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2011年3月19日土曜日

トゥルーマン・ショー('98)      ピーター・ウィアー


<コメディラインの範疇を越える心地悪さ ―― ラストカットの決定力>


1  コメディラインの範疇を越える心地悪さ ―― ラストカットの決定力



「他の番組を。テレビガイドは?」

ラストカットにおける視聴者の、この言葉の中に収斂される文脈こそ、この映画の全てである。

テレビ好きな二人の警備員によるこの台詞は、本作がテレビの虚構性を極限まで描き切った映画であることへの、それ以外にない決定的な括りとなるものだったからである。

テレビとは、特定他者を消費する視聴者に、最大限の視聴のサービスを提供する絶好の快楽装置である。

本作は、特定他者を消費する視聴者の貪欲なニーズに対して、それ以上ない商品を提供した。

「“トゥルーマンが愛飲するニカラグアのココア”17億の人間が誕生を見守りました。“スター誕生”220カ国が最初の一歩を放映。ハイテクの進歩で、隠しカメラが彼の日常を記録し続け、そのまま生で全世界に、毎日24時間、1日も休まず放送されています。世界最大のスタジオに作られたシーへブン島のセット。万里の長城に匹敵する建造物が島を覆っています。30年目を迎えた超人気番組!“トゥルーマン・ショー”!」

ナレーションの役割を持つ、この放送の説明で分るように、要するに本作は、出生以来、その人生の全てを24時間撮影され続けている、一人の平凡なセールスマンの物語なのである。

彼は、テレビの人気番組である「トゥルーマン・ショー」の「スター」として監視され続けて、昨日もそうであったような何の変哲もない日常を露わにしていくが、妻も母も親友も、彼が出会う町の通行人もまた役者でありながら、哀しいことに、自分の人生を生きているつもりの当の本人だけが、その決定的な事実を知らないのだ。

「トゥルーマン・ショー」の「スター」として監視され続けているが故に、彼は決して死ぬことはない。

完璧に管理された生活ゾーンで呼吸を繋ぐ男の物語は、その男の一挙手一投足をフォローしていく番組視聴者の一喜一憂を掻き立てるが故に、多少の冒険譚が挿入されていた方が商品価値が上がるのだ。

だから、ある出来事を契機にして、自分の〈状況〉の不自然さに気付き始めた辺りからの、彼の振舞いの変容に、番組視聴者は固唾を呑んで見守っていくのである。

まさに、特定他者を消費する視聴者の日常的生態が、その本質を露わにしていくのだ。

以上、簡潔に言及してきたが、このように、現実的に有り得ない設定をする物語の構造は、本質的にコメディラインで網羅する以外にないだろう。

設定の非リアリズム性が、物語を極限的にカリカチュアライズし、視聴のサービスを提供する絶好の快楽装置としてのテレビは、それを消費する視聴者の愉悦の媒体と化していく。

然るに、最初からリアリズムで勝負することを回避した映像が、観る者に与えた心地悪さは本質的にコメディラインの範疇を越えている。

だから、本作に対する評価が、明瞭に二分されてしまうのは当然のこと。

それは、物語で描かれた「面白さ」を愉悦できない人たちが、物語の視聴者の感情ラインと完全に切れていることを必ずしも意味しないだろう。

「私的自己意識」(常に自分の感情の有りようを意識すること)が強い自我ほど、却って本作に不快感を覚えて止まないとも言える。

自分の中にあって、自分がどこかで認めている感情ラインと同質のものを、物語の視聴者たちのそれと重ね合わせてしまうとき、そこで投影された自己像に不快感を覚えるのは当然だろう。

ピーター・ウィアー監督
そのような、ある種の「挑発性」を含む映像を、本作は観る者に突き付けてきたのだ。



2  「視聴者を視認する者」=「投影された自己像を認知する者」としての観客性



この映画のエッセンスは、保険会社の平凡なセールスマンであるトゥルーマンが、死んだはずの父と再会するシーンに象徴されている。

「やはり生きてた」とトゥルーマン。
「息子よ。この歳月の償いは必ず補う」と父。
「パパ」とトゥルーマン。嗚咽している。

それを観る視聴者も嗚咽している。

視聴者は、「父子」の感動の再開に釘付けなのだ。

なぜなら、トゥルーマンの父は、トゥルーマンの少年期に、我が子の眼の前でヨットから落ちて、海で溺死してしまったはずなのである。

ところが、トゥルーマンは、浮浪者姿の父と、町で偶然遭遇して驚愕する。

父を追い続けたが、周囲の者の邪魔が入って、連れ去られてしまうというエピソードの挿入があったが、この一件も、当然「生放送」されていて、視聴者の関心を一気に高めるに至る。

