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2008年10月30日木曜日

スタンド・バイ・ミー('86)        ロブ・ライナー


<お子様映画の悲惨と退廃>



1  何よりおぞましいドロドロのナルシズム



12,3歳頃、私は二つの別れを体験した。

一つは、江東区の亀戸に住むTという剽軽(ひょうきん)な親友との別れ。もう一つは、江戸川区小岩の自宅の近所に住む物静かな、兄とも慕う友との別れである。

彼らとの愉しい思い出があった分、その別れはとても辛く、哀しかった。

以来、彼らとは会う機会がなかったので、私の中で永遠の思い出になっている。

小栗康平監督が「泥の河」(注1)で描いた、少年期の友情と離別の哀感は、私には痛々しいくらいに伝わってくる。

敢えてこんな私事に言及したのは、少年期には誰でもこの程度の思い出くらいは持っているはずで、そこに郷愁の念はあっても、何か特別なナルシズムの対象になり得ないことを確認したかったからだ。

ところが、「スタンド・バイ・ミー」という映画の作り手は違うのだ。

「このとき(12歳)以上の友人を、一度も持ったことがない」などと、ラストで平然と言い放ってくれるのである。

たかが「死体を捜しに行く旅」に集約される、それなりに濃密であった時間を絶対化して、「邪悪なる大人たち」との果敢な戦いを誇らしげに語って見せる、そのドロドロのナルシズムが何よりおぞましいのだ。

単に、子供時代を懐古する映像の感傷譚なら我慢できるが、ここに登場する大人は悉(ことごと)く邪悪で陰湿で、加えて、そんな大人になりかかった不良グループまでもが、「子供という聖域を侵す敵対者」という把握によって括ってこられると、戯言として済ませなくなってくるのである。



2  全てを失った偏見の極み  



この「お子様映画」を貫流する独り善がりの善悪二元論(大人=悪⇔子供=善)と、そこに纏(まと)い付く気恥ずかしくなるような過剰な感傷に、正直吐き気すら覚えるからである。

いや実際、この映画の中で、大人も子供も入り乱れて、あろうことか、お互いの顔面に吐瀉し合っているのだ。

作家志望の主人公ゴーディ少年が、死体発見の徒歩旅行の地で自らの創作を披露するが、これは、そこでの劇中劇の一齣(こま)。

「悪意の妖怪」へのリベンジによって、全てを失ったお子様映画
要約すれば、地元の大人たちから「百貫デブ」と罵られた少年が、彼らにリベンジすべく、ひまし油をたっぷり飲んで、早食い競争に参加した挙句、吐き気を催し、大人の顔面にその汚物を吐き下すという下品な話である。

この下品な話の顛末の喰えなさは、子供の想像世界の膨張の果てに、「百貫デブ」を冷笑するためのコンクール会場が、やがてゲロ吐き空間になってしまうという愚劣さの中に集約されていると言っていい。

