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    4 週間前

2008年11月17日月曜日

叛乱('54)         佐分利信


<「取得のオプチミズム、喪失のペシミズム」―― 短期爆発者の悲惨と滑稽>


1  獄舎内に渦巻く憎悪のうねり



昭和10年8月12日、一人の男が陸軍省内の軍務局長室に押し入って、入室するや否や抜刀して、そこにいた軍務局長を袈裟懸けに斬り殺した。

斬殺された者は、永田鉄山少将。時の軍務局長で、当時の軍部官僚派をリードしていた統制派の実力者でもあった。

殺害した張本人は、相沢三郎。現役の陸軍中佐であり、このとき台湾への転出命令を受け、その赴任先に向かう途中の凶行だった。

信じ難いことに、相沢中佐は事件後も平然と台湾に出向する意志を持ち、捕縛されるまで一貫して冷徹な態度を崩さなかった。

それは、当時の軍部内の異様な空気を示すものであり、その空気はまもなく、「2.26事件」という昭和史最大のクーデターに集中的に流れ込んでいったのである。そのクーデターを起こした青年将校たちの合言葉こそは、「相沢に続け」というものだった。

その後、映像はクーデターに失敗して捕縛された青年将校たちが、軍事法廷の場で死刑の判決を下される場面にシフトした。

裁判長より、次々に、「叛乱罪」の名で宣告を受ける将校たち。

その名は、元陸軍歩兵大尉、安藤輝三、元陸軍歩兵大尉、香田清貞、元陸軍歩兵中尉、栗原安秀、浪人、磯部浅一、浪人、村中孝次、等々。

相沢三郎(ウキ)
彼らは代々木陸軍刑務所に収監されていく。

画面は彼らが収監された後に、相沢三郎の処刑のシーンを映し出した。

「天皇陛下、万歳!」

目隠しを拒んだ相沢は、そう叫んで息絶えた。

相沢の処刑の銃砲は、演習音で不分明にされていて、その音を獄舎内で聞く将校たちは、口々にその怨念を刻んでいく。

「卑怯な奴らだ!演習の音で処刑を誤魔化しやがる」と村中。
「叛乱罪とは何だ!暗黒裁判だ」と栗原。
「皆、統制派の奴らの謀略だ」と磯部。

獄舎内に渦巻く憎悪のうねりが、閉じ込められた限定的空間の中を暴れていた。


―― 映像は、事件の背景をナレーションで説明していく。

事件直後の柳条湖の爆破現場(ウキ)
「昭和6年、満州事変(注1)と前後して、全国農漁村は、打ち続く東北地方の凶作など、極度の疲弊にあえぎ、世は不況のどん底にあった。折りしも、帝人事件(注2)を始め、所謂、昭和五大疑獄事件が相次いで起こり、政界財界官界の腐敗堕落はその極に達していた。

一方、陸軍部内も満州事変による軍備拡張の結果、機構人材共に著しく膨張し、よって生じた二つの派閥、即ち、現代戦を遂行するためには軍事産業を大々的に拡張し、強力な国家総動員体制を敷くことを主張する統制派と、天皇親政の下に国家改造を断行し、依って国難打開を計らんとする皇道派がそれである。

当時、皇道派の青年将校たちは、資本主義社会の矛盾と罪悪 ―― つまり農漁村の疲弊という犠牲の上に立った財閥の繁栄、それと結託した政界軍閥の堕落腐敗に極度の憎悪と義憤を感じていた。相沢事件は、二派対立の真っ只中に投げられた爆弾であった。そして皇道派青年将校たちは、相沢に続け!相沢を見殺しにするな、の合言葉の下に、昭和11年2月26日 ―― 未明、兵数百名を動員し、元老重臣を襲撃、歴史上未曾有のクーデターを敢行したのである」


(注1)1931年(昭和6)、奉天(現在・瀋陽市)郊外で起きた柳条湖事件(柳条湖で満州鉄道の線路を関東軍が爆破した事件)を機に始まった、中国東北地方への侵略戦争。翌年、「満州国」が樹立され、以後、「15年戦争」(実際は継続的な戦争ではなく、この概念把握の不合理性を主張する意見も根強い)とも呼ばれる日中戦争の発端となった。                                           

(注2)1934年(昭和9)、帝人(帝国人造絹糸)の株式売買を巡って、会社関係者や官僚が逮捕された事件。斎藤内閣が総辞職したが、全員無罪となり、軍部による倒閣の陰謀説が有力。           



2  読経する男



西田税・ブログより転載
西田税(みつぎ)という男がいる。

彼も獄舎内にいて、死刑の判決を受けていた。

彼は北一輝(注3)の指導下にあって、クーデターの黒幕とされた人物である。

その西田が自分の房舎で腕を組み、落ち着き払っていた。

そんな男の一言。

「来るべきものが来たな」

その言葉に、元軍人で、事件の主導者の一人であった磯部は、強い口調で反応した。

「西田さん。このまま犬死はしませんよ。俺は地獄に行っても、偉い奴らを片っ端から告訴してやる」

西田は磯部に反応せず、隣の房舎で経を唱えている北一輝に語りかけた。

「北先生、この裁判は上告も許されないんですか?」

北一輝(ウキ)
北もそれに反応せず、読経している。



3  無秩序の液状がラインを成して突沸するシグナルとなって  



―― 映像は、ここで事件前の二人の会話を挿入した。

北一輝は自分の占いの結果を、西田に話した。

「暗雲がかかっているというのです。相沢さんには気の毒ですが・・・」

このとき、相沢事件の公判が展開中で、青年将校たちは公判の行方に固唾を呑んで見守っていた。

「公判闘争をやってる若い連中は、じっとしていませんよ」
「青年将校のことは君に任せてあるんだから、そこを何とか抑えてもらうんですね」
「口先だけではもう、若い連中は言うことを聞きません。抑えるのは抑えるだけの理由がなければ・・・」
「西田君、日本で革命を成功させるには、方法は一つしかないんです。つまり天皇を革命軍の方に奪取する以外にはありません。青年将校も恐らくそこまではできないし、またやっても日本全体が収拾がつかなくなります」
「では、先生の書かれた『日本改造法案』は机上の空論ということになりますが・・・」
「まあ、今はね。私の関係した支那革命もそうだったが、革命には革命の時期があるし、大体が中央から起こるものではない。地方から火の手が上がってこなければ難しい。とにかく、ここ当分公判闘争で済むことです。青年将校に理解の深い柳川中将が公判の責任者ですから、悪いようにはしないでしょう」


(注3)主著である「日本改造法案大綱」によって、皇道派の陸軍青年将校に甚大な影響を与えた国家主義者。彼を慕う右腕の西田と共に、二・二六事件に連座して処刑されたが、事件の直接的な指導者ではなかったことは、既に周知の事実。          


