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2008年11月15日土曜日

スケアクロウ('73)   ジェリー・シャッツバーグ


<逸脱し、無軌道に走った者たちのその後の人生>



序(1)  不文律と化した、一切の規範からの逸脱



ベトナム戦争という、恐らくアメリカ史上最大のエポックメイキングとなる由々しき事態の到来が、アメリカを壊し、「アメリカ」という物語(「地獄の黙示録」の項参照)を壊し、そこに安らいでいた人たちの秩序の体系を根底から壊してしまった。

少なくとも、そのように見えた激しい時代のうねりが、そこにあったのだ。それを揶揄含みで言えば、「最先進国の文化革命」と呼んでいいのかも知れない。

そして、その「文化革命」の中から、ハッピーエンドのハリウッド文法に流れていかない全く新しい映像文化が出現した。

「俺たちに明日はない」という凡作だが、過剰なまでに刺激的だった映像を嚆矢(こうし)とする、いわゆる「アメリカン・ニューシネマ」の登場である。

それは既成の映像文化に馴染めない若者たちの漂流する価値観と見事に嵌って、映像表現を超えた一大ムーブメントに結実したのである。

同時代に生きた私が、今この時代と、それが生み出した多くの文化的表現について語るとき、どうしてもそこに張り付いている思い入れの感情が視界を曇らせる弱みを持つが、それでもカオスの文化の到来は、騒然とした時代の危うさの内にほぼ必然的に分娩された何かであると思うのだ。

しかしある意味で、そのスタイリッシュで衒(てら)った文化が、やがて巨大なビジネスの最前線の中に呑み込まれてしまったことを考えると、それが内包していた本来的なパワーの脆弱さを認めない訳にはいかない。

「我々」は様々な衣装を煌(きらめ)かせて、様々な異議申し立てを愉しんできたかも知れないが、結局、大したものを作り出してこなかったし、ゲームの終焉を告げるダラダラとした流れの中で、価値相対主義の心地良きツボに嵌って、居直るように沈んでいっただけだった。

強靭な脚力で駆け抜けられなかった「アメリカン・ニューシネマ」とは、一体何だったのか。その継続力のない脆弱さは、何に由来するのか。

そのテーマへの言及の前に、ここで「アメリカン・ニューシネマ」という、今やノスタルジックな情感を被せて既成概念化された感のある、あまりにポピュラーな言葉のの由来について押さえておこう。

ここに、短い一文がある。

ネットで検索した某氏のHPだが、「アメリカン・ニューシネマ」の輪郭とその流れ方を捕捉した、日常会話的な簡潔な一文を引用してみる。

「ニュー・シネマはアメリカのジャーナリズムが用い始めた言葉であり、一つの流派や思想上の運動ではない。故に、明確な定義を与えることは難しい。しかし、『(ベトナム)反戦』、『性の解放』、『暴力』、『反体制』、『アウトサイダー』、『人種問題』、『アンハッピーエンド』、『ドキュメンタリー・タッチ』、『ロックやポップスの感覚的な使用』、『ハリウッドの手垢にまみれていない監督、俳優』、(あと、『低予算』 笑)等のキーワードが重なる程、その映画はアメリカン・ニューシネマの範疇(はんちゅう)の核に入って行く。

衝撃の事実が!実は、アメリカ本国では、アメリカン・ニューシネマと云う言葉がない!『俺たちに明日はない』等初期の作品に対してニュー・シネマと云う言葉は、今でも使われることがある。しかし、アメリカン・ニューシネマという総称は、日本の映画ジャーナリズムが広告宣伝上、作り上げた造語である。(それを知った いくけんも超ショ~ック!)

フランシス・フォード・コッポラ(ウイキ)
しかし、従来のハリウッドの伝統的な物語構成とは距離を置いた作品群を、俊英たちが、競って発表した一大ムーブメントが無視されている訳では、当然、無い。アメリカにおいて、このムーブメントは、数年後大作を発表するコッポラ、スピルバー、ルーカスの仕事を含んだ形で、ハリウッド・ルネッサンスと呼称される。

そう、ハリウッド・ルネッサンスこそ、まさしく、現在アメリカ映画の聖なる出発点なのだ」(HP「映画批評空間」/『アメリカン・ニューシネマに愛を込めて』より引用/筆者段落構成)


「ハリウッド・ルネッサンス」なる世界など私の関心の埒外だが、少なくとも以上の言及にあるように、1960年代後半に端を発した、映像文化シーンに於ける一大ムーブメントの名称は「アメリカン・ニューシネマ」ではなく、単に「ニュー・シネマ」、もっと正確に言えば、「New Hollywood」という概念であり、これは引用文にも指摘されていたように、「アメリカのジャーナリズムが用い始めた言葉」である。

俺たちに明日はない」より
因みに、「ウィキペディア」によると、1967年12月発行の「タイム」紙に、同年のアカデミー賞を受賞(助演女優賞、撮影賞)した「俺たちに明日はない」が特集され、「ニューシネマ 暴力…セックス…芸術! 自由に目覚めたハリウッド映画」という極めて刺激的な見出し記事の中で、米国映画の新しい感覚に充ちた動向がレポートされ、それがセンセーショナルな話題を集めた現象に端を発するらしい。

いかにもメディアが大衆受けする言葉を量産して、それを消費する体質は、大衆文化の目眩(めくるめ)く変容の洗礼を享受する社会の中で免れない事態なのであろう。

ともあれ、この顕著な文化現象の根柢には、恐らくそれらの映像群が本来的に持っていたであろう、反生産的、脱秩序的な表現性の、しばしばアナーキーな暴走への情緒的な共感感情があると言えるだろう。それらは、紛う方ないハリウッド文法(後述)への確信的な拒絶であり、無軌道であり、破滅であり、辿り着くことのない際限のなさであった。私はそれを一言で、〈逸脱〉と呼んでいる。

では、「アメリカン・ニューシネマ」(以下、「ニューシネマ」とする)は何からの逸脱だったのか。

一つは、アメリカが「最も偉大で強大な国」であるという物語からの逸脱。

ハリウッドにある米国パラマウント社の西部劇セット(ウイキ)
もう一つは、驚くほど美貌なる男女が秩序を壊さない程度の恋愛ゲームを愉しんだり、健全極まるミュージカルで呆れるほど脳天気に踊り狂ったり、ハリウッドの西部劇セットで、神の如きスーパーヒーローが拳銃片手に鬼退治を演じて見せたりという、物語の予定調和の括りに流れ込んでいくハリウッドの映画文法からの逸脱であった。

それを端的に表現すれば、些か厄介な物語を背負い続け、それを執拗に映像表現の中で確認することを余儀なくされてきたかのような、「不文律と化した、一切の規範からの逸脱」であると言えないか。そう思うのだ。

そんな物語を、執拗に映像表現に於いて鏤刻(るこく)してきたハリウッドの映画文法 ―― それは果たして、どのような内実を持ち得てきたのか。

それを概念的に整理すれば、以下のような文脈になるだろうか。

一、多面的な娯楽性(過剰な描写に流れない程度のエロ・グロ・ナンセンスのサービス精神)

二、予定調和(ハッピーエンドか、それに近い括り方を見せることで、一定のカタルシスを保証)

三、英雄主義(スーパーマンか、それに近いヒーロー、ヒロイン像を作り出しつつも、それを「描写のリアリズム=物語展開の非リアリズムをカバーするに足る、「描写のリアリズム」によって巧みに固めていく)

