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2008年11月21日金曜日

黒い雨('89)   今村昌平


<「ピカで結ばれた運命共同体――「戦後」を手に入れられなかった苛酷なる状況性>



序  重厚な人間ドラマとしての風格



「この数年来、小畠(こばたけ)村の閑間重松(しずましげまつ)は姪の矢須(やす)子のことで心に負担を感じて来た。数年来でなくて、今後とも云い知れぬ負担を感じなければならないやうな気持ちであった。二重にも三重にも負い目を引受けてゐるやうなものである。

理 由は、矢須子の縁が遠いといふ簡単なやうな事情だが、戦争末期、矢須子は女子徴用で広島市の第二中学校奉仕隊の炊事部に勤務してゐたといふ噂を立てられ て、広島から四十何里東方の小畠村の人たちは、矢須子が原爆病患者だと云ってゐる。患者であることを重松夫婦が秘し隠してゐると云ってゐる。だから縁遠 い。近所へ縁談の聞き合わせに来る人も、この噂を聞いては一も二もなく逃げ腰になって話を切りあげてしまふ」(ルビ:筆者/以下同様)

以上の文章は、本作の原作者、井伏鱒二の「黒い雨」(新潮社刊)の冒頭の一文である。

原作は、「盗作」問題で一時(いっとき)文壇を騒がせた作品だが(後述)、その作品を映像化した本作は、今村昌平監督らしからぬ淡々とした筆致で描かれていた驚きも手伝ってか、その年の映画賞を独占した秀作として、今なお重厚な人間ドラマとしての風格を放っている。



1  白い閃光が激しく炸裂したとき



―― この2時間余りの、骨太の映像のストーリーを追っていこう。


どこまでも長閑(のどか)で、穏やかな瀬戸内の海に、小さな島々が浮かんでいる。

そこに、「黒い雨」というタイトルが映し出されていく。

昭和20年8月6日。晴れ上がった朝だった。

トラックの荷台に何人かの女性たちが乗っていて、一軒の屋敷の前で止まり、荷物を蔵に運び入れていく。

「昨 日、工場長に欠勤届を提出し、今朝はご近所の能島(のじま)さんのトラックで疎開の荷物を運ぶ。内容は叔母さんの夏冬の紋付、帯三本、冬着三枚。このう ち、曾婆さんの嫁入りの時に着ていたという黄八丈(きはちじょう・注1)。これは大事な品。叔父さんの冬のモーニング、紋付、私の夏冬の式服、帯三本、女 学校の卒業証書」

映像に合わせるように、本作の主人公である高丸矢須子のモノローグが追いかけていく。

「8月6日は、朝から暑い日だった。私は工場へ出勤するため、いつもの通り可部(かべ)線(注2)の横川(よこがわ)駅に急いだ」

閑間重松(右)と矢須子(中央)
このモノローグは、本作のもう一人の主人公である閑間重松の声。

彼は出勤途上にある小さな神社に軽く参拝して、その歩を足早に運んでいく。

時計の針が、8時13分30秒を刻んでいて、彼の足はホームに着いたばかりの電車に乗り入れていた。


(注1)八丈島特産の絹織物で、八丈島に自生する草木を染料とした、手織りによる純粋な草木染めで、絹糸を「黄」「樺」「黒」に染め上げていく。現在、国の伝統的工芸品と東京都の無形文化財にも指定されている。(都立八丈高等学校教諭のHP参照)

(注2)現在、JR西日本管轄の広島市の横川駅から可部駅までの路線。


一方、能島家では、広々とした座敷の中で、矢須子の義父が茶を点てようとしていた。

その瞬間だった。

一瞬、白い閃光が激しく炸裂するや、猛烈な爆風が静かな街を切り裂いた。

重松は乗客と共に、ホームの反対側の線路に押し飛ばされて、其処彼処で人々の悲鳴が劈(つんざ)いていく。

動かなくなった電車の下から、重松は自分の眼鏡を拾って、何とかその身体を這い出していった。

能島家の人々は異変を察知して、次々に庭に飛び出していく。

彼らは土塀越しに、大きなキノコ雲を恐々と眺めている。やがて、その雲が徐々に形を壊していき、空一杯に拡散していった。

見る見るうちに風景が変色し、黒々とした空が広がっていくのだ。

海には小さな小船が、黒い空の下で進んでいる。その中に矢須子もいた。

「こりゃいけん。こりゃ、よっぽどの新兵器じゃ」

船を漕ぐ能島の言葉を裏付けるように、その後、異様な現象が出来した。

大粒の黒い雨(注3)が突然降り始め、矢須子の白いブラウスを不気味な黒が染め上げていく。

そのとき、広島市内は炎に焦がれていて、殆ど倒壊した暗がりの家屋の中に、重松夫婦はいた。

「ラジオも駄目か。大手町から練兵場辺りまでえらい火の手じゃ。能島さんは漁師に顔がきくけえ、船で戻るじゃろ」

矢須子のことで心配する妻シゲ子に、重松は諭すように話した。

二人が防空頭巾を被って矢須子を迎えに出ようとして、玄関の戸を開けようとするが、簡単に開かない。

そこに姪の矢須子が入って来て、無事、叔父夫婦との対面を果たしたのである。



(注 3)原爆放射性降下物のことで、「フォールアウト」ともいう。広島市内の中枢部に降り注いだ黒い雨は、強い放射能を帯びていて、それを被浴した者は、後に 二次被爆者と呼ばれ、本作に於ける矢須子のように、脱毛現象や臀部にできた腫れ物などの症状を発現させ、やがて死亡に至る者が多くいた。



2  阿鼻叫喚の地獄絵図



広島市内の火災は収まる気配がなかった。

矢須子と叔父夫婦は火の手を避けて、工場のある場所に必死で避難していく。

三人と擦れ違った一人の少年は、兄を見つけて呼びかけるが、その兄は、殆ど本人と特定できないほど焼け爛れた身体の少年に答えた。

「お前は、誰なら?」
「僕じゃ、弟の僕じゃ」
「弟の僕じゃ分らん。名前を言うてみい?」

その兄弟の遣り取りを、矢須子たち三人は立ち止まって、呆然と見つめている。その弟をようやく特定できた兄は、思わずしゃがみ込み、弟を保護した。

「水じゃ、水をくれ」

今度は、両手を前に垂らした男が水を求めて、三人の前を通り過ぎていく。

辺り一面に死体が散乱していた。

そんな中で、崩れた塀に座り込んでいた一人の女が、既に焦げ死んだ赤子を抱いて、無意識に頭を撫でていた。

「叔父さん」と矢須子。
「見るな、見るな」

重松は矢須子の手を引いて、瓦礫の中を足早に通り過ぎていく。

「痛い、痛い!」
「広島はどこじゃ、広島はどこ行ったぁ!」

三人の耳に、人々の阿鼻叫喚(あびきょうかん)が聞こえてくる。

叫んだ男がビルの上から落下し、その恐怖で、三人は思わず眼を見合わせた。



3  被爆した者たちと、被爆から免れた村民たちとの微妙な温度差



―― 昭和25年5月。

広島県福山市にある古風な建物。藤田医院である。

叔父と矢須子が通う病院である。

「何の異常もない。誰にも文句は言わせんと、先生は言うとった」
「はい」
「これじゃ、健康診断書。どこから縁談が来ても、今度は上手くいくけの」
「はい。叔父さんは?」
「わしは相変わらずじゃ。無理せぇにゃぁ、どうちゅうこたぁない」

病院から出て来た重松と、姪である矢須子との会話である。

既に被爆してから5年が経過していた。

この会話から、原爆症の疑いを持たれた矢須子の縁談の不調に、大いに気を揉んでいる重松の心労が窺える。

矢須子と重松
25歳になった矢須子は、重松とシゲ子夫妻の家に引き取られ、重松の母キンと4人で、福山市小畠村で暮らしていたのである。

福山駅から列車に乗った二人は、路線バスであるボンネット・バス((注4))に乗り換えて、故郷の村である小畠村に帰って来た。

その際、バスが急停止する小さな出来事があった。

兵隊服を着た若者が放石して、バスの進行を妨害したのである。

若者の名は悠一(ゆういち)。

明らかに、「戦争神経症」(注5)を負っていて、バスの車両が近づいて来る機械音を聞くと、そのエンジン音で、「敵襲!」と叫ぶ若者の年中行事的な癖らしい。

その息子を女手一つで養う母タツは、岡崎屋という雑貨屋を営んでいるが、いつもそうであるように、この日も店を慌てて飛び出して来て、バスの運転手に頻りに謝っていた。



ボンネットバス(イメージ画像・ブログより
(注4)運転席より前方にあるフロント部分にエンジンを格納してあるため、フロント部分が大きく前に突き出してある旧式のバスのこと。現在、観光用の目的のため、日本各地で使用されている。

(注5)PTSD(心的外傷後ストレス障害)の一種で、帰還兵が日常生活に戻っても、戦場で受けた衝撃によって、フラッシュバックのような劇的な身体症状を現出させること。                


貯水池の土手で、三人の中年男が釣り糸を垂れていた。

重松と庄吉、好太郎の三人である。

原爆病に効くという鯉の養殖を始めていた三人は、保養を兼ねて釣りをする日々を過ごしていた

「ここの主に、大けな鯉が一匹おる言うがのう」と好太郎。
「その主が浮かんどるのを、わしゃぁ一遍だけ見たことがあるで」と庄吉。
「効きましたかの、鯉の生き血は?」と重松。
「ああ、お蔭さんで、何やら体が温(ぬく)うなっての」と好太郎。
「鯉の生き血もええが、白桃もええよ。食欲のにゃあときな」と庄吉。

そこに、籠を背負った池本屋の「おばはん」が通って、三人を皮肉った。

「この忙しいのに、結構なご身分ですなぁ」

この皮肉に、庄吉はストレートに反応した。

「見える残酷」の記憶の衝撃力①・栃木県立美術館・原爆の図より
 
「わしらは原爆病患者じゃけ、医者の勧めで釣りをしおる。わしは仕事がしたい。何ぼでもしたい。しかしなあ、わしらはきつい仕事をすると、この五体が自然に腐るんじゃ」

間髪入れず、「おばはん」も辛辣な言葉を返す。

「へぇ、そうなぁ。ほいじゃけぇど、あんたの言い方は、ピカドンにやられたんを、売り物にしようるんと違わんのやないか?」
「何を抜かすんなら。バカも休み休み言え。大体、わしが広島から逃げ帰った折、尊(たっと)い犠牲者じゃ言うて、ウソ泣きかどうか知らんが、おばはん、涙を零しようたが、あの涙はもう忘れたんか?」
「あれは終戦日よりも、前じゃったろ?戦争中は、誰でもそれぐらいのことは言うたもんじゃ。今になって逆恨みを言わんでくれ」

