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2011年1月13日木曜日

バウンティフルへの旅('85)      ピーター・マスターソン


<「郷愁の念」によって切断された「現実との折り合いの悪さ」>



1  「郷愁の念」によって切断された「現実との折り合いの悪さ」



観念としての死がリアリティを持ちつつある自我の中で、「現実との折り合いの悪さ」が「郷愁の念」を喚起し、喚起された「郷愁の念」が拡大的に自己運動を起こすことで「現実との折り合いの悪さ」を切断することに成就した。

「現実との折り合いの悪さ」を切断することに成就した自我のうちに、一気に解放感が広がり、「郷愁の念」が沸点に達した。

しかし、沸点に達した「郷愁の念」が出会った故郷であるバウンティフルの現実は、今や最後の住人の葬儀を終えたばかりで、すっかり廃墟と化していた。

それでも良かった。

喚起された「郷愁の念」に抱かれた自我には、もうそれで充分だったのである。


「郷愁の念」に抱かれた自我は、魂の故郷であるバウンティフルの空気を吸い、バウンティフルの土に触れるだけで充分だったのだ。

郷愁の自然(イメージ画像・西湘の生活ブログより)
既に、喚起された「郷愁の念」が、拡大的に自己運動を起こす過程で遭遇した幾つかの他我との交叉によって、限りなく相対化されていたからである。

だから、魂の故郷であるバウンティフルの空気を吸い、バウンティフルの土に触れることによって、「現実との折り合いの悪さ」をも相対化させ、「和解」という軟着点に辿り着くことが可能だったのだ。

感銘深いロードムービーである本作を要約すれば、以上の文脈に尽きるだろう。



2  「脱出」・「出会い」・「吐露」・「別れ」という、老女の「回帰願望」の行方



「現実との折り合いの悪さ」を、必要以上に感受する当該人物の名は、キャリー・ワッツ。

老い先短いと覚悟する、心臓疾患を持つ老女である。

そのキャリー・ワッツに対して、「現実との折り合いの悪さ」を感受させて止まない対象人格は、キャリーの息子(ルーディ)の嫁ジェシー。

キャリーとジェシーの関係に横臥(おうが)する折り合いの悪さ ―― それは、ある意味で「性格の相似性」という風に言えようか。

両者とも自己主張が強く、相手に対する妥協心が欠ける性格の持ち主。

それは、日常的想念を心の奥に容易に封印できない直截的性格とでも言えるだろう。

共に相応に認知し得るだろう自己主張力の強さと、妥協を忌避する攻撃性が、この両者の折り合いの悪さの根柢に横臥(おうが)していたのである。


だからキャリーは、嫁の眼を盗んで出奔した。(画像は、米国で最大規模のバス会社のグレイハウンドバスで長距離バスとして有名)

彼女の故郷であるバウンティフルへの旅に、キャリーは打って出たのである。

そんな彼女が、喚起された「郷愁の念」によって、拡大的に自己運動を起こす過程で遭遇した経験は、彼女の心に本来の温もり感を復元させるに至った。

もうそれだけで、彼女の喚起された「郷愁の念」の対象となった、バウンティフルへの旅の目的の半分は、殆ど達成されたと言える。


以下、彼女の旅の「同伴者」となった、テルマと名乗る、一人の穏健な女性への心情の吐露を拾ってみよう。

年若いテルマは、夫が出征中の寂しさで、親戚の家に行く途中であった。

バスの席で隣合わせになったテルマに、キャリーは多くのことを語っている。

「バウンティフルの意味は、“豊作”だけど、不作が続いた。昔は種を落としただけで豊かに実ったらしいの。綿やサトウキビ。世界一美しい場所だわ・・・私は土さえあれば、100歳まで生きるわ・・・私は主人を愛せなかった。私の苦労は天罰かなと思う。牧師さんは皆違うと言うけど、天罰と思えるわ。嘘は嫌だから、夫に愛していないと言ったわ。でも大事にしていたのよ」

