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2008年11月10日月曜日

日の名残り('93)    ジェームス・アイボリー


<執事道に一生を捧げる思いの深さ ―- プロセスの快楽の至福>



1  長い旅に打って出て



英米の映画賞を独占した「ハワーズ・エンド」の翌年に作られた、米国人監督ジェームス・アイボリーの最高傑作。

また前作でも競演した英国出身のアンソニー・ホピキンスとエマ・トンプソンの繊細な演技が冴え渡っていて、明らかに彼らの代表作とも言える作品となっている。

とりわけ、アンソニー・ホプキンスの抑制的でシャイな演技が群を抜く。まさに独壇場といった感じである。


―― 老境にさしかかった一人の男と、その男が思いを寄せる一人の女の、際立ってプラトニックな、一つの小さな物語を追っていこう。

一人の女がいる。その名はケントン。

現在はミセス・ベン。その女が、一人の男に手紙を出した。

映像は、その手紙のナレーションから開かれていく。

「スチーブンス様。ご無沙汰を致しました。ダーリントン卿がお亡くなりになって、後継ぎの新伯爵は、広大なダーリントンホールを維持することができず、お屋敷を取り壊して、石炭を5千ポンドで売りに出すという記事を新聞で読みました。“売国奴の屋敷 取り壊し”というひどい見出しもありました。ホッとしたことに、ルイスという米国の富豪がお屋敷を救い、あなたもお屋敷に留まれるとか。

1936年の会合に参加されたあのルイス下院議員ですか?私が女中頭していたあの頃を懐かしく思い出します。仕事は忙しく、あなたは気難しい執事でしたが、私の人生で一番幸せな日々でした。使用人の顔もすっかり変わったことでしょう。あの頃のように、大勢の従僕も今は必要ないでしょう。

私の近況は暗いものです。7年前に便りをして以来、夫とは結局、破局を迎えることになりそうです。現在は下宿住まいの身です。将来はどうなるのか。娘のキャサリンが結婚して、空虚な毎日です。この先の長い歳月、自分を何かに役立てたいと願うこの頃です・・・」

一人の老執事がいる。その名はスティーブンス。

彼はケントンからこの手紙を受け取って、意を決した。

学園都市・オックスフォード
1958年。英国、オックスフォードでのこと。

「トースターを買えよ」と言う新しい主人ルイスに、スティーブンスは懇望した。
「新式の道具より、新しい人員計画が必要です」
「人員計画?そんなものが?」
「見直しが必要です。ご主人様。先だって私に、“骨休めの旅行でもどうか”と。ご親切なお言葉を」
「たまには外の風に当たれよ。外にも世界があるんだぞ」
「世界が、このお屋敷を訪ねて来たもので・・・」
「そうだな。来週は私も家を空ける。私のダイムラーを使うがいい」
「滅相もない」
「お前とダイムラーはきっと相性がいい」
「ありがたいお申し出・・・恐縮です。“景色のいいという英国西部を、一度旅したい”と。旅のついでに、スタッフの問題も解決できます。昔勤めておりました女中頭が、また働きたいという意向を・・・」
「その女中頭といい仲だったのか?」
「とんでもない。大変、有能な女中頭です。保証致します」
「お前をからかったんだよ、済まん・・・」

はにかむような態度を見せた老執事に、ルイスは如何にも人の良さそうな笑顔で謝罪した。

しかし、主人の承諾を得た老執事は、やがて長い旅に打って出たのである。

ケントンと会い、彼女を迎えるための旅である。そこには既に、20年という歳月が経っていた。その旅に、男は自分の老いた身を投げ入れたのである。


「ミセス・ベン。10月3日の4時頃、そちらの町へ。その前夜、コリングバーンに一泊します。村の郵便局に、連絡を入れておいて下さい・・・あなたの記憶力には、今も驚かされます。現在の私の雇い主は、政界を引退した、あのルイス議員です。ご家族もまもなく屋敷に来られる予定です。そこで問題になるのがスタッフ不足です。ここで改めて、あなたに賛辞を呈します。

結婚で去られて以来、あなたに優る有能な後任者はいませんでした。私は最初の日を覚えています。あなたは突然、予告もなくやって来た。キツネ狩り騒ぎの最中に。あの日は、ダーリントン卿が近在の方々を、最後に親しく迎えた日でもありました。卿はキツネ狩りを好まれず、友人たちのたっての願いで催すことになったのです。私の対応は多少、礼を欠いていたかも知れません。あなたの持参した紹介状は非のない内容でしたが、あなたの若さが不安だったのです・・・」



