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2011年10月9日日曜日

隠された記憶('05)    ミヒャエル・ハネケ


<メディアが捕捉し得ない「神の視線」の投入による、内なる「疚しさ」と対峙させる映像的問題提示>



 1  個人が「罪」とどう向き合っているかについての映画



 「私たちはメディアによって操作されているのではないか?」

 この問題意識がミヒャエル・ハネケ監督の根柢にあって、それを炙り出すために取った手法がビデオテープの利用であった。

 覗き趣味に堕しかねないビデオテープを、「メディアの真実性を問う」ツールとして巧みに活用し、ミステリー映画として立ち上げることで生み出したものは、今や、「何を伝えたか」という視座ではなく、「何を伝えなかったか」という鋭利な視座が問われている、高度な科学文明の現状を包括している状況を見れば、既にメディアの欺瞞性を問うというテーマの帰趨が鮮明化されている事態をも超えて、ビデオテープによって捕捉された対象人格が、ごく普通に遣り過ごしている虚飾と欺瞞の意識体系の奥深くに封印する「闇の記憶」であった。

 それは、テレビ局という代表的なマスメディアに勤める、人気キャスターの家屋の外貌が、一台の定点カメラで映し出される冒頭のシーンによって開かれた物語の中で、じわじわと執拗に炙り出されていく。

 同様に出版社というメディアに勤務する妻を持つ、件の人気キャスターの心中で封印している「疚しさ」を、「闇の記憶」から炙り出し、追い詰めて、相対的に安定した日常性を破綻させていくのだ。


 それに近い同義の文脈を持って、ミヒャエル・ハネケ監督(画像)は語るのである。

 然るに、その〈生〉の包括的な内実の中で、そこに様々な意識の有りようの差異があろうとも、「疚しさ」を持たない人間など、果たしてどこにいるだろうか。

 私自身のことを考えても、それが「犯罪」でなくとも、封印したい「疚しさ」の記憶が少なからずある。

 それらは、人間の脳の基本的機能の一つである、「記憶」として鮮明であるものが大半だから、張り巡らせた防衛機制によって、単に個人的問題の軽微な何かとして処理され、現在の〈生〉を脅かすに足るものになっていないだけである。

 その意味で、「疚しさ」の希釈化の問題は、意識の内部で惹起した矛盾を、「認知的不協和理論」などで合理化する自己防衛機能の発現であることと同義の文脈であると言っていい。

 ただ、この「疚しさ」が、個人的問題の軽微な何かとして処理されない毒性を持ち、じわじわと現在の〈生〉を脅かしていったらどうなるか。

 ハネケ監督は、まさにこの類の「疚しさ」が内包する問題に注目し、それをミステリーの体裁を仮構する戦略的映像のうちに立ち上げたのである。

 
ファーストシーン
何より、ハネケ監督にとって、この類の「疚しさ」 が内包する問題とは、「個人の罪と集団(国家)の罪が重なり合う事態」となったときに惹起された心の攪乱であり、それによる、拠って立つ自我の安寧の基盤の破綻の問題でもあった。

 「先進国で生きるわれわれは絶対に後進国や貧しい人々を犠牲にして高い生活水準を保っている」ことの罪悪感を、ハネケ監督は厳しく問うのだ。

 然るに、「政治的なメッセージを込めた映画」を嫌うハネケ監督は、その由々しきテーマを、いつものように、「個人が『罪』とどう向き合っているかについての映画」に変えていく。

 人間の心理学的洞察に抜きん出たハネケ監督には、その得意分野を駆使した手法が最も有効性を持ち得るのだろうが、それにも関わらず、豊かさを占有することに鈍感過ぎると断じる先進国の既得権者(豊かな中産階級者)たちに対して、最低限の「疚しさ」を感受させ、その意識を極限まで突き詰め、己が〈生〉の根源的問題のうちに反芻させることによって、自足的な既得権を持ち得ない後進国の人々が捕縛されている様々な困窮の問題の、その負のイメージを炙り出していくという本作の物語構成それ自身が、既に、鋭利な政治的メッセージになっている事実だけは認知せざるを得ないのである。

 
その辺りに、典型的な階級社会であるフランス等の国家に呼吸を繋ぐ、一部の知識人たちの憤怒を感じ取ることができるだろうが、格差の弊害が指弾されつつも、件の階級社会の袋小路の状況性から相対的に解放され、「パラダイス鎖国」の如き印象をなお脱色し得ない、我が国に呼吸を繋ぐ大方の人々から見れば、ハネケ監督の憤怒の熱源の有りように想像力が及ばないのもまた、由々しき現実であるのだろうか。

 それ故にこそと言うべきか、ハネケ監督は、ポップコーン・ムービーの乗りで自作を観る者たちへの、適度な警鐘を打ち鳴らす「悪意」を存分に込めて、このような厳しい映像を突き付けてきたに違いない。

 従って、適度な警鐘を打ち鳴らされたであろう鑑賞者は、このような映像作家による、このような厳しい映像と向き合うとき、何よりも、作り手の基幹の主張と、肝心のマスメディアの多くがスル―しかねない、その背景となっている時代の見えにくい風景への最低限の情報の確保による理解・把握が、切に求められるのもまた否定できないのだ。

 それなしには、本作で描かれた主人公の「疚しさ」の根源的問題に迫り得ないだろう。

 そう思わざるをない映像を、ハネケ監督は構築したのである。

 では本作において、「集団(国家)の罪」とは、具体的に何を指しているか。

 以下、この由々しきテーマを包括させながら、どこまでも、「疚しさ」に関わる、主人公のジョルジュの内面の振幅の様態に焦点を当てた物語を追っていこう。



 2  攻撃的に張り巡らしたつもりの、防衛機制のバリアの空洞感が露わにされた醜悪さ その①




 差出人不明のビデオテープが届く事態に不安を募らせていく、テレビ局の人気キャスターの夫と、出版社に勤務する妻。

 夫の名は、ジョルジュ。

 妻の名は、アンヌ。

 そこに送付されていた、子供が血を吐く拙い絵。

 更に、今や介護者と共に暮らす実母が住む、ジョルジュの生家を写すビデオテープが届くに及んで、ジョルジュは忘れていた遠い昔の記憶を想起する。

 そのビデオテープと共に送付されていた拙い絵に描かれていたのが、鶏の頸を切って、鮮血が迸(ほとばし)るものだったからだ。

 生家に出向くジョルジュ。

 自慢の息子の珍しい訪問を歓迎しながらも、深刻な事情を察知した母は直截に聞いていく。

 「どうしたの。悩みでもありそうだね?」
 「何でもないよ」

 映像で初めて見せるジョルジュの穏やかな表情には、最も聞きたいことがあっても、母に心配をかけまいとする配慮が窺えるのだ。

 「どこか変だよ。心配になってきた。話してごらん」
 「何でもないよ」

 結局、近況報告に終始した母子の会話だった。

 最も聞きたいこと ―― それは、6歳のとき、養子にしていたマジッドについてのことである。

 養子にしていたマジッドを孤児院に送り込んだ過去が、差出人不明のビデオテープの事件に絡んでいると確信したから、ジョルジュは生家に出向いて来たのだ。

 「思い出したくもないね」

 母の一言で、息子はマジッドの件に触れずに話を切り上げ、眠りに就いた。

 その夜、悪夢を見て、うなされるジョルジュ。

鶏の頸を切断した一人の少年が、傍にいた別の少年に斧を手に向ってくる悪夢である。

 前者の少年がマジッドであり、後者の少年がジョルジュであることは、やがて物語の中で判然とするが、ここでは、「過去の忌まわしい記憶」に呪縛されているジョルジュの恐怖の片鱗が描かれているだけだった。

 帰宅したジョルジュが、次に送られたビデオテープを、妻のアンヌと共に見ている。

 これが、その直後の映像だ。

 今度は、ストリートと集合住宅が写されたビデオである。

 警察に相談しようという妻の意見を擯斥(ひんせき〉して、「思い当たる人がいる」と答えるジョルジュ。

 彼は、その集合住宅の部屋にマジッドが住んでいると確信しているのである。


 しかし、妻にも言えない秘密を持つ彼は、肝心な情報を共有できない妻との間に隙間ができ、これが夫婦の信頼関係の破綻に繋がっていくが、彼には自分の中でのみ封印せねばならない秘密を、なお隠し込んでおく必要があったのだ。

 翌日、彼はその集合住宅に出向いて行った。

 「驚いたな」と部屋の住人。
 「君は誰だい?」とジョルジュ。

 訪問者であるジョルジュが相手に尋ね、尋ねられた相手が訪問者を特定したのである。

 「何が望みだ?金か?」

 途方に暮れるような攻撃性に、言葉を失う部屋の住人。

 それには答えない部屋の住人=マジッドは、逆にジョルジュに問い返した。

 「よく俺を捜し当てたな?」

 ジョルジュも、それには答えず、「この悪だくみの目的は?」などと畳みかけていく。

 「何のことだか分らない」とマジッド。

 相手の反応によって、既に相手がマジッドであることを確信したジョルジュは、その相手にいきなり、ぶしつけな発問を加えるばかりの不毛な時間が流れていく。

 会話が成立しないのだ。

 
マジッドとジョルジュ
マジッドに例の拙い絵を見せて、相手の反応を窺うジョルジュ。

 そのジョルジュに、マジッドは、自分の思いを静かな口調で語るのだ。

 「いつかはお前に会うと思ってた。俺が死ぬまえにな・・・偶然、テレビを見たんだ。数年前だ、ゲストたちと椅子に座り、顔を近づけて、連中と話していた。確信はなかった。だが、不快な気分になった。不思議だよな。訳も分らず、吐きたくなった。最後に名前を見て、理解できた・・・お前から何を盗ると言うんだ。突然来て、俺が脅迫してると言う。昔と同じだな」