真剣に耳を傾けるテルマに、キャリーはこんな過去のプライバシーまで吐露するのだ。

如何にもウエットなアメリカ人らしい、至近的な距離感の作り方である。

「夫に愛していないと言ったわ」などという辺りに、キャリーの直截的性格が透けて見える。


キャリーは、「旅は道連れ」の感覚で、一期一会(いちごいちえ)の相手に向かって、他の男性を愛していたと吐露したのである。

「父親同士の仲が悪くて、絶交の手紙を書かされたの。彼は悔し紛れに、外の人と結婚した」

嗚咽を交えて話すキャリーは、夫の出征中の寂しさの中で移動するテルマに、そこだけは確信的に言い切った。

「愛する人と結婚できるのは幸せよ」
「そう思います」
「幸運ね」

まもなく、バウンティフル20キロ手前のバス停に着いて、バスに忘れた荷物を待つキャリー。

「神の御加護ね。毎日、守ってくれれば言うことないのに。でも毎日だと、感謝の気持ちが薄れるわね。或いは、守られていても気づかないだけ。同じように、私は20年も故郷の良さを忘れていたわ」

無事、家出が成功したことに「感謝の気持」を抱くキャリー。

そのキャリーと、恐らく「永久(とわ」の別れ」になるテルマは、名残惜しそうに他のバスに乗り換えて行った。


独りになったキャリーは、今度は、息子夫婦から保護依頼の連絡を受けた保安官に、切々と、自分の不満含みの思いを吐露したのである。

「死ぬ前に故郷の家を見せて。息子は嫁の言いなりよ。嫁の目当ては私の年金なの。私は死ぬ。嫁は狭い家に閉じ込めて、死ぬのを待っている。そうはさせない。バウンティフルで死にたいの。私は苦しみに耐えられる。でも、この15年間続いたあの口論には耐えられない。嫁のジェシーが言う通りよ。自分が醜く思えるの。もう嫌。家に帰りたい。私を故郷に帰して!」

最後には、情感が込み上げてきて、そう叫ぶのだ。

保安官に泣きつくキャリー。

故郷の家を一目だけでも見たいというキャリーの思いに打たれた保安官は、保護という条件付きで、老女のバウンティフル行きを承諾したのである。

「脱出」・「出会い」・「吐露」・「別れ」という、老女の「回帰願望」の行方が、目まぐるしく動いていった。



3  「喧嘩はしない約束だ!納得して決めただろう!家族だろう。仲良くしよう」



キャリーのバウンティフルへの旅が、遂に果たされた。

バウンティフルは、今や無人の土地と化していた。

当然、我が家の老朽は酷かった。

それでも良かった。

キャリーは、人生の最後に、「魂の故郷」のイメージを眼に焼き付けておきたかっただけなのだ。

まもなく、息子夫婦がバウンティフルにやって来た。


以下、「魂の故郷」であるバウンティフルでの、母と息子の会話。

「家を見なさいよ」と母。
「僕には意味がない。思い出だけにする」と息子。
「そうね。古い家は朽ちるだけ」と母。

息子のルーディには、バウンティフルへの旅に打って出た母の思いが理解できている。

全ては、妻のジェシーとの「折り合いの悪さ」が原因であることを。

そして、その「折り合いの悪さ」を加速させた一因に、自分が母のために、孫を儲けてあげられなかった現実が横臥(おうが)していることをも。

ルーディは、朽ち果てた我が家を前にして、その辺りの心情を吐露するのだ。

「僕には息子がないだけだ。娘もね。友人は子供なしの生活は考えられないとさ。“何のために働く?”と聞かれて、僕は・・・ママには悪かった。努力はしたけど、何もできていない・・・」

