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2011年5月19日木曜日

愛を読むひと('08)     スティーヴン・ダルドリー


<「あなたなら、どうされます?」 ―― 残響音のエネルギーを執拗に消しにくくさせた、観る者への根源的な問い>



1  「絶対経験」の圧倒的な把握力



「どんな経験でも、しないよりはした方が良い」と思われる経験を、私は「相対経験」と呼んでいる。

私たちが経験する多くの経験は、この「相対経験」である。

この「相対経験」は、心に幅を作るトレーニングでもある。

心の幅が、人生に構えを作る。

この構えがスキルになって、人の内側を少しずつ豊穣なものに仕上げるのだ。

しかし、人間には、このような「相対経験」に収斂されない経験が稀にある。

それは、「この経験が、私のその後の人生を決めた」と言えるような経験である。

その経験を、私は「絶対経験」と呼んでいる。

この「絶対経験」が、自己のその後の「懊悩の日々」を約束させるものだったら、その者は、「絶対経験」の圧倒的な把握力に翻弄されていく危うさを、自我のうちに巣食ってしまっているのだ。



2  「性愛」と地続きな「愛を読むひと」という「ひと夏のハネムーン」



本作の主人公であるマイケルの、幸薄き曲折的な人生を思うとき、彼の「絶対経験」の圧倒的な把握力について、複雑な心情に駆られて止まないのである。

決して、彼の優柔不断な人生を責めるつもりは毛頭ないし、その資格もない。

彼は、彼なりに信じた思いを身体化させてきたからだ。

そんな彼の「絶対経験」を、私は「ハンナ体験」と呼ぼう。

彼は、この「ハンナ体験」に呪縛され、その曲折的な人生を繋いで生きてきた。


「ハンナ体験」とは、「ハンナに対する純粋な愛情」と、それと共存する「ハンナに対する贖罪を求める感情」と考えている。

マイケルの、この「ハンナ体験」のスタートの内実は、なお片肺飛行であったが、ギムナジウム時代の15歳の夏だった。

それは、20歳以上も年の離れた女のフェロモンによって誘(いざな)われた挙句、「性愛」に搦(から)め捕られた純朴な初期青春期のこと。

ハンナもまた、その孤独感からか、年下の「坊や」との「性愛」に悦楽を求めていたが、しかし、彼女のモチーフの根柢に横臥(おうが)していたのは、「文学を読んで聞かせてもらう」感情であった。


「3か月間、寝てました・・・退屈でした。本も読めなかった」


ギムナジウムからの帰途、体調異変に襲われたマイケルを介助してくれた女性が、路面電車の車掌を職務にしていたハンナだった。

この言葉は、猩紅熱で病床に伏せていたマイケルが訪ねて来たときに、彼が洩らしたもの。

このとき、ハンナは、アイロンを持つ手を一瞬止めたが、観る者は、この所作が映像を貫流する重要な伏線を張ったものであることなど知る由もない。

忽ちのうちに意気投合し、「性愛」に悦楽を求めるように、激しく睦み合う二人。

「何を勉強しているの?言葉の勉強も?」

やがてハンナは、最も聞きたいことを口に出したのである。

マイケルがギリシャ語を勉強していることを知り、「読んで聞かせて?」と頼まれ、安請け合いする15歳の少年。

ホメロスの「オデュッセイア」から始まって、D・H・ローレンスの「チャタレイ夫人の恋人」、アントン・チェーホフの「犬を連れた奥さん」など、著名な作品が朗読されていく。