 40年ぶりに会って、相手にそこまで言われても、脅迫を止めろという反応しか返せないジョルジュ。

 最後まで、会話が成立しないのだ。

 相手が金銭目当てで脅迫してくると一方的に決めつけ、自分の思いのみを押し付ける男だからこそ脅迫されるに足る偏見居士であるという、歪んだ自我を自覚し得ない脆弱性が、そこにたっぷりと曝されていた。

 それは、攻撃的に張り巡らしたつもりの、防衛機制のバリアの空洞感が露わにされた醜悪さであると言っていい。



 3  攻撃的に張り巡らしたつもりの、防衛機制のバリアの空洞感が露わにされた醜悪さ その②



 まもなく、ジョルジュとマジッドだけしか知り得ない、このときの二人の会話のビデオテープが送られてきた。


 そこでは、ジョルジュが去った後に、マジッドが嗚咽するカットが添えられていたのだ。

 このシーンが演技ではないことを指摘する妻のアンヌは、この事実を隠していた夫を責め立てていく。

 「一体、何があったの?」

 ここで、観る者はアンヌに感情移入するだろう。

 それほど、マジッドの嗚咽のカットは観る者の心を揺さぶるからだ。

 BGMなしの、たった一つのカットの挿入が、ミステリー仕立ての映像の空気を変える力を持ってしまうのである。

 その辺りのハネケ監督の力量に、驚かされることもない。

 既に私たちは、「ファニーゲーム」(1997年製作)における、約9分間に及ぶシークエンスに及ぶ長廻しの中で、「クローズドサークル」(出口なしのミステリー)の極限状況に捕捉された夫婦の心理描写の、その圧倒的なリアリティに最近接する「虚構の映像の破壊力」の凄みを知っているからだ。

 物語に戻る。


 観念した夫は、妻に、マジッドとの関係について吐露していく。

 「彼の両親が家で働いていた。働き者だったよ。61年10月17日、民族解放戦線がアルジェリア人にパリでのデモを呼び掛けた。当日、警視総監のパポンは、約200人のアルジェリア人を溺死させた(注)。マジッドの両親も2度と戻って来なかった。パパが捜しに行くと、“黒いのがいなくなって喜べ”と言われたとか」
 「それから?」とアンヌ。
 「マジッドを養子に迎えることになった。理由は知らない。責任を感じたんだろう」
 「それから?」とアンヌ。
 「僕は家に入れたくなかった。でも、6歳の僕と同じ部屋に住んだ」
 「彼に何をしたの?」
 「嘘を告げ口しただけだ」
 「ご両親に?」

 肯くジョルジュ。

 「それだけ?」
 「ああ」
 「それが復讐の遠因?」
 「そのようだ」

 ジョルジュの妻への最初の「告白」である。

 しかし、事態は更に暗転していく。

 息子のピエロの家出騒動が出来したのである。

 これをマジッドによる誘拐事件と断定したジョルジュは、警察に連絡し、マジッドが住む集合住宅に赴き、そこにいたマジッドと、彼の息子を逮捕する事態に発展したのである。

 拘留されて、大声で喚き続けるマジッド親子。

 事態が容易に収束し得ないこの夜、思わず、ジョルジュは、一人で嗚咽する。

 ジョルジュの自我もまた、クリティカルポイントに達しつつあるのだ。

 彼のみが、その内側で必死に秘匿し続ける、過去の暗い記憶に耐え切れなくなったのである。

 
「アルジェの戦い」より
翌朝、友人の母に伴われて、ピエロは帰宅する。

 まもなく、ピエロの家出騒動は終息するに至る。

 親に内緒で、友人の家に無断外泊していたのである。

 一連の盗撮騒動によって3人家族に亀裂が入り、感じやすい思春期のピエロが起こした偽装家出だった。

 何より由々しきこと ―― それは、マジッド親子が「誘拐事件」とは無縁だったという事実である。

 そして、マジッド親子を拘留した警察と、彼らの逮捕・拘留を求めたジョルジュの差別意識が顕在化されたのである。

 この一件は、最も忌まわしい事態を出来させるに至る。

 マジッドがジョルジュを呼び出したのである。

 「何のつもりだ?」とジョルジュ。

 相変わらず、防衛機制のバリアを攻撃的に張るだけの男が、そこにいる。

 「私とビデオは関係ない。お前にこれを見せたくて呼んだ」

 そう言うや、剃刀で自分の喉笛を掻き切って、その場に斃れるマジッド。

 一瞬の出来事だった。

 血飛沫(ちしぶき)が鮮血の赤に染めていく小さなスポットで、その場で立ち竦んで、放心状態のジョルジュ。

 夜の街を彷徨(さまよ)い、深夜に帰宅するや、ジョルジュは寝室に籠ってしまう。

 客がいることを知って、妻に連絡した。

 「客を追い返してくれ。寝室にいる。恐ろしいことが起きた」

 灯りを消した寝室で、客を返した妻を待つ。

 その間、殆ど静音状態。

 妻が入室して来た。

 灯りを点けた妻に、再び消灯させた。

 マジッドの自殺について話す夫。

 動顛(どうてん)する妻。

 「彼に何をしたの?」

 二人の関係の根柢にあるものを、今度こそ、妻は問い糺(ただ)すのだ。

 観念したジョルジュは、妻アンヌへの、事の真相に触れた「告白」が開かれたのである。

 ジョルジュの、誰にも語ることなく秘匿し続けた、真相の「告白」。

 言うまでもなく、6歳のときの「マジッド追放」の顛末の真相である。

 「血を吐いた、とママに言った。信じなかったよ。一応医者に診せたが、何でもない。老いぼれのじいさんで、掛り付けの医者だ。今度は奴に、パパが鶏を殺せと言ったと嘘を。怒りっぽい鶏で、いつも僕らに向かってきた。それで奴が、首を刎ねて殺した。胴だけで刎ねていた。僕を怖がらせたと告げ口した。だから、喉を裂いたんだ。イカれたユーモアだよ・・・」

 決して忘れ得ない顛末の記憶を封印していたはずの男の自我が、闇のスポットで怯(おび)え、震えているのだ。

 ジョルジュの内面の振幅の様態は悲哀にも見え、内面的に追い詰められたエゴイストの煩悶のようにも見えるが、一貫して変わらないのは、攻撃的に張り巡らしたつもりの防衛機制のバリアの空洞感が露わにされた醜悪さだが、それが、このような立場に置かれた者の振舞いの中で、益々曝され続けていくのである。


アルジェリア独立戦争(イメージ画像・ウィキ)

(注)この事件は、アルジェリア戦争下の仏のパリで、1961年10月17日、アルジェリア民族解放戦線(FLN)が行ったデモを解散させるにあたって、フランスの警察がパリに住む約200人のアルジェリア人を虐殺した事件のこと。詳細は以下の通り。

 「多数のアルジェリア人がフランス警察の銃撃を受け、それを逃れようとする多くの人が、セーヌ川に身を投げて亡くなりました。また数多くの人が、フランスの拘置所で虐待を受けて命を落としました。フランス司法省、パリ市警察、パリ検察庁の公文書保管所の資料によれば、1961年10月17日の夜、200人のアルジェリア人が死亡、200人が行方不明となった他、およそ1万2000人が逮捕されました。逮捕されたアルジェリア人のうち、2000人は、当時フランスの植民地下にあったアルジェリアの収容所に送られました。この事件の後、当時の内務大臣は、こともなげに、『パリでの衝突の死者は3人、負傷者は64人だった』と発表したのです。

 フランスのメディアは、この事件に関する報道を禁じられ、その後30年間、フランス政府はこの事件に関する全ての資料を未公開のまま保管し続けましたが、1991年、フランス人作家ジャン=リュック・エノディが、この事件に関する本を出版しました。この本の中で、エノディは、パリに住むアルジェリア人の大量虐殺に関する事実を明らかにしました。アルジェリアの歴史家は、この事件について、『これは政府による組織的な犯罪で、全ての国際法規を無視したものだった』と語っています。多くのアルジェリア人は、この事件が、アルジェリアの独立を早めることになったと考えており、この事件の数ヵ月後の1962年1月、アルジェリアは独立を果たしました。

 
アルジェリア独立戦争(イメージ画像・自費出版のリブパブリのブログより
現在、アルジェリアの人々は、フランスに対し、この犯罪への謝罪を求めています。しかしフランスのサルコジ大統領は、このような要請を拒否すると共に、『祖先がしたことを、現代の人間が謝罪する必要はない』としています」(「IRIB WORLD SERVICE 2010年 10月18日 エレクトリーク解説員」)(画像は、1961年1月、アルジェリア戦争下の「バリケードの1週間」)



 4  重苦しくも、そこから抜け出すことが困難な「クローズドサークル」の心理劇のインパクト



 マジッドの息子がテレビ局に訪ねて来た。

 しかし、長身の青年と話し合おうとしないジョルジュ。

 益々曝され続けていく、内面的に追い詰められたエゴイストの醜悪さ。

 ジョルジュの態度に不満を持ち、マジッドの息子はエレベーターに乗り込み、その狭隘なスポットで、ただひたすら対象人格を睨み続けるのだ。

 異様な空気が漂っても、身体暴力を加えないマジッドの息子の鋭利な凝視が、無言の圧力となって、気の弱い男の自我を食い潰そうとしているようだった。

 因みに、入念な準備を重ねて臨んだという、ステディカム(カメラの手振れを防御する装置)使用による、このエレベーター・シーンの映像表現の中で、ハネケ監督が狙ったのは、一連の事件に深く関与していると決め付ける対象人格から攻撃的に睥睨(へいげい)され、圧倒されるジョルジュの心理の捕捉であるが、この表情がミラーに映し出されるショットの迫真性は抜きん出るものがあった。

