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2011年5月18日水曜日

アデルの恋の物語('75)     フランソワ・トリュフォー


<空洞化した自我同一性を補填し得る、「自分自身の黄金」を弄る女の物語>



1  「愛は私の宗教」と断じる女の、「妄想性認知」という病理に近い何ものか



「もはや嫉妬もない。自尊心も捨てた。でも、愛は私に微笑まず、顰(しか)め面をするだけ。売春婦で苦しむ女たち。結婚に悩む女たち。女たちに自由と尊厳を与えること。頭には思考を。心には愛を。愛は私の宗教。魂のない肉体も、肉体のない魂もない。私はまだ若いはずなのに、人生の秋を感じる」

これは、本作のヒロインである、アデルが書いた日記の一文である。

「愛は私の宗教」と断じるアデルは、「特定他者」である、ピンソンという名の若い英国軍人をひたすら愛し、求め、彼を追ってカナダにまでやって来て、なお執拗に追い続けていく。

逃げれば逃げるほど、男を求める欲求感情が昂じていく。

人の心理とは、そういうものだ。

しかし、アデルのケースは、「普通に愛し合う関係」の範疇を超えているのだ。

その過剰さは、殆ど病理に近い何ものかである。

それは、過剰なまでに他者から認められたいとする「承認欲求心理」であると言っていい。

妄想によって自分の感情だけが止め処なく暴走する、「妄想性認知」という心理学の概念もある。

その辺りの心理を、深々と描き切った映像の凄さに圧倒されるほどだ。


この映像の凄いところは、自分が愛する「特定他者」からの愛情を占有するために、「愛される権利」を持つと信じる女の心象風景を、その皮膚感覚の見えない辺りまでをも描き切ったことにあるだろう。

若い英国軍人である「特定他者」を愛する女は、男の愛を手に入れるために、男の情事を覗き見したり、当人の了解なしに男と結婚したという嘘話を、父への手紙で知らせたり、或いは、娼婦を「供給」して男の下半身の処理まで配慮したり、等々、何でもありなのである。

そして遂には、ニセ催眠術師の所に自ら出向いて、「愛を憎しみに変えたり、逆に、憎しみを愛に変える」などという催眠術の依頼をする過剰ぶりなのだ。

以下、ニセ催眠術師に頼み込んだときの会話。

「催眠術で人の気持ちを変えること・・・」とアデル。
「人の気持ちを変える?」とニセ催眠術師。
「つまり、愛を憎しみに変えたり、逆にまた・・・」
「それはダメです。私の力は魂までも動かせない。催眠術でできるのは、意思と逆のことをやらせるだけ。それも、人によって効かないこともある」
「例えば、男を結婚させるには?」
「それはできないこともない。適当な場所に連れて来る。簡単ではないが、金次第だ」
「お金はあります。父が持っています。父を巻き込みたくないので、私が・・・」

ここで、父の名を聞かれたアデルは、曇った鏡に「ヴィクトル・ユーゴー」と書いた。

ヴィクトル・ユーゴー(ウィキ)
「ヴィクトル・ユーゴー」という、天下に鳴り響く威名によって相手を信用させるが、立ち所に、その相手がニセ催眠術師である事実が発覚し、アデルは慌ただしく帰途に就くという、何とも滑稽じみたオチがつく顛末だった。

何より、アデルの狂気の如き振舞いの極め付けは、男の婚約者の父の家に乗り込んだ行動だろう。

「ピンソン中尉は相応しくない人物です。ピンソン中尉は陰謀家です。私の家族にも取り入って、ウブな私を巧みに口説きました。私は世間知らずで、心を動かされました。私は彼の虜になり、婚約も破棄して、彼との結婚を決めました。彼は借金で投獄されるのを恐れて、軍隊に入りました。それでも私の決意は固く、両親も同意しました。式も挙げました」

アデルは、そう言ったのだ。

その証拠とばかりに、アデルは新聞の切り抜きを見せたのである。

「何で、そんなひどい男と結婚したのかね?」と婚約者の父。
「恋の感情は抑えられません。軽蔑しているのに、愛してしまうのです。それに、もうすぐ彼の子が・・・」

このときアデルは、枕を腹に入れて妊娠を装っていたのである。

それを知ったピンソン中尉も、部下に、「脅しても何をしてもダメなんだ」と嘆息するばかり。


女の想いは、男に弾かれる度に燃えていくのだ。



2  「愛される権利」という病理に近い何ものか



ここでは、一般論を論じたい。

そのテーマは、「愛される権利」。

結論を言えば、「愛される権利」などというものは存在しないという論稿である。

以下、「心の風景・愛される権利」からの拙稿を引用する。

「自我」を親に作ってもらう「特殊性」の中で生きるしかない、「子供」という存在だけは例外だが、人間には、人を愛する自由はあるが、人から愛されるという権利はないのである。

子供は愛されることがないと、健全なナルシズムが育たないからだ。

「母に愛される自己」を愛することができるのは、愛される自己に価値を見出すからである。 

ジョン・ボウルビィ
因みに、近年の「三歳児神話」の否定の論調の中でもなお、「母に愛される自己」という確信による、表象モデルとしての「内的ワーキングモデル」の重要性が、ジョン・ボウルビィ(英の精神分析家)のアタッチメント・セオリー(愛着理論)として、しばしば、心理学のフィールドを越えて指摘されているのは、「母に愛される自己」という主観的確信が内包するテーマ性の決定力が、ホスピタリズム(施設病)の問題を声高に叫ばずとも、恐らく、多くの人の経験的文脈のうちに了解された心理的背景を持つからであろう。

自己を愛する心が、同様に、自己を愛する他者のとの間に心のアーチを架ける。

他者への愛によって、狭隘なるナルシズムは相対化するのである。

愛のゲームには、他者に対する援助や献身という感情が媒介することを知り、ナルシズムの暴走に歯止めがかかるのである。

然るに、愛されないままに成人した者への「愛の権利」は、どこかで充分な補填を受けるべき何かであるのか。

私たちの社会は、当然の如く、その問いを愚問とする。

既に成人した者に、「愛の権利」はもう届かないのだ。

私たちの社会が、「内気なるストーカー」を受容することもないのである。

「君には、僕を愛する義務がある。僕もまた、君から愛される権利がある」

ここまで言い放つ大人の我が儘までは、私たちの社会の「愛の制度」は、当然網羅し切れない。

相手を脅迫してまでも占有したいと望む、そこだけすっぽりと欠落したかのようなストーキングまがいの愛情の、暴力的な補填への振舞いに、野蛮なる「愛の狩人」は、一体何を見ようとするのか。

それとも、何ものをも見ることができないのか。

自己史への何かの拘りが、過剰な補填を求めてしまうかのような歪んだハンティングは、尖った者ほど自壊に向かう流れを止められないようにも見えるのだ。

「私はまだ愛されていない」 

「愛される権利」の無秩序な立ち上げの風景が語って止まないもの ―― それは結局、他者を愛する自由という文脈の厳しさは、経験的に学習してきたものの厳しさと同義であり、そこで手に入れた、ある種の能力が内包する様々なる価値、例えば、想像力とか、援助感情とかいうような中枢的な価値の媒介なくして、容易に辿り着けない厳しさを映し出す何かであるということだ。

愛はリレーされた何かではない。

それは、獲得された能力の集合的な何かである。

「愛される権利」への過剰な拘りが、既に少しずつ、病理に近い何ものかである。

程々に愛された自我が確保し得たナルシズムの健全なラインが、その自我の社会化的展開の中で、発達段階の適切なサイズに合わせるかのようにして、本来的な稜線が伸ばされていく行程は、愛という能力を履修する時間をふんだんに含んでいて、それを権利としてしか観念化されない歪みを無造作に置き去りにすることはないであろう。(「心の風景・愛される権利」より)



3  空洞化した自我同一性を補填し得る、「自分自身の黄金」を弄(まさぐ)る女の物語



「愛される権利」をテロルもどきで奪回しようという、おぞましい風景を想起するとき、「アデルの恋の物語」の過剰性が際立ってくる。


アデルは、「愛のテロリスト」なのだ。

「愛のテロリスト」は、空洞化した自我同一性( アイデンティティ)の全てを、「愛」によって補填しようとする過剰なる者である。

ではなぜ、アデルは「愛のテロリスト」になったのか。

それは、前述したように、彼女の自我の形成過程に起因するだろう。

ここに、アデルが書いた夥(おびただ)しい文章の一部がある。

「身分や生まれに、何の意味があろう。本名だって偽名かも知れない。全て欺瞞だ。私は父の名を知らない。名もない父の子として生まれたのだ」


更に、こんな言葉もある。

「父の名は大き過ぎる。私はヴィクトル・ユーゴーの名から逃げられない」


カナダの下宿先である、サンダース家の婦人との別れの際に吐露した言葉だ。


そして極め付けは、以下の独言。


「今は、父が施してくれるパンの他には、何も持たない若い娘が、4年後には黄金を掴むのだ。自分自身の黄金を。若い娘が古い世界を捨て、海を渡って新しい世界に行くのだ。恋人に会うために」