後二者ともに、不倫の話である。

しかし、二人の別離は呆気ない形でやってきた。

それは、路面電車の車掌であるハンナが、「事務職昇進」の話を受けた直後だった。

明らかに、動揺するハンナ。

ハンナが、その不安をマイケルにぶつけ、その日のうちに失踪したのである。

茫然自失のマイケル。

帰宅後、マイケルの父は、「帰って来ると思った」と一言。

この父の言葉は、既に、狭い町で二人の関係が噂になっていたことを暗示するものだ。

それが原因でハンナは失踪した、とマイケルは考えたのかも知れないが、未だ自我が確立していない彼には、40近い女の行動心理が把握し切れない。

だから、「裏切られた」という思いが、塒(とぐろ)を巻いていたのだろう。

彼らの「ひと夏のハネムーン」は、こうして終焉したのである。


それは、「性愛」と地続きな「愛を読むひと」という、「ひと夏のハネムーン」の終焉だった。



3  「ハンナ体験」の悪しき継続力が露わになって



「ひと夏のハネムーン」から数年後、ハンナの失踪の心理的背景に最近接する事態が出来した。

ロール教授に随伴するホロコースト裁判の法廷に、ハイデルベルグ大学の法科に入り、法律家志望のマイケルは見聞した。

その法廷に、ハンナが被告として出廷していたのである。

衝撃を受けるマイケル。

それでも彼は、必死に法廷に張り付いて、一言も洩らさず傍聴していた。

1943年にSS(親衛隊)入隊の際に、「シーメンスの工場での昇進」の話があったのに、その理由を聞かれて、「SSで看守の募集があったから」とのみ答えるハンナ。

法廷での、このハンナの説明に、なおマイケルは反応しない。

「人は言う。“社会を動かすのは道徳だ”と。それは違う。“法”だ。アウシュビッツで働いていたということだけでは罪にならない・・・問題は、“悪いこと”だったかではなく”合法であったか?”ということだ。それも現行の法ではなく、その時代の法だ」

これは、傍聴後のロール教授のレクチャー。

ドイツの若者たちに未来を託するロール教授の考えは、「デュープロセス」(一切の刑罰は、「その時代の法」に則って裁かれねばならないという刑事司法の原則)の理論であり、ニュルンベルク裁判や東京裁判に象徴されるように、「法の不遡及」の原則を否定する「事後法」によって、「平和に対する罪」、「人道に対する罪」などを裁く法廷の存在それ自身の権威を疑うに足るというものであり、そこには作り手の強い思いも重なっているのだろう。

まもなく、ホロコースト裁判の法廷の空気が一変する事態が惹起した。

法廷でのマイケル
それはマイケルが、ハンナのSS入隊の本当の理由を知り得る事態でもあった。

ホロコースト裁判の法廷の裁判長は、母ともに収容所に入れられたイラーナ・マーサーの、ホロコーストの地獄を訴える著書を紹介し、そこで言及されている「選別プロセス」について問うのだ。

毎月、労働期間が終わった囚人60人を選別し、アウシュビッツに送り返した事実を裁判長は確認し、看守であったハンナにその関与を聞かれ、彼女は「イエス」と答えていく。

「では聞くが、選別の基準は?」と裁判長。
「看守が6人いるので、各自が10人を選ぶ」とハンナ。

ハンナは、この「選別プロセス」に全員が関与したことを認めるが、他の女性看守たちは否定するのだ。

この防衛的行動によって、法廷内に混乱が生まれた。

「分っていたはずだ。選ばれた者は殺されると」と裁判長。
「でも、新しい囚人が次から次へと送られてきて、古い囚人を送り出さなければ、収容し切れません」
「言い換えれば、こういうことだね。収容場所を作るために、“あなたとあなたは死ね”と」

裁判長が存分の厭味を込めて、こう言い切ったとき、ハンナは咄嗟に切り返した。


「あなたなら、どうされます?」

凄い言葉である。

恐らく、本作の基幹メッセージだ。

この根源的問いに、答えられない裁判長がそこにいた。

まもなく、法廷はイラーナ・マーサーの証言に入っていく。

「看守は囚人を選ぶだけ。でも、ハンナは違ってました。」

これは、毎晩、ハンナが若い娘を自分の部屋に呼んで、本を読ませていたことの証言である。

ハンナの「ロマン溢れる文学」への思いのルーツを探る情報が、ここで露わにされ、それを傍聴するマイケルは眼を見張った。

その後、法廷で明らかにされる忌まわしき事件の全貌が、イラーナ・マーサーの母の証言の中で語られていく。

「あの村に着いて、いつものように看守は牧師館を宿舎に取り、囚人たちは教会で寝るようにと。でも、夜中に空襲があり、まず教会が被爆。それから鐘楼が燃える音がして、次に天井の梁が燃え出し、床に焼け落ちました。皆、怯(おび)え叫んで、ドアに走り出しましたが、外から鍵がかけられていました」
「教会が焼けていたのに、誰も来なかった?」と裁判長。
「誰も」
「何人の者が焼け死んだ?」
「中にいた全員」
「あなたたち母子以外は」