ここで庄吉は「おばはん」を睨みつけて、皮肉を返していく。

「何が逆恨みじゃ。お前はここの番を預かっとるんで、この池を我が池のように思うとるんじゃろ」
「何じゃて?」
「それは大けな、大間違いじゃ。この池の水路は組内(くみうち)の者なら、誰が釣っても文句のなあのを知らんのんか?」

更に、「結構なご身分じゃと言うたんよ」と「おばはん」に言われるや、庄吉は立ち上がって、感情を露にした。池本屋の「おばはん」は慌てて、足早に立ち去って行った。

彼女にしてみれば、農繁期の人手が足りないときに、釣竿を垂れる男たちの振る舞いが怠惰に見えるのである。

「おばはんは、広島や長崎が原爆されたことを忘れとる。もう皆が忘れとる。あの焦熱地獄を忘れて、何が原爆大会じゃ。この頃のお祭り騒ぎが、わしゃ、情けない」
「庄吉さん、滅多なことを口にするな・・・」

好太郎は静かな口調で、庄吉をたしなめた。

それは、不幸にも被爆した者たちと、被爆から免れた村民たちとの微妙な温度差を示す会話であった。



4  矢須子の縁談(1)



閑間家
閑間家の座敷。

そこで重松は、好太郎とシビアな会話を繋いでいた。

矢須子の縁談に奔走する重松は、被爆していないという証明のための健康診断書が、却って仇になったという話を好太郎から聞いて、沈痛な表情を浮かべた。

「矢須子は、わしやシゲ子と違うて、ピカには遭(お)うとらんのですけの。古江(注6)に行って、ピかにはやられとらんのですけの。わしが向こうさんに、直接会(お)うちゃいけんですか?」
「それがのう、もう一つの口を決めた言うて・・・本人は矢須子ちゃんにえろう御執心じゃったが、家の者が、嫁は器量より体言うて・・・行っても無駄足じゃ」
「そうですか」
「どうも済みませなんだ」
「誰か狙いをつけて、邪魔しよる奴でもおるんかのう?」
「そうかも知れんのう・・・あまり、気落さんと・・・」

そう言って、元気なく好太郎は帰って行った。

農作業に従事する村の女たちは、矢須子の三度目の縁談話が不調に終ったことを世間話の種にしていた。


古江駅(ウィキ)
(注6)広島市西区にある街。イエズス会を母体とする、私立の男子校である広島学院中学校・高等学校で有名。(「ウィキペディア」参照)


閑間家の矢須子の部屋で、彼女は叔母のシゲ子と抱き合って泣いている。

そこに重松が入って来て、矢須子に謝罪含みの言葉をかけた。

「よろしい。今度という今度はわしが悪かった。ほいじゃが、人の噂だけで業病扱いするとは何ちゅうことじゃろ?矢須子、お前、日記を見せてみい。8月6日からの分を見せんさい」
「あの頃のは、確かメモのままです」と矢須子。
「それでええ。その方が、現実感があってええ。寄越しんさい」
「どがいにするんです?」とシゲ子。
「清書するんじゃ。清書して向うに送りつけるんじゃ」
「もう、断ってきたいうのにから?」
「このまま引っ込んどられるか!この際、泣き寝入りはできまぁが」

重松の言葉は既に謝罪の思いを越えて、矢須子に対する周囲の偏見に対する怒りを結んでいた。

矢須子はそんな叔父の思いを汲み取って、静かに日記を手渡したのである。

その夜、シゲ子は矢須子の日記の清書を始めた。

清書の完成文を読んでいる重松は、清書の手を止めた妻に尋ねた。

「どうした?」
「黒い雨のところですけぇど、今じゃ、毒素があったこと、皆知っとりますけぇ、先方がやっぱし言うて、言いやしませんか?」
「ちょっと聞かせてみい」

夫の要請に反応して、シゲ子はその部分を読んでいく。

「“雷鳴を轟(とどろ)かせる黒い雲が市街の方から押し寄せて、降ってくるのは万年筆ぐらい太さの雨であった。真夏だというのに、ゾクゾクするほど寒かった・・・”」
「いや、そのまま清書して出すんじゃ。黒い雨は黒い雨。ピカを直接受けなんだいう証明が大事なんじゃ・・・矢須子を娘分として預かっとる以上、必ず嫁にやらにゃ、あれの親に合わせる顔がなゃあ」

そこまで言った後、重松は箪笥(たんす)の引き出しからノートを取り出した。

「わしも、自分の被爆日記を清書することにする。

矢須子の日記に付けて、わしら一家三人の足取りをしっかと記録するんじゃ」

重松は自分の日記を黙読していた。



5  竹薮の中で拾った悲惨



ーー 映像は、ファーストシーンの被爆直後の三人を追いかけていく。


炎の中に焼け爛れた死体が散乱し、その惨状の中を三人は歩いていく。

「こ んな熱気の中に妻と姪を連れ込んだのは、無謀かも知れなかった。しかし私の勤務先の工場へ行く外に何の当てもなく、そのためには市中横断も余儀なき次第で あった・・・あの一瞬の光線で、馬も人間もやられたが、水中にまでは及ばなかったと見える」(重松の日記のモノローグ)

映像は、工場を目指して彷徨(さまよ)っているかのような三人が、竹薮の中で一人の中年男に出会って、彼の凄惨な話を聞く場面を映し出していく。

「家 が倒れて、女房は即死じゃぁ思いますが、倅が木材に足挟まれましてなぁ、どがいにも持ち上げても持ち上がらんのです。その内に火は回ってくる。とうとう私 は『もう駄目じゃ、堪(こら)えてくれ』と言うて、逃げました。『父ちゃん、助けて!助けて!』・・・」(中年男の話)

その後、三人は這う這う(ほうほう)の体で、工場の事務所に到着した。

「古市の工場では、工場長や職員が僕らの到着を祝して、応接室で迎えて下さった。止め処なく涙が溢れた。無闇に溢れ出るのであった」(重松の日記のモノローグ)

その後、重松は工場長の命令で、自分が僧侶の代わりにお経を読むことを命じられ、近くの山寺の老僧からお経を聞いて、それをノートに書き取ったのである。

映像は、工場長の川原で荼毘(だび)に伏す炎の中で、俄か覚えの経を読む重松の言葉を映し出した。

川の中では、女たちが裸で水に浸かっている。被爆の痕を留める着衣を洗い、それを乾かしていたのである。

玉音盤(イメージ画像・ウィキ)
「キラキラと光りながら水は流れていた。小さな魚が遡っていく。8月15日正午、私の記憶はこれだけである」(重松の日記のモノローグ)

それが、玉音放送を聴く村人たちに、この国の永きに及ぶ戦争の終焉の瞬間を伝える、唯一の描写となった。



6  矢須子の縁談(2)



この日もまた、岡崎屋の悠一による「特攻騒動」があった。

しかし今度は、そこに居合わせた片山の聡明な知恵によって、本人を上手に宥(なだ)めるように納屋の中に押し込めて、一件落着した。

行商人の片山は、池本屋の「おばはん」の愛人でもある。

そこに居合わせた者たちの中に重松もいて、村道を通る路線バスの中の好太郎と遭遇した。

好太郎は、矢須子の新しい縁談の相手を連れて来たのである。

右から青乃と好太郎
その名は青乃。府中の美容院の甥であるということ。

「好太郎さん、こりゃぁ一種のお見合いですかの」とシゲ子。
「そういうことになるかのう」と好太郎。

そのとき、青乃がシゲ子に向かって頭を下げ、自分の思いを言葉に結んだ。

「交際さして下さい。お願いします」

矢須子は、青乃に反応して頭を下げる叔母を、恥ずかしそうに一瞥するばかり。

その晩、重松夫婦は、降って湧いた矢須子の縁談を良縁と考えて、お互いの共通する思いを確認しあっていた。

まもなく矢須子と青乃の交際が始まったが、矢須子は自分の秘密を相手に語ろうとするが、踏み切れなかった。

彼女はバスに乗る青乃を見送った直後、片山が突然、岡崎屋に水を求めて倒れ込んで来て、そのまま息を引き取ってしまったのである。

その直後に、片山の葬儀の描写が映し出されて、墓地に向かう道で、重松が放った言葉が印象付けられた。

「ピカに直接当った者より、先に死ぬなんてのう」
「叶わんのう、全く」と庄吉。

"黒い雨"の降った地域・ブログより


片山の死は直接被爆ではなく、二次被爆の犠牲者だったのである。

その片山の死を受けて、意を決した矢須子は、青乃に自分が二次被爆者であることを告白したが、愛情を優先する彼は殆ど取り合わなかった。

そのときの、二人の会話。

「私たち一家三人も、6日、一日中広島の町を逃げ歩いて・・・叔父にははっきり原爆症が出ておるんです」
「もう前に聞いた」
「ご両親にも話して下さったですか?」
「あんたも叔母さんも、何事もない言うたら、父は、女は強うけの言うて、笑っとった。大丈夫じゃ」

この矢須子の告白がある前に、既に青乃の母親は、矢須子の病態を近所で聞き回っていたのである。

そのことを知った重松の家では、好太郎に相談した結果、青乃本人の気持ちを聞きに行ってもらうことになった。

その場に居合わせた矢須子は、晒し者のような屈辱感に耐え切れなかったのか、皆の前で自分の意志を、そこだけはキッパリと意思表示したのである。

「もう、ええんです。私、もう嫁にゃぁ行きませんけぇ・・・いずれ知れることじゃし。黒い雨にも毒があったということじゃし・・・色々、ありがとうございました」

好太郎の前で頭を下げる矢須子。その態度に胸が打たれて、好太郎は泣きながら謝罪した。

「私の力が足りんばかりに、皆に夢を見させてしもうた。許してくれ。悪う思わんでくれ!」

好太郎はそのまま、重松の家を後にした。

矢須子は、今度は叔父夫婦に向かって、自分の本当の思いを言葉に結んでいく。

「叔父さん、叔母さん・・・私、このままずっと叔父さんと叔母さんと一緒に暮らしたいんです。叔父さんにはもう症状が出おるし、叔母さんじゃ言うて、いつ叔父さんみたいになるか分らんし・・・それなのに私は一人、よその家に行きとうない!」
「私は大丈夫じゃけ、叔父さんの体のことなら心配せんでもええんよ」とシゲ子。
「そうじゃ、叔母さんの言う通りじゃ。わしらはわしら、矢須子は矢須子。お前にちゃんとした嫁さんになってもらわにゃ、わしらはお前の里に・・・」