四、非ラディカリズム(主張の急進性、根源性、過剰性を限りなく中和化)

五、社会的問題提起の均衡性(芸術性の高い作品や社会派的なテーマを映像化しても、それは必ず「気高きヒューマニズム」によって補完されること)


何のことはない。

「ニュー・シネマの代名詞的作品」とされる「イージー・ライダー」
ニューシネマの多くの映像群は、程度の差こそあれ、以上のハリウッド文法を根柢に於いて破砕するか、或いは、アイロニカルに揶揄することで、殆ど確信的に屠ろうとするムーブメントであったのだ。

しかし残念ながら、この把握は多分に褒め殺しの謗りを免れないだろう。

ごく一部の例外的な秀作を除けば、それらは多くの場合、倣岸なる理念系の暴走であるか、独善性の濃度の深い挑発的な表現であるか、そしてしばしば、程度の低いプロパガンダ・ムービーであったりしたのは否定し難い現実だった。

時には溢れんばかりの情緒の洪水であったし、更に、呆れるほどに完成度の低い、脱規範的な映像マニフェストもどきでしかなかったとも思われるのである。



序(2)  〈逸脱〉の向うに何があったか



―― 論を進める。


では、〈逸脱〉の向うに何があるのか。

結論から言えば、それはどうでも良かったのだ。

逸脱し、ドラッグにのめり込み、自由なセックスを耽溺し、一切の秩序なるものを破壊すればそれで良かったのである。

尖った時代の旋風に後押しされたそのアナーキーさに、「革命」という名のいかがわしい記号がべったりと貼り付けられた快感だけが騒いでいて、結局、映像前線に残ったのは、いま鑑賞してもその輝きを全く失わない僅かな秀作のみだった。

「真夜中のカウボーイ」より
例えば、それは「真夜中のカウボーイ」であり、「ジョニーは戦場に行った」であり、そして、これから言及する「スケアクロウ」などである。

これらの映像の主人公たちは、いずれも確信的逸脱者ではない。それ故に、彼らを待ち受けている運命は厳しく、切実だった。

映像は、彼らのそれぞれの厳しい人生を真っ向勝負のように受け止めて、その内実を深々と、そして淡々とした筆致でリアルに映し出していた。

ウィリアム・ワイラーに代表されるハリウッドの良心的映像の中に辛うじて継承されてきた、娯楽のみに流されない人間ドラマの真髄がそれらのニューシネマの中に繋がったのである。

アメリカ映画はギリギリのところで壊されなかったのだ。



1  “逸脱し、無軌道に走った者たちのその後の人生”のハードな現実を描き切った秀作



「スケアクロウ」 ―― 紛う方なく、完璧な映画だった。

この作品こそ、先述した「ごく一部の例外的な秀作」の中の究めつけの一作であった。

それは、ニューシネマの最高到達点を示す記念碑的映画ではなかったか。少なくとも、私はそう思っている。

ニューシネマの不必要なまでの濫作の中にあって、この映画だけが、“逸脱し、無軌道に走った者たちのその後の人生”のハードな現実を描き切ったのである。

殆ど音楽に頼らず、感傷に全く流されることなく、余分な描写を削り抜いて到達した映像世界は、極めて純度の高い人間ドラマに結実したと言っていい。

無論、主役となった二人の役者の群を抜いた演技力なしに、この作品の表現世界に於ける成功は叶わなかったかも知れない。

確かに、アル・パチーノの演技は凄かったが、ライオン役をダスティン・ホフマンに替えても表現の質は落ちなかったかも知れない。しかし、マックス役のジーン・ハックマンに替わる俳優が、当時存在しただろうか。

「フレンチ・コネクション」より
「フレンチ・コネクション」のジーン・ハックマンなくして、「強がって生きる孤独な男の哀切」をあれほどまでに表現できたであろうか。

人は、自分の中にあって、自分が嫌う性格的部分を相手の中に見つけたとき、大抵、その相手を嫌うものだ。

そこに、友情は生まれない。

そして人は、自分の中になくて、自分が求める性格的部分を相手の中に見るとき、恐らくその相手を好むだろう。

そこに、友情が生まれる可能性が極めて高いのである。

少し大袈裟に言えば、「異文化的」な二つの個性が偶発的に邂逅し、しばしば小さな摩擦を繰り返しながらも、本来的に逢着するであろう着地点の辺りで頓挫することを運命づけられたもののようにして、補完的に絡み合った「逸脱者」たちが結んだ友情の、極めて曲線的で人間臭い物語 ――  それが「スケアクロウ」だった。



2  「殴るより、人を笑わせることだ」



―― 私が「洋画NO.1」と絶賛する、最も感銘深い映像の、そのストーリーラインを追っていこう。


カリフォルニアの州道の一隅。

そのブルースカイの空の下に広がるあまりに殺伐とした風景は、季節の風が冷たく吹きつける荒涼感に充ちていた。

ライオネル・フランシス
そこに、二人の男がいる。

彼らはヒッチハイカーのようにして、道路脇でそこを通過する車を待っていた。

偶(たま)さか、通りかかる車は彼らの存在を無視して、平気で男たちを捨てていく。

二人の男は、このときまだ、お互いの名を知る由もない。


いつまで待っても車が通過することなく、二人は時間を持て余し気味だった。

マックス

大男の方はうな垂れて座り込み、小男の方はピョンピョン跳ね上がって、ストレッチ体操をしている。

イメージとしてはバックパッカーに近い小男の方は、大男の気を引くべく、ゴリラの真似をしたり、大声で電話で話す振りをしたりして、相互の距離を縮めようと懸命だ。

そんな小男の効が奏したのか、まもなく二人は、小男の持っている最後の一本のマッチを媒介に近づいたのである。

その直後の映像は、二人のヒッチハイカーがトラックの荷台に身を寄せているシーンを描き出した。

ところが、二人がようやくヒッチハイカーとして小さな成功を収めて眠り込んでいたとき、彼らは道路の途中で降ろされてしまうのである。農業用のトラックが、目的地への曲がり角にまで到着したからだ。

やむなく下車した二人は、近くのコーヒーショップで休憩をとった。

こうして二人は、コーヒーを飲み合いながら会話する関係にまで進んでいったのである。これが、異質のキャラクターを持つ二人の関係の交叉の始まりだった。

そのコーヒーショップでの短い会話の中に、既にプライバシーに関わる重要なラインの伏線が引かれていた。

「商売しないか?」と大男。
「ああ、どこで?」と小男。
「ピッツバーグ」
「その前にデトロイトに寄る」
「俺はデンバーで、妹に会うよ」
「金は?」
「少しだけ」
「大丈夫。商売を始める金は持っている」
「商売って、何をやる?」