裁判長がそう締め括った。

裁判を傍聴するマイケルは、頭を抱え、ホロコーストの現実の凄惨さに言葉を失っていた。

しかも、その事件に、ハンナが看守として関与しているという現実の重量感。

それは、「ひと夏のハネムーン」を愉悦していた、15歳の夏の「性愛の衝動」と、容易にリンクし得ないおぞましい歴史的出来事だった。

こうして、「ハンナ体験」の悪しき継続力が露わになったのである。



4  「ハンナ体験」の渦巻く激流に呑まれる青年の懊悩



6人の看守が300人のユダヤ人を焼殺したという事件の責任を問われ、ハンナは裁判長から責任を追求されるに至った。

以下、マイケルらと共に、この裁判を傍聴していた一人の学生の問題提起。

「僕はこの裁判に意味があると思っていたが、目くらましだった。6人の女を並べて、“悪人は彼女らだ”と。だが、彼女らだけが悪人?犠牲者がたまたま、本を書いたからだ。幾つ収容所が?」

ロール教授の講義への反応だったが、一面の真理を衝いていた。

しかし、この時点で、「ハンナ体験」の渦巻く激流に呑まれるマイケルは、口籠るばかり。

アウシュビッツに見聞に行ったマイケル
その直後、アウシュビッツに見聞に行ったマイケルは、「ハンナ体験」の矛盾に捕捉され、懊悩する日々を送るばかりだった。

そして、その日の法廷が開かれた。

それは、「ハンナ体験」の矛盾が、一時(いっとき)、ハンナへの深い同情心が推進力となって、彼女への「情愛」が継続力を持ち得た瞬間だった。

「なぜ、鍵を開けなかったのか?」と裁判長。
「簡単です。無理だった」とハンナ。
「どうして?」
「私たちは看守。囚人を監視するのが仕事なのに、彼らを逃がすなんて。ドアを開けたら大変。秩序はどうなります?全てが突然でした。雪の中での爆発と火災。火が村全体に広がって、皆、家から飛び出して来た。そこに囚人を放つ?私たちには責任があるんです!」

怒り狂ったように、右手でテーブルを叩くハンナ。

「あなたは状況を理解していて、こう判断した。“囚人を逃がすより、死なせる方が良い”と」

「正義」を心理的起点にする「悪意」が、裁判長から放たれた。


このとき、マイケルは、責任者を特定する報告書の筆跡証明のための鑑定を求められて、それに応じないハンナを見て、一切が理解できたのだ。

彼女が非識字者であるということを。

メニューを注文できなかったり、「あなたが本を読んで」と言われたりしたことを、マイケルは昨日のことのように想起したのである。

「事務職昇進」の話を受けた際の動揺も、ハンナの失踪も、彼女の識字能力欠損に起因するが、前者について、当然の如く、マイケルには知る由もなかった。

「認めます。私が書きました」

筆跡鑑定を求められたハンナは、一瞬の「間」の直後、そう答えたのだ。

以下、非識字者であるということを秘匿にするために、筆跡鑑定を拒否したハンナの、その懊悩の深さを知ったマイケルと、ロール教授の対話。

「僕は、被告の一人に関係ある事実を知っています」
「君には、その事実を報告する法的な義務がある」
「被告に有利な事実なんです。その事実で、間違いなく判決が変ると思います。問題は、被告はその事実を明かされたくない」
「なぜ、隠したがるんだ?」
「恥ずかしいからです」