これを見ても判然とするように、アデルが求めていたのは、常に「パン」を施してくれる、「ヴィクトル・ユーゴー」という名の巨大な把握力によって「骨抜き」にされ、「無化」されてしまう「恐怖」を脱却するに足る、空洞化した自我同一性( アイデンティティ)を補填し得るような「自分自身の黄金」であるということだ。

それ故に、アデルは古い世界を捨て、海を渡って新しい世界に行こうと意を決し、「恋人」という観念系の集合を執拗に追い続けていったのである。

然るに、アデルは自縄自縛の袋小路に陥ってしまっていた。

「自分自身の黄金」を求めるアデルの「旅」を延長させるには、継続的に「パン」を施してくれる、「父」=「ヴィクトル・ユゴー」の把握力を必要とせざるを得なかったということだ。

それは、「ヴィクトル・ユーゴー」という名の、巨大な支配域を超えること以外ではなかったのである。


そこに大脳辺縁系の情動爆発に端を発する、前頭前野の崩れとも見える「狂気」が張り付いていたとしても、「恋人」という観念系の集合を執拗に求めて、「特定他者」としての英軍将校を、カリブ海に浮かぶバルバドス島まで追い駆けたアデルは、その男と遭遇しても、もはや何の反応も示さないシーンに象徴されるように、アデルが追い求めて来た対象人格は、「特定他者」としてのピンソン中尉ではないと解釈することも可能だろう。

また、悪夢の中での、こんな独言もあった。

「姉の衣裳を捨てよう。焼いてしまおう。バラバラにしよう。もう、姉の衣裳は見たくない。見るのは耐えられない」

家族からの「愛」を占有し続けたと信じる姉の溺死の衝撃によって、悪夢にうなされながらも、「自分自身の黄金」を手に入れることで自己の有能性を証明し、父の「愛」を奪回し、「承認欲求心理」を満たそうとしたのである。

これは、決してその領域にまで踏み込んではならない、「愛される権利」を声高に主張し続ける危険な暴走を意味するだろう。

アデル自身、家族からの「愛」を占有し続けたと信じる姉とは別に、彼女もまた、「幼児自我形成期」において、過保護に起因する看過し難い心のコントロールを受けていたに違いない。

だから、「相対的関係性」を認知する発達課題をクリアし得ず、成人期に踏み込むや、彼女の中の強い「承認欲求心理」が、「恋人」という観念系の集合としての、蠱惑(こわく)的な「特定他者」への「ストーキング」という形で現出したのである。

恐らく、この一連の文脈こそが、彼女の深層心理に横臥(おうが)する風景である。

彼女にとって、ハンサムな英国軍人の存在は、言ってみれば、自己の欲求感情を安直に処理し、それによって、見えない自己の深層を欺くための防衛戦略であるということだ。

「愛される権利」という病理に近い何ものかについて、これほど抉(えぐ)り切った映像もないだろう。

私はそう思う。


然るに、フランソワ・トリュフォー(画像)は、「アデルの恋の物語」のうちに、究極の「愛」の「形」を描いたに違いないが、私は、以上の心理分析によって、本作の凄さを受容したいと考えている次第である。

フランソワ・トリュフォーは、実に素晴らしい映像作家だ。

いつもながら思うことである。

「イデオロギーの暴走」がないのが最も良い。

だから、奇麗事を言うことが一切ない。

そこが良い。

後にも先にも、このような、「ストーキング」紛いの行動をし続けるヒロインを描いた実験的作品も稀有であった。

本作のヒロインが放つインパクトは、このヒロインを演じたイザベル・アジャーニの、圧倒的にリアルな表現力に因っていて、蓋(けだ)し壮絶だった。

(2011年5月)

2010年9月5日日曜日

隣の女('81)       フランソワ・トリュフォー


<「禁断」の印、「不完全燃焼」、そして「安らぎ」へのシフト ―― 男の暴走の心理的背景>



1  男と女の運命を決めたガーデン・パーティーでの男の暴走



ジョルジュ・バタイユが、「エロチシズム」(筑摩書房)の中で、「性は小さな死である」と喝破しているように、「性」を本質にする恋愛の持つ「無秩序性」(衝動性、抑制困難性)が、「死」にまで突き進む「破壊性」をも内包することを証明する一篇。

トリュフォーは、「性愛の暴走」が死に至るリスクを高める、極めて危うい映像を描き切ったのである。

ここから、映像に入っていく。

ガーデン・パーティーでの男の暴走が、男と女の運命を決めた。

男の名は、ベルナール。

女の名は、マチルド。

ベルナールの暴走の直接的な原因は、マチルドが夫フィリップと新婚旅行に行くことを知って、男の内側でプールされた嫉妬心が激しく噴き上がってきたからである。

ベルナールの暴走を招来した原因がそこにあったとしても、元々、そのような状況を出来させた背景には、かつての恋人であるマチルド夫妻が、ベルナール家の隣に引っ越してきたことにある。

この「隣の女」の出現が全てだった。

その辺りは、明らかに偶然性に依拠するメロドラマの王道を行くものだが、本作は一部に映像構築の劣化を感じさせつつも、メロドラマの世俗性を突き抜けるものがあったと言えるだろう。

ともあれ、妻子持ちのベルナールの暴走の心理的背景を探っていくと、三つの要因が考えられるというのが私の仮説。

以下、それを考えていこう。



2  三つの要因によって成る男の暴走の心理的背景 ―― その①



ベルナールの暴走の心理的背景が、三つの要因によって成っているという私の仮説。

その一。

マチルド
男と女の愛に「禁断」の印がついていたこと。

その二。

かつて愛し合っていた二人の愛が、「不完全燃焼」であったこと。

その三。

男は既に平和で安定的な家庭を構築していて、円満な夫婦関係を支える推進力が既に「ときめき」→「安らぎ」にシフトしていったであろうこと。

一つ一つ考えてみる。

まず、一の「禁断」の印の問題。

私的仮説に基づく一般論的結論から書けば、「禁断」の愛は防御するエネルギーの枯渇によってではなく、それを固めて、そこに新しい価値を創造していくエネルギーの不足によって起こると言っていい。

「禁断」の愛は抉(こ)じ開けることに容易で、継続することに艱難(かんなん)なる愛なのだ。


その怖さを二人の時間の中で存分に味わって、そこに立ち竦み、狼狽し、やがて闘争の出口を模索することになるのではないか。

それほどまでに危険な愛を、なぜ人は目指すのか。

それを手に入れようと、なぜ人は時には命を賭けるのか。

簡単である。

それが「禁断」なる愛であるからだ。

「禁断」なる愛は「魔性の愛」なのである。

「魔性の愛」はその内側にたっぷりと蜜を含んでいて、その香りに誘(いざな)われし者たちが、次々と飽きることなく、そこに魔境を作っては壊していく。

その魔境の継続力の不足によって自壊するのだ。

だから「禁断」の愛の破綻は、寧ろ内側から分娩され、肥大していくということだ。

ベルナール(左)
本作の二人の性愛のケースもまた、呆気なく「魔性の愛」の虜となっていった。

一応、「隣の女」の出現を知った当初、ベルナールはマチルドと顔を合わせない努力をしていた。

彼は妻のアルレットが、隣家に越して来たフィリップとマチルド夫妻を夕食に招いたとき、仕事(タンカーの指導員)で帰宅できないと嘘をついていた。

しかしメロドラマ的偶然性によって、二人は再会するに至る。

それでも、スーパーの帰りの暗がりでの会話では、「友達になりましょ」と言うマチルドの言葉のうちに自制的対応を確認したのである。

当然の如く、この確認は呆気なく破綻する。

その直後、二人はキスを交わしあってしまうのだ。

もう、「魔性の愛」の虜となっていくのは必然的だったのである。

そこに「禁断」の印がついている性愛は、寧ろ、「禁断」の印がついていることによって踏み込む推進力と化すのだ。

「禁断」の愛は抉じ開けることに容易で、継続することに艱難(かんなん)なる愛であるということだ。

継続することの艱難さの「受難」を、まもなく二人はたっぷりと味わうことになるだろう。

「魔性の愛」の怖さを、二人の時間の中で存分に味わって、そこに立ち竦み、狼狽するに至るのである。



3  三つの要因によって成る男の暴走の心理的背景 ―― その②



次に、二つ目の問題。

かつて愛し合っていた二人の愛が、「不完全燃焼」であったという問題である。

その辺りについて、興味深い会話があるので引用する。

前述したように、二人が偶然、再会したスーパーでの帰りの暗がりでの会話である。

「一緒の時は愛を呪い、離れると愛を求めた。だから私は消えたの。気が狂いそうで・・・でも、過ぎたことよ。友達になりましょ」とマチルド。
「君の言う通りだ。そうとは知らず、君を恨んでいた」とベルナール。
「解決ね・・・でも、時々私の名を呼んで」

