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2011年12月1日木曜日

インド行きの船('47)       イングマール・ベルイマン


<大いなる旅立ちに向かう身体疾駆の内的必然性>




1  「顔を強張らせて、怖い目」を身体表現する、父と子の歪んだ関係



ベルイマン映像の初期の到達点と言える「不良少女モニカ」(1953年製作)に比較すれば、映像の完成度は必ずしも高くない。

だから、そこから受ける感動もフラットなものでしかなかった。

それでも、ベルイマン映像で繰り返し描かれていく「人間の愛憎」というテーマを、いつものように、限定された登場人物の関係の縺れの中で露わになる、人間の孤独の裸形の様態を容赦なく抉り出していくような筆致は、長編3作目である本作において鮮明になっていた。

物語は簡単である。

身勝手で横暴なサルベージ船の船長である、父の愛人の踊り子と恋愛関係になった息子の激しい相克と、その板挟みとなって懊悩する母の4人の物語を、踊り子との7年後の再会を約束して、長い航海へ旅立った息子の帰還による回想を通して描かれるだけ。

そんな本作で拾いあげられたテーマは、殆ど救いようがない父と子の葛藤であり、その葛藤の中で露わになる人間の「人間の愛憎」と孤独の裸形の様態という、いかにもベルイマン映像らしい人間の実存的根源性を有するものであった。

背中に障害を持つ息子が生まれたことに悩み、充分に愛情を注げない父に対する反発から、既に思春期前期から反抗的な態度を繰り返していく息子。

その息子の名はヨハンネス。

父のアレクサンデル、母のアリスと同様に、沈没船の引き揚げ作業を仕事にする、サルベージ船の仕事で身過ぎ世過ぎを繋いでいた。

その辺りの事情を、アリスはサリーに吐露している。

因みに、サリーとは、夫の愛人であると同時に、息子の恋人になっていく件の踊り子の名である。

「あの子、よく病気したわ。死ねば良いと思った。扱いにくい子で、怒りっぽくなったわ。だから放っておいたら、すぐ家を出て、どこかに隠れて、何日も帰って来なかったわ。帰って来ると、夫はベルトであの子を殴ったの。ひどく傷ついても、あの子は泣いたりしなかったわ。ただ顔を強張らせて、怖い目をしていたの」

父に嫌われる原因になったヨハンネスの障害は、「僕の背中は曲がっている」とサリーに吐露することで、年来のコンプレックスを相対化しようと努めているようにも見えたが、母の言うように、「顔を強張らせて、怖い目」を身体表現する歪んだ関係を実父との間に形成してしまっていたのである。

現代の巨大サルベージ船(イメージ画像・ブログより
青年期に入ったヨハンネスは、父母と共にサルベージの仕事に従事するが、権力的で横暴な父親との関係が円滑に推移する訳がない。

愛人を船に乗せ、息子自分の部屋を貸す父に反発する息子。

「すぐ甲板に戻って、仕事を続けろ。何も言うな。黙れ!」
「僕は、ここから出たいだ。チャンスを取り上げるな!何もかも取り上げてる!死にたいよ・・・」

息子の反発を意に介せず、非難する一方の父親。

「父さんは僕をいじめて楽しんでる」
「アリス、ひどい息子を産んだな。ヤクザだよ」

愛人との共存を強いられた妻に、アレクサンデルの悪意が止めを刺す。

「やめて!」

最も惨めな心境に捕捉されたアリスの叫びが、閉塞的で狭隘な空間を劈(つんざ)いた。

「自分の父親を殴りたいと思ってる。でも結局、殴らんだろうな。なぜだと思う?こいつには度胸がないんだ。腰抜けさ。父親からの仕返しが怖いんだ」
「この野郎、覚えてろ!女たらしのブタめ!」