そこに、祖母のキンの突拍子もない言葉が挟まれた。

「そうじゃ、お前に嫁に行かれたら、わたしゃ、ご先祖様に顔向けならなんのじゃ」

既に、自分の死んだ娘と、その娘が生んだ孫娘の区別もつかなくなっていた祖母の言葉で、その夜の深刻な話は閉じていった。

矢須子の縁談が不調に終るのに不安を感じたシゲ子は、拝み屋に来てもらって、矢須子の死んだ母の霊を招こうとするが、夫の重松には一蹴されるばかり。

それでも不安を拭えないシゲ子は、矢須子の実父である高丸家を訪ね、義姉の墓参を促した。

結局、重松と矢須子の二人が、矢須子の実家を訪れることになったのである。



7   ピカで結ばれた運命共同体   



矢須子の実家。

矢須子の実父である高丸は、矢須子を引き取ろうと申し出るが、矢須子は皆の前で、叔父夫婦と共に生活する意志を伝えたのである。

そのときの、重松の言葉が印象深く刻まれた。

「今となっては、わしら夫婦と矢須子の三人は、ピカで結ばれた運命共同体なんじゃ」


その夜、高丸から重松と矢須子は、祖母の世話をするために、閑間家に残っていたシゲ子が倒れたと知らされ、翌朝、二人は小畠に急いで帰った。閑間家で、シゲ子は床に伏していた。

「私はもう、何でもないんよ」

そう言って、矢須子が連れて来た医者を返す元気さを、シゲ子は誇示した。

一方、閑間家の庭で、岡崎屋の悠一が地蔵を担いで運んでいる。そこに矢須子が顔を出して、問いかけた。

「どうしたん?」
「わし、彫ったんじゃ。ここへ置いたらええ」
「ようできとる。大分、腕が上がったね」
「ああ、これ一杯あるんじゃ。あんたに見てもらおうと思うての」

そう言って悠一は、矢須子を岡崎屋の納屋に誘った。

そこには、それぞれに個性的な表情を持つ、多くの地蔵が並んでいる。

「素晴らしいわ。個性的で・・・」
「うん。これ皆、あんたにやるけぇ」
「ええんよ。もう頂いたんじゃけぇ」

悠一のピュアな優しさに癒される矢須子が、そこにいた。

そのとき、表でオートバイの音が聞こえてきた。

例によって、悠一は直ちに座布団を取って、表に飛び出そうとする。

それより逸早く、矢須子が行動した。

矢須子は表に飛び出して、オートバイを走らせて来る青年の前に立ち塞がって、懸命にエンジンを切るように促した。

しかし、矢須子が相手に説明するまもなく、棒切れを持った悠一が飛び出して来て、そこでいつもの「特攻騒動」を展開することになった。

意味の分らぬ行動に青年は激昂して、悠一を蹴り飛ばした。

それだけの出来事だったが、必死に悠一を庇う矢須子の献身的な行動が、自然な感情の流れの中に描き出されていた。

降り頻る雨の中、重松は庄吉を見舞っていた。

「庄吉っつあん、どうした?」
「ああ、重さん・・・とうとうピカ来よったわい・・・このザマじゃ眼がいっこうに見えん」

病に伏して、元気ない庄吉は、改まって重松に話しかける。

「重さんよ」
「え?」
「わし、前から不思議でならんのじゃが・・・アメリカは何で原爆落としよったんじゃろ。放っといても、日本の負けは決まっとるのに」
「何でかのう。戦争を早う終らせるためじゃった、言うとるがのう」
「ほなら何で、東京をやらんかったんじゃろう、何で、広島なんじゃろか?」
「よう分らんの」
「・・・ようか分らんじゃ、死に切れんのう・・・このまま死ぬるんは叶わんで、重さんよう」

会話の内容が重苦しいまでにシビアなテーマに触れても、明快な解答を持ち得ない二人が、そこにいた。

徐々に精神を病んでいくシゲ子①
如何にも暗欝なモノトーンの雨の中、重い足取りで帰宅した重松は、医師に血圧を測ってもらっているシゲ子を見ていた。

医師を玄関で送った重松は、妻の様態を問い質すが、明らかに原爆症を疑う医師は、最低限のアドバイスを与えるばかり。

「とにかく無理はいけん。広島におった者にゃ、無理はきかんですけの」

そんな医師に、重松は矢須子と自分の日記の清書を渡して、少なくとも、黒い雨に当った矢須子には、特別の症状が出ていないことを知ってもらおうとしたのだ。

「姪の縁談」に固執する重松は、健康証明書をもう一通作ってもらうつもりなのである。

一方、雨の中の岡崎屋の作業場に、矢須子と悠一が静かに話し込んでいた。

「私ら三人、そうとは知らないもんじゃけ、放射線で一杯の広島の町を歩き回ったんです。ほいじゃけに、いつピカ病が出ても不思議じゃないんよ・・・叔父さんは軽く出て、もう3年目。叔母さんがこの2、3日、少し具合が悪うて」
「大変じゃのう」
「うちも、いつピカが出るか知れんのんよ」
「あんたは大丈夫じゃ。元気そうじゃ」
「悠さんはどうしたん?普段は何でもないのに。トラックやバスがそがいに怖いん?」
「分らん。エンジンの音が聞こえると、頭が割れよるんじゃ。アメリカ兵の戦車が一杯来よるんじゃ。物凄い音立て来よる。木を倒して、戦友踏んで潰して・・・逃げて、逃げて、逃げ回る。サーチライトで眼が見えん」

自らの体験談を語っていく悠一の頭の中で、戦場の記憶がフラッシュバックのように甦り、作業場の中を一人逃げ回っている。

「岡崎、突っ込め!」という声が地蔵の口から放たれて、いつもの臨戦態勢の中に潜り込む男がそこにいた。

「何もかも分らん。自分がどこにあるのかも分らん」

そんな悠一のトラウマの呻きを、矢須子は静かに聞くばかりだった。

最も恐れていた事態が、同時期に出来した。

重松の最も親しくしていた二人の友が、原爆症で急逝したのである。庄吉と好太郎の二人である。

「二人の友人を一月の間に喪い、さすがに私も気落ちした。この村に3人いた二次被爆者は、皆死んだわけだ。直接被爆した私たちが生き残っているのは、不思議というべきである」

二人の友の野辺送りのラインの中で、重松は沈痛な思いを独白していった。

徐々に精神を病んでいくシゲ子②
数日後、閑間家ではシゲ子の様態が悪化していた。

「嫌じゃ、嫌じゃ、片山さんが、庄吉っつぁんが・・・ピカが来よる」

シゲ子は既に野辺送りにされた者たちの幻影に、激しく怯えていた。

「お姉さん、済みません。わたしゃ、とうとう子供も産めませなんだ。堪忍してつかあさい」
「もうええ、シゲ」と重松。
「嫌じゃ」

重松は、激しく動揺する妻の頬を打った。


そこで自分を取り戻したシゲ子に、重松は優しく言葉を添えた。

「疲れじゃ。疲れが出たんじゃ」
「そうじゃった。庄吉っつぁんと好太郎さんが、死になさったんじゃった」
「もうええ、もうええ。もう今は何も考えずに、眠りほれ、シゲ」

重松はシゲ子を包み込むようにして、布団の中に戻してやった。

「矢っちゃん。ほんまに、このままじゃ、あんたのお母さんに合わせる顔なぁけど、我慢してねぇ」
「叔母さん、平気、平気。私はこのままでええんよ」

矢須子はそう言って、シゲ子の髪の乱れを整えてあげたのである。

まもなく、悠一の母が閑間家を訪ねて来た。

なかなか言い出しづらそうな、その母の重い口から、矢須子を自分の息子の嫁に欲しいという言葉が放たれて、重松は思わず本音で反応した。

「矢須子がピカに遭(お)うとるけ、なかなか縁遠い。それでそういうこと考えたんかの」

その話を奥の間で聞いていた矢須子がそこに入ってきて、彼女もまた本音を口にしたのである。

「うち、悠一さんと話しよると、とても気持ちが落ち着くんです・・・あの人と二人でおると、ピカのことでも何でも、気安う話せるんです・・・うちは、悠一さんを尊敬しとりますけぇ」

そう言って、矢須子は表へ出て行った。

アロエを口の中に噛み締めている矢須子
その夜、矢須子は密かに庭に出て、アロエを切って、それを刻んでゆっくりと口の中に噛み締めていた。

彼女は自分の尻にできたオデキが気になっていて、原爆症を疑い出していたのである。

矢須子は翌朝、悠一と共に診療所を訪ねていた。

それを知った重松夫妻は、改めて、矢須子の心の闇の世界を見せ付けられることになったのである。

叔父夫婦とその姪が、それぞれの心の中で最も恐れていた事態が、遂に形になって現れてしまったのだ。

夕刻のこと。

風呂に入っている矢須子のために、シゲ子が薪を焼(く)べている。

戸外からシゲ子が、「オデキは気にせんで、ゆっくり浸かっとってええんよ」と優しく言葉をかけ、「はい」と答える矢須子。

そこには、慈母と孝行娘のような柔和な関係が、なお継続されている。

しかし、その後のシゲ子の問いに、全く反応しない姪の態度が気になって、叔母は風呂場の窓をそっと開けて、中を覗いてみた。

シゲ子がそこで見たものは、両手に絡んだ脱毛した大量の黒髪を、呆然と見つめる姪の姿だった。

愕然として言葉を失う叔母と、黒髪を見つめて薄ら笑いを浮かべる姪の構図は、あまりに衝撃的であり過ぎた。

喘ぐようにその身を引き摺って、シゲ子は夫のいる部屋に入っていこうとした。

「どうしたん?」

血相を変えた妻の表情に、夫は不安を察知した。

「髪の毛が・・・皆、抜けよる・・・」


その一言を発したシゲ子は、その場で卒倒してしまったのである。

仏壇にシゲ子の写真が飾られていた。

「一月後、シゲ子が死んだ。酷い苦しみの中で、最後まで矢須子の結婚のことを口走っていたのが哀れであった。矢須子の病気は小康を保っているが、安心はできない」(重松のモノローグ)。

昭和25年、11月30日だった。

葬儀の夜も、矢須子は布団の中で休んでいた。

姪の寝所に入ってきた重松が、「大分、ええです」と答える矢須子にかける言葉は、殆どそれ以外にない表現に結ばれた。

「ほなら、いつでも嫁に行けるの・・・気力の問題じゃ。全て病気はの」

姪の寝所から出た重松は、矢須子の身の周りの世話をする、悠一の母タツから、姪の現実を聞き知った。

「我慢強い人じゃけぇ、何も言われませんけど、このところ一睡もしとってないようで・・・もの凄い痛みのようですけの・・・体全体がでさ、薬も吐き出しなさるし。旦那さ、やっぱりもう一遍、入院した方がええ思いますがのぅ」