この遣り取りを見ても分るように、二人の若き日の愛には、どこかで感情の齟齬(そご)を生みやすい因子を含んでいたことである。

同時にそこには、激しい愛を求めるあまり、暴走しやすい「性愛の爛れ」をも予測させる負性因子が横臥(おうが)するであろう。

その負性因子をコントロールできない「関係の暴発性」こそ、看過し難い問題なのである。

ここで重要なことは、「関係の暴発性」を制御困難な、二人の関係の固有性それ自身であると言っていい。

要するに、そこに「禁断」の印がついている性愛であるとは言え、二人の関係の際立った孤立性が、二人の悲劇を決定付けた心理的背景にあるということだ。

ガーデン・パーティーでのベルナールの暴走によって、マチルドが神経衰弱の極点まで追い詰められても、彼女は夫のフィリップの狭隘な包容力のうちに、その身を預けられないという〈状況性〉の問題は無視し難いだろう。

「夫は聞き役よ。励ましてくれるけれど、人生は重すぎる」

これは、マチルドが精神科医に吐露した言葉。

「彼女と会って、運命を感じた」というフィリップだが、空港の管制官である肝心の夫は、マチルドが神経衰弱で入院した際、既に不倫関係を認知しつつも、「妻が待っているのは私ではない」と言って、ベルナールに頼る始末だった。

それらの看過し難い様々な現実が内包する負性因子が、再会後の二人の愛の危うい航跡を決定付けていくのだ。

―― 次に、三つ目の問題。

今や男は平和で安定的な家庭を構築していて、円満な夫婦関係を支える推進力が、既に「ときめき」→「安らぎ」にシフトしていったであろうという心理的背景の問題である。

ここで興味深いのは、男が選んだ伴侶のアルレットの人格像はマチルドと異なって、理性的で安定的な情緒を包含する女性であったことだ。

その辺りに、感情の齟齬を起こしやすい不安定な関係性を露わにしていた、8年前のマチルドとの愛のダッチロールと切れて、どこかで男の自我が拠っ立つ安寧の基盤を希求する感情が存在することが読み取れるのである。

現に男は、「ガーデン・パーティーでの暴走」後、アルレットの妊娠を知って、姑息だが、初めて我に返ったような反応を身体化するのである。

その辺りの夫婦の会話を再現する。

「あなたは数週間、変だった」

妻のアルレットは、夫の告白を受けて冷静に対応した。

その直後の彼女の言葉は、極めて理性的なものであった。

「憎くはないわ。でも嫉妬するわ。あなたたち二人と、あなたの苦しみに対して」

決め台詞のようなアルレットの反応は、このような女性だからこそ、夫の激情をコントロールできたことを検証するとも言えるだろう。

「彼女は8年前、僕を苦しめた女だ!結ばれない運命だ。不吉な女だ!」

こんな悪罵を放つ男がその直後、妻が妊娠していることを知って、「家族返り」を見せていくのである。

―― 以上の言及が、ベルナールの暴走の心理的背景に関わる、三つの要因についての仮説である。

4では、以上の視座によって、主観的に把握する本作を簡潔にまとめてみたい。



4  如何にもメロドラマ的な説明描写の看過し難い瑕疵



以上の三つの因子が、「隣の女」との再会によってそれぞれ微妙に揺れ動き、川の流れを止められない運命的な振れ方によって、男の中で封印されていた情動系を一気に噴き上がらせるに至ったのである。

これは、出会うことによって、その危うい末路が予想される男と女の固有の愛の、それ以外に流れようのない無秩序性を包含して、「性愛の暴走」が極点に達する運命的悲劇を描いた、トリュフォー流の「大人の愛」の爛れの様態の一つの提示であった。

ただ惜しむらくは、そこだけはトリュフォーらしくなく、如何にもメロドラマ的な説明描写が張り付いてしまって、映像の質の看過し難い瑕疵を露呈してしまったのである。

男と女の「性愛の暴走」の極点が、「闇の中の二発の銃弾」によって閉じるという映像で括るべきだったと私は思う。

映像のファーストシーンとラストシーンで、テニス・クラブを経営するジューヴ夫人が事件を語る説明描写の意味が、たとえ、語る者の不幸の過去(男に裏切られて8階の窓から飛び降り、右脚に障害を持つ)が、神経衰弱の極点まで追い詰められた女(マチルド)の、「人生最後の選択」に繋がったという意味を強調せずとも、既に映像の中に、その辺りが提示されていたことを思えば、やはりこの説明描写は不要だったと言わざるを得ないのである。

「一緒だと苦しいが、一人では生きられない」

結局、ある種のナビゲーター役のジューヴ夫人に、この言わずもがなの言葉を言わせるための映像の括りであった。



 フランソワ・トリュフォー監督
5  「愛に生きた男」の「恋愛日記」



本作もまた、「愛に生きた男」である」トリュフォーの「恋愛日記」であった。

本稿の最後に、トリュフォー研究の第一人者である山田宏一の言葉を引用して閣筆(かくひつ)したい。

「トリュフォーはひたすら映画に近づき、映画のなかに入りこんでいく。(略)すべての女優たちを愛し、その作品はまさに『恋愛日記』のようなものになるのだが、たぶん『映画以外の女性』に恋をしたことはなかったのである」

「不倫の愛という主題はごくありきたりであっても、『柔らかい肌』や『隣の女』がなまなましい迫力にみちた作品になりえたのもまた必然であったといえよう。トリュフォーの映画はあくまでも自分が生きた、あるいは『実際に目撃し、個人的に関わった』現実の人生の引用そのものなのであり、そこがゴダールの映画における『芸術的な』引用とはまったく異なるところでもあろう」(「トリュフォー ある映画的人生」山田宏一著 平凡社/筆者段落構成)

(2010年9月)

2010年6月6日日曜日

終電車('80)       フランソワ・トリュフォー


<トリュフォーの、トリュフォーによる、ドヌーヴのための映画>



1  モンマルトル劇場で交叉する人間模様



簡単に、物語のプロットを書いておく。

「パリ。1942年9月。2年来、独軍はフランス北部を占領し、占領区と非占領区は境界線で南北に二分された。占領区は11時以降、外出禁止で、パリ市民は地下鉄の終電車を逃したら大変だった。彼らは食料を買うために列を作り、寒いので、毎晩劇場へと急いだ。映画館、劇場は満員で、予約が必要だった。モンマルトル劇場は稽古中だったが、座主のルカは国外に逃れた。窮余の策だった」

こんなナレーションでドラマが開かれた。

ところが、座主のルカは国外に逃れていなかった。

モンマルトル劇場の地下に隠れ住んでいたのである。

「隣人や義兄弟まで告発し、警察へのユダヤ人密告状が1日に1500通も来る」(マリオンの言葉)中で、妻のマリオンは地下に隠れ住むユダヤ人のルカを助けつつ、ジャン・ルーの演出による「消えた女」の舞台を成功させるべく、本来の女優の仕事にも熱心に取り組んでいた。

「消えた女」で、マリオンの相手役に選ばれたのが、新進俳優のベルナール。

読書三昧の時間潰しにストレスを溜めていたルカは、毎晩会いに来るマリオンを通して、自らが翻訳したノルウェーの戯曲である「消えた女」の演出にも関与し、間接的にアドバイスした効果もあって、「消えた女」の公演は劇場に足を運ぶパリ市民から好評を持って迎えられた。

マリオンとベルナール
しかし、ナチ占領下の時代状況は緊迫し、レジスタンスの闘士でもあったベルナールは、マリオンとの愛を確認した後、地下に潜っていく。

ゲシュタポによる抜き打ち的な劇場地下の捜査の急難を逃れて、劇場はパリ解放の日まで上演を続け、遂に自由を勝ち取って、新たな公演の成功によるカーテンコールの中で、それを演出したルカが、初めて劇場に足を運ぶパリ市民の前に顔を出し、熱狂の内に迎えられた。