小男のこの当然なる質問に対して、大男は明瞭に答えた。

「お上品じゃねいが、絶対もうかるぜ。悪かない。まず看板を出すんだ。『マックス洗車場』って。車は必ず汚れる」
「相棒ってわけだ」
「頑張ろうな」

大男の差し出すごつい右手と、小男の小さな右手が握り合って、一つの新しい関係が開かれていったのである。

大男の名はマックス。

彼は喧嘩が原因で、6年間の刑務所生活を終えて出所したばかりであった。

一方、小男の名はライオネル・フランシス。

その場で、マックスによって「ライオン」と命名される男は、5年間の気ままな船員生活の末、妻子が待つであろうデトロイトに帰ろうとする旅の途中だった。

デトロイトに帰る理由をマックスに聞かれたライオンは、相棒の眼の前に小さな箱を差し出した。

その箱には、何の変哲もない電気スタンドが収まっていた。

ライオンが、そこに加えた一言。

「男か女か分らないので、スタンドにした。どっちでもいいからな」

ライオンの子供は彼が放浪の旅に出た際に、まだ妻の腹の中にいたので、その後、誕生した我が子の性別を知る由もなかったのである。

そんな会話の中で急速に親しくなった二人は、もう充分に相棒の関係の形を作り上げていた。

現在のピッツバーグの街(ウィキ)
その日の内に、マックスはピッツバーグ(ペンシルバニア州・米東部)で洗車業を開くという旅の目的を話し、ライオンにその相棒になってくれと頼みさえしたのだ。

些か唐突気味の依頼を受託したライオンは、まるで昔馴染みの親友と再会したような感覚で、マックスと意気投合する仲になったのである。

「なぜ俺を?」

ライオンの問いに、マックスは端的に答えた。

「最後のマッチをくれたし、笑わせてくれた」

最後の一本のマッチを差し出す優しさも、人を笑わせる能力もマックスにはない。少なくとも、本人はそう思っているようだ。

「俺ってえのは本当に下らねえ人間なんだ。人は信用しねえし、愛した奴もいない」

こう言い放つマックスをして、「俺がお前を相棒に選んだんだ」と言わせる何かが、ライオンという男の中にあったのだろう。

性格の違う二人の友情の根柢には、自分の中にないものを補完し合う絶妙な感情関係が横臥(おうが)していたのかも知れない。

「殴るより、人を笑わせることだ」

ライオンのこのパーソナルな信条は、「カラスは案山子(かかし=スケアクロウ)を怖がらず、その瓢軽(ひょうきん)な出で立ちを見て笑っている。百姓のジョーンズはいい奴さ、と言う。だから奴の畑はやめておこう」、というユーモア話の内に端的に示されている。

水田にある人型のかかし(イメージ画像・ウィキ)
まさに、ライオンこそが「スケアクロウ」だったのだ。



3  「ジーザス・クライスト!」



そんな風変わりな二人の旅の途中で出来した事態は、マックスの限度を越える短気な性格だった。

その度にライオンが仲介していくことで、事態が警察沙汰にまで発展することはなかったが、二人で協力して商売を始めるという約束をしたライオンにとって、暴力事件で刑務所生活を余儀なくされていた相棒の、恐らく、生来的な性格の短気さとの折り合いを付けていくことの困難さが、切に実感されていくものであったに違いない。

まもなく二人の旅は、マックスの妹が住むデンバー(コロラド州・米西部)で小休止することになった。

女好きのマックスは妹の親友と懇ろとなり、それが原因で彼女に横恋慕する男と、地元の居酒屋で警官を巻き込んでの大立ち回りする始末。

事の発端は、妹たちとの一時(いっとき)の別れのパーティを盛大にやろうということになり、その音頭を先導したライオンの芸人精神が遺憾なく発揮されて、ドンチャン騒ぎが始まったことにあった。そのことが原因で、町の連中を巻き込んでの喧嘩騒ぎを出来したのだ。

その結果、二人は30日間の強制労働を強いられたのである。

喧嘩の原因をライオンのせいにするマックスは、収容所の中で一切口を聞かない。

マックスの機嫌をとるライオンと、不貞腐れるマックスの子供じみた遣り取りが観る者の笑いを誘うが、ライオンが同囚の男に性的暴行を受けた事件によって、束の間和んだ描写が一転する。

その夜、ライオンは血だらけの顔を剥き出しにして、マックスの房にやって来て、彼に事情を説明した。

「ジーザス・クライスト!」

マックスの反応は、既に相棒と怒りを共有する同士になっていた。

二人の不協和の原因は、カラスを笑わせる「スケアクロウ」のスキルで、状況を仕切った挙句に収容所入りを余儀なくさせたライオンへの、単なる感情的反感でしかなかったのである。

二人が強制労働から解放されたその日、マックスは相棒を甚振(いたぶ)った男の作業場に立ち寄って、最初は静かに語りかけた

「相棒にやっただろう?やらねえってのか?正直に言いなよ」
「その位にしとけ」

男のこの言葉が、瞬時にマックスを、かつての乱暴者に変貌させた。
マックスはあっという間に同囚のボスを袋叩きにし、倍返しの理屈で親友の仇を討ったのである。

些か定番的な展開だが、しかし作り手は、この暴行を決してハリウッド好みのワンマンショーの美学、即ち、極めつけなクローズアップのベタの描写で切り取ることを一切せず、それを遠くから俯瞰する淡々とした、ロングショットのカメラが捕捉する潔さによって貫いた。

それでも、そこには友情を回復した男の余情が画面いっぱいに映し出されていたのである。

収容所を去る際、マックスはライオンに語りかけた。

「ところでデトロイトだが、行くのは止めようぜ・・・気が進まない」
「電気スタンドは?」
「送れ」
「無理だよ。女房にも会う。だから俺は行くよ。借りがある」
「だけど早めに切り上げてくれ」

マックスには思わぬ事態の出来で、一ヶ月もの間、収容所に足止めされた時間のロスが惜しくてたまらないのだ。彼は一刻も早く、ピツバーグに向かいたいのである。

このとき彼には、デトロイトに拘る相棒の心情の澱みが未だ理解されていない。

ライオンもマックスに、自分のプライバシーを必要以上に説明してこなかったのであろう。

ライオンには寧ろ、デトロイト行きこそが最大のテーマだったのだ。

この国の西部開拓の歴史を反転するかのような、東方に向かう車両の中で、ライオンの顔は些か陰鬱であり、寡黙であった。

映像はこの辺りから、少しずつ暗転していく。



4  「上手く笑わせたろう。上手になるぜ」



収容所での暴行の衝撃が、ライオンの心に暗い影を落としていたことも多いに関係するだろう。

彼の幼少時の家庭環境の影響からか、「スケアクロウ」を自認する男の内側には、男たちの暴力的な振舞いに対する、過剰なまでの恐怖感というものが深く根を張っているようなのだ。

そして恐らく、それ以上にデトロイトでの妻子との再会の不安が、彼の中に少なからぬ影響を与えていたに違いない。

二人が降り立った、とある町の盛り場での出来事。


見知らぬ地元民で溢れ返る盛り場で、マックスは些細なことから客の男と揉み合いになり、例によって一触即発の危機。心が萎えていたライオンは、今や親友の喧嘩を止める気力を持たない。

「勝手にしろ」とライオンが呟いて、店を出ようとしたそのとき、今にも殴りかかんばかりのマックスが豹変したのである。

「スケアクロウ」の生き方とは無縁なマックスは、喧嘩相手の手を取ってダンスの真似事をした後、着膨れした服を一枚一枚脱いでいくのだ。

その直後、瞬間湯沸かし器の如き大男が、何とストリップショーを演じて見せたのである。

険悪な店内の空気が、一瞬にして爆笑に包まれた。

ライオンの表情からも硬さがとれて、彼もまた、その空気の中に自然に溶け込んでいったのである。

このときマックスは、初めて人の機嫌をとるという、表面的には人並みの柔和さを表現する男に変貌したかのようだった。彼は今や、カラスを笑わせる「スケアクロウ」の世界にほんの少し近づいたのだ。

