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2009年7月2日木曜日

グエムル - 漢江の怪物('06)   ポン・ジュノ


<アンチの精神の激しい鼓動が生み出したもの>




 1  韓国人が持っている根源的な矛盾  



 「ストーリーには、統合失調症がより激しくなった韓国の状況が具体的に打ち出されています。どう受け止めるかは、観客にゆだねています」(「KOFIC 、Cine21出版:韓国映画監督シリーズ ポン・ジュノ監督インタビュー」)

 この言葉が映画の最も重要な部分を説明している、と私は思う。

 多くの韓国人が罹患している、と作り手が断じる「統合失調症」―― それはこの国の戦後史が抱えた痼疾(こしつ)であり、しばしば潜在化しながらも、「火病」(怒りを抑えたストレスによって生じる精神疾患)とも言われるこの国の「文化依存症候群」によって(?)、内側のストレスが沸点に達したときに誰の眼にも見えやすい形で噴き上がっていくのだろうか。

 具体的に言えば、アメリカによって作ってもらった国であるという否定し難い事実が、恐らく、遍く韓国国民の意識の、ほんの少しばかり見えにくい辺りに潜在化しただけでなく、戦後、実質的に「独立国家」としての体裁の下に、「反共の砦」としての軍事独裁政権が長く続いた負の歴史が二重の心理的リスクとなって、それが1987年の民主化宣言によって形式的には軍事独裁政権が崩壊したと言っても、相も変わらぬ「在韓米軍」の支配下に置かれているという感情が、例えば、「議政府米軍装甲車女子中学生轢死事件」(注1)や「米国産牛肉輸入問題」(注2)などの際に、出口を求める潜在感情が一気に噴出してしまうのであろう。

 この国の国民は、大韓民国という国民国家の名を持つ、典型的な分断国家であるが故にか、未だ「完全なる独立国家」の実感を持ち得ていないのかも知れない。アメリカによって支えられた「安全」と「安心」の保証は、時として、そのアメリカの「宗主国」紛いの振舞いに抵抗感を覚え、それでも結局、その国に縋って生きていかねばならない思いは、充分に屈辱的であったに違いない。

 関係を密にし過ぎれば、相互に棘が刺し合って傷も深まるが、関係を反故にされ、放擲(ほうてき)されししまうのも不安であるという意味で、それは「同盟のジレンマ」と言える何かであるだろう。

 それに関して、同様に「同盟のジレンマ」を抱えているように見える我が国との比較において、一つの興味深いレポートがある。

 「日本は米国との戦争に負け、米国に国を改造された。その意味では韓国同様に『米国に国を作ってもらった』。一方、韓国は日本の植民地支配から救われ、援助を貰い、北朝鮮の侵略から救われるなど、常に米国に助けられつつ『国を作ってもらってきた』。

 理屈で言えば日本こそがより反米になり、韓国こそがより親米になるべきだが(実際、90年代末まではそうだったのだが)、人の心というものは単純ではない。米国に助けられ続けたからこそ韓国の反米は根深い、という言い方もある。

 韓国のある知識人は米国への心情をこう説明する。『常に助けられてきたため常に絶対的な下位に置かれ、その結果、常に見下されているとの思いを抱かざるを得ない』。その論法から言えば『米国に負けはしたが同じ土俵で戦った日本人は米国との対等意識を持てるし、劣等感を抱く必要がない』のだ、という。

 その心情は日本人よりも強いかもしれない。米国との戦争に負けた結果、米国の核の傘で生きるようになったが、日本は戦前に安保を含め一歩立ちした経験を持つ。それゆえに現状にある程度納得できるのだろうが、『一本立ち』を体験したことのない韓国人は『一度は』と思うのかもしれない。

 (略)こうした韓国人の心情こそが『なぜ、韓国の外交はあんなに情緒的で、しかも、その度を増しているのか』との質問への、ある程度の答えになるかもしれない」(「NⅠKKEI NET プロの視点 鈴置高史編集委員『韓国の反米気分』」より 2007年5月9日付)

