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2012年1月3日火曜日

インビクタス/負けざる者たち('09)        クリント・イーストウッド


<「偉大なる黒人大統領」の視線を追い続けることで、間断なく提示していく「主題提起力」の一気の快走>



 1  「英雄」という名の未知のゾーンに搦め捕られる心理の鮮度の持つ、「初頭効果」の訴求力



 作品が持つ直截な政治的メッセージの濃度の高さを限りなく相対化するためなのか、ほんの少し加工するだけで、もっと面白くなる物語を比較的淡々と構成化することで、「英雄礼賛」に流れる俗流メッセージを稀釈化させたつもりなのかも知れないが、恐らく、本作を観終わった後の感懐の多くは、ネルソン・マンデラという実在人物に対する、崇拝にも近い「偉人伝」もどきの評価の高さで埋まってしまうだろう。

 それもまた良い。

 「英雄」を必要とする時代があり、「英雄」を必要とする国家に住む人々の悲哀を感傷的に理解できても、アパルトヘイトが分娩した、憎悪の連鎖から解放されない人々の心奥の集合的感情にまで届き得るには、差し当たり、パンの問題から解放された先進国の端っこに住む私たちの、その「強靭なる紐帯」への思いの情感濃度ではとうてい太刀打ちできないだろう。

 「英雄」を必要とする人々の心奥の集合的感情にまで容易に届くとは思えないが故に、「英雄」という名の未知のゾーンに搦(から)め捕られる心理の鮮度は、感動譚の物語の「初頭効果」の訴求力によって剝落しない情感を持つに違いないからである。

 
南アのアパルトヘイト博物館(イメージ画像・ブログより
然るに、直截な政治的メッセージの濃度の高い映画を批評する知的営為もどきの一切は、国境を越える自在性を有する「鑑賞者利得」をフル稼働させる趣味の範疇にあるので、ここでも簡単に相対思考の嗜好的快感を解き放ってみよう。



 2  「偉大なる黒人大統領」の視線を追い続けることで、間断なく提示していく「主題提起力」の一気の快走



 「体系性」を生命とする思想に対して、「完成度」を生命とする芸術表現のコンテンツの一つである映像表現の「完成度」は、「映像構築力」を根幹とするという意味において、本作の「映像構築力」は決して高くないと、私は思う。

 その「映像構築力」は、「主題提起力」と「構成力」に支えられていると私は考える。

 「構成力」とは、一言で言えば、映像展開を破綻なくまとめていく技巧的力量である。

 さて、本作のこと。

 暑苦しいまでに炸裂する本作の「主題提起力」が、物語の「構成力」を押しのける勢いで最後まで貫徹されていた、というのが私の率直な感懐。

 決して駄作を作らないクリント・イーストウッド監督の、安定感溢れる作品群の瑕疵があるとすれば、せいぜい、凡作程度の辛口批評に留まるレベルで収まっていたことは事実。

 従って、本作もまた、完成度は決して高くないが、だからと言って駄作ではない。

 それこそが、常に3割バッターを維持し続けた感のあるクリント・イーストウッドの監督の真骨頂であるだろうが、私の本作への不満も、凡作性の物足りなさに起因すると言っていい。

 何より、そこで提示された主題の中枢が、「非暴力主義」という思想で人格武装した「偉大なる黒人大統領」と、その大統領の人格的求心力によって覚醒したラグビーチームのリーダーである、「誠実なる白人青年」という補完的な関係のうちに特化されていて、人たらしの達人の如き、マンデラ・マジックとも言うべき効果覿面のサポートを得た挙句、件のチームの自国開催ゆえに出場権を得たに過ぎないラグビーワールドカップ(1995年)において、世界最強のオールブラックス(ニュージーランド代表)を破る奇跡的快挙を成し遂げたという、スポ根ジャンルとは一線を画す物語の「構成力」を支配し切ってしまっていたこと。