そして、その俳優の中に、マリオンもベルナールもいた。



2  ラストシーンの劇中劇に集約される男と女の物語



この映画のエッセンスは、ラストシーンの劇中劇に集約されるだろう。

以下、その際の男と女の会話を再現してみる。

「あなたを忘れたかったの。あなたの自尊心が私を遠ざけたの」
「あなたは新しい嘘を考えて、ここに来る」
「嘘?何のため?あの人は死んだわ」
「あなたには仕事がある」
「違うわ。もう仕事には興味はないわ。何もかも捨てたわ。私は、唯一つだけを願っているの。あなたをここから出すことよ。私たちはやり直せるわ」
「いや。やり直すことなんか何もない。僕らに真実は何もなかった。愛の演技はしたが、愛したことはない。頭の中の愛だけだった。僕自身それを信じたから、あなたも信じた」
「あなたのことを考えない日は、一日もなかったわ」
「僕だって。だが、それも次第に遠くなって、今ではあなたの苗字が思い出せない。名前も忘れたよ。あなたの顔が、すっかりぼやけていくようだ。帰ってくれ。帰ってくれ!」
「聞いて頂戴、お願い。二人がいれば愛せるわ。憎み合いもよ。私はあなたを愛すわ。あなたを思って、胸が高鳴ることが私の命よ・・・さようなら」

女は負傷した男の病院に駆けつけて、自分たちの愛を取り戻そうと、その思いを吐露していく。

「もう遅い」と男は拒む。

女はなお未練を残しつつ、男の病室を去っていく。

ここで劇中劇が閉じられ、カーテンコールの大団円に流れ込んでいった。

長い間、待ち望んで駆けつけたパリ市民の熱狂が、モンマルトル劇場で炸裂する。

ここでルカが登場するに及んで、劇場の観客たちに響(どよめ)きが起こり、「ルカの生還」を祝福し、歓声が勢いよく劈(つんざ)いた。

観る者は、ここで初めて、この劇中劇を演出したのがルカであることを知る。

予想もしない展開の中で閉じていく映像の余韻は大きく、両サイドに居並ぶ二人の男(ルカとベルナール)の手を結ぶ中央の女、即ち、マリオンの満面の笑みをアイリスショットの技法の内に映し出すのだ。

このような劇中劇を作り上げ、成功させたルカには、マリオンとベルナールの関係の本質を見抜いていたのである。

既に映像後半で、劇場の地下室を捜索しに来たゲシュタポの手から、そこに隠れ住んで、「消えた女」という戯曲の演出をサポートするルカを守ろうと、必死に行動する男と女が描かれていた。

言うまでもなく、女の名は、ルカの妻のマリオン。

そして男の名は、この劇の相手役に抜擢された新進俳優のベルナール。

そのときベルナールは、地下室に隠れ住ルカと初めて顔を合わせるが、レジスタンス活動に挺身しているベルナールは、当然の如く、ルカの救出劇に一役買った。

そのベルナールに、ルカが放った一言。

「私の妻は奇麗だろう?あんたに一つ尋ねたい。妻はあんたを愛しているが、あんたはどうだ?」

この時点で、ルカは既に、妻とベルナールの関係の本質を見抜いていたのである。

観る者は、このルカの言葉に驚かされるだろう。

なぜなら、ベルナールに思いを寄せるマリオンの心情の伏線となり得る、1人称的なナレーションを含む一切の描写を、映像は全く拾い上げていなかったからだ。

ともあれ、このルカの指摘に何も反応しないベルナールの沈黙によって、この関係がルカの指摘通りであることを暗黙裡に検証するに至る。

そして映像は、占領末期のナチスへのレジスタンスに身を投げ入れていくベルナールが、別離の際(きわ)になって、初めてマリオンと愛を確かめ合うシーンが挿入された。

ベルナールが別れていくときの、二人の会話を再現してみよう。

「あんたは怖かった。僕を見る目が冷酷でさえあった」
「冷酷?」
「そう。人を裁くように」
「全く反対だわ。私があなたに心を乱されていたのよ。それが顔に出はしないかと思い、頑なになって、あなたの憎しみを買ったのよ」
「嘘だ。憎んだことは一度もない」
「私の中に、女は二人いない」
「二人の女がいる。夫を愛さぬ妻と・・・」
「違うわ!」

この会話の直後、二人は求め合うように愛し合う。

そして、この男女の睦みの後に開かれた映像は、占領末期の混乱の中で、パリ市民が騒然とするさま。

そこにルカとマリオンがいることで、観る者は夫婦の関係が延長されていることを知らされる。

その後、前述した劇中劇が開かれるに及ぶのだ。

物語としての巧みな映像構成に脱帽するところである。



3  トリュフォーの、トリュフォーによる、ドヌーヴのための映画



ところで、ルカはなぜ、妻とベルナールの関係の本質を見抜いていたのだろうか。

舞台劇の様子を、地下室の通風孔の管を使って得る情報だけで、彼はその関係を把握したのである。

恐らくルカは、「消えた女」のステージの状況などから、ベルナールに対して必要以上に拒否的反応を示す妻の反応を感受することで、若い俳優に思いを寄せる妻の感情を読み取ったに違いない。

ルカは妻の人間性や、その感情の深い機微を知り尽くしているのだ。

そんな妻に対して、全く不満を漏らさないルカには、自分を命懸けで守ってくれる思いと同時に、女としての妻の包括力に対して、彼女を占有する能力を持ち得ていないことを感受したのかも知れない。

女としてのマリオンの包括力。

これが、映像の全てであると言っていい。

この難しい役どころを、トリュフォーはかつて恋人であったカトルーヌ・ドヌーヴに委ねた理由は分るような気がする。

ドヌーヴなしに、この難しい役どころを、観る者に厭味を抱かせることなしに表現することは困難であると思ったのだろう。

ここに、トリュフォー研究の第一人者、山田宏一の一文を引用する。

トリュフォーによるカトリーヌ・ドヌーヴ論が掲載されているからだ。

「『カトリーヌ・ドヌーヴはいつも不思議な、割り切れない、一種の〈あいまいさ〉をもたらす女優だ。

どんなシチュエーションも、どんなストーリーも。彼女がそこに入りこんできたとたんに、二重の意味を持つことになる。その背後には何か秘密が隠されているに違いないという印象をずっと与えずにはおかない存在なのだ。そうした〈あいまいさ〉〈二重性〉がしだいに形をなして映画の風土をつくっていくのである。

カトリーヌ・ドヌーヴのこの多義性は、おそらく、彼女のまなざしの鋭さにもよるだろう。彼女がどんなに表情をやわらげているときでも、そのまなざしだけはきつく、何か鋭く見つめ、明瞭にみきわめているかのようだ』という1969年に書かれたトリュフォーによるカトリーヌ・ドヌーヴ論は、『暗くなるまでこの恋を』の失敗を言葉で批評的に補い、弁解しているというよりは、むしろ、『終電車』に映画的に生かされ、実現されているのである」(「トリュフォー ある映画的人生」山田宏一著 平凡社/筆者段落構成)

「彼女のまなざしの鋭さにもよる」という「カトリーヌ・ドヌーヴのこの多義性」こそ、この映像を根柢から支配している。

そういう指摘だろう。

これは、「トリュフォーの、トリュフォーによる、ドヌーヴのための映画」だったのである。



4  極めて人間的な感情前線を騒がす物語の鋭角的な交叉



この映画に緊迫した状況のリアリズムがあまり感じられないのは、映画本体を三人の男女の物語としての骨子で固め、それぞれの心理の微妙な綾を描き出す映像構成を貫流させてしまったからである。

占領下に置かれた見知らぬ男女の心理を根源的に掬い取った映像に、イシュトヴァーン・サボー監督による「コンフィデンス 信頼」(1979年製作)という秀逸な作品があるが、この作品が占領下の異常な緊迫と、そこに潜む微妙な心理の振幅をテーマにした作品であるのに対して、どこまでも本作は、フランス映画の伝統的な物語への回帰が濃厚に感じられる作品になっていた。

「カイエ・デュ・シネマ」の誌上で、フランス映画の巨匠連の伝統的な「詩的リアリズム」を酷評し続けてきた、ヌーベル・バーグの一方の旗手である、この、「フランス映画の墓掘り人」の変節への批判が起こったのは当然であるだろう。

以下、その批判文の一例を紹介する。

1983年に刊行されたジャン=リュック・ドヴァン編の「二十五年後のヌーヴェル・ヴァーグ」に収録された、「ルネ・プレダルによるインタビュー」がそれである。

演出中のトリュフォー
「フランソワ・トリュフォー氏は『アール』紙でわたしたちのつくる映画が反動思想を世にばらまいているなどと非難したものだが、見当はずれもいいところだ。小生意気な映画ジャーナリストが大向こうをうならせるようとして企んだあざとい論争にすぎない。

