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2011年11月5日土曜日

マンハッタン('79)         ウディ・アレン


<「おとぎ噺の世界」と、中年男の人生のリアリティの溶融のうちに、人生の哀感を表現し切った傑作>



1  成人女性への潜在的恐怖感を埋めるに足る、ローリスク・ローリターンの「恋」の終焉



小心で神経質、コンプレックスが強く、臆病でありながら、人一倍の見栄っ張り。

そんな男に限って、自分が「何者か」であることを求めている。

件の男が主人公の本作もまた、「小説家を目指しているシナリオライター」という自己像が張り付いていて、勢い余って、テレビ局との関係を切ってしまった。

虚栄と同居する小心さを持つ男は、このときばかりは前者の推進力によって駆動したのだろう。

どこにでもいそうな、そんな喰えない男が、人生の中で、2度に及ぶ結婚生活に破綻を来たした。

それだけだったら特段の問題も出来しないが、2度目の妻との離婚理由が看過し難かった。

最初の妻がドラッグ中毒であったことも、男のプライドを傷つけたのだろうが、2度目の妻の場合は、相手が同性愛の女性であったからだ。

この現実は、その妻との間に子を儲けていながら、男の自我に相当のダメージを与えたに違いない。

男には、この忌まわしき経験が、トラウマと言うべきネガティブな何かになっていく。

そのトラウマの根源には、紛う方なく、バイセクシャルの性癖を具有する前妻が、人生の伴侶に「男」である自分よりも、同性の「女」を選んだことが横臥(おうが)しているだろう。

そのことは、男の「男性性」が否定されたことにあると、男は考えたに違いない。

男の自我に貯留された憤怒の感情が、前妻の不倫を疑った男がスパイ中に知った事実にショックを受け、前妻の不倫相手への女性を轢き殺そうとした行為に現れていた。

「何で、僕より彼女の方が良いんだ?」

あまりに端的な、男の感情表出である。

加えて、その前妻が自伝を出版すると知った男は、自分の性体験や「奇行」が暴露されることに不安を持ち、繰り返し、前妻の元に抗議に行くが、逆に、レズ相手を轢き殺そうとしたことを難詰(なんきつ)される始末。

そんな男にとって、前妻から否定された「男性性」の魅力を取り戻すためなのか、最もリスクが少なそうな相手を選び、彼女を自分の恋人にした。

「男性性」であることを証明することは、自分が「何者か」であることを求めている男にとって、自我アイデンティティに関わる人生の一大事なのである。

そう思わざるを得ないのだ。


男の名はアイザック。

「不惑」とは無縁な、小説家を目指している42歳のシナリオライターだった。

そのアイザックが恋人にした「リスクが少なそうな相手」とは、自分の娘のように年の離れた17歳の女子学生。

その名はトレーシー。

この42歳と17歳のカップルは、寧ろ、後者の方が、父に近い男に恋をする関係を保持しているのだ。

この関係様態は、男にとって好都合であると同時に、17歳の女子学生とのセックスを介して、崩されかけた男のアイデンティティを相応に復元したであろう。

だからと言って、過去に付き合った男が3人もいたと言うトレーシーは、異性関係に無防備なふしだらな不良少女でもなく、そのキャラは「純粋無垢」のイメージに近い。

「愛してるのはあなただけ」

そんなことを吐露するトレーシーの存在こそ、アイザックの崩されかけたアイデンティティを埋めるに相応しい「パートナー」だった。


まさに、最もリスクが少なそうな「パートナー」だったのだ。

決してロリコン趣味ではないが、アイザックの内側に、どこかで、2度にわたる離婚のアブノーマルな経緯によって、成人女性への潜在的恐怖感が寝そべっているのだろう。

「僕みたいな人間は回り道だと思わなきゃ」

そんなことを言う42歳の中年男は、当面の「パートナー」として特段の不足がないが故に、以下のような気障(きざ)な文句を、17歳の女子学生に放つのである。

「君はヨブへの神の答えだ。神が『私は試練も与えるが、いい女も造れる』と言うと、ヨブが『恐れ入りました』」

男にとって無垢で、人を疑うことを知らない少女の存在は、性を処理し、心を一時(いっとき)癒すに足る希少価値であったかも知れないが、どこかでいつも消化不良の気分が残っていた。

深い教養に満ちた話題の不足感。

そして何より、恋をしたときの「ときめき」の感情が希薄だからだ。

そんな男が、一人の成人女性と知り合うに至る。

メリーとアイザック

親友の大学教授であるエールの不倫の相手で、その名はメリー。

雑誌編集者のキャリアウーマンである。

ところが、初対面で「優秀な編集者」を自慢するメリーから、あろうことか、アイザックが尊敬するベルイマンをけなされて、彼女に悪印象しか受けなかった。

それでも、生意気でペダンチックながらも、話題を共通に持つ同世代の女性と出会ったことで、男の心は揺れ動き、見る見るうちに男女の関係にまで最近接していったのである。

それは、成人女性への潜在的恐怖感を埋めるに足る、ローリスク・ローリターンの女子学生との「恋」の終焉を意味していた。



2  成人女性への潜在的恐怖感を希釈化させていく感覚の氾濫の狡猾さ



アイザックとメリーの、ロマンチックなデート。

夜のマンハッタンの散歩の終わりは、マンハッタン島に架かるクイーンズボロ橋(マンハッタンとクイーンズを結んでいる橋)の下のベンチだった。

「きれいね」とメリー。
「夜明けの光が美しい」とアイザック。
「うっとりよ」とメリー。
「実に偉大な街だ。魂を奪われてしまう」とアイザック。


これだけの会話だが、程なく、「あなたは子供を産んでみたい人よ」と告白するメリーに、アイザックは、「電気消して、子供を産もう」と反応するまでの関係に発展していく。

ダンスする二人。

ボートに乗る二人。

成人女性への潜在的恐怖感を、どこかで張り付けているかのような男だったが、それでもなお、異性を求めざるを得ないアイザックの、恋多き人生には終わりが見えないようだった。

