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2009年12月11日金曜日

レイジング・ブル('80)      マーティン・スコセッシ


<技巧を欠損させた男の損益分岐点>



1  決してダウンしない男 ―― ブルファイターの矜持



「俺は自分でやる」

この言葉を信条にするほどに、人に頼るのを最も嫌う男。

パウンド・フォー・パウンド(ハンディなしに全階級の格闘家が闘ったと仮定したときの最強チャンプ)の栄誉を讃えられ、史上最強のボクサーと称された、シュガー・レイ・ロビンソンを唯一倒したその男の名は、ジェイク・ラモッタ。

本作の主人公であり、伝説的な実在のボクサーの名である。

「ただ、一度こうと思うと強情で脇目も振らない。キリストが十字架から降りても、彼は知らん顔で自分の決めた道をまっしぐらだ」

これは、八百長を持ちかけられたとき、弟のジョーイが組織のボスに、兄について語った言葉。

そんな男が、ごく普通のレベルの損得計算ができて、マネージャー兼セコンド、スパーリングパートナーを務めるジョーイの介在によって、嫌々ながら八百長試合を受諾し、当時から有名なスポーツアリーナであるマジソン・スクエア・ガーデンでそれを実行したのは、世界戦へのチャンスを得るため。

1947年のことだった。

ところが、八百長のリングに上がっても、ジェイク・ラモッタは決してダウンしない男だった。

ダウンしない男は、相手を合法的に殴り、且つ、殴られることによってのみ、自己の存在証明を確保できかのようなのだ。

「何でだ。何であんなことを・・・」

八百長試合なのに自らでダウンできずに、クリンチしなければ倒れてしまうほど弱い相手に負けた後、控室で弟の胸に顔を埋めて泣き崩れる男。

ジェイク・ラモッタは、そんな男だった。

この男は、ヒット・アンド・アウェイを基本とするアウトボクシングとは無縁な、パンチをもらっても臆することなく前に出る典型的なブルファイターなのである。

それが、技巧に頼ることを最も嫌う男の戦闘スタイルだったのだ。

これまでの紆余曲折の人生を通して、自力で克服してきたことを誇りとする男の帰結点が、ブルファイターの世界だったのである。

八百長試合に至るまでのそんな男の前半生について、「ウィキペディア」は伝えている。

「1921年、イタリア人の父とユダヤ人の母の元に生まれる。幼少期からブロンクスでストリートファイトに明け暮れていたラモッタは、彼を補導した警察官にジムへ連れて行かれボクシングを始める

1941年プロデビュー、類稀なタフネスとスタミナと恐れを知らぬブルファイトで徐々に実力と知名度を上げていく。相手は打っても打ってもラモッタは全く効かず、旺盛な体力とパワーで決して引く事なく前進し、乱戦に持ち込んで打ちまくるというのが彼の戦法であった」

ジェイク・ラモッタ
「強烈でアグレッシブな試合ぶりからBronx BullやRaging Bullとのニックネームを持ち、多くの識者により史上最もタフな選手と評されている」という一文が、ニューヨークのスラム出身で、「殴り合う」行為に馴れ親しんだ思春期を過ごした、この男のボクシングスタイルの本質を言い当てているだろう。



2  ギリギリのところで折り合いを得た、技巧性を排除する特性的な感情形成の損益分岐点



そんな男の人生だからこそ、損得原理で動く技巧性よりも、難局を突き抜けていく腕力への幻想が常に勝ち過ぎてきた。

しかし、男のその抜きん出た腕力は、男を輝かせる最高のステージであるリングにあって、試合を重ねる度に、「ブロンクスの“レイジング・ブル(怒れる牡牛)”」の異名を轟かせることに成就したが、男が愛する妻、ビッキーとの生活の共存性の中では、技巧を駆使できない男の致命的な瑕疵だけが暴走してしまうのである。

男好きのする印象の強い、妻のビッキーに対する嫉妬心の過剰さは、弟のジョーイから「病気だ」と言われる始末。

「こと、女房に関しては誰も信用しない。嘘をついたら、必ず誰かを殺す」

そんなことを言ってのけるジェイクに、ほとほとジョーイも愛想が尽きていく。

あろうことか、ジェイク・ラモッタは、妻のビッキーへの監視をも依頼して、それを実行した弟のジョーイを疑った挙句、家族の団欒の中枢にいたその弟に襲いかかって、散々、殴る蹴るの傍若無人ぶり。

マルセル・セルダン
その蛮行は、彼がフランスの世界チャンプのマルセル・セルダン(「愛の讃歌」のモデルで、エディット・ピアフのの恋人として有名)をKOして、初の世界チャンピオンになった栄光を勝ち得た直後だったのである。

技巧に頼ることを最も嫌うブルファイターは、その日常性と地続きだったという訳だ。

要するにこの男は、人の愛し方を知らないか、またはあまりに欠如しているのである。関係の適正距離を形成する感覚が不足し過ぎているのだろう。

愛の本質は援助感情にあると私は考えるが、男の場合、それが一貫して自己中心的過ぎていて、いつも空回りしてしまうのだ。

愛するパートナーに対する想像力よりも、独占感情という、愛情を構成する一つの尖った感情傾向のみが、この男の場合、常に突き抜けていて、これが、愛する妻を失う最も重大なキャラクター因子になってしまったということである。