 更に、こんなレポートもある。

 「反米感情と反米主義を区分したりもする。 反米感情は米国の特定局面に反対することであり、反米主義は米国を総体的に拒否することだ。 反米感情が一時的な情緒状態なら、反米主義は恒久的イデオロギーだ。 政治学者キム・ジンウンは『韓国の反米主義は大部分が反米感情の形態を帯びている。多くの韓国人は米国自体を否定するより、特定政策(市場開放圧力)・特定行動(在韓米軍犯罪)に反対の意思と憤怒を表す』と話す。(『反米』、サルリム出版社)」(「中央日報 コラム」より 2006年8月11日付)

 要するに、韓国国民の大部分が反米感情の形態を帯びていながらも、「恒久的イデオロギー」としての「反米主義」に流れ込まないか、或いは、しばしば「文世光事件」(注3)のように、「赤化統一」の旗の下に全国民が心の中で「統合」を望んでいたとしても、「北朝鮮化」への選択を「決断」しにくいということなのだろう。これは、北朝鮮の二回目の核実験によって、よりリアルな感情に傾斜していったように思える。

 そして2009年6月現在、遂にこの国の大統領は、オバマ政権下のアメリカとの関係強化を目的に、その「核の傘」の下に入るという決定的な選択を明文化したのである。

 
板門店での軍事境界線(ウィキ)
なぜ、今までそれを選択しなかったのか。

 韓国が北朝鮮を刺激したくなかったからである。アメリカ主体の当時の国連軍が、その背後には海しか見えない釜山橋頭堡まで追い込まれるという、絶体絶命の危機を経験した朝鮮戦争のトラウマが、今なおこの国には根強く残っているのである。あのとき、38度線を一気に越えてきた北朝鮮軍によって、ソウルが壊滅的被害を受けた忌まわしい記憶を、韓国民は決して忘れていないということだ。

 朝鮮戦争による被害の現実は、あまりに凄惨だった。

 北朝鮮の死者は250万人、韓国は133万人で大多数が一般市民だった。因みに、中国軍の死者100万人、米軍は6万3千人。(ウィキペディア参照)

 僅か3年間でこれだけの犠牲者を出した、同民族による戦争の凄惨は想像を絶するであろう。その間、敗走する韓国軍が共産主義者たちを虐殺した「保導連盟事件」があり、そして何より、米軍による民間人虐殺として韓国国民の反米感情を決定づけた、「老斤里(ノグンリ)事件」が出来したのである。


(注1)「2002年6月13日大韓民国京畿道楊州郡(現:楊州市)で女子中学生2名が米第2歩兵師団装甲車に轢かれて死んだ事件」(「ウィキペディア」)

(注2)2002年、韓国の女子中学生(2名)が米軍装甲車に轢死(れきし)した事件。調査結果の不透明さに対して、ネットが主体となって反響を喚起し、在韓米軍への非難が高まった。

(注3)1974年8月、時の朴正煕大統領の暗殺を謀って、大統領夫人など2名が射殺された事件。犯人は「赤化統一」を主唱する在日朝鮮人の青年、文世光で、死刑執行された。当時から北朝鮮との関係が疑われたが、今なお不分明。


 
故・盧武鉉元大統領
更に時代が進んで、韓国民の民主化の運動を弾圧した光州事件(注4)へと至る。

 このとき、闘争主体だった学生たちは386世代と呼ばれ、後の盧泰愚(ノ・テウ)の民主化宣言や、盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権成立の原動力になった「ノサモ」(ネット組織)に繋がっていく。


(注4)1980年5月、粛軍クーデターによって権力を掌握した全斗煥(チョン・ドファン)率いる韓国軍が、光州市(当時、全羅南道の道庁所在地)で、民主化を求める学生、市民らの大規模な運動を武力鎮圧した事件。


 「光州事件、朝鮮戦争、アメリカの問題をどう見てるか。それは韓国人が持っている根源的な矛盾なんですね・。この根源的な矛盾に答え続けることが韓国の監督の使命なんですね」(「ETB特集・『韓流シネマ抵抗の系譜』」における、映画プロデューサー、イ・ボンウの発言)


