<「恐怖心」を表現し切った少女の訴求力>
1 「オサマ」という名の「少年」が誕生したとき
「忘れられずとも許せはしよう」(N・マンデラ)
これが、冒頭のキャプション。
「政治運動ではありません。私たちはひもじい」
ブルカに覆われた女性たちのデモでの、遠慮げなシュプレヒコール。
彼女たちのプラカードには、「夫を失くした私たちに仕事を下さい」と書かれてあった。
矢庭にタリバンの鎮圧が荒れ狂い、銃と放水によって制圧されていく。
暴行され、捕捉される女性たち。

その女性たちの中に、放水でずぶ濡れになった少女マリナと、その毋親の姿があった。(画像)
自宅に戻ったマリナは、母の嘆息を聞くことになる。
「ウチの人さえ生きていたら・・・あの人はカブールの戦いで殺され・・・ソビエトの戦いでは、兄さんが殺された。残されたのは、女3人・・・」
最後は嗚咽になった。
「せめて、この子が男なら働きに出せるのに。神様は、なぜ女をお創りに」
母の嘆息は、「労働力」としての娘への期待感を洩らすが、それを聞く祖母の提案は突飛なものだった。
「何を言うんだい。男も女も同じ人間。差はありゃしない。私はこの年まで差など感じた事ない。神様は平等だよ。男も女も同じように働ける。同じように不幸になる。髭を落として、ベールを被れば、男が女に。長い髪を短く刈って、女が男になる。私がこの子の髪を切ろう」
反発するマリナ。
「嫌だ。タリバンに見つかれば殺されちゃう」
祖母の提案は、親族の男性の同伴なしに外出を許可されないタリバン政権下にあって、ギリギリに追い詰められた女だけの3人家族の、それ以外に生活の糧を持ち得ない最後の選択肢だったのだ。
「大丈夫。心配いらないよ。自分は女の子じゃない。男の子だと思えばいいのさ。人は見た眼を信じる。お前が働いてくれないと、一家飢え死にだからね。子守唄代わりに、昔話をしてあげよう。昔々、その昔、ある所に奇麗な顔の少年がいました。父親が亡くなり、少年が一家を養うことになりました。働き疲れた少年は、神様に願いました。“働かずにすむ少女にして下さい”ある日、賢者に出会い、こう言われます。“虹を渡れば少女になれる”虹は何でできていると?伝説の英雄、ロスタムが残した弓だと言われている。“虹を渡れば、悩みは消えてなくなる。少女は少年に、少年は少女になれる”」
祖母は、“虹を渡れば少女は少年に、少年は少女になれる”という寓話を例に出して、少女もまた少年になれるという危険なトリックを具現しようと言うのだ。
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マリナ |
2 「希望」のメッセージと結び付かない、痛ましい構図によって括られて
まもなく、髪を切られたマリナは、少年の姿に変身して、亡父の戦友のミルク屋に働きに出るに至った。
ミルク屋で働いた初日の帰路。
タリバンに疑いを抱かれたマリナは、何とか難を免れたが、ランプの灯りだけの陰鬱な家に帰宅しても、全く食欲がなかった。
翌日、町に住む全ての少年がタリバンの宗教学校に召集され、少女もそこへ連行されるに至った。
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マドラサ・アリー ブン ユースフ学院 |
頭にターバンを巻かれ、「タリバン兵」になる教育を受けるのだ。
このシ―クエンスは重要なので、後述するが、この一件によって、「女」であることを疑われ、それが彼女の不幸に繋がっていくのである
そして、ミルク屋もパキスタンに行ったことで閉店するに至り、マリナの仕事は僅か一日で終焉してしまったのだ。
途方に暮れるマリナ。
「タリバン兵」になる宗教教育によって、「女」であることを疑われ、他の少年たちに「木に登ってみろ」と言われ、必死で登るものの、降りられないのだ。
「足を伸ばして降りろ」
これは、マリナの唯一の味方である、お香売りの少年の助言。
そのお香屋の少年の指示で木から下りるが、「助けて」と叫ぶのみのマリナ。
「女」であることが発覚した瞬間だった。
まもなく、タリバン兵によって、マリナは井戸に吊るされる。
母を求める少女には、救いの手が伸べられることがなかった。
ここで見落とせないのは、マリナの足下から鮮血が零れ落ちていたが、これが初潮であるという事実が判然としたこと。
まさしく、「オサマ」という名の「少年」の正体が、少女であることの決定的な証拠となったのである。
かくて、牢獄に入れられたマリナが、宗教裁判の場に引き立てられたのは、サポートする大人を持ち得ない少女にとって、殆ど必然的な流れであったと言える。
マリナに先立って裁かれたのは、映像冒頭で、お香屋の少年をビデオを映していた西洋人。
そのビデオを押収された男の刑罰は「スパイ罪」で死刑となり、あっという間に銃殺された。
次いで、一人の成人女性に対する、タリバンの「長老」による、石打の刑という、恣意的とも思える「判決」が下されるが、これは、マリナへの「判決」で瞭然とする。