その柳川中将は、相沢中佐に代わって台湾に「島流し」に遭ってしまって、青年将校は内に抱えたストレスを今にも吐き出さずにいられない精神状況に置かれていた。

西田は、将校の中でも最も過激な栗原中尉のことが案じられて、彼の上司に当たる、第一師団歩兵第一連隊の山口大尉に相談した。

まもなく映像は、その山口の前で、栗原がその思いの丈を吐き出す描写に繋がっていく。

「“今に何とかする。今に何とかする”そんな言葉はもう聞き飽きたんです。一体、山口大尉殿なんか、同志として我々を止める以外、何をしてるんですか?」
「じゃあ聞くが、君たちは事を起こして成算があるのか?」
「そんなことは、あったってなくたって、構いやしません」
「無茶を言うな」
「無茶なのは、軍部ですよ。満州の守りもできていない内に、関東軍は蒙古(注4)の方へ手を伸ばそうとしているじゃないですか?また戦争です。戦争が始まれば、死ぬのは貧乏百姓の倅たちですよ」
「そんなことは分っているよ」
「いえ、あなたは分っていません。あなたは弾の下を潜ったことはないんです。山口大尉殿、自分は満州事変に行って、この眼で見てきました。死んだ我々の部下は、一人だって天皇陛下万歳なんて言いやしません。皆、自分の家のことを心配しながら死んだんですよ。農村じゃ、家畜より先に娘を売っているんです。それなのに、政治家や財閥は太る一方です。そんなことで、兵隊に死んでくれなんて教育できますか」。
「まあ、そう捲し立てるな」
「国内の疲弊を何とか手を打つこともできずに、ただズルズルと戦争に引き摺られていく岡田内閣なんか、生かしちゃおけません。犬養首相を殺しても、15年の刑です(注5)我々が殺ったって、まさか死刑にはせんでしょう。今度は面白いですよ。相沢事件どころじゃないですからね。自分は断然やりますよ。失礼します」

栗原は、最後に楽天的な言葉を残して、カフェを後にした。


(注4)「蒙古」という言葉には、「間抜けで、古臭い」という意味があり、明らかに漢民族による蔑称であるが故に、モンゴルの人たちは、「蒙古襲来」などに代表される日本史教科書の用語使用の禁止を求めている。因みに、前出の「支那」という語も同様で、差別語の如く使用された時代があったことは事実。それは、外国人が中国を呼ぶ際の蔑称に近い言葉と言っていい。

三上卓(ウキ)
(注5)1932年5月15日、海軍急進派の青年将校が首相官邸を襲撃し、「話せば分る」と答えた犬養毅首相を暗殺した事件。首謀者の海軍中尉である三上卓は、当時の政治の腐敗への国民的怒りから、助命嘆願運動が巻き起こり、その刑罰は、「叛乱罪」による禁固15年という軽微な処分となった。


栗原はその足で、連隊近くの竜土軒に向かった。

そこは、皇道派青年将校の溜まり場になっている西洋料理店。

そのアジトには、「11月士官学校事件」(クーデター未遂事件)後で停職処分に遭い、その後、統制派軍部を批判して免官となった村中孝次がいた。

そこに村中と共に免官となった磯部がやって来て、驚くべき情報をもたらした。それは、彼らの所属する第一師団がその年の3月に、満州に派遣されるという「島流し」の情報。いきり立った栗原は、磯部らと早急の決起を求め、何としてでも2月中に事を起こすことを誓い合った。

決起を起こすには、歩兵第三連隊の安藤輝三の協力が絶対的に不可欠であると考えた栗原は、同じ皇道派でありながら、決起に消極的な安藤をどうしても説得する必要があったのである。

まもなく、竜土軒で皇道派将校たちの密議が開かれた。その場で、栗原中尉は安藤大尉に迫っていく。

「安藤大尉殿、じゃあ、あなたこのまま満州に渡るつもりですか?」
「安藤、どうなんだ?」と磯部。

左から安藤、新川、村中、磯部(映画)
その場に参加しながらも、寡黙を貫いている安藤に迫っていく。

「俺は今日、公判報告を聞きに来たんだ」

そう言って、安藤は部下の新川(あらかわ)中尉を連れて帰ろうとした。

「逃げるんですか」と栗原。
「栗原、あんまりガタガタするの止そうよ」と新川。
「何!もう一度言ってみろ!」と栗原。この男は、一人でいきり立っている。

帰隊しようとする安藤を、村中は別室に連れて行った。そこで決起の必要性を説く村中と磯部に対して、部下を持つ現役の将校である安藤は、決起の現実性の困難さを説いて反駁した。

「つまりですね。事を起こした場合、陛下がどう思われるか、よく考えて見なければならないと思うんです。それに事が不成功に終わった場合、我々は陛下の軍隊を犠牲にすることになります。あなたがたは現役を退かれた方です。しかし自分は現役の中隊長です。部下に対して重大な責任があります」
「村中さん、直接行動は国家が立つか立たないか、滅亡するかしないかの場合に限って、初めて是認されるべきものだと思うんです」
「じゃあ、貴様は現状のままでいいと言うのか?」

安藤に代わって、新川中尉は決起の非現実性を論理的に説いていく。

「いいとは言いません。自分も現状には不満です。しかし現状が悪いからといって、直接行動に訴えたんでは国家の秩序は成り立ちません。満州の開発が進み、日本製の商品は海外の市場に氾濫しています。この国家の現状を見て、滅亡の危機にあるとは絶対に思えないのです」

それを聞いた磯部は、満州で肥えているのは一部の財閥のみであって、日本の民衆の苦しみは全く変わっていないと反駁する。新川はそれにも反駁するが、議論は最後まで平行線のままだった。

そして安藤と新川に共通する問題意識は、天皇が決起を望んでいないだろうという認識だった。結局、その点が最も意見の分かれるところだったのである。

議論の枠外にあって、「君側の奸(注6)を斬る」と息巻く栗原中尉だけが浮いている状態だった。


(注6)君主の側近として、私欲で動く者のこと。この場合、天皇の信頼厚い統制派の軍人たちや政治家のことを指し、青年将校たちは彼らの暗殺を合言葉にしていた。


山下奉文 (ウキ)
しかし、まもなく急進派たちは、当時皇道派の実力者であった山下少将(注7)の檄を耳にすることで、激しく意気が燃え盛っていく。

「岡田なんか、ぶった斬るんだ」

山下のこの檄が、栗原中尉の情動に火を付けることになった。そこに他の将校たちも意気投合して、一気に時代の空気は決起へと流れ込んでいく。

それは、無秩序の液状がラインを成して突沸するシグナルとなったのである。


(注7)後にマレー作戦・シンガポール侵略でその名を馳せ、マニラに於ける住民虐殺の責任を問われて、現地裁判で処刑されたた山下奉文陸軍大将のこと。二・二六事件では、皇道派の幹部として決起将校に理解を示したとされるが、謎も多い。



4  些か澱んだ空気が完全に払拭されたとき



「早速、実行班を編成しよう」という村中の具体案に、彼らのテロの標的の名が、栗原や香田、磯部らから次々に挙げられていく。

第一目標として、岡田啓介首相の名が挙げられた後、斎藤實、鈴木貫太郎、牧野伸顕、高橋是清、渡辺錠太郎と続いたところで、村中は、首相官邸、陸軍省、警視庁の占拠までしなければ「維新革命」の成功はないと説く。