この品位に欠ける描写に込める作者の、抜きん出た「子供共和国」的発想の幼稚さに、殆ど言葉を失ってしまう。

この不快極まる映像を「名作」と評価する多くの大人たちは、そこに、自立に向かう子供たちの不安含みの息遣いを多いに感じとるのだろう。

然るに、「悪意の妖怪」と化した大人たちへのリベンジに集合する「無垢」の情念のどこに、自立への苦きステップが読み取れるというのか。

このゲロ吐きシーンを、くどいほど描写する偏見の極みによって、この映像は全てを失った、と私は考える。



3  感動を過剰に意識させた映画の様々な仕掛け



更に気になるのは、感動を過剰に意識させた映画の様々な仕掛けである。

美形の顔立ちの少年と、彼を取り巻く不遇な環境という、この種の映画に常套的に見られるベタな設定が、観る者の共感的理解の導入口として、まずそこにある。

そして少年の本来の性格は純粋無垢であるが、周囲の大人の無理解や悪意によって、今それが歪められている、などという類型的な負性環境論が物語の骨格を成す。

それ故、少年にとって、彼を囲繞する悪環境からの脱出が基幹的テーマとなり、同時に自立の具体的な検証になるという訳だ。

現実はそんな単純な文脈で収まるはずがないのに、昔ながらの定番的なイメージでラインを決めてしまうのである。

こういう人たちの人間理解は常に浅く、過剰なまでに理念的であるのは言うまでもない。

映画の主人公、ゴーディ少年のイメージラインも、以上の枠組みからそれ程逸脱したものではない。

一家の期待を一身に集めた兄の事故以来、少年の家族は求心力を失って、空洞化しつつある。

無気力な両親から自分は愛されていないという不安が、少年をして、「お前が代わりに死んでくれたらなぁ・・・」という父親の述懐を、悪夢の中で拾ってしまう描写を挿入させてくる。

いつしか私たちは、兄を喪って、家族の闇の中に孤立するゴーディ少年に感情移入させられていくのである。

その広がりを伝わって、同様に、家庭的に恵まれないクリスやテディの感情世界に、私たちは共感的理解をもって連帯する。

就中(なかんずく)、ゴーディとクリスという美形で、ピュアなイメージラインが奏でる物語の哀愁に、私たちの原点回帰の郷愁感が無防備に反応してしまうのである。

沼地の蛭にゴーディ少年のペニスが吸われて、一瞬崩れゆく初心(うぶ)な魂が、一転して不良を拳銃で撃退するという、「全身ハリウッド文法」に沿った、出来過ぎの挿話に象徴される、危うさの中の「健気な進軍譚」は、既に、たっぷりと感情移入させられている私たちの援軍の思いを掻き立てずにはおかないだろう。

その思いに付着するほろ酔い気分こそ、私たちに感動を仕掛けてきた作り手たちへのシンパシーを支える感情ラインを成す、と言っていい。

そこだけを特定的に切り取った、淡い酩酊感覚のエピソード記憶だけが、ある種の表現作品を「名作」のカテゴリーに留め置くのである。

いい大人が、自分の過去をここまで美化できるその厚顔さの内実は、結局、達者な創作力によって手に入れたその後の成功が、その固有の病理であるかのようなナルシズムを、殆ど全開させてしまった有体を示すものではなかったのか。

未だ思春期反抗の尖りの頂点を示す年齢にも達せず、当然世俗の垢で変色していない未成熟なる自我が、そこに泡立っていた。その中に蠢(うごめ)く同性志向の宇宙の懐の中にあって、そこでの関係爆発の目眩(めくるめ)く季節が開く、様々な刺激に充ちた情報だけが自我に張りついて、「恒久の友情神話」が其処彼処に立ち上げられるのだ。

「スタンド・バイ・ミー」の愚かさは、ロマンチックな男たちのその幻想を極端に描写することで、自分の過去の鋭敏な感受性が現在の作家的立場を作り上げた、と暗に誇示するそのドロドロのナルシズムに全く抑制が効いていない点にある。

感受性の豊穣さを露骨にセールスする映像と、自分が感動したものは万人も感動するものと決めてかかってくる映像ほど厭味なものはない。

子供を主役に立て、彼らに無垢(実は無知)なるが故の異議申し立てをさせる狡猾さは、全く技巧の勝利などではないのだ。

本作は、「お子様映画の悲惨と退廃」という把握が際立った作品だったと言うしかないだろう。

「ペレ」より
因みに、「ペレ」(ビレ・アウグスト監督)、「ボクと空と麦畑」(リン・ラムジー監督)、「さよなら子供たち」(ルイ・マル監督)、「秋立ちぬ」(成瀬巳喜男監督)などの作品が優れているのは、思春期以前の子供の内側の揺らぎや緊張が冷静に写し撮られていて、何よりも周囲の大人がそこにしっかり描けているからである。

それ以外ではない。




4  進軍の律動で押し寄せてくる、独り善がりの直截なメッセージ  



ロブ・ライナー監督 (ウイキ)

