が放たれた。

「政(まつりごと)とは、政を行う者のみ都合よく、万民はその下僕として生きるしかない」

これは、「絶対善」によって仮構された、「絶対悪」である松平斉韶の口上だが、なお口上返しが繋がった。

「たとえ仕組みがそうであろうとも、下僕が下僕として歯向かうときがある。下が支えて初めて上であることが、まだお分りになりませんか」

ジョーク含みで言えば、ほぼ完璧に歌舞伎もどきの世界が、力感溢れる大型時代劇の、その雄々しい立ち上げの映画空間を支配するのである。

当然、そこには、「滅びの美学」に殉じる者たちに寄せる作り手のメッセージが読み取れる。

ただ、私には納得し切れないのだ。

このような大見栄を切る説明的な台詞のうちに、力感溢れる大型時代劇の、その娯楽活劇の文脈を包括するのは自由だが、この一連の「戦争」の突沸の果てに待機させていたのが、恐らく、「現代社会の閉塞感」に引き寄せたかの如く、歌舞伎の世界とも思しき予定調和の大団円であるとするならば、あまりに牽強付会(けんきょうふかい)であり、短絡思考であると言えないか。

以下、本作にたいする私の率直な感懐を包含させつつ、稿を変えて論評したい。



5  てんこ盛りのメッセージを詰め込んだ娯楽活劇の「乱心模様」




この映画を単純に考えるならば、「諌死」という名の武士道の「滅びの美学」の開示を見せたファーストシーンと、どこまでも虚構の観念系でしかない武士道を、その階級を代表する者の拠って立つ精神的基盤と信じる文脈を完全に相対化し切った感のある、ラストシーンの二人の男たち(山田孝之演じる島田新六郎、伊勢谷友介演じる木賀小弥太)の、無傷の生還との対比的な脈絡で把握することで、ほぼ了解し得るラインとなっている。

即ち、吹石一恵(2役)演じる芸妓お艶の笑顔を映し出したラストカットに象徴される、島田新六郎の世俗への生還という構図のうちに収斂されるのは、結局、「天下万民のために起つ」という大義名分を張り付けたテロルが包括する意味を、恰も根柢的に屠っているかのような残像に読み取れる、三池崇史監督の基幹メッセージもどきであった。

ところが、過剰なまでの本篇の映像で拾われたメッセージの中には、明らかに、「死に場所」を求めることにのみ意味を持つと信じる武士道を無前提に礼賛しているとまでは言わないが、しかし、そこに垣間見えるのは、「死に場所」を求めてダウジングした戦場に殉じる、「全身闘争者」たちの勇猛な闘争に対して、相応の思い入れを寄せて、「滅びの美学」のうちに自己完結を果たした彼らの、全人格的な身体表現によるテロルを限定的に受容している印象が拭えないのである。

「戦争」を求めて止まない男たちのモチベーションを、キラーコンテンツの格好のセールスとして成就し、上手に掬い取った感のある本作に張り付くメッセージの混乱が、そこに透けて見えるのだ。

武士道の「滅びの美学」に殉じた、「全身闘争者」たちの自己完結点まで完璧に描き出す本作の情感世界が、取って付けたようなメッセージの浮遊感覚をも食い潰しているのである。

しかも厄介なことに、「最も愚かな為政者」の「蛮行」を、恰も斃されるべき「絶対悪」として仮構することで手に入れた、泣く子も黙る「最強」の大義名分が放つ心理的推進力は、このような「最も愚かな為政者」を生み出した社会の崩壊を必然化するという文脈の中で、そこだけは明瞭に、「現代性」を包括させたメッセージとして連射されてきたことだ。

そうでなければ、「これは、広島長崎に原爆が投下される百年前の日本の物語である」などという、冒頭のキャプションの意味不明な解釈を引き寄せることはできないであろう。

原爆投下という、大量殺戮を象徴させる歴史的事件を敢えて挿入させたキャプションは、どう考えても「反戦」のイメージしか想起し得ない何かであろう。

それとも、大義名分に関わる疑義についての問題提示を、原爆投下と本作のテロの遂行という両者にリンクさせているとも考えられるが、とても、そこまでのメタメッセージの斟酌を深読みする次元に誘導しているとは思えないので、一切は不分明であるとしか言えないのだ。

不分明でありながらも、本作で描かれたテロの限定的正当性をも掬い取ることで、この作り手は、「報復的正義」のうちにバイオレンスを吸収した究極の有りようを描き出したかのようにも解釈できるのである。