ここまで愚弄されたヨハンネスは、精一杯の反撃を加えていく。

「自分の父親に向かって、何て口を聞きやがる!いい加減にしろ」
「くたばっちまえ!」

この一言に切れた父は、息子を殴りつけた。

ナイフを握ったまま、部屋を出て行く父を睨むだけのヨハンネスが、そこに置き去りにされたのである。



2  「人生が絶望的でも、戦うことが人間の義務だ」



父と子の歪んだ関係を延長させるだけの激しい相克が、遂に、決定的な対立を生むに至る。

事の発端は、女との三角関係。

港町の劇場の踊り子であるサリーとの関係を知られ、父から殴られたヨハンネスは、思わず、その父に殴り返したのだ。


若者の恋は一気に駆け走り、一気に関数的な鋭角性を描いていく。

サリーと睦み合う関係を露わにしたヨハンネスに、愛人を奪われた父の憤怒を惹起させ、あろうことか、息子の命を絶とうとさえしたのである。

潜水夫に代わって海に潜ったヨハンネスに、あろうことか、命を繋ぐエアーポンプを駆動させていたアレクサンデルの手が止まったのだ。

この一件の後、「父さんは病気だよ」と言われても、攪乱した情動が収まらない父は自殺未遂を起こすに至る。

密かに用意された秘密の部屋に閉じ籠って、絶望を一身に体現したような初老の男は、その部屋の窓から飛び降りたのである。

永久に変わり得ないと思わせるような、父子の相克が行きつくところまで行ったとき、この絶望的な閉塞性を克服するために、若者は旅に出るしかなかった。

それも、若者の自我を深々と覆う、くすみ切った風景を浄化し得るような、未知なる世界への大いなる旅に出るしかなかったのだ。

そして実際、若者は大きな旅に打って出たのである。

思えば、その旅は、失明の危機にあったアレクサンデルが、愛人の踊り子のサリーと共に打って出る冒険行でもあった。

当然の如く、この冒険行は、後遺症を残したアレクサンデルの自殺未遂によって自壊するに至る。

そこもまた、存分に閉塞的な愛憎の世界を相対化するかのように、感傷的なBGMを挿入した暗鬱なる物語は、未知なる世界への息子の大いなる旅を具現させていく。

the World (global) Ocean(イメージ画像・ウイキ)
モノクロで写し取った暗鬱な画面が、広大な大海の、ブルースカイの空を突き抜けるようなイメージのうちに変容していくのである。

そして今や、いずれかの者が物理的に消えない限り、収斂し切れない爛れ切った父と子の歪んだ関係だけが生き残されたのである。

置き去りにされたのが、孤独に悩む踊り子のサリー。

ヨハンネスは、そのサリーを残して、船員としての大いなる旅に打って出たのである。

サリーを捨てたのではない。

自分の帰還を信じて待つことを、世間の印象とは切れた、決してすれっからしではない、純朴な心を持つサリーに求めたのである。

思うに、青春の一人旅の本質は「定着からの一時的な戦略的離脱」であると私は考えるが、ヨハンネスの旅は、このような甘さとは切れて、それは未知なる世界に全てを賭けていくに足る人生の自己投入以外ではないだろう。


そして、その旅から帰還して来たヨハンネスは、サリーとの愛を復元させようと努めるが、彼女の心は深く傷ついていて、殆ど孤独の極みにあった。

心の中で蟠(わだかま)る辛い真情が誰にも理解されず、相変わらず風景の変わらない閉塞的な世界に閉じこもっているばかりだったのだ。

そんな彼女を救わんとするために戻って来た遠い国からの旅人だが、閉塞的な世界に閉じこもる彼女に、その旅人は明言した。

「人生が絶望的でも、戦うことが人間の義務だ。戦わなければ、障害はどんどん大きくなり、あとは窓から身投げだ」

紛れもなく、若きベルイマンのメッセージである。

ヨハンネス=ベルイマンのメッセージが刻まれた後、その力強いメッセージに誘(いざな)われるようにして、未知なる世界に旅立つ二人。

39歳のときのベルイマン(ウイキ)
未知なる世界に旅立つ二人をイメージさせるカットが、映像の括りとなったのは言うまでもない。



3  大いなる旅立ちに向かう身体疾駆の内的必然性



大いなる旅への希望のイメージで閉じた映像の余韻は、その後のベルイマン映像の、容赦ない愛憎の描写と切れものであったが、それでもベルイマンには、このような物語を映像化せねばならない内的必然性があったのだろう。