それ以上、マイケルは答えられない。

教授から事実の発表を求められても、それ以上答えられないのだ。

「この際、感情は無関係だ。“どういう行動に出るか”だ」

事情を知る由もないロール教授に促されて、マイケルは意を決して、ハンナに面会に行くが、迷った挙句、踵(きびす)を返すに至る。

それは、マイケル自身が〈状況〉にインボルブされることで、社会的責任を負うことを回避した行為であると言えるかも知れないが、それ以上に、彼女と会っても、添える言葉を持たなかったからと考えた方がいいだろう。

そして、運命の判決の日。

ハンナに言い渡された判決は、無期懲役の刑。

マイケルは、判決を言い渡されたハンナと眼を合わせ、涙が止まらない。

ハンナは、マイケルが法廷に来ていることを知っていたのである。

「ハンナ体験」の渦巻く激流に呑まれるマイケルは、零れる涙で濡れた顔を晒すばかりだった。

それ以外に寄り添えない現実に翻弄される青年もまた、懊悩を深めていくのだ。



5  昇華された「情愛」のうちに継続されていた女の拠点が崩されて



ハンナは、刑務所という閉鎖系のスポットで変容を顕在化していく。

非識字者であるという重い現実から、少しずつ脱却していく過程を開いていくのだ。


長い年月を隔てていたが、弁護士になったマイケルによって、朗読されたテープレコーダーが間断なく贈られてきたことが、その契機になった。

再び、「ロマン溢れる文学」の朗読者となった男の好意に、ハンナは、非識字者という重い現実に挑戦する意志を固めたのだ。

勇気を奮って、刑務所の図書室で本を借用し、そこに書かれている「THE」を発音しながら、文字を探っていく学習に挑んだのである。

それは、「老いの波」に抗って、そこだげが顕著に空洞化された精神の墓場に、日々の命を吹き込むことで蘇生し得る世界への全き挑戦でもあった。

そして、遂にハンナは、マイケルに拙い文字で綴った手紙を出すに至るのだ。


しかし、マイケルからの返事が来ない。

「手紙、届いた?返事を頂戴」

何度書いても、返事が来ないのだ。

当初は感謝の手紙であったものから、やがて「会いたい」という正直な思いを書いていくが、それでも返事が来ないのだ。

やがて、思いもかけない事態が出来した。

ハンナの仮出所が具現するに至ったのである。

既に、刑務所から20年の収監生活を経ていたが故に、ハンナの気持ちは複雑だった。

それでも、マイケルとの再会に全てを委ねる想いだけが、年老いた彼女の唯一の拠り所だった。

「あなたしか連絡先がないんです」

そのマイケルに、刑務所からハンナの仮出所の連絡が入って来て、彼以外に拠り所を持てないハンナの孤独の実情が訴えられ、彼のサポートを要請するのだ。

ここまで求められたマイケルは、その要請を拒めない。

彼は、ハンナの仕事先や住む場所の手配をし、彼女の出所を迎える用意だけは怠らなかった。

しかし、それはハンナとの共存を意味しなかったのである。


既に、結婚生活を破綻させ、娘との不調和な関係を僅かに継続させていただけで、実質的に家族を失っていたマイケルは、ハンナとの共存を可能にしながらも、彼はその選択肢を捨てていたのだ。

