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2011年2月2日水曜日

スラムドッグ$ミリオネア('08)      ダニー・ボイル


<「長い旅の後の希望」、或いは、「夢と決意を捨てないスラムドッグの、〈状況突破〉の純愛譚」>



1  「長い旅の後の希望」、或いは、「夢と決意を捨てないスラムドッグの〈状況突破〉の純愛譚」



「世界不況で厳しい局面の中、人々はその長い旅の後に希望を求めています。そして、オバマ氏が大統領になったことに見られるように、人々が変化を望み、よりオープンになっているという傾向も影響していると思います。それから、この映画のタイトルにもなっていますが、“スラムドッグ”、つまり勝てそうもない弱者が、夢と強い決意をもってすべてを乗り越えていき、逆境から学んだことが答えに結びついていくというストーリーも、人々を惹きつけているんだと思います」。(MOVIE Collection『スラムドッグ$ミリオネア』 ダニー・ボイル監督インタビュー・2009年 4月 22日)

本作は、このダニー・ボイル監督の言葉に集約されるだろう。

この言葉のエッセンスは、ストーリーとリンクさせるとき、「長い旅の後の希望」と、「夢と決意を捨てないスラムドッグの〈状況突破〉の純愛譚」という風に把握し得ると言っていい。

「僕はキャラクターたちを極端な状況に対峙させることが好きで、人生の細かい機微、ディテールにはあまり興味はない」(webマガジン e-days 映画「スラムドッグ$ミリオネア」ダニー・ボイル監督インタビュー)

これも、ダニー・ボイル監督の言葉。

これらのダニー・ボイル監督の言葉で判然とするのは、本作から、少なくとも、「説得力のある展開のリアリズム」、「政治社会状況の矛盾を剔抉(てっけつ)する社会派ヒューマニズム」、「子供の悲惨を再生産する、大人たちの腐敗への弾劾」という、ケチな奇麗事のフレーズは蹴飛ばした方が正解ということだ。

まず、「説得力のある展開のリアリズム」については、状況描写を冷徹に表現する「描写のリアリズム」と異なって、ストーリーラインの中に極端な偶然性や奇跡譚を挿入させない構成上のリアリズムのこと。

言うまでもなく、これは最初から確信的に蹴飛ばされていて、どこまでも本作は、「純愛道」を貫徹する青年ジャマールの希望と決意の強靭な継続力によって、観る者のカタルシスを約束する極上のファンタジーのうちに浄化されていく娯楽ムービー。

また「政治社会状況の矛盾を剔抉する社会派ヒューマニズム」については、児童期に宗教的確執の争いにインボルブされた挙句、眼の前で実母が撲殺された不幸を負った、この青年の「純愛道」の自己完結の曲折の軌跡を、極限的なまでに苛酷な状況に放り投げることによって、より際立たせるステージとして、「ボリウッド」(ボンベイのハリウッド)の過剰な喧騒を体現する、ムンバイという都市が特定的に選択されたと把握した方が無難である。

そして、「子供の悲惨を再生産する、大人たちの腐敗への弾劾」については、主人公の「純愛道」の直進に立ち塞がる厄介な障壁として、極端な形で描かれたに過ぎないだろう。

それ故、本作は、物乞いや窃盗によって露命を繋いで生きる、インドのストリートチルドレンの凄惨な実態を告発し、それを訳知り顔の表現者が声高に訴えるための「社会派ムービー」ではないということだ。



2  生真面目なメッセージを拾い上げる必要もない「丸ごと娯楽映画」



「純愛」とは、恋愛幻想の初発の様態である、というのが私の仮説。

その把握によれば、その清冽で、ピュアな響きが内包する脆弱さをも露呈せざるを得ない「純愛道」が、ジャマールの中で強靭な継続力を保証したのは、まさに「子供の悲惨を再生産する大人たち」の存在性であると言っていい。

要するに、このような極端な外部圧力の設定そのものが、最後に男気溢れる行動を開いたとは言っても、「男の観念」、「力の論理」という情感体系すらも爛れ切った、「極道」の世界に搦め捕られた実兄のサリームとの対比によって、そこだけが常に眩い光線を放つ、ジャマールの「純愛道」の生命線であったということである。

ジャマールは、「純愛道」の障壁である外部圧力への、果敢な突破力を身体化させるパワーを持ち得ていたのだ。

だからこそ、ミリオネアよりも遥かに高い価値を有する、ラティカという「純愛」の対象人格との再会を果たすためだけに、この国の国民のが熱狂を集合させる、「クイズ$ミリオネア」(画像)という「世俗の最前線」の只中に自己投入していったのである。

後述するが、それ以外のモチーフを捨て切っている、ジャマールの「純愛道」の果敢な突破力を支える、「運命」という名の確信的選択と、その決意の変らなさだけが、一貫して、「夢と決意を捨てないスラムドッグの〈状況突破〉の純愛譚」を貫流するのである。

それ故、私たちは、この「丸ごと娯楽映画」から発信される、生真面目なメッセージを敢えて拾い上げる必要もないのである。

そのことは、この映画にメッセージ性が皆無であることを決して意味しない。

ただ、それを、温風ゾーンで呼吸を繋ぐ私たちの日常的風景を相対化し切る、特段の挑発的メッセージなどという文脈で受信する必要がないということだ。

それは、「ファンタジー以上」でもなければ、「娯楽ムービー」以下でもないということ。

それ以外ではないだろう。

ただ一つだけ言えることは、自分の夢を抱懐し、簡単に捨てることなく、それ以外の価値を蹴散らしてまでも、執拗にその思いに拘泥し、それを身体表現する熱量だけは失うなかれ。