 ―― 本作の基幹テーマに肉薄する最も重要なシーンが、そこに映像提示されたとき、観る者は物語の芯に触れた感銘を忘れ得ないだろう。

私が唯一、嗚咽しそうになったマックスのストリップショー。

凄い映画と出会ったものだと、今更のように想起される。

このシーンの決定力が、本作の完成度の抜きん出た高さを保証したと言っていい。

それ程までに、重要なシーンだった。

このシーンが、ラストカットの、あの有名な決定的構図を、決定的に支配し切ったのだ。

 物語を追っていこう。

デトロイトに向かう列車の中で、マックスは、なお表情を固くするライオンに向かって自慢げに語りかけた。

「上手く笑わせたろう。上手になるぜ」

それでも反応しない相棒に、マックスはリアルな話に切り替えた。

「店の名前考えついた。『スケアクロウ』にしよう・・・」

なお反応しないライオンが、そこにいる。

デトロイトに近づくほどに、彼の中の不安感が明らかに増幅しているのだろう。



5  「あなたは息子の魂を捨てた畜生だわ。そうよ。天国へも行けないのよ」



デトロイト・ダウンタウンの夜景(ウイキ)
ライオンはいよいよ、「スケアクロウ」の世界から逸脱しかけていた。

妻子が待つデトロイトに立ち寄ったからである。

妻の妊娠時に姿を消した小さな逸脱者は、今や5歳になるはずの我が子の顔を知らないのだ。

彼が後生大事に抱えた子供への土産は、子供の性別を問わない電気スタンドだった。我が子の顔を一目見たい。

それがライオンンの、この長くて険しい旅を辛うじて支えていたのである。

この艱難(かんなん)な旅の一つの終着点で、彼は教会で祈りを捧げていた。捧げざるを得ない感情が、「スケアクロウ」を自認する男の心を騒がせていたのである。

妻子が住むであろう自宅の前で、ライオンの足は竦んでしまった。

「行けよ」とマックス。
「電話してみよう。どうも気になる」とライオン。
「いいか、忘れるなよ。お前はもう一人前だ。本当にやるのはこれからだ」

マックスに励まされて、ライオンは恐々と受話器を取った。

その直後、映像は受話器を取る妻の日常的な振舞いを映し出した。

数秒の後、その妻の表情が劇的に変化した。

「フランシス・・・今、どこ?・・・なぜ?・・・何の話?・・・当分こっち?」

今度は、平静を装うライオンの表情を映し出す。彼は妻の最初の反応から、彼女が再婚した事実を知ったのである。

「そうかい。それで君は元気でやっているのか・・・結婚はいつしたんだ」
「2年前よ。お金をありがとう。おかげで商売できたわ・・・」

ここまで言葉を繋いできた妻は、遂に感情を噴き上げてしまった。

「なぜ、あたしのこと捨てたのよ!」

受話器の向うから、嗚咽する妻の悲痛な呻きがジンジンと伝わってくる。

「いえ、もういいの。言い訳は聞きたくないわ。出てったんだしね。幸せ?ええ、勿論今は幸せよ。黙って飛び出すなんて、クソったれの卑怯もん!私を置いて世界一周なんていい気なもんよ。あんたの送金だけじゃ、相変わらず貧民窟暮らしさ!」

なお平静を装うライオンは、必死に言葉を繋いでいく。

「なあ、会いたいんだよ」
「私は嫌よ!帰って!ここには二度と来ないで、絶対に!」

ここまで嗚咽を叫びに変えてきた妻は、今度はゆっくりとリアルな現実を語り出したのである。

「フランシス、子供のこと聞かないのね・・・死んだ。死んだのよ…普通の赤ん坊のようには産まれなかったわ・・・八ヶ月だった・・・雪の日、玄関前で転んだの。誰も助けてはくれなかった。分る?それで流産よ・・・男の子だったわ。産まれていればね。洗礼も受けずによ。どういうことか分る?あなたは息子の魂を捨てた畜生だわ。そうよ。天国へも行けないのよ」

呻きの最後に放たれた妻の一言が、家庭を捨てた男の心に深々と突き刺さってきた。

しかし、それは妻の作り話。

女の傍らには5歳になる父親似の男の子が、いつにない母親の異常な様子に眼を凝らしていた。

男だけがそれを知らない。男だけが、自らの奔放なる逸脱のペナルティを受けてしまったのだ。

ひたすらそれを願って、ようやく辿り着いた男の魂に、高圧電流が走り抜けた。

男はもう、言葉を放てない。激しい動揺を抑えるようにして、受話器を降ろし、そこに立ち竦むだけだった。

八ヶ月目で流産した我が子が、洗礼も受けられずに死んだという事実。

これが、ライオンと呼ばれた男の身勝手な自我を破壊した。

会話の内容を知ることのないマックスに対して、ライオンは不必要なまでにおどけて見せるのだ。



6  「俺は戦うんだ!どこまでも戦うぞ!」



広場の子供たちを集めて、「宝島」のロングジョンを演じるライオンの表情から、少しずつ「スケアクロウ」の愛嬌が消えていく。

傍らで相棒のワンマンショーを見守っていたマックスが相棒の異変に気づいたとき、既に一人の男児を抱え上げたライオンは冬枯れの噴水の中を突き進んでいた。

「息子に何をするの!」

相棒の異変に気づいたマックス
子供の母親がそう叫んだ。そしてマックスが水の中を走り寄って、相棒から子供を奪い返したのである。

「洗礼するんだ」

常軌を逸したライオンは、噴水の中央の獅子像に縋りついて、一言呟いた。

それは、せめて我が子を噴水の聖水で受洗させようとする、あるべき慈父の真似事だった。

ライオンがライオンの像に縋りつくショットの、そのあまりの痛々しさ。

我が子を天国に届けられない無念さが、男の自我を打ち砕く。完膚なきまでに打ち砕く。

男は完全に正気を失っていた。

正気を失うことだけが、男にとって唯一の逃げ道であるかのように。

男はそれでも、虚勢を張った。虚勢を張るだけの自我の尖りが、僅かに残されていたのである。

「俺は戦うんだ!どこまでも戦うぞ!」

ライオンをいたわるマックス
これが、「スケアクロウ」を演じた男が、映像に刻んだ最後の言葉。

しかし男はもう、「スケアクロウ」とは違う別の何者かになっていた。



7  「俺一人じゃできねえ。起きろ!一人じゃだめだ」



寒々とした救急病院のベッドの上に、麻酔で寝かされた男が縛られていた。

病院の医師は男の症状を精神錯乱と判断し、近く州立の精神病院に転院させると言う。

相棒の突然の変調に戸惑うマックスは、他人事のような医師の説明に反発し、無機物と化した唯一の親友に向かって叫び続けるのだ。

「夢に違いねえ。やせっぽちのマヌケ野郎・・・こんなに縛りつけやがって。楽にしてやるからな。おい、眼をさませ!お前がここにいちゃあ、洗車屋は始められねえ。一体誰を信用すりゃあいいんだい。俺たちは似た者同士さ。そうなんだ。二人ならうまくいく。分ったな。俺一人じゃできねえ。起きろ!一人じゃだめだ。一人じゃできねえ…」