 そしてポン・ジュノ監督(画像)。

 彼もまた同番組の中で、前作「殺人の追憶」について、「アメリカから送られてきた紙切れ一枚のために、挫折するしかなかった悲哀」と語っていた。「殺人の追憶」では、時の軍事政権への批判が存分に込められていたものの、彼の「反米感情」は抑制的だったと言える。

 その感情が炸裂したのが、本作の「グエムル―漢江の怪物」であると言っていい。まさに「韓国人が持っている根源的な矛盾」を、娯楽作品としての商業ベースに乗って、挑発的に世に放ったのが本作であった。

 以上、縷々(るる)、この国の激越なる戦後史の一端に言及したのは、その辺の理解なしに本作の「あまりの過剰さ」を読解するのは難しいと考えたからであり、それ以上でもそれ以下でもない。

 「グエムル―漢江の怪物」とはアメリカそれ自身であるか、それとも、そんなアメリカに政治的に操作され、しばしば自家中毒の如き爛(ただ)れ方を露わにする「大韓民国」という名の国民国家であるかも知れない。そんなイメージで把握するかのような作り手は、まさにそのアメリカとの関係において、「統合失調症がより激しくなった韓国の状況」を抉(えぐ)り出したかったのではないか。

 ところが、この作り手は、「ロード・オブ・ザ・リング」のVFX(現実にはない視覚効果的な技術)を作った「WETAデジタル」等にグエムルの制作を依頼し、後に盗作騒ぎとなった怪物を作り上げるのだ。更に、この監督が強(したた)かなのは、映像の展開が完全にハリウッド的な「驚かしの手法」を存分に含んだカット繋ぎをしながらも、最後は予定調和のハリウッド文法を自壊させてしまうという、その腹の括り方である。


 「グエムル―漢江の怪物」は、この種の映画に張り付く、観る者の軟着点のイメージラインをあっさりと破砕して、どこまでも過剰であり、挑発的であった。



 2  グエムルとの、生死を賭けた戦い 



 ―― ストーリーラインを簡単に追っていく。


 2000年2月9日。

 駐韓米軍第8部隊・ヨンサン基地内霊安室。

 アメリカの一人の老科学者が、韓国の若い科学者に「ホルムアルデヒド(注5)の瓶に汚れが付いているので、一滴残らず捨ててカラにしたまえ」と命じた。規則違反を理由に躊躇(ためら)う部下に、老科学者が放った一言。

 「下水溝に流してしまえばいい」
 「そんなことをしたら、毒薬が漢江に流れます」
 「その通り。だから漢江に捨てるのだ」
 「しかし、これはただの毒薬ではなく…」
 「漢江という川はとてつもなく大きい。心を広く持とう。これは命令だ。早く捨ててしまいなさい」

 それが、全ての始まりだった。

 そして、この二人の会話の中に窺えるのは、「アメリカの言うことには、決して逆らえない」という権力関係の紛う方ない形成の現実であった。


(注5)合板用の接着剤などに使用され、相当の刺激臭を持ち、健康上の障害をもたらす毒性の強い有機化合物である。その約40パーセント水溶液であるホルマリンは、代表的な消毒剤として有名。


 2002年6月の漢江。

 そこで二人の釣り人は、足が何本あるか特定できない奇妙な水生生物の稚魚を発見した。

 2006年10月。

 漢江大橋から身投げを図ろうとする会社社長がいた。男が覗いた川の中に、「大きくて黒いもの」が見えたが、男は部下の社員の制止を振り切って、そこから身を投げたのである。或いは、この身投げ男が、「大きくて黒いもの」の最初の「餌」になったと思わせる、布石を打つ描写であったのかも知れない。

 映像は一転して、居眠りをし続ける茶髪の男が、川べりの雑貨店で留守番をする描写を映し出す。

 茶髪の男の名は、カンドゥ。

 そこに一人の少年の手がスーと伸びてくるが、盗みを図る少年の試みは、彼の兄に制止された。まもなく、カンドゥは父親のヒボンに起こされることになったが、いつものことで驚く気配を見せない。