ルーディは、なお言葉を繋ぐ。

「昔のことは、よく覚えている。この家での生活の全てをね。満月の夜に泣いた僕を散歩に連れ出したことも・・・でも、忘れたいんだ。無意味だから」

「満月の夜」のシークエンスは、本作のオープニングで紹介されていた、印象深い故郷の思い出の絵柄だった。

息子もまた、母と同様に、故郷のバウンティフルを決して忘れていなかったのである。

このとき、母子の情感が交流する会話が遮断された。

遠くで、車内で待つジェシーが、聞えよがしにクラクションを鳴らしたのである。

それは、「早く戻れ!」というシグナル以外の何ものでもなかった。


情感に耽っていた母は、思わず頭を抱えて、地面にへたり込んで嗚咽してしまう。

「ルディ、どうしてこんなことに?」

息子にしがみ付く母。

それを受容する息子。

「静かね。これを忘れていたの。この静けさを」

気分を取り戻した母の、しみじみとした述懐である。

母はこの静けさを確認しに来たのだった。


まもなく、ジェシーが車から出て来て、姑と夫の元にやって来た。

「全てが自分勝手だったせいよ」

そう言って、ジェシーは、この3人家族が、本来の家で平穏に暮らすルールを説明しようとする。

「念願の旅が実現したわ」

このキャシーの言葉のうちに、心の澱みを巣食っていたものが浄化されたことを検証できる映像が、そこだけは特段に眩く輝きを見せていた。

だから、「もう、思い残すことはない」と言い切るキャシーは、嫁の提示するルールを喜んで受容するのである。

ジェシーは、ルールを読み上げていく。

「ルール1、逃げ出さないこと。ルール2、讃美歌は歌わない。但し、私と一緒の時はね。一人のときは自由よ。ルール3、膨れっ面はダメ。質問には返事をする。意地を張って黙らないこと。ルール4、心臓発作が起こると困るので、家の中で走らず、必ず歩くこと」

それだけだった。

「分った」

キャシーは、嫁の提案を全て受容したのである。

そのとき、彼女は嫁の頬に口づけをし、自分の正直な思いを吐露したのである。

帰り際、キャシーが持っていた小切手を、誰が預かるかということで、再び嫁姑が揉めたときだった。

ルディーは、映像で見せたことがない、怒りの感情を露わにしたのだ。

「喧嘩はしない約束だ!納得して決めただろう!家族だろう。仲良くしよう」

その言葉で、全てが終焉した。

ジェシーが受け取った小切手を、義母に戻したのである。

それは、バウンティフルが束の間に作りだした、「家族の再生」のイメージをほんの少し印象付ける構図であった。



4  「アメージング・グレース」の清澄なメロディが広がって




ラストシークエンスで流れる「アメージング・グレース」(賛美歌)の清澄なメロディは、本作の穏やかな日常への祈りの賛歌となって、バウンティフルの大地に広がっていくのである。

以下、「アメージング・グレース」の歌詞である。

家に帰れ 我が元に帰れ
疲れ果てた旅人よ 我が元に帰れ
主は今 優しく呼びたまう
重荷をおろし 来たれと
時は近づく 迷い子ら帰れ
主は今 待ちたまう
影が忍び寄り 死の時が近づいた
いざ 主の御許(みもと)に帰らん
アメージング・グレース
家に帰れ 我が元に帰れ
疲れ果てた旅人よ 我が元に帰れ
主は今 優しく呼びたまう
重荷をおろし 来たれと




5  「居場所」の問題の大切さを問う映画



前述したように、本作は、「現実との折り合いの悪さ」が「郷愁の念」を喚起し、喚起された「郷愁の念」が拡大的に自己運動を起こすことで、限りなく「現実との折り合いの悪さ」を相対化させるプロセスを通して、本来の在るべき「家族像」に近い辺りにまでソフトランディングし得た物語であった。


一貫して淡々と描いた映像は、ごく普通の生活者たちの、その生活風景を切り取っただけに過ぎないが、まさにこの「普通性」こそが物語の力に成り得るという映像を検証した秀作だった。(画像は、 ピーター・マスターソン監督)

僅かな登場人物たちの交叉と、廃墟となった「魂の故郷」の風景のみで語られる物語の力強さを支え切ったのが、「現実との折り合いの悪さ」を断ち切るべく立ち上げた、老い先短いと覚悟する、心臓疾患を持つ老女による「魂の故郷」への旅だった。

同時に本作は、老境にある者にとって、何より大切なのが、「生きがい」というよりも、「居がい」であり、「居場所」の問題であることを示唆した映画でもあった。

そういう映画として、私は好感を持って受容したい。

心の底から沁々(しみじみ)、「良い映画」と思えるような典型的作品だったからである。

(2011年1月)

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