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2010年6月13日日曜日

レオン 完全版('94)    リュック・ベッソン


<「静」によって支配される「動」が炸裂するとき>




1  復讐劇の時間の中へ



ニューヨークのリトル・イタリーに住む、ウオッチキャップ(米国海軍の水兵が防寒用に被ったニット製の帽子)を冠る、一人のイタリア人。

ファーストシーンでの、殺しの描写の緊迫感の導入は見事。

これで、観る者を一気に映像に惹き付ける。

父の眼を盗んで、煙草を吸う少女。

同じアパートに住む、仕事帰りのレオンとの交叉。

「親に言わないで」

少女はレオンに懇願した。

「殺しのプロ」であるレオンは、特段の反応をすることなく自室に戻っていく。

完璧な健康管理のため、一日2パックの牛乳と厳しい肉体鍛錬を必要とする男は、アパートの自室で、鉢植えの観葉植物に水を与える細(ささ)やかかな行為に喜びを見い出していた。

翌日のこと。

「買い物に行くの?2パックの牛乳いる?」と少女。

肯くだけのレオン。映像での2度目の交叉である。

事件は、その直後に起こった。

ヘロインを盗んだ少女の父親が、如何にも物騒なマシンガンを手にした麻薬取締局のスタンフィールドらに襲われ、家族もろとも情け容赦なく殺害されたのだ。

その中には、4歳の男の子も含まれていた。

買い物に出掛けていたため、難を逃れた少女はレオンに助けを求め、事情を知悉していたレオンは一瞬躊躇するが、少女の涙ながらの訴えに反応し、自室に匿った。

マチルダ
「名前は?」とレオン。
「マチルダ」と少女。嗚咽している。
「お父さんが・・・」
「いずれは、私が殺してたわ」
「お母さんも・・・」
「継母(ままはは)よ。姉さんの関心は、体重を減らすことだけ。腹違いよ。本当に最低の奴だったわ」
「じゃ、なぜ泣く?」
「弟のためよ。まだ4歳だったのに・・・悲しいとき、私によく抱きついてきたわ・・・」

そんな暗鬱な身の上話を聞かされたレオンは、豚の指人形をはめ、声色を変えて、少女を慰めようとした。

微笑む少女。

「あなたの仕事は何?」


レオンの拳銃ケースを開いた少女は、唐突に尋ねた。

「掃除屋だ」
「殺し屋ね」
「ああ」
「素敵。誰でも殺すの?」
「女と子供以外は」
「弟の仇を討つのに、幾らいる?」
「一人5000」
「何でもやるから、殺し方を教えて?」
「ダメだ」
「どうすればいいの?帰る所もないわ」
「今日はもう寝ろ」