 「授業参観に叔父さんが来たのは、私だけ」

 一人娘のヒョンソに、文句を言われるカンドゥ。携帯で知らせようにも、あまりの古さから娘は使う気になれないのだ。

 父と娘は店に戻って来た。



 新しい携帯を買ってあげるため、父は娘に内緒で貯めた金を渡そうとするが、「100ウォン(注6)ばかりじゃ何も買えない」と娘に相手にされない。二人はテレビをつけて、国体のアーチェリー競技に参加している、カンドゥの妹のナムジャのプレーに熱中していた。


(注6)日本円に換算すると、1ウォンは0.1円位だが、映像制作時辺りから急激なウォン高が起こって、2009年6月現在、1ウォン=0.075円ほどになっている。100ウォンだと、2006年6月時点で、せいぜい8円位だろう。


 
   まもなく、河川敷にイカと缶ビールを届けに行ったカンドゥは、そこで信じ難き光景を眼にすることになった。


 漢江の怪物(グエムル)が突然出現して、長閑(のどか)に河川敷に憩っていた人々を襲い、暴走するのである。

 カンドゥは一人の勇敢なアメリカ人と共に、グエムルに無謀な戦いを挑むが、怪物の餌になったのはアメリカ青年だった。この辺りに、「在日米軍」に集約される「アメリカ」と、一般(?)のアメリカ人を分けるという作り手の配慮が窺える。この作り手は、アメリカ映画を含むこの国の文化の影響を受けた、「アンチ」の映像作家であるようにも見える。 

 ともあれ、騒ぎで河川敷に飛び出した娘のヒョンソはグエムルに拉致され、娘を助けようと慌てて川に飛び込むカンドゥの努力も、無力さを晒すだけ。

 まもなく、「合同慰霊祭」が、多くの人々の号泣の中で執り行われた。既に遺体なき写真だけを残すヒョンソの下に、叔母のナムジュと叔父のナミルの姿が現れた。

 「ヒョンソ、お前のお陰で、家族が全員そろったよ」と、父のヒボン。

 カンドゥの甲斐性のない生活によって、バラバラだった一家が、ヒョンソの死によって物理的な共存を一時(いっとき)果たしたのである。

 ここからの展開は、家族による怪物退治の話と、在韓米軍経由で韓国政府がウイルス感染説を流して、感染者と目されるカンドゥの拘束、脱走、更に、携帯の連絡によって生きている事実が判然としたことで、「ヒョンソ救出」への家族の結束のエピソードが繋がっていくが、あくまで家族の行動は「ヒョンソ救出」にのみ重点が置かれているから、前者の話は後者の副産物でしかない。

 しかし、ライフルとアーチェリーで武装して、漢江の下水溝の中を闇雲に探す家族の非合理的な行動は、徒労に終わった。

 ここで映像は、冒頭のシーンに出て来た、年端もいかない兄弟の行動を追っていく。弟の盗みを戒めた兄は、ここでも泥棒を止められない弟に、「泥棒」と「荒らし」の違いを説明していた。

 「これは泥棒じゃない。俺たちは売店荒らしをしているんだ。畑を荒らすのと同じ。とにかく『荒らし』はひもじい人間の特権だ」

 そんな兄弟の前に怪物が現れて、兄は餌食にされ、弟は餌の隠し場所の側溝に投げ入れられた。まもなく、そこにいたヒョンソの男勝りの英雄的行動によって、少年は守られていくことになる。

 一方、脱力感に疲弊した家族がそこにいた。

 次の行動に移れないまま、相も変わらず、兄のカンドゥを非難するだけのナミルやナムジュに対して、父のヒボンは長男を庇う説諭を開いていく。

 「お前たちの眼には、カンドゥがマヌケに見えるか?知らないだろうが、カンドゥは子供の頃、頭が良かった。2歳の時だったか、近所の雑貨店に座っていると、通りがかりの人によく道を聞かれた。賢そうな顔をしてたからだろう。・・・知っていると思うが、カンドゥが子供の頃、俺はダメな父親で、外をほっつき歩いていた。母親を知らずに育ったカンドゥは、いつも腹ペコだったよ。だから人の畑をあちこち荒らしちゃあ、有機野菜で飢えをのしのいだ。畑の主人にボコボコにされたこともある。そんなこんなで、育ち盛りの頃にタンパク質不足だったせいか、今でも暇さえあれば病気のニワトリみたいに居眠りばかりだ。ここも(頭を指して)イカれちまったらしい・・・