ハンナへの愛情が希薄になっていたという側面もあっただろうが、恐らくそれ以上に、彼の中になお澱む、「ハンナ体験」の負の心情が克服されていないのだ。

そして、その日がやって来た。

そんなマイケルの、初の刑務所訪問である。

彼の刑務所訪問は、重い体を引き摺っての、ハンナとの数十年ぶりの再会である。

「ハンナは以前はきちんとしてたのに、ここ数年は全てに構わなくなってしまったんです」

マイケルがハンナを訪ねた日に、女性刑務官に言われた言葉。

身の周りを構わなくなったハンナの心境変化の原因は、明らかに、マイケルからの手紙の返事が来ないことや、彼の録音テープが途絶えた現実に因るものである。

それは、彼の録音テープが連射して届けられたときのハンナの身なりが、とても初老を超えた女性の疲弊感とは無縁であった映像によって、観る者は了解するだろう。

そのマイケルを、後ろ向きに、じっと椅子に座って見て待つハンナ。

ハンナがマイケルの、些か暗鬱な表情を確認しても、彼女は笑顔を零した。

マイケルも軽い笑みを漏らすが、一瞬、顔を背ける。

「大人になったわね、坊や」

それが、ハンナの第一声だった。

マイケルは軽い挨拶をした後、ハンナの仕事と住まいを手配したことを事務的に説明するばかり。

「図書館もあるよ。本は読むんだろう?」とマイケル。
「聞く方が好き・・・それは、もう終わりね」とハンナ。
「過去のことを考える?」
「私たちのこと?」

ここでマイケルは、苛立つように言い切った。

「その過去じゃない」

マイケルの質問の意味が了解できたハンナは、一言で返した。

「裁判の前は、全然考えなかった。必要がなかった」

そこに、一瞬の「間」が生まれた。

「今は?どう感じてる?」とマイケル。

彼にはなお、「ハンナ体験」に呪縛されているのだ。

「どう感じようと、どう考えようとも、死者は生き返らない」

一見、冷淡なハンナの反応に対して、マイケルは不快な感情を乗せて畳みかけていく。

「じゃあ、学んだものは?」
「学んだわよ、坊や。字を読むことを」

この言葉に、マイケルは明らかに不満を持った。

それは、彼の中に、贖罪を求める強い感情が明瞭に存在することの感情表現だった。

このとき、彼は「死者は生き返らない」というハンナの言葉の含意を理解できていなかったのだ。

「静かに出たい?それとも、賑やかに?」

今や、こんな厭味な言葉を吐き出すマイケルが、ハンナの人格の前に立ち塞がっているのだ。

「静かに・・・」

ハンナの反応も、この一言。

彼女の気持ちが崩れ落ちるような会話は、こうして閉じていった。

ハンナには、マイケルだけが「心の拠り所」だったのだ。

マイケルへのハンナの愛情は、「形」を変え、昇華された想いのうちに継続されているのだ。

マイケルの「ハンナ体験」
しかし、マイケルの「ハンナ体験」の矛盾は、なお延長されていたのである。



6  男の語りがエンドロールにオーバーラップされて



仮出所の直前に出来したハンナの自死。

激しく動揺するマイケル。

「“古いお茶の缶にあるお金をマイケルに渡して下さい。銀行にある7000マルクと一緒に送って欲しいのです。火事で生き残った娘さんに。彼女に、その使い方を委ねます。マイケルに『よろしく』と”」

ハンナの遺言である。

ハンナのメッセージを、ダイレクトに受け止めるマイケル。

マイケルの中に渦巻く後悔の感情が、彼女の自死の現実を受容し切れないほど暴れていた。

今や、「心の拠り所」が崩れ落ちたハンナにとって、もう、自死以外の選択肢がなかったのだろう。

「静かに出たい?それとも、賑やかに?」などという、厭味な言葉を捨てられたハンナには、贖罪を求めるマイケルの強い感情を感受しているが故に、「死者は生き返らない」という認知の重量感こそ、何より看過し難い現実だったのだ。

ハンナが残した遺書には、「教会焼殺事件」の唯一の生還者であるイラーナ・マーサー母子に、古いティー缶に貯めた金銭を届けて欲しいというものだった。

ハンナが、彼女なりに贖罪に懊悩していた現実を、マイケルはこのとき、初めて知ったのである。

彼の眼から止め処なく涙が零れ落ちてきて、言葉にならない情動の氾濫に自制心を失っていた。

マイケルが、アメリカに居住するイラーナ・マーサーに会いに行ったのは、その直後だった。

古いティー缶に貯めた金銭を送り届けるためである。

以下、そのときの対話。

「ハンナは、ずっと文盲でした」とマイケル。
「それが、あの行為の説明?」とイラーナ・マーサー。彼女の母は、既に他界していた。
「いいえ」
「言い訳?」
「違います。彼女は刑務所で読み書きを学びました。僕がテープを贈りました。昔から本を読んでもらうのが好きで」