成人女性への潜在的恐怖感が加速的に希釈化されていく感覚の氾濫は、まもなく、恋多き中年男の狡猾さを露わにしていく。

17歳の女子学生との恋の、殆ど予約されたかのような決定的破綻である。

常に、自分が「何者か」であることを求めている男には、幼い思考を脱却できないトレーシーとの関係は、時間潰しのゲームであったかのようだった。

「もう、会わない方がいい」とアイザック。
「なぜ?」とトレーシー。
「僕にイカレ過ぎている」
「私は愛しているのよ」
「違うだろ。まだ子供だ。愛なんて分らない」
「でも、楽しいわ。セックスもいいし」
「まだ17だ。21までには男性関係も増える」
「愛してないの?」
「実は他の女を・・・」
「ホント?」
「君とは一時的なものと言っただろ」
「会ってるの?」
「僕より年下だけど、同世代の女だ」
「面白くないわ」
「深入りしちゃダメだ。人生の間口を広げた方がいい」
「逃げたいくせに、お為ごかしだわ」
「いじけた考え方をするな。僕は42だ。髪は薄いし、右の眼は遠い」
「私より好きな人なんて・・・」
「怨めしそうに言うな。同世代の男と付き合え」

嗚咽するトレーシー。

「泣かないでくれ」とアイザック。
「ほっといて」

そこには、「君はヨブへの神の答えだ」と放ったアイザックの言葉さえも、お為ごかしのように思える乾いた毒気があった。

マンハッタン島①(ウィキ)
それは、「快楽の落差」についての「賞味期限」を計算して動いた男のエゴイズムとは切れていたが、「賞味期限」の計算すらも無頓着な少女との心理的距離は埋め難い何かでもあった。



3  恋のタイトロープの終焉が露わにした男の哀感



身勝手な男の恋のタイトロープは、呆気ない形で終焉するに至った。

話題を共通に持つと信じる同世代の女性との関係幻想が、袈裟斬りに遭った者の悲哀を晒したのである。

アイザックの親友の不倫相手だったメリーは、男の親友への愛を告白し、男から離れていったのだ。

「ショックだ」

怒りを真っ向勝負で激発できない内向性の故か、全てを失った男は、そう吐露するに留まった。

既に、前妻が出版した、「結婚 離婚 そして自己」という表題の「暴露本」によって、すっかり傷ついた男には、反発力の欠片を当人への抗議で晴らす熱量しか残っていなかった。

「深く巧みな女性との愛の行為で悟った.夫との体験の虚しさ」

「彼は突如、ユダヤ的進歩主義。男性優位主義。人間不信の発作に襲われた。私の恐怖を悲劇的に語るものの自己陶酔に過ぎない」

そんな言葉が書かれてある「暴露本」の中で、「人間不信」という言葉に反応した元夫の心理を読み解けば、それが男の性格の本質を言い当てているからだろう。

全てを失ったような心境下で、今や、男は「何者」でもなくなったのか。

心に穿たれた空洞感を埋めるべく、42歳の中年男は、アイデンティティークライシスに陥った者の如く瞑想に耽っていく。

「不必要な精神問題を、次々に作り出すマンハッタンの人々。それは解決不能な宇宙の諸問題を逃れるため。楽天的に考え、人生は生きるに値するか。生きがいは確かにある・・・」

アイザックの瞑想は、しばしば溜息をつきながらも、広がりを持ちつつ延長されていく。

「そう、僕にとっては、まずはグルーチョ・マルクス(注1)…それからウィリー・メイズ(注2)、それから……交響曲ジュピターの第二楽章(注3)、それから、ええと……ルイ・アームストロングがレコーデイングした『ポテト・ヘッド・ブルース』……もちろんスウェーデン映画……フローベールの『感情教育』……ええと、マーロン・ブランドにフランク・シナトラ……それからセザンヌが描いたあの素晴らしい林檎と梨……それからサム・ウー(注4)の蟹…」


トレーシー
ここまで広がったアイザックの瞑想が辿り着いたのは、「トレーシーの顔・・・」だった。

ここで、42歳の中年男の迷妄が一瞬固まった。

「トレーシーと別れたのはバカだった。一番気の置けない関係は、あの子だけだ。でも若いからね」

これは、親友の妻に吐露した言葉。

縋り着きたい何かを求める男にとって、「これだけは失いたくないもの」に逢着したとき、その短躯を駆動させる熱量を自給するのに充分な行為に繋ぐのだ。

マンハッタンの街の中枢を走って、走って、走り抜くアイザック。

トレーシーに会いに行くためだ。

ロンドンの演劇学校へ行く準備で忙しいトレーシーとの、間一髪の再会を果たしたアイザックは、自分の思いを吐露する。

「行かないで」

トレーシーに正直な思いを懇願しても、彼女の意思は固かった。

半年の留学と聞き、必死に止めるアイザック。

「愛があれば問題ないでしょう」
「君は変わる。半年で別人になる」
「そういう経験を積めと言ったのはあなたよ」
「でも、今変わるのは嫌だ」
「変わらない人もいるわ。」