ベッドで休む少女。

「あなたみたいな優しい大人もいるのね」

熟考の末、秘密を知られたレオンは少女を殺そうとして、寝姿の少女に銃口を突き付けるが断念した。

「女と子供以外は殺さない」という男のルールが、少女の命を救ったのである。

翌日。

その少女、マチルダを追い出そうとするレオンに、少女はクレバーな反応をした。

「今、私を追い出したら、助けなかったことと同じになるわ。追い出されたら殺される。死にたくないわ」
「マチルダ、君はまだ子供だ。殺し屋にはなれない」

レオンの拳銃を使って、窓の外に向かい乱射する少女。

「これでも?」

呆然とするレオン。

結局、二人は安ホテルに宿泊することになった。


そこで、レオンはマチルダに殺しのテクニックを教え、マチルダはレオンに読み書きを教えていくという、尋常ではない関係を形成していった。

18歳と偽るマチルダに、首を傾げるレオン。

どこにいても観葉植物を育てるレオンを見て、マチルダは尋ねた。

「大事なの?」

そのときのレオンの反応は、印象的なものだった。

「最高の友さ。無口だからいい。俺と同じで、根がない」

笑って答えるレオンの言葉を受け、少女は、より本質的な答えを返した。

「大地に植えれば根を張るわ。私も、その鉢植えと同じね」



2  復讐劇の暴走と、その終焉



「あなたに恋をしてみたい。初めての経験よ」

ベッドに仰向けの大の字になって、思いを吐露するマチルダ。

「初めてで、なぜ分る?」とレオン。
「感じるの?」
「どうやって?」
「ここが暖かいの。締め付けられるような感じが消えたわ」

自分のお腹を擦りながら、マチルダは答えた。

「マチルダ、腹痛が治って何よりだ。恋とは関係ない」

防衛的反応で逃げるレオンは、その直後、「仕事に出る」と言って、安ホテルの部屋の戸を開けて少女との距離を取った。

しかし、心の秩序を明らかに乱されたレオンは、そこで立ち止まり、ホテルの壁に凭(もた)れかかって、マチルダの告白を反芻するように悩み込むのだ。

一方、堰を切ったように感情を吐き出したマチルダは、安ホテルの老フロントに、「彼は父じゃないわ。愛人よ」と言い放って驚かせた。

そのマチルダは、警察の包囲網を潜って、事件のあった自宅に戻り、親が隠した現金や自分の縫い包みなどを持ち帰るが、そこで弟を殺した犯人が麻薬取締局のスタンフィールドである事実を知り、彼の後をタクシーで尾行し、職場を確認するに至る。

少女の復讐劇への思いは本気なのである。

まもなく二人は、安ホテルを追い出されたが、当然の帰結だった。

別のホテルに移った二人。

マチルダはレオンに、自宅から持ち帰って来た金を渡して、スタンフィールド殺しを依頼するが、レオンは「ヤバイ」と言って、にべもなく断った。

「君のゲームには疲れた」とレオン。
「人を優しくする素敵なゲームを知ってるの」とマチルダ。

そのときマチルダは、レオンにロシアンルーレットを提案し、「私が勝ったら、生涯あなたと一緒にいさせて」などと言って、強引に自分の思いを通そうとする。

「君は負けるぞ。装填したときの音で分る」とレオン。
「私が死んだら悲しむの?」とマチルダ。
「いいや」
「それは本心ね。私への愛がないことを願うわ。もし、私への愛がひとかけらでもあったら、このことを後悔するから」

マチルダは、嗚咽しながら話すのだ。

自分のこめかみに銃を向けたマチルダを、レオンは発射寸前に止めた。

「私の勝ちね」

彼女の言う通り、覚悟の一端を開き、〈状況〉を支配したマチルダの勝利だった。

二人は、風邪の予防のためにウオッチキャップを冠り、意を決して、最も危うい復讐劇の時間の中に踏み込んでいくのだ。。

相手が特定できなくなるから顔は撃つな。依頼人から金を貰えなくなる。

サイレンサーで何発も連射するときは、黒い布を巻け。サイレンサーが過熱するから。

そんな詳細な指示を下す、レオンによる「殺し」のプロの指導が開かれた。

「君に会ってから全て変わった。少し、自分だけの時間が欲しい」

このレオンの言葉は、一貫して〈状況〉を支配し続けるたマチルダとの、適正な距離の均衡感が崩されていく中年男の不安を吐露したもの。

その中年男の不安は、まもなく最悪の形で現出した。

復讐劇の時間の中に踏み込んだマチルダの感情剥き出しの行動が、自らの危機を招来してしまったのだ。

スタンフィールドを付け狙うマチルダが、逆に「仇」によって捕捉されてしまったのである。


ここでも、レオンが少女を救出するに至った。

麻薬取締局の捜査官・スタンスフィールド
しかし、レオンによって悪徳仲間を「掃除」されたスタンフィールドは、その凶暴性を露わにしていく。

彼はレオンのボスであるトニーを恫喝して、レオンとマチルダが宿にするホテルを聞き出すや否や、無数の警官隊を動員してホテルを包囲した。

少女の復讐劇と、汚職麻薬捜査官の抹殺作戦がガチンコ対決したのである。

「映画の嘘」で固められた、アメリカ映画らしい超ド級のアクションシーンは、殆どテロリストとの「殲滅戦」の動画映像だった。

その「殲滅戦」の狂騒の中で、マチルダを逃がした後、深傷を負ったレオンは、背後から狙い澄ましたスタンフィールドの凶弾に撃たれて絶命するが、レオンの仕掛けた爆弾トリック(リングトリック)によって、憎き「仇」もまた爆殺されるに至ったのである。