自分の眼の前で起きている現実を受け止められないマックスは、相棒を救い出すべく、その足で直ちにピッツバーグへと向かった。

ピッツバーグ―― それはマックスが洗車屋の開店資金が保管してある街であると同時に、相棒との長く厳しい旅の到達点でもある。

そしてそこは、二人の細(ささ)やかな夢の実現の出発点でもあった。

二人の性格の異なった逸脱者が、恐らく生まれて初めて本気で、日常性という名の秩序に復帰を果たそうとする、大いなる願いを約束する街 ―― それがピッツバーグだったのだ。

マックスはステーションで、ピッツバーグ行きの往復券を買おうとするが、金が少し足りない。

彼は相棒に最後まで見せることのなかった、靴の裏底に隠した10ドル紙幣をナイフで抉(こ)じ開け、取り出したのである。

代金を払ってチケットを手にしたマックスは、靴の裏底を修復するために、窓口の棚にその踵(かかと)を何度も強く叩きつけていた。

それが、映像の最後に用意されたカットだった。

この何となく滑稽だが、必死の形相を伝えるマックスの描写は、未だベッドに眠る相棒なしに自らの人生を再出発できないという切実感を、実に見事に映し出している。

この印象深いラストシーンは、所詮どれほど強がっても、人生を一人きりで走り切ることの難しさを語っていて、深々と抉(えぐ)るように胸を打つ。

しかし映像は、物語を中途半端に切ったような印象を残して完結した。

この印象深い映像の作り手は、二人のその後の不幸なる人生を語りたくなかったか、それともラストの決定的な描写によって、彼らの人生をポジティブに捉えているのかも知れない。

しかし、語るに忍びない二人の近未来のイメージをリアルに考えれば、殆ど予約されているとも言えるのだ。

敢えてペシミスティックに言えば、あまりに繊細なライオンがトラウマを克服できる可能性は決して大きくないだろうし、そのトラウマを克服する能力がマックスにはあるとも考えにくいからである。

相棒を失ったマックスは、体制の秩序の内に戻れないかも知れない。

生来の短気が災いして、彼は再び塀の中に戻っていく公算が少なくないように思われるのだ。

自己の人生の再生を賭けたポジティブな旅の中で、一時(いっとき)、「スケアクロウ」に近づいたマックスは、決定的な相棒を失った不幸のさまをたっぷりと味わっていくのだろうか。

切れ味鋭い映像の後半の流れは、人一倍楽観志向の苦手な私に、そんな文脈を残酷なまでに予感させてしまったのである。



*       *       *       *



8  「偉大なるアメリカ、及びアメリカ人」という物語



この映画は、決して捨ててはならない大切な何かを、無残にも失ってしまった男たちの哀切なる物語だった。

一方は貧しいが、慎ましやかな日常を置き去りにした身勝手さ故に、無残な返り討ちに遭った悲劇であり、もう一方は、その悲劇とクロスしたばかりに、束の間手に入れたかけがえのない友情を、やがて失うことになるであろう極めつけの悲哀である。

二人の逸脱はもともと確信的でなかったが故に、日常性という秩序への復帰を切実に希求するいじらしさが虚勢の奥に見え隠れしていて、その思いが呆気なく砕かれる物語の厳しさに、観る者は、時には共感し、時には反発するかも知れない。

それでも、対極する二つの異質なる個性がクロスする度に補完的に溶融していく絶妙な展開は、淡々とした筆致で貫流するリアリズムに支えられて、一級の人間ドラマの領域に届くに足る、完成度の高さを裏付けるものとなっていた。

そこにはもう、ニューシネマの半ば悪ふざけ的なゲーム感覚は、微塵も存在しなかったのである。

近代文明社会に昇りつめた豊かな国の見えない部分では、確信的に逸脱できない者たちの悲哀が至る所に転がっている。そんな人生の断片を確かな視点で拾い上げた、この湿り気の少ない映像の持つ重量感は際立っていた。

大切なものを失って立ち竦む人生は私の中にもあり、そして、貴方の中にもあるはずだ。

「スケアクロウ」を演じて駆け抜けるほど人生はシンプルではないし、また幻想の翼に身を預けて確信的に逸脱し切れるほど、私たちの人生は短くもない。

同時に、絶対的な逸脱者を演じ切れるほど、人生はオプチミスティックなまでにフラットなものであるはずがないのだ。

自由の使い方さえ大きく間違わなければ、人は程ほどにそれなりの心地良さを堪能し、そこで居眠りする我が儘さをも手に入れられるであろう。そんな感懐を切実なまでに抱かせてくれる映像、それが「スケアクロウ」だった。

この映画ほど、私の心の琴線に鋭く触れてきた作品はかつてなかった。

それは、ニューシネマが生んだ最も良質な贈り物でもあった。

しかし当時、ハリウッドはこの作品をオスカーのノミネートの埒外に置いたのだ。

ここに登場するアメリカ人の身勝手さやだらしなさ、そしてその逸脱性のレベルは確信的なものでも、狂信的なものでも、或いは、サイコパス(精神病質者)や、ボーダーライン症候群(神経症と精神病とのボーダー領域の症状)等の人格障害的なものでも何でもなく、寧ろ、ありふれたレべルの厄介者的な逸脱者の範疇に属していると言えるだろう。

確かに、まだ見ぬ我が子を捨てたライオンのエゴイズムは許し難いし、些細な口論でしかないものが、無媒介に大喧嘩へと直結するマックスの乱暴振りは、決して褒められたものではない。しかし、この程度の厄介者は社会に溢れているし、ある意味で、彼らの所業は日常的な風景の内に収まってしまうだろう。

つまり彼らは、当時のアメリカ人の等身大の自画像に比較的近い部分を表現していたとも言えるのだ。

そして、その表現がザラザラした映像の中で、あまりにリアルに映し出されてしまったのである。

現在、俳優、脚本家、プロデューサーや評論家等を含む、およそ6000人弱の「身内」のメンバーを抱えているとされる、「映画芸術科学アカデミー(AMPAS)」会員(アカデミー賞選考委員・注/因みに、2007年8月にトム・ハンクスが当組織の副会長の一人に選ばれている)たちは、恐らくそれが気に食わなかったのだ。

フランク・キャプラ監督
元来、ハリウッド労働者の組合対策のために設立したことから(1927年)、体制的、権力的な体質を露呈させていたと言われつつも、漸次、リベラルな色彩を増幅させてきたAMPASの歴史的経緯(フランク・キャプラ監督の努力などによって)を是認してもなお、そこに集う人たちの「優れた業績への表賞」に対する把握には、当然の如く、ハリウッド文化乃至、それとも、この文化が堅持してきたと思われる、ある種の不文律的な基幹文脈を否定するかの如き作品に対する違和感が内包されていたのだろう。

先述したような、ハリウッドの映画文法との折り合いの悪さが、本作で描出された人間ドラマの圧倒的な秀逸さを度外視して、そこに何か是認し難い表現性を感じとってしまったのか。そう思われてならないのだ。

本作の主役でもあったジーン・ハックマンが、胸のすくようなスーパーアクションを演じた「フレンチ・コネクション」(注)にオスカーを与えても、それよりも、もっと見事な演技を見せた「スケアクロウ」に対しては完全無視。(例によって、カンヌでパルムドールを獲得するというお馴染みのパターン)