 既に、二人の心理的権力関係は、このエレベーター内の閉塞した狭隘なスポットの中で形成されていたのだ。

 その直後の映像は、執拗に食い下がる長身の青年の存在に迷惑がったジョルジュが、青年をトイレに呼び出して、「ビデオを送るのは止めろ」と言うばかりのカット。

 一連の事件の中で最も肝心な対象人格と対峙し得ないばかりか、必死に退路を探る防衛的心理が曝されて、男の脆弱さが際立ってしまったのである。

 「僕じゃない。あなたが僕の父の教育の機会を奪った。施設で育った父が僕を育ててくれた。あなたのお陰で」

 それが、長身の青年の反応だった。

 
「アルジェの戦い」より
攻撃的に張り巡らしたつもりの、防衛機制のバリアの空洞感がすっかり露わにされた男にとって、そこまで言われても返す言葉もなく、その場を去るしかなかった。

 「待って下さい」
 「殴り合いでもしたいか?」
 「お望みなら」
 「イカれてる。父親と同じだ。何を吹き込まれたか知らないが、言っておく。僕は後悔などしない。彼の人生が苦しかったとしたって、僕のせいじゃない。そうだろう?謝って欲しいのか?」

 この男には、常に防衛機制のバリアを張り巡らしたつもりの、このような物言いしかできないのだ。

 「誰にですか?僕に?」
 「何が望みなんだ?」

 同じ言葉を返された長身の青年は、一貫して変わらない男の防衛機制の過剰さに触れて、丸ごとイメージ通りの感情を惹起させ、それ以外にない言語に変換させていく。

 「何もないです。疚しさとは何かと思ってた。これで分りました」

 男の「疚しさ」の有りようを見届けた青年には、もう、それ以上の言語は不要だった。

 その日、早々と帰宅した男は、妻の会社に電話し、疲弊し切っていることを告げ、「今から寝るから起こさないでくれ」と伝言した。

 睡眠薬を飲み、ガウンを羽織り、いつものように寝室のカーテンを閉め切って、ベッドに潜り込んだ。

 その直後の映像は、6歳のときの、最も思い出したくない出来事の夢だった。

 無論、早々とベッドに潜り込んだ男の夢である。
 
 「逃げないで!」
 「嫌だ!放して!行きたくない!」

 ジョルジュの生家の中庭で、マジッドが孤児院の二人の大人に強制的に連れて行かれる悪夢なのだ。

 最後は、大きな男が逃げるマジッドを担いで、強引に車に押し込んでいく。

 車内でも暴れて、抵抗するマジッド。

 そんな少年を乗せて、発車する車。

 映像の最後に映し出した男の夢は、突き付けられ、問い詰められ、追い詰められた男が、長く封印してきた記憶のコアの部分を鮮明に噴き上げるものだった。

 それは、自分の告げ口によって、両親を虐殺された孤児を施設に送ることで、そのダークサイドな生涯を予約させた決定的な出来事だった。

 悪夢の中で分娩された男の「疚しさ」が、悪夢からほんの少し解かれた日常性にどこまで繋がっていくか、一切不分明である。

 ただ、男の自我が張り巡らしたつもりの防衛機制のバリアが、いよいよ空洞化されつつある内的状況下で、男がそれまでと同じ日常性を継続させていく保証など全くないのだ。

 ミヒャエル・ハネケ監督は、この一連のシークエンスの中で、「疚しさ」に最近接する男の自我の振幅を肯定的に描き切る物語を、恐らく、最後まで観る者に提示していない。

 それにも関らず、この一連のシークエンスの中で、内面的に追い詰められた男の「精神の焼け野原」とも言うべき、その惨状の様態を描き出したことだけは間違いないのだ。

 妻への最初の男の「告白」から、「真相告白」を含んで、ラストカットの直前までの、この重苦しいシークエンスこそ、本作の生命線であると言っていいだろう。


 そこに記録された、「疚しさ」に関わるジョルジュの内面の振幅の様態の描写こそ、本作の真骨頂なのだ。

 「肝心なのは、ジョルジュの内面の振幅の様態を、『歴史の証人』として見届けること」

 追い詰める男が、それを加速させるほど、追い詰められる内面の振幅の様態を描き切った本作の要諦(ようてい)をこそ見逃すな。

 ミヒャエル・ハネケ監督は、そう言っているようでもあった。

 従って、ピエロとマジッドの息子の「共犯性」を暗示させるラストカットの曖昧さは、「ミステリー映画としての、説得力のある軟着点を深追いしても意味がない」という、ハネケ監督のメタメッセージとして読解することも可能である。

 或いは、ラストカットでも判然とする通り、ピエロとマジッドの息子による「共犯性」の強調によって、独立を求めるアルジェリア人への虐殺事件を起こしながら、人権を説く政治家や、その事実をきちんとフォローしないメディアに象徴される先進国の欺瞞性と、かつて同時代に生きながら罪悪感を持たない、「先進国で生きるわれわれ」への指弾を、次世代の若者たたちが使命感を持って継承していくという文脈で読み解くこともまた可能であるだろう。

 ミステリー映画に特段の関心のない私だが、本作に限って、テーマと重厚に絡むと思われるので、以下、稿を変えて、私のイメージラインを書いておきたい。



 5  メディアが捕捉し得ない「神の視線」の投入による、内なる「疚しさ」と対峙させる映像的問題提示



 何より、ラストカットをどう読み解くかという問題がある。


 もし、ピエロとマジッドの息子が左端に写っているラストカットの構図が、第三者による「悪意の視線」(即ち、「真犯人」)によるものと仮定するなら、本作は際限ないミステリーのゲームになってしまうだろう。

 基幹テーマから安直に逸脱するはずがないハネケ監督が、ミステリーを勝手に独歩させたりしないだろうと思われるのだ。

 だから私は、このラストカットの意味は、鋭いメディア批判を重ねてきたハネケ監督の意図が内包された何かであると考えたい。

 即ちそれは、先進国の大都市にあって、人それぞれ自由な生活を謳歌しているが、常にそこには、メディアが捕捉し得ない「神の視線」が濃密に介在しているのだというメタメッセージである。

 定点ショットの如きラストカットの構図の意味を、そのような文脈で把握した上で、以下、シンプルな私の見方を、主に心理学的アプローチに則って記述しておきたい。

 まず、ラストカットで暗示されているように、恐らく、主犯はマジッドの息子であるだろう。

 彼は、父マジッドとの共同生活の中で、日常的に差別される者の視線を感受してきて、それに対して憤怒の感情を抱いていた。

 既に、父から40年前の出来事について知らされていた件の息子には、どうしても遂行せねばならない「仕事」があった。

 その「仕事」とは、テレビというマスメディアを介して、知りたくもない不快な情報を得てしまったジョルジュという人間の、その偽善・欺瞞性への「許し難さ」に発した行為 ―― それは、もしかしたら、長年の下積み労働が昂じて、重篤な疾病等によって死期が近づいていたのかも知れない父の無念を晴らす行為である。

 然るに、その行為の内実は、先進国がかつて後進国に加えてきた露骨な暴力的攻撃ではなく、遥かに精神的な意味合いを持った何かだった。

 直截(ちょくさい)に言えば、ジョルジュの「疚しさ」の有りようを確認すること。

 それに尽きるだろう。

 ただ、それだけの理由で、マジッドの息子は動いたのではないか。

 そして、社会的正義感溢れる息子の、そのような企みに関知しない父に、ジョルジュ本人を直接的に対峙させる方略を思いつき、遂行するに至ったのではないか。

 そこで彼は、ジョルジュの息子であるピエロに接近し、その思いの丈を吐露していく。


 12歳という最も感じやすい年頃にあるピエロもまた、マスメディアに勤務しながら不倫する母や、キャスターとして偽善的言辞を吐き散らしている父に対して、全く馴染めない感情が育まれていた。