2  執事一筋の男の人生が閉じられて



映像は、ここから回想シーンに入っていく。

そのシーンの冒頭は、ケントンとの初めての出会いの描写であった。

ケントン
まだ若いケントンに不安を持った執事は、女中として仕える者には、異性問題を起こす例が多いことを話し、女中を志願する彼女を牽制したのである。

まもなく、スティーブンス執事は、主人のダーリントン卿に女中頭の採用を願い出た。ケントンはスティーブンスの意に適ったのである。

「先月、駆け落ちした女中頭と副執事の件ですが・・・」
「困ったものだ。それで?」
「後任者が見つかりました。一人はミス・ケントンで、経歴は申し分なく、感じの良い女性です。もう一人は長く執事を勤めた男で、年なので“副執事で構わぬ”と・・・」
「名前は?」
「スティーブンスです」
「お前と同じだ」
「私の父です」
「お前の父親か。いいじゃないか。会ってみよう」

スティーブンスは早速、父を主人に面会させた。

「スティーブンス君、どうも、いい息子だな。彼がいなければ、この屋敷はどうなるやら」
「恐縮です」と父。
「いい息子だ。よろしく頼む」

これで全てが決まった。

スティーブンス父子
スティーブンスの父は、既にその見かけで肥満の老体を持て余しているかのような振舞いが、階段を息を継ぎながら上り下りする描写の中で映し出されていた。

一方、女中頭のケントンは、その若さに似合わず、色々なことに気遣いのできる勤勉な女性だった。ある日、ケントンが庭に咲く花を採って、それをスティーブンスの仕事部屋に持って来た。その好意に心地良さを覚えたに違いないスティーブンスは、そんなケントンの振舞いを素直に受容できない。

「ここは私の仕事部屋です。気を散らすようなものは・・・」
「花が気を散らすのですか?」
「ご親切はありがたいが、今まで通りに。ついでに、あなたに聞いておきたいことが・・・昨日、耳にしたのだが、誰かを“ウィリアム”と呼んでおられた。誰のことを?」
「あなたのお父様ですわ・・・」
「今後は父のことを、“スティーブンスさん”と。第三者と話すときは、私と区別して“スティーブンス・シニア”と。そう呼んでいただければ、ありがたい」
「よく呑み込めませんけど。私はこの屋敷の女中頭で、お父様は副執事です・・・」
「だが、考えていただければ分かるはずだ。あなたの立場で私の父を呼び捨てにするのは不適切です」
「私のような者に呼び捨てにされて、気を悪くなさったわけね」
「注意深く観察すれば、父は学ぶことの多い人間です」
「例えば、どういう有意義なことを学べるのかしら?」
「どこに何を置くべきか、迷うこともなくなります」
「お父様は有能な方でしょう。けれど私も、自分の仕事は心得ています・・・」

その捨て台詞を残して、ケントンはスティーブンスの部屋を去っていった。

この会話から、ケントンという女性の誇りの高さと、気の強さが窺われるが、それ以上にスティーブンスという男の誇りの高さが、父を尊敬する息子の思いの内に繋がれていることが判然とする。

父子とも、「執事はその立場に相応しい品格こそが重要である」と考えている描写によって、その誇りの高さが検証されていくのである。

しかしスティーブンスの父が、その執事としての能力の限界が随所に描き出されていくことで、息子の心配が徐々に顕在化していく。塵(ちり)取りを階段の踊り場に出しっ放しにしたり、晩餐の席で鼻水を垂らしたり、明らかに父の老化が際立つ場面を目撃して、スティーブンスはそのフォローに躍起になっていくのである。

しかもそのミスを、いちいちケントンに指摘される始末。

「昔通りの仕事ができるお年ではないのよ」
「ご忠告は感謝します」

これがスティーブンスの答えだった。

しかしスティーブンスの父の決定的なしくじりが、遂に主人にまで知られることになったのである。庭園のテーブルで歓談する主人に銀器を運ぶ際に、スティーブンスの父は芝生の切れ目に躓(つまづ)いて、転倒してしまったのだ。

「ご主人様、済みません・・・」

転倒したその場所で、心配する主人に、この言葉を繰り返すスティーブンスの父。そのことを最も気に掛けたのは邸宅の主人だった。

彼は「まもなく、ヨーロッパの将来を決定付けるような会議が自邸で開かれる」ことを配慮して、スティーブンスに要請したのである。

「父上の仕事を少しでも軽くして欲しい」

その意を汲んだスティーブンスは父に、「食卓での給仕を控える」ことを求めたのだ。しかし執事一筋の父には、息子の要請にどうしても納得がいかない。父は密かに庭園で、転倒しないための訓練を重ねていくのである。

それを階上から見つめるスティーブンスとケントン。それでもスティーブンスは、モップや箒(ほうき)で屋内を掃除する役割を父に与え、父もまたそれを受容したのだった。

ダーリントンの邸宅で、いよいよ欧州の行方を決める非公式な会議が開かれた。そこには、米国を代表して反独主義のルイスも参加していた。明らかにドイツびいきのダーリントンは、第一次大戦後のドイツの復興の援助に力を注ぐことに熱を入れていた。