何もかも嘘っぱちだ。

わたしは映画はすべて、反動どころか、異議申し立ての映画だ。同じナチ占領下のパリをあつかった映画でも、わたしの『パリ横断』とトリュフォー氏の『終電車』を比較してみれば、それはすぐわかることだ。

トリュフォー氏の映画は当時の世相について間違いだらけであるばかりか、紙クズのように無気力な映画だ。それとは逆に『パリ横断』は怒りと反逆の映画だ。毒のある映画だ。だから、けっして古びることはないだろう。

ヌーヴェル・ヴァーグの若い連中は、じつはわたしよりもずっと保守的だったんだ。やつらはただわたしたちの地位がほしかっただけだと思うね。若さの反逆だなんて、笑わせちゃいけない。わたしたちを映画監督の座からひきずりおろして、その後釜にすわろうとしただけなのさ」(「トリュフォー ある映画的人生」山田宏一著 平凡社/筆者段落構成)

「終電車」を「紙クズのように無気力な映画だ」とまで言ってのける、とても痛快な批判文である。

「カイエ・デュ・シネマ」でのトリュフォーの酷評や弾劾を、「若さの反逆」とすら認めない痛罵こそ、「ずっと保守的だった」と断じるヌーベル・バーグへの当然のリバウンド現象であるとも言えるだろう。

フランソワ・トリュフォー監督
他者を批判するにはそれだけの覚悟を持つべきなのだが、「政治の季節」に対して無関心だったトリュフォーにその覚悟がどれだけあったか、私には知る由もない。

思うに、50代の若さで逝ったトリュフォーを、今なお許さない巨匠連の恨みが集合する、極めて人間的な感情前線を騒がす物語の鋭角的な交叉こそ、限りなく映画的だった。

容易に自己完結に向かえない、この映画的な被写界深度の包括力の内に、映像フィールドのブルーな前線が這っているのである。

まさに、私たちの一人一人の固有の人生こそ映画的であるからだ。

(2010年6月)

2010年5月24日月曜日

突然炎のごとく('62)    フランソワ・トリュフォー


<「女王」が築いた「パーソナルスペース」の途方もない作り>



1  「女王」が築いた「パーソナルスペース」の途方もない作り



これは、「距離」の映画である。

当該社会の社会規範の様々な縛りから相当程度自由になって呼吸を繋ぐ、一人の女(「女王」=)がいる。

その「女王」は、二人の男によって「発見」され、その絶大な価値を認知された。

「その粗彫の女の顔の微笑が二人の心を捉えた。それは、アドリア海の野天美術館にあった。二人は感激して、黙って像の周りを廻った。翌日、語り合った。あんな微笑に会ったことはない。もし会えば、後を追うだろう。天啓を受けて戻って来た二人を、パリは優しく迎えた。フランス娘は彫像にそっくりだった。その鼻、口、顎、額で、彼女は幼時に祭礼の化身に選ばれた。夢のようだった」(ナレーション)

まさに、「その鼻、口、顎、額で、彼女は幼時に祭礼の化身に選ばれた」フランス娘こそ、「女王」であるカトリーヌだった。

全ては、そこから開かれたのである。

そして映像は、その「女王」が築いた「パーソナルスペース」(他者の侵入を許容する心理的距離感)の途方もない作りについて映し出していく。

「誰か私の背中を掻いてくれない?」などと言ってのける、その「女王」が築いた「パーソナルスペース」は、本来的な自我の防衛戦略の砦と言うより、極めて感覚的なラインなので、それでなくとも見えにくい「パーソナルスペース」の枠組みが、外部の者には空間認知のGPSが機能しにくいのだ。

加えて、「女王」が築いた「パーソナルスペース」は、普通の自我のサイズを上回る広がりを持つから厄介なのだ。

だから「女王」の芳しいフェロモンを嗅いで、その「パーソナルスペース」に吸収されるように踏み入っていく者たちが多く、その全ては老若を問わない異性、即ち、「女王」に特定的に選択された男たちである。

「パーソナルスペース」が見えにくいのは、それが「女王」の感覚的な基準によって策定されたラインだからである。

感覚的な基準もまた、「突然炎のごとく」という邦題のように、瞬時にして行動傾向が動いてしまう頼りなさを持っているから、まるでそれは、その粘液の支配力が不確かなほど特定しにくい「蜘蛛の巣」のようである。

「女王」の「蜘蛛の巣」は、「女王」自身の一見刹那的な感覚包囲網となっているが、しかし「女王」の中では、どこまでも自在性を担保する絶対的で堅固な城塞である。

然るに、「女王」の芳しいフェロモンを嗅いで、その「パーソナルスペース」に踏み入れていく男たちの規範感覚とズレた世界への侵入は、男たちの行動規範を根柢から揺さぶり、しばしば、「女王」と比べて相対的に脆弱な彼らの自我を混乱させ、中途半端な状況下に置き去りにしてしまうのだ。



2  「女王」の芳しいフェロモンを嗅いだ男の宿命



ジュール(左)と「女王」カトリーヌ
本作での最初の男、即ち、ジュールは、「女王」と結婚して、初めて彼女の「パーソナルスペース」の凄味の様態を認知させられるに至った。

大体、「女王」がジュールからのプロポーズを受諾した理由は、驚くほど単純なもの。

「あなたは初心(うぶ)で、私は男を知ってるわ。平均がとれて、良い夫婦になれるわ」

これが、彼女の言い分だった。

恐らく、「結婚」へのハードルが著しく低く見える彼女の情感世界には、この理由で充分だったのである。

なぜなら、彼女は、メスの働き蜂より大きく、その産卵能力によって、蜜を餌とする雄蜂を選定し得る特権を有する「女王蜂」であるからだ。

「彼女との結婚に賛成するか?」とジュール。

「女王」と結婚する意志を固めつつあった、このジュールの問いに、親友のジムが放った言葉が全てを語っているだろう。

彼は、こう言い切ったのだ。

「彼女は夫と子供が持てるか?彼女は地上では幸福になれぬと思う。彼女は万人の幻だ。独占できぬ」

そのジムが、今、ライン河上流の山小屋に住むジュールの家族(「女王」のカトリーヌと、6歳の娘)に招待された。

そこで、ジュールはジムに、信じ難い思いを口にしたのである。

ジム(左)とジュール(右)
少し長いが、二人の会話を再現してみる。

「彼女をどう思う?」とジュール。
「結婚も育児も成功と思う。少し落ち着いて、勤勉になったようだ」とジム。
「用心したまえ。彼女は家の秩序と調和は保っている。だが、万事が好調過ぎると不満になる。態度や言葉が変って来るのだ」
「彼女もナポレオンなのだ」
「世界は富んでいるから。少しは誤魔化していいと言うのだ。それを前もって、神に赦しを求めている。彼女は僕らを見捨てそうだ」
「まさか!」
「いや、既に彼女は一度捨てたよ。半年間だ。もう、帰らんと思った。また出て来そうな気がする。僕だけの妻ではないのだ。3人も情夫がいたよ・・・僕は必要ではない。自制が効かない女なのだ。僕は彼女の不貞に慣れっこになっている。だが、出て行かれたくはない・・・僕は彼女を諦めている。人生に期待したことも諦めた」
「彼女は、君の仏教僧のような面を愛しているよ」
「彼女はいつも優しく寛大だが、自分の真価を認められないと思うと、恐ろしい女になり、突然に発作を起こし、極端から極端に走る」

それでもジュールは、自分の子供まで儲けた「女王」の甘美な支配から脱却する意志を持たなかった。

それは、「女王」の芳しいフェロモンを嗅いだ男の宿命だった。



3  瞬間の行為としての「愛」を求めて ―― 男の情感を支配し切る「女王」の凄み



今度は、「女王」の言葉を拾っていく。

それは、二人(ジュールと「女王」の夫婦)の関係を心配しつつも、「女王」の芳しいフェロモンの臭気に誘(いざな)われていくジムに語った、穏やかな口調ながら、その内実には相当の毒針の威力を持つ長広舌だった。

「寛大さと純粋さと弱々しさで、ジュールは私を征服したの。他の男とまるで違っていたわ。私は彼の危機を救う気だったの。でも、切り離せない危機だったわ。私たちは幸福だったけど、その幸福が不安定のままで二、人きりで面と向かい合ったの。彼の家族は私には苦の種だったわ。結婚前後、披露宴の席で、彼の母は私を心から傷をつけたの。彼も母の味方をしたわ。その罰に、私は昔の恋人と数時間過ごしたの。それでジュールと結婚したわ。ゼロから再出発して・・・」