 これが、私の内側にストレートに入り込んできた物語イメージである。


 そして、奇跡的快挙の果てに交叉した、二人の短い会話に流れていったとき、本作に対する私の違和感はピークアウトに達してしまったのである。

 「諸君の貢献に心から感謝する」と大統領。
 「祖国を変えて下さった大統領のお陰です」とリーダー青年。その名はフランソワ。

 仮にこの会話が事実であったとしても、殆ど外連味(けれんみ)なく、ここまで直截に挿入されたワンカットを目の当たりにして、正直言って、私は二の句が継げなかった。

 まさかクリント・イーストウッド監督が、ここまで露骨に、煮沸された理念系を言語化するとは思いも寄らなかったからだ。

 殆ど腹一杯になるほど提示され続けてきた主題、即ち、「憎悪の連鎖を断ち切って共存していこう」という基幹メッセージが連射されて、もう、膨れ上がった私の感性受容器はアウト・オブ・コントロールの状態だった。

 何より始末に悪いのは、基幹メッセージの全てが、観る者の思考力を奪う程の、極めて分りやすい説明的描写で映像化されてしまっていることである。

 
ネルソン・マンデラ(ウィキ)
思うに、ネルソン・マンデラの思想のコアである「非暴力主義」に収斂された基幹メッセージは、ユーモア含みで描くことで、「英雄礼賛主義」に流れない程度の節度を保持していて、それが却って、マンデラの政治家としての傑出した能力を感じさせるが、それでもなお、このような会話を必要とせざるを得ない映画に昇華させたことによって、政治色の濃度の高い物語ラインが、エンドロールの「平和の賛歌」に繋がってしまうのだ。

 以下、その歌詞の大部を再現してみる。

 永遠の山々の頂きから
 こだまが響きわたる
 我ら 心を一つにして
 立ち上がろう
 自由のため 共に生きよう
 南アフリカ 我らの祖国で
 私には 大きな夢がある
 とても大切な すばらしい夢
 国々が 互いにむすびついて
 ひとつの世界になること
 あらゆる人々が 手をたずさえ
 ひとつの思い ひとつの心に
 すべての信条
 すべての肌の色が
 垣根を越えて ひとつに集まる
 みずからの可能性を 探りながら
 それぞれの力を 発揮していく
 勝っても 負けても
 引き分けても
 皆の心に 勝者が宿る
 世界の国々が 
 互いに結びついて
 
ひとつの
 揺るぎない世界に
 運命をつかもうと
 努力するなら
 新しい時代が ひらけていく
 険しい山を 越えようとも
 荒々しい海を 渡ろうとも
 いつか来る
 輝かしい日のため
 誇りを持って 進んでいこう
 持てる力を すべて出し切り
 共にゴールを めざすなら
 勝っても負けても
 引き分けても
 皆が勝利を手にする
 世界の国々が
 互いに結びついて
 ひとつの
 ゆるぎない世界に
 運命をつかもうと
 努力するなら
 新しい時代が ひらけていく



 二の句が継げないどころの話ではない。



 もうここまできたら、国連協会主催の「高校生の主張コンクール」の文部科学大臣賞クラスの、情感たっぷりの挿入ポエムの熱弁を聞いている錯覚がする程だ。

クリント・イーストウッド監督
以下、クリント・イーストウッド監督自身のインタビューである。

 「彼は27年間も刑務所で暮らしたのに、自分をそんな目に遭わせた人々を許しただけでなく、刑務所の看守たちを大統領就任式に招待までしたんだよ。そんなことができる性格の人間は、非常に少ないと思う。出所したとたんに戦争でも始めてやろうと思うほうが人間の本性に近いだろう。だが、彼はそうしなかった。そうではなく、許すことに価値を見いだした。そして、アパルトヘイトへのボイコットのせいで、もう何年も国際試合に出場していない、このラグビーチームに目を付けたんだ。彼は、自分がバルセロナ・オリンピックに行った時に、そこにいた人々が、観戦の影響で、家に帰ってからも一生懸命働こうというやる気とエネルギーを得ていた様子を目撃していたのでね。そんなアイデアを考え出すほど、マンデラはクリエイティブでもあったんだ」(e-days 映画「インビクタス/負けざる者たち」クリント・イーストウッド監督インタビュー)