 そこには、悪戯半分の思いもあったかも知れない。

 しかし、少なくとも、マジッドの息子だけは本気だったのだ。

 そして、実現した40年ぶりの、マジッドとジョルジュの再会。

 その模様を隠しカメラで収録するという、アクティブな仕掛けを施すマジッドの息子は、後にこのビデオを見て、憤怒の感情をマキシマムに噴き上げていったに違いない。

 若い彼は、父を訪問するジョルジュの言葉の中に、「疚しさ」の有りようを実感し得るに足る淡い思いを抱懐していたのだろう。

 ところが、そのオプチミスティック期待は完全に裏切られる。

 ジョルジュは父に謝罪するどころか、父の知らない盗撮行為の犯人呼ばわりしたばかりか、あろうことか、「金が目的か」などという許し難い言辞を吐いたのである。

 だから私は、この二人の再会のシーンこそが、本作の肝であると考えている。

 もしここで、ジョルジュがマジッドの父に、「疚しさ」の感情の片鱗を柔和に表現したならば、恐らく、その後の展開は変わっていただろう。

 二人の再会シーンは、それほど重要な設定だったのだ。

 ジョルジュの攻撃的で、差別意識丸出しの反応に激しい憤怒を覚えたマジッドの息子は、そのことをピエロに話す。

 その事実を知らされ、衝撃を受けるピエロが選択した行動は、「家出」の偽装だった。

 恐らく、単独行動だったのだろう。

 だからこそ、その直後の映像が、遣り切れない物語を極限まで暗転させていく展開になっていくのだ。

 ピエロの誘拐の犯人扱いされた、パリに住むアルジェリア人の父子は、大した証拠もなく、所轄の警察署に逮捕され、留置されるに至ったのである。

 留置所で、遣り場がない憤怒を噴き上げるマジッド親子。

 その結果、意を決したように、マジッドはジョルジュを呼び寄せ、自死するに至るのだ。

 この展開は、当然の如く、マジッドの息子やピエロの想像の埒外(らちがい)にあった。

 もう、ここまできたら直接対決するしかなかった。


 それが、テレビ局でのエレベーターシーンから、トイレでの二人の会話に繋がったのである。

 そして、その結果、そこだけはマジッドの息子が想像しなかった現実を引き出したのだ。

 即ち、ラストカット直前の、あの由々しきカットの映像である。

 40年前に出来した、施設へのマジッドの強制連行事件である。

 意に反した結果を目の当たりにした二人の青少年は、残念ながら、ジョルジュの悪夢について認知していない。

 それにも関わらず、二人の青少年が引き出したジョルジュの悪夢。

 それこそ、「疚しさ」の映像的具現と言えるのかも知れないのだ。

 しかし、現実は甘くない。

 裕福な自分の家庭を破綻に追い込むリスクを負うだろう、ピエロの遣り場のなさと、最後まで、最も欲していたはずの、「疚しさ」の言辞を本人から引き出すことができなかったと信じるマジッドの息子。

 映像は、この二人の青少年に対しても、ペナルティを加えたのか。

 その二人が、ラストカットで談笑してるかのようかのような構図の意味は、「君らの振舞いをも、神は見ているんだぞ」という、意地悪な作り手のメタメッセージだったのかも知れないのだ。

 これが、由々しきテーマへの逸脱を許さない、ハネケ映像のミステリーラインについての私の解釈である。

 閑話休題。

 
以上の私の解釈とは無縁に、恐らく本作は、永遠に答えの出ない犯人探しによって、本作を観る「先進国で生きるわれわれ」に、内なる「疚しさ」と対峙させることが最大のモチーフとなった映像なのだ。

 この重苦しくも、そこから抜け出すことが困難な「クローズドサークル」の心理劇のインパクトこそ、犯人探しのミステリーゲームを根柢において相対化し切る何かだった。

 そう把握する以外にないラストカットだったのである。

 それにしても、ミヒャエル・ハネケ監督。

 とてつもなく凄い映像を作ってくれたものだ。

 「神の視線」の投入によるラストカットを、DVDで繰り返し観ながら、その構築力の高さに言葉を失う程だった。

 何より、半ば空洞化されつつも、防衛機制を必死に張り巡らせるジョルジュの揺動する自我の、その奥深い辺りまで、深々と描き切った映像の凄みに震えが走った程だ。

 ジョルジュを演じ切ったダニエル・オートゥィユ。

 彼の内的表現力なくして成立し得ない難しい役どころを、見事に演じ切ったプロ魂に敬意を表したい。


【なお、本稿のミヒャエル・ハネケ監督の言葉は、「映画.com ミヒャエル・ハネケ監督インタビュー/聞き手:北小路隆志 2006年4月25日」、「DVDの付録にある特典映像での監督インタビュー」より引用】

(2011年10月)

2011年9月7日水曜日

ファニーゲーム('97)     ミヒャエル・ハネケ


<暴力の本質的な破壊力についての、冷徹なまでに知的な戦略的映像の極北>


 1  ハリウッド映画の欺瞞と虚飾への最大級のアイロニー



 この世に蔓延(はびこ)る欺瞞・偽善・虚飾を撃ち抜く、ミヒャエル・ハネケ監督の真骨頂の一篇。

 暴力をテーマにした映画の中で、これほどの完成度の高い構築的映像は、かつて一度も観たことがない。

 サム・ペキンパーもスタンリー・キューブリックも北野武も、本作の、精緻を極めた人間心理の洞察力の前では、木端微塵に破砕されてしまうほどだ。

 恐らく、映像の完成度において、暴力をテーマにした最高到達点の映画であると言っていい。

 それほどの映像だった。

 そんな映像を構築したミヒャエル・ハネケ監督は、「ピアニスト」(2001年製作)のインタビューの際に、明瞭に言い切っていた。

 「映画は気晴らしのための娯楽だと定義するつもりなら、私の映画は無意味です。私の映画は気晴らしも娯楽も与えませんから。もし娯楽映画として観るなら後味の悪さを残すだけです。快適で親しみやすいものなど、現代の芸術には存在しません。にもかかわらず、映画にだけは気晴らし以外の何も求めないことに慣れてしまっているのです。だからこそ、気晴らしのできない映画を観ると苛立つのです。

 私の映画を嫌う人々は、なぜ嫌うのか自問しなければなりません。嫌うのは、痛いところを衝かれているからではないでしょうか。痛いところを衝かれたくない、面と向き合いたくないというのが理由ではないでしょうか。面と向き合いたくないものと向き合わされるのはいいことだと私は思います。結局のところ、いかに奈落に突き落とすような恐ろしい物語を作ってみても、我々に襲いかかる現実の恐怖そのものに比べたら、お笑い草にすぎないでしょう」(「テレビ東京 CINEMA STREET /ピアニスト <ミヒャエル・ハネケ は語る>」より)

ミヒャエル・ハネケ監督①
一切の物語は、「我々に襲いかかる現実の恐怖そのもの」によって相対化され、その虚飾を撃ち抜かれる類の何かでしかないと、ミヒャエル・ハネケ監督は言うのだ。

 多くの観客を不快にさせ、置き去りにさせた伝説的映像として「悪名」高い、「ファニーゲーム」の挑発性の狙いが、「驚かしの技巧」を駆使した、「視覚に訴えるだけの暴力的描写の連射」を、どこまでもエンターテインメントの範疇で観客の気晴らしを保証する商業戦略の一環として、コンテンツを提供し続けるハリウッド映画の欺瞞と虚飾への最大級のアイロニーであることが容易に読解できるし、当人もまた、「スリラーのパロディ」であるとも吐露しているのである。

 「虚構は、今、観ている映画。虚構は現実と同じくらい現実だ」

 これは、本作の中の、目的不明の2人の殺人鬼の主犯であるパウルの言葉。

 この時点で、既に、中流家族の3人の親子を殺害していて、次なるターゲットを屠るべく、2人は動き出し、カメラ目線のラストカットで閉じていくという流れにあった。

 注目すべきは、本作それ自身が「虚構の映像」であることを隠そうとしない演出を見せている点にある。

 それは、以下のシーンによって明瞭だ。

 そのシーンに言及する前に、稿を変えて物語を説明しておこう。



 2  「クローズドサークル」の極点を露わにして




 夏の長期休暇をとって、湖畔の別荘へ向かうショーバー一家。

 ヨットを牽いたワゴン車内には、夫のゲオルグ、妻のアナの夫妻と、一人息子のショルシと愛犬が同乗している。

 奇妙な「事件」が起きたのは、セーリングの準備をしている父子の留守のときだった。

 夕食の支度をするアナの元に、唐突に、肥満気味の青年が訪れて、「卵を分けて欲しい」と言うのだ。

 ペーターと名乗るその青年は、4個の卵をもらって帰ろうとした際、玄関前で卵を割ってしまい、図々しくも代りの卵を要求するが、その間にも、あろうことか、アナの唯一の携帯を台所の水の中に落としてしまう始末の悪さ。

 当初、礼儀正しい態度を見せていたペーターの厚顔さを目の当たりにして、次第に神経を苛つかせるアナは態度を硬化させていくが、そこに、もう一人の青年が出現することで、事態は一気に暗転していく。

 もう一人の青年の名は、パウル。

 痩身のパウルは、相棒をペーターと呼ばず、「デブ」と言い捨てていく態度を見れば、特段に悪相とは思えない二人組のリーダーがパウルであることが了解し得るだろう。

 アナを挑発するパウルの言動が、態度を硬化させていたアナの心に、経験したことがないような恐怖感が加速的に分娩されていく。

 まもなく、愛犬の鳴き声で、別荘での異変を察知したゲオルグが、息子のショルシを随伴して帰宅して来た。

 しかし、二人の不気味な青年を相手に手こずっている妻を見て、夫のゲオルグは仲裁に入ろうとしても困難であることを実感する。


 「タマ、取られるなよ」

 代りの卵を要求するペーターの傍らで、突然、恫喝するパウルの暴言に反応し、ものの弾みでパウルの頬を平手打ちにしてしまった。

 ゲオルグがパウルによって、ゴルフクラブで膝の辺りを打ち砕かれたのは、そのときだった。

 更に、車内に放り込まれた愛犬の惨殺死骸を見せるパウル。

 昼間、初対面のときに吠えられたリベンジである。

 彼はこのとき、カメラにウインクするカットが挿入されていたことで、本作が明瞭に、観る者への確信的視線に満ちた映像であることが判然とするだろう。

 ともあれ、礼儀正しい言葉遣いを捨てて、無差別殺人鬼の本性を剥き出しにするパウルとペーター。

 夜になった。

 「お前らは12時間で御陀仏(おだぶつ)かどうか賭けよう。生きてる方に賭けろよ。俺たちは死んでる方だ」

 「クローズドサークル」(出口なしのミステリー)とも言える、恐怖に満ちた殺人ゲームが開かれた瞬間である。


 「クローズドサークル」の極点を露わにした映像は、そこに内包する恐怖をいよいよ加速していったのだ。

 ―― ここで、オープニングから、約9分間に及ぶシークエンスの重要性について言及しておこう。

 まず、ファーストシーンにおける、オペラの音楽からヘビメタ的な音楽への転換は、労働の拘束力から解放され、夏のバカンスを楽しむ、ごく普通の「中流階層」をイメージさせる前者の「善」、「非暴力性」から、労働の拘束力とは無縁に、目的が見えにくい行為の過程それ自身を愉悦する、特定化された若者をイメージさせる後者の「悪」、「暴力性」への変容であった。