イラーナ・マーサーに二人の関係を聞かれて、マイケルは、少年時代にハンナと関係があった事実を話したのである。

「人は“収容所で何も学んだか”と。収容所はセラピー?それとも大学?学ぶものはない。それとも彼女の許しが欲しいの?自分の気を軽くしたいの?収容所は何も生まれないところよ」

これが、イラーナ・マーサーの反応だ。

このイラーナ・マーサーの言葉は、決定的に重要である。

ホロコーストの地獄を、命辛々、運良く潜り抜けて来た者には、非識字者ゆえに、「冤罪」を自ら被って、言い知れぬ苦労を繋いで来た強制収容所の看守の懊悩など、高が知れているのだ。

イラーナ・マーサーのこの物言いは、同様に、「ハンナ体験」で懊悩するマイケルの心情風景をも相対化し切る決定力を持ち得ていたのである。

ハンナの自死からイラーナ・マーサーとの会話によって、一切が相対化されることで、男の自我にプールされていた澱みが、未来の時間を繋いでいくのに不必要に累加されていた分だけは、少なくとも浄化し得たと言えるだろう。

ラストシーン。

自分の過去を娘に語る男の語りが、エンドロールにオーバーラップするのだ。

この物語は、娘への語りを経由して、悲痛な「愛」と「情」と「贖罪」、そして「魂の浄化」に関わる映像だったのである。




7  女の自我の拠って立つ安寧の基盤としての、男との関係の継続性 ―― まとめとして①




非識字者ゆえに、「事務職昇進」という「美味しい話」から逃亡し続けていた女が、文字なくして入り込めない、「ロマン溢れる文学」の世界と睦み合う欲望を満たすには、心理的関係において、劣位に立つ者に朗読させるという行為以外になかった。

それは、服務に忠実で精勤ゆえに、「事務職昇進」の機会が増えるという、自家撞着に陥る女の宿命だったのだ。

そんな女が、アウシュビッツ強制収容所の看守という職を得て、若い女囚たちを朗読者に命じていく。


それは殆ど、女囚たちがガス室送りになるまでの消費でしかなかった。


ナチスドイツの敗戦によって、女のささやかな夢が砕かれて、女は「ロマン溢れる文学」との睦みの関係を枯渇させ、精神の潤いを満たす何ものもなかったとき、一人の少年が、女の「蜘蛛の網」に引っ掛かって来た。

女は自分の肉体を提供する代りに、少年を優れた朗読者に仕立て上げるつもりだったのだ。

自分の全人格を預けて来る少年の「性愛」への欲求に、積極的に反応できる感情が女の中でも等分に形成された頃、女は再び「逃亡者」となっていく。

「事務職昇進」という厄介なテーマが、依然として、女を苦しめ続けるのだ。

「ロマン溢れる文学」への思いが昂じれば昂じるほど、女にとって、非識字者というコンプレックスのアポリアが加速的に肥大していくのである。

コンプレックスとはそういうものだ。

因みに、吃音で悩んだコンプレックスについて、あるブログから引用してみる。

「私は、吃音に強い劣等感を持ったために、吃音をとても恥ずかしい、みじめなものと思い続けていました。だから、他人に吃音がばれるのが、大げさに言えば、死ぬほど嫌でした。自分の吃音を隠したい、吃音がばれるのが、高校生の当時の私には、一番辛いことでした。だから、何にもまして、吃音を隠すことが優先されました」(「伊藤伸二の吃音(どもり)相談室」より転載)

「他人に吃音がばれるのが、大げさに言えば、死ぬほど嫌」という気分にさせるほどに、コンプレックスの問題は激甚な破壊力を持っているということだ。

それを意識すればするほど、それが露わになることを恐れるあまり、それを封印しようという「防衛機制」が働いてしまうからである。

あろうことか、その「防衛機制」が極限値に達したとき、女は、自らを無期懲役の戦争犯罪者に振れていく「けもの道」を選択してしまったのだ。

闇が広がる世界の中で、思いがけない行為が、女の狭隘な世界に投入されてきた。

今や壮年となっていた、かつての少年からの朗読テープが、次々に刑務所内に贈られてきたのである。

絶対に知られたくない自分の秘密を、唯一、共有したと信じる男からのテープの贈り物は、既に心理的関係において劣位に立たない者からの行為であったが故に、女が感受する愛情の稜線が存分に伸ばされていく。