重松はその進言を、険しい表情で受け止めるしかなかった。



8   色鮮やかな五彩の虹が出るとき   



翌朝、多くの養殖の稚魚を放っていた大池に、釣り糸を垂れる重松と、病の床から抜けてきた矢須子がいる。

「・・・婆さんが死んだら家と山を売って、お前の持参金にしんさい」
「何を言うてんですか」と矢須子。

そのとき、大池の中の一匹の鯉が、勢いよく水飛沫(みずしぶき)を上げて飛び上がった。

「ここの主じゃ。わしゃ、初めて見たわ」

野ゴイ(イメージ画像・ウィキ)
矢須子はまじまじと、大池の水面を見つめている。

「あ、見えた。大けな鯉!1メートルくらいの。叔父さん!1メートル以上あります。いえ、もっと大きい!わぁ!こっち、こっち!元気に跳ねよります!大けな口開けて、突撃!突っ込めぇー!」

三度目の大きな鯉の跳躍に、矢須子は羽織っていた半纏(はんてん)を手に取り、それを勢いよく振り回し、一人で絶頂感に浸っていた。

巨鯉の鮮烈な躍動に、思いを合わせる女の意志もまた、その瞬間だけは、病の記憶から解き放たれた、一つの鮮明な身体の苛烈な疾駆を刻んでいた。

矢須子を伴って、大池から戻って来た重松は、朝7時のニュースをラジオで聞いていた。

「“ア メリカのトルーマン大統領は、『朝鮮の新たな危機に対処するため、必要とあらば、中共軍に対し原子爆弾を使用することも考慮中である』と言明しました。勿 論、『原子爆弾は使用されないように希望しているが、最終的に原子爆弾を使うかどうかは、現地司令官の決定一つにかかっている』など14条からなる声明文 を発表しました」

その放送を聞き終わったときの、重松の独り言。

「人間いう奴は性懲りもないものじゃ。我が手で我が首をしめよる。正義の戦争より、不正義の平和の方がましじゃいうことが、何で分らんかのう」

そのとき、悠一の母が慌てるようにして食卓に飛び込んで来た。

あってはならない現実を、重松に告げたのである。

「旦那さん、矢須子さんが・・・旦那さん!」

重松は慌てて、台所を飛び出した。

矢須子を抱いた悠一
まもなく救急車がやって来て、矢須子を抱いた悠一が必死に車まで運んでいく。

「大丈夫じゃ、きっと治る・・・大丈夫じゃ・・・大丈夫じゃ」

救急車の中で、悠一は同じ言葉をかけ続ける。

殆ど意識を失った矢須子は、その言葉に小さく反応して、悠一の手を握り締めた。

「今、もし、向うの山に虹が出たら奇跡が起る。不吉の前兆である白い虹ではない、色鮮やかな五彩の虹が出たら矢須子の病気が治るのだ」

救急車を送った後、その場に立ち尽くす重松は、いつまでも遠くの山に向かって、祈るような思いを心の中で確かめていた。

そのモノローグがラストシーンとなって、重苦しくも、そこに一縷(いちる)の希望を託すかのような映像が括られていった。              


(シナリオ作家協会偏「'89年鑑代表シナリオ集」映人社刊 参照) 


*         *         *         *



9  「黒い雨」に纏わる心地悪き「文化的背景」



一つの小さな、町役場のホームページから紹介していく。

「主人公『閑間重松』は、重松さんがモデルになっています。小畠には代官所があり(現在の役場があるところ)、たくさんの古文書が残されていました。井伏氏は、この古文書をもとに作品を書いたこともあり、三和町に関係する小説は、『黒い雨』以外にもたくさんあります。

井 伏氏はそんなことから知り合いになった重松さんと一緒に釣り宿に泊まったとき、原爆を受けた姪の話になり、自分の記録もあるからというので、後に『黒い 雨』と改題される、『姪の結婚』を書くことになりました。重松さんの被爆日記や、広島や小畠の人々の体験談などをもとに、昭和四〇年一月、井伏氏は、『新 潮』に『姪の結婚』の連載をはじめ、八月に『黒い雨』に改題。翌年九月に作品は完成しました」(広島県神石郡神石高原町 小畠神石高原町役場HP)


井伏鱒二
以上の一文をここで敢えて紹介せずとも、映像の原作となった井伏鱒二(1898~1993)の「黒い雨」という著 名な作品(1966年、『黒い雨』で第19回野間文芸賞、同年、文化勲章も受章)には、身近にモデルが存在し、そのモデルとなった重松静馬(1980年逝 去)との重厚な脈絡性があったことは周知の事実である。

しかし受賞後、「黒い雨」の盗作説(「重松日記」からの、殆ど全文引用の箇所もある)が文壇に大きな波紋を呼び、井伏自身も、「生前最後の全集と予測された『井伏鱒二自選全集(全13巻)』(新潮社、昭和60~61年)に入れたくない、と洩らした。

『黒い雨』を収録した自選全集第六巻の「覚え書」に消極的気配が漂っている」(「『重松日記』出版を歓迎する――『黒い雨』と井伏鱒二の深層」猪瀬直樹『文学界』2001年8月号)という態度で終始していたらしい。

また豊田清史に至っては、「『黒い雨』と『重松日記』」(風媒社刊)で、小説と日記の酷似性を告発し、それを比較検討した評論を一冊の著書として上梓した。

その中で、「『黒い雨』は凄惨さと同時に、それよりもしみじみと人生永遠の哀愁の篭った、戦争文学の傑作である」と絶賛した河上徹太郎を批判して、異議を唱えている。

「・・・第一にこの作品には、日記や資料が生のままで余りに多く使われていること。第二に小説ならずともストーリーが確かでないこと、第三に気分的で原爆の深刻な事実が良く描かれているとは思えないからである」(同著より)

更に辛辣に、豊田は同著を上梓した理由を書いている。

「・・・ 『黒い雨』は小説としては、肝心なストーリーが支離滅裂であっていただきかねる。また井伏自身が、“これはドキュメントである”と敢て言明されたことで、 作品は更に問題が生じ、コンポジション(小説などの構成のこと・筆者注)だけでなく、作品の人名、地名、日時にいたるまでさまざまなことが嘘、誤記となっ て、一つ一つこれをも解明する必要がうまれてきたのである」

明らかに井伏の作品を盗作と決めつけて、それを酷評する文章になっている。

だからと言って、井伏鱒二の同作を「盗作本」の「ドキュメンタリー」と決め付けた上で、その文学的貧困さについて指弾するのは酷なような気がする。

被爆体験の全くなかった井伏が、このような生々しい現実を創作的に表現していくのは当然限界があったし、その資料として「重松日記」(注7)に依拠せざるを得なかった事情も察して余りある。


(注7)因みに、「重松日記」の概要を豊田清史が書いているので、その一文を以下に紹介する。

「重 松が広島の原爆で被災したのは四十二歳で、妻のしげ子は三十二歳、姪の安子(矢須子)は二十歳で、重松は当時、広島市郊外の古市町にあった日本繊維株式会 社広島工場に勤め、経理、調達係をしていた。そして八月六日朝出勤途中、横川電車駅で閃光を浴びた。自らその修羅の体験(八月六日から十三日まで八日間) を記録に綴ったのが『重松日記』である・・・」(「『黒い雨』と『重松日記』」(風媒社刊))


これに対し、2001年にようやく陽の目をみることになった「重松日記」(重松静馬著 筑摩書房刊)の中で、当人の日記と共に掲載された「重松静馬宛井伏鱒二書簡」、及び「解説」(相馬正一記)からは、「盗作」と断定するには困難な、全く別の印象がもたらされるのである。

その著書の解説に於いて、「黒い雨」上梓の経緯が明らかにされている。

ま ず「黒い雨」は、元々、小畠村を題材にした小説を書いていた井伏と、釣り仲間として知り合いだった重松が、自らの被爆体験を後世に残すべきだとの思いで加 筆した被爆日誌を、井伏に送ったことから始まっている。(重松の被爆日誌は、あくまでも「子孫のために」書かれたものであった)

その原稿を読了した井伏は、一旦は、「実際に体験していない空前絶後の大惨事なのでこの記録を使って創作することが億劫」になったとして、「宝の持ちぐされ」となってしまうことを憂慮し、当該原稿を返そうとしたというのだ。

それに対して重松は、「返すに及ばないから手元に置いて御随意に利用して構わないこと、調査することがあれば遠慮なく申し付けて欲しい旨」を伝え、その後、井伏が福山市や広島市を何度か訪れ、文字通り重松の協力を得て、執筆が進められることになったのである。

そして『新潮』連載の最終稿を書き上げた直後、単行本として上梓するに当り、事実に誤りがあるといけないので、井伏は重松に依頼して福山の旅館で落ち合い、二人で読み合わせをした。昭和41年の8月のことである。

苦 労の末その作業が完了し、井伏は重松に対し、「これを二人の共著にしたいと思う」と申し入れるが、重松は「そんなことをすれば、先生のお名前に瑕がつきま す。私は資料提供者として充分報われていますから・・・」と固辞したという話を、重松家の当主から伺ったと言うのである。

周知のように、「黒い雨」は、その年の第19回野間文芸賞に選ばれた。その受賞の贈呈式の挨拶で、井伏がスピーチした内容は以下の通り。

「あ の作品は世間の噂とか、新聞に出たこととか、それから人から借りた手記、日記、患者から聞きました録音、書物にあたったこまごましたものを集めましてアレ ンジしたものですから、純粋の意味で小説とはいえないでしょう。・・・・井伏鱒二編著とすればよいもので、賞をいただくのは気がひけます。手放しで喜べな いところがあります。云々」(前掲書より)

「黒い雨」の主人公重松静馬さんの生家
これを読む限り、「重松日記」の存在について具体的に語られていないのは事実。その事実のみを取り上げると、井伏が故意に言及を避け、誤魔化しているかのようにも読み取れてしまうであろう。

しかし、実際の「黒い雨」成立の経緯をフォローしていく限り、重松、井伏の双方に、「盗作」の意識があったとは到底考えられないのである。

「重 松は自分の悲願を叶えてくれた井伏を生涯尊敬し、井伏の了解を得て『黒い雨』の単行本に〈重松静馬〉と署名して友人知己に贈ることを無常の愉しみしていた という(重松文宏氏談)」と書簡の注釈にあるように、重松自身は、「黒い雨」の上梓に充分満足していたのではないだろうか。そう思うのだ。

いずれにせよ、その辺の事情は、当人同士の人間関係や、既に文人として名を成した、井伏の権威を配慮する周囲の複雑な事情も絡み合っていると考えられるので、私としては、これ以上の憶測による推論は避けたいと思う。