そうなると、一連隊の兵力のみでは困難であるという結論に達した彼らは、その会合に同席した安藤大尉の決起の必要性を強く促した。

「考え中だ」と言う安藤に、磯部と村中は激しく決起を迫った。

そこに、終始寡黙を通していた野中大尉が決起の表明をしたことで、その場の空気は更にテンションを上げていく。

野中四郎大尉は、当時32歳。安藤と同じ歩兵第三連隊の中隊長の一人であったことで、その影響力は甚大だった。

今や安藤大尉だけが、その空気に入り込めないでいる。そんな尖った空気の異様さの中でも、安藤は冷静に反応した。

磯部浅一・ブログより転載
「磯部、もう二三日考えさせてくれ」

冷静な安藤の反応が、却って磯部の感情を刺激した。

「貴様、そこまで意気地なしだったのか。見損なったぞ!」

それでも安藤は、自分の思いを正直に吐露する。

「俺は何と言われても、納得できるまで動き出せない人間なんだ」
「もう貴様には頼まん!帰れ!帰れ!」

磯部の怒号を受けて、安藤は新井を連れて帰って行った。


帰属部隊に戻った安藤は、孤高の状況下で深く苦悶していた。

その安藤の元に、一人の上等兵がやって来た。

彼は茨城出身のラッパ兵で、故郷の農村の厳しさを訴えた後、上官に対してきっぱりと言い放ったのである。

「立ち上がって、農民を救って下さい」

この時代の農村の窮状を誰よりも知る安藤は、静かにその言葉を受容した。

真崎甚三郎(ウキ)
一方、その頃、磯部は皇道派の頭目ともいえる真崎甚三郎大将に会っていた。

その目的は2月中の決起を伝えて、クーデター後の政治的処理を依頼するものだった。

そのとき、真崎は一介の浪人でしかない磯部に対して、言質を与えるような言葉を刻んだのである。

「このままの現状においたら、血を見ないわけには収まらんだろう」
「すると、閣下は?」と磯部。
「いや、何ごとか起こるなら、何も言ってくれるな・・・」

真崎はそう言って、磯部に一升瓶を持たせて帰したのである。因みに、その酒の銘柄は「雄叫び」だった。

いよいよ、青年将校たちの決起の段取りが具体化していった。

作戦のリーダーは、野中四郎大尉。その段取りを進めている場に、時期尚早の決起を諌めるため、西田税が入って来た。

「革命には革命の時期というものがある。有力な支持者が中央を去っている今、事を起こした後の収拾を誰にやってもらうつもりだ?今は時期じゃない。思い止まるべきだ」
「いや、確信があります。真崎大将がいます。荒木閣下(注8)も、山下少将も我々を支持しています」
「たとえそうでも、軍隊を使用して国民に恐怖心を起こさせてはダメだ。国民がついてこなければ、革命は成就しない」

今、そこに形成された空気は、このような西田の諌言を厳しく拒むものがあった。

「あなたにはあなたの役割があるし、自分たちには自分たちの役目があるんです。もうお話を伺う必要はありません」

村中孝次・ブログより
この栗原の反応を補足すべく、村中は西田に半ば強要するような口調で頼み込んだ。

「我々が決起した場合、あなたには外部工作をお願いします。陛下の軍隊を利用しても、我々の真意さえ通じれば、陛下は必ず御嘉納(注9)になります」

それに反応しない西田に対して、磯部は恫喝口調を刻んだ。

「失礼だが、あなたの命をいただいても強行します」

西田はその場を去るしかなかった。

その西田は、歩兵第一連隊の山口大尉の元を訪れて、クーデターは不可避と見て覚悟を確認し合ったのである。

磯部らの前に、一人の男が爽やかな表情で現れた。安藤大尉である。

「俺は決心がついた。俺はやるぞ!」
「安藤、よく来てくれた!維新革命万歳だ!」

その磯部の雄叫びは、その場の空気を決定づけた。

荒木貞夫(ウキ)
それは、連隊内で些か澱んだ空気を完全に払拭するのに相応しい光景である。高揚した空気が一つに束ねられて、後は決起を待つばかりだった。


(注8)荒木貞夫陸軍大将。真崎甚三郎大将と共に皇道派の頭目とされた人物で、二・二六事件では同情的態度をとるが、決起将校に原隊復帰を呼びかけていたとも言われる。極東国際軍事裁判でA 級戦犯となり、終身刑を言い渡されるが、後に仮釈放の身となった。

(注9)「菊正宗HP」によると、「『嘉納』とは、「ほめ喜んで受け取ること」。因みに「大辞林」によると、「目上の者が喜んで贈り物・進言などを受け入れること」いう意味である。



5  澱む空気の転変激しく(1)



その日がやって来た。

昭和11年2月26日未明、東京の町は雪化粧に染まりつつあった。

二・二六事件の画像①(ウキ)
栗原、野中、安藤ら歩兵第一、第三連隊の各中隊長は麻布の各連隊の、白く変色しつつある広い庭に、千名を超える兵を集合させていた。

それは、世に言う、「2.26事件」の血なまぐさい4日間の始まりを告げる瞬間だった。

事件の内容は、ナレーションで流されていく。当然そこに映像が重なっている。 

「陸軍大臣官邸占領に、香田大尉、丹生(にゅう)中尉、民間側、磯部、村中を加え、約170名。栗原中尉、林、池田各少尉に、豊橋教導学校の対馬中尉を加えて、下士官兵約300名、首相官邸へ。高橋部隊は約120名をもって、蔵相高橋是清を殺害。斎藤實内府襲撃は、坂井部隊約200名、高橋、安田両少尉以下約30名は、渡辺教育総監を襲撃。歩三安藤隊200名は、侍従長鈴木貫太郎を襲撃。警視庁占領には、野中大尉、常盤少尉以下500名」

磯部、村中、香田大尉は陸軍大臣官邸を占拠し、そこを決起部隊の中枢地点として、クーデターの内実を固めていく。

狼狽(うろた)える川島陸軍大臣を事件の勢いで屈服させるや、まもなく、そこに真崎大将が陣中見舞いに現れたとき、磯部は自分たちの行動の正当性を説き、真崎の善処を求めたのである。

「宮中に参内、陛下に拝謁した川島陸相は、『速やかに叛乱軍鎮圧の対策を講ぜよ』との叱責を受け、直ちに東溜りの間において、軍事参議官会議を開き、非常事態収拾について協議したが、結局、天皇の真意に悖(もと)り、決起部隊の士気を鼓舞するが如き告示を発することになったのである。所謂、陸軍大臣告示がこれである。通達者は― 山下奉文」(ナレーション)

一、 決起の趣旨に就ては天聴に達せられあり
二、 諸子の行動は国体顕現の至情に基づくものと認む
三、 国体の真姿顕現(弊風を含む)に就ては恐懼(きょうく)に堪へず
四、 各軍事参議官も一致して右の趣旨に依り邁進することを申合せたり
五、 之れ以外は一に大御心に待つ

永田町一帯を占拠した兵士・二・二六事件の画像②(ウキ)
この告示が、決起将校たちを勘違いさせる原因になった。

要するに彼らは、自分たちの思いが天皇に届き、その行動が受容されたと考えたのだ。

しかしその後の展開は、彼らを「決起部隊」から「叛乱軍」という名称に変容させる事態を出来させたのである。

ナレーションの始まりから、その経緯を簡単に追っていこう。

「その夜、戦時軍備令が発令。決起部隊は新たに『地区隊』という名称を与えられ、事実上叛乱軍ではなく皇軍の一部隊となった。そして決起部隊は、真崎首班、柳川陸相の強力維新内閣の実現を待つのみであった」

ここまでは、将校たちの思い通りにまだ進んでいる。

翌27日、磯部は西田と情報交換をしていた。

西田はどこまでも、真崎首班の内閣を作ることを中心に行動を進めろと指示する。

そこに、彼らを叛乱軍として考える天皇の指示により、討伐隊が結成されたという情報が入るが、共にその信憑性を疑っていた。

真崎が陸軍大臣官邸を訪れた。

真崎は、「一切は自分に任せて、お前たちは一刻も早く引き揚げろ。悪いようにはせん」と述べるに留まった。将校たちにはその言葉の意味を測りかねていて、明らかに当惑している。