少女の復讐劇の終焉は、最も大切な男の命をも喪う羽目になり、一人残された少女は、結局、施設に戻って行くことになった。

少女マチルダがレオンの鉢植えの観葉植物を庭に植えるという、ラストシーンの象徴的イメージの内に映像は閉じられていった。



3  ブロックラインによって塞がれた「欲情的邪心」




およそロリコン男でもない限り成立しないような中年の殺し屋と、12歳の少女の関係が、たとえそこに、少女からの「愛の告白」が経由し、少女の要望によってベッドを共にしたとしても、この二人の関係の情感的逢着点に、「ドロドロの情欲」による〈性〉が待機しているという発想は初めから排除されていた。

少なくとも、そのような「欲情的邪心」が入り込む隙を、本作は巧みなブロックラインを敷いて、その危うい広がりを防いでいたように見える。

従って、そのブロックラインによるバリアを構築するために、本作は不必要なまでの描写を加えてしまったのである。

それが、本作を説明的な映像にしてしまったのだ。

説明的な映像は、単なる暇つぶしの娯楽映画のフラットなレベルの、1回的な消費で済まされてしまうという致命的瑕疵を免れないであろう。

リュック・ベッソン監督(ウィキ)
そんな本作は、「静」と「動」の交叉によって支えられた典型的映像だった。

中年の殺し屋と、12歳の少女のみが絡む「静」のシーンと、その二人の関係に「敵対的第3者」が絡む「動」のシーンがそれである。

映像の骨格は、「静」が「動」を支配し、「動」の帰結点が、一定の「静」への自己完結を持って閉じていくというラインは、ほぼ予約された物語の構造だった。

ところが、「動」を支配する「静」の描写があまりに説明的であったため、満を持して公開したはずの「完全版」の過剰な膨らみは、却って映像全体の緊張感を希釈化させ、間延びした映画になってしまったのである。

その典型例が、中年の殺し屋と12歳の少女が絡むシーンの中で、件の殺し屋が過去を告白する場面である。

再現してみよう。

中年の殺し屋のレオンが、「もう大人よ。あとは年をとるだけ」と嘯(うそぶ)くマチルダから初体験を求められ、体よく拒否した。

その際、レオンは渡米する契機になった、19歳のときの苦い経験を語るのだ。

「彼女の父親は俺を嫌っていた。彼女は名家の娘だったが、俺の家はまるで違っていた。結局、父親は娘を殺した。事故ということで、すぐ釈放されたので、俺は父親を待ち伏せて殺した。その晩、俺は船に乗り、トニーの所で働いていた親父の元へ渡米したんだ。19歳だった。それ以来、恋をしていない。マチルダ、俺はいい恋人になれない」

〈性〉から逃げるレオンの真意を読み取った少女が、困り果てた様子の中年男に対して要求のハードルを下げていくのだ。

「その代わり、お願いがあるの。椅子で寝ないで、私と一緒にベッドへ」

この辺りの「条件提示」の「戦術」は、殆ど大人の世界の発想であると言っていい。

〈性〉や〈暴力〉が常態化した、限りなく劣悪な環境で育った少女の身体的成熟が勝ることで、「思春期」の甘美な芳香の部分を無化していかなければ状況適応し得ない厳しさが、その心象風景に垣間見えるのである。


以上の流れの中で、この日、二人の関係は最近接したが、当然の如く、ベッドを共にしても何も起こらない。

最後まで、中年男の「欲情的邪心」は封印されたままであるからだ。

然るに、この描写の導入は、最初から予約ラインをなぞっていく作り手の思惑の範疇にあったものだろうが、それを見透かしてしまう程に不必要なシーンと言わざるを得ないのである。