男の人間関係もまた、最低限の成人男子の損得計算すら欠如して、独占欲に起因する嫉妬心によってブルファイターぶりを延長させる男だった。

或いは、彼の独立心の顕著な性格傾向(依存心の不足)は、簡単に他人を信頼しない心理傾向の裏返しであり、思春期に定着したと思えるその過剰さが、自我形成基盤であったスラム生活と無縁でなかったとは言えないだろう。

従って、彼の独占欲に起因する嫉妬心もまた、他人を信頼しない心理傾向を定着化させた思春期自我のうちに、損得原理で動く技巧性を排除する感情特性を形成することで、殆ど「快・不快の原理」で流されていく児童期の自我を延長させてしまったとも考えられるのだ。

損得原理で動く技巧性を排除する感情特性の形成によって、生来の攻撃性・突進性・頑健性・依存拒否性等を合法的にリンクさせる職業と出会うことで、一人の放埓な男は、唯一、その恵まれた能力、即ち、自分がどれほど殴られても倒れない自信を起動力に、相手を存分に殴り倒す抜きん出た腕力を、思春期以降、自覚的に磨き上げていった結果、「ブロンクスの“レイジング・ブル”」と呼ばれる成功したプロボクサーに化けていったのである。

それこそまさに、技巧性を排除する特性的な感情形成の流れ方が、利益と費用の均衡性が保持される損益分岐点において、ギリギリのところで折り合いを得たということなのだろうか。



3  自己を客観化・相対化させつつも、「不倒者」の人生を堂々と生き抜く男



映像のラストシーンに繋がる重要な描写があった。

本人には預かり知らないことだったが、未成年の少女を、自分の店のホステスに雇用した罪で独房に入れられたのである。


牢獄の闇に、一筋の光が指す小さなスポットで、ジェイク・ラモッタは呻吟するのだ。

「バカ、バカ…なぜ!なぜ!なぜ!何でだ、このバカ!お前はバカだ・・・救い難いバカだ・・・何がケダモノだ・・・そんなに悪くないぞ・・・なぜ、こんな目に遭わされる。悪くないのに・・・ダメな男さ・・・」

牢獄で、男は自分の頭を壁に何度もぶつけ、嗚咽しながら繰り返し嘆くシーンが意味するものは、或いは、少しは自分を客観化・相対化できた男の人生の技巧性をレベルアップさせたということだろう。

そしてラストシーン。ファーストシーンに戻ったのである。

1964年。ニューヨーク。

バルビゾン・プラザ・シアターの楽屋で、引退後の肥満体型を持て余すかのように、かつてのブルファイターは、一人鏡に向かって、映画「波止場」の台詞の一節を口誦していた。

「人間はツキさ。映画“波止場”のブランド役がいい例だ。有望な若者が落ちぶれて、確か車の中で、兄のチャーリーにこう言った。

“悪いのは兄貴なんだ。あの夜、控室で言っただろう。稼がせな、ウィルソンに勝たせて。それで、わざと負けた。本当は勝とうと思えば勝てたのに。結局、ウィルソンが挑戦者。その後の俺は、芽が出ずじまい。あの夜でツキが変わったのさ。坂から転げ落ちるようにダメになった。ひどいぜ、チャーリー。兄貴のくせに。弟のことを考えなかった。面倒を見るどころか、八百長ばかりやらせて、泡銭稼ぎに夢中になってた。分ってるのか。あのとき俺が、挑戦者になってりゃ、道も開け、こんなクズにならずに済んだ。そうだろう?悪いのは兄貴だ。兄貴なんだ”」

エリア・カザンの代表作として著名なこの作品は、日雇い労働者である元ボクサーが、ボスの命令で、殺人に関与して懊悩し、「裏切り者」のレッテルを貼られながらもボスの不正を告発し、立ち向かう物語である。

チャーリーとは、「波止場」の主人公の元ボクサーの兄のこと。

「波止場」の主人公
ジェイク・ラモッタは、この独白を通して、「波止場」の主人公である元ボクサーのテリーに自分を重ねている。

と言うより、彼にはあの屈辱的な八百長試合の一件が生涯の不覚となっていて、兄弟の関係を逆転させながら、その八百長試合を引き受けた弟の行為に対して、今でもどこかで恨めしく思っているのだ。

それほどにこの男は、「勝とうと思えば勝てた」試合を、八百長故に負けた一戦の悔しさが忘れられないのである。

しかも、クリンチしなければ倒れてしまうほど弱い相手に負けたことで、自分の本来的なブルファイターぶりを封印させられた現実の記憶が何より赦し難いのだ。

その後、ファイングポーズを取って、この男は、「俺がボスだぞ、ボス、ボス」と吐き捨てながら、鏡の前で、激しいボディーブロー攻撃によるシャドーボクシングを繰り返す「位置決め動作」を止めなかった。