磯部は西田に指示を仰いだ。

西田の指示は、参議官の回答があるまで絶対にその場所を動くな、というもの。勿論、それは北一輝の考えでもあった。

蹶起直後の半蔵門・二・二六事件の画像③(ウィキ)
翌28日、大きな変化が起こった。

午前5時、叛乱軍討伐の奉勅命令下ったのである。

青年将校たちに動揺が走った。逸早く、栗原中尉は自決をすると言い出したのだ。

その栗原に、上官である山口大尉は言葉をかけた。

「栗原中尉、貴様は偉いぞ。立派だぞ!」

その言葉に、磯部は激しく拒絶反応を示した。

「俺は嫌だ!君たちは本当に自決する気なのか!今俺たちは自決病に取り憑かれてしまったら、俺たちを信頼してここまでついて来た兵隊たちはどうなるんだ!嫌だ!嫌だ!俺は嫌だぞ!偉い連中は、自分の責任のことばかり考えているんだ。丸められちゃいかんぞ!」

磯部のこの気迫に、誰も異を唱えられない。

その中で、沈黙を守っていた安藤が磯部に同調し、自決をきっぱりと否定したのである。

しかし、名目上のリーダーである野中大尉は、兵士たちのことを考えて官邸を引き揚げると言い出したのだ。

彼は真崎大将に全て一任して、撤退すると約束してきたのである。

それを聞いて怒る安藤に、野中は静かに語った。

「すまん、俺が悪かった。しかし、安藤。俺は兵隊を連れて来たのが間違っていたと思う。兵隊は命令だからついて来たが、この行動が納得できないまま、一般民衆と対立している。国民がそっぽを向こうとしているのも、俺たちの無法さにある。それが結局は不法な力での要求だから、俺たちの精神が分ってもらえんのだ。見ろ、今の俺たちはその不法な力によって、逆に報われようとしている」

普段は寡黙な野中の長広舌に、栗原は大声で笑い出し、「もう、止めだ!」と叫んで、机の上に大の字に寝転んだ。

安藤輝三・ブログより 
この男の変わり身の早さに、安藤は怒りを露にした。

最後まで決起に参加することを躊躇(ためら)った男は、最後まで抵抗することを諦めない男に変貌していたのである。

「俺は一人になってもやるぞ!」

彼はその一言を残して、部屋を後にした。磯部もそれに続いた。

「天下分け目の革命戦争に持っていくんだ!」

村中も続いた。

彼は机の上に寝転んでいる栗原に、闘争の継続を呼びかけた。

「やりましょう!皆、自分の持ち場に帰って、気合をかけましょう!」

栗原はあっさりと自決を撤回した。

どうやらこの男は、状況の空気次第で簡単に心が動いてしまうようだ。

しかしそれは、官邸を支配していた沈鬱な空気を一変させるに充分だった。



6  澱む空気の転変激しく(2)



2月29日。

大空に浮かぶアドバルーン。

そこに垂れ下がる幕に書かれた文字は、「勅命下る。軍旗に手向かふな」。

そして、拡声器を使って流されるラジオ放送の言葉は、明らかに決起部隊が叛乱軍にシフトしたことの証明を刻むものだった。

「敕命が発せられたのである。既に 天皇陛下の御命令が発せられたのである。お前たちは上官の命令を正しいものと信じて、絶対服従して誠心誠意活動してきたのであらうが、既に 天皇陛下の御命令によって、お前たちは皆復帰せよと仰せられたのである。

この上お前たちがあくまでも抵抗したならば、夫は敕命に叛抗することになり、逆賊とならなければならない。正しいことをしていると信じていたのに、それが間違っていたと知つたならば、いたずらに、今迄の行き懸りや義理上から何時までも叛抗的態度を取って 天皇陛下に叛き奉り、逆賊としての汚名を永久に受けるようなことがあってはならない。

今からでも決して遅くはないから、直ちに抵抗をやめて軍旗の下に復帰するようにせよ。そうしたら、今までの罪を許されるのである。お前たちの父兄は勿論のこと、国民全体もそれを心から祈っているのである。速やかに、現在の位置を捨てて帰って来い」

投降を促すアドバルーン(ウキ)
この放送に動揺した将校の中から、兵を引き揚げると決意する者たちが相次いでいく。更に、有名な「下士官兵に告ぐ」というビラが空から撒かれて、それを兵士たちが読んでいる。


下士官兵に告ぐ

一、 今からでも遲くはないから原隊に歸れ
二、 抵抗するものは全部逆賊であるから射殺する
三、 お前逹の父母兄弟は國賊となるので皆泣いてをるぞ

二月二十九日    戒巖司令部


明らかに青年将校の間には、クーデターを継続する闘争者としての意志が削られつつあった。

その中で、野中大尉が自決したのである。

彼は名目上のリーダーであり、「決起趣意書」の筆頭名義人であることは周知の事実。その男が陸軍大臣官邸内で拳銃銃殺したのである。

山王ホテルに陣取っていて、その報に接した安藤大尉は、自分が率いた中隊の兵士たちを広場に集め、そこで、この決起に参加した兵に感謝する思いを刻んだのである。

「決起以来、皆はよく命令を守り、一糸乱れずよくやってくれた。この寒い雪空の下で、ひもじい思いに耐えて、長い間、本当にご苦労だった。中隊長としてお礼を言う。我々は行動を起こして以来、尊王討奸の目標に仕組んだ。しかし時に利あらず、賊軍の汚名を蒙らんとしている。だが我々の行なわんとしたことは、国体の本義に基づいた皇道精神であることを、永久に忘れないように。皆は、これから原隊に帰るのだ。入営以来、よくこの中隊長に仕えてくれた。重ねてお礼を言う。体を大切にし、これから満州へ行って、しっかりお国のためにご奉公するのだ。では、これから宮城を遥拝する」

思いを込めた安藤の長広舌に、兵士たちの間から啜り泣きする者が現れて、それは、如何にこの中隊長が兵士たちから慕われていたかを窺わせるものだった。

安藤は宮城を遥拝した後、「汨羅(べきら)の淵」(注10)を将兵共に、高らかに歌い上げていく。


“泪羅の淵の波騒ぎ 巫山(ふざん/注11)の雲は乱れ飛ぶ 混濁の世に我れ立てば 義憤に燃えて血潮湧く。

昭和維新の春の空 正義に結ぶ丈夫(ますらお)が 胸裡百万兵足りて 散るや万朶(ばんだ)(注12)の桜花。”


その長い歌が佳境に入る頃、安藤大尉はホテル内に戻って、矢庭に拳銃を取り出して自決しようとした。 

それを他の将校たちが腕ずくで止めて、彼の自殺は未遂に終わったのである。

「死なせてくれ、磯部。俺は負けることは大嫌いだ!死なせてくれ!」
「早まるな、安藤!死ぬときは、皆一緒に死ぬ」
「俺は裁かれるのは嫌だ!」

突発的状況下での、安藤と磯部の押し問答があって、そこに安藤の死を憂うる兵士たちの叫びで、一応事態の収拾が図られた。

その安藤を含む将校たちの会議が、まもなく開かれた。

会議のムードは磯部の自決案に流れかけた。そこでも強く叫ぶのは、栗原中尉だった。

「ようし、俺が最初に見本を見せてやる!」

自決のムードがそこに高まったとき、彼らの自決を待っていた軍上層部の面々が押し入って来て、「貴様たちは、まだ生きていたのか」の罵倒が将校たちに飛んできた。ここで流れは急変したのである。