そういう平凡だが、遍(あまね)く共感されるだろう、相当に暑苦しいメッセージだけはストレートに伝わってきた。

一切は、「好みの問題」に収斂されるのが映画の宿命だから、過剰な物言いは、却って一笑に付されるだけだろう。

「人生の細かい機微、ディテールにはあまり興味はない」(前出)、などと言い放つ作り手の言葉を拾った上での鑑賞だから、5分も経てば忘れる類の、信じ難きほどの映画の他愛なさだけが残された事実を確認しても、当然、私の選択的行動の所産であるが故に、繰り言を垂れる次元の問題ではないということだ。

そんな無味乾燥の映画に、とうてい愛着を持ち得ない私には、殆どこれ以上の言及は不要である。



3  「運命」という言葉のうちに収斂する物語の心象風景



ムンバイのスラム(ウィキ)
ムンバイの人口の過半が居住していると言われる、「スラム」という「生存のリアリズム」と、そこからの 〈状況突破〉の極点にある「クイズ$ミリオネア」という、「夢幻のロマンチシズム」の世界の対比によって、人間社会で分娩される極端な要素を包括してしまう、「現代インド」に象徴されるムンバイの求心力の凄みを表現し、そこで呼吸する人々のエネルギッシュな息遣いをビビッドに切り取っていく。

切り取られたジャマールの青春の疾走は、己が〈希望〉を捨てることなく、力強く、堂々と、且つ、「氾濫する世俗の進化のトラップ」に全く振れることなく、一途に〈生〉を繋いでいくのだ。

男たちの所有物でしかない不幸を生きるラティカは、所有物の記号として、彼女の美しい顔が傷つけられるが、一人、ジャマールだけは、ラティカの全人格を愛し続ける強靭な「援助感情」(私は、この感情が「愛」の最も基幹的な構成要件であると考えている)のうちに、一切を自己投入するのである。

最後に、2千万のインド・ルピー(1ルピー=約2.4円だから、約5千万円)の賞金を獲得しても、ジャマールの視界にはラティカの存在しか捕捉されないのだ。

ムンバイ洗濯場(ドービーガート)(イメージ画像・ウィキ)
「夢幻のロマンチシズム」としての、「クイズ$ミリオネア」に象徴される即物性の極点は、「スラム」という「生存のリアリズム」からの〈状況突破〉の極上のファンタジーだったのである。


更に言えば、一切の事象を「運命」という言葉のうちに収斂する物語の心象風景には、インド人にとっては取るに足らない「日常性」、或いは、「非日常」の様態を、極端な映像情報に変換させねば済まないように印象付ける、異文化クロスのインパクトの初頭効果(第一印象効果)に搦め捕られた、好奇心丸出しの欧米人の情感的メンタリティが横臥(おうが)している。

それが、本作に対する私の基本的な読み方である。


ここで、ジャマールの疾走を「運命」という言葉を読み替えれば、一切の不孝の原因を、単に外部要因に還元させず、自分の確信的選択にベストを尽くすという、「選択理論心理学」のモデルとも言えるだろう。


青年の疾走を、青年自身の確信的な選択的行動が支え切っていたのである。


それは、青年の「純愛道」を、巧みな物語構成によって、これ以上ない躍動感溢れた、予定調和のファンタジーのうちに自己完結したということである。

物語の寓話性の帰結点としてのラストシーン
従って、とかく評判の悪いラストシーンの意味は、過剰なまでにエモーショナルな映像総体の、その炸裂する自給熱量の包括的結晶点であると同時に、物語の寓話性の帰結点として把握すべきなのだ。



4  単に「巧い映画」でしかなかった「スラムドッグ$ミリオネア」



「巧い映画」が、必ずしも「良い映画」であると言えないように、「良くできた映画」であるとも言えないことが多い。

「良い映画」とは、私の定義によれば、「いつもでも心に残る映画」であって、主観の濃度の深い映画のこと。

また、「良くできた映画」とは「完成度の高い映画」であって、客観性の濃度の深い映画のこと。

「完成度の高い映画」とは、「映像構築力の高い映画」のこと。

「映像構築力」とは、「主題提起力」と「映像構成力」が優れていること。

従って、エピソード挿入の巧妙さや表現技巧の高さ等によって、観る者に相応のインパクトを与える「巧い映画」が、同時に、「良い映画」であり、且つ、「良くできた映画」であるケースも否定できないが、それらはベクトルが違うので、絡み合って睦み合うことの成就は、殆ど偶然の産物であるとも言える。

  ダニー・ボイル監督
しかし、「巧い映画」が、「面白い映画」であるという確率は決して低くないだろう。

「巧い映画」が、単に「面白いだけの映画」であるという嵌り方をした作品の場合、観終わって5分も経てば、信じ難いほど簡単に忘れさせてくれるという本質的欠陥を抱えているのも事実だ。

また、「良い映画」や「良くできた映画」が、「面白い映画」であるという確率もまた否定できないであろう。

私の場合、「良い映画」であることが、プライオリティーの筆頭であるが故に、必ずしも、それが「巧い映画」であり、同時に「面白い映画」であると言えない場合がある。

そして、「良い映画」=「良くできた映画」であると決め付けられないが、私としては両者の睦みこそが、最も重要な何かである。

以上が、私の独断的な映像評価の把握である。

ここで結論。

「スラムドッグ$ミリオネア」というアカデミー賞総なめの作品は、私にとって、現在と過去の時間を交叉させていく流行りの表現技巧を駆使しただけの、単に「巧い映画」でしかなかったということだ。

(2011年2月)

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