 既にそれは、この後に繋がる、見逃しやすいシーンの伏線でもあったと言えるだろう。

 その伏線とは、湖畔の別荘の隣に住むフレッド夫妻と、離れた車内から挨拶を交わしたゲオルグとアナが、そこにいた見知らぬ若者たちに違和感を持ちつつ、素っ気ないフレッドの反応に、「何、あの態度」と吐露したこと。

 更に、ゲオルグとアナ夫妻の子であるショルシは、フレッド夫妻の子供のシシーが不在らしいことに不満を持っていたこと。

 これは、セーリングの準備で父と湖畔に出向いた際にも、「シシーがいないとつまんない。休み中はいると言ってたのに・・・」と、父に不満を漏らし、父もまた、「なのに居ないなんて、確かに変だよな。シシーのママに聞こう」と答えていたこと。

 「フレッドの伯父さん、変だよね」

 これは、そのとき放ったショルシの一言。

 この一言が、決定的な伏線になっていたことが判然とするのは、「事件」が発覚してからである。

 要するに、この一連のシーンが意味するのは、別荘の隣に住むフレッド夫妻が、既に、パウルとペーターによる、「ファニーゲーム」の被害者になっていた事実を物語るものである。

 そこに突然、ゲオルグの家族が別荘にやって来たものだから、「事件」の発覚を防ぐため、急遽、フレッドを連れたパウルが、ゲオルグの家族に挨拶をしに来たという流れになるのだろう。

 ほぼ確実に、その直後、フレッド夫妻は殺害されていたばかりか、シシーはそれ以前に殺害されていたことも考えられるが(ラストシーンでも分るように、パウルらは殺人を完了した直後に、次のターゲットに狙いを絞って動く)、恐らく、殴打による怪我などの理由で自由が束縛された状態下に置かれていたのだろう。

ミヒャエル・ハネケ監督②(ウイキ)
もし、この時点でシシーが殺害されていたならば、両親の動揺は隠し切れない錯乱状態を示していたと想像できるからだ。

 ともあれ、シシーの死は、後にフレッド家に脱走したショルシが、シシーらしき少年の死体を見たシーンの挿入で明瞭である。

 このように、万全に張られた伏線が、物語内できちんと回収される知的映像の構築力こそ、ミヒャエル・ハネケ監督の真骨頂であることが了解し得るのだ。



 3  「虚構は、今、観ている映画。虚構は現実と同じくらい現実だ」



 「暴力」とは、「攻撃的エネルギーが、他者に対して身体化される行為」の総称である。

 これが、「暴力」という概念についての私の定義である。

 この把握に則って、「暴力」の本質を定義すると、「他者を物理的、或いは心理的に、自分の支配下の内に強制的に置くこと」であると言えるだろう。

 まさに本作は、こうした「暴力」の支配下に置かれた、ごく普通の中流階層の家族の悲劇を描く作品であることが分明になっていく。

 対象人格の自我を存分に甚振(いたぶ)ることで、物理的、或いは心理的に、自分の支配下の内に強制的に置くことであるが故に、「暴力」の行使そのものを自己目的化した行為の一切はゲームと化す以外にないということだ。

 ここで、物語に戻ろう。


 詳細は後述するが、子供を銃殺したことで一度は引き揚げた二人は、逃亡に頓挫したアナを連れて戻って来た。

 殺害の順番の筆頭がゲオルグと決めていたパウルは、その殺害過程や手段について、ゲームの続行を愉悦しようと言うのだ。

 「終わりにしよう。もういい。好きなようにやれよ。それで終わりだ」

 このとき、傷ついて苦痛に喘ぐゲオルグは、吐き出すように言った。

 「まだ、劇場用映画の長さに足りないよ。もういい?納得のいくラストを見たい?」

 ここでもパウルは、カメラ目線でそう言って、観る者を挑発するのだ。

 かくて、ゲームが延長されていく。

 「次に死ぬのは誰か、奥さんが決めていい。ナイフがいいか、それとも銃か」

 反応できないアナに、パウルは遊びの感覚で言葉を添えた。

 「へぇー、このゲームが面白くないか」


 ゲオルグをナイフで傷つけて、アナに判断を迫っていく。
 
 「ほんの短いお祈りを。お前が間違えずに逆さに言えたら、どっちが先に死ぬか決めていいし。こっちの方が切実かな。苦しまない銃を選んでも」

 パウルが、そう言った瞬間だった。

 妻のアナは銃でペーターを撃ち抜くが、慌てふためいたパウルは、「リモコンはどこだ!」と叫んで、映像を巻き戻し、物語を再駆動させるのである。

 既にこのシーンによって、本作そのものが「虚構の映像」であることを、作り手は敢えて見せている。

 これは、パウルのカメラ目線の挿入によって明瞭になっている。

 だから、パウルによって巻き戻された「虚構の映像」は、ここでリセットされ、アナによるペーターの銃殺以前の状態にまで、「クローズドサークル」の物語が遡及するのだ。

 リセットされた「虚構の映像」が映し出す、「クローズドサークル」の物語の恐怖はおぞましいまでに陰湿であり、醜悪極まるものだった。

 まさに、アナによるリベンジの立ち上げを阻む、このリモコン戻しのリセットのシーンこそ、「奇跡の逆転譚」を懲りることなく垂れ流し続ける、ハリウッドのスリラーへの最大級のアイロニーであることが了解し得るのである。

 物語に戻る。

 「ほんの短いお祈り」を言えないことで、夫を銃殺するパウル。

 このショットの呆気なさこそ、本作を貫流する映像構成の特色であり、言うまでもなく、そこにハリウッドのスリラーへのアイロニーが張り付いているのは自明である。


 これは、家族の中でただ一人生き残った、気丈なアナへの殺害のショットにおいても変わりなかった。

 そのアナをヨットに乗せた二人は、暫くアナの存在を忘れて、形而上学の議論に熱中するばかり。

 「全てが逆だ。予言は嘘で、人々はパニック。ケーヴィンは現実を知り、妻と娘に警告。難しいのは、反物質界と現実の行き来きが・・・」

 そこまでペーターが話したところで、アナがロープを切って逃げようとしているのを見たパウルは、「見ろよ。いい根性だ」とペーターに笑いながら言った。

 その直後、パウルは特段の感情投入なしに、「チャオ」と言って、あっさりとアナを海に突き落とすのだ。

 まだ一時間の時間の余裕があると言う相棒に、パウルは面倒臭そうに一言。


 「ヨットはかったるいし、腹減ってきた」

 「虚構は、今、観ている映画。虚構は現実と同じくらい現実だ」

 更にこれは、アナを海に突き落とした後も続く、ペーターとの議論の中での、パウルの言葉だ。

 虚構と現実のボーダーが見えにくい程に、リアリティに最近接する虚構の破壊力を、まさに「虚構の映像」によって検証して見せるのである。

 ともあれ、中流家族3人を暴力的にインボルブした、二人の男による「ファニーゲーム」は終焉する。

 最後まで、ゲーム感覚で理不尽極まる暴力が開かれ、呆気なく閉じていくのだ。

 しかしなおも、二人の男による「ファニーゲーム」が繋がっていく。

 今度はパウルが、夫婦の友人の別荘に行き、卵をもらいに行くのである。


 パウルがまたしても、カメラ目線になるラストカットが、そこに張り付いていたのだ。



 4  「正義・人道・弱者利得」という予約済みの理念の欺瞞性



 ハリウッド映画における暴力描写に、決定的に欠けるもの。

 それは、継続的に暴力を受け、人間の尊厳を傷つけられた人格の、その圧倒的な恐怖のリアリティである。

 「正義・人道・弱者利得」という理念が、物語の中枢を占有しているからだ。

 しかし、私たちが当然の如く決め付けている理念が、この映画には微塵もない。

 だから本作は、欺瞞・偽善・虚飾に満ちたハリウッドのスリラーを相対化し切って、それをお伽話のパロディとして屠るために、ハリウッド映画とは真逆の描写を随所に挿入していった。

 まず、ホラー効果を増幅させるための「驚かしの技巧」(注1)は、ここには全く駆使されていないし、暴力描写それ自身が描かれることはないのだ。

 何より鮮烈なのは、幼気(いたいけ)な少年を、その両親の前で、簡単に銃殺してしまうというシーンを挿入させていたこと。

 最初に、呆気なく子供が殺されるシーンなど、予備情報なしに、初めて観る者の誰が想像するだろうか。

 子供だけは助かるという、根拠なく勝手に決め付けている観客の、予約済みの物語の欺瞞を揶揄しいるのだ。

 その幼気な少年の遺体が、いつまでもテレビ中継の煩い居間の中に転がっていて、テレビ画面には、少年の鮮血がべっとりと張り付いているのだ。

 これは明らかに、ハリウッドのタブーとも言える描写の投入である。

 そして、我が子が銃殺されたその部屋には、両手足を縛られた母と、骨折して動けない父が、言葉すら出てこない恐怖に呪縛されて、「クローズドサークル」の狭隘なスポットに置き去りにされているのである。