「俺はもう自決なんか止めるぞ」

磯部はそう叫んで、同志たちの自決ムードを阻もうとした。

「俺は嫌だ。縄目の恥を受けるのは嫌だ」と栗原。

このとき、彼は死ぬつもりでいた。

「それは俺も同じだ。だが、今死んだら負けだぞ。我々が決起した意味は、国民には永遠に分ってもらえないぞ。いいのか、皆それで」

この磯部の翻意に反対する将校もいたが、栗原は「そうだ、5.15だって、死刑は一人もいない」などと発言し、その場を支配していた自決ムードは鎮まった。

芝浦埠頭に上陸する海軍陸戦隊・二・二六事件の画像④(ウキ)
彼らはその直後、全員が護送され、代々木にある陸軍刑務所に収監されたのである。


(注10)「昭和維新(青年日本)の歌」とも言う。作者は、5.15事件の首謀者であった海軍中尉三上卓。歌の内容は、その昔、楚(春秋戦国時代下で、長江中流域を領有した国)の詩人であった屈原(屈平)が、祖国を思い泪羅河に投身自殺したという逸話に因んだもの。憂国義憤の情を歌ったその歌は、今でも右翼の街宣車で流されている。

(注11)中国、重慶市北東部の巫山県にある観光名所で、古くから名勝地として知られている。

(注12)枝が多くの花を付けて、垂れ下がっているという意味。



7  「天皇陛下万歳!」の声が高らかに空を劈いたとき



佐分利信監督 ブログより転載
ここで映像は、ファーストシーンに戻っていった。

房舎の中で、将校たちは口々に不満を発していた。それを耳にする北一輝は、彼らを諭すように、しかし厳しく批判した。

「止めんか!見苦しいぞ!軍法会議は、陛下の名に於いて行なわれたのだ。君たちは陛下の御ためなら、いつでも死ねるはずではなかったのか。陛下は絶対だ・・・」

その言葉で、房舎の中は鎮まってしまった。それは、青年将校たちの精神的支柱となった北一輝の存在感の大きさを物語る描写でもあった。

その後の映像は、房舎の外での北と西田との会話。

「先生。先生はどうしてさっき、あんなこと言われたんですか?」

「若い者たちを、静かに死なせてやりたい。ただそれだけです。上告はおろか、弁護士もつけられないような裁判では、今更どうすることできないではないですか。若い連中のことだ。信念を持たせてやらなければ死ねない。彼らが命を捧げて信じ切ってきたもの、妄信といっても言い、それが死刑を前に崩れてきたら、どうなる?やはり天皇陛下万歳を言わせて、死なせてあげましょうよ」

まもなく死刑の判決を受けて、北一輝が隣の房の西田にしみじみと語った。

「西田君。君はいつか『日本改造法案』は机上の空論だと言ったな。その通りだったね。この国では永遠に革命は成功しないよ。幸か不幸か・・・」

西田はそれに答えず、自分が言い渡された予想もしない死刑判決に触れた。

「若い連中には、我々の判決は黙ってましょう」
「うん、その方がいい」

既に達観しているかのような、北一輝の表情が印象的に映し出された。

まもなく、処刑の日がやって来た。

処刑は三グループに分かれて、その最初の5人が処刑場に引き立てられていく。

頭には白い頭巾が被されて、将校たちは悟った者のようにその歩を刻んで、自分のこの世の終焉の場所に辿り着く。

(映画)
その場所には、彼らの個体がその身を沈めるほどのスペースの溝が掘られていて、その奥に仮構された木製の十字の杭に縛られた。

銃声が激しく木霊し、五人の意思はその律動を完全に止めたのである。その中に、安藤輝三大尉もいた。

更に、次のグループがその名を呼ばれて、「昭和維新の歌」を口ずさんで、その身を埋める場所に踏み込んでいく。

「天皇陛下万歳!」の声が高らかに空を劈(つんざ)いたとき、彼らの肉体は動かなくなっていた。

その中には、最急進派だった栗原安秀中尉もいた。

最後に、三つ目のグループが処刑されることで、現役の青年将校たちの生命はその終焉を遂げていったのである。

一年後、民間人である4人の処刑が断行された。

磯部と村中が先に処刑され、その後、北と西田の処刑が断行されたことで、事件で死刑判決を受けた17名の男たちの全ての生命が散っていったのである。


*       *       *       *



8  時代状況に呼吸する者の息吹を濃密に再現する迫真性



映画「叛乱」は、過去に製作された多くの「2.26」ものの作品の中で、事件を客観的に、且つ、リアルに描いた点に於いて出色である。

そこにはメロドラマの変種のような際物性や、感傷的なヒロイズムに流される幼児性、更に、重要な歴史的背景や人物を排除する恣意性がなかった。

何よりも本作は、登場人物たちの際立つ存在感が、当時の時代状況に呼吸する者の息吹を濃密に再現する迫真性に満ちていて、事件についての未解明な情報を残す時代的限定性を持っていたとは言え、しっかりした原作(「叛乱」立野信之著)をベースにした丁寧な脚本と演出は、声高に唸るだけの独善性が削られていた分だけ抑制的であった。

それもそのはず、本作が製作されたのは、震撼すべき昭和最大のクーデター事件が勃発してから僅か18年後の、戦後から数えても、高々9年しか経ていない時代状況下であったということを考えれば、蓋(けだ)し驚くべきことである。

未だこの国が、戦後の高度成長のうねりを澎湃させていく以前、映画産業が娯楽の王様であった時代に、恐らく、戦前の軍国主義の反省的視点を失うことなく、そこに集中的に束ねられたエネルギーが、時代にセンシブルな問題意識に結実したであろうことは想像に難くない。

右から安藤、香田清貞、栗原、磯部(映画)
ほんの少し前の時代の戦争の苦渋を舐めたに違いない役者たちの表現力は、その切迫した実在感を再現するに相応しい時代の感覚を、ごく普通に切り取っていたのである。

それは、21世紀の時代のCG再現の技巧に依ってでは、とうてい表現し切れない描写のリアリズムの限界が、その時代に於いてこそ可能であったことを検証する作品でもあったと言えようか。



9  取得のオプチミズム、喪失のペシミズム ―― 短期爆発者の悲惨と滑稽



さて、本作の客観的リアリズムに対する私の評論もまた、事件についての私論を展開する方法論によって、本作に迫って行きたいと考えている。

その際、言及の中心となるテーマは、「取得のオプチミズム、喪失のペシミズム ―― 短期爆発者の悲惨と滑稽」であり、そこで取り上げる青年将校は栗原安秀である。なぜなら彼こそ、テーマ言及の中枢に位置する人物であると考えるからである。

「取得のオプチミズム、喪失のペシミズム」―― それは、この国の人々の危機反応の様相を端的に把握する概念として、私が作った造語である。

―― それは、こういうことだ。

大陸に住む人々なら様々に苦労しなければ手に入らないような価値、例えば、「安全」とか、「自由」、「自然の恵み」、「生活保障」等々が、この国では低コストで取得できるので、その価値の本当の有り難さが認知できないのにも拘らず、価値が生活の内に溶融してくると、それを取得することの本来的困難さに遂に到達できぬまま、価値内化の行程が自然に完了してしまうことになる。

そこに、現実的理性によるシビアな把握が媒介しないから、視線は何となく微睡(まどろ)んでしまうのだ。これが、「取得のオプチミズム」である。

だから価値に裂け目が生じてきても、人々の安心感に動揺を与えるまでには時間がかかる。人々が素朴に拠っていたある種の恒常性の維持が立ち行かなくなったとき、人々の意識に波動が生じるようになる。

安心感の動揺が生まれても、そこに補正を加える訓練の不足が、危機の突発事態を阻む能力の脆弱さをしばしば晒すことになるのである。

これが、危機の現出を常に突発的なイメージでしか捉えられなくなってしまうのだ。その分だけ人々は喪失感覚を極大化させてしまって、事態への反応を過剰にさせていく。ハルマゲドン感覚を目前の危機からもらってしまうのである。これが、「喪失のペシミズム」である。