既に、この会話の中に、「失恋」して初めて、「大人の世界」の狡猾さを学習し得たトレーシーの成長が垣間見えていた。

マンハッタン島②(ウィキ)

トレーシーの旅立ちは、まさに、彼女自身の本来のアイデンティティーを獲得するための自立行でもあったのだ。

恐らく、ロンドンへの彼女の旅は、一向に変わり得ない42歳の中年男を置き去りにするものになるだろう。

中年男にも、その辺りの心理の機微は把握できている。

だから男は、必死に懇願したのだ。

懇願する以外にない男の哀感だけが、そこに露わにされていたのである。

小心でシャイで臆病でありながら、人一倍見栄っ張りのアイザック以外の「何者」でもない男は、今や「ときめき」よりも、「安らぎ」を求めるばかりだったのだ。

人は最も辛いとき、自我の拠って立つ心の安寧だけを求めるだろう。

一時凌ぎのセックスの快楽よりも、遥かに継続力を持つ心の安寧こそが、幸福のイメージに近い何かである。

なぜなら、幸福とは、「持続的な充足感情」であるからだ。

特別の「何者か」でなくてもいいのだ。

自分の適正サイズに合った幸福の実感さえ手に入れられれば、それでいいではないか。

存分に軽薄なように見える男にとって、己がアイデンティティに関わる、真剣な人生の一大事を、男なりに動き、漂流し、傷ついた果てに置き去りにされたが、それもまた、男の変わり得ない人生の宿命であるだろう。

この辺りが、滋味深い本作から直截(ちょくさい)に受けた私の感懐である。



4  「おとぎ噺の世界」と、中年男の人生のリアリティの溶融のうちに、人生の哀感を表現し切った傑作



どこにでもいそうな男の人生の断片を、ダッチロールする「恋模様」をテーマに描いた本作の等身大の「普通さ」こそ、ニューヨークの中枢であるマンハッタンをこよなく愛する、ウディ・アレンの真骨頂であった。

「彼はマンハッタンに惚れていた。街の雑踏で育ったのだ」

これは、映像冒頭で紹介された、「小説家を目指しているシナリオライター」という自己像を持つ42歳の中年男の、その小説の草稿の中の言葉である。

マンハッタンの街の雑踏を愛する中年男は、そのままウディ・アレン自身の思いでもあるだろう。


本稿の最後に、そのウディ・アレンの映画空間を理解するには、打って付けの「お宝本」の中の興味深い言葉を引用して、擱筆(かくひつ)したい。


その近刊書の表題は、「ウディ・アレンの映画術」(注5)。

「これまでの映画で何か狙いどおりにできたことってありますか。

WA●―ときにはあるよ。これはほんとたまたま気づいたんだけど、『マンハッタン』を作ったあとで僕は、ニューヨークをすっごく魅力的に見せたいっていう強い思いが自分になくなっているのに気づいたんだ。いまだってニューヨークを撮るときは魅力的に撮るよ。でも、あくまでもストーリーのほうが優先なんだ。昔の僕にはニューヨークを夢の国のように撮りたいっていう強い願望があったんだけど、その思いは『マンハッタン』で完全に満たされたんだよ」(「ウディ・アレンの映画術」エリック・ラックス 清流出版 井上一馬訳)

ここでウディ・アレンは、「ニューョークを夢の国のように撮りたいっていう強い願望」が、「『マンハッタン』で完全に満たされたんだよ」と語っているのだ。

この著書の中で、ウディ・アレン自身は、想定外の評価を受け、映画監督としての地位を決定付けた「アニー・ホール」(1977年製作)や「マンハッタン」等の初期の作品よりも、「カメレオンマン」(1983年製作)、「カイロの紫のバラ」(1985年製作)、「夫たち、妻たち」(1992年製作)、「マンハッタン殺人ミステリー」(1993年製作)、「ブロードウェイと銃弾」(1994年製作)、そして近年の、「マッチポイント」(2005年製作)などの中期以降の作品の方が気に入っていると語っているが、私も含めて大方の観客に絶賛された、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」の導入によって開かれる、「マンハッタン」というモノクロ画面(カラーを脱色させた表現技巧)に漂う、そこはかとない人生の哀感に共感したのは、紛う方ない事実であるだろう。

まさに、本作は「夢の国」という「おとぎ噺の世界」と、恋に生き、恋に敗れる中年男の人生のリアリティの溶融のうちに、そこはかとない人生の哀感を的確に表現し切った傑作である。

少なくとも私にとって、小品ながら、そのような解釈で納得し得る、何とも滋味深い作品だった。


(注1)アメリカの代表的コメディアンであるマルクス兄弟の三男で、「我輩はカモである」のイカレた宰相役を演じた。

(注2)サンフランシスコ・ジャイアンツ(MLB)のスラッガーで、660本のホームランを量産した。

(注3)モーツァルトの最後の交響曲で、第2楽章はアンダンテの回顧的な楽想。

(注4)中華料理のレストラン。

(注5)以下、たいそう厚味がある、「ウディ・アレンの映画術」についての清流出版の説明文案を紹介する。

「著者は、実に36年間の長きにわたり、折々にウディ・アレンのインタビューを行ない、ウディ・アレン映画のアイデアから脚本、監督業、キャスティング、撮影、音楽、そして映画人生まで、すべてを忌憚なく明らかにしている。いわばウディ・アレンの人生の半分以上が納められたアルバムのようなものである。新米監督時代から世界有数の映画監督へと変貌していく彼の人生と、その途上で彼が学んだ事柄が、あたかも低速度撮影された写真のように、鮮やかに描き出されている。映画ファン待望の必読書である」