因みに、太平洋戦争という「聖戦」の中で、怯える多くの兵士を描いた「シン・レッド・ライン」という大傑作に対して、選考委員会がお義理の「ノミネート」で済ませた経緯を見ると、そこに多少の配慮があるだけの進歩が覗えるが、しかし、「偉大なるアメリカ、及びアメリカ人」という物語に拘り続ける基本ラインは不動である。

独断と偏見をもって言えば、要するにアメリカ人は、「本当は弱くて、だらしないアメリカ人」を描かれるのが最も嫌いな人たちなのである。

「スケアクロウ」と双璧を成すとされる、「真夜中のカウボーイ」(ジョン・シュレシンジャー監督)がオスカーを獲れたのは、それが、南部丸出し青年がカウボーイ姿で、大都会と遭遇したときの文化的落差の滑稽さと、逸脱者同志の奇妙な友情を含むそのしくじりのさまを、いかにも物語的な流れで上手にまとめ上げていたからであり、そしてそれ以上に、ジョン・ボイト演じる浅墓なる逸脱者のキャラが、「不健全さの中の爽やかさ」を見事に表現し切っていたからであろう。

心身ともに落魄した親友を救おうとする小さなヒロイズムに、「鬼退治は出来なかったが、仲間を救う現代のカウボーイ」という、幾分倒錯的だが、しかし感傷的な物語のイメージラインが、ハリウッド文法の枠内にギリギリに認知されたのである。


麻薬に溺れるポパイ刑事
(注)これもニューシネマの一つとされる。監督はウィリアム・フリードキン。「ポパイ」と称される麻薬捜査担当の刑事を、ジーン・ハックマンが爽快に演じ切った。但し、麻薬に溺れるポパイ刑事を熱演した傑作の「フレンチコネクションⅡ」は、当然無視された。



9  物語のリアリズムの、一本の重くて苛烈なライン



「スケアクロウ」は、そのドキュメンタリー風なタッチによって、映像をよりリアルに仕上げ過ぎてしまった。

何度観ても、この作品は残酷すぎるほどの映像である。

彼らの未来にはあまり希望が見えないのだ。

相棒を救おうとするマックスの心情は、映像の後半辺りから少しずつ際立っていくが、それ故にこそ、相棒を失ったマックスの将来の暗いイメージをどうしても払拭できない物語のリアリズムの、一本の重くて苛烈なラインがそこに置き去りにされたのである。

確かに、ラストシーンの稀に見る極め付けの描写によって、二人の人生の近未来を覆う暗雲が払拭されるかのようなイメージを提示していたが、それはどこまでも、そこに勝負を賭けた作り手の映像的メッセージであって、「括りの描写」へのそんな仮託的な思いとは無縁に、実人生のシビアなリアリズムの苛烈な洗礼を突破し得る、能天気でオプチミスティックなイメージに簡単に辿り着けない男たちの物語の脆弱さが、そこに厳然と存在すると言わざるを得ないのだ。

まさにそれは、人生の真実を直視する映画だった。

しかし、ある種のアメリカ人の等身大に近い自己像が転写されているようなロードムービーを、映画芸術科学アカデミー会員たちが素直に受容する寛容さを持つだろうか。言わずもがなのことだった。



10  黙殺されるべき運命にあった作品の連射  



この映画の描写の中にも、選考委員会の不興を買うような印象的なシーンが幾つかあった。

その一つ。

友情ムービーに付きものの、「友の仇を討つ」という定番的な話が、ここにもある。

しかしその肝心の仇討ちシーンが、まるで作り手の熱意が感じられないような、淡々とした遠景ショットで片付けられてしまうのである。

ハリウッド映画の見せ場とも言うべき、「強きアメリカ人」を強調する肝心の描写が殆ど捨てられてしまうのだ。

マックスの男っ気を描くことで、観る者を、彼に一歩近寄らせようという魂胆が、作り手には初めからないのだろう。

その直後のシーンは、マックスとライオンが収容所を出て行く描写。そこには、回復した友情を交歓するシーンなどまるでないのだ。

これはある意味で、ニューシネマの真髄に肉薄し、それを喝破するかのような殆ど確信的だが、しかしあまりに地味なショットだったと言えようか。

繰り返すが、もう一つの印象的な描写はラストシーンである。

それを枕代わりにしてベッドに潜るほど大事にしていた靴を、マックスは病院で眠る相棒のために裏底を初めて切り開いて、閉じたのだ。

このシーンがあったからこそ、映画のテーマ性が完結したと思える重要な描写をどう見るか。

いつも上手にまとめてきた既成のハリウッド映画に馴染んだ者には、一見、中途半端な幕切れに締りのなさを感じ取ったかも知れない。

しかし、この描写の中にこそ、「スケアクロウ」という稀有な作品の生命が脈々と鼓動していたのである。

映画のラストシーンは、二人で始めた旅の終焉であると同時に、不安含みの人生の新たな旅立ちでもあった。

それを暗示して、エンドマークにシフトする映像の括りは、お歴々の不興を買うであろう。しかしニューシネマの突破力が、「スケアクロウ」に集約されていると見る私には、ラストシーンのヨーロッパ的な括りの中にこそ、前線を駆け抜けていく者の潔さが感じられたのである。

「哀しみの街かど」より
加えて指摘したいのは(或いは、これが最も重要な点であるとも思われる)、ジェリー・シャッツバーグという監督が二年前に撮った、「哀しみの街かど」という、何とも救い難き映画の存在である。

デビュー二作目となるこの作品で描かれた世界 ―― それはこの時代に生きた普通のアメリカ人にとって、最も見たくも知りたくもない、おぞましいまでに破滅的な映像世界だった。

ヘロイン漬けになった男と女の醜悪な生態を、一見、「純愛」物語の衣装を被せて描いただけの作品なのだが、そこで映し出された依存症者たちの無秩序で反生産的、且つ、自滅のさまは、全く救いようのない世界であった。

特筆すべきは、この作品に出て来る殆んど全ての登場人物が腐敗の極みにあって、しかもそれが都会の雑踏の空気を効果音にして撮られた、ドキュメンタリー映画のような圧倒的なリアリズムの内に記録されていたことである。

「アメリカ」という物語を信じる人々にとって、この映画ほど唾棄すべき作品はなかったに違いない。

この国の人々が作った文明の象徴とも言える、ニューヨークという最も自由なるステージの恥部が剔抉(てっけつ)され、容赦なく晒されたこと ―― それは「反逆のニューシネマ」の包容力をもってしても逸脱しかねない劇薬性を内包するものだった。

他のニューシネマの作品に共通して見られるような、毒気を多分に含むが、しかし物語の虚構性というものが、この映画には確信的に稀薄なのだ。

本作こそ、「ニューシネマの最高傑作」という一部の評価が根強く存在するのは(現にヌーベルバーグに馴染んでいるカンヌで、パルムドールのノミネートと、主演女優賞の獲得)、明らかにハリウッド文法に対する否定的な映像の極北というイメージが、この作品に被せられているからであろう。