結局、価値をその本来的な内実までも汲み取って、入念に育て上げてこなかった付けが、最も肝心な状況で現出してしまうということである。そして人々の反応の過剰さと為政者の過剰さが結合して、これがウルトラ・ラジカリズムを生むという最悪の事態の招来も全く起こりえないことではない。

なぜなら、「喪失のペシミズム」の止揚は、それを破壊させたと思わせるような極端な展開を開く以外にないかも知れないからだ。事態が突きつけてきた本当の怖さは、ボディーブローのように、ここからじっくり効いてくる。そして破滅に至るのである。 

高橋是清(左)と斎藤實(右)・二・二六事件の犠牲者①
2.26事件は、「世界は軍を中心に回っている」という倣岸な発想を根底にし、この発想を支える広範な時代の空気のサポートを受けたと信じる無邪気な革命幻想が、狡猾な軍部官僚の防衛的リアリズムによって蹴散らされ、更に、その発想を決定的に固め上げていった、その歴史の決定的な転回点だった。

その発想が生み出した厄介なる「取得のオプチミズム」、例えば、「軍が動けば一切が収まる」という独善的な天下主義の破綻を、まず無邪気な若者たちに学習させたのも、2.26事件だった。

では、若者たちにたっぷり含まれていた「取得のオプチミズム」が、一気に「喪失のペシミズム」に雪崩れ込んでいったように見えるのはどうしてか。

昭和天皇による、明瞭なる意志の表出。

これが全てだった。これで流れが止まったのだ。 

だから事件のターニングポイントになったのである。本作のラストで強調された、北一輝の言葉を思い出して欲しい。

「軍法会議は、陛下の名に於いて行なわれたのだ」

昭和天皇はロマンチストではなかったのだ。

渡辺錠太郎・二・二六事件の犠牲者②
自分が頼りにする重臣たちを殺されて、天皇は怒り心頭に発し、自らが陣頭に立って彼らを征伐するという言葉が残っている。

天皇は、下克上を嫌う防衛的リアリストであったようにも見える。天皇のその意志が、28日早朝の「奉勅命令」となって下達され、これが流れを定めたのだ。

叛乱軍の原隊復帰を下達したこの決定的な裁定によって、既に状況は定まって、軍もメディアも大衆も、テロリストをサポートする空気は完全に消失したのである。空気が変われば全てが変わる。この国はいつだってそうなのだ。

「兵隊さん、頑張って下さい。私たちがついてます」

このような大衆の泡立った空気が一瞬に消えたとき、討伐命令は下された。2月28日、午後11時のことである。

当然、叛乱軍の中も収拾がつかなくなり始めていた。一度生じた裂け目は、深まるばかりとなる。既に「喪失のペシミズム」が顔を出しているのだ。

この国では、こんなとき必ず腹を切ると言い出す者がいる。やるだけやった、もう死なせてくれ、といった一見格好いい括りを示すが、しかしそれは、内側での闘争心の自壊という現象なしには生まれない心理なのである。それをこの国では、一貫して、「潔さの美学」として美化され続けてきたのだ。

このときもそうだった。

栗原安秀・ブログより
決起の最急進派だった栗原安秀中尉が真っ先に自決を言い出して、そこに居合わせた上官である山口大尉に、「栗原中尉、貴様は偉いぞ。立派だぞ!」と間髪入れない反応をし、二人は抱擁しながら嗚咽したのである。

しかし、その栗原の翻意も早かった。磯部と安藤に難詰されて、逸早く自決を思い止まるのである。

栗原は甘いのだ。

彼が願った自決の勅使の派遣など全く叶わず、死にたければ勝手に死ねという当局の意向によって、彼らが最後に拠った美学はものの見事に解体されていく。若者たちは、自ら立ち上げた決起を完結できないのである。

討伐軍が叛乱拠点の包囲網を狭め、繰り返し投降を呼びかけ、空から降ってきたあの有名なビラの文句を想起してみよう。そこにはこう書いてあった。


下士官兵に告ぐ

一、 今からでも遲くはないから原隊に歸れ
二、 抵抗するものは全部逆賊であるから射殺する
三、 お前逹の父母兄弟は國賊となるので皆泣いてをるぞ 


この中で興味深いのは、「お前逹の父母兄弟は國賊となるので皆泣いてをるぞ」という言葉である。

相手の心情に搦め手で呼びかける。このあまりに日本的な表現に失笑を禁じ得ないが、討伐する方もどこまでも本気なのである。

相手の心を揺さぶるものが、この国ではどこにあるのかということへの共通した思いが、こうした戦術を常套化させているということだ。

決起将校たちは、自己を充足的に完結させていく方途を持てずに悩んでいるかのようだった。戦闘へのシフトを固めながら、彼らの内側では既に闘争心が萎えていたのである。

口先だけの強がりは、それを収拾させる行程が開かれるまでの衣装でもあったのだ。

その中で、一人安藤輝三だけが、一切の政治的文脈を頑なに拒んでいた。彼だけが、遂に河を渡ってしまったことに対して誠実であろうとしたようにも見えた。

それに対して、栗原中尉は殆ど戦闘意識を失っていた。

これが、私が言うところの、「最急進派の腰砕け」の典型のように見えるのだ。

彼は、野中大尉が逸早く戦線離脱したとき、「もう止めだ!」と叫んで、机の上に大の字になって寝転んでしまったのである。

状況如何で自分の態度をコロコロ変える最急進派の悪しき典型例が、そこにあった。そんな栗原の甘さは、決起を諌めた山口大尉との会話の中に既に現れていた。

「じゃあ聞くが、君たちは事を起こして成算があるのか?」
「そんなことは、あったって、なくたって、構いやしません」

映像の中で、この男はこう言い放ったのである。

「事を起こす」―― それは重臣たちの暗殺である。

それほどの重大事件を起こしても、それが成功するか否か、またその結果がどうなろうと構わないとまで言ったのだ。

更にこの男は、重臣を暗殺しても死刑になることなど、全く予想だにしないのである。

「犬養首相を殺しても、15年の刑です。我々が殺ったって、まさか死刑にはせんでしょう。今度は面白いですよ。相沢事件どころじゃないですからね。自分は断然やりますよ」

このような信じ難い状況把握は、決して栗原安秀一人に限定されなかったことは、幾つかの事例で既に検証されていることだが、映像で紹介されていないので言及は省略したい。

但し、当時の軍部の傲慢さと甘えについては、映像で紹介されていないが、一つだけ事例を挙げておく。

それは、昭和8年に大阪で起こった「天六交差点ゴー・ストップ事件」である。

和解の握手をする一等兵(左)と巡査(右)・ブログより
第4師団配下の一等兵が、信号無視で横断歩道を渡っているのを咎めた巡査と口論になり、巡査がこれを殴ったという事件だったが、第4師団と大阪府警の全面対立に発展した。興味深いのは、それを伝えた大阪毎日新聞の記事。

明らかに、信号無視の兵士の方に非があるのに、その点に一切触れず、暴力を振るった巡査の非だけに言及したのである。

こうした陸軍寄りの報道に表れている社会の甘やかしがあったからこそ、当一等兵が語ったと言われる、「憲兵の言うことなら聞くが、巡査の言うことなど聞く必要がない」という思い上がりを、そこかしこで生み出してしまったのである。