(2011年12月)

2009年12月25日金曜日

ブロードウェイと銃弾('94)   ウディ・アレン


  <人間理解の致命的な浅はかさという虚構の戯れ>



 1  自分の才能を見つけるという枢要な能力



 人間は厄介で、滑稽な生き物である。

 社会的適応を果たす上で最低限必要な情報を手に入れ、その情報を駆使する相応の能力を持つことで、一定の「地位」と「収入」を得ることに成就したとき、その成就のインセンティブの内に「自己有能感」がべったりと張り付いていて、それがいつしか、自分の能力の範疇に収納し得ないフィールドにまで有能感覚の稜線が広がってしまうことが、それを可能にする条件が用意されている限り充分に起こり得ることである。

 それが単に、社会的適応をより有利に果たす上で必要な知識の集積でしかないにも拘らず、不確実なジャンク情報も含めて、それによって政治や社会を語り、人間の複雑な問題や世界の行方を語り、勢い余って、宇宙の原理について確信する者のように語っていく誘惑を、どうやら私たちは簡単に抑制できないようである。

 フラットな知識の集積の延長上に、見識・卓見が形成されるとは限らない現実を合理的に認知できず、「見識ある何者か」として自らを立ち上げ、湧泉の如く内蔵すると信じて止まない才能によって、実際は複雑で、容易に解答が見つからないような問題について、驚くほどしたり顔で、且つ、堂々と語り尽くして止まないのだ。

 困ったことに、そこに流行の思想や、一見、革新的・前衛的なジャンク情報群が新たに収納されることによって、それを得意げに駆使し、特定部門の才能の実践的表現者になることを簡単に決意させるモチーフが、現実原則の命題で社会に関与する自我の抑制系を突き抜けて、その内側で加速的に形成されてしまうことがしばしば出来するのである。

 フラットな知識の集積を、特定部門の才能の完成形に繋いでいくことの難しさをリスクテイクする厄介さと滑稽さ ―― それが、人間がしばしば犯す過誤、失態や、決定的な蹉跌の一つの裸形の様態でもあるだろう。

 同様の文脈で言えば、特定部門の専門知識が、その部門の実践的表現者としての才能を必ずしも発現しないことが多々あるという事実も、私たちの経験則の教えるところでもある。

 音楽の知識を持つ者が優れた作曲家になったり、美術の知識を持つ者が優れた画家になったりすることが、必ずしもストレートに具現しないように、自分の才能を見つけることはかくも難しいのだ。

 自分の才能を見つけること自体、人間にとって、最も枢要な能力であると言っていい。
 
 
夜のタイムズスクウェア(イメージ画像・ウィキ)
まさに本作の主人公は、自分の能力を過大評価し、その評価の延長上に職業選択したことで、決定的な蹉跌を来すという典型例を私たちに開示してくれたのである。



 2  「君を愛していて、僕はアーティストじゃない」という究極の自己認知



 本作の面白さの殆どは、ウディ・アレンの表現世界の基幹テーマとも言える、コミカルなオブラートに包ませた、理想と現実の乖離の悲哀と、その倒錯に関わる映像構築性の完成度の高さに因っているが、アレン映像の中で一つの到達点でもある本作は、一貫して無駄のないコメディタッチの律動感の中で、より人間ドラマの味付けを濃厚にさせることで、表現フィールドの広いコメディラインの枠組みからも解放するに至ったと言えるだろう。

 以下、本作の簡単なプロットを、ビデオジャケットの解説から引用する。

 「若き劇作家デビッドが遂にブロードウェイでデビュー。ギャングのボスの情婦で大根役者のオリーブを出す条件にデビッドは怒るが、落ち目の大女優ヘレンを主役に迎え何とかリハーサルに入る。

 ところがオリーブのボディガード、チーチが脚本に口をはさんできて、彼が直したセリフが好評を博し始める。苛立つデビッド、才能が花開くチーチ、新しい脚本に惚れ込むヘレン。

 下手なオリーブが邪魔になったチーチは彼女を消そうと目論み、それがボスにバレてしまう。いよいよ初日、ギャングたちの銃撃戦が繰り広げられる中で部隊の幕が上がるが・・・」(株式会社アスミック、『ブロードウェイと銃弾』ビデオジャケット解説より/筆者段落構成)

これだけの物語である。しかし内容は明瞭なテーマ性を持っていた。


 ―― 以下、その要旨を簡単に拾っていく。


 「神様、僕は芸術を裏切った。成功の誘惑に勝てず?そう誘惑に負けた。ギャングの金と知ってて、承知した。悪魔と取り引をしてしまった」

 これは、恋人のエレンと寝ていたデビッドが、午前3時にベッドから飛び出して、突然、大声で喚き出したときの言葉。

 理由は言わずもがな、ギャングのボスの資金提供を条件に演出を引き受けた自己嫌悪以外ではない。

 そんな状況下でリハーサルが始まるが、大人の愛の縺(もつ)れをテーマにしたデビッドの観念的な初稿に、女優陣が異を唱えたが、ここでは精神科医役のオリーブのケースを紹介する。