女にとって、その男以外に存在しない、「唯一の他者」との公平な関係を構築するに至ったのである。

そこで得た至福によって、女は見る見るうちに変容していく。

このプロセスは、女が封印していたホロコースト加担への贖罪の道を開くに至ったと考えられる。

元より、女の自我のうちに、ホロコースト加担への贖罪の意識が、その後の女の人生に決定的な影響を与えるトラウマになっていたとは思えない。

しかし、強制収容所の女囚を使って、「ロマン溢れる文学」を代読させていた行為の深層には、「見える残酷」としてのホロコーストの現実から逃避する含みが横臥(おうが)していたという、所謂、「精神分析」の所見もまた充分に可能だろう。

それにも拘らず、女が非識字者であった個人史的現実の重量感の方が、女にとって何より深刻なものだったはずだ。

女は常に、人に絶対に言えないコンプレックスの故に、心の扉を閉ざし、他人とのクロスも極めて限定的であったに違いない。

しかも、非識字者であるということは、政治社会状況を相対化する程の能力において決定的に欠如していたということを、充分に想起させる何かであった。

「時の政府」の「戦時下の政策」のプロセスに全く関与し得ないという意味で、「普通のドイツ人」の感覚の範疇を超えない女だったが、何より彼女は、いつの時代でもそうであるように、「普通の庶民の感覚」で時代状況のうちに搦(から)め捕られていただけではなく、寧ろ勤勉に職務を全うする、ある種のドイツ人の典型であったと言えるのだ。

だから女が、その自我のうちに、拠って立つ安寧の基盤を崩されるほどの「贖罪感覚」を保持していたとは考えられないのである。

今や、男との関係の継続性のみが、女の自我の拠って立つ安寧の基盤であったのだ。

それが、女の悲劇の根源に横臥(おうが)していたのである。



8  「あなたなら、どうされます?」 ―― 残響音のエネルギーを執拗に消しにくくさせた、観る者への根源的な問い ―― まとめとして②



獄に繋がれた女との物理的距離に置かれた青年は、ギムナジウムを経て、新生国家で求められるべき、法律家としての知的レベルにまで達していた。

「まず、理解すべきである」

青年時代の男の言葉である。

この彼の言葉は決定的に重要である。

常に、彼がこのモットーを実践してきた訳ではないだろうが、それでも、アウシュビッツ強制収容所を見分してきた彼にとって、「性愛」の情動から解放されても、「形式的援助感情」を繋ぐ心的プロセスの中で、ホロコースト関与への贖罪という観念を、上辺だけのヒューマニズムで希釈化させる訳にはいかなかったのだ。

そんな男と、非識字者である女との知的関係の落差は、彼らの「ひと夏のハネムーン」を「過ぎ去った過去」の時間にさせるほどの距離感を露わにしていたのである。

しかも、「ハンナ体験」という「絶対経験」の中で懊悩し、保身に走る防衛的な男にとって、女の存在は、自分の精神を焼き尽くす厄介な存在となっていた。


女に対する男の基本感情の本質は、既に「形式的援助感情」と言うべき何かであって、二人の関係に横臥(おうが)する障壁を突き抜ける強靭さと継続力を持ち得ていなかったのだ。

このことが理解できない限り、私たちは、この男に対する冷笑的な見方を捨てられないに違いない。

男は充分に苦しみ、自分の「使命」を充分に果たし、女のサポートを充分に繋ごうと努めていたのである。

そんな男を、単純なモラルの視座で指弾する物言いに対して、私は敢えて問いたい。

「あなただったら、どうしたか?」と。

そして、男を厭悪(えんお)する根拠となった、以下の言葉。

「何を学んだのか?」

女に放った、男の挑発的言辞だ。

男のこの言葉に、観る者は過剰に囚われ過ぎていないか。

男にとって、その言葉のうちに集約されている懊悩こそが、幸薄き彼の曲折的な人生の中で、簡単に看過できない感情のプールされた澱だったのだ。

このような複雑な心情の厄介な交叉の中で、私たちは人生を繋いでいるのである。

ハンナからの手紙に全く反応しない男が、彼女からの手紙を引き出しの中に、足で無造作に押し込むシーンを見ても判然とするように、そこには、女に対する「性愛」どころか、「愛」という名で呼ばれる感情をも劣化させていた心象風景が読み取れるのである。