邪魔をした者たちも、全て俳優。

相変わらず、トゥルーマンだけが事実を知らない。

しかし、この偶発的な一件によって、トゥルーマンの中で、少しずつ、町の者たちと自分の関係の不自然さに疑問を抱くようになっていく。

そんな中での、「父子」の感動の再開譚が開かれたのである。

無論、テレビ局の「ヤラセ」である。

クリストフ(画像右)
その総責任者の名は、クリストフ。

トゥルーマンの誕生から30年間、彼の全生活を追い駆け、それをテレビで流し続けているディレクターである。

そのクリストフが、「父子」の感動の再開譚を演出するのだ。

「霧を抑えろ。クレーンカメラ、スタート。8カメ、もっと引け。カメラを引き、音楽をアップ。よし、クローズアップ」

「父子」の感動の再開を作り出して、成功裡に番組を終えたクリストフは安堵感を覚えた。

「見事だ!感動で涙が出た!」

そのクリストフを激励する、テレビ局のバラエティー局長(?)。

そして何より、この再開譚に釘付けとなる視聴者こそ、特定他者を消費することを愉悦する、私たち視聴者の感情ラインと重なるものである。

そこに、大いなる不快感を抱く者も多いだろう。

しかしそれが、紛れもなく、自分の分身であることを認知せざることを得なくなったとき、その不快感は映像総体への不快感を随伴するのか。

そこまで自己を相対化し切る、「視聴者を視認する者」=「投影された自己像を認知する者」としての観客が、果たしてどれほどいるだろうか。

寧ろ、物語の視聴者の存在を他人事のように考えている人たちもまた、決して少なくないのではないか。

繰り返すが、特定他者を消費することを愉悦する視聴者の欺瞞性を、本作の作り手は突き付けてきたのだ。

それが、ラストカットの決定力の凄味だったのである。



3  「君が生きている現実の世界は病んでいる。シーへブンは理想郷だ」



このような大掛かりなセットを作り上げたカリスマ的なテレビディレクタ ――― それがクリストフだった。

彼は独占インタビューの中で、確信的に語っていた。

「父親を消すことになった理由は?」とインタビュアー。
「トゥルーマンを島の外に出さないために、そこで父親の溺死を」とクリストフ。

“水の恐怖症で島を出られない”とインタビュアーの声。


トゥルーマン少年の自我に、“水の恐怖症で島を出られない”というトラウマを作り出すために、少年の父親を溺死させたのである。

「父親役のカークは、自分が消され、不満を募らせ番組に潜り込んだ」とクリストフ。
「22年間、彼が島から消えていた説明は?」とインタビュアー。
「記憶喪失」とクリストフ。
「さすが!」とインタビュアー。


そのために、島に5000台のカメラを設置したと、クリストフは言い添えた。

放送開始日に産まれたトゥルーマン
更に、独占インタビューは続く。

「2週間の早産だったら。きっと本人も待ち切れなかったんだ」
「その熱意が認められて、彼が抜擢されたので?」
「母親が産みたくなかった子供が6人。トゥルーマンが放送開始日に産まれた」
「会社名義の養子縁組は、彼が初めてだったとか?」
「その通り」
「番組は巨額の収益を上げ、小国のGNPに匹敵するとか?」
「番組スタッフも、小国の人口並み」
「連日24時間放映で、CMブレークなし。その代わりに、番組内で商品を紹介」
「全てが売り物」
「一つだけ質問を。どうやって、トゥルーマンに疑いを持たせなかったので?」
「“徹底したリアリティ”それを保ったからだ」

「会社名義の養子縁組」という凄い言葉に象徴されているように、殆どフォローする必要のない本作の基本構造が、この会話の中に集約されていると言っていい。

ここで、クリストフの独占インタビューに横槍が入った。

ローレン
トゥルーマンに同情する唯一の人物であり、トゥルーマンが恋い焦がれた女性であるローレンが、クリストフを批判したのである。(因みに、トゥルーマンの脱出願望は、ローレンが住むフィジー島へ行くという夢が推進力になっていた)