 お前たちはあの臭いを嗅いだことがあるか?子を喪った親の気持ちが分るかという意味だ。親の心が腐ってしまうと、その臭いは遥か遠くまで広がる。お前たち2人にこれだけは言っておきたい。カンドゥにできるだけ優しくしてやれ。いちいち、けなすんじゃない」

 そこに存分な感情を込めながらも、静かに諭すような父親の長広舌が閉じられた。

 しかし、最初の内は説得力の欠ける父親の話を聞いていた、肝心の二男と長女は疲労のため居眠りし、そして当の張本人である長男のカンドゥに至っては、自分を庇う父親の話を反古にするかのように、最初から就眠の世界に捕捉されていた。この時点で家族の結束はなお、「ヒョンソ救出」という一点のみで繋がれていただけだった。

 
 父の話が閉じた後、突然出現したグエムルとの生死を賭けた戦いが開かれ、カンドゥから受け取ったライフルを手に、父のヒボンは突進してくる怪物に対峙するが、一撃で斃されてしまった。

 弾が一発充填してあるというカンドゥの計算の致命的ミスは、遂に父親まで奪われてしまうことになったのである。

 「米国とWHOは、保菌者2人が逃亡中である点と、謎の生物の捕獲に失敗した点を挙げ、韓国に解決を任せられないとして介入することにしました」

 まもなく、テレビで米軍主体の捕獲作戦が開かれていった。米軍は漢江にエージェント・イエローという最新化学兵器を、ウイルスの蔓延する地域に散布する計画を発表した。

 ヒョンソの居場所が特定できた兄妹の、果敢なヒョンソ救出作戦が再開された。

 その間、様々なエピソードが描写化されるが、その主調音はウイルスの検出がデマゴギーであり、彼らの関心が最新化学兵器の実験にしかないこと、その行動に邪魔である3人の兄妹を捕捉すること以外ではなかった。3人は自国の主権を侵す米軍と、その傀儡(かいらい)である韓国国家と、そして何より、「ヒョンソ救出」の前に立ち塞がるグエムルとの、生死を賭けた戦いを抜け切っていかねばならなかった。

 米軍の散布する黄色い化学物質でも死なない怪物の体内から、少年を抱いたヒョンソを救い出したカンドゥは、弟妹との協力によって怪物を斃したが、ヒョンソの生命は既に途絶えていた。

 鉄パイプによって怪物の息の根を止めた、最後の命懸けの兄の奮闘を、遠くで見守る弟妹がそこにいた。

 ラストシーン。

 居眠りすることなく、雑貨店を守る一人の男。

 髪を本来の黒に戻した、カンドゥである。彼は夜の漢江からの不気味な気配を感じ取って、傍らのライフルに手をかけたが、怪物の姿は見えなかった。

 部屋の中央に堂々と寝ているのは、ヒョンソが救い出したあの少年だった。ご飯を炊き終わって、少年を起こしたカンドゥは、もう昔の「マヌケ」な男ではなかったのだ。

 食事の前の、テレビのニュース。

 「アメリカの調査委員会は、ウイルス事件の結果を発表しました。・・・ウイルスは発見されず、今回のような事態を招いたのは、誤った情報が原因と考えられます・・・」

 テレビを消したカンドゥは、もう事件のニュースには全く関心を寄せなくなっていた。彼はウイルスが存在しなかったことを知っているが、その事実にも関心が失せていたのだ。今は、ヒョンソが命を賭けて守り抜いたセジュ少年を、真の父子のように育てていくこと。それだけにしか関心を持てないカンドゥが、映像の中央に凛とした輝きを放っていた。



 3  「分裂自我」の「究極の疾病様態」  



 ―― 以下、批評に入っていく。


 
漢江・楊花大橋(ウィキ)
アメリカの科学者の命令で、韓国人の科学者が漢江に大量に捨てた毒薬がグエムルになって、その怪物が韓国国民を食い殺していくという物語の図式は、まさに統合失調症の疾病に罹患する韓国国家それ自身の構造性を露わにしているだろう。