この描写は、観葉植物を育てることを趣味とする寡黙で孤独な殺し屋の、謎に満ちているが故に魅力的な人格イメージを、敢えて壊してしまうエピソードだったからだ。

中年の殺し屋の初恋を巡る不幸なエピソードの挿入によって、男の心情世界の全貌を露わにさせてしまったのである。

なぜ、作り手はこんなシーンを用意してしまったのか。

簡単である。

著しい年齢差による一方通行的な淡い「純愛」が、禁断の〈性〉に無媒介に侵入していくことによる、印象濃度の顕著な低減リスクをブロックするためである。

かくて、印象濃度の顕著な低減リスクをブロックするために挿入されたエピソードによって、中年の殺し屋の人格像が丸裸にされたことに起因する他方のリスクは、その直後から開かれた男のスーパーマン性が全面展開する、その得体の知れないパワーの躍動感に過剰な人間味を付与したことで、元より中途半端な映像総体を、更に中途半端なヒューマンドラマに変えてしまったという一点に集約されているだろう。



4  「静」によって支配される「動」が炸裂するとき



思うに、説明過剰な映画に張り付く宿命的な瑕疵は、ウエルメードなヒューマンドラマの不透明であるが故に、単線形のフラットな、防衛ラインが見えない奥行きの余情感をも壊してしまうのである。

元々、有り得ないような話を、「映画の嘘」によって一気に走り抜けるスピード感を最初から相対化してしまったのは、「静」によって「動」を支配するという物語の構造性に起因しているからだ。

それは、全く問題ない。

そして、「静」と「動」をリンクさせる起動点に、4歳の弟を惨殺された12歳の少女の復讐劇が物語の中枢に据えられているので、どうしても、「動」にアクセスする少女の年齢が制約されてしまうのである。

この復讐劇の主体は幼児では不可能であり、ハイティーンの少女にしたら、男との情愛関係にリアリティを持たせてしまうだろう。

だから、12歳くらいが頃合いだったということか。

且つ、殺し屋のサポートを受け、自らもプロの指導を仰ぐという設定が不可避となる絵柄を考慮すれば、当然、物語に必要な描写を嵌めていかざるを得ないので、どうしても「静」と「動」を繋ぐ中間的描写が求められるだろう。

その結果、「動」によって炸裂する「静」の描写が長尺になってしまう。

これが、映像を不必要に間延びさせてしまったのだ。

従って、この間延びを防ぐには、「静」の支配域の描写を相当程度カットする必要があった。

「完全版」では、その辺の均衡ある映像構成が必ずしも成功したとは思えないのだ。

これが、本作を中途半端なヒューマンドラマに留め、且つ、単純な娯楽アクションドラマの性格の払拭をも困難にした原因であると言っていい。

一見すると、アメリカ映画らしくなく、如何にも繊細な筆致を印象付ける映像が、結局、典型的なハリウッド映画のカテゴリーの内に、ラストシーンの流れ方を収斂させてしまった中途半端さもまた、この映画を凡作に貶めた原因だったと思われる。

加えて言えば、「映画の嘘」の中に余分な感傷を張り付けてしまったため、痛快娯楽作としての尖った個性をも削いでしまった印象も強いのだ。


更に言えば、「雨に唄えば」を口ずさむ少女の描写も含め、汚職麻薬捜査官の過剰な演技もまた、意図的に、「時計じかけのオレンジ」のアレックスの騒ぎ方に寄せてしまった描写の狙いが裏目に出て、殆ど剽窃(ひょうせつ)的なイメージしか残さなかったのである。

最後に、私が最も気になった点について、一言触れておきたい。

女子供を殺さない、万全の健康管理を心がける寡黙な殺し屋と、女子供を平気で殺す、「超暴力」に酔う狂気の麻薬捜査官という、極端な対立構図の単純さ。

それは、看過し難いほど目障りな構図だった。

吹き出してしまったのは、後者が前者のボスに殺しを依頼するという安直なオチを見せられたとき。

あまりに粗雑な物語の枠組みだったと言う外にない。

本作は、ただ単に、一回消費の面白いだけの映画の読み切り篇だったということだ。

(2010年6月)

2010年6月10日木曜日

グレート・ブルー 国際版('88)   リュック・ベッソン


<「マリンブルー」の支配力だけが弾ける世界の、単純な映像構成の瑕疵>



1  「純粋」、「無垢」、「超俗」、「寡黙」、「非文明」、そして「『聖なるもの』としてのイルカへの至上の愛」



「錦鯉の外見美を守るために、平気で水生昆虫を食べさせる環境擁護論も可笑しいが、『ハエや蚊のいない、トンボや蝶の舞う町づくり』をアピールするナチュラリズムはもっと可笑しい。