 ギャングのボスの情婦であるオリーブは女優志願だが、学力不足に加えて大根役者ぶりが酷いから、“心には、心のルールがあるのよ”という台詞が全く理解不能の状態。

 更に、彼女は「医者は、なぜ“フィアンセを捨てろ”と?」

 「中尉に恋を」

 これがデビッドの答え。

 「だからって、フィアンセをさっさか捨てる?」とオリーブ。
 「衝動だよ」とデビッド。

 このデビッドの反応の中に、彼の観念的な台詞の独善性が露呈されていた。

 観客席の後方でリハーサルを見ていた、オリーブの用心棒のチーチが、ここで矢庭に立ち上がって、デビッドの台詞の硬直した内容に反発し、具体例を挙げて批判したのである。

 「女はフィアンセと別れない。中尉は家を出てから彼女に興味を持つ。その方がドラマティックだ」

 ここでデビッドは、その場にいたエレン(デビッドの恋人)やプロデューサーも、チーチの意見に同意したことで完全に孤立状態になった。

 「中尉は彼女を意識して、追い始める。現実もそうだ・・・」

 強面(こわもて)の殺し屋のチーチは、更に畳みかけるように台詞についての不満を指摘していった。

 演劇の流れを変えるチーチの最初の提言に不満を募らせたデビッドは、「降りる」と言って帰ってしまう始末。

 「アーティストは作品を弄(いじ)られるのを嫌う。貶(けな)されると、すぐカッとなる」

 これは、このチャンスに女優生命を賭けたヘレンの相手役となった、名優ワーナー・パーセルの言葉。

 結局、そのヘレンの忠告で、デビッドは台本のリライトを決めるに至った。

 「シルビアは大尉は愛しちゃいない。意のままに動かしているだけだ。筋を変えて、彼女が亭主を捨てることにする。それが罪の意識となって、神経がイカれる・・・医者がシルビアの感情を分ってりゃ・・・嫉妬するのも納得できる。そうなると、医者と中尉の対決が必要だ」

今や、演劇の影の主役になりつつあったチーチによる台本のリライトは、ブロードウェイでの成功を願うデビッドにとって不可避な事態となっていったのである。

 「リアルな台詞で、客は芝居にのめり込むんだ」

 チーチのこの一言が、映像展開の流れを決定づけていったのだ。

 この後の映像展開は、殆ど観る者に予想し得る流れをフォローしていくが、演劇の才能に目覚めたチーチの暴走が、演劇の成功に大きな支障となっていた大根女優のオリーブの殺害にまで至るという過激性は、観る者の想像の範疇を明らかに超えていたが、このエピソードは「芸術至上主義」というアイロニーの文脈とは切れているだろうチーチという男の、その突沸の如き「才能爆発」の表現の極致と見ることができる。

 このオリーブ殺しの一件によって、チーチがギャングのボスに屠られるという展開は、「たった一本の名作」をこの世に遺して、地獄に墜ちたこの男の覚悟を身体表現するに相応しい括りだったと言える。

 「君を愛していて、僕はアーティストじゃない。結婚しよう」
 「いいわ」

 映像のラストは、自分の才能の限界を知ったデビッドのエレンに対するプロポーズと、その受容によって閉じられていくという、半ば予定調和のラインの内に収斂されていった。

 思えば、この映像の中で、最後までプロフェッショナルな戦略と行動によって自我を貫いた人物は、かつての大女優のヘレンであったと言えるかも知れない。

 往年の大女優だが、今は冴えない役しかオファーが来ないヘレンは、神経症(「不感症」)のマダムという自分の役柄に色気が加えるために、「あなたは未来のチェーホフよ」などと持ち上げながら、演出家のデビッドへのハニートラップによって復活を目指すプロ女優の精神の持ち主。

 こんなハニートラップが功を奏して、デビッドはヘレンの役に色気を加えるシナリオの修正をするが、デビッドのブロードウェイでの成功を予想して、今度は本気で彼を愛人の一人に加える強(したた)かさを持っていた。

 惨めなのは、自分の台本がチーチなしに完成しない状況を日常化させたデビッドの、そのアーティスト精神の崩れ方である。

 このアーティストは、恋人のエレンに、「あなたは女が分っていない。インテリの理屈っぽい分析じゃないとダメ?」と酷評される始末なのだ。

 既にこの描写の内に、「君を愛していて、僕はアーティストじゃない」という究極の自己認知の布石が打たれていたのである。

 最後に、演劇とは全く無縁な大根だが、ボスの肝煎りで精神科医の役を演じるオリーブは、外見的には愚昧な印象を受けるが、盗み食いをするワーナー・パーセルが自分に気があることを鋭く見抜く「女」としての観察力を持っていた。

 これが、ボスの「女」に居座ることができたプロ根性の表れであると把握できなくもないだろう。

デビッド(左)とチーチ
要するに、肝心のアーティストであったデビッドだけが、何事につけても、プロフェッショナルな戦略と行動の一貫性を欠如させていたということなのだ。



 3  人間理解の致命的な浅はかさという虚構の戯れ



 アーティストの虚構のシナリオを、ギャングの用心棒のリアルな脚本のリライトが、箸にも棒にもかからない類の演劇の虚構性を逆転させていくという本作の物語展開の中で、一番興味深いのは、以下の点に尽きるだろう。