感傷だけの映像なら我慢できるのだが、そこに訳知りが顔の説教や、独り善がりの直截なメッセージが、進軍の律動で押し寄せてくるから厄介なものになるのだ。

「E・T」や「フック」というスピルバーグ流の「子供共和国」への違和感は、こんな娯楽も子供には必要だという配慮の倫理学で煙に捲かれたら、大抵文句の言う気力もなくなって、何となくどうでもいい空気の中に気化されて、雲散霧消するだろう。

どうしても馴染めないスピルバーグは、観なければいいだけの話なのである。

「スタンド・バイ・ミー」もその大袈裟な題名はともあれ、あのゲロ吐き場面さえなければ素通りしたはずの映画だったかも知れない。

この最も愚劣なシーンの中に、映画作家の大人一般に対する悪意にも似た意思を読み取って、私には笑って済ませなくなったのである。



5  呪っただけの人生の閉鎖系に有機的なストロークを放っていく努力



―― 映画批評から離れるが、最後に余稿として、本作と関連するテーマについて言及する。


「子供の非行は全て大人が作る」という一般に流布された把握に、相当の真実性があることを認めることは、だから共和国が無前提に立ち上げられて、大人はただそれをサポートするだけでいいという、幼稚な議論を認知することと決して同じではない。

問題の大人の全てが、問題の子供時代の延長線上にないのは、問題の子供が社会に入って、様々に再教育される多大な可能性を無視できなかったことを意味する。

大人の社会が劣悪さに溢れているのは、無垢を脱した大人たちが性悪さに流れたのではなく、敢えて言えば、人間の存在それ自身が劣悪さの可能性をも内包しているからである。

だからこそ、人間教育が普遍的価値を持つということだ。

ウィリアム・ゴールディング
「子供共和国」にも闇が浸透するさまは、既にゴールディングが、「蝿の王」(注2)で喝破した通りである。

それが必ずしも、時代の整合性を表すものばかりではないとは言え、主に「快か不快か」という行動原理で突き抜けていく子供が、「損か得か」という行動原理で世渡りする大人たちの社会が作った規範を学習し、内化していくのは、社会の基本的成立要件の一つである。

子供の不幸を認めることは、その不幸によって非行に走った子供の再教育を、大人社会の名で遂行することを認めることと決して矛盾しないのだ。

いつでもよりましな大人が、子供の再教育を引き受けるしかないのである。

大人だけが子供の自我に、決定的な形を与えてしまうのだ。再教育を必要とする子供が、よりましな大人と出会えるか否かは、もう運命でしかないだろう。

この理不尽な運命から自由であった人間は、かつて一人もいない。

だから、今更、それを論(あげつら)っても何の意味もないのである。

一個の生命が放たれたとき、そこには既に世界があった。

その生命が昇天したとき、そこにはまだ世界が残っている。

生命はその中で繋がれてきたのであり、これからも連綿と繋がっていくのである。

運命の残酷を呪うのもいい。

呪っただけの人生を、自ら閉じるのもいい。

秋立ちぬ」より
しかし大人社会は今後も、呪っただけの人生の閉鎖系に有機的なストロークを放っていく努力だけは怠るまい。

優れた芸術作品の効能の一つは、そんな所にあるのだろうか。


(注1)1981年製作。宮本輝の原作を映画化した作品。昭和30年代初期の大阪の河口を舞台に、「泥の河」の畔に立つ貧しい食堂の少年が、廓舟で生計を立てる家族の弟と知り合って友情を育て、やがて別れていくまでの哀切な物語。

(注2)20世紀の英国を代表する作家の一人である、ウィリアム・ゴールディングによる「蝿の王」は、1983年のノーベル文学賞を受賞した作品として有名。この作品の中で描かれた世界は、飛行機の墜落によって無人島に取り残された少年たちが、当初の規範性を失って、次第に殺し合いにまで突き進んでゆく不安と恐怖の闇であった。因みに、「スタンド・バイ・ミー」の原作者のスティーヴン・キングは、「蝿の王」から多大な影響を受けたとされるが、その原作が映像化された世界は、似て非なる愚作でしかなかったというのは皮肉である。                                

(2006年1月)

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