そんな男が「形式的援助感情」のみで、女と深い精神的睦みの関係を再構築するのは不可能であったと言っていい。

彼の中に、「ハンナ体験」が塒(とぐろ)を巻いていて、それがいつも肝心なところで、「ホロコーストに加担した女」への否定的感情を突沸(とっぷつ)させるのである。

一貫して変わり得ない男の心象風景が、「何を学んだのか?」と挑発する鋭角的な攻撃性を具現させたのだ。

この言葉を吐かせた作り手のリアリズムこそ、人間が複雑な観念系や情感系の様々な葛藤の中で、何とか呼吸を繋いでいることの証左であると言っていい。

これが分らない限り、その根柢において、この映画を理解することはできないだろう。

登場人物への感情移入の有無だけで、映像の価値を決める浅墓さから突き抜けることは難しいのだ。

「まず、理解すべきである」

極めて単純だが、人間が対象人格や状況に対峙するとき、この言葉に勝る概念は存在しないのである。

男の生来の、過剰な防衛的心理に触れてしまった女は、既に、「ロマン溢れる文学」のキーワードであった文字の命脈を獲得していたにも拘らず、「第二の人生」に踏む出すことを自己否定するに至ったのである。

それが、女の悲劇の全てであると言っていい。

女の自死によって、女の内面に贖罪意識が形成されていることを、男は初めて知るに至ったのだ。

ホロコーストの生還者(教会焼殺事件の唯一の生還者である、イラーナ・マーサー母子)への金銭の遺贈という行為は、「死者は生き返らない」と語った女の、それ以外にない贖罪行為だったのである。

男は、この事実を目の当たりにして慟哭する。

それは、男の中で、「ハンナ体験」が止揚されていくプロセスが開かれた心的現象を物語るものだった。

女の悲劇は、男の心の重石を軽減させたのである。

まもなく、男はアメリカに旅立ち、ホロコーストの生還者に女の遺贈金を届けに行くのだ。

既に、母を喪っていたイラーナ・マーサーは、思いがけない男の訪問に違和感を覚えた。

それでも男は、女と共有していた「秘密の過去」を告白する。

そこで、イラーナ・マーサーから、女と共有していた「秘密の過去」を末梢的な記憶として、確信的に相対化されたのである。

この張り詰めた空気の中で、漸く男は、澱んだ自我に累加されたものの浄化の契機を手に入れたのである。

女の自死から、イラーナ・マーサーとの会話という一連のシークエンスを通して、男を長く呪縛していた「ハンナ体験」を、その根柢において浄化し得たと言えるだろう。

このシークエンスの直後に開かれた、父娘との対話。

娘への父の告白は、「ハンナ体験」に搦(から)め捕られていた男の曲折的自我によって、自らの家庭まで自壊させていく程の、その「負性の時間の集積」の澱みを払拭し得ることで、少なくとも、男が老後を生きる時間への熱量を自給する価値だけは保証していたであろう。

そういう物語だった。


スティーヴン・ダルドリー監督
そして、この二人の登場人物に存分に懊悩させることによって、本作の作り手は、ホロコーストを個人の「犯罪性」の問題にのみ還元させず、人類史の中で共有する重大な記憶として、印象深い映像のうちに鏤刻(るこく)したのである。

「言い換えれば、こういうことだね。収容場所を作るために、“あなたとあなたは死ね”と」

裁判長が存分の厭味を込めて、こう言い切ったとき、ハンナは咄嗟に切り返した。

「あなたなら、どうされます?」

それが反転したとき、観る者への根源的な問いとなって、残響音のエネルギーを執拗に消しにくくさせていったのである。

(2011年5月)

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