アニエス・ヴァルダ監督
序 魂の彷徨を捨てられない若者の旅
私には、それを聞くだけで心に沁み込んでくるようなクラシックの名曲が、少なくとも3曲ある。
あまりにポピュラーな旋律だが、フォーレの『夢のあとに』、パヴロ・カザルスの『鳥の歌』、そして、シューベルトの『冬の旅』である。前2曲はチェロの名曲、そして『冬の旅』は独唱の名曲。
その中から一曲選べと言われたら、それを切に求めるような、極めて情緒的な心境下にあるとき、私は『冬の旅』を選ぶだろう。
中でも、「辻音楽師」の震えるようなリリシズムがたまらない。魂の彷徨を捨てられない若者の旅が、いつか辻音楽師に誘(いざな)われて、心が揺蕩(たゆた)う未知の世界に踏み入れようとしている。
自由に生きる青春には、常にそんな危うさが纏(まと)っているのだ。その危うさが、青春の旅を妖しく彩っているのである。既に甘美なるタイトルのうちに、「若き魂の彷徨」というイメージが、永遠にテーマ化されているからである。
1 「絶対の自由」を希求する、素性を語らない女
ところが、アニエス・ヴァルダ監督の「冬の旅」の世界には、このような精神の遍歴を濃厚にイメージさせる主題性がない。
一切の形而上学的なテーマを突き抜けて、そこには、自らの放恣な思いを生身の身体でなぞっていくというような生き方しかできない、ある種の壮絶なる身体彷徨の記録しかないのだ。
精神の彷徨には、常にそれに似合った形而上学が立ち上げられるが、身体の彷徨には、飢えを充たすに足るだけのパンと雨露をしのいでくれる小屋、そして束の間のゲーム・パートナー以外には特段に必要とされることがないのである。
ここでの身体彷徨者である女には、ひたすら、「絶対の自由」だけが求められているかのようなのだ。
映画「冬の旅」の若い女は、素性を語らない。
意味がないからだ。
素性を語ることは、関係をひらくことである。
女にはその意志がないのである。
女は又、生きるために労働をすることがある。
相手の要請に最低限応えるが、何より女には、定着の意志がないのだ。
愛は女を定着させる力を持たないのである。
加えて女には、自らの移動という観念に、明瞭な目的を含ませているようには見えないのだ。
それでも移動する。
移動することだけが、自らの生の証であるかのように、空間を移ろっていく。
苛酷な冬の夜を野外で過ごし、そして翌朝、一個の死体と化したのである。
警察がやって来て、彼女の身元を調べるが、中々要領が得られない。誰も女のことを、断片的にしか知らないからだ。
その断片も全て主観の集合で、それを集めても特定の人格像を結べないのだ。多くの証言は、常に自分の都合のいいように語られるから、その人物像は、結局、世俗から忌避されるイメージに固まっていくのである。
この映画の秀でているところは、ここにある。
旅の女の内側にどっぷりと潜り込んだら、情緒の洪水に流されて、却ってリアリズムを失ってしまう。嘘話を如何にも本当らしく見せるハリウッドの描写のリアリズムに対して、ヨーロッパ映画のリアリズムは、如何にもありそうな話を、更に容赦のない迫真のリアリズムで抉っていく。
2 「絶対の自由」へ侵入する覚悟
「冬の旅」も又、全く音楽を用いない客観描写で、突き放すようにして映像を記録する。
女を断片的に知る者たちの主観的証言を束ねることで、このような〈生〉の様態を拒絶する社会の圧倒的な世俗性を炙り出していくのである。
この埋め難い距離を淡々と映し出し、まるでそこに何もなかったかのような人々の、昨日と変わらぬ生活が継続されていくという余情を残して、この苛烈な映像は閉じていく。
この視線の確かさが、女の生から一切の感傷を剥ぎ取った。
自由に生ききることの困難さと、それを選択することの覚悟なくして、この〈生〉は引き受けられないよ、と言わんばかりのシビアなメッセージが濃灰色の映像から伝わってきて、時が経つほどハートを抉ってくるのである。
「絶対の自由」への侵入がどれほどハイリスクで、覚悟を要するものであるかということを、ここまでリアルに描出した映像を私は知らない。
その覚悟とは何か。
第二に、その死体が迷惑なる物体として処理されるであろうこと。
そして第三に、一切がほぼ意志的に、一ヶ月もすれば忘れ去られてしまうこと。この三つである。
即ち、一人の旅人から完全に人格性が剥ぎ取られ、生物学的に処理されること。
このことへの大いなる覚悟である。
それは、「絶対の自由」に近づいた者が宿命的に負う十字架である。
映像は私たちに、「絶対孤独」とも言うべきその極限の様態を、全く叙情を交えず示して見せた。それでも貴方は、「冬の旅」に向かうのかと。
3 「冬の旅」とは、覚悟を括った孤独によって自分に見合った律動で突き抜けていくこと
この苛酷な映像のリアリティから、その凄惨さを剥ぎ取ってみると、私はシューベルトの『冬の旅』の絶望感のイメージに誘(いざな)われる。
シューベルト |
1820年代に入ってシューベルトは体調を崩し、入院を繰り返すが、この暗鬱な生活の中で、1827年に作曲されたのが歌曲集「冬の旅」。
この歌曲集に貫流するペシミズムは、「冬の旅」=「青春の彷徨」という概念が内包する、ある種の陶酔感を髣髴させる心地良きイメージを砕くものがある。
迫り来る死への不安と絶望感が、「歌曲王」の自我を情け容赦なく削り取ってしまったに違いないのだ。
創作に向かう、拠って立つ身体的、精神的基盤を崩されて、多くの名曲を世に残した一人の若者の内側に、まもなく、死体となるであろう自己の運命へのどれほどの覚悟があったのだろうか。
若者は「辻音楽師」という、「冬の旅」の最後を飾る哀切なメロディーを残して、その翌年静かに逝った。
死体となった若者の後から、溢れるほどの賞賛のラインが追い駆けていって、僅か31年の人生を生きた若者の名は、歴史に永遠に刻まれた。
若者はその才能を創作に繋ぐ自由なる時間を、ギリギリに手に入れることができたに違いなかった。
しかし映像の少女は、内側に眠る才能を発掘し、それを表現に繋げていく努力に何の関心も示す様子さえなく、誰にも束縛されることのない「冬の旅」を走り抜けた。そして死体になった。
小さくも、不気味に顕示するかのような映像のモデルになったことで、その少女はその風変わりな短い青春の、一見寂しい風景をフィルムに刻み付けたが、殆ど語られることのない彼女の内面の軌跡や人格像に関しては、映像を観た人たちが、映像の他の登場人物たちと同じように、恐らくその固有性について何も知ることなく、やがて、記憶の隅にその頼りない情報を何とか張りつけたまま、いつしか数多のジャンク情報の中に呑み込まれてしまうのだろうか。
少女もまた、そんな人生を望んだのかも知れないのだ。
シューベルトの『冬の旅』を聴く度に、私は、同名のあまりに苛烈な映像の荒涼とした風景を思い起こす。
アニエス・ヴァルダ監督 |
「冬の旅」とは、覚悟を括った孤独によって、恐らく、何もしなければ凍結してしまう時間を、自分に見合った律動で突き抜けていくことだ。
私の現在もまた、そんな危うい緊張感の中で、その脆弱な自我を転がしている。
残念なことに、明日、死体になるかも知れないという究極の覚悟だけが、未だ時間に追いついていないのだ。
(2006年1月)
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