この男は決して、「ダウンしないボクサー」という矜持を捨てていなかったのである。

“私は盲であったが、今は見えるということです”という聖書の言葉でも判然とするが、映像の最後のキャプションに引用される一文に集約されるように、彼流の反省を経て、少しは自分を客観化・相対化させつつも、しかし今なお、この男は、「ブロンクスの“レイジング・ブル(怒れる牡牛)”」と呼称された、「ジェイク・ラモッタ」という「不倒者」の人生を生きようとしているのだ。

「ジェイク・ラモッタ」という固有名詞によって、これからも主観的には、その味付けを「正のフィードバック」のラインのうちに調節させながら、堂々と生き抜く男の人生には、決してダウンしない未来像のイメージ以外にないということだろう。

以下、映像の最後のキャプションに引用された聖書の言葉を添えておく。

「そこでパリサイ人たちは、盲人であった人を、もう一度呼んで言った。“神に栄光を帰するがよい。あの人が罪人であることは、私たちには分っている”すると彼は言った。“あの方が罪人であるかどうか、私は知りません。ただ、一つのことだけ知っています。私は盲(めしい)であったが、今は見えるということです”」(新約聖書 ヨハネ福音書第9章24-26より)

「今は見える」と放って自分を客観化・相対化させつつも、「不倒者」の人生を堂々と生き抜く男がそこにいた。



4  危険を顧みない技巧の導入が支えたリアリズム



映像に登場する人物の何某に感情移入できなければアウトという鑑賞者には、一貫して湿潤性が不足するマーティン・スコセッシのザラザラした表現世界は苦手であるか、それとも厭悪して避けてしまうかも知れないが、一切の欺瞞性を排し、彼の映画作家としての人生を賭けたかのような一連の実験的映像群に、私は最大級の評価を惜しまない者である。

本作こそ、その中の代表的な映像であり、見事というより他にない天晴れな表現宇宙が、全篇に漲(みなぎ)る躍動感の中で踊っていた。

ここに、本作の表現宇宙の極め付けのような描写がある。

観る者の度肝を抜くほどのファイティング・シーンのリアリズムが、映像の後半の流れを支配したその描写は、本作の圧巻と言える決定力を充分に表現していた。

当時、世界ウェルター級のチャンピオンであったシュガー・レイ・ロビンソンと、世界ミドル級の王座であるジェイク・ラモッタの、その防衛戦におけるファイティング・シーンがそれである

何とこの試合で、ジェイクはシュガーとの6度目の因縁の対戦となるが、その決着をつける最後の決戦として、両者ともに、後々語り継がれるファイトを繰り広げたのだった。

その最後の決戦のリングで、終盤に至るまで、挑戦者のシュガーをコーナーに追い込みながらも攻めあぐんでいたジェイクは、シュガーの堅固なブロックに阻まれ、決定的なポイントを奪えないでいた。

そして、魔の13ラウンド。

2分30秒に及ぶこのラウンドのシーンの壮絶さは、シュガーによる一方的な攻撃に対して、ロープを背後に打たれる一方のジェイクの鬼気迫る表情がアップで映されることで、超ド級の臨場感を生むリアリズムの決定的な描写となったのである。

「来い、何してるんだ!」

ロープで身を支える男は、両腕を下げて、相手のパンチを挑発して止まないのだ。

打ち疲れたシュガーは、数秒間の間を取った後、決定的なストレートを相手の顔面に連射し続けたのである。

「しかし、倒れません。驚くべき執念。息詰まる熱戦。場内は騒然」

実況のアナウンサーも、信じ難い光景を目の当たりにして興奮気味だった。

レフェリー・ストップがコールされても、ジェイク・ラモッタは「不倒の男」として、リングの中枢に、その血だらけの顔を歪めながら、なお試合の続行を求め続けていた。

「沈まなかったぜ。ダウンしなかった。そうだろう?倒れなかった・・・」

「不倒の男」は、そう呟き続けた。

事態の収拾に手間取るレフェリーは、一瞬、前人未到のファイトを誇示する男に向かって、小さな笑みを漏らした。しかしそれだけだった。

ジェイク・ラモッタが3度目の防衛に失敗して、チャンピオンベルトを譲り渡した壮絶な試合が、こうして終焉したのである。

シュガー・レイ・ロビンソン
後に、シュガー・レイ・ロビンソンとのリングを血飛沫で染めたジェイク・ラモッタの壮絶な闘いは、「セントバレンタインデーの虐殺」と呼ばれることになるが、ここに、そのリアルなファイティング・シーンの映像を保証した内実を明かす興味深い一文がある。

「特筆すべきはそのファイティング・シーン撮影方法だ。普通数台のカメラがリングの周囲に設置され、さまざまなアングルからファイターたちの動きを捕らえるという方法が取られるが、『レイジング・ブル』では使われたカメラはハンディな機種1台だけ。それをリングの中に持ち込み、終始ファイターの動きに焦点が合うように撮影された」(文・塚田浩 ワーナー・ホーム・ビデオ解説書より)

ハンディカメラをリングの中に持ち込んで撮影した手法が、超ド級の迫力あるファイティング・シーンの臨場感を生み出したのである。

それは、徹底したリアリズムによって貫徹された映像が、危険を顧みない技巧の導入によって支えられていた事実を検証するものだった。

ともあれ、この壮絶なファイティング・シーンが、「不倒の男」が映像で見せた最後の描写となって、以降、映像は変転する男の人生の起伏に富んだ流れ方をフォローしていくが、自らの前半生を回顧するラストシーンに収斂される物語の閉じ方は、どこまでも安直な自己完結を拒む作り手の固有の表現宇宙を象徴するものだったと言えるだろう。



