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2008年10月30日木曜日

シンドラーのリスト('94)       スティーブン・スピルバーグ


<英雄、そして権力の闇>



1  歴史の重いテーマの映像化の中で不要な、「大感動」のカタルシス効果



ポーランドで軍用工場を経営していたオスカー・シンドラーは、ユダヤ人会計士の協力を得て、ゲットーのユダヤ人を工場労働者として集め、好業績を挙げた。

複数の愛人と関係し、放恣な生活を送っていたシンドラーが、ゲットー解体によって強制収容所に送られるユダヤ人たちに同情し、就中(なかんずく)、残虐な所長への反発もあって、自らの工場内に私設収容所を設立した。

―― 映画はここから、悪魔の如きドイツ人にも、シンドラーのようなスーパーマンがいたという英雄伝説の活弁の幕が放たれる。

シンドラーは、自らが保護するユダヤ人たちだけでも救おうと、私財を投げ打って、チェコの工場に彼らを移送する。

その間、危うくガス室送りになる女性たちを救出するエピソードなどが挿入されて、物語はモノクロの映像のうちに緊張含みで展開していくのだ。

終戦。

シンドラーによって守られたユダヤ人が、チェコで解放された。

解放の日、シンドラーの心には深い悔いの念があった。

眼の前にある自家用車を売れば、まだユダヤ人を何人か救えたことに気づいたのだ。

ドイツ人シンドラーのユダヤ人救済の戦いは、結局、蓄財を蕩尽する戦いでもあった。

蓄財を蕩尽し、身体と精神を消耗し尽くしたシンドラーは、戦後多くのユダヤ人の手によって顕彰され、ホロコーストの英雄伝説の一つとして、永くその名を留めている。

ホロコーストの凄惨な展開の中にあって、ギリギリに良心的に生き抜いた一人のドイツ人を映像化することで、民族の心に澱むルサンチマン(怨念)を中和しようとする作り手の意図は、とてもよく分る。

それにも拘らず、私にはどうしてもこの映画が、ハリウッド好みのスーパーマンの活劇に見えてしまうのだ。

スーパーマンの不滅性と、活劇の予定調和性がスクラム組んで、ラストのカタルシスに流れ込んでいくという基幹の文脈がそこに貫流していて、民族和解を狙ったラストシーンでの英雄顕彰が、却って物語の執拗な追認を、観る者に均しく要請してくるような厭味すら印象付けてしまった。

「プライベート・ライアン」もまたそうだったが、スピルバーグの映像には、何かいつも、少しずつ余計なものが加わってしまうように見えるのである。

これはスピルバーグに限らないが、ホロコーストのような歴史の重い悲劇を映像化するときに、観る者への倫理的義務感からか、或いは、単に生来の感傷癖からか、観る者を必要以上に感涙させずにおかない意識的な映像作りが、しばしば散見される。

果たして歴史の重いテーマの映像化に、大感動のカタルシス効果など必要であろうか。

登場人物への感情移入によって支えられる大感動が、凄惨な歴史の現実を恣意的に切り取りすぎてしまうこともある。

辛いものを辛いままに把握し、そこに作り手が解釈を加えて、歴史の重い現実に限りなく客観的に迫るという手法があっていい。

仮にそれが史実であっても、観る者のスーパーマン待望の思いに安直に流れ込んで、予定調和でまとめ上げていくラインを忠実に踏襲する必要もないのである。

時代の負性なる状況への憤怒が、スーパーマン的人物の造型を介して処理される方法論の馴染みやすさによって、娯楽としての映画が、軽快に引っ張られていくような「深刻映画」のバージョンが、そこにもあった。



2  権力関係と感情関係についての仮説 



本作の中に、極めて印象深い挿話がある。

レイフ・ファインズ扮する酷薄な収容所長と、そのメイドとの権力関係を示す描写である。

それは支配しても支配し切れない人間の脆弱性の本質に迫る、最も凄惨な描写であるように思える。

ユダヤ人に対するナチのジェノサイドがそうだとは言わないが、人間が人間を支配し切れないその脆弱性が、次第に関係の負性度を深めていって、相手の自我の破壊を経由しつつ、最終的に身体の解体にまで暴力が届くような流れを構造化させてしまうのである。

―― この挿話に言及する前に、「権力関係」についての私の把握を示しておきたい。

なぜなら、この映画で私の関心を最も惹きつけた描写がその挿話の中にあり、それこそ、この映画が特別な価値を持つと考えるからだ。

そこには、「権力関係と感情関係」の悪しきモデルが典型的に示されていたからである。(なおこの小論は、「権力関係の陥穽」という拙稿を引用したものである)