マリナは、家族がいるのに孤児にさせられた挙句、「少女は許され、結婚した」という判決が下されたのだ。
「神は偉大なり!」
群衆の雄叫びが起こった。
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タリバン(International Business Timesより)
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若い娘よ 私の花嫁よ
私の贈り物を 受け取っておくれ
若い娘よ 私の花嫁よ
私の贈り物を 受け取っておくれ
大きな邸に着いた老人は、マリナを門の中に入れて鍵をかけた。
そこに居る多くの「囚われの女性」の各部屋にも、厳重に鍵がかけられていて、とうてい逃亡し得る余地なき「城砦」だったが、その本質は「ハーレム」と言っていい。
「タリバンなど、地獄に堕ちるがいい。私たちの家を、土地を奪ったうえに、私を捕まえて、あの男と結婚させた。私の人生は台無し。地獄に堕ちるがいい」
マリナに語るときの、一人の女性の憎悪が噴き上がっていた。
以下、他の女性たちの怨念の声を拾ってみよう。
「私たちは難民だった。タリバンは兄を捕まえて殺し、私を無理やり、あの男と結婚させた。何て惨めな人生」
「大嫌いだけど、私にはどうしようもない。結婚式の夜、私は奪われ、人生を踏み躙(にじ)られて、絶望の日々。疲れ果てたけど、どうすることもできない」
こんな暗鬱な話を聞いて、「恐怖心」を増幅させたマリナは、穴の中に隠れていたが、立ち所に見つかって、穴から出されて初夜を迎えるのである。

ラストカットは、男が風呂に入っている間、厳重な鍵で閉じ込められたマリナが、およそ「希望」のメッセージと結び付かないような、縄跳びをイメージする痛ましい構図によって括られた。
3 「恐怖心」を表現し切った少女の訴求力
「恐怖心」は、「悲しみ」、「怒り」、「嫌悪」、「歓び」と共に、人間の基本感情である。
この「恐怖心」という感情が、お香売りの少年の動きをハンディカメラが捕捉するカットに象徴されるように、ドキュメンタリータッチで開かれた本作の物語を貫流している。
本作の主人公である少女の心情世界を支配する感情こそ、この「恐怖心」であり、まるで、それ以外の人間的感情が存在しないかのようなのだ。
だから、これは「恐怖心」の物語と化した。
素人を起用するイランやトルコの映画と同様に、このアフガン映画の主人公役の少女も素人である。
それも、「スラムドッグ$ミリオネア」のように、本物のストリートチルドレンの少女。
「私は、主人公の少女を探して3400人の少女達と会いました。そして、ある日路上で一人の物乞いの女の子と出会ったのです。『お恵みください』そう言った少女の目には深い悲しみが宿っていました。それがマリナでした。撮影中マリナが涙を流す時、彼女はいつも戦争のことを思い出していました。姉を亡くしたこと、父親の足が一時的に不自由になったこと、兄弟姉妹と空腹で夜を明かしたこと・・・」(公式HPより)
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セディク・バルマク監督 |
それも、「主人公を演じたマリナは実際に内戦で2人の姉を失い、5歳の頃からストリートチルドレンとして生き延びてきた」(gooの解説より)というのだから、そのあまりに凄惨な現実に言葉を失う程だ。
読み書きが出来ない少女が、「創作」としての「映画」の「主演」を果たしたのだ。
当然、他の中東映画の例に洩れず、その「演技」は一本調子で、抑揚のないフラットな稚拙さを露わにするものだった。
しかし、少女の「表現力」には、驚くほどの訴求力があった。
この訴求力が、本作を根柢において支え切っていたと言っていい。
その訴求力の内実は、「恐怖心」という、人間の基本感情を表現することが切に求められたに違いない本作の物語を、観る者に、殆どメタフィクションとイメージさせずに貫流する、リアリティの基調に完璧に嵌ったキーワードとなって、そこに映像の「決定力」を保証したのである。
本作は、「恐怖心」の「映画」であったのだ。
4 プロパンガンダという邪道の「映像」
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「タリバン兵」の教育風景 |
これも、セディク・バルマク監督の言葉。
「自由の象徴」である虹のシーンをカットした、セディク・バルマク監督の意図は成功しただろう。
少女を「戦利品」として貰い受けた老人が、帰路での歌にあるように、少女に贈り物を贈呈しようとするが、当然ながら、少女はそれを受け取る姿勢を見せない。
恐らく、今までもこのような形で、多くの「処女」を略奪してきた男にとって、このような拒絶反応の「心理的報復」は、既に折り込み済みなのだろう。
今また老人は、それまでもそうであったように風呂に入り、ゆっくりと体を洗い清め、優しい顔で接近しながら、嫌がる少女を「強奪」するに違いないのだ。