―― 以上、「黒い雨」に纏(まつ)わる心地悪き「文化的背景」についての言及が不可避と考えたので、ここに、そのアウトラインを要約した次第である。

唯、 この曰くつきの原作が映像化されるに及んで、そこに一級の人間ドラマとしての抜きん出た秀作に結実したとき、既にそれらの、存分に世俗的で複雑な事情の絡 んだ原作とは切れた、総合芸術である映像作品としての固有の輝きを持ち得たこと、それだけが私にとって緊要なものだった。



10  「反戦映画」のプロパガンダ性を超えて



以下、本作の評論に入っていきたい。


「反戦映画」と呼ばれるジャンルの作品があるとすれば、紛れもなく本作は、そのカテゴリーの中に含まれるだろう。

或いは、もっと狭義に、「反核映画」なる作品のカテゴリーの内にも本作は含まれるかも知れない。

然 るに、そのような類の作品の多くが多分に目的的で、一種のプロパガンダ性を持つ映画であるか、仮にそうでなくても、不必要なまでの情緒過多な音楽を目晦 (めくら)ましにして、そこに実感性の乏しい、如何にも作りもの的な物語の空疎さを曝け出してしまってきたことは、殆ど否めないと思われる。

情緒過多な音楽や、虚構の極め付けのような感動譚の脆弱な被膜を剥いでしまうと、そこに残されるのは空疎な会話表現のみという、理念系の暴走の凄惨な世界でしかない。

だからこの類の映画の多くは、観る者の心の奥深くまで届き得る作品として、いつの時代にも耐えられるレベルの、固有の傑出した表現世界を構築し得ないのだ。

しかし、「黒い雨」は違っていた。

この映画は、「反戦映画の傑作」という、陳腐でフラットな、歯の浮くような評価を遥かに超えて、重量感溢れる秀逸な人間ドラマの完成度の高みにまで達していたのである。

それは言ってみれば、秀逸な人間ドラマの内に、反戦ドラマの程よい次元の理念系が、見事に昇華した作品だった。


本作を要約すれば、「戦後を迎えたはずの一つの小さな村にあって、なお戦争の黒々とした幻影を引き摺って止まない者たちの、それ以外に依拠するものがない、自己防衛的な共同体が絶対的に内包する大いなる不安と、そこに僅かに残された希望への脱出の可能性」についての映像的問題提起であったと言えようか。

それをもっと限定的に表現すれば、「『ピカで結ばれた運命共同体』(重松の言葉)が内包した不安と、苛酷なる状況下での希望への脱出の可能性」をテーマにした作品であったと把握できるだろう。

そんな問題意識によって、私は本稿のタイトルを、「『ピカで結ばれた運命共同体』――『戦後』を手に入れられなかった苛酷なる状況性」とした次第である。


以下、そのテーマに沿って言及していく。



11  「ピカで結ばれた運命共同体」――「戦後」を手に入れられなかった苛酷なる状況性



「ピ カで結ばれた運命共同体」とは、重松夫妻と矢須子の三人が、それぞれの自我に共有した絶望的なまでに負性なる記憶、即ち、時間の自然な推移の中で封印させ ることすら困難な二次被爆の体験を、それが本来的に抱えた原爆症の発症の、その圧倒的な不安と恐怖の中で、それらを少しでも一縷(いちる)の希望に繋ぐ物 語の構築に昇華させる時間として、「共依存」的に分有化するための固有なる共同体である。

それはまさに、彼らの自我の生存戦略に関わる最も切実なる共同体であった。

そしてその共同体のルーツこそは、「8.6」という、この国の歴史の中でも、特段に尖った一日の内にあったのだ。

彼らはその日、自分たちの呼吸を繋ぐ、広々として限りなく平坦な一つの町で、有無を言わさぬ如き、背後からの袈裟斬りの受難に遭った者の無用心さの中で、比類のない戦禍の悲惨を決定的に拾ってしまったのである。

彼らはそこで、かつて経験したことのない全く未知の、それ故にこそ、殆ど茫然自失の無力感の中で、戦慄すべき凄惨な現実を目の当たりにしてしまったのだ。

既に焼け焦げた死体と、その死体を呆然と抱くだけの母親の悲惨。殆ど特定できないほど爛れた身体を引き摺る少年と、その少年を容易に弟と確信できない兄の極限的な地獄。

そんな阿鼻叫喚の地獄の只中を彷徨い続けた挙句、彼らは見通しの悪い藪の中で、一人の中年男の現実体験を耳にすることになった。

そのとき、男はこう言ったのだ。

「家が倒れて、女房は即死じゃぁ思いますが、倅が木材に足挟まれましてなぁ、どがいにも持ち上げても、持ち上がらんのです。その内に火は回ってくる。とうとう私は『もう駄目じゃ、堪えてくれ』と言うて、逃げました。『父ちゃん、助けて!助けて!』・・・」

まさに彼らはその日、そこで、それ以上ない、「見える残酷」の極限のさまを拾ってしまったのである。

因みに、「見える残酷」とは、至近距離で目の当たりにした残酷の現実であり、それをバーチャル的な感覚でしか捉えられない「見えない残酷」と峻別して、私が個人的に概念化した用語である。

彼らが遂に拾い上げてしまった、「見える残酷」の記憶の衝撃力は、自我の奥深くの見えない辺りまで封印することができないほどの心的外傷となって、彼らはその観念に引き摺られるような流れ方で、それぞれの脆弱な身体を、未知の時間に委ねていく以外なかったと言える。

その日、彼らは「見える残酷」を目撃した者たちの求心力によって、「それを経験した者でなければ絶対に理解し得ない」という強い思いの中で、「ピカで結ばれた運命共同体」を自然裡に形成してしまったのである。

「見える残酷」の記憶の衝撃力②・丸木美術館・原爆の図より
彼らの自我はそのとき、相互に身を寄せ合う関係の中でしか、決して越えられないほどの負荷意識を抱え込んでしまったのだ。

この運命共同体が、小畠村に帰村した彼らの共同生活を必然化したのは、その心理的文脈から言えば、当然の帰結であった。

矢須子は、母の墓のある実父の元に戻ることなく、叔父夫婦との物理的、精神的共存の道を選択したのである。それは決して、他者には理解できない経験を共有した者でなければ選択困難な、一種の生存・適応戦略であると言っていいかも知れない。

だから彼らの関係の様態は、ある種の「共依存」のようにも見えるが、本質的には、それとは明瞭に異なっている。

因みに「共依存」とは、特定の関係への特定的なアディクション(嗜癖)であって、これは関係嗜癖とも言えるものだ。

心理学の知見によると、しばしば共依存関係の進化は、共依存し合う複数の人格の、その依存症をエスカレートする負性的側面が指摘されている。

アルコールやギャンブル依存症者の例を挙げるまでもなく、多くの共依存者の現実が、まさに、その社会的な現実状況からの逃避や、自我アイデンティティの障害に搦(から)め捕られてしまう事態の出来を想起するとき、本作に於ける3人の心的状況性との相違は自明である。

少なくとも、本作の3人の場合、それぞれの関係の中に一定のスタンスの確保があって、必ずしも、「共依存」の特徴的な症状を現出していたわけではない。

それにも拘らず、彼らは「共依存」するかのようにして、肩を寄せ合って生きていかなければならない運命を負っていたのである。

重松の場合、庄吉、幸太郎という二次被爆の潜在的原爆症者と共に、鯉の養殖を始めて、毎日釣り三昧の生活を送っていたが、その目的は、鯉が原爆症に効用があるという理由以外ではなかった。

しかし、そんな彼らの「長閑」な生活様態は、小畠村の多くの村民には理解されることがない。

通りがかりの池本屋の「おばはん」から、「結構なご身分じゃと言うたんよ」と言われた庄吉は、矢庭に立ち上がって、激昂してみせた。その後の、庄吉の表現は、本作のテーマに脈絡する一つの重要な文脈でもあった。

彼はそのとき、こう言ったのだ。

「見える残酷」の記憶の衝撃力③・丸木美術館・原爆の図より
「おばはんは、広島や長崎が原爆されたことを忘れとる。もう皆が忘れとる。あの焦熱地獄を忘れて、何が原爆大会じゃ。この頃のお祭り騒ぎが、わしゃ、情けない」

この言葉に集約されている現実の状況が放つ重量感は、蓋(けだ)し圧倒的である。

同じ村の中に被爆を免れた人と、その地獄から免れることなく、日夜怯える僅かな者たちが共存しているという現実。

その温度差は、人並みの想像力をもってしては決して測れないほどに決定的なものであった。

では、村民たちと彼らの決定的な違いは何だろう。

既に終戦から5年も経って、この国の其処彼処(そこかしこ)に「戦後」と呼ばれる空気感が漂流していた。

小 さな村の人々の中にも、「戦後意識」と呼ぶべき相対的な安堵感が生まれていて、それでなくとも、過去の柵(しがらみ)に拘泥しないこの国の人々の意識は、 やがて手に入れるであろう、「少しでも豊かな生活」への希望に人並みの思いを繋いでいた。漸次、しかし確実に、5年前の悪夢は過去のものになりつつあった のだ。

然るに、この村に呼吸を繋ぐ僅かな人々の意識の中では、依然として悪夢の記憶を断ち切れず、いつまで経っても、「戦後意識」の感覚を内化できないでいた。

思えば、映像に印象深く描き出された殆ど全ての人々は、今なお戦争の悪夢を引き摺って生きていたのである。

彼らにとって、戦後日本の現実は実感的なものとして、それぞれの自我に張り付く重量感すら持たなかったのである。

結局、村民たちと彼らの決定的な違いは、「戦後意識」の実感的所有感の圧倒的な落差であると言えようか。

「見える残酷」の記憶の衝撃力④・丸木美術館・原爆の図より
そんな村にあって、「戦後意識」の実感的所有感を手に入れられない僅かな人々は、原爆症の発症の不安と恐怖を抱えながら、自村で呼吸を繋ぐしかなかった。

だから彼らは、彼らだけに共有し得る体験をベースに、運命共同体と呼ぶ以外にない意識世界を構築したのだ。

そして、村民たちとの意識の落差が隔たって行けば行くほど、彼らの意識世界の内的強化も固まっていったのである。

固まっていくことだけが、彼らのそれぞれの自我を防衛し得る、殆どそれ以外にない手段であったのだ。

それは、「状況」が生んだ必然的帰結だったと言える。

重松と庄吉、好太郎という関係の結合力は、「鯉の養殖」、「姪の縁談」をその内側に取り入れつつも、本質的には、彼らの意識世界の強化の確認でもあったと把握できるのである。