 毒薬を捨てるという選択肢以外は許されず、その毒薬によって蒙(こうむ)る被害の甚大さが自分自身に返ってきながらも、それを甘んじて受けるしか選択肢がないばかりか、毒薬を捨てさせた国の命令一下に行動を強いられる理不尽さについて、毒薬を撒かれた国の一般大衆が、その主体性において全く知り得ない状況性 ―― 或いは、それは決定的な選択を迫られた自我が、それを迫った巨大な特定他者によって与えられ、強いられ、それ以外の選択肢を持ち得ない自我の分裂化した状況性であると言っていい。

 本作に登場する「国家」の姿は、在韓米軍の命令一下に動く有機体と化していて、自らがその命令によって撒き、そこで撒かれた毒薬の悪しき産物に自らが喰われていくおぞましさは、恰も、自己の体内に貯蔵する脂肪を燃料として使った挙句、自己を攻撃する物質を生産する自家中毒の如き爛れ方であるように思われるのだ。

 本作の作り手は、自国の歴史的状況性について、そんな認識を持っているかのように見える。

 完全に独立したくても、独立できない不満と、仮に完全独立を果たしたとしても、安全保障を自律的に立ち上げられない不安が同居する「同盟のジレンマ」が、そこに厳然と存在して、この国を自我分裂の状況に絶えず追いやっていると言うのか。

 「同盟のジレンマ」は、相手を失ったら寒さで死んでしまうが、相互に温め合うや否や、その棘によって傷ついてしまうという「ヤマアラシのジレンマ」のようにも見えるが、しかしその関係性において、最も傷つくのが「同盟」という名で呼ばれながらも、自らがフリーハンドの選択肢を充分に持ち得ない、非主体的な弱小国家である点が何とも痛々しい限りである。

 だから、韓国はアメリカの命令一下で行動し、海外派兵をも辞さないという危うさを抱えつつ、それでもアメリカなしに生きられないジレンマ ―― それは、隣国日本の「同盟のジレンマ」よりも、現実的脅威の実感度という一点において、遥かに深刻な状況であると言えるのかも知れない。

 「光州民主化運動29周年を迎えた18日、北朝鮮メディアは、李明博(イ・ミョンバク)政権は統一民主勢力に対する『爆圧攻勢』を行っているとし、韓国住民に向け、反政府闘争に乗り出すよう扇動した。また、光州民主化運動では米国が背後で弾圧を操作したと主張し、『反米民主化闘争』も煽った。

 朝鮮労働党機関紙『労働新聞』は個人名義の論説で、光州民主化運動は『民族の自主権と社会の民主化、国の統一を実現するための、正義の反米・反ファッショ抗争だった』としながら、韓国住民の民主主義と人権は今も外勢と売国奴により蹂躙(じゅうりん)されていると主張。反米自主化闘争を繰り広げ、反逆者らの外勢依存策動を粉砕しなければならないと呼びかけた。

 北朝鮮のウェブサイト『わが民族同士』も、光州民主化運動を通じ、韓国住民は『米国は統一を妨げる最大の障害物』と認識するようになったと述べ、反米闘争を煽った。

 平壌放送は、光州民主化運動は挫折したが、『米帝の植民地ファッショ統治』に甚大な打撃を与え、韓国の自主民主統一運動を大いに鼓舞した人民的大衆蜂起だったと述べた平壌放送は、光州民主化運動は挫折したが、『米帝の植民地ファッショ統治』に甚大な打撃を与え、韓国の自主民主統一運動を大いに鼓舞した人民的大衆蜂起だったと述べた」(「YONHAP NEWS」より)

 この記事が伝えるのは、「将軍様」の国の対米観であり、対韓国への基本的スタンスである。


 この国では、「北方限界線」(海上の軍事境界線)での戦闘の史実と、度重なる領海侵犯による緊張関係の高まり(韓国の海洋警察庁配下の、海洋警察特別攻撃隊の訓練の活発化)に象徴されるように、今も「赤化統一」というスローガンが生き続けているのだ。(画像は北方限界線の地図)