「女王」の毒針の威力は、家出の真相にまで及ぶ。

「戦争が始まると、彼は東部へ発ったの。彼は素晴らしい愛の手紙をくれたわ。遠くで彼を前よりも愛したわ。不和は彼の帰休のときに始まったの。彼を赤の他人に感じたわ。彼が発って子供が生まれたの。彼に言ったの。子供は一人でいいと。部屋を別にして私は自由になるわと・・・彼も自由。私も自由な身。ある朝、驚いたことに、ジュールの寛大さも役に立たなくなり、娘には後ろ髪引かれたけど、私は家出したの。3ヶ月後に戻ったわ。ジュールは夫でなかったわ・・・」

「女王」の長広舌の中から発散されるフェロモンの臭気は、夜の森の闇の辺りで、完全にジムの情感を支配し切ってしまったのだ。

「僕は君を愛している」

「女王」に愛の告白をしたジムが、そこにいた。

「黙って近寄ると、二人は完全に許しあった。彼女の顔に、歓喜と好奇心が溢れた。彼にはもう、彼女以外に女は存在しなかった」(ナレーション)

カトリーヌという名の「女王」にとって、愛は常に瞬間の行為なのだ。

それを理屈で理解しながら、男は女の肉体深くに侵入していく。

それもまた、「女王」の芳しいフェロモンを嗅いだ男の宿命だったのか。

あっという間に、男と女の愛欲が一つのピークアウトに達し、男は女の生活圏である山荘に共同生活することになった。

1対2という、奇妙な男女の共同生活が、彼らのごく普通の感覚の内に開かれたのである。



4  男の恣意的な行為を相対化させる「女王」の距離感覚



まもなくジムは、それ以前に、「女王」の芳しいフェロモンを嗅いだ男であるジュールから、信じ難き言葉を耳にしたのだ。

「カトリーヌは、僕にもう用がない。でも僕は、彼女が全く消え去るのが怖い。さっき、君と彼女が並んでいたが、夫婦のようだった。彼女と結婚してくれ。僕も彼女に会えるから。愛しているなら僕に遠慮はいらんよ」

これは、ある意味で、ジュールの自我防衛戦略の最適有効戦術であった。

彼には、もうそれ以外の手段がなかったのだ。

それは、「女王」の甘美な支配から脱却する意志を持たない、些か決断力不足のジュールの戦略の勝利だったのか。

しかし、比較的に理性的な文学青年であるジュールと違って、ジムの場合は、すっかり「女王」の芳しいフェロモンの虜になってしまって、恋愛感情に宿命的な「嫉妬感情」が澎湃(ほうはい)するに至る。

「女王」に翻弄されるジムの自我は、情感系の自給が追いつかなくなって、急速に枯渇していったのである。

元々、自己基準で動く「女王」の、その不定型な情感系との均衡を求める方略など存在し得ないのだ。

「彼女は女王さ。彼女は特に美しくも、賢くも誠実でもない。だが、真の女だ。ああいう女を、我々男性は皆求めている」

これは、ジムに語ったジュールの言葉。

しかし、「女王」の気まぐれな彷徨に、「恋愛」を簡単にゲームの内に流せない不満だけが、ジムの心に置き去りにされる。

「僕らは絶対にうまくいかない。僕らの友情でも苦しい。時には、僕は君を嫉妬し、僕は嫉妬しない君を憎む」

ジムは、そう反応した。

「僕は何としても、彼女を失いたくない。君も僕と同じになるよ。彼女は戻るからな」

ジュールのこの言葉の直後、カトリーヌは本当に戻って来た。

「女王」の帰還があっても、今や、置き去りにされたジムの心から、「女王」に対する求心力が加速的に失われていった。

激しい恋の突沸は、冷却力も加速的なのだ。

だから彼は、「女王」との心理的距離を遠ざけるために、以前の恋人と結婚することを決意した。

しかし、それは「女王」の距離感覚を侵食するものだった。

なぜなら、「女王」にとって、自分で策定した「パーソナルスペース」の範疇に、予約されたかの如く深く入り込んでいたジムとの関係を、相手の恣意的な行為によって相対化されることに厭悪し、その「我儘」を破砕するという、常識的には考えられない行動に打って出たのである。

これが、「女王」の距離感覚なのだ。

彼女には、自分の「パーソナルスペース」の安定的維持だけが重要であって、それ以外の関係様態が惹起する様々な問題点については、充分に末梢的な事柄だったのである。

ジュールとジムの違いが、全てを分けたのである。

「映画の嘘」の物語の終焉を告げる、その辺りの微妙な心理前線について、以下に記述していこう。



5  連れ去られた男、残され安堵する男、そして、「女王」の人生を自己完結させた女



遂にジムは、繰り返しの手紙によって、「女王」から執拗に「呼び出し」を受けた結果、「女王」の元に戻って来た。

しかし、その目的は、「女王」との関係を復元させることではなかった。

彼は「女王」を前に、自分の本当の思いを理性的に語っていく。

「君に借りた本に、線を引いた箇所があった。船上で、一人の女が、見知らぬ男に体を与えたいと思う。それが君の告白に取れた。それが、君の方法だ。僕にもその好奇心はある。だが、僕は自制できる。君にはできまいが。僕も夫婦は恋愛の理想ではないと思っている・・・君は偽善と諦念を拒んで、より良い何かを作りたがった。君は恋愛を発見しようとした。だが、先駆者は謙虚であるべきだ。物事は真正面から見なければならぬ。僕らは失敗した・・・君は君流に僕を変えようとした。僕は喜びを求めて、悲しみを持ち来った。ジルベルトと共白髪になる約束は、いつでも破れる無価値なものだ。だが、君と結婚する希望はない。僕はジルベルトと結婚することにした。彼女となら、まだ子供も持てる」

ジムの告白を拒絶する思いを、「女王」は剥き出しの感情を抑えつつ、簡潔に表現した。

「私はどうなるの?私の産みたかった子供は、あんたが嫌ったわ」
「いや、望んだよ」

このとき、「女王」は嗚咽するや、突然立ち上がり、「殺してやるわ!」と拳銃を右手に持ち、左手で部屋のドアを閉めた。

その手から拳銃を奪ったジムは、窓から部屋を飛び降りて、走り去って行ったのである。

「女王」の距離感覚を決定的に侵食するこの顛末は、もう二人の関係の復元を不可能なものにさせるに充分な、極めて危ういエピソードであった。

そして、それは「女王」の奔放な人生を自己完結させるに足る決定的なエピソードと化していく。

「女王」は二人をドライブに誘い、水辺の料亭で車を止めた。

そこで、「女王」は、「話がある」と言って、ジムだけを車に誘ったのだ。

ジムを同乗させたドライブの中で、「女王」は小さな笑みを送った。

「女王」のドライブ行の行き先は、壊れた橋に向けての疾走だった。

壊れた橋から転落する車の中に、かつて瞬間的に燃え上がった男と女がいる。

「女王」の覚悟のドライブは死出の旅となり、それを遠方から凝視していた男がいる。

ジュールである。

最後のナレーション。

「彼には彼女に裏切られる心配も、死なれる心配もなくなった。死体は葦に絡まっていた。何も残さぬ二人。ジュールには娘があった。彼女は闘いのために闘ったのではない。だが、打ちのめされたジュールはほっとした。ジュールとジムの友情は強かった。つまらぬことに喜び、お互いの差異を認め合った。ドン・キホーテとサンチョの友情なのだ」

最後の明るいジョルジュ・ドルリューの音楽は、ジュールの安堵感を表現していたのだろう。

こうして、その粘液の支配力が不確かなほど特定しにくい「蜘蛛の巣」のような、「パーソナルスペース」の途方もない広がりを持つ絶対的な城塞を作り上げた、一人の「女王」に関する「距離」の映画が、閉じていった。



6  激越な攻撃性の見えない辺りで、空洞感の十全な補填への「枯渇」



ここに、興味深いエピソードがある。

山田宏一の著書(「トリュフォー ある映画的人生」山田宏一著 平凡社)によると、「突然炎のごとく」を観たトリュフォーの母は、ジャンヌ・モローが演じたカトリーヌというヒロインの「ふしだらな関係」を、「私へのあてこすり」と言って、「死ぬまで許さなかった」そうである。

また、こんなエピソードもある。

「『突然炎のごとく』は、『大人は判ってくれない』以上に称賛を浴びたが、『これは単にカトリーヌという母親のような女の愛をかちとろうとうするジュールとジムという甘ったれのマザーコンプレックスの兄弟の話ではないか』という酷評があった。(略)