では、「姪の縁談」の当事者である矢須子の場合はどうだったか。


自分の結婚について、それ程の執着を見せないように思われる彼女が、叔父が奔走して止まない縁談話に静かに心を合わせるその態度は、当然の如く、叔父に対する感謝の念の、至極自然なる表出であったと考えられる。

しかし彼女の場合も、「ピカで結ばれた運命共同体」の枢要な一翼を担う人格としての役割意識を、その内側に媒介させていたに違いない。

叔 父夫妻の優しい心遣いに、常に心のラインを同じにさせて歩んできた彼女だったが、叔父にとって庄吉、好太郎との関係が、些かオーバーに言えば、「刎頚(ふ んけい)の同志」とも思わせる存在感を示したように、彼女もまた、岡崎屋の悠一という癒しの関係対象を持っていたのである。

明らかに、「戦争神経症」に罹患している悠一の裸形の人間性を知悉している彼女にとって、二人で語らう時間の濃密さは、悠一が自分に寄せる異性的感情のラインにこそ合わせることはできなかったが、その心理的共存感に於いて、彼の存在の大きさは否定し難いものがあった。

そんな心優しき矢須子の中で、一つの小さな体調の変化が、殆ど顕在的な不安を惹起させてしまったとき、彼女が真っ先に頼ったのは悠一であった。

翌朝、彼女は悠一を伴って、診療所に足を運んだのである。

人間にとって最も辛いとき、その辛さを少しでも共有するという幻想を持たせてくれる相手の存在は、かけがいのない枢要な役割を示す何者かであるに違いない。

無論そこに、叔父夫妻に及ぼす迷惑を考えた上での、彼女らしい振舞いが表現されていた。

それでも決定的状況下で、地蔵を彫り続ける悠一の傍にその身を運んだのは、彼女の中に悠一の心情ラインにその思いを寄せることで、小さくも、しかし確かな安寧感を手に入れたかったからに違いない。

二 人の関係は、どこまでも精神的紐帯を求めて止まない矢須子の、半ば心情的なシフトによる行為によって、そこに横臥(おうが)する瑣末なる「身分」を簡単に 突き抜けることで、目出度くゴールラインに辿り着くことが可能であるという時間の近くまで進んだが、しかしそこまでだった。

矢須子の発症によって、何かが大きな不安含みの中で、脆くも崩れ去っていったようにも思われる。

崩れ去っていったのは、叔父の重松が「姪の縁談」に仮託した、それ以外に縋りようのない一つの観念であったのか。


今度は、それについて言及してみよう。

思うに、重松はなぜ、姪の矢須子の縁談にあれほど拘ったのであろうか。

「義姉に悪い」とは、晩年の妻シゲ子の口癖だったが、会ったこともない、今は亡き矢須子の実母に対する申し訳なさの感情、即ち、縁(えにし)の深い矢須子の母に対する倫理的債務感が、当然、夫の重松にも存分に継続されていたであろう。

そこには、重松と亡姉との生前に於ける関係の深さが容易に想像されるところだが、それでも映像を通して、しばしば過剰とも思えるあの執着心の表出は、単に「姪の縁談」を成就させることで、夫婦が負った倫理的債務感を履行するという文脈にのみ求められるのだろうか。

そればかりではない、と私は考えている。

「姪の縁談」に象徴される行為は、「ピカで結ばれた運命共同体」という、心理的文脈に深く脈絡するものと考える方が正解に近いだろう。

重松とシゲ子の夫妻は一次被爆者であって、いつ原爆症の発症が出来するか分らない恐怖感の中に置かれていた。

ところが、姪の矢須子の場合は一次被爆者ではないので、戦後の平和なこの小さな町で、人並みに等身大の幸福を手に入れる権利は当然あるはずだ。

その権利とは、「幸福な結婚」をして、「幸福な家庭」を持ち、「幸福な老後」を送るというイメージラインで結ばれる何かだったに違いない。

重松はそう考えたのだろうか。

然るに、「姪の縁談」の不調が次々に現実化するに及んで、叔父である重松は、姪に被された言われなきレッテルの中から、「二次被爆者は健康である」という証明の必要性を強迫されていく。

そして彼は、その作業を精力的に熟(こな)していくが、いつしかそれが自己目的化していったように見えるのだ。

その辺に、重松の潜在的な行動心理が窺えるのである。

彼にとって、「姪の縁談」を成功裡に導くという行為は、同時に自らが抱える被爆者の不安と恐怖に対して、自分にとって全く為す術がない状況下に置かれた者の無力感を、ほんの少し突き抜けていく実感性を手に入れる何かであったに違いない。

「恐怖突入」しようとしても、全く相手にならないほどの絶対的な悪魔に対して、彼は、「鯉の生き血を飲む」というレベルの対抗策しか持ち得なかったのだ。

そんな悪魔の尖った侵入を防ぐのは、殆ど困難である。

いつか必ず自分は、この悪魔によって滅ぼされる。

この忌まわしい確信が、彼の中に内在していたと思われる。

そんな男が、「ピカで結ばれた運命共同体」の枢要な一翼を担うべきはずの姪の、その幸福の最も見えやすい象徴である縁談に執着したのは、ある意味で、その心理的文脈から言って当然の帰結だったのだ。

彼が「姪の縁談」の成就の中に見ようとしたのは、未だその実感を手に入れられない「戦後」という象徴的観念だったのではないか。

自分には手に入らずとも、それを姪の中に具象化された形で見ることで、叔父である彼は、ある種の代理満足を叶えることが可能となるのだ。

姪である矢須子の存在は、既にもう、この男自身の観念の奥に眠る理念形の化身であった。そう思えるのだ。

それこそが、「ピカで結ばれた運命共同体」という、重厚な言葉が放つ本質的な心理の様態であるとも言えるのである。

しかし矢須子の発症によって、重松の淡い思惑は根柢から崩されてしまった。


矢須子が発症したことの衝撃で、妻のシゲ子が倒れ、まもなく逝ってしまったのである。

シゲ子が逝去し、その葬儀の翌日、重松は病床にある矢須子を伴って、大池の前にいた。

彼は既に喪った盟友と共に、日々釣り糸を垂れていたその場所で、このときもまた、矢須子の心を癒すために釣り糸を垂れていたのである。

そこで二人が見たものは、大池に棲むと言われる幻の巨鯉が大きく跳躍する激しくも、感動的な光景であった。


この光景を目の当たりにした矢須子の、その内側に抱えた闇の時間を突き抜けるかのような全人格的表現は、この重苦しい映像で、彼女が初めて見せた身体疾駆の眩いまでの輝きであった。

そして、それが業苦に拉致された優しき魂の、最後の輝きになってしまったのである。

そのとき、重松と矢須子がそこで見たものは、一体何だったのか。

画面一杯に躍動する巨鯉の高らかな跳躍は、大池の溢れる水を確信的に弾いて、更に高みを目指す意志を刻む身体疾駆そのものであった。

その身体疾駆に仮託されたメッセージの内に、遂に手に入れることがなく、闇に葬り去られていく者たちがイメージの次元でしか感受し得なかった、心地良き幻想であったのか。

その幻想こそ、「戦後」、或いは、「戦後意識」であると把握するとき、一貫して戦争の記憶に呪縛された、それぞれの身体と自我に、「不正義の平和」でもいいから貼り付けたかった、真に具象的な文脈の空洞感が、却って露にされてしまうのである。

そんな読み方を可能にする映像の力強さだけが、唯一の救いとなるかのような傑作、それが本作の「黒い雨」であった。そう思った。



12  創造したものを廃棄できない厄介な生き物



―― 次に、映像の中枢的テーマと脈絡するであろう、本作の主要な登場人物が放った二つの重要な台詞について、必要な限り言及したい。

その一つは、病に伏した庄吉の言葉。

長崎に投下されたプルトニウム239によるキノコ雲
「わし、前から不思議でならんのじゃが・・・アメリカは何で原爆落としよったんじゃろ。放っといても、日本の負けは決まっとるのに」

この極めてダイレクトなる言辞を、本作の登場人物の一人である庄吉が重松に問いかける描写の重要性は、論を待つまでもないだろう。

その庄吉の問いに対して、重松が「よう分らんの」と答えることで、それはそのまま、観る者に対する作り手の問いかけとなったのである。

それ故、今、観る者の一人である、私なりの答えを言語化しようと思う。

原爆投下当時から、この問題は絶えず議論の的になっているが、最も支持されている理由は、「これ以上戦争を長引かせれば、本土決戦となって、その結果、百万の米兵の生命が危うくなる」というもの。

他 にも、時の内閣総理大臣である鈴木貫太郎が、「ポツダム宣言」を黙殺したことへのリベンジであるとか、大戦後に予想される共産主義ソ連との冷戦に対する戦 略的布石などがあり、近年では、太平洋戦争と対独戦争の英雄であるルーズベルト大統領の逝去後、新たに大統領となったトルーマンの、前大統領に対するコン プレックスに起因するという心理学的解析が有名である。

つまり、それを断行することによって、自分が「大きな政治家」であることを証明するために、トルーマンは原爆投下のゴーサインを出したというわけだ。

いずれも尤(もっと)もらしい説明で、それなりに説得力を持つが、私はもっとプリミティブに考えている。

第33代 アメリカ合衆国大統領・ハリー・トルーマン
要するに、「原子爆弾」という全く未知の大量破壊兵器を、人類社会の先端科学のフィールドで遂に作り出してしまったということ、それこそが、原爆投下の深層にあると私は見るのだ。

人間はその時々の最高の科学水準で作り出してしまったものを、決して簡単に廃棄することをしない、際立って危険な生き物であるという把握こそが、ここでは重要であると思うのだ。

人間は創造することにかけては信じ難いほど優秀な能力を持つ生き物だが、しかし創造したものを廃棄する試みに於いて、かつて一度も成就したことがない、そんな生き物でもあるということ。それが、私の人間観の根柢にある。

例 えば、「空を飛びたい」という欲望に科学が追いつけば、人間はジャンボ・ジェット機を簡単に発明してしまうし、「ウサギの棲む衛星」である月に対する好奇 心の深さが、次第に大きな欲望に肥大して、その欲望に先端科学が追いつけば、呆気なく月面着陸を可能とする「快挙」をやってのけてしまうのである。

現 代に至っては、時速500キロを越えるリニア・モーターカーが待望されているし(実際、フランスのTGVは2007年4月、公式試験走行で574キロを超 える速度を記録した)、また、クローン犬ビジネスの実用化の多大な可能性という事態(韓国、アメリカ等)を考えれば、クローン人間の可能性の高まりは、殆 ど現実化しつつあると思えるのだ。