5  「人生の敗北」を認知せずに、「不倒の精神」を継続させる男の強靭さ


総括的に書けば、この映画は、一貫して自己基準で生きてきた男が、愛する妻から三下り半を突きつけられたり、信頼する弟から愛想を尽かされたり、また反省の時間を持つことで、「私は盲であったが、今は見える」という聖書の言葉の引用に見られるように、見えなかった自分の過去の誤謬に気付いたりしても、結局、この男の自我の中枢に張り付く、「不倒の精神」への拘りだけは全く変質しなかったのである。

ラストシーンで見せた、シャドーボクシングの切れのいい動きに集約される男の人生は、「困難な局面に遭遇しても、決してダウンしない」ことを身上とするメッセージ以外の何ものでもなかった。

この男の主観世界には、「局面での失敗」という心地悪い事態が繰り返されても、決してそれは、「人生の敗北」を意味しないし、男の人生の前線が根柢から崩壊することをも意味しないだろう。なぜなら、男の観念の内側には、「ダウンする」という概念が全く含まれていないからである。

「人生の敗北」を認知せずに、「不倒の精神」を継続させる男の強靭さ ―― 本作は私にとって、そのような文脈で了解し得る映像であったということだ。


(2009年12月)

2009年11月30日月曜日

タクシードライバー('76)       マーティン・スコセッシ


<「英雄譚」という逆転ドラマの虚構の終焉>



1  男の内側に潜む妄想心理という魔物



殆ど病的な不眠症の故に、夜勤のタクシードライバーを仕事にする一人の男を介して、マーティン・スコセッシが特定的に切り取った、「悪の溜まり場」の「ビッグアップル=アメリカの現状況性」というラベリングを、フィルムノワールの黒々とした旋律で映像化した奇跡的傑作。

男の名は、トラヴィス・ビックル

映像は、トラヴィスが記す日記を通して、どこまでも彼の視界から捕捉された、「悪の溜まり場」の「ビッグアップル=アメリカの現状況性」の爛れた夜の世界を象徴する、売春婦、ホモ、オカマ、麻薬売人、ヤクザなどの腐敗の現実を特定的に切り取って、それらを「悪の巣窟」と断じる男の肥大した妄想が日々拡大されていく危うさを、スコセッシ特有の湿潤性を拭った散文的な筆致によって再現されていくのだ。

ファーストシーンの鮮烈さが、いきなり、観る者の受容感度の非武装さを突き抜いてきた。

辺り一面に白煙が立ち込める不気味な画像の中に姿を現す、一台のイエローキャブ。

その白煙の向こうに、爛れ切った夜の街を闊歩する者たちのラインが繋がって、それを視界に収めるギラギラした男の眼は、紛れもなく、凶暴なハンターのものだった。

この挑発的なシーンこそ、「悪の巣窟」を払拭する意志を持つ男の、その立ち上げのマニフェストだったのか。

鮮烈な映像の中で、男の暗い情念だけが吐き出されていく。


「雨は人間の屑どもを、舗道から洗い流してくれる。僕は常勤になった。勤務は夜6時から朝6時。たまに8時まで。週に6日。7日の時もある。忙しいとぶっ通しで走る。稼ぎは週350ドル。メーターを切ればもっと多くなる・・・・・・

夜、歩き回る屑は、売春婦、街娼、ヤクザ、ホモ、オカマ、麻薬売人。すべて悪だ。奴等を根こそぎ洗い流す雨は、いつ降るんだ?客に言われれば、俺はどんな所へでも行く。気にならない。どこだって同じだ。黒人を乗せない奴もいる。俺は平気だ・・・・・・

ガレージに戻ると、客が汚した座席の掃除だ。血が付いている時もある・・・・・・12時間働いてもまだ眠れない。畜生、毎日過ぎていくが終わりはない。俺の人生に必要なのはきっかけだ。自分の殻だけに閉じこもり、一生を過ごすのはバカげている。人並みに生きるべきだ」

深刻な不眠の地獄が、「終わりなき日常性の空洞感」を加速させる孤独な人生を、決定的に変容させる「きっかけ」を必要とする男が、そこにいた。

そんな男の孤独な人生に穿たれた空洞感を埋めるに足る、決定的な転機が出来した。一人の女との、「運命的」であると信じる出会いが生まれたのだ。

「初めて彼女を見たのは、63丁目の選挙事務所だ。白いドレスを着て、まるで天使だった。この掃き溜めには・・・あの気品、誰も彼女に触れることは不可能だ」

「人間の屑どもを、舗道から洗い流してくれる雨」を切望する男の、極端にネガティブな妄想を稀釈し、中和化してくれる人格媒体こそ、パランタイン大統領候補の選挙事務所で見かけた運動員のベッツィだった。