 一端(いっぱし)のアーティスト気取りのデビッドが、既に2作も商業演劇の興行に失敗していながら、「観客の魂を変える芝居も必要だ」などと喚いて、「そういう話はグリニッジ・ヴィレッジのカフェで“素晴らしい芝居だ”と言うんだな」とプロデューサーに一蹴されても、それに対する反省が全くなく、一切は観劇者の教養の低さと考えてしまう愚かさを持っていること。

 このデビッドは大学で演劇を教科学習し、研究してきたことで、彼なりの芸術論の構築に対して特段の価値を矜持(きょうじ)しているらしく、それが単に知識のフラットな集積でしかないにも拘らず、それを自らの研鑽(けんさん)によって習得された形成的な「知」に加えて、その「知」を補強するに足る、本来的に備わった特別の「才能」の結実と考えてしまう愚かさでもあった。

 そんな男が、三度、類似の過誤を繰り返そうとしていた。

 案の定、蓋を開けてみると、彼のシナリオは相変わらず、興行性を無視した重苦しい芝居であるばかりか、過剰なまでに観念的な台詞の氾濫だった。

 その観念的な演劇の中で起用される俳優も、既に全盛期を過ぎた女優や、ダイエットに失敗した男優であったり、挙句の果ては、スポンサーとなった条件によって、場違いの演劇に参画したボスの愛人だったりする始末。

 そんな何でもありの連中と芝居のリハーサルに入っても、当然の如く、観念的な演出家の虚構の産物である、超観念的な作品の世界の内にスムースに侵入していける訳がなかった。

 様々に問題を抱えた俳優たちから不満の表出を受けても、演出家のデビッドは自分のスタイルを変えられない。

 それが短いスパンの産物であったとしても、形成的に仮構された観念体系のスタイルを簡単に反古にする訳がないからだ。

 そんな気勢に欠ける低調な空気を裂いたのは、ボスの女であるオリーブのボディーガードを務めていた一人のギャング。

 デビッドが提供した堅苦しいスクリプトに対して、「リアルな台詞で、客は芝居にのめり込むんだ」という風な真っ当な異議を唱え、人生のリアリズムを映し出すようなスクリプトの再現を求めるチーチの鋭い指摘に、当初、反発したデビッドだったが、スクリプトの内容変更の要求を最終的に受容せざるを得なかったのは、デビッド以外の全ての演劇関係者が、チーチの具体的な台詞の提示に賛同したからに他ならなかった。

 この映画の最も重要なテーマは、そこに集約されていると言える。

 結局、グリニッジ・ヴィレッジのカフェで非現実的な演劇論を放射するだけの男には、過剰な観念系を脱色しているという意味において、日常と非日常の巧みな均衡を保持して生きている普通の人間の、普通の生活のリアリズムの本質に肉感的に迫れないということ、それに尽きるだろう。


狂騒の20年代・クライスラービル(ウィキ)
複雑極まる人間に関わる根源的な問題を、常に空理空論的な形而上学の内に濾過せずにいられない、そのイデオロギー濃度の過剰さに対して無自覚なデビッドの能力限界と欺瞞性を、ギャングの血を引きながらも、内在する表現フィールドの才気を豊富に持つチーチは切っ先鋭く抉ったばかりか、そこに本来的な人間の有りようを再現するスクリプトの改正の提示によって、完膚無きまでに粉砕し切ってしまったのである。

 要するに、この映画は、実用性に欠けるフラットな知識の集積の上に成り立った、人間理解の致命的な浅はかさという虚構の戯れを、如何にもローリング・トゥエンティーズ(「狂騒の20年代」)の時代に相応しい、世俗の臭気をたっぷり放つリアルな世界に依拠した一人のギャングが包含する、その圧倒的な重量感によって解体されてしまうところにあったと言えようか。

 チーチという男は、人殺しを「専門職」とするギャングであるという以上に、本来的な芸術表現の才能に溢れた男であったというキャラ設定の愉快さには、丸ごと個性的なコメディラインの枠組みに収納される発想であったが、それでもなお、才能ある者はそれを表現するに相応しいチャンスに遭遇したとき、紛う方なく件の才能を全面開示し、限りなくそのエキスを身体化し得るという作り手の基幹メッセージが、そのラインの内に読み取れるだろう。

 逆に情報量の多さには事欠かないが、才気なきアーティスト、デビッドもまた、肥大する一方の冷厳な現実に気づかされ、それと真っ向から対峙し、受容することによって初めて、過剰なまでに余分な観念武装を解いた裸形の人格によって、「狂騒の20年代」を呼吸するに足る、等身大の自我を持ち得たという括りの意味には、件の二人の男の人生の、その表裏一体の造形性をクロスさせた流れ方において、決してハリウッド的な予定調和に収斂しない作り手が提示した、要所要所で変化球を多投しない直裁なメッセージが読み取れるに違いない。

 これが、観る者への問いかけの含みを持った、ラストシーンの逆転劇の本質であった。



 4  一端のアーティストの如く振舞う欺瞞性への、痛烈なアイロニー精神の小爆発




ウディ・アレン・2009年(ウィキ)
最後に本作に言及して、作り手のウディ・アレンは、才能は生まれつきのものであると言い切っている言葉を紹介して、本稿を閉じていこう。

 「―― 普通の人に比べて、そういう人間は直感や直接的な行動を信じ、ものごとを知的に考えすぎないものなのですか

 『チャズ・バルミンテリが演じた【ブロードウェイと銃弾】のギャングは正にそういう人間だ。あの映画で描こうとしたのは、自分を芸術家として考え、芸術家になりたいと思い、外見も芸術家のような人間[が必ずしも芸術家ではないということだ。