それはまるで、ビレ・アウグスト監督の「ペレ」(1987年製作)や、ダニエル・ベルイマン監督の「日曜日のピュ」(1992年製作)で描かれたように、代々の牧師であったが故にか、厳格な父エーリックに育てられたベルイマンの、雄々しき自立への旅立ちを告げるマニフェストだったと言えるものであった。


映像イメージとしては、「ファニーとアレクサンデル」(1982年製作/画像)を彷彿させるような、典型的ブルジョワ家庭で育った母と、自立心が強く、苦労して北欧最古の大学(ウプサラ大学)で、神学を学んで優秀なる牧師になった父との関係に亀裂が入り、その両親の不和を絶えずセンシティブに感受していた幼児期のベルイマンにとって、多くの男の子がそうであるように、母親に対する深い同情心が、悪さをしたら衣装部屋に閉じ込められるというような体罰を辞さない父への反発を必至にし、それが自我の確立運動の中で憎悪に転じていったと思われる。

具体的には、ベルイマンのシュトルム・ウント・ドラングとも言うべき、果敢な青年期に踏み込んでも、演劇の世界に入ることを父に拒まれ、その父が最も嫌ったはずの女性関係の縺(もつ)れなどで、積年の反発感情が炸裂した挙句、直接対決の修羅場を作り出してしまうに至った。

若きベルイマンは、梃子でも信念を変えない頑固一徹な父を殴り倒し、家出を敢行したのである。

その後のベルイマンのシュトルム・ウント・ドラングについては、本来の才能を開花させていく精神疾駆によって語られる通りである。

以上の経緯を見ていく限り、ベルイマンの精神疾駆には、狷介(けんかい)とも思えるような、梃子(てこ)でも信念を変えない厳格な父との、ダイレクトな葛藤と相克なしに生まれなかったとも言えるのである。

ここで重要なのは、父エーリクは厳格であっただけで、ミヒャエル・ハネケ監督の「白いリボン」(2009年製作)の牧師のように、偽善・欺瞞的な人間ではなかったということだ。

まさにその事実こそが、思春期のベルイマンの自我を、出口なしのダブルバインドで捕捉してしまうような、歪んだ自我を作らせなかった決定的な要因であるように思われるのである。

それ故、ベルイマンもまた、本作の主人公のように、横暴な父の暴力に対して殴り返すことで社会的自立を意味するだろう、大いなる旅立ちを可能にしたのである。

ベルイマンにとって、殴り返した後、大いなる旅立ちに向かうという身体疾駆を、「人生が絶望的でも、戦うことが人間の義務だ」という印象的なメッセージで、この映画を括り切る必要があったのだろう。

その意味で本作は、自立に向かった若き映像作家が、通過儀礼の如く、越えなければならない障壁と対峙し、それを克服していく思いが深く滲み出ていた一篇だったと言える。


そんな本作は、台詞の応酬だけで物語をまとめていく、ベルイマン流の物語世界がフル稼働していたが、そこもまた、本来のベルイマン(画像)らしい内面的掘り下げが脆弱な瑕疵が目立ってしまっていた印象を拭えないのである。

しかし、父親との直接対決の修羅場で、殴り返して旅立っていくという映画を作らなければならない内的必然性があるという思いは、ひしと伝わってきた作品だった。

秋のソナタ」(1978年製作)と同様の文脈において、若きベルイマンの内的必然性が、このようなドロドロの相克を描き切る表現に結ばれた映画だったと私は見ている。

(2011年12月)

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