ベッツィ
それもまた男の妄想の厄介な発動だったが、彼女との運命的出会いを信じ、それを唐突に告白する男が手に入れた一服の清涼感。

そのとき男は、選挙事務所に堂々と乗り込んで、女にいきなり切り出したのだ。

「ボランティアに来た」
「私を手伝う理由は?」
「君のような美人は初めてだからさ・・・君は独りぼっちだ。ここを通る度に見ていると、君の周りに大勢、人はいて、電話や書類で一杯だが、何の意味もない。ここに来て君に会い、その眼や動作を見ても、君は幸せな人じゃない。君には何かが必要だ。多分、それは友だちだよ」

ピークアウトに達した男の妄想言語は、止まる所を知らなかった。

「・・・俺たちの間には、強く感じる何かがあった。だから、君と話したんだ。さもなければ、君に声などかけやしない」
「初めて、あなたみたいな人・・・“預言者と麻薬の売人”…事実と作り話が半々の、歩く矛盾よ」

呆れながらも、未知の世界に棲む男の妄想言語に、女は一抹の好奇心のみで次のデートを約束させられた。

そして男は女を映画に誘い、呆気なく破綻する羽目になる。

女にポルノ映画を見せたからだ。

その奇怪な行為によって、たった一度のお義理のデートを結んだに違いない関係が、立ち所に破綻する事態すら計算できない男の観念は、どこまでも自己中心的であり、決定的な想像力に欠けていた。

決定的な想像力の欠如に関与する男のメンタリティの根幹には、男の内側に潜む妄想心理という魔物がある。

果たして、件の男が「妄想性人格障害」の主であるか定かではないが、他者と親密な関係を構築できず、孤独を深めるだけの男にとって、妄想心理の身体化による様々な破綻の現実は、男をいよいよ孤独なテロリストに変えていくのだ。



2  「戦士」として、自らを雄々しく立ち上げて



ポルノ映画を見せて呆気なく破綻したベッツィとの関係を修復すべく、トラヴィス・ビックルは執拗に電話をかけ、謝罪する。

「この間は、君の気分を壊して悪かった。別な映画に連れて行けば良かったんだ。機嫌を直してくれ。君は働き虫に喰いつかれ、気が立ってるんだ」

なお妄想言語を繋ぐ男の精神構造には、当然の如く、相手の心理を深く斟酌した言語を紡ぎ出せない。

拒絶された男は、遂にパランタインの選挙事務所に乗り込むが、追い出される始末だった。

ベッツィから全く相手にされない男は、怒号を上げた。

「君のような人間は死んで、地獄に堕ちろ!」

それは、「終わりなき日常性の空洞感」を埋めるに足る決定的な転機を必要とするトラヴィスが、全てを失った瞬間だった。

「やはり彼女も冷たくて、よそよそしい人間だった。そんな奴が沢山いる。女にも・・・」

この一連の「失恋譚」の顛末は、以上の日記のモノローグでも判然とするように、異常なクライマックスに流れていく伏線として、本作の最も重要な場面であるだろう。

全てを失ったと感受するトラヴィスは、ドライバーの先輩に自分の思いの一端を打ち明けた。

「完全に落ち込んだ。ここから飛び出して、何かやりたいと思っている」

この言葉が包含するネガティブな意味が理解できない年配のドライバーは、慰めにもならない言葉を返した。

「どうせ俺たちは負け犬だ。何ができる?」

この言葉に、トラヴィスはもう反応する術を失った。

「こんなバカげた話は初めてだ」

年配のドライバーは、色々、トラヴィスのためにアドバイスを送るが、「お前が何を考えているのか、さっぱり分らん」と嘆息するばかり。

「俺にも分らない」

トラヴィスの嘆息の深さは、誰にも推し量れない世界の中にあった。

「どこにいても、俺には淋しさがつきまとう。逃げ場はない。俺は孤独だ」

日記に綴る男のモノローグが、いよいよ沸点に達しつつあった。

一切は、男にとって了解困難な、女の拒絶という深刻な攻撃性を受けたことに淵源する。

男はこの絶望的な空洞感を埋めるために、遥かに大きなテーマを自らに課し、それを実践検証していくことによってしか自己有能感を確認できない際(きわ)にまで追い詰められていたのだ。

タクシードライバーのトラヴィスが、裏のルートを介して、拳銃を購入したのは殆ど必然的であった。

彼の精神世界が、既に、「悪の巣窟」を一掃するという妄想心理の魔物との親和性が身体化する方向への、その狭隘な出口を抉(こ)じ開ける条件を加速させてしまっていたのである。


「また人生の転機が来た。だが、時は規則正しく過ぎて行く。漠然とした毎日が、長い鎖のように続く。しかし、突然、それが変わった」

男の内側に深々と横臥(おうが)する黒々とした情念は、遂に狭隘な出口を抉じ開けてしまったのである。

マグナム、38口径、コルト25、ワルサーの4丁の拳銃、加えて、メキシコ製ホルスター(拳銃をつり下げるための革ケース)を手に入れたトラヴィスは、かつて彼がベトナム戦争に派遣された海兵隊の前線兵士であったように、今また一人の「戦士」として、自らを雄々しく立ち上げていくのだ。

