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2011年7月27日水曜日

運命じゃない人('04)     内田けんじ


<類稀なるパーソナリティの給温効果を持つ、「全身誠実居士」のラブストーリーという物語の基本骨格>



1  〈状況〉に投入された主体の感情や行為の無秩序な集合という、様々に交叉する人間学的事象の構造




本作が、かつて、そこに張り付いていたであろう幾許(いくばく)かの付加価値が脱色され、差別化特性を失うことでコモディティ化されつつも、なお文化的継続力を保持する、「映画」という格好の快楽装置を、今や、この国のインディーズ映像の代表格である PFFスカラシップによる、ニューバージョンのキラーコンテンツとしてフル稼働させて、パズルゲームを愉悦するだけの、単なる「面白いだけの映画」のカテゴリーをほんの少し突き抜けたという印象を受けるのは、リアルな会話や軽妙な遣り取りに象徴される、精緻に練られた構成力によって圧倒され、殆ど見えにくい辺りにまで後退したとは言え、それでも余命を繋ぐに足る「主題性」を拾えたからに他ならない。



本作の「主題性」とは、こういうことだろうか。

内田けんじ監督
即ち、〈状況〉を作り、〈状況〉に支配される人間にとって、その〈状況〉で交叉する様々な人間学的事象の構造は、そこに投入された主体の感情や行為の無秩序な集合であり、その主体によって反転された視座は、反転された者の視座を相対化し、無化する重層的な世界を作り出してしまうということである。

複数の主体が、2000万円の贋金を巡って、それぞれの思惑で交叉した「全身世俗」の〈状況〉を、近年のムービーシーンで流行りの、それぞれの主体が関与する時系列を自在に往還させながら構築された物語が示唆するものは、言わずもがなのことだが、四次元の時空で人格的に最近接していても、思考や思惑や感情・行動傾向が、「予定調和」の絶対ラインに収斂されるという秩序を保証し得ずに、その様態の逢着点の見えにくさだけが露わになってしまうこと以外ではないのである。

その関係がどれほど親密であったとしても、相互に情報を共有することは容易でも、感情ラインまでも共有することなど不可能であるということだ。

ついでに言えば、相互に最近接する関係が、それを濃密なものに昇華させていくには、相手の思いを忖度し、心理的距離を相対的に縮めていくことで、「共有感」とか、「一体感」とかいう、得(え)も言われぬ幻想を抱懐するに至るのである。

この幻想なしに人生を繋げない脆弱さこそが、自我で生きる私たちホモサピエンスの宿命であるということなのだろう。

〈状況〉を作り、〈状況〉に支配される人間によって投入された、主体の感情や行為の無秩序な集合という人間学的事象の構造こそ、人間がズブズブのアナキズムの世界に流れ込んでいかない決定的な根拠であるに違いないのだ。



2  類稀なるパーソナリティの給温効果である、「全身誠実居士」のラブストーリーという物語の基本骨格



「全身誠実居士」の宮田(右)
複数の主体が、それぞれの思惑で交叉した、「全身世俗」の〈状況〉を超絶的技巧で表現した、そんな本作の中で、芯となっている物語の骨格は、それ以外にあり得ない、主人公である「全身誠実居士」の宮田と、彼が偶然に出会った、失恋の痛手で世を儚(はかな)む女性、真紀との微妙な交叉の物語であったと言っていい。

男に裏切られた女である真紀の悲哀のカットに始まって、「全身誠実居士」の男を裏切った悔いを引き摺る女である件の真紀が、詐欺師の女のバッグから掠め取った金を返戻するために、「謝罪の訪問」をするラストカットで括られる物語を収斂させたもの ―― それは、「運命じゃない人」の「全身誠実居士」が放った、「地球人」離れした、類稀(たぐいまれ)なるパーソナリティの給温効果であった。