「君が生きている現実の世界は病んでいる。シーへブンは理想郷だ」

これが、クリストフの答え。

「彼は自由のない囚人だわ」とローレン。
「それは違う。生きる目標を持ち、本気で事の真相を知りたいと願うなら、我々は止めない。率直に言って、君が腹立たしく思っているのは、彼自身が今の監獄を気に入っているということでは?」

ここでも、クリストフの答えは確信的だった。



4  外部世界にまで突き抜けた男の新たな旅立ち



クリストフの確信を裏切るように、トゥルーマンは行動を起こすに至った。

「自由のない囚人」という、その〈生〉が負った記号に「反逆」したのである。

失踪したトゥルーマンを、必死で捜索するクリストフと番組関係者たち。

賭けをする視聴者もいた。

そして、判明したトゥルーマンの逃亡先。

彼は、「禁断の海」をヨットで渡っていたのだ。

その手に持つ、ローレンの切り抜き写真。

クリストフは、そのトゥルーマンを捕捉するために、海に嵐を起こす戦術を取ったのだ。

「諦めて戻って来る」

それはクリストフの賭けであったが、諦めないで闘うトゥルーマンが、そこにいた。

「僕は負けないぞ!殺せるなら、殺してみろ!」

テレビの生中継を観る視聴者たちも、今や興奮の渦の中。

更に、嵐を強化する作戦を指令したクリストフ。

荒れ狂う人工の嵐の中で、悶え、苦しむトゥルーマン。

滑稽な構図だが、本人だけがそれを知らない。

それを目視して、クリストフは嵐作戦を中止させた。

まもなく、トゥルーマンの船は、ロケセットの中の海の縁に衝突した。


人工の嵐が治まった後、トゥルーマンはその縁を視認し、感触を確かめてみた。

その後、彼は安直な作りの縁に作られた階段を、恐々と、ゆっくりと上っていくのだ。(トップ画像)

その階段の上には出口があった。


ここで、クリストフはトゥルーマンに呼び掛ける。

「あんたは?」とトゥルーマン。
「人々に希望と歓びを与えているテレビ番組の制作者だ」とクリストフ。
「僕は、誰?」
「君は、スターだ」
「全部作りもの?」

 トゥルーマンの問いに、クリストフは、そこだけは存分の思いを込めて語っていく。

「君は本物だ。だから、人が見る。外の世界より、真実があるのは、私が創った君の世界だ。君の周囲の嘘、まやかし。だが、君の世界に危険はない。私は、君の全てを知っている。君は恐いから、外へ出ていけないんだ。君をずっと見てきた。君が生まれたとき、最初のヨチヨチ歩き。学校に上がった日・・・君は逃げ出せん。死ぬまで・・・話せ。何か話せ。テレビに向かって、何か言え!全世界の生放送だ」

トゥルーマンの半生を観察し続けてきたクリストフには、まるで「父」や「母」の情感が胚胎しているようだった。


しかし、もうトゥルーマンの決意は変わらない。

「会えない時のために、“今日は!”と“今晩は!”」

「公的自己意識」(他者から見た自己の意識)に辿り着いたトゥルーマンは、テレビの生中継を観る視聴者に挨拶して、扉を開けて、虚構ではないであろう外部世界に出て行ったのである。

それは、外部世界にまで突き抜けた男の新たな旅立ちだった。

視聴者のやんやの喝采。

ここで、希代の人気番組である、「トゥルーマン・ショー」の中継は切断されることで終焉していった。

そして、冒頭で言及したラストカット。

「他の番組を。テレビガイドは?」

この言葉の中に収斂される文脈こそ、この映画の全てであることが了解されるのだ。。



5  存分の毒素が濃縮されている、戯画的なアイディアと手法による「挑発性」



先の独占インタビューでの、クリストフの言葉の中に、特定他者を消費する視聴者にマキシマムなサービスを提供している者の、揺るぎない自信と誇りが漲(みなぎ)っている。

物語の中で次々に繰り出される、自社の商品をCMとして流し込む広告主が背後にいて、それが、このような独善的なバラエティ番組を作り出す元締めになっている。

その構造を知らない者はいないだろう。

しかし、この映画は、そのような構造の欺瞞性を剔抉(てっけつ)する手法として、徹底したリアリズムで勝負することなしに、一貫してシリアス風味のコメディラインで描き切ってしまった。