「なまった体を鍛え直すため、きつい訓練を開始する。毎朝、腕立て伏せを50回、懸垂も50回。薬の乱用や粗食は止め、健康の回復に努めて、全身の筋肉を強化する」

これは、「戦士」として自らを立ち上げた男の、自己改造のマニフェスト。


鏡に向かって、銃の早撃ち訓練を繰り返しながら、男は思い切り感情を込めて、仮想危機トレーニングと思しき独言を繋いでいく。

「俺はここだ、やってみろ。やれって言うんだ、やれよ。止めとけ、バカ。俺に用か?どうなんだ?誰に言ってるんだ、俺か?俺しかおらん。一体、誰と話してるんだ?」

「頭の中で、計画は進んでいた。真の力。他の者はそれを元通りにできない」

男のモノローグは、もう後戻りできないポイント・オブ・ノーリターンの際(きわ)にまで、自らを押し出していた。

その際で、男の戦闘宣言が吐き出されていったのだ。

「よく聞け、ボンクラども。もう、これ以上我慢できん。分ったか、屑ども。これ以上、我慢できん。あらゆる悪徳と不正に立ち向かう男がいる。絶対に許さん。俺さ・・・」



3  眠らない夜の市街地を、苛烈な「前線」に変えた男の主観の暴走



たまたま立ち寄った食料品店で、トラヴィスは強盗を撃ち殺すという事件を惹起したが、命を救われた食料品店主の機転で、トラヴィスはその場を立ち去った。

これが、「戦士」として自らを立ち上げた男による、最初の「戦闘」の実践訓練となったのである。

「戦士」としてのトラヴィスの、「悪の巣窟」のターゲットは既に特定されていた。

アイリスとトラヴィス

売春婦の少女、アイリスの救済のため、少女が「拉致」されていると信じる売春組織の解体である。

以前、イエローキャブを夜勤中に流していたトラヴィスのタクシーに、スポーツと仇名されるポン引きに追われた少女が逃げ込んで来たことがあった。その少女売春婦こそ、アイリスだった。

トラヴィスはそのとき、スポーツに連れ去られて行くアイリスを、同情含みの視線でいつまでも凝視し続けていた。

トラヴィスは、アイリスが「拉致」されていると信じる売春組織の「悪の巣窟」に客として入り、少女と会って、「君を救いたい」と一方的に宣言したのである。

翌日、トラヴィスは、レストランでアイリスと会って、そこでもまた、一方的に説教を結んでいく。

「君が今、付き合っているのは人間じゃない。屑だぞ。そんな奴らのために体を売ってどうなる?あれは寄生虫だ。人間じゃない。ズレているのは、俺じゃなくて君だ・・・奴らから金をもらうな。金の心配は俺がする。しばらく会えないが・・・」

謎の言葉を最後に残して、トラヴィスは少女を親の元に帰そうとする。

「お説教の好きな人ね。間違いはしたことないの?」

少女はトラヴィスの善意を朧(おぼろ)げに理解したが、妄想観念の過剰な男の言葉の暴走に、初めから素直に従うつもりはなかった。

ここでも、男は肥大した妄想の世界に捕捉され、その狭隘な観念の中で踊っていたのだ。

「しばらく会えない」という男の言葉が、何を意味しているか、その直後の映像は鮮烈なイメージを被せて映し出した。

「今、俺の人生は一つの方向に向かっている。はっきりと。初めてのことだ」(モノローグ)

「一つの方向に向かっている俺の人生」とは、ベッツィとの関係を最終的にケリをつけることだった。

彼女が選挙事務員として応援している、大統領候補のパランタインを暗殺すること。これが彼の「やり残した仕事」だったのだ。

トラヴィスはモヒカン刈りになって、選挙演説の集会場に現れた。

演説が終わって帰路に着くパランタインに、一歩ずつ近づいて、トラヴィスは懐から拳銃を抜こうとした。

その瞬間、パランタインを警護するシークレットサービスに気付かれ、トラヴィスは未遂の状態で、素早くその場を逃走した。

その場を逃走したトラヴィスが向かった先は、もう一つしかない。アイリスが拉致されていると信じる売春組織の「悪の巣窟」だった。

「戦士」と化した男は、立ち所にポン引きのスポーツを射撃し、ビル内に入り込んで、組織を仕切る男の右手を撃ち砕き、そしてアイリスの客を至近距離で撃ち抜いた。

更に、なお向かってくる組織のボスの左手をナイフで刺し、顔面を銃で撃ち抜いたのである。


自らも頸に重傷を負い、右腕を至近距離で撃たれたトラヴィスは、最後に拳銃で自殺を試みるが、既に銃丸が切れて未遂に終わった。

まもなく、3名の警官が銃撃現場に入って来て、一切が終焉した。

映像は、この銃撃場面の鮮烈なカットを、天井をくり抜いた階上からの俯瞰撮影で描き出し、鮮血の赤が飛沫となって噴き上げる狂気のスポットの、その爛れ切った凄惨な地獄絵図を、徹底してリアルな構図の内に再現したのである。

眠らない夜の市街地を「前線」に変えた男の主観の暴走を、一貫してフォローする映像は、騒いだ果ての観念のハードランディングに行き着く鮮烈な顛末の内に、映像の勝負を賭けたこの3分弱のシーンの括りもまた、ソフトな描写の欺瞞性を撃ち抜くニューシネマの心意気を検証するものだったのか。




