テレンス・マリック監督
際立つ映像美によって、最も印象に残る映画。
とりわけ、自然の情景描写が抜きん出ていて、殆ど溜め息が出るほどだ。
見渡す限りの大農場には、黄金色の麦の穂が大きく揺れ、遥か地平線の向うでは、日没の赤がいつもと変わらぬ律動性の中に燃えている。朝靄の川面には、周囲の風景と調和したかのような淡い黄葉が映えていた。
広大な農園の中心に、そこだけがオアシスのようにぽつんと天に向かって聳(そび)え立つ孤高の館。そこに差し込む季節の光彩が目眩(めくるめ)く変化し、芸術的な輝きの中で踊っている。(画像)
森には多くの種類の鳥が棲み、其処彼処(そこかしこ)で生命の鼓動を伝えている。
自然は緩やかに、今までもそうであったような素朴な律動を刻みつつも、しばしば、悠久なる時間と戯れるかのようにして暴れて見せる。しかしそんな尖った振る舞いも、彼らにとっては自然なる生命展開の、極めて日常的な様態でしかないのだ。
イナゴが一匹、二匹、三匹・・・・
次第に数えられない位の群れが、城砦と化した屋敷の中に侵入し、農園の秋に襲いかかってくる。やがてそこに火が放たれ、実りの秋が無残に散っていった。
この壮絶な自然への屈服のさまを、まるでドキュメンタリーのように手慣れたプロのカメラが、パンフォーカスな映像を鮮烈なまでに表現して見せた。
高度な芸術表現の域に達したこの構図の連射を、スクリーンのパノラマで堪能することができなかった無念さ。それが悔やまれるほど、素晴らしい映像美なのだ。
テレンス・マリック監督 |
「地獄の逃避行」という鮮烈なニュー・シネマでデビューして、これが二作目となるアメリカ映画界のカリスマ監督。
そのカリスマ性は本作の公開から二十年後の作品、「シン・レッド・ライン」に至るまで、映画界と全く没交渉な生活をしていたらしいという経歴によって増幅されたに違いない。
大スターたちをして、「シン・レッド・ライン」に低報酬覚悟で集合させた求心力のルーツは、世界で絶賛された、この「天国の日々」という秀逸な作品にあった。
これは不思議な映画である。
単純なストーリーだが、その構成は複雑である。
大農園の麦刈り人として雇われた、貧しい一組のカップルがいた。
女は余命幾許(いくばく)もない若き農園主から見初められ、兄妹を偽装した男は、その恋人を農園主に嫁がせる。
富に近づいた二人に束の間、「天国の日々」が訪れるが、失って初めて知った愛に悩んだ男は、農園から姿を消すことになる。
一年後、再び麦刈りの季節がやってきて、男は農園に姿を現した。
女の心は既に農園主の愛を受け入れていたが、二人の関係に疑いを持っていた農園主がその確信を深めたとき、彼の農園はイナゴの大群に食べ尽くされていた。
「全てを焼き尽くせ」
この農園主の叫びは、破滅に向かう運命への、最初にして最後の宣戦布告だった。
農園が真っ赤に染まった後の風景の片隅で、男を撃ち殺そうとして果たせなかった、若き農園主の死体が転がっていたのである。
男は、女を連れて逃走する。
やがて、男は追っ手に見つかり、その惨めな射殺死体を水藻に浮かべていた。
女は死体の上で泣き崩れ、まもなく、男の妹を連れ立って旅に出た。
妹を施設に入れた女は、自らの人生を再出発させるために、見知らぬ男たちと共に列車に飛び乗った。
男の妹は施設を脱出し、彼女もまた、あまりに残り多き人生に向けて、農園で知り合った女と旅立っていく。
これだけの話である。
しかしこの映画は、一貫して男の妹の視線によって語られている。
常に三人連れの旅をする少女の視線から、理解の届かぬ男女の三角関係が語られ、絶望的な貧しさが語られ、そして束の間の、「天国の日々」が語られる。
そして最後に、決して忘れないであろう兄の死が語られ、その恋人の旅立ちが語られ、また自らの不安と期待に充ちた、その旅立ちが語られていくのである。
この映画の複雑さは、愛も人生もきちんと学習できていない、一人の少女の自我のフィルターを通して、あまりに苛酷な人生の現実を映し出そうとした点にある。
恐らく、テレンス・マリック監督は、人生の現実の厳しさをリアルな視線で捉えるよりも、そこにオブラートを包んだ映像を示すことで、「運命が手繰り寄せた悲惨さ」を出来る限り客観化したかったのではないだろうか。
それほど悪人でもない者たちが招いた運命もまた、人間社会の、その様々な展開の普通の範疇に属することを認知し、それを受容するしかない人生が其処彼処(そこかしこ)に存在するということ。そしてそれらは、大自然の悠久なる営為の中に収斂されてしまうということ。
その辺りが、テレンス・マリック監督の基本メッセージではなかったか。
(2005年9月)
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