 そして芸術家であるということは、持って生まれた才能があるかないかということなんだ。映画のジョン・キューザックには才能がない。彼はいろいろがんばるけど、それはすべて外側の努力だ。

 チャズ・パルミンテリはまったく違う世界に住んでいるけど、あるきっかけで彼には本物の才能があることがわかる。彼こそ本当の芸術家なんだ。かれはギャングだけど、自分の心や人間らしい感情についてよく知っている。

 これは面白いアイディアであると同時に、真実を表していると思う。芸術の才能というのは完全に生まれつきのものであって、学びとれるものなどなにもないからだ。技術的なことは多少学ぶことができる。技術に関する形式的なことは多少はね。でも本物の才能というのは生まれつき持っているか、持っていないかだ。

 ギャングを本物の芸術家にするのは面白いアイディアだった。観客の期待とは正反対だからね。

 彼は自然のままの人間だ。感情に従って生きている。映画の中では女優が気に入らないので、彼女を殺してしまう。話し合いも何もない。落ち着いて、人を殺すことのモラルについて話そうともしない。言うなれば自分の感情に忠実なんだ。だから面白いと思ったし、おかしいアイディアだと思った』」(「ウディ・アレン 映画の中の人生 リチャード・シッケル著 都筑はじめ訳 エスクァイア・マガジン・ジャパン刊 2007年/筆者段落構成)

 どうやら、「芸術の才能というのは完全に生まれつきのものであって、学びとれるものなどなにもないから」という把握が、本作におけるウディ・アレンの中枢テーマであると言えるだろう。

 このことは詰まる所、その認識なしに一端のアーティストの如く振舞う欺瞞性への、ウディ・アレンの痛烈なアイロニー精神の小爆発だったということである。

(2009年12月)

2009年11月18日水曜日

アニー・ホール('77)  ウディ・アレン


<自分の狭隘な「距離感覚」の中でしか生きられない男>



1  コメディの本道を外さない、毒気に満ちた心理描写の連射



 「ナイトクラブのコメディアン、アルビーと歌手志望のアニーがここニューヨークで出逢い、ナーバスな恋が始まった。なんとなくうまくいっていた2人だが、アニーは人気歌手トニーからハリウッド行きを勧められ、引き止めるアルビーも虚しく旅立つ決意をしてしまった・・・。刺激に富んだウイットとちょっと危ないユーモアで綴るウッディ・アレンの代表作」(ワーナーホームビデオ・ジャケットより)

 こんな簡単な説明でプロットが要約できるラブコメディだが、ナイトクラブのコメディアン、アルビーの心理描写の連射によって、スラップスティック的な滑稽な台詞や、大袈裟な仕草のフラットな散布に流すことなく、既成のコメディー・ムービーのシンプルな文法を変容させた革命的一篇。

 しかしそれでも、映像で連射される心理描写を、当然の如く、寡黙な映像のカテゴリーに収斂させず、初めから終わりまで、アイロニー、ブラック・ユーモアやスノッブ的な衒気(げんき)による留まることのない饒舌の洪水や、映像分割、状況や時系列を無視したシュールな描写、観客に直接語りかける「第四の壁」(観客席との間に存在すると仮定する眼に見えない壁)の突き抜けによる描写のリアリズムの否定、等々といった映像技法の駆使によって貫徹した、如何にもウディ・アレンらしいアンチ・ハリウッドの挑発的映像の括りもまた、コメディの本道を外さない毒気に満ちていた。

 因みに、映像の括りは、以下のアルビーの言葉によって閉じられている。

 「精神科医に男が、『弟は自分が雌鶏だと思いこんでいます』
 医師は、『入院させなさい』
 男は、『でも、卵は欲しいのでね』

 男と女の関係も、この話と似ています。およそ非理性的で、不合理なことばかり。それでも付き合うのは、卵が欲しいからでしょう」


 要するに、「アカデミー作品賞」という名におよそ相応しくない映像の作り手を確信的に自認するからこそ、ウディ・アレンは世界映画祭の最大級のレッドカーペット・セレモニーに出席しなかったのだろう。



 2  自分の狭隘な「距離感覚」の中でしか生きられない男



 そこそこに人気のあるピン芸人(話芸で観客を笑わせる漫談家という意味で、欧米では「スタンダップ・コメディアン」と言う)の皮肉屋は、なぜか女にモテて、生活にも不自由しない中年男。

 「私を会員にするようなクラブには入りたくない。これが、女性関係での僕の気持ち・・・アニーと別れたが、未練はある。今も二人の関係とか、なぜ、それをぶち壊したかを考えている。一年前は愛し合っていたのに。でも僕は、ガックリ落ち込む性格ではない」

 そして、相当程度ペシミスティックな男の対異性観には、以上の映像冒頭シーンでの吐露に集約されるように、好悪感情が激しく、選別意識も甚だしい、極めて厄介な性格の御仁である。

 自分が特定的に選別した異性の対象人格に赴くのはOKだが、自分の誘惑に簡単に乗って来る女を受容できないと放言する極め付けの天の邪鬼、ウルトラ自己中心主義。

 卑屈さをも垣間見せるそんな放言の根柢には、自分の感情許容値の狭隘さが丸出しにされた傲岸さを露呈していると言っていい。

 「ロブスターは食べたいが、触るのは嫌だ」という男の感覚基準が、この男の性格傾向を決定づけているのだ。

 15年間も精神科医に通っている男の「病理」が垣間見られるとしたら、まさに精神科医を必要とせざるを得ないこの男の、その「病識性」それ自身によって説明できるものだろう。