4  バックミラーで凝視した、ギラギラしたハンターの視線の向こうに



男は死んでいなかった。

それどころか、「悪の巣窟」に拉致された一人の少女を命懸けで救出した英雄として、連日のようにメディアを通して報道されていたのだ。

「トラヴィス様 あなたが快方に向かわれたと聞き、家内と喜んでおります。娘のアイリスを迎えに行ったとき、病院に寄るつもりでしたが、あなたは意識不明でした。

アイリスのことは、お礼の申しようもありません。失われた生活が、また元通りになりました。今や、あなたは我が家にとって英雄です。

アイリスの近況ですが、学校に戻り、勉強に励んでいます。環境が変わったことに苦労はしていますが、二度と家出などさせないことをお約束します。最後に家内共々、心より深くお礼申し上げます・・・」

これは、アイリスの親からトラヴィスに贈られた感謝の手紙。

まもなく、復職したトラヴィスは、自分を裏切ったと妄想するベッツィと再会した。彼女の方から会いに来たのである。

「新聞見たわ、元気?」とベッツィ。
「大丈夫。平気さ」とトラヴィス。

それだけの会話だった。


ベッツィを目的地まで送ったトラヴィスは、彼女が降車するところを、バックミラーで凝視した。

紛れもなく、そのギラギラしたハンターの視線は、本作のファーストシーンで見せた男のそれに近かった。



4  「英雄譚」という逆転ドラマの虚構の終焉 ―― まとめとして



トラヴィスの自我の崩れの背景が、海兵隊時代のベトナム経験とどれほどリンクしているか定かではないが、少なくとも、深刻な不眠症の爛れの連鎖の中で、孤独を極めた男の自我の空洞感の広がりが、妄想の果ての「失恋」を招来するに至った経緯については、男の自我の形成過程と無縁であるとは思えない。

DSM-IV(精神疾患の分類と診断の手引き)の7項目の基準(注1)に照らし合わせてみれば、「妄想性人格障害」と不眠症との関連は否定し難いところだが、果たして、件の男が「妄想性人格障害」であると決め付ける根拠も乏しいので、その心理的背景を全く語らない靄(もや)がかかった映像こそ、湿潤性を拭ったスコセッシ映画の本来的世界であると把握し、あとは観る者の想像力に委ねるということか。


(注1)① 十分な根拠もないのに、他人が利用する、危害を加える、またはだますという疑いを持つ ② 友人または仲間の誠実さや信頼を不当に疑い、それに心を奪われている ③ 情報が自分に不利に用いられるという根拠のない恐れのために、他人に秘密を打ち明けたがらない ④ 悪意のない言葉や出来事の中に、自分をけなす、または脅す意味が隠されていると読む ⑤ 恨みを抱き続ける。つまり、侮辱されたこと、傷つけられたこと、または軽蔑されたことを許さない ⑥ 自分の性格または評判に対して他人にはわからないような攻撃を感じ取り、すぐに怒って反応する。または逆襲する ⑦ 配偶者または性的伴侶の貞節に対して、繰り返し道理に合わない疑念を持つ (「DSM-IV 精神疾患の分類と診断の手引き」 医学書院)


ともあれ、殆ど予約された男の失恋は、男の妄想心理の内に、唯一、縋ろうとしていた関係の決定的破綻を顕在化させ、拠って立つ男の自我の安寧の基盤を崩していった。

自我の安寧の基盤が揺らいだ男の内側には、もう「悪魔の巣窟」を自らの手で根絶やしにするという暗い情念の直接的発動以外に、男の人生の変容の契機を実感する手立てがなくなってしまったのである。

やがて男は「戦闘者」としての未曾有の自我を立ち上げていくが、そこに向かう激甚なプロセスを構築するには男にとって、何よりも、「戦士」としての完璧な武装を作り上げていく必要があった。

そして男は、「戦士」としての自己を立ち上げるために、日々、肉体鍛錬に励んだ。

その鍛練の継続性の中で「変容していく肉体」を確認することで、快楽シャワーを相応に被浴し、幾分かでも自己有能感を手に入れたであろう。

今度は、その自己有能感を検証するための行動にシフトしていくこと。

それが、男の究極の目標であるからだ。

男の妄想世界が作り出した、「悪の巣窟」の破壊のターゲットとして特定化された売春組織 ―― 男は、そこに「拉致」されていると信じる少女を救い出さねばならなかった。男は一方的に、その少女と会って「救出」を約束し、去って行った。

まもなく、弓を射る合理性の故に、頭の両側の部分を剃り上げたと言われるモヒカン族の、その戦闘者としてのファッションを真似たのか、すっかり頭髪をモヒカン刈りにした一人の男が、大統領候補の選挙演説会場に立ち現われた。

その選挙事務所で働く女の眼前で、件の候補を暗殺することで、自分を蔑ろにした女への復讐を完遂すること、それは何より、男にとって自己有能感を確認し、それを女に認知させる意味を持つに違いなかった。