極めつけは、ある県の学校緑化コンクールで優秀賞に選ばれた小学校が、校庭美化のため夜間に除草剤を散布したというエピソード。

奥井一満の、『五分の魂』という本で紹介された事例だ。

本来の自然である野草を引き抜き、外見的に美しいものだけを大切にする私たちの欺瞞的な自然観が、ここにある。

特定の動物への保護に走りやすい『動物愛護』の軽薄な情感性と、生態学的な多様性を維持し、サステイナブル・ディベロップメント(持続可能な開発)の観点に立って、その価値を増大させるという思想を視野に入れた『自然保護』との相違は決定的であるだろう」

この文章は、私のブログの「状況論的短言集」の中の拙稿である。

「グレート・ブルー」(120分の国際版で、原題は「THE BIG BLUE」)というカルト的に支持されている映画を観ていて、私はこの拙稿のことを想起した。(因みに、本稿では、「グラン・ブルー完全版」についての批評にあらず)

今更、「動物愛護」と「自然保護」の決定的相違について講釈しても詮無いので、映像との関連のみで言及する。

「グレート・ブルー 国際版」という映画では、明らかに、「動物愛護」の対象動物として、イルカという万人受けしやすい動物が、「聖なるもの」として特定的に選択され、その「聖なるもの」と睦み合う男が「聖なる使者」として立ち上げられるのだ。

「『日本イルカの日』には、世界の50カ所の主要都市で日本のイルカ猟に反対するデモが行われました」

これは、「ヘルプアニマルズ」のHPからの言葉。

また、日本のイルカ追い込み漁を隠し撮りして、第82回アカデミー賞ドキュメンタリー映画を受賞した、例の「ザ・コーヴ」(2009年公開)の話題を例に挙げるまでもなく、どうやら、西欧、とりわけ、「オーストラリアではイルカ、鯨は聖なるもの」(「JANJAN・2005年7月26日」)と化しているのだ。

さて、本作のこと。

「聖なるもの」としてのイルカと睦み合う「聖なる使者」の名は、ジャック・マイヨール。


晩年に自殺(2001年に、イタリア・エルバ島の自宅で縊首。享年74歳)した実在の人物だが、本作では、彼の自伝を基にしていると言われながらも、人物造形は似て非なる人格と言っていい。(画像は、故ジャック・マイヨール氏)

なぜなら、フランス人ダイバーである、本作でのジャック・マイヨールの人格イメージは、少年時代に被った潜水事故によって、スキューバダイバーへの夢を砕かれたリュック・ベッソンの理念像が投影されたものであると思えるからだ。

本作のジャック・マイヨールの人格イメージを要約すれば、「純粋」、「無垢」、「超俗」、「寡黙」、「非文明」、そして「『聖なるもの』としてのイルカへの至上の愛」と言ったところである。

要するに、本作のジャック・マイヨールとは、異性愛の究極の現象である「性」よりも、「聖なるもの」を「家族」と信じて、その「家族」と睦み合う行為を至上の喜びと看做す「聖なる使者」であったということだ。



2  「聖なる使者」の「聖性」をより際立たせる人格造形① ―― エンゾの場合



「聖なる使者」の「聖性」をより際立たせるために、リュック・ベッソンは二人の人物を、「聖なる使者」の「パーソナルスペース」の範囲内に設定した。

その二人の名は、エンゾとジョアンナ。

エンゾも実在の人物だが、その人物造形も、作り手のイメージラインの内にあるものだろう。


彼は陽気で快活なイタリア人フリーダイバー。

相当のマザコンであるという設定は、如何にもイタリア人らしい。

本作では、ガキ大将時代に、ギリシャの海でジャックを知って以来、この寡黙なる男との潜水記録競争に命を賭けるダイバーとして描かれているが、その一点を除けば、彼の性格特性は殆ど「俗物」と言っていい。

エンゾの「俗物」性は、ジャックの「聖なる使者」の「聖性」を際立たせるものとして、大金を得て真っ赤なスポーツカーを乗り回したり、派手なパーティを主催したり、ジャックに女遍歴を語って得意がらせたり、等々のエピソードで判然とするように、如何にも俗物的なエピソードによって見透かされるような伏線が張られていくが、ここでは、名うてのフリーダイバーの潜水記録競争について簡単にフォローしよう。