 そんなリアルで冷厳な状況性を考えるとき、韓国の映画監督は、38度線を越えられたら、あっという間に首都ソウルが火の海になる脅威を実感しつつも、南北統一を願う理念系の文脈を捨てないで、なおこのような挑発的な映像を作り続ける宿命を負っているように思える。

 この映画は、アメリカとの関係において「統合失調症」の状態にある国家が、まさにその関係の故に分娩した「分裂自我」の物理的産物である「グエムル」が、それを産み出した国民国家の国民を餌食にして生きるという「究極の疾病様態」であった。



 4  母性を内化した父性の立ち上げの物語 



 ―― 物語の世界に入っていこう。


 上述した「究極の疾病様態」の餌食にされる「力弱き普通の人々」に敢然と立ち向かったのは、「力弱き普通の人々」のカテゴリーから殆ど逸脱しているように見えない、既に求心力を失っているバラバラな家族である、という設定自体が充分に作り手の「アンチ」の精神の具現であったに違いない。

 そんな家族の中にあって、最も「マヌケ」で甲斐性のない茶髪男が、一貫して映像の要所要所を占有するが、その様は自らの「マヌケ」さ故に、愛する娘を怪物に拉致されたり、非合理な捜索活動を継続した果てに家族を疲労困憊させたり、極めつけは、この世で最も自分を理解している父親を犠牲にしてしまう体たらくなのだ。

 その「マヌケ」で甲斐性のない生活故に疎遠になった弟妹に対して、自分を一貫して擁護する父親を喪ったとき、もう茶髪男の人生には喪ってはならない何ものも残っていないかのようだった。

 それでも、娘であり姪でもある少女が生きているという確信を持った3人は、ただそれだけだが、ヒョンソを愛する3人にとって充分過ぎるほど決定的な理由によって、「ヒョンソ救出」に向かっていったのである。



 これ以上ない逆境下で、年下の少年を守ってみせるヒョンソの母性に満ちた立ち居振る舞いは、一貫して饒舌を嫌うかのような、行動派の国体銅メダリスト(ナムジュ)のイメージラインとオーバーラップする強靭なパフォーマンスを印象づけたが、しかし、学生時代の民主化の運動に挫折した経験を持つ弟(ナミル)は、飲んだくれて合同慰霊祭に立ち現われるや、過失によって姪を死なせた兄を決して許せなかったばかりか、国家機関の一方的な指示に対しても、一人声高に反駁していく。

 ナミルの反体制的な性格は映像を通して濃密に映し出されるが、それでもその行動には、理知的な文脈に欠ける裸形の自我を晒していた。

 映像はその間、多分にアイロニーやエンターテイメントの要素を混ぜながら、三者三様の行動様態を繋いでいきながら、怪物との最終決戦と化す「前線」の場を作り出す。

 ヒョンソの死を認知した後の三人の闘争マインドは遂に沸点に達し、「ヒョンソ救出」だけが目的だった彼らの行動の性格は、父親の敵討ちの感情も溶融して、怪物退治という一点に集約されていくのである。

 兄弟妹の三人の個々の自我が、そこで初めて繋がって、「兄弟妹」という名に相応しい関係を構築し得たのである。

 弟が連れて来たホームレスが怪物にガソリンを撒き、そこに妹のアーチェリーの火矢が突き刺さる。米軍の怪しげな化学物質作戦によっても致命傷を与えられなかった怪物が、比較相対的に、極めて原始的な武器による攻撃によって初めて狼狽し、自壊の様相を見せたとき、随所で「マヌケ」な展開を見せていた茶髪男の鉄パイプが止めを刺すに至ったのである。

 それを近くで見届ける弟妹の視線には、父と娘を喪った兄の、その剛力無双の神懸ったパワーと執念が捉えられ、三人の距離が決定的に近づくシグナルとなった。

 これは最も大事な家族を喪った男が、その男と距離を置いていた弟妹の協力を得て、新しい家族を再生させる男の物語でもあったのだ。

 母性を発揮して命を落とした娘の、その壮絶な死が置き土産にした別の生命を、娘の父がまさに父性の対象として、「家族」という名の物語を再駆動させていくのである。


 要するにこの映画は、茶髪男から始まって黒髪男に終焉する、母性を内化した父性の立ち上げの物語であると同時に、アメリカから始まってアメリカに流れていく絶対支配の自家中毒の物語でもあった。