寧ろ、その戯画的なアイディアと手法の中に存分の毒素が濃縮されていて、その毒気に不快感を覚えるほどの「挑発性」にこそ、本作の狙いがあったとも言えるだろう。

そのような描かれ方の軽薄さが内包する、程好い温度に保持されたリアリティの均衡感に、曰く言い難い薄気味悪さを感受してしまうからである。

(2011年3月)

2010年10月4日月曜日

危険な年('82)        ピーター・ウィアー


<自死によって炸裂した「物語のライター」の痛ましき愛国心>



 1  理想主義者の本質を隠し切れない「謎の男」の困難な闘い



 本作は、社会派ムービーの取っ付きにくさをラブロマンスで希釈することで、本来的な「主題が内包する問題解決の困難さ」を提示した作品である。

 この手法が成功したか否かについては、観る者によって判断は分れるだろうが、少なくとも、異質な国家の異質な文化に偏見を持ち、そこに職業意識に見合っただけの「正義」に依拠して自己投入することを拒む西欧人の傲慢さと軽薄さ、それを限りなく相対化させた一人の人物の、あまりに困難な仕事に挑む地道な闘いに眩いまでの光を照らすことができただろう。

 その男はリアリストだった。

 且つ、理想主義者の本質を隠し切れないヒューマニズムの側面も持ち、そして誰よりも奥行きの深い愛国の士だった。

 西欧人ジャーナリストから「小人」と呼ばれたように、身長僅か140cm程度のその男が、映像総体を根柢から支配していた事実を誰も否めないだろう。

 「主題が内包する問題解決の困難さ」とは、奥行きの深い愛国の士=ヒューマニストが内側に抱え込んでいる困難さであった。

 宗主国オランダからの独立後、特定の支持基盤を持ち得なかった、「民族独立の父」であるスカルノ体制下のインドネシアは、西側諸国との対決政策によってIMFからの経済援助を停止され、国内の経済状態は悪化し、インフレによる物資高騰は民衆の生活を圧迫させるに至り、街にはホームレスや売春婦が溢れる惨状を呈していた。

スカルノ大統領(ウィキ)
これが、1965年当時のインドネシアの実情だった。

 個人の力では到底及ばないであろう、こんな厄介な問題を抱える、赤道直下に広がる世界最多の島嶼国家の困難さの中枢に、全人格的に対峙した件の男は、少しでも自らの理想を具現する戦略を描いて実践躬行(きゅうこう)していった。

 その方法が、リアリストたる所以でもあった。

 この男の困難な闘いこそ、この男と同様に、オーストラリア人の父を持つ、作り手の思いが投影された人格像であると言えるのだろうか。

 結局、この映画は、個人の力では到底及ばない艱難(かんなん)な問題を抱える風土の中で、それでも個人の力が及ぶ臨界点を描いた作品であるとも把握できるのだ。

 この男の名前は、ビリー・クワン。

 フリー・カメラマンである。

 彼はカメラマンであるというその職業的ポジションを利用して、インドネシアの様々な悲惨な現実を撮り溜めしていた。

 しかし、その写真の殆どが世に出ることはない。

 それを世に出すには、仕事の制約があり過ぎた。

 右派からのテロルの危険も伴うだろう。

 しかし彼は、その現実を世界に訴えたいと本気で考えていた。

ビリー・クワン(左)とガイ・ハミルトン
その手段として、彼はインドネシアに取材に来る各国の特派員を利用しようと考えたのだ。

 ところが、前述したように、エアコン付きのホテルに泊る多くの外国人記者は、現地人と常に一線を画し、溶け合うことを拒む連中だった。

 彼らは、異国の地で不自由する下半身の処理を、売春婦でしか生きられない女たちの、そのチープな「性」を買うことによって処理している凡人たちと言い換えてもいい。

 しかし、彼は諦めなかった。

 ABS(ABCのモデルで、オーストラリア放送協会)の放送局員である、ガイ・ハミルトンという男が、彼の前に出現したからである。

 「野心があり、認識の甘さがあるが、やっていけそうだ」

 この言葉は、本作の冒頭で、ガイ・ハミルトンを案内した直後のビリーの評価である。

演説するアイディットPKI書記長(ウィキ)
ビリーは、自分の理想を具現するために、あらゆるデータを蒐集し、この国の中枢のポストに就く者ばかりか、PKI(インドネシア共産党)の最高指導者のアイディット(9月30日事件で処刑)ともコネクションを張り巡らせていた。