 もう一つ紹介しよう。

 「ラグビーという競技の魅力、スポーツマンシップ、そして物語のシンデレラのような劇的な結末。あのような結果になるというのは皮肉なことだ。これほど『祝祭』となったスポーツの試合をほかにわたしは知らない」(シネマ トゥディ『インビクタス/負けざる者たち』インタビュー)

 後者は、「この物語の何がここまで興味深い話にさせているのでしょうか?」という、インタビュアーの質問に対する明快な回答だ。

 27年間も刑務所暮らしを強いた白人権力に対して暴力的復讐を加える行為を拒絶し、「許すことに価値を見いだした」男が大統領となり、「ラグビーという競技の魅力」(注1)に着眼した結果、肌の色の違いを無化し得る程に、「スポーツマンシップ」への情感昇華を果たすことで、「赦しによる敵対民族との和解と融和」を具現するという、それこそまさに、正真正銘の奇跡的快挙を成し遂げた現実に魅了され、マンデラの自伝をベースにした物語を構築するとき、マンデラの政治家としての傑出した能力に対する表現の帰結が、エンドロールの「平和の賛歌」に繋がってしまうのは避けられないようにも思える。


 しかし、マンデラ自身の艱難(かんなん)な軌跡への描写を、関係特化された、「誠実なる白人青年」によるロベン島訪問のワンシーン(注2)で簡潔にスル―してしまって、例えば、「炎のランナー」(1981年製作)のように、主人公である「偉大なる黒人大統領」の内面描写に立ち入ることも、アパルトヘイト撤廃後の南ア黒人の生活の惨状を拾い上げることもなく、更に言えば、ワールドカップ優勝に至る苦闘の練習風景を熱心にフォローすることもなく、物語の「構成力」を押しのける勢いで、「偉大なる黒人大統領」の視線を追い続けることで、間断なく提示していく「主題提起力」を馬力にした一気の快走で突き抜けていくという手法は、些か安直ではなかったか。

 それが最後まで気になったのだ。


(注1)「All for one One for all」=「全てのプレーヤーは一人の仲間のために、一人のプレーヤーは全ての仲間たちのために」こそ、ラグビーの基本理念であるが、その他にも、「ノーサイド」という言葉に象徴されるように、試合終了の合図を意味する有名な言葉がある。これは、両チームのプレーヤーが戦い終えたら、共に健闘を讃え合う仲間であるという精神のことで、まさに、マンデラ自身の政治信条を代弁している。

(注2)この訪問でのポイントは、「いかなる罰に苦しめられようと、私は我が運命の支配者。我が魂の指揮官なのだ」というウィリアム・アーネスト・ヘンリー(英の詩人)の詩にある。「インビクタス」の一節のマンデラの回想のカットとして、この言葉は本作の中で繰り返されるが、メッセージ性が明瞭に強調されている。



 3  「シンデレラのような劇的な結末」に至る物語を支配した基幹メッセージの連射



 ラグビーワールドカップ(1995年)における、世界最強のオールブラックス(ニュージーランド代表)を破る奇跡的快挙の物語は、「マンデラ!マンデラ!」と黒人の子供たちが叫ぶ冒頭の釈放シーンから開かれた。(注3)