その解釈のうちに、「死に場所」を求める虚構の観念系が収斂されることで、「完全無欠のエンターテーメント」を目指したとしか思えないのである。

「『テロを起こすのは、天下万民のため』という大義名分が、観客にとって嘘に聞こえればいいなというのはありました。もちろん、彼らは動くためにはそう言わなければならないのですが、『それだけじゃない』という臭いが、作品から出てくると良いとは思っていました」(完全無欠のエンターテインメントを求めて -『十三人の刺客』三池崇史監督)


これは、インタビューに答えた三池崇史監督(画像)の言葉。

決して声高ではないが、それでも、「『それだけじゃない』という臭い」という思いに集約される文脈の中に、「今、生きているこの時代」でこそ、「報復的正義」の正当性の検証が具現されるという理念系が漂流しているとも読めるだろう。

残念ながら、「侍とは面倒なものよ」と言って死んだとしても、私が眼を通した限り、「社会を下支えする若者達へのメッセージ」というブログの言葉に象徴されるように、「天下万民のために起つ」という大義名分によって惹起された「戦争」のの突沸のうちに、相応のカタルシスを手に入れた数多の観客にとって、そこで繰り返し叫ばれた大義名分は、別段、過剰に塗り込められた虚空の叫喚には聞こえなかったようである。

当然である。

明らかに作り手は、稲垣吾郎のキャスティングが見事に嵌った感のある、「戦のある時代を作りたい」などと言い放つ、「最も愚かな為政者」=極悪非道な「絶対悪」のダーティ・ヒーローの退路を断ち切って、その前に毅然と対峙した「全身闘争者」の首領が放つ大口上によって開かれた、「最後に待機させた、決定的な命取りの戦争」の描写に娯楽活劇の勝負を賭けたにに違いないからだ。

かつての任侠映画と同質の構造を持つに足る、「絶対悪」のダーティ・ヒーローを屠って、屠って、屠り抜くシーンの挿入なしに手に入れられない大カタルシスが、まさにそれを存分に保証することで、観客の情動を騒がせる映画を作りたかったと思われるからである。

「腐った政治を洗濯するヒーローがいつも出てくる」(『十三人の刺客』役所広司 インタビュー)

これは、「時代劇の面白さとは何でしょう?」という問いに応えた主演俳優の、あまりに直截な言葉。

「絶対善」という大看板を担う島田新左衛門を演じた役所広司は、本作のテロリストとも思しき「全身闘争者」たちを、きっぱりと「ヒーロー」と形容したのである。

「絶対悪」としての「最も愚かな為政者」の象徴的人物・松平斉韶
と言うより、このような言葉を言わせるに足る、「報復的正義」によって炸裂する「全身闘争者」たちのヒーロー性を雄々しく立ち上げるためにのみ、恐らく、幕藩体制を基本骨格にする武家社会の支配のシステムの限界を認知し得たが故に、殆ど「自爆心理」を隠し込んだ、加虐的な振舞いによってのみアイデンティティーを手に入れられなかった人格障害を有する、「絶対悪」としての「最も愚かな為政者」の人物造形を、過剰なまでに仮構したと解釈する方が正しいだろう。

そうでなければ、何の罪もない「敵対組織」の家臣たちを、「斬って、斬って、斬りまくれ!」というテロルの正当性が手に入らないからである。

やはり、これは「報復的正義」を遂行する「ヒーロー」たちの物語であって、罷(まか)り間違っても、「報復的正義」の自己完結によって、基幹テーマのうちに、「空洞感」や「殺し合うことの虚しさ」を吸収し得る物語を、そこだけを特化して謳い上げた作品とは思えないのだ。

少なくとも、情感的には、そのようなネガティブな印象を特定的に汲み取るのは無理なのである。

そうであるならば、ラストカットによって無化された、女を抱くことで愉悦する日々を繋ぐ世俗主義の堂々した立ち上げは、件のメッセージによって相殺されてしまうのではないか。

何のことはない。

ここもジョーク含みで言えば、ハリウッド映画と同質の基本骨格を持つ、てんこ盛りのエンターテーメントであるばかりか、てんこ盛りのメッセージをも詰め込んだ娯楽活劇の、腹一杯の「乱心模様」が露呈されるばかりだったのである。

だからこそと言うべきか、浮薄なメッセージの余計な連射など最後まで蹴飛ばして、徹底して娯楽活劇の極北を目指せば良かったのではないのか。

私にとって、そんな印象しか持ち得ない映画だった。

(2011年11月)

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