 当然、ガイ・ハミルトンに対する情報のスクラップも用意していて、彼の顔写真も何枚も撮り溜めていた。

 更に、インドネシア在住の英国大使館の秘書のジルとも懇意にしていて、彼女からの貴重な情報をもスクラップブックに蒐集していたのである。

 「良い相棒になろう。君の眼になる」

 これは、半人前のジャーナリストである、ガイに対するビーリーの言葉。

 ビリーは、「野心があり、認識の甘さがある」ガイを、限りなく本物に近いジャーナリストに育て上げていくのだ。

 ジャーナリストとしてのガイに対する評価は、後に、ロンボク島の取材で、「子供が痩せこけている」とコメントし、暗に自己満足的と批判され、メロドラマと揶揄されるコメントのレベルだったのである。

まもなくガイは、ビリーの尽力によって、PKIの最高指導者のアイディットへの独占インタビューに成功した。

 「良い相棒になろう」と切望するビリーにとって、ガイの成功は、何より自分の理想を具現していく一つのステップになっていく。

左からビリー、ジル、ガイ
そんなビリーが、ガイにジルを紹介したのもまた、仕事の共同戦線を張ることで、同様に自分の理想の具現を実践しようとしたからだろう。

 同時に、異国の地で溜めたストレスのガス抜きとして、ビリーは二人の恋愛へのシフトをサポートしたのである。

 無論、そんなビリーの思惑を、二人は知る由もない。

 二人にとって、ビリーはどこまでも「謎の男」なのである。
 
 
しかし、「謎の男」に対する二人の信頼感には厚いものがあった。

ジルとガイ
「ビリーは人を裏切らない」と信じさせる何かが、ビリーには存在し、それが彼に多くの「友情網」を形成させるに至ったのである。



 2  一切の希望の証を喪失した者が流れ込んだ究極の選択肢



 ビリーに対するジルの信頼感の厚さは、ビリー個人の人間性溢れる秘められた行為を知っていたからである。

 ビリーには、現地に養女がいて、その子供の面倒をも養っていたのである。

 その事実をジルから聞かされたガイは、ビリーとの信頼関係を強化していった。

 また、ガイとの共同作業が円滑に進む中で、ビリーはガイに対して、その憂国の思いを吐露する重要なシーンがあった。


パーンダヴァの人兄弟を描いたワヤン・クリ(ウィキ)
ジャワ島の影絵芝居として有名なワヤンの話題に触れたとき、ビリーは自らがスカルノの真似をした写真を見せて、「僕の英雄だ。天才だよ」と吐露したのである。

 「スカルノは、偉大な人形使いだ。右派と左派を巧みに操る」

 ビリーは影絵を使いながら、ガイに自分の政治信条を開陳していくのだ。

 「右派と左派は絶えず闘っている。光と影がバランスを生み出す。西欧人は答えを求めたがる。何が善で何が悪かを。ワヤンにはそのような結論はない」

 善悪二元論に固執する西欧人の単純な発想を批判するビリーは、彼が尊敬して止まないスカルノが依拠した柔軟な政治思想を説明したつもりなのである。

 因みに、スカルノ政治の中枢理念は、「ナサコム」(NASAKOM)と呼称されるものである。

 「ナサコム」とは、「民族主義」(Nasional)、「宗教」(Agama)、「共産主義」(Komunis)という三つの概念を集合させたもの。

 この中枢理念が形成された背景には、インドネシア国内で、様々な敵対的関係にある組織の結束を訴える必要が存在したからである。

 元々、拠って立つ政治基盤を持たないスカルノにとって、複雑に集合した島々を国民国家として立ち上げるには、このような中枢理念が求められたのである。

スハルト(ウィキ)
とりわけ、スカルノの庇護の下で大衆的支持基盤を拡大していったPKIと、9.30事件を契機に陸軍大臣兼陸軍参謀総長に就任した、スハルトを最高指揮官にする国軍との拮抗状況を巧妙に利用することで、スカルノは権力の均衡を保持していたという重要な政治的背景を無視できないであろう。