一夫多妻制下での、老人の「ハーレム」に捕捉された彼女たちには、抵抗する一切の術がないからである。
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タリバン(REUTERS/Dylan Martinezより)
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そんな男の前では、全く無力な少女は、ひたすら嗚咽するばかりであった。
嗚咽することだけが、無力な少女の、唯一の拒絶反応の手立てでしかないからである。
従って、少女が縄跳びをイメージするラストカットは、本作で描かれた、エンドレスな「恐怖心」を希釈させるに足るアンチテーゼの一撃にすらならなかった。
囚われの少女は、老人の「ハーレム」から解放されないのだ。
「恐怖心」の「映画」でもあった本作は、作り手の明瞭で、強烈な「主題提起力」によって引っ張られた映像でありながら、その物語構成には抑制が効いていて、両者の程良い均衡感が保証されることで、構築力の高い作品に仕上がっていたことは事実である。
しかし、それでもなお、これだけは書かねばならない。
明らかに本作は、現実の歴史の内実がどうであれ、「絶対悪としてのタリバン」⇔「虐げられるだけの女性たち」という類型的な二元論によって、最後まで押し通した強引さを否定できないのである。

仮に、「絶対悪としてのタリバン」(画像は、実際のタリバン兵)という認知を捨てることを拒絶したとしても、そのタリバンの中にも、人間の心が理解できる男が存在する可能性の欠片すらも、政治的意図によって最初から排斥してしまう描き方は、どうしてもプロパンガンダ性を克服することができないのである。
これが「映像」であるなら、プロパンガンダに堕してはならないのだ。
プロパンガンダは、もはや、邪道の「映像」と言わざるを得ないのだ。
強烈な主題を持って、それを「映像」に再現させようとする作家には、常に自己を相対化し得る視座を捨ててはならないのである。
「タリバンの蛮行」を否定しないということと、現代史において複雑な歴史を持つアフガンについての、限りなく正確な歴史的事情を知ることへの努力は全く矛盾するものではない。
つくづく、「映画から歴史を学ぶこと」の愚を感じる次第である。
5 ユーモラスな空気感の中で映し出された人間的感情の揺蕩い
そんな本作の中で、興味深いシ―クエンスがあった。
大浴場に少年たちを集めた、長老の「レクチャー」のシ―クエンスである。
「今日はなぜ、浴場へ来たか分るか?やがて、夢の中で濡れる日が来るだろう。妙な夢を見て濡れる。男になる日だ。その後には身を清めねばならん。礼拝の前のように体を洗うのだ。ますは手を。次に右の睾丸。そして左の睾丸。更に真ん中も・・・」
ここで少年たちの中で、抑えるような笑いが起きる。
彼らの多くは、長老が説明する意味が理解できているのだ。
長老の「レクチャー」は続く。
「今から私がやって見せる。よく見て、覚えるんだ。まずは、上半身に水をかける」
浴場に入れないマリナは、浴場の扉の陰から、この「レクチャー」を不安げに聞いていた。
「いいかね、次は頭だ。頭から水を浴びる」
それを見て、同じ動作をする少年たち。
「では次だ。次は下半身を清める。詳しくは言わん。ただ、それぞれを3回ずつ洗う。まず、右の睾丸を3回水をかける。次に左を3回、真ん中を3回」
そう言って、実践して見せる長老。
「よく見て、経験して覚えるんだ」
笑いを抑えながら、長老に言われた通り、水をかける少年たち。
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少女マリナの「恐怖心」を見事に描き切ったカット |
それに気づいた長老は、マリナを呼んで、実践を求めた。
上半身を脱いだマリナは、脚の怪我を理由に、浴場にのみ入ることを求められ、その通りに遂行した。
「この子は、まるで天使のようだ。天国には、少女のような少年の天使がいるんだよ」
この一件によって、「女」であることを疑われ、それが彼女の不幸に繋がっていく重要なシークエンスである。
ただ、このシークエンスは悪くない。
ユーモラスな空気感の中で、唯一映し出されるシークエンスには、人間的な感情が揺蕩(たゆた)っているからだ。
しかしこれは、作家的映像が生き生きと映し出されることで、それ以外の、「非人間的な振舞い」を希釈化させる効果を狙ったシークエンスという印象を拭えないのである。
「人間」を描き切れない社会派の「映像」は、それが内包する主題の暴走に歯止めを掛けられないであろう。
少女の「恐怖心」を見事に描き切った映像なればこそ、少女を囲繞する人間たちをも包括して、もう少し丁寧に描く努力が必要だったのではないか。
そう思わせる一篇だった。
(2011年5月)
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