取るに足らない小さな規模のカルト教団ですら、容易に生物化学兵器を作り出してしまう、この近代社会の圧倒的な凄み。

そ んな社会の中で、存分に心地良い日常性を繋ぐ人々が、「大衆」という名のメジャーな群れを成している状況下にあって、あろうことか、その利便性を否定する 思想によって、果たして携帯とか、パソコンとかいうお手頃なツールを、殆ど確信的に廃棄する社会的な一大ムーブメントを、本気で立ち上げると考える人がい るだろうか。

一頭立て四輪馬車に乗るアーミッシュの夫婦(ウィキ)
アメリカのアーミッシュ(注8)の人々のように、小さな伝統的文化を守り繋いでいく営為の中にも、内実の乏しい好 奇心のみによって観光侵入するほど、不気味なまでに強靭な支配力を顕示して止まない近代社会の人々が、生活的豊かさと移動の自由と能力を相対的に欠乏させ ていた、それ以前の前近代社会に丸ごと回帰しようとする覚悟を持ち得ると、一体誰が断言できようか。


(注 8)ペンシルベニア州(アメリカ)を拠点にして、一切の近代的な利便性に依拠しない生活を維持する人々で、キリスト教の一宗派に属している。因みに、 2006年9月、女子児童5人が射殺されるという忌まわしい事件が起こり、彼らの「脱文明」の長閑な生活が著しく冒された。


あり得ないことは、無責任に口に出すべきではないのだ。

まして、奇麗事の言辞で理念系を暴走して止まない、各種メディアのコメンテーター諸氏の、一体、誰が本気で自分の理念系に殉教し得るか、想像してみるだけで既にお笑い草である。

言及は少し飛躍したが、要するに、私の言いたいことは唯一つ。

人 間という厄介な生き物の巨大な群れの中には、どうやら、未知のフィールドのパイオニアになろうとする欲望に駆られた優秀な頭脳が多く存在するということ、 そしてその頭脳から生まれた信じ難い科学技術のエキスを一度手に入れてしまったら、そこで創り出した科学文明の産物を、私たち人間は必ず使わざるを得ない ということ。

更に厄介なのは、私たちは容易にそれを廃棄することなどできないということ。

それ以外ではないのだ。まるで、その能力の矜持を自己確認せざるを得ないかのように。

「人類の英知」が核の抑止に神経を傾注すればするほど、却って、核拡散の状況から脱出できないというこの大いなるジレンマは、殆ど、私たちホモサピエンスの病理と言っていい何かである。そう思うのだ。

以上の文脈は、「人類の英知」なる大嘘を一貫して信じることができない、私のペシミズムの発露でもあった。



13  「不正義の平和」という、一見、甘美なる言辞



もう一つは、重松が映像の最後で漏らした独り言。

「正義の戦争より、不正義の平和の方がましじゃということが、何で分らんかのう」

重松が吐き捨てるように漏らしたこの言葉は、先の庄吉の言葉と異なり、観る者への問題提起の範疇を超えて、既に充分に、作り手自身のダイレクトなメッセージになっていると思われる。

もっ ともこの言葉は、凄惨な現実を目の当たりにした被爆者の懊悩を代弁するものと素直に受容すれば、そこに特段に加工された意味を読み取るのも気が引けるとこ ろだが、少なくとも、映像として提出された限り、映像表現としての含みについて客観的に把握するべきであると考えるのだ。 

従って、本作の中枢的なモチーフとも思える、この基幹的メッセージに対する評価の是非について、観る者はそれ自身の視座によって答えていかねばならないだろう。

因みに、この言葉は、「最も正しき戦争よりも、最も不正なる平和をとらん」と言ったとされる、キケロの言葉(古代ローマの政治家)をなぞったもの。

―― 以下、私なりの意見を言語化してみる。

この短いフレーズに内包される魅力的な語感には、多くの人々の共感を得るものがある。とりわけ、「絶対反戦」を主唱するヒューマニストにとって、これ以上の、一見、決定力のある成句の如き表現は存在しないかも知れない。

しかし私には、この命題的な黄金律を素朴に支持できない思いが強い。

何かギラギラした人間の生態を、その個性的な映像に切り取ってきた今村らしくない軟着点に対して、正直、違和感を抱いてしまうのだ。

左翼系文化人、或いは、自称リベラルな自由人の仮装の内側に見える、そのズブズブの甘えをそこに見るようで、私には馴染めないのである。

そもそも、「正義の戦争」でない戦争が、かつて人類史に存在した試しがあっただろうか。

どこの国も、どこの民族も、「戦争」に踏み込む際には、必ずそこに何某かの大義名分を貼り付けてしまうのは常識ですらある。だから全ての戦争は、「正義の戦争」であるより他に存在しないのである。

そんな「正義の戦争」を全否定することによって、その対極に立ち上げられるであろう、「不正義の平和」の有りようとは、一体何なのか。

大体、この二つの概念は、対立概念としての論理的整合性を持ち得るものなのか。

その成句は、そんな根本的疑問を惹起させる何かになってしまうのである。

「正義の戦争」の行使によって得られる、「不正義の平和」の内実は、理論的には、「占領下の平和」か、それとも、「国民国家の防衛を、他国に依拠することによって実現された平和」という、二つの選択肢以外に存在しないということ。この認識は決定的に重要であるだろう。

例えば、ベトナム戦争を考えて見ればいい。

「正義の戦争」として立ち上げた米国の理不尽極まる暴力の攻勢に対して、ベトナムの人々は黙って生命と財産を投棄してしまったか。否である。

ベトナム人民は勇敢に戦い、遂に傲慢なる「アメリカ」を駆逐したのではなかったか。あのときのベトナムサイドの戦争もまた、充分に「正義の戦争」だったのである。

従って、人類史上には、その言葉の本来的な意味を具現する、「正義の戦争」と呼ぶ以外にない戦争が厳然と存在するということだ。

では、その「正義の戦争」の対極の概念は何か。

それは、「不正義の平和」などではなく、紛う方なく、「侵略戦争」以外ではないのだ。

グエン・ヴァン・チュー(ウィキ)
もしあの戦争で、南ベトナム民族解放戦線(ベトコン)が北ベトナムの指導下にあって、南ベトナムで一大抵抗勢力を 形成し、両者が一丸となってアメリカの侵略と戦わなかったら、社会主義を標榜するベトナムという国民国家は、アメリカの傀儡国家となり、その腐敗は、ゴ・ ディン・ジエムやグエン・ヴァン・チュー(共に、当時の南ベトナムの大統領)の比ではなかったであろう。

「ベトナム」はフランスを駆逐し、そのフランスに代わったアメリカを駆逐した「正義の戦争」を、敢然と戦い抜いた、稀に見る勇敢なる国家であり、人々だったと言うわけである。


勿 論、「北ベトナム」或いは、現在の「ベトナム社会主義共和国」の共産主義政権下での抑圧的政治を含む、様々な事情を抱えたベトナム史の全てを肯定するつも りは毛頭ないが、少なくとも、ベトナムは、「不正義の平和」によって手に入れるものより、遥かに価値のある何かを作り出したのである。


主権国家としての有り様を無視できないと考える私としては、「不正義の平和」という、一見、甘美なる言辞の方にこそ恐怖感を覚えてならないのである。

ブログより

 独立を求めるその一切の抵抗力と、民族精神の反発力を骨抜きにされた挙句、文化侵入されるに至ったチベットの悲惨(注9)を思うとき、「不正義の平和」は人間の尊厳を重んじる者にとっては、断じて許し難い状況性であるのだ。



(注 9)中国南西部にある自治区。牧畜を主とした山岳民族(チベット族)による主体的統治は、一貫して中国の侵略的抑圧によって独立を果たせない状況下にあっ て、1959年には、主都ラサで大規模な反中国(反共、反漢)の動乱が起こるが、ダライ・ラマ(14代)は亡命を余儀なくされるに至る。チベット仏教(ラ マ教)を精神的主柱とするチベット族に対する共産中国の弾圧と虐殺は、チベット文化の徹底的な破壊を含む由々しき蛮行として、国際的非難を浴びた。


そして占領体制以降をも、一貫してモラトリアム化した国民国家の内実を晒し続ける我が国の現実にも、私は大いに不快この上ない。


他国に自国の「平和」を守ってもらうことで得られる文化的なメリットがあるとすれば、それは既に、最も大切なものを換骨奪胎(かんこつだったい)された跡に残される、モラトリアム国家(注10)の悲惨な風景でしかないのである。

最も大切なもの、それは国民国家の尊厳に関わる何かであるに違いない。

湾岸戦争でイラクに侵略されて逃げ惑うだけのクウェートがそうであったように、この国もまた、大国アメリカの軍事的サポートなしに、自国の権益の保守を依拠するだけの脆弱さを晒すばかりなのか。

クウェート市(ィキ
「不正義の平和」という文学的な幻想は、今や完全に崩れ去ったと考える次第である。

因みに、「不正義の平和」という言葉は井伏鱒二の原作にも、また「重松日記」にも記されている。

だから今村の意図的な加筆の結果ではないが、先述したように、それを映像化するという行為の中に、既に作り手の意志が反映されているということだ。

なお、本稿の最後に引用した今村自身の言葉を読めば分るように、「不正義の平和」という言葉を具現したこの国の、「忘れっぽい」現状に辟易している思いが窺えるが、そこだけは如何にも今村らしい所以であると言えるだろう。


(注10)「モラトリアム国家 日本の危機」(平成十年 祥伝社刊)という著書で、小此木啓吾は、「モラトリアム人間心理」について端的に説明している。

「金 融不安が高まり、国際化 ― 市場主義が日本社会を脅かしている。自立したつもりになっていたのに、実は米国にガッチリ支配されている身の上が、いまさらのように痛感される。依存して いるのに、その依存は視野に入れないで自立したつもりになっていた。それは、モラトリアム(義務・責任の支払い猶予)を提供されているのに、その事実は棚 上げして一人前のつもりでいるモラトリアム人間心理そのものである」(前書きより)



14  科学技術と理性的知能の進化の、その覆い難き決定的落差



次に、「原爆非難の正当性」という、不可避なるテーマについて簡単に言及したい。

なぜなら、このテーマもまた、本作から問題提起されたものの一つであると考えるからだ。

結論から言えば、アメリカの原爆投下は、当時の国際法規の違反的蛮行であるのみならず、先述したように、原爆投下の理由には、充分に説得力ある必然的文脈が読み取れないのである。

これは、本作の庄吉が、その病床で素朴に嘆息した感情傾向と重なるものでもある。

他の殺戮兵器と比べ物にならないほど破壊力を持つ、このような大量殺戮兵器の存在それ自身が充分に問題である以上に、それを殆ど、人体実験のような狙いを含んで敢行したことの重大さは、人類史上例を見ないジェノサイドであると言っていい何かである。