 そんな男が、自分より遥かに年下の美女(アニー・ホール)に恋をして、あっという間に同棲生活に入った。


 ところが、ロブスターのエピソードに象徴されるように、ホットな感情全開のデートで会っているときは、その幻想の魔力によって存分なほど至福な思いに満たされるが、いざ物理的共存を具現するとなると、相手の欠点ばかりが気になって仕方がないという始末の悪さは、本質的にこの男が、「自分の距離の最適感覚」(パーソナルスペース)の中でしか充足できない類の、対異性観の艱難(かんなん)さを持ち合わせていることを証明するだろう。

 自分の中にあって、自分が嫌う性格を相手に見たとき、この男はその相手を絶対許容しないというような典型的なタイプの人物なのだ。


 同棲したアニーに精神科を勧め、大学の受講を勧めたにも拘らず、立ち所に悋気(りんき)するという感情を惹起させる心理的文脈は、この男が同棲相手の美女を独占的、且つ、全人格的に求めていることを露呈するものだが、それでも物理的共存を継続できない男のエゴイズムと、そこに張り付く過度な神経質ぶりがネックとなっていると把握し得る、男の自己分析は決して間違ってはいないのだ。

 別れたアニーを追って、嫌いなロスに長時間に及ぶフライトを敢行するほどに、この男は、「自分を捨てて『距離』を作った女」であるが故に彼女への全人格的価値を認知し、もう会わずにいられないという厄介な性癖。

 要するに、自分の狭隘な「距離感覚」の中でしか生きられないのだ。

 相手から求められると腰を引き、肝心のセックスもままならない。こんな男が自分のサイズに見合った女を探し出すのは容易ではないだろう。



 3  「惨めさと悲惨さ」について語る男の人生の風景




 ここに、ア二―に「死の否定」という本を買ってやると言って、勧めたときのアルビーの台詞がある。

 「僕の強迫観念は『死』なんだ。大きな課題だ。僕は実人生には悲観的でね。人生は悲惨で惨め。この二つしかないと思っている。悲惨な病人や体の不自由な人。他の者は惨めだ。惨めなのも生きている証拠。感謝しなくちゃ。惨めなのは幸運だ」

 嘯(うそぶ)いているように思えるこの言葉には、相当のリアリティがある。

 自分の「距離感覚」の中でしか生きられない、この男の人生の価値基準のハードルはあまりに高く、対人関係によって心の空洞感を満たすのは殆ど困難であるか、無い物強請(ねだ)りに等しいと言っていい。

 男はそのことをきっちり認知しているが故に、「惨めなのも生きている証拠。感謝しなくちゃ。惨めなのは幸運だ」と吐露せざるを得ないのだ。

 当然の如く、この男の「距離感覚」の中で生きられるパートナーは限定される。


 唯一、ア二―だけが男を一時(いっとき)至福にするが、それも相手の人格の裸形の様態を見せつけられるほどに自我を解放系にする状況性、即ち、物理的共存を具現するとなると、その関係の継続力は途端に委縮し、先細りの様相を呈してしまうのだ。

 「アルビー、正直言って2人の関係はもうダメね」とア二―。
 「関係と言うのはサメと同じで常に前進していないと死ぬ。僕たちの関係はサメの死骸だ」とアルビー。

 大体、「常に前進していないと死ぬ」と決めつけるような関係は疲弊するだけだろう。

 なぜなら、物理的共存を継続すればするほど、自我を解放系にせざるを得ないのが人間関係の宿命であるからだ。自我を解放系にすることによって、自分の醜悪な姿態や内面を晒しつつ、それを許容する関係の鷹揚さに我が身を預け入れていくのである。

 再会したロスで、男は女に最後通牒を突きつけられたのも当然のこと。

 「あなたは人生を楽しめない人なのよ。ニューヨークに縛られて、島みたいに孤立して」
 「一人でも餓えた人間がいてはだめだ。僕は何も楽しめない」

 それでも男は女にプロポーズするが、ロスで自己実現の時間を構築している女からの反応は、「友達でいましょう」。

 「僕を愛しているくせに何だ」

 男は、「自分を捨てて『距離』を作った女」に対して、空洞感の大きさの分だけ魅力を感じてしまっているのだ。

 「今の時点では、愛しているとは言えないわ。そりゃ、あなたはいい人よ。お蔭で世の中に出て歌も歌えるわ。自分の感情の整理もついたし・・・」

 これが女の答えだった。

 そして、狭隘な「距離感覚」の中でしか生きられない男に相応しいラストシーン。

 別れた女との物語を脚色し、それを芝居にすることによって、束の間の幻想の関係を自分の都合の良いように神話化し、それが最も重要なことと把握しつつ、そこに心の安寧を作り出すトリックの内に自己完結を果たしていくのだ。


 結局、男の愛の振れ方は、この男がその内側に仮構した物語の中でしか、女と愛情交歓できない厄介さを持っていることを意味するのかも知れない。

 「僕は、ガックリ落ち込む性格ではない」と言いながらも、常に死についての厭世的な思考を巡らさざるを得ない、この男のペシミズムと付き合うのは、この男の本質、即ち、「惨めさと悲惨さ」という言葉に集約される辺りにまで肉薄することなしに、男との価値観の共有も覚束無いし、共存することさえ叶わないだろう。

 そう思わせる映像だった。

(2009年11月)