ジェリー・シャッツバーグ監督
この問題作を作ったシャッツバーグの次回作が、本作である「スケアクロウ」。

当然の如く、この作品は黙殺されるべき運命にあった。

そう考えるのが自然なのではないのか。



11  カラスを駆逐する男と、カラスを笑わせる男 



―― 本稿の最後に、映像を仕切った二人の主人公の心理描写についての言及を加えておきたい。


恐らく、自分が成した行為をさして無軌道と思わずに、殆んど成り行きと感情に任せて、身を預けた果てに待っていたペナルティ。

それは、自分の社会的ポジションが、必ずしも、好都合な適応性を見せていないことを感じる程度の「逸脱性」の感覚であったに違いない。


そんな二人の男が、磁石のS極とN極が強く引き合うような状況の流れ方に嵌って、決定的に遭遇し、その本来の性癖を露出した振舞いを展開させていった。

 カラスを駆逐する男と、カラスを笑わせる男。

「男」という観念をなお捨てられない大男と、それを本来的に持ち得ない小男。そして、粗暴性と排他主義で武装したかのような男と、妥協性と協調主義という偽装武装によって世渡りしてきたかのような男。

こんな対極的な男たちがクロスして状況を作り出しても、そこに、身体を介在する激しいバトルは決して起こり得ないであろう。

そんなイメージラインをなぞるように、男たちはバトルを不毛にする関係を作り出していくのである。

粗暴な男が、愉快な気分を乗せて止まない小男のナイーブさに触れたとき、そこに、二つの異なる個性のクロスによる細(ささ)やかな感動を生み出す変化を見せていく。

この映像が秀逸なる人間ドラマの深みに到達し得たのは、その辺りの心情の微妙な振れ方を、俳優の傑出した表現力によってフィルムに鏤刻(るこく)することに成就したからに他ならない。本作は、表現力の凄みによって極まった映像だったのである。

人間は、実に何とも面白い存在体である。

心の中で描いたイメージラインと切れた行動様態を、しばしば表出することがあるのは、状況の随所で自己防衛を図ったり、社会的適応を強いられる理性的判断を捨てたりしないからに他ならない。

その戦略の砦が自我であり、それこそ、人間の本質それ自身であると言っていい。

だから人間は大抵、それぞれの能力に応じて自己像認知をどこかで済ませている。

「自分が何者であるか」という認知なしに状況にアクセスできないからである。

勿論、そこには相当の個人差があり、認知の落差に無頓着な自我も巷にゴロゴロしているだろう。だから人間は、滑稽な様態を晒し続けて止まない存在体なのである。

人間の滑稽感の醍醐味は、人間の素朴でナチュラルな振舞いが、そこに一切の加工なしに表現されたときに検証されてしまうそのリアリティにこそあると言えるだろう。蓋(けだ)し人間は愚かで、滑稽なる生物体なのである。

そんな人間の、様々な自己像に関する妙味の一つ。

それは、自他共に認める「自己についてのイメージライン」の特徴的な性向を、当人自身が肯定的に是認しつつも、必ずしも、それを完全受容していないという認知の齟齬(そご)が、当人の自我に張り付くケースが少なくないという心理的事象である。

人は、自分の中にあって、自分がどこかで受容できないか、或いは、偽装武装する観念の継続にしばしば疲弊する心理状況下に於いて、それとは無縁な個性と出会うとき、そこに異質なる個性のクロスの心地良い刺激情報を感受するケースが、少なからず散見されるであろうということだ。

相互に対極性を放つ人格が、身体を介在するバトルを絶対的に回避する担保を手に入れて、心の不思議な引力によって、相互的に補完し得る作用が現出してしまうのである。

そのとき、相手の異質なる人格様態を自分の側に少し引き寄せて、そこに、一つの固定化されたと信じる自我が拡大的に視界を網羅してしまうのだ。

そこに、人間の変わりやすさの一つのモチーフが検証されるのである。



12  「対象喪失」の圧倒的な破壊力が、男の脆弱な自我を深々と削り取って



―― 映像を検証してみよう。

本作のマックスは、自分の粗暴さを、恐らくどこかで自己修復する必要性を感じていた。

その粗暴さこそ、自分を国家の矯正施設に陥れた元凶であることを充分に感じとっていたのは、「俺ってえのは本当に下らねえ人間なんだ」という本人の言葉からも検証されるところであろう。

彼はそれ故にこそ、主観的には「不本意な逸脱」に流れてしまった、自分の些か粗暴なる振舞いのキャラを、市民社会の内に適応可能な存在様態に変えるべく、細(ささ)やかな起業を発想し、その実現に向って金を貯め、そして今、自己史の再生のためのスタートラインに自らを立ち上げようとしていたのである。

まさに、マックスはその動きつつある時間の只中で、ライオネル・フランシス=「ライオン」=「スケアクロウ」という、少なくとも彼にとって、それ以外にないような極め付けの個性と出会い、いつしか意気投合することになったのだ。

彼がライオンの中に見たのは、自分の過剰なキャラを制御し得る稀有な相棒としての能力であったに違いない。人格的クロスの心地良い刺激が、ライオンとの道中の中で、少しずつ生産的な思考を手に入れる何ものかに変容していったのである。

ライオンを一時(いっとき)拒むマックスの憤慨の根柢には、ライオンの存在感の大きさを実感する思いが張り付いていて、それがあったからこそ、彼はその生来的な粗暴性を表出してまで相棒を救い出そうとしたのだろう。

それは多分に、逸脱した者の悲哀を学習せざるを得なかったメンタリティが、それでも捨て切れなかった再出発への意志の固さにサポートされて、特定的に切り取った「相棒選択」の思いの発想だったのである。

逸脱した人生の悲哀の重さが、マックスの「相棒救出」の心情の根柢に張り付いていたと言うことなのだ。

しかし、それでも人生は儘(まま)ならない。

二人の再生を賭けた旅の、その本格的な始動の直前に、一つの決定的な悲劇が駆け抜けてしまったのである。

我が子を喪ったと信じたライオンは、あってはならない最悪の状況を受容できず、狂気の世界に逃げ込む以外になかった。

彼の自我は、その神経系統が致命的に冒されるという印象を抱くほどに、破壊的なダメージを受けてしまったのである。

実際、彼の場合、罹患者の7~8割が改善すると言われるパニック症候群の範疇に含まれるのか、それとも非器質性精神障害のカテゴリーの中で、一過的に陥った苛烈な抑鬱状態の症状を呈しているのか、素人の私には全く不分明である。

それにも拘らず、彼の精神錯乱の状態が尋常な変動域を越えていると見るのは、必ずしも誤りではないように思われるのだ。

ともあれ、飄軽な男の表現世界の中から、カラスを笑わせる「スケアクロウ」の機知が消え去ったとき、そこには、逸脱した者が当然受けるべくペナルティの、その過剰な仕打ちによって屠られていく人間の悲惨の極みが晒されていた。

恐らく、ペナルティを通告した女は、それを通告された男の破綻のイメージの決定力について正確に予知し、把握できていなかったに違いない。

まさか男の自我の安定の中枢的な基盤に、その性別すらも知らない我が子の存在が、かくまでに深く張り付く何かであったことを、女は知らない。知りようがないのだ。

あろうことか、男は妊婦を遺棄して、勝手な放浪の世界に飛び出して行ってしまったのである。

因みに、この時期、社会の激越なる変動期にあったアメリカでは、無秩序なヒッピー文化全盛期にあって、まるでゲームのようなドラッグ・トリップと違(たが)わないほどの世界漫遊に、安易に他国の文化風土を無視した感のある若者たちの傍若無人振りが、恰も、反体制を気取る意匠であるかの如く暴れ回っていた。

そんな独善的な振舞いへのペナルティが、アラン・パーカー監督の手腕が冴えた「ミッドナイト・エクスプレス」という映像に、実話を過剰に膨らませた物語として鮮烈な描き出されていたことは、私の記憶にも深々と貼り付いている。