 「誰なんです?」と白人少年。
 「テロリストだが釈放された。覚えておけ。今日がこの国の破滅の始まりだ」と白人コーチ。


 その「テロリスト」であるマンデラ大統領は大統領執務室に入るや、残っている職員を集め、力のこもったスピーチを放った。

 「過去は過去。未来は未来だ」

 要点を言えば、この一言に尽きるだろう。

 「和解の象徴を見せるのだ」

 これは、前政権(デクラーク)の警護を担当した白人の公安に、引き続き自分の警護を担当させる指示を出した、マンデラ大統領の注目すべき発言で、現に、アパルトヘイト関係法の全廃に大きな役割を果たした白人のデクラークを自政権の副大統領に据えている。

 「赦しこそ、恐れを取り除く最強の武器なのだ」

 これは、側近の黒人のジェイソンに語ったもので、本作の肝に相当する重要なメッセージであると言っていい。

 先の警護担当の問題で、別室で待機中の白人の公安に、「警護中でも笑顔でいろ」というマディバ(マンデラの氏族の名前で、彼の愛称となっていた)の意思を伝えるジェイソン。

 このように、次々に連射される名言の、スクリプトに被された基幹メッセージが、本作の「主題提起力」のコアとなって物語を支配し、その物語の「シンデレラのような劇的な結末」に至るのだ、。

 スプリングボクスのキャプテンであるフランソワ青年を大統領執務室に呼んで、何気ない仕草による「歓待」のアプローチによって、絶妙な肯定的ストロークを提示する手腕の凄みは、「誠実なる白人青年」の心を鷲掴みにするのに充分過ぎる効果を持っていた。


 「非暴力主義」という思想で人格武装した「偉大なる黒人大統領」との接見によって、「誠実なる白人青年」が大きく変容するエピソードは、まもなく、スプリングボクスの若者による黒人居住地区でのコーチの行為を含めて、既に、ラグビー・ワールドカップの制覇なしでも、困難な国家を率いる時代状況下での、国民の意識を平和裡に結んでいく戦略の成就を約束させるに足る、政治指導者としての辣腕を検証するものだった。

 従って、マンデラ大統領が傑出した政治的指導者であった事実を、「偉大なる黒人大統領」の視線を追い続けることで、間断なく提示していく「主題提起力」の一気の快走は、本作を貫流する基本命題であったことを認知すべきであるだろう。


(注3)ラグビー日本代表が、このオールブラックス相手に17対145という、信じ難き歴史的大惨敗を喫した試合は、今も、「ブルームフォンテーンの悪夢」として語り尽くされているが、それ程までにオールブラックスが強かったということの証明である。いかに、この年の南アフリカ共和国代表が奇跡的強靭さを発揮したかが分るだろう。因みに、ブルームフォンテーンは、2012年現在、今や、党内対立や幹部による汚職疑惑に塗れている、100周年を迎えたアフリカ民族会議(ANC)の結成の「聖地」でもある。



 4  国民の精神的統合のパワーを有する近代スポーツの求心力



 思うに、英雄を必要とする国家において、近代スポーツが国民の精神的統合のパワーを有することは、それを必要とする国に住む為政者なら誰でも熟知していることである。

 日本人女性として五輪史上初の金メダルを獲得した前畑秀子が参加した、1936年開催のベルリンオリンピックが、「ヒトラーのオリンピック」と称されているのは周知の事実。

 ボイコットの意思を示していた英米を参加させるために、ユダヤ人差別政策を封印してまで敢行するに足る価値があればこそ、「ヒトラーのオリンピック」の成功が保証された訳だ。

 無論、ナチのプロパガンダの一つの方略であり、国威発揚の戦略の一環でもあった。

レニ・リーフェンシュタール
ゲッベルスとの確執を経て、1940年のキネ旬1位に輝いた、レニ・リーフェンシュタールの「民族の祭典」(1938年製作)が、その芸術性の高さから絶賛されながらも、戦後、ナチのプロパガンダ・ムービーとして糾弾されたように、「政治とスポーツ」の関係は、常にデリケートな問題であった事実を厳粛に認知すべきだろう。