 「クリシュナは言う“欲望で魂が濁っています。煙が炎を隠し、ちりが鏡を曇らすごとく。だから心が貧しいのです”」

 ヒンズー教神話の神を引き合いに出して、憂国の思いを「相棒」に語るビリーが、その柔軟なイメージを自ら剥ぎ取る表現を結ぶのだ。

 そんなビリーを、絶望の底に陥れる事態が出来した。

 「PKIに武器を供給する船が入って来る」

 シンガポールから英大使館に入った機密情報を、悩んだ末にガイに教えるジル。

 内戦の勃発を危惧させるこの機密情報を、悩んだ末にガイに教えたのは、ガイの身を案じた末のジルの愛情だが、ガイはこの一級の機密情報を報道しようとした。

 「報道すれば、ジルが疑われる」

 ビリーはガイにと忠告するが、野心に燃えるガイは、PKI決起の情報をスクープとして取り上げてしまうのだ。

 「君は変わった。人を平気で裏切る。なぜ、恋愛だけに夢中になれない。なぜ、女を愛せない」

 深く慨嘆したビリーは、いつものように入手した情報をタイプに打つばかり。

ガイの暴走
ビリーにしてみれば、ガイのためにジルを紹介したのにも関わらず、「恋愛だけに夢中になれない」ガイの野心は、他の外国人特派員のレベルと変わらないメンタリティを見せつけられるだけだった。

 ビリーを深い絶望の冥闇(めいあん)に陥れる事態は、ガイの問題に留まらなかった。

 と言うより、それこそがビリーを絶望の底の闇に陥れた最も重要な原因だったに違いない。

 貧しい女性を養女にし、その子供の病気の世話も焼いていたビリーが、子供の様子を見るために訪ねたとき、既にその子供は病死していたのである。

 幼い命を救えず、無力感に浸るビリーの苦渋な表情が映し出された後、ビリーは明らかに、もうそこにしかない究極の選択肢に流れ込んでいく。

 米を奪い合う人々を目の当たりにしたビリーの絶望感と、その現実を伝えない記者たちとスカルノへの怒り。

ビリー
その遣り切れなさが、彼を追い込んでいったのだ。

 「スカルノよ、国民を養え!」

 ホテルの部屋から降ろした大きな垂れ幕には、そう書いてあった。

 ビリーの投身自殺は、その直後に出来した。

 ジャワの諺で、「叶わぬ夢」という意味の「月のしずく」の思いを突き詰めて、ビリーは飛び降りたのである。

 「我々は必ず勝つ。信念があるから」

 これは、ガイの下で働くクマールの言葉。

 彼は、虐殺の連鎖の中で、まもなく壊滅するPKIのメンバーだったのである。

 そのクマールと共に、9.30事件で発動された戒厳令下の危機的状況を何とか突き抜けて、脱出したガイは、ジルが待つ特別航空便の中に消えていった。



 3  自死によって炸裂した「物語のライター」の痛ましき愛国心



 本作を要約してみよう。

どこまでも、本作はビリーの映画であって、そこで挿入されたラブロマンスは、物語に付加価値を添えるためのものであり、それ以上でもそれ以下でもないだろう。

 
 遥か異国の地での、大使館付きの秘書と報道局員とのホットな睦みという、如何にも定番的なラブロマンスは、せいぜい、「暴走ドライブ」のエピソードを挿入させることで物語を散らしていくが、それもまた、フラットな三流映画のラブロマンスのカテゴリーを突き抜けることができなかった。

 
 
 ところが、ビリーの誘導によるラブロマンスが、報道局員の裏切りによって破綻したとき、それは同時に、物語を支配したビリーの理想主義の破綻を決定付ける事態を意味したのである。

 ピーター・ウィアー監督(ウィキ)
ビリーの悲劇は、ラブロマンスの一過的な破綻の範疇に収斂される何かでしかなかったが、何よりそれは、物語がビリーの支配域から逸脱した瞬間でもあったのだ。

 この文脈で見る限り、本作で展開されたラブロマンスが、ビリーとの濃密な関係なしに存在しなかったことを検証するものだったと言える。

 
ガイに始まって、ガイに終わる物語の本質は、ビリーという「物語のライター」との関連なしに存在し得なかったことを意味するからだ。

 結局、本作は、ビリーの理想主義の幻想が独り歩きした挙句、ビリーが嘆いたこの国の悲惨な現実に、彼の理念系が無惨に弾かれて、その痛ましき愛国心が自死によって炸裂するという終焉を確認することで、一切が説明し得る映画であったということである。

(2010年10月)