 愛する我が子を喪った衝撃を受容し切れない二人の両親が、如何にこの危険な状況から脱するかという会話を交叉させた、10分間に及ぶ長廻しのシーンである。

 稿を変えて、以下、その辺りを再現してみる。
 

(注1)ここでは、二人組が再び別荘に出現するカットにおいて、ゴルフボールを転がしていくという、あっさりした描写の挿入で処理していた。



 5  ハリウッドの欺瞞性を撃ち抜く、継続的に暴力を受けた者の圧倒的な恐怖のリアリティ



 逃げようとしたショルシを撃ち殺したペーターに、パウルが文句を言った後、「ずらかろう」という言葉が、それを映し出さない画面から、洩れ聞こえてくるのみ。

 カーレースを放送するテレビ画面に大量の血が飛び散っていて、床には撃ち殺されたショルシの遺体が横たわっている。

 ここから、二人が立ち去った後の映像は、10分間に及ぶ長廻しのシーンが描かれるのだ。

 下着姿で両手足を縛られたアナが、何とか立ち上がり、ショルシの遺体に眼を向けることなく、腰を使ってテレビを消す。

 「行ったわ・・・行っちゃったわ」

 足を骨折して横たわっている夫に、確認を求めるように言葉をかけた。


 夫からの反応はない。

 この間、3分間。

 まるで静止画像のようだ。

 「ナイフを持って来る」

 そう言って、縛られた状態のまま、両脚飛びで移動するアナ。

 居間に一人残されたゲオルグは、動かせない体を半身立ち上げるが、そこまでだった。

 号泣するゲオルグ。

 そこに、ナイフで紐を切り落し、自由になっていたアナが戻って来て、夫を抱きしめた。

 「落ち着いて。深呼吸して・・・お願い、あなた!いいわね。深く息をして」

 この間、6分間。

 「ここを出なくちゃ。戻って来るかも。支えたら、歩ける?」

 このアナの言葉が出るまでの間で、8分間が経過した。

 「やってみよう」

 粗い呼吸を続ける夫が言葉を発したのは、そのときだった。

 アナは渾身の力を込めて、痛みで苦しむ夫を担ぎ上げ、一歩ずつ移動していくのだ。

 「アナ、見るな!」

 息子の遺体に一瞥した妻を、制止する夫。

 ここで、10分間に及ぶ長廻しのワンシーンが閉じたのである。


 凄まじいまでのリアリティに、観る者は圧倒されるだろう。

 継続的に暴力を受けた者の圧倒的な恐怖の現実が、そこにあった。

 このように救われようのない状況を、まるで記録映画のように冷徹なカメラが捕捉し、夫婦の恐怖感をマキシマムに表現していくのだ。

 殆ど死を覚悟している心境下にあって、いつ襲いかかってくるやも知れぬ恐怖に震えながらも、必死に助け合おうとする夫婦の振舞いを描く長廻しのシーンに、少なくとも、私は異様な感動を受けた。

 身動き取れない夫を、担ぎ上げて移動するシーンは、ハリウッドなら「スーパーウーマン」の馬力を描くことで簡潔に処理したはずだ。

 しかし、本作は違った。

 無様とも見えるような格好をして、苦労して担ぎ上げ、容易に移動できない描写を延々と繋ぐのだ。

 この何気なくスル―してしまうシーンを描き切った作り手の、その人間心理の洞察力と観察眼の鋭利さに、私は言葉を失った。

 長廻しのシーンの直後、思わず吐き戻す妻を案じる夫に、なお気配りして笑みを送る妻の、人間の限界を超える辺りの行動を、ギリギリまで描き切った一連のシークエンスに、私は言葉を失ったのだ。

 何という、完成度の高さなのか。

 これは、人間ドラマとしても一級品なのだ。

 この辺りが正当に評価できない批評家連中の偏頗(へんぱ)で、霞がかかったような劣化した能力よりも、遥かに高い映像作家の孤高性を感受した次第である。

 結局、二人は呆気なく殺害されるに至るが、その間、ゲームとして愉悦する犯人たちの心理の内奥は、最後まで闇のベールに閉ざされていて、そこには、不条理な恐怖劇が淡々と展開されるという物語構成を繋いでいくのである。

 そして前述したように、パウルによるリモコンの巻き戻しのシーンの挿入によって、本作が虚構の物語であることを、観る者に種明かしして見せるという禁じ手を駆使する離れ業のギミック。

 しかし、この虚構の物語は、ハリウッドの欺瞞性を撃ち抜くリアリティを存分なまでに持ち得ていたのだ。

 更に何より、ハリウッドの欺瞞性を撃ち抜くリアリティは、何気ないが、最も説得力を持ち得る一つのシーンによって検証されるのである。

 ゲオルグがパウルによって、ゴルフクラブで膝を打ち砕かれたシーンがそれである。

 パウルによるリモコンの巻き戻しのシーンに至るまで、ゲオルグへの身体暴力の直接的な描写が一切なく、最後まで映し出さなかった膝の打ち砕きという一撃のみで、完璧に破壊された身体の自由こそ、身体暴力の描写の極致と言っていい。

 それは、このような当然過ぎるリアリティを描こうとせず、歯が折れ、顔面が破壊されるはずなのに繰り返し殴打し合う、ハリウッドの愚かなバイオレンスシーンを想起すればいいだろう。

「暴力脱獄」より
例えば、「俺たちに明日はない」(1966年年製作)のフェイ・ダナウェイが扮したボニーは、瀕死の重傷を負うほどに、川で銃撃されても簡単に死ぬことなく、あっという間に回復するという離れ業のギミックを見せてくれたし、「暴力脱獄」(1967年年製作)のルークは、囚人同士の賭けで50個の卵を一気に食べても何ともないという、不屈の「スーパーマン」を立ち上げて見せるのである。

 この種の娯楽映画でなくとも、ハリウッドのバイオレンスシーンは嘘の洪水の連射と言っていい。

 だから、そんなハリウッドのバイオレンスシーンに馴致してしまうと、本作での、ゴルフクラブによる致命的一撃の描写が見せたリアリズムに気付くことすらないほど、私たちは鈍感になっているに違いない。

 膝の打ち砕きという一撃の描写なしに、かくも人間が、呆気なく壊されゆく存在であることの怖さについて、痛々しく感受させた映像の凄み。

 その凄さに圧倒されるばかりである。



 6  暴力の本質的な破壊力についての、冷徹なまでに知的な戦略的映像の極北



 ハリウッドでは到底到達できない、「虚構は現実と同じくらい現実だ」という、まさに現実の恐怖の臨場感に最近接する辺りまで、この虚構の稜線が伸ばされていったのである。

 そこにこそ、ハネケ監督の狙いがあったことが判然とするだろう。

「ナチュラル・ボーン・キラーズ」より
精緻に練られた知的戦略によって構築された映像の完成度は極めて高く、「ナチュラル・ボーン・キラーズ」(1994年製作)に代表されるように、殆ど同種のスリラー、アクション、スプラッタームービー等に張り付く、「過剰だが、実感的な恐怖とは無縁である」という、ゲームのように累加された暴力の集合でしかない気晴らしのエンタテイメントの物語を、その根柢において無化する程の力技の凄みを、本作は観る者に鑑賞させてくれたのである。


 ガス・ヴァン・サント監督の一部の映像がそうであるように、知的戦略によって構築された、この映像と最後まで対峙する者の如く鑑賞し得たなら、紛う方なく、暴力の本質的な破壊力によって、「無差別テロリズムを極点にする暴力が、如何に恐怖に満ちた不快な何か」であることが実感的に受容し得るだろう。

 そして残念ながら、私たち人類にとって、人間の手による様々な暴力が根絶不可能である現実をも認知せざるを得ないのだ。

 しかし、「白いリボン」(2009年年製作)で主題提起したように、「無差別テロリズムを極点にする暴力」の分娩が、如何に容易に形成され得るかという問題意識を持たなければ、ディストレスをストックした人間の感情がファナティシズム(狂信)に収斂されていく事態への恐怖をも、「正常性バイアス」(注2)の心理のうちに希釈化させてしまうのである。

「白いリボン」より
それが成就したか否かについては意見が別れるところだが、少なくとも、この問題意識こそがミヒャエル・ハネケ監督の一貫した主張であり、同時に、観る者を過剰に挑発した感のある本作の基本戦略であると言っていい。

 「ある思想がイデオロギーへと変異するときはいつも、そのイデオロギーは生活がうまくいっていない人々によって支持されます」(「ぷらねた~未公開映画を観るブログ」より掲載)

 このミヒャエル・ハネケ監督の把握は、ディストレスをストックした人間の感情が特定の思想と睦み合っていて、「絶対基準」を持つイデオロギーへと変異するときの怖さを想起させる。

 本作は、理不尽な暴力が容易に正当化される事態への告発ともなっているが、無論、この主張が映像総体を貫流するものでもない。

 しかし、ハネケ監督の映像には、常に、精緻に練られた知的戦略が内包されていることだけは押さえておくべきだろう。

 「虚構は現実と同じくらい現実だ」という程に、理不尽な暴力の真の怖さを、まさに、「虚構の映像」によって検証した本作の劇薬性は抜きん出ていたのである。

 従って、本作は「過激」であるが、「低俗」ではなく、「挑発的」であるが、「主題提起力」において群を抜き、「無秩序」なように見えて、驚くほど「精緻」であり、「粗雑」なように見えて、遥かに「構築的」である。