 良くも悪くも、我が国の「なでしこジャパン」の活躍に至るまで、近代以降、スポーツが国民の意識を平和裡に結んでいくに足る、短期爆発的なパワーを有する歴史を持っていることは否定しようがないのだ。

 近代スポーツには、それだけの求心力があるということ。

 近年の変化の胎動を認知してもなお、それが近代スポーツの宿命であると言っていい。

 「オリンピズムの目標は、あらゆる場でスポーツを人間の調和のとれた発育に役立てることにある。またその目的は、人間の尊厳を保つことに重きを置く平和な社会の確立を奨励することにある。

 オリンピック・ムーブメントの目的は、いかなる差別をも伴うことなく、友情、連帯、フェアプレーの精神をもって相互に理解しあうオリンピック精神に基づいて行なわれるスポーツを通して青少年を教育することにより、平和でよりよい世界をつくることに貢献することにある」(日本オリンピック委員会の公式HPより)

 これは、有名な「オリンピック憲章根本原則」の一部である。

 「平和な社会の確立」、「平和でよりよい世界をつくる」などという文言を見ても分るように、近代スポーツが「戦争の代用品」であった事実を誰も否定しようがないだろう。

 困難な国家を率いる時代状況下で、人々の思いを一つにさせるという喫緊のテーマを有する国家においては、近代スポーツの戦略こそ最も有効な方法論であった。

ジョンソン・サーリーフ大統領
近代スポーツの戦略に関する近年の話題の中で印象深いのは、「紛争ダイヤモンド」絡みの激しい内戦終結後に、リベリアの大統領になったジョンソン・サーリーフが開催したサッカー大会である。

 「アフリカの鉄の女」と称されるジョンソン・サーリーフは、内戦での10万人以上の敵対者同士(元兵士たち)を招集して、サッカー大会を開催することで、「憎悪の連鎖」を断ち切る努力を惜しまなかったのである。

 因みに、ジョンソン・サーリーフ大統領とは、「人道に対する罪」で国際戦犯法廷で戦争犯罪が問われたテーラー前リベリア大統領に代って、アフリカ初の選挙で選出された女性大統領であるが、今では、2011年のノーベル平和賞受賞者として知られるところとなっている、。

 そのジョンソン・サーリーフ大統領もまた、ネルソン・マンデラ大統領と同様に、近代スポーツの戦略を駆使しただけでなく、野党の政治家を閣僚に任命することで、内戦を再発させた歴史に終止符を打つべく、「憎悪の連鎖」を断ち切ろうと努めたのである。


 ついでに書けば、ボスニア内戦終焉後、今なお残る民族間対立を克服するために、サラエボ出身の元日本代表監督のオシムが、子供たちにサッカーを教えたりする行為などを通して、粘り強く奮闘している事実を知るとき、国家の団結を復元する方法論として、近代スポーツが有効利用されている現実を粗略にできないのである。

 近代の合理主義によって整備されたルールをベースに発展してきた、国民の精神的統合のパワーを有する近代スポーツの求心力。

イビチャ・オシム(ブログより)
必ずしも勝敗に拘泥しない近代スポーツの多様化が分娩されつつも、なお、それを切に必要とする人々が後を絶たない国際社会の現実は、内側から腐敗し、自壊するリスクをも呑み込んでいるのである。



 5  「アメリカ」が軟着し切れない「多文化主義」のボトルネックへのアイロニー



 観る者に相応の浄化作用を保証してくれる、本作で描かれた物語の主人公に対する敬意を抱くのは当然であると言っていい。

 「もし~なら~だっただろう」

 これは、「反実仮想」という、社会科学の有名な思考実験の一つ。


 この「反実仮想」に則して本作を観るとき、まさにあのとき、ネルソン・マンデラという胆力のある傑出した人物が存在しなかったら、アパルトヘイトが分娩した「憎悪の連鎖」を膨張させ、それを炸裂させかねない人々の心を浄化させることは難しかったに違いない。(画像は「ダーバンビーチ条例第37節に基づき、この海水浴場は白人種集団に属する者専用とされる」と英語、アフリカーンス語、ズールー語で併記された1989年撮影の標識/Wikipediaより)