ジャックと南仏で再会したエンゾは、彼に競技への参加を求めて了承を得た。

全ては、ここから開かれていく。

エンゾ(左)とジャック
108メートルの記録を出したジャックに、約90センチの差で、自分の記録を抜かれたエンゾは祝福の言葉を添えた。

「やっぱり、お前は世界チャンピオンになった」

そして、エンゾによる新記録の達成があり、このイタリア人フリーダイバーを有頂天にさせた。

まもなく、ジャックがそれを塗り替える。

120メートルの達成である。

それを冷眼視するエンゾ。

そして迎えた、第14回国際潜水選手権大会の日。

「マイヨールのデータを分析して分った。彼の達した深度は生理的な限界だ。猛烈な水圧のために、血液中の酸素が体内の器官に回らなくなる。彼の記録に挑むのは自殺行為だぞ」

大会の医務班員の一人の医師に、そんなシビアな忠告を受けても、エンゾは諦め切れない。

エンゾは反対を押し切って、深海に飛び込んだ。

不安含みで、彼を追って、深海に飛び込むジャック。

しかし生理的な限界を超えたエンゾは、自殺行為を自ら検証してしまったのである。

「本当だった」とエンゾ。

陸に上げられたエンゾは、虫の息で呟いた。

「何が?」とジャック。

「海の中はいい。陸よりも・・・俺を沈めてくれ」

嗚咽するジャック。

これが、エンゾが遺した最後の言葉となった。

エンゾの遺言に従って、ジャックは彼を深海に弔ったが、この衝撃がエンゾの自我を切り刻んでいって、これがラストシーンの伏線にもなっていく。

これについては後述する。



3  「聖なる使者」の「聖性」をより際立たせる人格造形② ―― ジョアンナの場合



「聖なる使者」の「聖性」をより際立たせるための、もう一人の人物の名はジョアンナ。

ニューヨーク生まれの保険調査員である彼女は、アンデス高地でジャックと「運命的」な出会いをする。

アンデスの凍結湖に潜水夫として働く一人のダイバー、それがジャック・マイヨールだった。

装備を積んだトラックが、凍結湖深くに沈んだ事故の調査のためにやって来たジョアンナと、酸素ボンベなしに潜水して探索するジャックとの邂逅は、以降の二人の関係性の本質を既に露呈していた。

以下、そのときの会話。

「会ったね?」とジャック。
「小屋で」とジョアンナ。
「水中で」とジャック。

アンデス山脈の高地で初対面の会話であるが、二人の関係の不均衡感が露わになっていた。

この会話こそが、二人の関係の本質を言い当てているといっていい。

ジャックの視野には、「聖なるもの」としてのイルカが遊弋(ゆうよく)する、大自然からの心地良き情報しか捕捉されていないのである。

ジョアンナ(右)
以来、ジョアンナは、エンゾからスーツを着せられても不具合感を露わにする、彼の非文明的でナイーブな性格に惹かれていく。

やがて、彼との間に恋愛関係が生まれるが、それを恋愛と認知しているのは、ジョアンナのみという関係の不均衡感が延長され、彼女は一貫して、この不均衡感の中で悩み続ける。

こんな会話もあった。

「君に見せたいものがある」

そう言って、ジャックがジョアンナに見せた一枚の写真。

そこに写っていたのは、一頭のイルカ。

「僕の家族だ・・・」

ジョアンナは一瞬茫然とするが、眼の前で涙を浮かべる大の男を、「泣かないで・・・」と言って、自らも感情を合わせながら抱擁する以外になかった。

彼女は単に、「普通の家族の幸福」を願う、ほぼ「普通のサイズの女性」として描かれていて、この人物造形もまた、ジャックの「聖なる使者」の「聖性」を強調する役割を果たしていると言っていい。

潜水記録を達成したジャックは、その日、ジョアンナと初めて結ばれた。

しかし、彼の心はどこか上の空という感じだった。

ジャックは〈性〉に対して恬淡(てんたん)としていて、愛するはずのジョアンナと結ばれても、彼の脳裡を支配するのは、「聖なるもの」としてのイルカの存在感の大きさだった。