「権力関係と感情関係」について、私なりにまとめたのが以下の表である。


↑            感情関係   非感情関係
関自
係由   権力関係       ①       ②
の度  非権力関係     ③       ④
低        
い          ← 関係の濃密度高い



映画とは関係ないが、①には、暴力団、宗教団体、家庭内暴力の家庭とか、虐待親とその子供、また大学運動部の先輩後輩、旧商家の番頭と丁稚、プロ野球の監督と選手や、モーレツ企業のOJTなどが含まれようか。

②は、パブリックスクールの教師と寮生との関係であり、警察組織や自衛隊の上下関係であり、精神病院の当局と患者の関係、といったところか。

また、③には普通の親子、親友、兄弟姉妹、恋人等、大抵の関係が含まれる。

最も機能的な関係であるが故に、距離を保つ④には、習い事に於ける便宜的な師弟関係、近隣関係、同窓会を介しての関係や、遠い親戚関係といったところが入るだろうか。

権力関係の強度はその自由度を決定し、感情関係の強度はその関係の濃密度を決定する。

ここで重要なのは、権力関係の強度が高く、且つ、感情関係が濃密である関係(①)である。関係の自由度が低く、感情が濃密に交錯する関係の怖さは筆舌し難いものがあると言えるだろう。


山梨県の旧上九一色村にあったオウム真理教のサティアン

この関係が閉鎖的な空間で成立してしまったときの恐怖は、連合赤軍の榛名山ベースでの仲間殺しや、オウム真理教施設での一連のリンチ殺人を想起すれば瞭然とする。

状況が私物化されることで箱庭化し、そこにおぞましいまでの「箱庭の恐怖」が生まれ、この権力の中心に、権力としての「箱庭の帝王」が現出するのである。

「箱庭」の中では、その閉鎖系の共同体の危機は呼吸を繋ぐ小宇宙の域外になく、多くの場合、内側で作り出されてしまうのだ。

密閉状況で権力関係が生まれると、感情関係が稀薄であっても、状況が特有の感情世界を醸し出すから、有効距離を設定できないほどの過剰な近接感が権力関係を更に加速して、そこにドロドロの感情関係が形成されてしまうのである。

そこには理性を介在する余地がなく、恣意的な権力の暴走と、その災いを防ごうとする戦々恐々たる自我しか存在しなくなる。いかような地獄もそこに現出し得るのだ。



3  充全に人間を支配し切れない圧倒的な脆弱性



―― 映画に戻る。


ナチスドイツが作り出したあらゆる収容所内での権力関係は、当然の如く、上記の表に当て嵌めれば②に当る。

とりわけ絶滅収容所のケースは、②の極北とも考えられる。

これは、本作の中でも例外ではない。

強制収容所は「箱庭」であり、その酷薄な所長は「箱庭の帝王」である。

そしてそこで現出した残酷は、紛う方なく「箱庭の恐怖」であった。

その「箱庭の帝王」は、自らの「箱庭」の中で恣意的に権力を行使し、そこで行使した権力の快楽の虜となって「箱庭」という宇宙を地獄に変えてしまったのである。


映画の中で、メイドが理由もなく所長に殴られたので、メイドはその所長に恐る恐る問う。

「なぜ、私を殴るのですか?」
「なぜ殴るのか、と聞くからだ」

これだけの会話だ。

所長には、既に自らの暴走を抑える何かが決定的に欠けている。

彼は自らに与えられた権力を有効に行使する能力を失ってしまったか、或いは、元々それを保有していないかのいずれかに違いない。

このような男によって生贄にされた者たちの悲劇が作品に挿入されて、映像は最悪の権力関係の極相を炙り出す。

男の歪みは多分に時代の歪みの中で修復不能になり、もう権力関係以外の関係を、恐らく、他者との関係の中で構築できなくなっていた。

権力を制御できない者の歪みは、その者の自我の惨たらしい歪みとなって、あらゆる行動基準を済し崩しにしてしまうのである。

「階段を下りて行かれたんです。そして拳銃を抜き、撃ったんです。通りがかった女を。包みを抱えた女で、どこかへ行こうとしていた所を喉を一発・・・・別にその女は太っても痩せてもなく、歩き方も普通で、何が気に障ったのか・・・・つまり、所長さまの為さることには、何もかもルールがないのです。こうしていれば安全というものがないのです」