この二人の、「予定調和」のハッピーエンドを印象付ける、僅か90分の映像の括りに至るまで、そこに交叉した特定他者たちとの、「全身世俗」丸出しの曲折的な展開のうちに、まさに、それぞれの思惑で動く人間学的事象が拾い上げられていて、主要登場人物が5人に限定された物語の中でも、かくまで重層的に交叉する現実を検証するものだった。

その中でただ一人、親友の探偵屋である神田に、「早く地球に住みなさい!」と言われても、その誠実な人生の自己運動を変容できない男だけが、自らを囲繞する状況に殆ど関与することなく、昨日もそうであったように、今日もまた真摯な人生を繋いでいくというオチによって、却って、「地球人」である他者たちの滑稽な振舞いを相対化する静かなパワーを秘めていたとも言えるだろう。

ヤクザの組長
何しろ、この「全身誠実居士」だけが、ヤクザの組長の見栄の産物である、2000万円の贋金を巡る、ドロドロの「全身世俗」の〈状況〉から解放されていたのである。

だから、この精緻に練られた映画のツボは、「全身世俗」の「地球人」になることに自我アイデンティティを見い出せない男の「変わらなさ」のうちに、観る者の感情移入を可能にする人物造形にあったという外にない。

ここに、興味深い会話がある。

「全身誠実居士」の宮田と、「全身世俗」の探偵屋である神田との、レストランでの会話である。

「ナンパに行こう」と神田。
「大学生じゃないんだからさ」と宮田。
「大学生じゃないんだから、行くんだよ」
「できる訳ないだろう。いい年して」
「じゃあお前、これからどうやって女の子と知り合うんだ。お前は未だに人生に期待しちゃってんだよ。これからも普通に生活していれば、いつか誰かと出会うだろう。素敵な女の子が現れるんじゃないかな。まさか、ずっと一人ってことはないだろうな、ってな。漠然と、高校生みたいに。いいか、はっきり言っとくぞ。30過ぎたら、運命の出会いとか、自然な出会いとか、友達から始まって、徐々に惹かれ合ってラブラブとか、一切ないからな。もう、クラス替えとか、文化祭とかないんだよ。自分で何とかしないと、ず~っと独りぼっちだぞ。絶対に。ず~っと。危機感を持ちなさいよ、危機感を」

「全身世俗」の探偵屋・神田(左)
かくて、「運命の出会い」を待ち続ける宮田に発破(はっぱ)をかけた流れの延長上に、後ろに座る女性(=真紀)を誘った挙句、自らはヤクザに追われて逃避行を決め込むが、あえなく頓挫する神田の口利きによって、偶発的な出会いを具現する「全身誠実居士」と、失恋の痛手で世を儚む真紀との、「運命じゃない」ラブストーリーもどきの関係が開かれたのである。

要するに、本作の主人公は、この決定的な出会いによって、「運命じゃない人」の人為性に左右されることなく、その半生で積み上げてきた、「全身誠実居士」の放つパーソナリティの給温効果によって、一度は自分を裏切った女の、暗鬱な彩りに染められた心の歪みを悔悛させる行為を導き出すに至ったのだ。


それ故に、件の「全身誠実居士」は、彼の親友である探偵屋の、この闇雲な突破精神を無化し得る人生のプロセスを切り拓いて見せたのである。

それでも、二人の「運命」の出会いを印象付けるシーンが、本作の冒頭とラストの中に拾われていた。

まず、失恋の袈裟斬りにあった、ファーストシーンでの真紀のモノローグ。

「知らない星に、独りぼっちでいるみたいだ。独りで生きていかなきゃいけないんだ。この星で。独りで」

次いで、ラストシーンでの神田の言葉。

「お前は一人だけ、違う星に住んじゃってるな、早く地球に住みなさい!」

 この二つの重要なカットが、違う星に住む二人の、「運命」の出会いを必然化する印象を与えていたのである。

「全身娯楽」のヒューマンファンタジー・ムービーとして、本作を観るとき、限りなく偶発性に依拠することで、「展開のリアリズム」がコメディーラインに収斂されるものの、この映画の基本骨格が失恋者同士のラブストーリーであることが判然とするだろう。

(2011年8月)

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