男のあまりに短絡的な行為は呆気なく挫折するが、男にとってそんな二次的行為より、「悪の巣窟」の破壊と、少女救出という一大事の遂行が残っていたのだ。男はその足で売春組織に向かい、奇襲攻撃を仕掛け、3人の男を惨殺した。

男は一時(いっとき)英雄になり、自己有能感を手に入れたが、しかし男の妄想を掻き立てるネガティブな情報が鎮まらない限り、男は同じことを繰り返すだろう。

自分の前に再び現れた女が、程なくして去っていく映像の不気味な括りは、かつて「地獄に堕ちろ!」とまで叫ばせた女の、その後姿に送った鋭角的な視線の歪んだ攻撃性を置き土産にするものであり、それは紛れもなく、ファーストシーンで見せたギラギラしたハンターのそれと同質のものだった。

ハンターとしての快楽を存分に被浴した男が、肥大した妄想心理の延長上に、ニューヨークの街を再び「前線」に変えるとき、今度は「英雄譚」というもう一つの快楽をかなぐり捨てて、裸形のハンターとして堂々と自らを立ち上げていくに違いない。

男にとって、何より重要なのは自己有能感の獲得であって、必ずしも、そこに付着する「英雄譚」という快楽の被浴が基本命題でないからだ。

従って、そのとき男は、一人の紛う方なき犯罪者として捕捉され、簡単に娑婆に出られない状況に置かれるだろう。

「選択的注意の心理学」(注2)で説明しているように、男の視界に間断なく侵入する、ニューヨークという「悪の巣窟」に関わる情報が男を限りなく刺激し、その脳裏に深々と内在するジャンクな妄想の観念が暴れて、殆ど統制できない時間に弄ばれるだけであるからだ。

映像で記述されたように、「英雄譚」という逆転ドラマの内に、タクシードライバーに復職した男の、その本来的な物語の終焉が虚構であることは、誰よりも作り手自身が知悉しているだろう。


この映像は、ハリウッド文法のカテゴリーに収斂される、「逆転ドラマの英雄譚」を記録した、大甘なフィルムノワールの現代的再現を狙ったものでも、単純な物語構造の内に自己陶酔する、粗製濫造されたニューシネマの茶番性の二番煎じである訳がないからである。(画像はマーティン・スコセッシ監督)


(注2)「多数の感覚情報の中から特定の情報を取り出して認識することで、カクテルパーティ効果が代表的なもの」(「心理学用語集」より)



5  全ては、「時計じかけのオレンジ」から始まった



―― 最後に、本作に関わる有名な因縁話に触れておく。

2001年宇宙の旅」(1968年製作)の冒頭で使用された交響詩が、リヒャルト・シュトラウスによる、「ツァラトゥストラはかく語りき」(「導入部」)というニーチェの代表的著作であることで分るように、「存在と時間」のマルティン・ハイデッガー、「呪われた部分」のジョルジュ・バタイユ、「狂気の歴史」のミシェル・フーコー等々の、20世紀を代表する思想家のみならず、スタンリー・キューブリックの映像にもまた、ニーチェ思想への傾倒が窺われる。

「善悪」の観念を破壊し、一切の既成の秩序に反逆する映像の挑発性は、吐き気を催すほどのバイオレンス描写の連射に埋め尽くされていた、あまりに毒々しい1本の映像 ―― それが、スタンリー・キューブリックによる「時計じかけのオレンジ」だった。

そして、1971年に製作され、翌年に公開されたこの「時計じかけのオレンジ」を観て、衝撃的な影響を受けたアーサー・ブレマーという21歳の若者がいた。

程なく、大統領選挙を目指していたジョージ・ウォレス(アラバマ州知事)の暗殺未遂事件を起こし、逮捕された。

そして、そのブレマーが残した日記(「暗殺者の日記」)に刺激を受けた若者がいた。その名は、ポール・シュレイダー。

この無名な若者が執筆した脚本が、本作の「タクシードライバー」である。

しかし、こんな毒々しい脚本を映画化する製作会社はなかったが、当時、「ゴッドファーザーPARTII」でアカデミー助演男優賞を獲得し、その徹底した演技によって高い評価を受けていた一人の俳優が、この脚本の映画化に尽力したと言う。


彼の名は、ロバート・デ・ニーロ。

本作で、ハンターの鋭い視線の演技を表現し切ったイタリア系俳優である。

言わずもがな、彼は本作のトラヴィス役を演じた4年後に、「レイジング・ブル」でアカデミー主演男優賞を獲得した名優だが、それを演出したマーティン・スコセッシもまた、ブレマーという若者の過激な行為に刺激を受けた、シチリア系イタリア移民社会をその自我形成のルーツとする映画監督である。

彼の映画で描かれる徹底した暴力描写のリアリズムは、実験的映像でもある本作の中で充分に検証されるところであった。

そして、この映画に少女売春婦の役で出演した、13歳のジョディ・フォスターへのモノマニアックなファンであったジョン・ヒンクリーが、レーガン大統領暗殺未遂事件を惹起したエピソードはよく知られるところである。

全ては「時計じかけのオレンジ」から始まったが、この奇妙で因縁深い「暴力の連鎖」こそ、まさに本作の求心力の凄味であったのか。


(2009年11月)