 因みに、本作が「粗雑」な作品とは無縁であることは、前述したように、その目立たないような伏線の回収の見事さにおいて検証できるだろう。

 観る者に、かくも集中力を要求するハネケ監督の映像のハードルは相当に高く、誤解を恐れずに言えば、数多の批評家やシネマディクトの鑑賞眼を試すかの如き構成力の戦略性は、殆ど一頭地を抜く程の知的武装において際立っているのである。

 その意味で本作は、人間の心理を巧妙に利用して構築された、冷徹なまでに知的な戦略的映像の極北だったのだ。

 この稀有な才能と出会えた喜びは、殆ど言葉に表せない程である。


(注2)危機に馴致してしまうと、もっと大きな危機が切迫しても、「大したことではない」と考えることで、自分の不安感情を処理すること。この心理が過剰になると、最適適応の中枢である自我が「感覚鈍磨」していく。

(2011年10月)

2011年8月30日火曜日

ピアニスト('01)         ミヒャエル・ハネケ


<「強いられて、仮構された〈生〉」への苛烈極まる破壊力>



1  「父権」を行使する母との「権力関係」の中で



母の夢であったコンサートピアニストになるという、それ以外にない目的の故に形成された、実質的に「父権」を行使する母との「権力関係」の中で、異性関係どころか、同性との関係構築さえも許容されなかった事態に象徴されるように、一貫して自己犠牲のメンタリティーを強いられてきた娘のエリカは、ポルノショップと覗き趣味に象徴される、「男性性」の世俗文化とのクロスを介して、男根を喪失した「形だけの女」(注)という自己像(「女性である自己」の現実に対する嫌悪感)のうちに閉じこもることで、殆ど男性的な性格を身に付けた結果、既に、観念的にはマゾヒズムの世界への自己投入によってしか安寧し得ない自我を構築してきてしまった。

母の夢の具現の前では、「父」という、本来の役割を遂行し得ないエリカの父親は精神疾患を患い、まもなく、映像に登場することなく逝去するに至るが、中年女性になっても、「父権」を行使する母との「権力関係」だけは延長されていたのである。

それは、ファーストシーンでのローキーな画像の中で、観る者に直截に提示されていた。

「ママ、疲れているの」

帰宅が遅れた娘の、いかにも疲弊し切った言葉である。

「そうだね。レッスンが終わったのは、3時間前。それまで何やってたの?」
「やめて」
「答えるまで、部屋に入れないよ!」
「散歩よ。8時間も教えっぱなし。息抜きがしたいわ」

強引に娘のバッグを開けて、預金通帳を見て、金額が減っているのを確認し、文句を言うばかりの母。

「一体、何に使ったの?」
「クソババア!」

そう叫んで、母の髪を掴む娘。

それが、娘のマキシマムな抵抗手段だった。

母親の支配に従属する娘の生活の現実が、そこに提示されていた。


(注)バスルームでの剃刀のシーンの意味は、母との「権力関係」の中で、人間的感情(とりわけ、「女」を意識する感情)を否定され続けたことに象徴される心理的要因によって、長く無月経状態になっていて、それでも、「形だけの女」を演じ続けねばならない強迫観念が、このような行為に及んだとも考えられるが、明らかに、ここにもエリカの自罰傾向の片鱗が読み取れるであろう。



2  「権力関係」の危うい均衡のうちに継続されてきたものが揺らぎ出したとき



それでも、ウィーン国立音楽院のピアノ科教授でもあるエリカが、まさにその商品価値性によって、予想だにしない快楽を手に入れる対象人格と出会ったのである。

エリカとワルター(右)
それがワルターだった。

音楽院の大学院に入学した学生である。

以下、エリカの演奏会直後の、二人の会話。

精神疾患直前の晩年のシューマンについて論じた、アドルノの「幻想小曲集」(8曲から成るシューマンのピアノ曲集)論を例にとって、ヒロインのエリカはワルターにレクチャーする。

「自らの狂気を悟り、最後の一瞬、正気にしがみつく。それこそ、完全な狂気に至る直前の自己喪失を意味する」
「見事な教授法です。まるで全てをご存じかのようだ」
「シューベルトとシューマンなら。それで、私の父は精神疾患で入院しているの」

まもなく、若くハンサムなワルターに関心を持ったエリカが、豊饒な知的イメージを抱かせる、「変わり種の天才ピアニスト」への愛に惹かれるワルターの前で、自我の奥深くに隠し込んだ本性を吐露していくのだ。

エリカが書いた、信じ難き内容の手紙を読むワルターの言葉が、嫌々ながらそれを代弁していく。

「一番の望みは、“手と脚を背中で縛られて、母の近くで寝かされたい。但し、ドア越しで母が近づけないこと。翌日まで、母のことは気にしないで、この家の全ての鍵を持ち去り、一つも残さぬこと”これをやると、僕に得が?“もし私があなたの命令に逆らったら、ゲンコツで私の顔を殴って。なぜ母親に逆らったり、やり返さないか聞いて。そして、私にこう言って。自分の無能さが分ったかと”」

自分の手紙をここまで読んだワルターに、エリカはSMの道具を見せて、更に言葉を添えていく。

「電話を待つわ。全てあなた次第。嫌いになった?長年の望みだったの。そこにあなたが・・・命令するのはあなた。着る服も決めてあるわ」

返す言葉を失ったワルターが、重い口を開いた。

「病気だよ。治療しなくちゃ」


そんな反応を受けても、エリカの思いは変わらない。

「殴りたいなら殴って」
「手を汚したくない・・・心から愛していた。今は嫌悪感だけ」

そう言い捨てて、ワルターは帰宅して行った。

「好きにしなさい。大人なのだから。これが全てを捧げた結果・・・大したご褒美だよ」

これは、このアブノーマルな顛末を知って驚く母の言葉だ。

言うまでもなく、エリカのマゾヒズムの世界への自己投入は、「父権」を行使する母との「権力関係」の中で、一貫して自己犠牲のメンタリティーを強いられてきた彼女にとって、それ以外にない自我防衛機制であり、今や自罰によってしか安寧に辿り着けない、屈折した自我の表現様態だったが、一切は、その本来の役割を果たせない父に代わって、「父権」を行使し続けてきた母との歪んだ「権力関係」の産物だったと言っていい。

エリカの被虐性欲の根柢に横臥(おうが)するのは、コンサートピアニストになれないことで母を悲嘆に陥れた自己への加虐心理であるが故に、ワルターから「病気だよ。治療しなくちゃ」と言われても、「殴りたいなら殴って」と反応するばかりだったのだ。

それが、“手と脚を背中で縛られて、母の近くで寝かされたい”という、ワルターへの文面の本質である。

そのことは、「権力関係」の中で自己犠牲を強いられてきたエリカの自我に張り付く、母からの承認欲求の屈折した様態であると言えるだろう。

だからこそ、ワルターへの手紙によって、彼から「今は嫌悪感だけ」と帰宅され、その顛末を母に知られ、詰(なじ)られても、「ママ、愛してるわ」と言って、抱きついていくばかりだったのだ。

「狂ってるよ」

母の言葉だ。


それでも、二人で縺(もつ)れ合い、抱き合って、号泣する娘がそこにいた。

しかし、彼女の母に対する承認欲求もまた、初めて知った青年との身体感覚のリアリティの前で微妙な誤作動を見せていく。

母と縺れ合い、抱き合って、就眠に入ろうとしたそのとき、彼女は突然、母親の上に覆い被さっていくのである。

それは、エリカの中で累加されてきた屈折した感情が、封印し得ない性衝動となって溢れ出たのだろう。

彼女には、向かっていく対象人格が母以外に存在しないこと。

そこに、彼女の悲哀の極みがあると言っていい。

更に言えば、彼女の中の観念的なマゾヒズムは、それまでのような継続力を持ち得なくなってきたのだ。

ワルターの出現によって、支配し、服従するだけの「権力関係」の危うい均衡のうちに継続されてきたものが、エリカの中で揺らぎ出したのである。


生まれて初めて経験したであろう異性感情の嫉妬心から、教え子のオーディションの日、彼女の衣服のポケットにガラスの破片を忍び込ませて、ピアニストにとって命とも言える手を傷つける行為に象徴されるように、ワルターへの愛し方を知る術を持たないエリカは、それでも青年との愛を欲する感情を身体表現するには、手紙での告白を自己否定する以外になかったのだ。

アイスホッケーのゲーム後、ワルターを訪ねたエリカは、手紙での告白について謝罪し、自分に対する彼の愛を占有しようとした。

しかし、スケートリンクの控室でノーマルなセックスに及ぼうとする、若いワルターのオーラルセックスの欲求に応えられず、吐き戻すばかりのエリカ。

セックスに関わる彼女の欲求は、結局、ポルノショップ等を介した情報でしかなく、彼女自身、身体を経由する異性愛の生身の感覚に届き得ないのだ。

被虐を求めるワルターへの手紙での、エリカの欲望の表現は、単に、彼女の閉鎖系の観念の世界が噴き上げたものでしかなかったということである。

「咥(くわ)えて吐かれた」

またしても、相手の欲求を満足させ得ないストレスから罵詈雑言(ばりぞうごん)を吐かれて、追い返されるエリカは、「あなたが望むなら何でもするわ」という思いを吐露する以外になかったのである。