それだけではない。

ジョアンナから妊娠の可能性の事実を知らされても、ジャックの表情は浮かなかった。

エンゾが記録に挑戦して、失敗した不満をぶつけられていたからだ。

南仏の海(イメージ画像
「聖なる使者」の「聖性」を保有するジャックは、かつて父を喪った南仏の海に、ジョアンヌを随伴して訪れた。

暗く沈んでいる彼に、女は海の中で、意を決したように語りかけた。

「私の世界の話よ。あなたのことよ。愛しているわ。一緒に住んで、子供を産んで、家庭を持ちたいの。車も買って、犬も飼いたいの。妊娠したらしいのよ」

今度は、妊娠の事実をはっきり告げるジョアンヌだったが、ジャックはここでもなお、「普通の家族の幸福」を願う女の思いを、全人格的に受容する「普通の男」ではなかったのだ。

この関係は最後まで変わらない。

「グレート・ブルー 国際版」の印象深きラストシーン。

エンゾの命を奪った自責の念も手伝って、明らかに精神の抑性系を失ったジャックが、「聖なるもの」の噴気孔付近から出すクリック音(高周波の超音波)が聞こえるかの如く、その「発信音」に誘導され、闇夜の深海に潜っていこうとするとき、それを制止しようと訴えるジョアンヌは置き去りにされるだけだった。

そのとき、ジョアンヌは嗚咽しながら、彼女なりのマキシマムなアピールをした。

「見て来る」
「何を?見るものなんかないわ。暗いし、冷たいし・・・あなたは一人よ。ここには私がいるのよ・・・愛してるわ・・・聞こえた?」

男は女の手を取って、力のない一言を返すだけ。

「愛してるよ・・・」

深海に潜った男を待つのは、「聖なるもの」としての一頭のイルカ。

このラストシーンの構図が、本作の全てを語っていると言っていい。

愛する男との子を孕んでも、殆ど確信的に置き去りにされる女がそこにいた。

少年期に天涯の孤児となった果てに、「聖なる使者」の「聖性」を保有した男は、「普通の家族の幸福」を願う女の思いを受容する、「普通の男」の人生に戻り得ない辺りまで突き抜けて行ってしまったのである。



4  「マリンブルー」の支配力だけが弾ける世界の、単純な映像構成の瑕疵



以上、言及してきたように、この映画の基本骨格の特徴は人物造形が類型化されているという点にある。

そして、その一点こそが、この映画の最大の瑕疵であると言っていい。

それを象徴的に示すのは、「海」に対する二人の男の視座の決定的乖離である。

一方は、「ダイバーとしての潜水記録を塗り替えるためのフィールド」として「海」が存在するだけだが、もう一方の場合は、決してそのようなスポーツ的な視野で「海」を把握することをせず、何よりも、「『聖なるもの』としてのイルカが遊弋(ゆうよく)する『母なる大自然』」というイメージの内にしか、「海」の存在は有り得ないのだ。


「新入り」が来てから食事も演技もしないイルカを水族館から盗んで、海に戻すジャックのエピソードは、水族館という名の文明の一装置と対峙する、「『母なる大自然』である『海』」を遊弋する、「聖なるもの」としてのイルカのイメージを象徴するもの以外ではなかった。

このとき、ジャックには「救出」という観念しかなかったのだ。

「女を連れ出すのに担架はいらないんだぞ。助けがいるのはイルカだけじゃない。お前は本当に女を知らないな」

「純粋」、「無垢」、「超俗」、「寡黙」、「非文明」という類の、薄気味悪い象徴的人格像で固まっているが故に、ほぼ100パーセント浮世離れしたジャックに苦言を呈した、このエンゾの言葉こそ、遥かに人間的なイメージを代弁するものだが、あろうことか、この映像はジャックの「イルカ救出」劇を、「聖なる使者」の「聖なるセレモニー」として拾い上げたのである。

従って、「ダイバーとしての潜水記録を塗り替えるためのフィールド」として、「海」のイメージを把握する男は葬り去られ、「聖なるもの」としてのイルカと睦み合う男だけが、「『母なる大自然』である『海』」に生き残るのだ。