メイドの述懐の中で、男のイメージは、その異常さを増幅させていく。

時代と状況の歪みの中で、閉じ込められた男の歪みが噴き上げてしまって、誰もそれを止められないのだ。

こんな男が、相手を自由にできる権力を手に入れてしまったら、必ずや、相手の死体と出会うまで関係の負性に終りが来ないに違いないだろう。

然るに、男の異常さは、時代と状況の歪みに、その脆い自我を適応させ得る唯一の戦略であったようにも思えるのである。

状況に過剰に適応させることで自我の分裂と空洞化を防ぎ、残酷なる所業を読み替えていく。

男には、アイヒマンやルドルフ・ヘス(アウシュヴィッツ強制収容所所長)、或いはヤーゴダ、エジョフ、ベリヤ(注1)のように、対象とのパーソナルスペースへの配慮を一切反故にして、事務的に残酷を処理する国家官僚のある種の能力が足りないのである。

公務における残酷と普通の日常性を上手に共存させる能力において、男は決定的に足りなかった。

男は常に意志薄弱で、だらしのないミニ専制君主であって、不要なる記号を被せられた民族を冷徹なほど合理的に始末できてしまう官僚とは隔たっていたのである。


ミシェル・フーコー
ミシェル・フーコー(注2)の言うように(「監獄の誕生」新潮社刊)、18世紀以降の近代の流れが、人間の生命や健康、その誕生や死までも合理的に管理し、「規律と訓練」という政治スキルを根幹とするものであることを一歩譲って認めてもなお、それでも十全に人間を支配し切れないこの脆弱性は圧倒的である。

男にはそのレベルの管理能力すら不足するから、男のメイド支配のその放恣性が加速的に闇を広げていくと、人間を支配し切れない脆弱性は、結局、相手の人格の解体に向かうまでエンドレスに続くことになる。

他の優秀な官僚が寸時に仕上げてしまうことをいくらコピーしても、男は「愛の嵐」(注3)の将校のように、このメイド支配に限って、置き去りにされた情念をいつまでも自ら説明できないままでいる。

自我の裂傷を防ぐような大義や使命感、自己把握というものを持たない不幸は、多くの他者を巻き込んだ悲劇の発生源になるという、古くて新しいこのテーマの方にこそ、私にはこの陰湿な挿話の求心力があるように思えるのだ。



4  全く不要な、英雄活劇を際立たせるための悪魔の記号



しかし以上の重要な挿話は、この映画では、シンドラーのヒューマニズムの輝きを、より眩しいものにするために利用されているから、当然深い人間学的な掘り下げがない。

所長はどこまでも、「悪魔のドイツ人」の代表的な類型でしかないのだ。

作り手の意図するところでなかったかも知れないが、「神の如きドイツ人」としてのシンドラーの対極的な人格として作り出された、「悪魔のドイツ人」という分りやすい把握は、映画的感動を極大化していく仕掛けとしては一応成功した。

同時にそのことは、映画を善悪二元論で括っていくときの、広義な意味での娯楽活劇のラインに限りなく近づくものになったと言えるだろう。

しかし、シンドラーの真の敵は、そこには存在しないのだ。


普通の幸福な日常生活を送っていて、人格も人並みかそれ以上で、且つ、国家と民族のために我が身を削り、絶滅政策にも確信的に加担した優秀な実務型のナチ官僚 ―― 恐らく、ゴロゴロいたであろうこの手合の人物群こそ、ホロコーストの最前線を張っていたに違いなく、彼らこそシンドラーの当面の敵でなければならなかった。

使命感に溢れた所長を対峙させてこそ、ホロコーストの遣り切れなさが浮き上がってくるのだ。

人類が遂にこのような信じ難き地平を開いてしまったことに、私たちはもっと絶望してもいい。

ホロコーストの映像にカタルシスは必要ない。英雄は必要ない。活劇は必要ない。従って、英雄活劇を際立たせるための悪魔の記号は、全く必要ないのである。

要所でのシンドラーの活劇は、ラストの礼賛に収斂される映像の甘さが、観る者のカタルシス効果をたっぷりと誘(いざな)って、お馴染みのスーパーマン的展開の醍醐味によって、ハリウッドを満足させることに成功した。

この「シンドラーのリスト」は決して粗悪な映画ではないが、リーアム・ニーソンの「格好良さ」だけが際立つ映像になってしまった。

ホロコーストに、「格好良さ」は似合わないのである。

スティーブン・スピルバーグ監督
スティーブン・スピルバーグという過剰なる映像作家は、どうしてもハリウッドを抜け切れない映像作家であるようだ。


(注1)いずれもソ連、スターリン体制下の内務人民委員として、政敵の粛清の実行者となった者たちとして著名である。

(注2)20世紀のフランスを代表する哲学者の一人。「知の考古学」、「言葉と物」、「狂気の歴史」、「監獄の誕生」などの重要な著作によって、大きな影響を与える。

(注3)リリアーナ・カヴァーニ監督による、ナチス親衛隊(SS)とユダヤ人の女の禁断の愛を描いた問題作。イタリア・アメリカ合作。

(2007年4月)

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