1968年になって、母が死んだとき、トリュフォーは、『自分でも信じられなかった』ことだが、神経衰弱(デプレッション・ネルヴァーズ)で入院しなければならいほどのショックをうけた。そのとき、初めて、『突然炎のごとく』を『甘ったれのマザーコンプレックスの兄弟の話』とこきおろした酷評にも一理あることを認めざるを得なかったというのである。トリュフォーの父親さがしも、この母の死のショックにつながるのかもしれない」
(前掲書)

 フランソワ・トリュフォー監督(左)
この一文を読む限り、アンドレ・バザンの庇護の下、「カイエ・デュ・シネマ」の誌上で巨匠連の「詩的リアリズム」を酷評して、「フランス映画の墓掘り人」とまで言われたトリュフォーの逝去の際に、一部の巨匠が「死んでも許さない」態度を取り続けたエピソードの対象人格が内包する攻撃性は、どうやら自分の身内にまで広がりを持つようである。

母親の死に際して、「神経衰弱(デプレッション・ネルヴァーズ)で入院しなければならいほどのショックをうけた」という話は、そんな切っ先鋭い攻撃者が抱えた、その激越な攻撃性の見えない辺りで、この男の自我の奥深くで騒ぐ、そこに満たすべき空洞感への十全な補填こそが、その特徴的な映像表現のモチーフを構成しているという、極めて人間学的な自家撞着の変種の様態を窺い知ることも可能である。

多くの敵を作らざるを得なかったほどに、この男は吠えまくり、噛みつき、墓掘り作業を延長させる戦闘性を昂揚させていったが、その否定的精神の突沸によって「枯渇」させてしまう自我の呻きの認知が、同時に「愛」を主題にする映像群に流れ込んでいったのだろうか。

本作の「女王」は、この男の実母をモデルにしていると言うより、この男自身の「内なる『愛』」のイメージラインの実験的模索のような気がしてならないのである。

(2010年5月)



2010年5月20日木曜日

大人は判ってくれない('59)   フランソワ・トリュフォー


<「見捨てられた子」の負性意識の重量感 ―― 「思春期彷徨」の推進力>




1  「若き映像作家のマキシマムな主張」が存分に掬い取られていて



「大人の全てが悪なのではない。子供の全てが、生来的に聖なる神の使者などではない。

勿論、非行に走る子供の原因の多くは、非行に走らずにいられなかった子供の脆弱なる自我に因っていて、その自我を作るのが、通常、親の教育の責任以外に考えられないから、子供の非行の責任は大人にあるということになる。

その把握は決して間違っていない。

だからと言って、必ずしも、悪い親から悪い子供が生まれてくると言い切れないのもまた事実なのである。

恐らく、子供が非行に侵入していく経路には様々な外的、内的条件が働いていて、それぞれの要素には、 『これ以上越えたら危ない』というシグナルを灯すポイント・オブ・ノーリターンがあるに違いない。

そして、その要素の多くは、子供に対する自我形成に関わる親の微妙なストロークや、関係スタンスというものが濃密に脈絡してくるはずだ」

これは、「秋立ちぬ」の中の、私の「子供論」のエッセンス。

次に、「スタンド・バイ・ミー」という、究極の「お子様映画」に言及した一文。

以下の通り。

スタンド・バイ・ミー」より
「『スタンド・バイ・ミー』の愚かさは、ロマンチックな男たちのその幻想を極端に描写することで、自分の過去の鋭敏な感受性が現在の作家的立場を作り上げた、と暗に誇示するそのドロドロのナルシズムに全く抑制が効いていない点にある。


感受性の豊穣さを露骨にセールスする映像と、自分が感動したものは万人も感動するものと決めてかかってくる映像ほど厭味なものはない。


子供を主役に立て、彼らに無垢(実は無知)なるが故の異議申し立てをさせる狡猾さは、全く技巧の勝利などではないのだ。


本作は、『お子様映画の悲惨と退廃』という把握が際立った作品だったと言うしかないだろう。

「ボクと空と麦畑」より
因みに、『ペレ』(ビレ・アウグスト監督)、『ボクと空と麦畑』(リン・ラムジー監督)、『さよなら子供たち』(ルイ・マル監督)、『秋立ちぬ』(成瀬巳喜男監督)などの作品が優れているのは、思春期以前の子供の内側の揺らぎや緊張が冷静に写し撮られていて、何よりも周囲の大人がそこにしっかり描けているからである。それ以外ではない」 

これは、究極の「お子様映画」を批判する私の視座。

以上の二つの「子供論」を参考に、本作に言及したい。

「大人は判ってくれない」などという、如何にも日本人好みの甘ったれた邦題を最も嫌う私にとって、その 「本家本元」の映像へのイメージは決して悪くない。

そこには、「大人=社会規範の強制者=思春期彷徨の敵対者」という、本来、物事の常識的な道理であるにも拘らず、些か過剰なラベリングが張り付いていたものの、少なくとも、「スタンド・バイ・ミー」的なドロドロのナルシズムとは切れていて、「若き映像作家のマキシマムな主張」が存分に掬い取られていた。

そして、主人公の少年の周囲の大人、とりわけ、彼の両親の感情・行動傾向がしっかりと描かれていたからである。

そして何より、そこはさすがにヌーベルバーグらしく、感傷過多な情感系映像と切れ、抑性の効いた演出が貫流されていたこと。

これが大きかった。



2  「私は発見した」 ―― 顔は火の如き輝き、一陣の風に形相を変え、怒りに手を突き上げて



「僕がいないと父なし子だ」
「その文句は聞き飽きたわ。うんざりだわ」
「子供が嫌なら、孤児院にやるわ。私も静かにしたいわ」

これは、主人公のアントワーヌ少年が、夫婦喧嘩を耳にしたときの会話。

更に以下は、宿題をさぼって、教師に町で見つかって説教されたときの会話。

「それで済むと思っているのか」
「母が死にました」
「済まん・・・知らなかった。病気だったのか?」
「そうです」
「何でも先生に打ち明けて、話すんだ。行ってよろしい」

「母殺し」という普通では考えられない言い訳こそ、少年の自我に刻まれた深い闇の記憶を震源にする事実が、その後の映像展開の中で露呈されるのだが、ここでは少年の心理文脈の伏線が打たれていただけ。

その直後に、事実を知った母親が憤慨して見せるが、再婚した夫に軽くいなされるシーンの寒々とした風景が垣間見え、少年の非行の問題の根源を浮かび上がらせるのである。

ともあれ、この「母殺し」の嘘はすぐにバレて、教室にやって来た義父から平手打ちを食らう少年は、抵抗すべき何ものも持ち得ないのだ。

少年には、「あるべき父性」を表現する「父」を持たないのである。

「両親だけが厳しく処罰できる」という廊下の会話の一部を、教室内で拾った少年は、その直後の映像で、自分の覚悟の一端を友人に話していた。

「両親とは、もう暮らせない。僕は自分の人生を送るよ」

「僕は一人で頑張ります。1人前になったら会って」

これは、両親宛ての手紙の一節。

級友の親戚の工場辺りを彷徨する少年が、翌日、件の教師と会ったとき、「昨日は叱られただろう?」と問われ、首を振って去っていく少年。

そのときの教師の一言。

「親が悪いんだ」

その通りである。それ以外の何ものもないからだ。

その母親は、少年自分の過去の「非行」を語って見せた。

「ママにも小さいときがあったわ。私も両親に隠し事をしたわ。羊飼いの少年と家出したけど、すぐ捕まったわ。二度と会わないと母に約束して、許されたわ。私は随分、泣いたわ。でも、母には逆らえない・・・」

母の話を上の空で聞くアントワーヌ少年の、心の風景の空洞感だけが置き去りにされた。

「退学して、一人で暮らしたい」

手紙の真意を聞かれて、少年はそう答えた。

「バカね。何を言うの!私は大学へ行けなくて泣いたわ。パパは学校を出てないから、出世できないの。学校には無駄な科目もあるわ。役に立たないわ。でも、フランス語は誰もがいつも使うわよ・・・」

聞く耳を持たない子供に向かって、優しさを装って連射される母の言葉の空虚感。

“突如、病人は起き上がり、子供らに稲妻の如き視線を投げかけた。髪は襟首の上で揺れ、皺は震え、顔は火の如き輝き、一陣の風に形相を変え、怒りに手を突き上げ、アルキメデスの名言を叫んだ。「私は発見した」と。”

煙草を吸いながら、自分のベッドで読書に耽る少年がそこにいる。

バルザック
彼にはバルザックの言葉が身に沁みるようだった。

「私は発見した」

これこそ、少年が求めていた心の空洞を埋めるに足る言葉だったのだ。



3  呼吸が荒れることもなく、浜で立ち尽す少年の柔和な視線



まもなく、少年の書いた作文が、例のバルザックの剽窃(ひょうせつ)だったことで、アントワーヌは担任教諭から叱られたが、このとき、「写したところをを見ていない」と言って、彼を擁護した友人のルネが停学になるに至った。