生き残った男には、殆ど人間の世俗的な言語が通じない辺りにまで、深々と這い入っていく外になかった。

愛する男との子を孕んだ女を置き去りにした、「聖なる使者」としての男にとって、今や、戻るべき基地としての「家庭」という名の強制力は不要でしかないのだ。

だから男は、妻になるであろう女のアピールを確信的に拾おうとせず、「聖なるもの」としてのイルカと睦み合うためにのみ深海に潜っていくのである。

これが本作の基本構造であり、作り手の情感的なメッセージであったに違いない。

しかし、このような物語の類型的な映像構成性こそが、残念ながら本作を、フラットな自然讚歌への印象誘導に還元させる構築力しか持ち得なかった。


思うに、およそ俗世界から遊離した男を限りなく「聖化」して、そこに「聖なる使者」としての象徴的人格像で固め抜いた映像の薄気味悪さに張り付く、「純粋無垢」で寡黙なる内面世界の、その突き抜けたナイーブさによってのみ生きる男が放つ、底なしの「清潔感」のどこに、人間的魅力の欠片を拾えると言うのだろうか。

殆ど実在し得ないような強引な人物造形に拘泥する作り手の、ドロドロのナルシズムが致命的な徒(あだ)となって、本作で主役であったはずの男の底なしの「清潔感」のイメージよりも、遥かに人間的な振舞いをするイタリア人ダイバーの圧倒的存在感だけが、過半の観客の記憶の内に深く印象付けられたという訳だ。

従って、本作において、「嫉妬」、「優越志向」、「無謀なチャレンジ精神」、「深いマザコン濃度」、「人並みの異性観と情欲濃度」、「自己顕示志向」、「陽気快活」等々、「俗物」扱いされた男が放つ、その抜きん出た個性の圧倒的臭気に人間的魅力を感受してしまう振れ方こそが、実はごく普通の「親和動機」を惹起させる普通のモジュールと思われる。

殆ど深みのない、「マリンブルー」の支配力の凄みだけが過剰に弾ける世界の、あまりに単純な映像構成の瑕疵は、以上の説明でほぼ集約できるだろう。

たまには息抜きして、オーストラリアの「モンキーマイア・ドルフィンリゾート」(野性のイルカが毎日やって来るという、シャーク湾にある有名リゾート)に行って、「聖なるもの」としてのイルカと対面しよう、などという類の脆弱なアピール以上の何ものも構築し得ない映像の、その驚くほどの薄っぺらさは、恐らく、カルト的な愛好者のペットアイテムにしかなり得ないと言ったら言い過ぎか。

この映画が、地元フランスで批評家の酷評に遭ったのは当然だった。

リュック・ベッソン監督
本作に対する以上の把握が、私をして、「グラン・ブルー」(Le Grand Bleu)の「完全版」を観る気にさせない最も大きな理由である。

様々な意味において、「美し過ぎる映像」こそ、私が最も厭悪する映画であるからだ。

そして何より、特定的な動物を「聖化」する発想の怖さこそ、私が本作に嗅ぎ取った、最も不快なメッセージであった。

イルカによって餌にされるイワシ、サバなどの魚などは、愚かなる人間によって特定的に選択された「生き物」ではないので、食物連鎖の当然の帰結の現実を無視する厚顔さの稜線上に、単にペット化されたイルカを特定的に「聖化」してしまう、その過剰なペット思想の発想が何より傲慢なのだ。

大体、かつて各国で、鯨油や食肉として普通に捕獲対象とされていたにも関わらず、普通の魚食のレベルでは全く問題がないとされながらも、「生物濃縮」による有機水銀渦の危険性が声高に叫ばれたり(海に住む魚はほぼ全て、水銀を蓄積させている)、或いは、脳サイズの大きさ故にイルカの知能が高いという類の、科学的根拠が希薄な絶対保護論が罷(まか)り通ったり等々、いよいよ盛んになっていく「イルカ保護」という名の、限りなく恣意的で、特定的に選択されていく「動物愛護」の思想の狭隘さに辟易する思いである。

(2010年6月)