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2010年10月1日金曜日

ワンダフルライフ('99)        是枝裕和


<「人と人が記憶を共有する」という、人間の
内部世界に対する過大な幻想>



1  「極上なまでにスイートなファンタジーの世界の絵空事」という主観の過誤



人間とは脳である。

その脳は、「情動」、「意識」、「認識」、「記憶」、「運動制御」という5大機能を持つ。

その脳の中で最も中枢的役割を果たし、大脳新皮質前頭前野にその在り処(意識の座)があり、人間の生命の羅針盤とも言える「自我」の死=脳死こそ、人間の死である。

脳死とは「自我」の死であるからだ。

その「自我」の機能崩壊である脳死を信じるが故に、「死後の世界」などというファンタジーを私は全く信じない。

死んだら灰になる。

それで大地に還元する。

それだけのことだ。

以上の把握が、私の中に厳然として存在する。

そんな私から見ると、「ワンダフルライフ」という、極上なまでにスイートな映画で描かれたファンタジーの世界は絵空事にしか見えない。

私には殆ど枝葉末節の世界が、抑えられた静謐さと、セコハンもどきのノスタルジアを同居させながら、厭味なまでの繊細さを意識した甘美で、特化された異界の其処彼処(そこかしこ)に踊っていた。

ところが、この不必要なまでの長尺な本作と忍耐強く付き合っていくと、これは「死後の世界」をテーマにする作品でないことが判然とするに至る。

それは、「極上なまでにスイートなファンタジーの世界の絵空事」という主観の過誤だったが、観終わった後の感懐は決して的外れでもなかったようだ。

以下、本作のテーマと、その表現内実について言及していきたい。



2  「人と人が記憶を共有する」という、人間の固有の自我の内部世界に対する過大な幻想





「これ以上、人から忘れられるのは恐いんだ」

これは、「人が死んでから天国へたどりつくまでの7日間というファンタジックな設定の中で、"人にとって思い出とは何か?"という普遍的なテーマを描いた作品」(公式HP)である本作において、「死んでまもない人々に大切な思い出を一つだけ選ばせて、昇天させる仕事」を担う施設職員のしおりが放った言葉。

是枝裕和監督
本作のテーマは、このしおりの言葉のうちに集約されるのである。

実はこのことは、作り手である是枝裕和監督も、インタビューの中で明瞭に言及していたこと。

以下、長いがそれを引用する。(K=是枝裕和監督)

「どんなに相手が変化しても、こちら側が変化していかないと、お互いに化学変化を起こしていかないと、意味が半減するなっていう風に思ったわけです。

G:結局そういう過程を経て、記憶に対しては何を学んだんでしょうか?

K:それは実は今回の映画『ワンダフルライフ』の骨格になってるんだけど、この映画も『人と人が記憶を共有する』ことがテーマになっているんです。だから一言で言っちゃうと、ああ自分っていうのは自分の中だけにあるんじゃないんだっていう発見。それを『記憶が失われた時』を通して具体的に発見してるんですけど、実は10年前くらいに書いた『ワンダフルライフ』の脚本の中にも発見してるんだよね。その単純にフィクションとして書いていた自分の発想が、ドキュメンタリーっていうものの取材を通して、自分の中に確かな輪郭を持って、それがはずみになって映画になったようなところなんですけどね。

G:『ワンダフルライフ』を拝見して、ARATAの演じる望月というキャラクターは、ある程度是枝監督のような、取材をしているドキュメンタリー作家っていう風になぞえるんじゃないかと思うんですけども、それは意図的なんですか?

ARATAの演じる望月
K:なんかねー、撮ってる時はそれほどには思ってなかったんだけど、今見るとかなり重なってるんですよね。あんなにかっこよくないんですけど(笑)。それは、あそこで働いている人たちが映画を撮ることを職業にした時点で、自分の10年ぐらいの映像制作に関わっている者としての悩みや発見が、かなり彼の発言や行為に反映したものになっているんで、ある意味で非常にプライベートフィルムになっているんですよ。最近ちょっとね、公開するのが恥ずかしくなっています(笑)。不思議なもんですよね」(「山形国際ドキュメンタリー映画祭  日本のドキュメンタリー作家インタビュー No.12 是枝裕和」)

これを読めば分るように、この映画の基幹テーマが、「人と人が記憶を共有する」ことにあることが判然とするだろう。

劇映画、ドキュメンタリー映画を問わず、脚本家を兼任するケースを含めて、映像作家としての仕事には、その都度、「苦労の末の自己実現」の歓びが手に入れられるに違いない。

明瞭に自己完結感を感受する仕事の時間でホットにクロスし、共同作業を通して交叉した人たちとの苦労の思い出を、歓びに昇華し得たとき、「人と人が記憶を共有する」ことの大切さを継続したいと願う心理が表現者には存在するのだろう。

だから、是枝裕和監督の言うことはとてもよく分る。

映画制作現場での、そのリアルな体験を疑似再現する作品とも把握できる本作の中にあっては、「人間の思い出を再現するなんて、何のために必要なんですかね」という施設職員の言葉によっても相対化しにくい情感系の文脈 ―― それは、「死んでまもない人々に大切な思い出を一つだけ選ばせて、昇天させる仕事」=「人と人が記憶を共有する」ことの大切さ以外ではなかった。