言わずもがなのことだが、人類はこのような凶暴な兵器を作るべきではなかったのだ。

しかし、軍事科学技術の信じ難い推進力によって分娩されたこの悪魔を、「一度は試したい」という否定し難い欲望を克服するほどに、私たちの理性的知能は進化を遂げていないのである。

科学技術と理性的知能の進化の、その覆い難き決定的落差の現実について、私たちは厳として認めねばならないだろう。

焦土と化した東京・戸越公園駅(ィキ
加えて、太平洋戦争下に於いて、東京大空襲に代表される大都市への無差別殺戮を、アメリカが繰り返し重ねてきた現実もまた無視し難い。

しかも、このような蛮行の全ては、東京裁判の議論の俎上に全く上げられることはなかった。

確かにアメリカの言うように、太平洋戦争は、宣戦布告が遅れたことによる、「宣戦布告なき戦争」の謗りを免れない戦争であった。

しかし、19世紀後半以降の帝国主義の時代下にあって、日本が太平洋戦争に突入せざるを得なかった歴史的状況の複雑な問題がそこに濃密に絡んでいて、「日本が全て悪い」という決定論に流れ込めない国際的状況の存在を、軽視できないのもまた厳然たる歴史的事実なのだ。

求 めもしないのに、「砲艦外交」の暴力的恫喝によって不本意な開港を強いられたばかりか、治外法権を認めさせられたり、関税自主権(注11)すら許容される ことのない不平等条約(注12)を押し付けられたりしたという屈辱は、岸田秀(心理学者)が繰り返し書いているように、この国の人々の内に封印された屈辱 感として、その感情が噴き上がっていく格好の出口さえ確認されれば、いつでも炸裂する伏流が、この国には連綿と流れていたのである。


(注11)国家が自主的に関税率(国内産業の保護などの目的で、輸入貨物に対して課される税金)を定め得る権利。

(注 12)日米修好通商条約のこと。1858年、江戸幕府(大老・井伊直弼)がアメリカと結んだ最初の条約。下田・箱館などの開港を強いられたばかりか、外国 人が犯した犯罪を日本国内で裁けないという、領事裁判権を規定した不平等条項を含む。しかも条約有効期限や廃棄条項を全く欠落させていて、そのため、条約 改正交渉に相当のリスクを負ったが、1911年(明治44)に至って完全に回復した。


太平洋戦争は、恐らくいずれの国家に於いても、そこに、「正義の戦争」の内実的な大義名分の検証を困難にさせるものであるに違いない。これ以上の言及は、本稿のテーマから外れるので省略したい。

唯、 公平な観点からあえて書けば、以上の言及は太平洋戦争についてのみ、それなりの説得力を持つケースであって、日中戦争に代表されるアジアの各地で展開され た戦争の本質は、紛れもなく、侵略戦争以外の何ものでもなかったということ。この事実認識だけは押さえておかなければならない。

「重慶爆撃」・防空壕に避難中の市民ィキ
従って、この国が中国大陸に於いて、重点的に、断続的に繰り返した「重慶爆撃」(注13)と呼ばれる無差別殺戮の歴史的現実を弁明する一遍の余地もないということ。

それもまた、この国の人々が決して忘れてはならない歴史の重大なる記憶の一つであるに違いない。


(注 13)日中戦争下で、南京を日本軍によって攻略された後、蒋介石を指導者とする中国国民党軍は、首都を重慶に移転させたが、その重慶を特定的に狙って、 1938年末より約3年間に及んで、日本軍が断続的に繰り返した無差別爆撃のことで、多くの犠牲者を出したと言われる。




15  慈母観音の如きキャラクター造形の意味




以上で、本作に関与するテーマ言及を括りたいが、いずれにせよ、本作が秀逸なる人間ドラマとしての完成度の高さを一貫して保持した価値については、全く文句の付け入る隙がないところである。

最初に私は、今村昌平らしくない作品であると触れたが、そのような印象を私にもたらせた最大の理由を考えてみれば、殆ど自明であった。

今村昌平監督①
即ち、本作の主人公である矢須子という女性の描き方が、それまでの今村作品の中で馴染み深い、「男勝りで、逞しく、強い女」のイメージと少しばかり乖離していたからに他ならない。

ま るで慈母観音のような矢須子のキャラクター造形が、本作で執拗に描かれた、ホラーとも見紛うばかりの、「迫り来る死の不安と恐怖に甚振られる、悲惨の極 み」の凄惨さを、そこだけは一縷(いちる)の救いによって、せめても、阿鼻叫喚の地獄絵図に流したくない緩衝ゾーンを作り出したかったのではないか。

或いは、慈母観音の如きキャラクター造形の導入によって、本作で訴えたかったであろう、抑制の利いた反戦メッセージが内包する重量感を、今村らしくない感傷的文脈によって、より観る者に深々と刻印させようとする狡猾さに流れてしまったのか。

ともあれ、作り手の真意がどこにあったにせよ、矢須子のキャラクター造形が持った意味は、決定的に重要だったと言える。

武満徹・ブログより
なぜなら矢須子の存在なしに、本作の優れた、その人間ドラマとしての完成度の高さを保証し得ないと思わせる何かが、この映像には存分に内包されていたからだ。それ程の秀作だった、と私は考えている。

また、繰り返し観ていけば、「人間」を描く映像作家としての今村らしさは、本作に於いても貫流されていたことを認めるのに吝(やぶさ)かではない。本作の俳優たちの入魂の表現力の重量感に、ただ脱帽する思いである。

加えて、映画音楽を担当した武満徹の効果的な旋律は、苛酷なまでに凄惨なこの映像全体を通して、殆ど、それ以外にないと思われるような見事な嵌り方だった。

極限状況に置かれた人間の不安と恐怖を、これほど効果的に表現し得た旋律がかつて存在しただろうか。

そんな印象を持たされる完成度の高い旋律に対して、私は改めて、総合芸術としての映像作品の力技を見せ付けられた思いであった。



16  音もなく忍び寄ってくる本当の怖さ



今村昌平監督②
本稿の最後に、本作の優秀なる作り手である今村昌平が、本作の原作者である井伏鱒二との対談の中で語っている率直な思いを、ここに引用しておこう。

そこで語られている言葉こそ、稀有なる映像表現者としての今村昌平が、まさに本作を作らざるを得なかったライトモチーフのダイレクトな吐露であるからだ。

「ぼ くは日本人として広島をどうしても描かなければいけないと思ってたんです。本当の怖さ、音もなく忍び寄ってくる、目に見えないけれども、ある日突然、脱毛 するという怖さですね。だんだん原爆やら放射能の問題が風化していくのは、戦争を背負って生きざるを得ない世代としたら、忘れっぽいのもいいかげんにして くれという気持ちです。しかし不正義の平和も今日のように極まりますと、重松の怒りのセリフも、なかなか言いづらくなりますね」(「井伏鱒二対談選 今村 昌平『黒い雨』を語る」講談社文庫刊より)

「本当の怖さ、音もなく忍び寄ってくる、目に見えないけれども、ある日突然、脱毛するという怖さ」について、「どうしても描かなければいけないと思ってた」作り手の映像的表現の試みは、見事なまでに成就されたと言っていいだろう。

今村昌平の熱き思いは、本作を観た多くの者に、決して忘れることのない深い感動を刻んだのである。

正直、今村昌平の「戦争観」に必ずしも共鳴できないが、しかし本作には、価値観の違いを超えて、観る者の心を掴んで放さない映像自身の圧倒的力技があって、今村ワールドを逸脱しないその見事なまでの人間ドラマに感服した次第であった。



17  「見える残酷」の本物の恐怖



では、今村をして、「忘れっぽいのもいいかげんにしてくれという気持ち」を起こさせた原爆の本物の恐怖について、それを体験した者でなければ分らないものの言葉によって、ここにもう一度再現してみよう。

原作のベースになった「重松日記」がそれである。

その日記の当の本人である重松静馬氏は、その「本物の恐怖」について、以下のように記している。

「堤防に出た。(略)堤防を相生橋に向かって下りはじめた。右手堤防下の草むらに無数の死体が転がり、川面には死体が幾つも流れている。

原爆ドームィキ
岸 の川柳にかかり、水に押されてぐるりと一廻りしてむっくりと顔を上げるもの。流れに押され、あるいは上半身を、あるいは下半身を、水面にふわりと現すも の。ぐらりと川柳の下で廻り、両手をさあっと上げ、川柳を握るのか、生きているのではないかと思わせるものもあり、凄惨さは肌に粟を生ずることも、見はじ めには幾度かあった。

先に立って下っていた安子が、四五歩引きかえして、『おじさん、ああ!』と妙な声を出しながら僕の後ろに廻ったので、先に立って数歩先を見ると、年若い婦人が、道に横たわって死んでいる。死体のワンピースの胸を開き、3歳位の女児が、乳房をいじっている。

三人が近よると、両乳房をしっかりと握り、ジイッと見つめている。生と死の区別がつかないのだ。何かでドッと、胸を突きまくられた様で歩けない。そこに立ちすくんだ。涙がとめどなく流れる。どうしてやる術もない。

自 分の体一つですら、やっと自由にしている今だ。女児を驚かさない様に近寄り、死婦人の脚の方をそおッと越えて、小走りに十メートルも下ると、草むらに三四 人の夫人の死体が横たわっている。死体に挟まれた様に、八九歳の男の児が、立ったり蹲んだりしている。益々涙が出る。顔を左にそむけてすたすたと下り乍 ら、二児の将来を想像すると、母と共に死んだほうが、あるいは幸福かも知れぬと思えた。川面には、泳ぎでもしている様な姿の死人が流れている。(略)

国 道を避難者がまばらに可部の方へ行っている。国道沿いの民家は、どの家も表戸を締めている。避難者の這入り込むのを避けるために、戸を締めたのだろう。山 本駅の北陵にあるカトリック教会の神父さん達が、担架を提げて市内の方へ韋駄天走りに走って行かれた。何という崇高な姿であろうか。自然に頭の下がるのを 覚えた。

国道沿いの家は、行っても行っても戸を締め切って、非難者を近づけない。あさましい心情だ。市内と違って清らかな風が吹き、稲の葉波が次から次へと葉裏の白味をなびかせて、遠くへ消えてゆく」(「重松日記」重松静馬著 筑摩書房刊 ――「火焔の日」より/筆者段落構成)


この一文が、「見える残酷」(先述したが、私の造語で、「見えない残酷」と対比して使っている)を過剰なまでに見せ付けられた者の、その凄惨さを、それ以上ない筆致のリアリズムによって、充分に検証するものになっていると言えるだろう。

(2007年6月)

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