 私が最もい嫌いな、「偉大」とか「崇高」などという言葉とは無縁に、ネルソン・マンデラ大統領が、同様に胆力のあるジョンソン・サーリーフ大統領がそうであったように、極めて優秀な政治的指導者であるという私の評価は変わらない。

 しかし、そのことを認知することは、縷々(るる)述べてきたように、件の大統領をモデルにした、本作の映像構築力の高さを評価し得ないこととは無縁な何かである。(但し、ここでも相変わらず、モーガン・フリーマンの出色の演技が際立っていたことだけは言い添えておきたい)

 観る者に、予定調和の軟着点を初めから予約させるという、この種のシンプルな映画が負ったハンディを無化させるために、クリント・イーストウッド監督が採った手法は、物語構成のうちに「イーストウッド流スタンス」(即ち、「感涙映画」に流さないという意思を垣間見せる演出のうちに、適正な距離感覚を保持する「名人芸」とも言える手法)の挿入すら封印するかのような、シンプリズム(過度の単純化)そのものののダイレクトな投入だったということ。

 従って、ここまで物語構成のシンプリズムを見せつけられると、極端に分りやすいが故に、実はその克服には困難過ぎるボトルネックが詰まっているテーマを映画的に処理するなら、このようなヒューマンドラマと思しき、「主題提起力」の連射の手法の範疇でしか収斂し切れないと印象づけられる典型的な映画だったとも言える。

 このように、「イーストウッド流スタンス」をシンプリズムに押し込めてしまう限界を感じながらも、観る者に与える情感濃度が一定の浄化作用を随伴するならそれもいい、というレベルの感懐によってしか寄り添えなくなってしまうのだ。

 敢えて、観る者に与える情感濃度が一定の浄化作用を随伴するならそれもいい、と思わせる何かを内包していたと認知するなら、以下の文脈で語られるものなのか。

オールブラックス・ハカの儀式
それは、オールブラックス(ニュージーランドのラグビーチーム)のハカ(戦いの前に相手を威嚇する、先住民族であるマオリ族の伝統的な出陣の儀式)に見られるように、「多文化主義」を包摂する、「赦しによる敵対民族との融和と和解」いう基幹テーマが終始貫流されていた作品が、単なる「英雄主義」の礼賛に流れなかったことが、このような大甘な感懐を呑み込んでしまうのか。

 それにしても「ミリオンダラー・ベイビー」(2004年製作)における、あの表現的達成力は一体何だったのか。

 優しさと残酷さを併せ持つ人間の内面の奥深くを描き切った「ミリオンダラー・ベイビー」が、クリント・イーストウッド監督の最高到達点であるという思いは、その後の作品をフォローしていくことで、いよいよ私の中で確信性を増幅させている。

 とりわけ、「非暴力主義」による少年のヒーロー譚で終わってしまった「チェンジリング」(2008年製作)や、権益を巡る日米の異文化衝突を相対的に映像化したとも言える「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」(共に2006年製作)、更に、「グラン・トリノ」(2008年製作)における「非暴力主義」と「多文化主義」の主題提示を受け、その流れが、現代の「非暴力主義」の大いなるカリスマとも言えるマンデラを主人公にすることで、どうやら、「許されざる者」(1992年製作)に代表される「厚き友情礼賛と、その敵対者への復讐劇」からの脱皮を果たしたかのような、一連の基幹メッセージは、現在の「アメリカ」が軟着し切れない「多文化主義」のボトルネックへのアイロニーであるかの如く、イーストウッド監督のライフワークを収斂させていく推進力になっているようにも見えるのである。

(2012年1月)

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