それ以外にも、軍部が青年将校を甘やかした例は限りなくあるが、中でも信じ難いのは、「常盤少尉警視庁乱入事件」。

これについて触れないが、ただ「夜間演習」と称して、第7中隊を警視庁に向かって突入させた暴挙に対して、当の常盤少尉が憲兵に答えた言葉がある。

それだけを書いておく。

「昭和維新のための出動です。満州赴任の時期が間近なので、演習で憂さを晴らしたかったのです」

昭和前期の警視庁の庁舎(ウキ)
何とこの10日後に、本物の事件(2.26)が勃発する状況下であるにも拘らず、少尉本人はお咎めなし。

さすがにその後、同じ連隊の安藤大尉に呼ばれて問責されたときに、「いや、却って(本物の)決起がないと思われますよ」などと答えたという。

軍を甘やかしていたのは、軍自身なのであった。

決起将校もまた、仲間を甘やかし、皇軍派の口先だけの将軍連中(真崎、山下等)から、同様にたっぷりと甘やかされていたのである。

映像にもあったが、山下奉文少将に至っては、訪れた磯部を前に、「岡田なんかぶった斬れ」と放った有名な話が残っている。

加えて、これも映像のファーストシーンにあったが、皇軍派の甘えの極北が相沢事件である。彼は陸軍省に乗り込んで、永田軍務局長を斬殺した後、事件で失った帽子を買って、そのまま赴任先の台湾に向かう腹積もりだったと言う。

まさに、「『殉教』できないテロリスト」の不気味さだけが印象付けられるのだ。

その精神構造は、「世界は軍を中心に回っている」という倣岸なイデオロギーが育て上げた、「取得のオプチミズム」そのものであったと言っていいだろう。

それは殆ど、「暴走する主観」の病理に根ざしていたと言っていいだろう。国内で他に敵を持たない、「約束された勝ちゲーム」の中で主観は暴走し、ドロドロの甘えが、ドロドロのオプチミズムを醸成していったのである。

5.15事件の犠牲者・犬養毅(ウキ)
5.15事件の裁判の結果については、もうそれ以上言及する必要はないであろう。

首謀者の三上卓に対する全国的な減刑嘆願運動が起ったり、求婚の手紙が殺到するという具合を見る限り、彼らのオプチミズムを社会全体が支えていたということを認めない訳にはいかないのである。

そんな甘えた軍人たちの典型こそが、栗原中尉であったことは間違いないところだ。

栗原という一個の人格の内に、当時の軍人たちが内包した「取得のオプチミズム」が集中的に表現されていたのである。

もう一点、重要な指摘をしておく。

それは、「喪失のペシミズム」の様態が、短期決戦型の闘争形態を必然化するということである。

手に入れたオプチミズムが瓦解するとき、この国の人々は簡単に「喪失のペシミズム」にシフトしてしまうからだ。

そのシフトを避けるには、短期決戦しかないのである。

常に隣人たちの顔色を窺いながら、心では回避の方向にシフトしたいと考えるとき、そこで必然化した闘争は、当然の如く、短期決戦を望むに決まっているだろう。

そして、そこでの配慮は決定的に重要である。短期決戦が意気地なしの闘争回路であると思われないための技術が必要になってくるからだ。

訳の分らない精神主義や、特攻作戦のような印象的戦法によるカモフラージュなどが求められるとき、そこに、奇襲と玉砕戦の美学が成立したのである。

一気に走って、一気に果たす。

これなら闘争の持続が可能になる。この短期決戦型の闘争形態が、この国に嵌ったのだ。これ以外になかったのである。

闘争の準備のための期間が長すぎてしまうと、この国では、必ず脱落者が出現する。あの忠臣蔵ですら二年間が限界だった。

この国では、長期戦は墓穴を掘る危険性があるのだ。

乃木 希典(ウキ)
二百三高地での乃木将軍の評価が危ういのも、一気の攻めで陥落させるのにあまりに時間をかけ過ぎたからである。

だからこの国のヒーローは、大抵、短期決戦での成功者の中から生まれている。

源義経の一気の攻め(一ノ谷の戦いでの「鵯越の逆落とし」の伝説)、信長の桶狭間の奇襲、秀吉の一夜城(墨俣城)と中国大返し、家康の関が原(松尾山への威嚇射撃)、宮本武蔵の吉岡一門切り崩し、そして真珠湾奇襲であった。

その最たるものが、2.26事件であった。

それこそ典型的な短期決戦を狙ったものだが、栗原のような戦略を持たない男が事件の中枢にいたため、結局、思慮甘く挫折するに至ったのである。

だからヒーローが生まれなかったのだ。

その決定的な理由は、一気に走って、一気に果たした後で、逆説的に言えば、一気に自決しなかったからである。彼らは、咲いてすぐ散る特攻兵士になり切れなかったのである。

ここでまた、栗原中尉に戻る。

常日頃から、「俺はやる、やる」と叫び続けた最急進派が、磯部や村中らと謀って決起を開き、首相官邸を襲撃し、ここを制圧した。

松尾伝蔵(右)・二・二六事件の犠牲者③(左は岡田啓介)
ここまでの一気の攻めは、行動的ラジカリストの面目躍如を果たしたが、印象としてはここまでだった。

事態が困難になり、決起を諌めた西田税に指示を仰ぐ主体性のなさ。

そして、肝心の真崎内閣を立ち上げられず、以降、軍上層部の政治的駆け引きに引き摺られてしまうのである。

栗原安秀に印象的な攻撃的突進力がその対象を失ってしまうと、パトスが空回りしてしまって、確信的行動がとれなくなってしまうのだ。そこにもう、甘さが顔を出している。

この国では、この隙間が怖いのだ。

短期爆発型の闘争者に隙間が生じると、甘さが露呈してくることがあるということだ。

大体、この国の人々は、闘争心というものを誤解しているようだ。それは発火して、激烈に燃える心などでは ない。私の定義だと、闘争心とは「最後まで戦い抜く心」なのである。

すぐカッとなって暴れ狂う性格は、総じて闘争心とは無縁である。冷静に燃える心なくして、闘争者の持続は容易ではないのだ。

激しく奮い立つのは悪くない。

鈴木貫太郎(重傷)・二・二六事件の犠牲者④
相手の一挙手一投足までもが見えてしまう闘争のシーンでは、相手に見透かされてしまったら、その分だけ相手に必ず余裕を与えてしまうからだ。

激しく奮い立った者は、ではその心を如何に持続させていくか ―― それが厄介なテーマなのだ。激しく印象的に立ち上げていった者ほど、このテーマの貫徹が厄介なのである。

身体を前線に固めてしまっているから、意識の補給線を途絶えさせる訳にはいかなくなり、持続を貫くために適度の代謝が求められる。

闘争が予測を超えていくと補給線が中断し、自我の代謝にも支障が生じて、立脚感が掬われることがある。

また好ましからざる事態の展開が苛立ちを生み、これがパトスを空転させていく。パトスが時間に食(は)まれていくと、闘争を持続させていくものの衰弱感に立ちあって、自我を空洞化させてしまうのである。

僅か4日間で、栗原安秀の戦意は萎え、そこにはかつての果敢なラジカリストの面影はなかった。

とりわけ、事態の暗転で自決の提案をしたときの栗原には、不退転の闘争の継続者としての印象が余りに弱い。この態度は、決起するまであれだけ悩んだ安藤が、決起後は一貫して闘争心をキープした態度と比べると対照的だった。

その後、軍上層部の自決の強制に反発して自決案を撤回し、一転して強硬な姿勢を表出するものの、栗原の状況での振れ方には、政治に翻弄された最急進派の守りの弱さが窺えるのである。

栗原のこんな振れ方を見ていると、彼には、「やる」ことだけが基本的テーマであったかのような印象を受けてしまうのである。

「やる」と放って、万が一、「やらない」自己が晒されたときの恐怖を無化するには、とにかく「まず、やるしかない」という焦燥感を暴走させて、発火した身体を転がしていくしかなかったように思われる。