ライオンもまた、そんな若者の一人であったかどうか知る由もないが、少なくとも、そんな時代の騒がしい文化の影響とは無縁に、彼が呼吸を繋いでいたとはとうてい思えないのである。

一切の〈逸脱〉の現象を、相も変わらず、時代や社会に起因させるような幼児的思考が過剰に暴れていたとしても、簡単に家庭を壊す行為に走った男を、寛容な心で許せる女がいるわけがない。

男は妻を遺棄し、その妻の腹の中にあった新しい生命まで遺棄してしまったのだ。

その現実の凄惨な風景を、男自身が深く後悔し、懺悔せねばならない。女は、自分と胎児を捨てた許し難きエゴイストに、その懺悔を深々と求めざるを得なかったのである。

いや、もう女の中には、男の通り一遍の懺悔によっては浄化し得ないほどの感情が、堅固なまでにに固まってしまっていたのであろう。

だからこそ、それを吐き出さねばならない激越な何かが、女の内側に澱のように淀んでいたのだ。

「あなたは息子の魂を捨てた畜生だわ。そうよ。天国へも行けないのよ」

これだけのことを、女は男に通告するだけで良かった。そして実際、女はその思いを、積年の恨みを込めて言い放ったのである。

「懺悔しろ!」

女はこの叫びを、男に突き付きたかっただけなのである。

男の内面世界の予定調和の秩序は、そのイメージラインすらも捕捉されていなかったであろう事態の出来に、その根柢から復元力を奪われてまったのだ。

「対象喪失」の圧倒的な破壊力が、男の脆弱な自我を深々と削り取ってしまったのである。

未知なる自由を求めて旅立った男の無軌道な〈逸脱〉の代償は、あまりに苛烈なものであり過ぎたということなのだろう。

人間の自我は、それが拠って立つ安定の基盤と思われる世界を崩されてしまうと、そのあまりに脆弱な様態を晒すしかないのだ。男がそこで晒したものの全ては、男が失ったものの価値の大きさをマキシマムに表現した悲哀の極みだったと言っていい。



13  絶望的なまでに下降した魂の、その救済を賭けた男の突破力に委ねられて



このとき、男の自我の復元を全人格的に願っていた者は、恐らく男の生きた世界に於いてただ一人しかいなかった。マックスである。

その帰郷の旅の出発点辺りで出会い、相互補完的に反応し合っただけの大男にとって、その旅の到達点に差しかかる辺りでは、小男の存在は、既に絶対的な相棒としての役割性を担う何者かになっていた、彼らの旅の終わりは、彼らの再生の旅への始まりを告げる決定的な時間を意味していたのである。

彼らの放恣な逸脱の人生は、この時間の内に乗り越えられていくべき過去の遺物でしかなかったのだ。

マックスにとって、ライオンの帰郷は、彼らのピッツバーグ行きの人生の小さな通過点以外ではなかった。

その通過点でしかない場所で、マックスは相棒を失ったのである。と言うより、自らの欠如した能力を充分に補填するに足る、最も大切な相棒を失ってしまう危機に直面したのである。

マックスにとって、それは決してあってはならないことだったのだ。

その通過点はまさに、二人の男をして、「あってはならない〈逸脱〉」を、その人生の決定的転換点に於いて復元させてしまったのである。

逸脱した男たちが同時に経験した「対象喪失」の危機は、ライオンの中で限りなく絶望の深淵を覗かせるものになってしまったが、それでも仮に、「相棒喪失」の危機をクリアできなかったときのマックスの近未来を想起するとき、果たして、本来的な粗暴さを制御するに足る決定的な役割媒体を失って、この大男が、「逸脱の超克」を刻む人生を保証する何ものもないことが瞭然とするだろう。

既に、二人は補完的に繋がることによってのみ、その能力を有効に表現し得る関係を固め上げてしまっていたのである。

考えても見よう。

もしこの二人が、カリフォルニアの季節の風がビュンビュン吹きすさぶ、どこか荒涼とした殺伐した風景の中で遭遇しなかったら、そこに何が起き、何が起きなかったかということを。

ライオンは帰郷する勇気を土壇場まで継続できず、その逸脱の人生を重ねていたかも知れないし、或いは、帰郷を果たしたとしても、そこに待つのは苛烈なペナルティ以外の何ものでもなかったはずだ。

彼の人生は、そこで再生に繋がるモチーフを拾えずに、確信なき永久逸脱者の人生を悲惨の内に閉ざしていったのかも知れないのである。

マックスもまた、その粗暴さを抑え切れずに、ピッツバーグでの再生への希望の具現に届くことなく、その逸脱の継続の延長を余儀なくされていた可能性の方が、極めて大きいと言わざるを得ないのである。

従って、大男と小男の人生の、曲線的な航跡の中で偶(たま)さか現出した出会いの奇跡こそが、二人の内包する「逸脱突破」のエネルギーを、より固め上げた能力に進化させる可能性を保証させてしまったということ、これが決定的に重要なのだ。

まさにこの二人は、それ以外にないという絶妙なタイミングでクロスし、それ以外にないという絶妙な嵌り方をしてしまったのである。

物語の溢れ出るような哀感は、そんな男たちの、それ以外にないというような人格的クロスの中で爆発的に表現され、そして絶望的なまでに下降した魂の、その救済を賭けた男の突破力に委ねられた、あのラストシーンの決定的な描写によって極まったのである。



14   一本の秀作と出会うための根気



ジェリー・シャッツバーグ監督(2011年)
もう一度最後に、自分の思いを刻んでおこう。

「スケアクロウ」―― 文句なく、私のベストワン・ムービーである。

これほどの人間ドラマの秀作と、私が今後いつ出会えるか、全く保証の限りではない。

こんな映画と二度と出会うことがないような空気が、現在のハリウッド映画に限りなく漂っているからだ。

それならそれでいい。

一本の秀作と出会うために、何十本もの駄作と付き合う根気を捨てなければいいだけの話なのだ。

(2007年9月)

2 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

私の勝手な解釈ですが
ライオンは自分が滑稽なカカシになることでしか生きられず、マックスは傷つかないように自分を防衛するために愛を受け入れてこなかったのだろうと思います。
ライオンは人に愛されるには笑わせないといけないという思い込みがあって、しかしそれは人格レベルでの幼少期からの自分に対しての刷り込みだったのかと思います。そうした条件付きの愛に怯え、また疲弊していて、本当は優しいのにもかかわらず耐えきれずに放浪したのではないでしょうか。
マックスは人から裏切られ傷つかないように、そもそもバリアを張っていました。常に命の危険を感じ、自分を守るために鋭利に生きる野生動物のようです
共に幼少期に親からの愛情が不足していたのでしょうか
私の中にもライオンやマックスがいるので共感できます。

最後は2人の男がそれぞれに変容し終わったところでの完璧な「結」だったと思います。そしてその「結」の中のラストシーンでは、病院での美しい映画的な幕切れでなく、そこからも人生は続いて行くという事実とそこに向かって行く男を力強くかつドライにうつして終えます。
死ぬ瞬間まで終わりはありません。
カッコ悪く泥臭いラストカットは芸術的でした。

素晴らしい映画との出会いと鋭く深い批評をありがとうございました。

Yoshio Sasaki さんのコメント...

最も好きな作品の一つです。読んで下さり、ありがとうございます。