陸軍の養成学校である、「幼年学校」に入れられることを恐れたアントワーヌも、家出して、ルネの家に隠れ住む。

思春期前期の少年の、一時(いっとき)の自由な飛翔の時間。

当然、そんな時間には継続力がない。

経済力がないからだ。

金に困ったアントワーヌとルネは、父の会社のタイプライターを盗む非行にまで突き進む。

しかし、そのタイプライターを換金できない少年らは、結局、父の会社に戻しに行くが、ここで会社の守衛係に捕捉されてしまった。

アントワーヌの未来を決定付ける、この「不良少年」の父親は、彼を所轄の警察へ連れて行く。

「あなたの決心は?」と警察署長。
「家に引き取っても、すぐ家出しますよ。だから、監視をお願いしたい。例えば、田舎で働かせて・・・勉強には向きません」
「では、少年鑑別所がいい。立派な施設です。作業室もあります」と警察署長。
「結構ですな」
「そのためには、父親の矯正願いが必要です。監視教育に責任があるからです。明朝、彼を少年審判所へ送ります」

その直後の映像は、逮捕された売春婦と共に、少年鑑別所へ移送されていく護送車の中で、本作で初めて見せる少年の涙。

認識番号を付けられ、権力的に顔写真を撮られる少年が、紛う方なく、国家機関の監視教育に則った矯正を受ける「不良少年」として公的に認知された瞬間であった。

「彼を引き取るにしても、今のままの彼では困ります。彼に怖い思いをさせて下さい。親の威光もダメです。あの子は映画に夢中です」

これは、判事が少年鑑別所行きを決定したときの、母親の言葉。

結局、実の息子に怖い思いをさせることを求めるだけの母親は、アントワーヌに面会をしなかった。

少年鑑別所での矯正教育が開かれた。

生活の全般に及んだ管理の日々。

口答えしただけで、法務教官によるビンタが飛んでくる現実に、少年は施設での適応を困難にさせていく。

鑑別所の心理技官との対話(後述)の直後の映像は、母親が面会にやって来たシーン。

夫の無関心と、近所の噂など、母親は一方的に喋りまくった。

映像のラストシーン。

アントワーヌは監視の隙を縫って、少年鑑別所を脱走した。

走る。どこまでも走る少年。

走って、走り抜いた先に待っていたのは、初めて見る大海原の風景。

呼吸が荒れることもなく、浜で立ち尽す少年の柔和な視線が観る者に向けられて、抑性の効いた映像が閉じていった。



4  「見捨てられた子」の負性意識の重量感 ―― 「思春期彷徨」の推進力



親が子供の自我を作る、。

と言うより、作る義務がある。

多くの場合、親以外にそれを担う主体が存在しないからだ。

では、どのような自我か。

「快・不快の原理」で生きてきた幼児自我に代わって、「損・得の原理(現実原則)」によって生きていくことが求められる、中枢の機能を有する自我である。

ところが、思春期に差し掛かった辺りの男の子には、テストステロン(主に精巣から分泌される男性ホルモンで、性ホルモンとして作用)の分泌が活発になることによって、親が一方的に強いてくる、そのような自我(現実原則)の立ち上げと一線を隠す、自分が自分であることを確認し(アイデンティファイ)、未だ幼い思いを含む感情を言語に変換させていくことによって、しばしば脈絡なく固有の情感体系を主張するのだ。

そこに、その固有の情感体系を、より強固なものにしていく自我の内的要請が噴き上がってくるので、「損・得の原理(現実原則)」を強要する「大人一般」、或いは、「親」という名の特定的対象人格との関係において、それ以前にない緊張が生まれるだろう。

思春期の少年には、まず自分の生活圏を支配する〈大人=親〉とのリアルな葛藤が胚胎し、それの現象が、しばしばドラスティックに展開するのである。

件の少年は、「親」を一義的な〈仮想敵〉にしていくのだ。

そこに空間的広がりを持つことで、〈仮想敵〉は周囲の大人にまで広がり、当然、規範を強制する教師の存在が、少年の〈仮想敵〉のイメージの内に包含されていく。

思春期彷徨とは、大抵そのような様態を露呈していくものだ。

しかし、本作の少年のケースは、そのような一般的な思春期彷徨の範疇を越えていた。

後に、そのシーンが批判の対象となったが、逮捕された売春婦と共に、少年鑑別所へ移送されていく護送車のシークエンスに象徴されるように、そのような施設の設置が不可欠でありながらも、国家機関の監視教育が少年の自我を捕縛するという事実によって、「不良少年」として世俗的に認知させられるに至る現実の重量感は、いつの時代でも、どこの社会にあっても看過し難い何かであるに違いない。

少年の思春期彷徨の振れ方は、常に、反社会的な「行為障害」の危うさをも内包させてしまうということだ。

それは、ほんの少し道を誤っていたら、正真正銘の犯罪者になる危うさである。

そこに噴き上がって来る危うい緊張感の内に、少年の身体疾駆のフィールドを、より険悪な臭気で覆ってしまうであろう。

ここに、少年の残した重要な表現がある。

それは、本作を通して最も重要な会話であると言っていい。

以下、鑑別所の心理技官との対話。

「あなたは嘘つきね」
「両親が信じないから、嘘を言う方がいい」
「なぜ、ママが嫌い?」
「僕は初めは、里子でした。親が貧乏して祖母に預けられ、祖母が年を取って僕が重荷になると、両親のもとに戻りました。8歳でした。母は僕に冷淡です。年中、つまらないことで僕を叱ります。だから、僕は・・・家で両親が喧嘩をしたとき、僕は聞いたんです。母のお腹に僕ができたとき、母が・・・未婚だったことを。それに、母は祖母とも口喧嘩したのです。母は僕を堕ろす気だったのです。祖母が僕を救ったのです」

この表現で無視し難い問題は、少年の母が彼を堕ろす気だった事実の有無ではなく、少年自身が、「母は僕を堕ろす気」であると信じ切っていた現実の重さである。

「祖母が僕を救った」とまで確信する少年の、その心の風景の寒々しさ。

これが何より、由々しき事態なのだ。

ここに、フランソワ・トリュフォーに関する著作で有名な映画評論家、山田宏一の著書からの一文がある。

「『大人は判ってくれない』の少年、アントワーヌ・ドワネルは『親にいじめられた子ではなく、単に見捨てられた子だった』のであり、やさしい愛撫もなく、はげましの言葉もなく、人間的接触や言語的環境を奪われた子だったのだという認識が、『ドワネルもの』とよばれることになるトリュフォーの自伝的シリーズの本質的なある部分を『野性の少年』の教育論にみちびきことになる」(「トリュフォー ある映画的人生」山田宏一著 平凡社)

「野性の少年」と表裏一体を成す、本作の心象世界のキーワードを要約すれば、「親にいじめられた子ではなく、単に見捨てられた子だった」という把握の内に説明可能な何かであるだろう。

「母は僕を堕ろす気」であると信じ切っていた現実の重さとは、何よりも、「見捨てられた子」の負性意識の重量感だった。

「見捨てられた子」の負性意識の重量感が、本作を根柢において支え、件の少年の「思春期彷徨」の推進力になったのである。

それ故にこそ、先の少年の表現に向き合う私たちは、それを単に「我が懐かしきノスタルジア」という、ナルシズムの濃度の深いラインでは捕捉できようがないのだ。

映画サイトなどに眼を通してみると、この映画を観た多くの成人は、過剰なまでに少年の内面世界に共感し、その少年にとって〈仮想敵〉だった対象人格を悪し様に非難してみせるが、果たして、そこで結ばれる共感ラインは表面的ではないのか。

浮薄なものでないか。

フランソワ・トリュフォー監督
そのラインを疑うことなしに、安直に語ってみせるアプローチの内に、「我が懐かしきノスタルジア」という余計なナルシズムが張り付いていないのか。

親に捨てられたと発想する怖さが何を意味するか、私たちはよくよく思慮すべきである。

まさに観る者は、その根源を掘り下げる知的過程を開く覚悟があったのか。

本作の少年の危うさは、「我が懐かしきノスタルジア」という甘美な文脈を突き抜ける、反社会的な攻撃的破壊力を内包している現象性に伏在していると言えるのだ。

だから、酔い心地で観れる映画ではないということだ。

トリュフォーの成功は、彼の才能と、彼を保護する有力なサポーターが存在したという偶然性の見事なマッチングが出来したこと。

ゆめゆめ、それを忘れてはならないだろう。

(2010年5月)