「映画の前半、思い出を語るシーンには、台詞を語る役者、実体験を話す役者、実体験を話す一般の人など、様々なインタビューが入り混じっています。そして一般の人が語る実話にも、本人の演出や脚色、思い違いがまぎれ込んでいます。そういった記憶の虚と実の間で揺れ動く人の感情を、ドキュメンタリーとして撮りたいと思いました」

この言葉は、「ワンダフルライフ」の公式HPに掲載された、是枝裕和監督自身のコメント。

ドキュメンタリーで記録される、「記憶の虚と実の間で揺れ動く人の感情」を撮ることを狙った本作のテーマは、是枝裕和監督自身のコメントによって確認できたが、そのテーマが本作の表現内実の中でどれほど構築的だったのか。

エピソード記憶に関与する大脳辺縁系の一部・海馬の断面
ところで、本作で問題にする記憶とは、所謂、「エピソード記憶」のことである。

個人的体験についての事象記憶である「エピソード記憶」とは、それを脳内に留めるための時間、場所や感情を含む記憶である。

当然の如く、記憶の保持は脳の重要な機能の一つであり、それなしに普通の人生を構築し得ない至要たる作業である。


しかし、「エピソード記憶」には個人差があるので、その記憶に関わる自我主体の情報は偏在するであろう。


だから、「人と人が記憶を共有する」ことの大切さを認知することと、それを「公平」に共有し得る作業とは別々の問題であって、言わずもがな、そこに出来する個々人の「記憶の落差」は不可避である。

望月と里中しおり
それ故にこそ、私たちは「人と人が記憶を共有する」という個人的、且つ、内的プロセスの中で多くの「記憶の落差」を作り出すことで、そこに関わる者の「感情の落差」を生み出してしまうのだ。

それを認知し、受容することで、私たちは「世界」と繋がっていけるのである。

そのことを客観的に認知するとき、「これ以上、人から忘れられるのは恐いんだ」というしおりの言葉は、あまりにナイーブ過ぎる。

そのしおりの言葉のうちに包含される、パートナーの職員である望月(ARATA=是枝裕和監督)への個人的感情の封印によって、なお昇天できないエピソードの心象風景の本質は、「人から忘れられることの怖さ」が内包するであろう、特定他者への理解を求める、存分なまでに甘えの感情であると言っていい。

「人から忘れられることの怖さ」を自我のうちに処理できないナイーブさが、物語のナイーブさと重なって、自分の最も大切にしたい、特化された「エピソード記憶」(=思慕した女性との出征前の思い出)を確信的に拾い上げて昇天する、パートナーの職員である望月(ARATA=是枝裕和監督)の、壊れやすいまでのナイーブさに継承されていく括りは、前掲のインタビューの中で、是枝裕和監督自身が、「公開するのが恥ずかしくなっています」という言葉によって検証される何かだった。

それ故にこそと言うべきか、「人と人が記憶を共有する」という、人間の固有の自我の内部世界に対して過大な幻想を抱き過ぎていないのか。

「プライベートフィルム」の如く「同化」された、ドキュメンタリー作家としてのインタビュアーである、主人公の望月のエピソードの軟着点は、あまりに奇麗事にまとめ過ぎていなかったか。

伊勢谷友介
伊勢谷のように、本来は個人的営為であるのに関わらず、「死んでまもない人々に大切な思い出を一つだけ選ぶ」という、半ば強制された作業を拒否する姿勢を示す主体的選択者によって、幻想に流れ過ぎる物語を相対化させるエピソード挿入だけが、何かに押し出されたように浮き上がってしまっていて、鑑賞後の印象は、しおりが放った言葉のうちに収斂される予定調和によって映像が閉じられたと言っていい。

結局、本作は、そのような類の作品を期待する者だけが嵌る、秀逸なシナリオによる物語展開の面白さに支えられた、殆どトレンド化したハートフル・ファンタジードラマというところだろうか。



3  風化されていく「歴史の共有の問題」の現在性



本稿の最後に、本作のテーマを、現代の歴史状況のリアリズムの問題の中で拾ってみよう。

「人と人が記憶を共有する」ことの大切さは、風化されていく「歴史の共有の問題」にも言えることであるということだ。

それは、記憶は元々、個人の自我のうちに保持されながらも、「社会的に共有される歴史認識」という難しいテーマにも敷衍できることを意味するだろう。

例えば、「ポーランド国民に対する犯罪を告発する特別権限を行使する主要委員会」(ウィキ)である「国家記憶院」は、その「主目的はナチスと共産主義に関する犯罪の調査、資料の管理、資料の一般公開、犯罪者の告発、教育活動」(同上)にあると言われ、「特に1944年から1989年までの共産政権時代に、秘密警察を含む政権側が国民に対して犯した抑圧・弾圧行為に焦点を当ててい」(同上)て、現在も機能しているシステムとして有名である。。

更に、スペインの「歴史の記憶法」は、「しんぶん赤旗」(2008年1月30日)によると、「1936年から39年まで続いた内戦とその後75年までの軍事独裁政権下で政治弾圧を受けた犠牲者の名誉を回復し、遺族を補償する内容」であり、2004年に発足したサパテロ政権のもとで、内戦と軍政時の被害を調査する委員会が発足することで具現化したものである。

風化されていく「歴史の共有の問題」こそ、人間の固有の自我の内部世界のテーマを社会化させていくに足る、一つの至要たる仕事であるということだ。

(2010年10月)

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