彼の中では、或いは、磯部と異なって、「やり続ける」ことの価値が、「やる」ことの価値を越えることはなかったのではないか。彼は、「夢の後」をシビアに補修するリアリストにはなれなかったのである。

そこに、乱暴なる秩序破壊者という汚名のみが残された。それは、しくじった短期爆発者の宿命であったとも言えるだろう。

一般に、短期爆発者は目立って強いという印象を撒き散らす。

これが曲者なのだ。


カメラに銃口を向ける兵士・二・二六事件の画像⑤

大体、「やる」ということに集合する武断派の熱量の多くは、空気を制する派手なアクションの内に蕩尽されてしまうから、事件の導火線の役割を十分に果たしても、「やった」後の複雑な政治の行程を知的にリードすることは困難である。

彼らは泡立った夜明け前のゾーンで、声を荒げて赤鬼のように振舞うときの空気の仕切り方によって、慎重居士の弱々しい印象を難なく一掃するまでの、その目立った役割を担う者でしかないのである。

決起と政治が地続きなっていなければならなかった2.26事件は、その展開での混迷が示すように、クーデターというよりも、決起の枠組みを超えるものではなかった。

だからこそ、事件を立ち上げた栗原安秀は、空気を圧した勢いを「夢の後」に繋げずに、しばしばそこに立ち往生した。

彼らが夢想した真崎内閣の事前工作の致命的な不足(遠回しの懇望と期待を、皇道派の将軍たちが汲んでくれるという幼児的楽天主義、そしてその背景に、正義派将軍は我々を裏切らないという類の「取得のオプチミズム」)があったにも拘らず、決起に走ったモチーフには、既に決起による主観的自己完結のイメージが潜んでいたとしか考えられないのである。

一切を為政者、支配者、それに連んだ軍上層部の腐敗と堕落のせいにすることで、軍内に無傷でリザーブされたと信じる正義派(皇道派)内の観念的、心情的な凭(もた)れ合いの構造が、維新革命近しという独りよがりの把握の内に、自分が捨石になれば誰かが何とかしてくれると丸投げする、ドロドロの「取得のオプチミズム」を、いつしか胚胎させてしまったように思われるのだ。

この幻想の崩れは、あまりに早かった。

「岡田なんか、ぶった斬れ」と言い放った山下少将や、真崎軍事参議官らの明白な後退戦を見せつけられ、幻の奉勅命令で揺さぶられた決起将校の拠って立つ精神基盤は、貫通銃創を易々と受けてしまうのだ。

そのとき、最急進派の「取得のオプチミズム」は、あまりに呆気なく、「喪失のペシミズム」へとシフトしてしまったのではないか。

事を起こされて拱手傍観するだけの将軍らへの苛立ち。そして将軍らの態度を防衛的な方向にシフトさせた天皇の意志との落差感の当惑 ―― これらが最急進派のパトスをなし崩しにしてしまったと考えられる。まさに彼らは、その拠って立つ精神基盤を根柢から崩されてしまうのだ。

磯部浅一(左)と村中孝次(映画)
彼らは歴史のとてつもない偶然の中で、本人たちだけが必然的に立ち現れ、委託されたと信じる使命感によって、結果的には大いなる波動を残した。

それは、彼らが本来イメージしていた夢のデザインと決定的に異なっているとするのは、彼らを評価し過ぎることになるであろう。

2.26事件は、やはりどこまでも短期爆発者の叛乱であった。

事件をクーデターとして固められなかったそのドロドロの甘さが、結局彼らの命取りになったのだ。栗原康秀という、28歳の中尉に代表される最急進派の振幅の大きさは、そのメンタリティの中に、「取得のオプチミズム」と「喪失のペシミズム」が、背中合わせに張りつくさまを検証するものになったのである。



10  勝気の強がりは、自壊感覚の否定の自己確認



心理学的に、もう一点だけ補足する。

それは、相手を見くびる心は、結局、自己を冷厳に相対化する能力の欠如に由来するということだ。現実の悲惨な展開の中で、闘争心の持続が弱く、勝気(強気ではなく、そこに濃密に見栄が媒介し、知人の前で単に恥を晒したくない感情)なだけの民族は負け方にも格好をつけようとするので、一時的に相手から恐れられ、それが却って不幸を増強させるのである。

勝気の強がりは、実は自壊感覚の否定の自己確認である。

強がりの奥に広がる「喪失のペシミズム」が、遂に玉砕戦という禁じ手の封印を解く。「砕けて散る」ことは、早く楽になる戦術であるばかりか、格好も付けられる。これは相手を畏怖させる絶大の効果を持つばかりか、味方を奮起させる。

恐らく、この味方に対する見栄こそが、玉砕戦の心理のコアにあるということだ。



11  最急進派の軍人たちの行動様態への心理学的言及の意味



―― 稿の最後に、以上の言及に絡めて映像を括っていくと、私の評価は簡潔なものとなる。

即ち、本作の出来栄えの評価は、私の中では決して低いものではないが、どうしても気になる点があるのだ。

「226」より
それは、五社英雄監督による「226」もそうであったように、映像の主役を安藤輝三にしてしまうと、彼の中隊配下の下士官、兵士らとの人情絡みの描写や、事件当時、68歳の鈴木貫太郎の生命を彼の妻の懇願によって救ったという「美談」(実際は心臓停止状態になっていて、日本医大の医師たちの献身的な甦生術によって奇跡的に救われた)を含む、彼のある種の一貫した人格的な将校像の内に、「悲劇なる決起者」のイメージが集中的に表現されることで、そこに過分なヒロイズムが張りつくような感傷に流される危険性があるということである。

その象徴的表現は、山王ホテルで最後まで闘争の継続の意志を捨てなかった安藤が、有名な件(くだり)である。

この耳心地がよいピュアな旋律が汚濁した空気を浄化し、その繋がりの延長上に自決を図るという描写は、「2.26もの」の映像のクライマックスになっている感があり、冷厳なリアリズムで徹し切れないその映像的技巧に対して、私は大いに不満を持つ。

それは、「2.26もの」の映像で安藤を主役にすることによって手に入れる映像的表現力の心地良さよりも、それを特段に描き出さないことによって手に入れる冷厳なリアリズムの方にこそ、明瞭なテーマ性を貫徹し得る映像的完成度の達成を保障すると思われるからである。

思うに、安藤は必ずしも、日本型闘争者の典型であると言えないということである。彼は理性的に熟考し、納得いくまで考えた末に結論に導いていくタイプの日本人であって、決して短期爆発型のタイプの男ではないのだ。

だから彼のようなタイプの闘争者は、動機さえピュアであれば何をやっても許され、またその行動で一気に走って、一気に散り果てるという、「玉砕の美学」に振れやすい日本人的メンタリティの枠内に包含されてはいても、その現実を直視する理性的能力が簡単に削り取られていなかった心理的文脈だけは押さえておく必要があるだろう。

その意味から言えば、「2.26もの」は栗原安秀という男の人格と、その行動の振れ方を中枢的テーマに据えて描くことの方が緊要であると、私は考えるのだ。そのことによって、社会全体に蔓延した当時の軍部に対する軟弱な空気感を端的に表現されると思われるからだ。

これは勿論、私の独断的偏見に基づく物言いかも知れないが、栗原に象徴される最急進派の軍人たちの行動様態への心理学的言及こそが、このような看過できない事件の映像化の困難さを認めてもなお、極めて重要であると考える次第である。それ以外の理由ではない。

(2006年11月)

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