明らかに、このときワルターは、豊饒な知的イメージを抱かせる、「変わり種の天才ピアニスト」であったと信じたエリカの〈性〉の本質を見透かしてしまったのである。

「この女は、〈性〉について無知なだけの中年ピアニスト」でしかない現実を。



3  「強いられて、仮構された〈生〉」への苛烈極まる自己破壊力



夜も更けて、ワルターは、エリカの家を唐突に訪れた。

追い返そうとするエリカの母を押しのけて、ワルターは、エリカの望み通りの行為に及んだのだ。

殴りつけ、蹴り上げていくワルターの加虐行為に、悲鳴を上げるエリカ。

「お願いだから止めて」

そこに、殴られ、蹴られ、着衣に血を滲ませた中年女がいる。

エリカは、自分が求めた「愛情表現」の行使によって受けた痛みの前で恐怖し、拒むのだ。

そして、エリカの生身の肉体の中枢を抉(こ)じ開け、ノーマルなセックスに及ぶワルター。

しかしここでも、女は身体を経由する異性愛の生身の感覚に届き得ず、そんな態度を見た男もまた、「早く帰れってことか」と反応するばかり。

それでも「寸止めの美学」とは無縁な、ごく普通の〈性〉を愉悦する男は、精嚢に満たされたザーメンを放出するためのセックスを、たった1回の射精によって完結することで、女との初めての性行為を果たし得た。

この日、スケートリンクの控室で認知してしまった中年ピアニストへの現実。

「お前が要求するなら、マゾの怖さを見せてやる」

そんな中年ピアニストに散々、振り回されたことに対する憤怒が、恐らく、こんな尖り切った思いに結ばれて、ノーマルな〈性〉を求める青年に、抑え切れぬ情動の噴出を具現させたのだろう。

豊饒な知的イメージを抱かせる、「変わり種の天才ピアニスト」への愛に惹かれたワルターの心理から言えば、謎多き年上の女にリードしてもらえるはずだった、蠱惑(こわく)的な「性愛」の行方が全く定まらない〈状況〉に翻弄されていて、それでも、そこに存在すると信じる、「奥深い熟女のフェロモンの魅力」を追い続けた果てに知った現実に幻滅し、一気に興醒めしたのだ。

「君のために忠告しておく。男を弄(もてあそ)ぶのは止めた方がいい。愛に傷ついても死ぬことはない」

女との関係に終止符を打ったかのような、ワルターの捨て台詞である。

男の愛に応える術を知らない女だけが、そこに置き去りにされたのだ。

なお、男との愛の継続的な関係の維持を求める女は、男の変容を恐れつつも、覚悟を決めたかのように、翌日のピアノ演奏会に臨むのである。

ナイフを懐ろに入れ、母と共にコンサート会場に現れたエリカは、ひたすら、ワルターの来場を待っていた。

多くの知人の来場を遣り過ごした果てに現れたワルターは、単に、「教師と生徒」の関係の延長線上に位置する者たちの、その形式的な距離感覚を保持させながら、エリカに明るく挨拶して、一瞬のうちに会場内に消えていった。

「演奏を楽しみにしています」

女友達らしき同世代の若者のグループに混じって、悪びれることなく、その一言を放ったワルターは、昨日までの捩(よじ)れ切った関係の噴出の一切が虚構のトラジディーであったかの如く、自分を待つ者を特段に意識させるに足る素振りすら見せず、恰も、全きを得てリセットさせた人格を軽快に開いて見せたのである。

ワルターの明るい笑顔を視認したエリカは、最後まで異性との関係を構築し得ない現実の酷薄さを感受して、既に覚悟を決めていた行為に流れ込んでいった。

一瞬にして擦過して行った男と、そこに置き去りにされた女。

それは、ワルターとの関係の終焉を告げた瞬間だった。

凄まじい形相を見せるや、女は、自宅を出る前に用意したナイフで、自分の左胸部を突き刺したのである。

男を殺害するためではなかったと考えられるが、或いは、彼女自身にも、それとなく覚悟を決めていたものが存在したにも拘らず、行為それ自身は衝動的であったとも思えるのだ。

昨日、男によって完全に見透かされ、幻滅を与えたことを認知しつつも、「そうであって欲しくない」という思いが恐怖感となったとき、女は、それとなく覚悟を決めていた行為に衝動的に流れ込んでいったのではないか。

然るに、この恐怖感が現実となった女の選択肢は、もはや限定的だった。

血を滲ませながら、コンサート会場を出ていく女。

もう、彼女には、近未来の〈生〉に対する突破口になり得る、残された選択肢は完全に閉ざされてしまったのである。

件の女の自罰志向の極点である、このラストシーンの構図こそ、「権力関係」の中で自己犠牲を強いられてきた屈折した自我の、それ以外にない一つの人生の閉じ方であったのだろう。

少なくとも、「強いられて、仮構された〈生〉」のみを生きてきた彼女は、彼女の閉鎖系の観念の世界が、普通の欲望系に呼吸を繋ぐ青年の、そのノーマルな世界と折り合えない現実を認知することで、自分を呪縛してきたものの虚構性を自己の身体感覚のうちに触れてしまったのだ。

然るに、「強いられて、仮構された〈生〉」を壊すことこそ、その負の系譜への清算になると、一瞬、脳裡を過(よ)ぎったか否か不分明である。

従って、その苛烈極まる行為は、結果的に彼女の中で抑圧していたものを、その根柢において屠(ほふ)ったという由々しき事態を意味するだろう。

言うまでもなく、嬉々として会場内に消えていった女の母が、40年の長きにわたって仮構してきた途方もない物語と、それを遂行した「禁断の〈性〉と〈生〉」に関わる負の系譜をこそ、彼女は屠るに至る行為に及んでしまったのだ。


「自らの狂気を悟り、最後の一瞬、正気にしがみつく。それこそ、完全な狂気に至る直前の自己喪失を意味する」

それはまさに、精神疾患直前の晩年のシューマンについて、ワルターにレクチャーしたエリカの言葉だが、それとなく覚悟を決めた彼女の行為をなぞっていく伏線であったという、如何にも文学的な着地点に落ち着くであろう。

狂気の助けなしに為し得ないが故に、結果的に彼女は、殆ど自己喪失の感覚の中で、ギリギリの際(きわ)で正気にしがみついて、「強いられて、仮構された〈生〉」を屠ったのだ。

それでも女は生きていく。

「強いられて、仮構された〈生〉」を屠った後の、全く新しい人生を生きていく。

そういう解釈のうちに括りたいと思わせる、あまりに見事なラストシーンだった。



4  「約束された非武装なる虚構の城砦」を破壊する挑発的映像



見たくないもの、触れたくないものが、微かに自分の中に内在しているのに気付かないか、或いは、内在していることを認知しつつも、それを見えない辺りにまで押し込め、封印することで安堵する何かを、大抵、私たちは内側に抱え込んでしまっている。

そうしなければ、「反復」→「継続」→「馴致」→「安定」という循環を持つ、「日常性のサイクル」に亀裂が入り込み、それを放置しておくと、亀裂が自己運動を起動させ、いつしか、「安定」に向かう「日常性のサイクル」が、本来そこにあったところに戻り得ない〈状況〉に拉致され、「非日常」という厄介な時間のゾーンに搦(から)め捕られるリスクを高めてしまうからだ。

本作は、「安定」に向かう本来的な「日常性のサイクル」の幻影が、「強いられて、仮構された〈生〉」という形で分娩されることで、支配し、服従するだけの「権力関係」の危うい均衡のうちに継続されてきた屈折的自我が、拠って立っていたものの根源において、決定的に揺らぎ出したときの緊張と不安、期待と失望、恐怖を描いている。

ミヒャエル・ハネケ監督とイザベル・ユペール
本稿の中で縷々(るる)、言及してきたように、予定調和であってもなくても、観る者に情感溢れる無難な着地点を保証する、数多のラブストーリーに張り付く虚飾と欺瞞に満ちたお伽噺を、ここまでアイロニカルに武装解除させつつ、そこにぶら下がる肝の辺りを剔抉(てっけつ)した映像を私は知らない。

虚飾と欺瞞に満ちていながら、必要以上に隠し込む性(さが)に縋って生きる人間の根源的問題を、その臨界点まで冷徹に、且つ、容赦なく抉(えぐ)り出し、描き切っていく映像作家を、イングマール・ベルイマン以外に私は知らない。

見たくないもの、触れたくないものから眼を背け続ける者が、しばしば、安直に飛びつくチープな物語のズブズブの情感系言語の、その圧倒的な脆弱さを突き抜き、剥がし切り、そこで仮構された〈生〉の虚飾と欺瞞の様態を、恐らく、「白いリボン」(2009年製作)によって完成形に辿り着いたであろう、精緻に練られた高度な知的戦略によって炙(あぶ)り出していく映像宇宙の凄み。

それが、「ピアニスト」だった。

これはまさに、「変態映画」の「変態作家」というラベリングを張り付けることで、己が日常と切断することで安寧の境地に至るだろう、「約束された非武装なる虚構の城砦」への潜入という、数多なるお伽噺の幻想をこそ破壊したい集束的画像だったに違いない。

そう思わせるに足る、存分に毒気含みの挑発的映像だった。




イザベル・ユペール。(画像は、「主婦マリーがしたこと」で、ヴェネツィア国際映画祭女優賞を受賞したときのもの)

何という、プロフェッショナルな女優魂か。

ミヒャエル・ハネケ。

何という、魅力的な映像作家であることか。

(2011年9月)