 前者が後者によって稀釈化されることのないパワフルな突進力は、それでもなお後者が抱える、戦慄すべき黒々としたラインを突き抜けられない脆弱さをも露わにする。

 従って、この二つの物語の基幹の文脈の不均衡さの内にこそ、作り手のメッセージを読み取ることも可能だが、そこに過剰に込められた挑発的な映像ラインは、両者をも吸収し得る尖り切った娯楽ムービーの劇薬性を検証する何かであったとも言えるだろう。

 それにしても、この映画の劇薬性は抜きん出ていた。

 映像の中で映し出される国家機関の振舞いは、怪物の餌食になっている非武装の国民を守護するという本来の役割を全く果たさずに、在韓米軍が流布したウイルス感染説のストーリーラインに沿って、怪物に襲われた者たちの捕捉にのみ挺身するのだ。

 お蔭で、主人公の家族は二重の敵との戦いを強いられ、隔離されるだけに留まらず、脳の手術をされたりした挙句、脱走しても指名手配の対象となって、追い駆けられる始末。

 この経験があったからこそ、バラバラ家族の絆を強化するという分りやすいストーリーも、娯楽ムービーの定番として受容できるのだが、それでもなお印象づけられる本作の劇薬性は、確信的に予定調和のラインを突き抜けてしまう、作り手特有の「アンチ」の精神の激しい鼓動が生み出したものであるだろう。

 恐らくこの監督は、「抑制」、「均衡」、「調和」、「妥協」、「内省」、「静謐」、「未消化」、「寛容」、「沈黙」、「取引」、「淡然」、「服従」、「非行動」等々といった言葉に対して、確信的に否定的なのだ。自分が感じ、描いたイメージを作品に塗り込めていかないことが苦手であるか、それとも「生理的」に厭悪(えんお)しているに違いない。

 怪物(グエムル)が餌の隠し場所である漢江の側溝の中に、食事後の人肉の骸(むくろ)を大量に吐き出す描写の過剰性は、その側溝こそが、この国の人々の未来の墓場であるというメタメッセージすら読み取ることが可能であり、とても「ホラームービー」の感覚で受容し切れない畏怖感を痛烈に印象づけて止まなかった。

 ビキニ環礁の核実験の産物である「ゴジラ」は、首都東京を破壊するが、決してそこに住む人々を「餌」にすることはなかったばかりか、シリーズ5作目(「三大怪獣 地球最大の決戦」)に至っては、「ゴジラ」が人類の味方として出現し、まさに正真正銘の「映画の主役」へと見事な変容を遂げていったのである。

 それに比べると、「ゴジラ」より遥かに小さい「グエムル」が、いつしか人間の味方になるという設定はとうてい考えられないだろう。なぜなら、人間を捕食して命を繋ぐ怪物の未来には、「破壊するか、破壊されるか」という選択肢以外にイメージされないからだ。

 ポン・ジュノ監督が作り出した怪物象の底知れぬ不気味さは、「ゴジラ」に仮託されるイメージよりも遥かに現実的であり、実感的な恐怖に近いのである。


 「グエムル」―― それは、背後に海を抱える断崖にまで追い込まれた「釜山橋頭堡」に象徴される戦慄すべき過去を持ち、今や「核の傘」条項を明文化するという決定的な選択をしたこの国にとって、好むと好まざるとに関わらず、4万弱の「在韓米軍」を必要とせざるを得ない、苦渋に満ちた遣り切れなさが破裂したときの「分裂自我」それ自身であるのだろう。それ故にこそ現実的であり、実感的な恐怖であるということか。

 そんな「分裂自我」の餌食にされまいと、大河の向こうから運ばれてくる不気味な呼吸音を聞き漏らすまいと、日夜、必死に警戒の念を捨てない黒髪の男がそこにいる。再び立ち上げた家族を、もう自らの不手際によって壊してはならないのだ。

 だから男は、今夜もライフルを傍らにおいて、男にとっては全く預かり知らない怪物への警戒の念を、一時(ひととき)でも捨てる訳にはいかないのである。

(2009年7月)

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