まさにその只中で、スティーブンスの父は倒れたのだ。
父を部屋の中で休養させる息子。殆ど戦力にならない父のいない執事やスタッフは、会議の成功に全力を傾注していくのである。

たまたまベッドで横たわる父を見舞ったスティーブンスは、父から遺言のような言葉を聞くことになった。

「母さんを愛せなかった。一度は愛したが、他の男とのことを知って、愛は消えてしまった。息子には恵まれた。いい息子だ。良い父親だったかどうか・・・努力したつもりだ。早く階下(した)へ行け。お前がいないと、階下は大変だ・・・行け!行け!」

これが、スティーブンスの父の最後の言葉となった。執事一筋の男の人生は、脳内出血によって苦しむことなく閉じていったのである。



3  男と女の関係の、最も近接する辺りまで距離を縮めながら



1958年。村の郵便局で、スティーブンスはケントンからの手紙を受け取った。

「桟橋の向かいの“海望ホテル”でお待ちします。お伺いしたいことが色々あります。当時、働いていた者で、今も連絡があるのはあなただけ。時が流れたのですから仕方ありません。あれほど大勢の人間の消息は追えません・・・」

再び回想シーン。

ダーリントン卿の邸宅では、非公開のの国際会議が継続的に開かれていた。

会議の空気は、ナチス・ドイツの人種政策を擁護する意見があからさまに顕在化していた。強制収容所の話題も出てきて、時代の閉塞感を映し出していたのである。

邸宅には、ケントンの紹介で二人のユダヤ人の女中が雇われていた。

元来、ユダヤ人に対して差別意識を持たなかったダーリントンは、次第にナチズムの思想の影響を受けて、反ユダヤ主義の傾向を強めつつあった。そしてダーリントンはスティーブンスを呼び出して、二人のユダヤ人の女中の解雇を命じたのである。

「しかし、二人とも良く働いてくれますし、礼儀正しく、綺麗好きです」

スティーブンスは彼女たちを擁護した。しかし主人の命令は絶対である。

「二人はユダヤ人だ」
「分かりました。失礼します」

スティーブンスは、そう答える以外になかった。しかし執事のこの態度に、ケントンは激怒した。

「よくよくそんなに平然と、食料品の注文を出すように言えるわね!ユダヤ人だから解雇する?」
「我々がどう思おうと、ご主人様のご決断だ」
「ドイツに送り返されたら?」
「仕方ない」
「あの娘たちを解雇するのは間違いですわ。許されない罪です」
「今日(こんにち)の世界には、我々の理解できぬことが・・・ご主人様は、それを理解しておられる。例えば、ユダヤ人問題だ」

その言葉に反応するかのように、ケントンは自分の決意を明言した。

「あなたに警告します。二人を解雇するなら私も辞めます」

スティーブンスは何かを言おうとして、それを押し殺すばかりだった。

結局、二人の娘は解雇され、新しい女中が雇われることになった。その面接を、スティーブンスとケントンが担当し、ケントンは自分の監督責任で彼女を雇うことを決めたのである。 

面接を終えた後の二人の会話。

「あなたが辞めるという話は?」とスティーブンス。
「辞めません。戻る家族もありませんし、私は臆病者なのです・・・怖くなったのです。屋敷の外で待っている孤独が怖いのです。私の主義主張なんて、その程度。自分を恥じています」
「ケントンさん。あなたは得難い方だ。この屋敷に必要な方です」
「本当に?」
「勿論」

スティーブンスとケントンの関係の中から、ある種の険悪さが一時的に消えていったことを象徴する描写だった。

またスティーブンスが心から信頼するダーリントン卿の感情の変化も、時代の流れの中で大きく振られていった。彼はスティーブンスに向かって、自分の思いを告白した。

「解雇したのは間違いだった。可哀想なことを・・・」

そう言って、スティーブンスに二人の娘を探し出して来るように命じたのである。そのことをスティーブンスは、嬉々としてケントンに告げた。

「あのときは、お互い心が痛かった」
「お互い?冷たく二人を追い出したくせに」
「ひどいな。私だって気が重かったんですよ。耐えられない思いでした」
「そう言って下されば、私も救われましたのに。なぜ本当の気持ちを隠そうとなさるの?」

未だ拘るケントンの心の中のしこりは、スティーブンスに向かって吐き出される他なかったかのようである。懸命に感情を隠しているように思われるスティーブンスに、ケントンは常に不満を持つが、しかし二人の関係は、柔和な色彩を少しずつ濃密にさせていたのである。

それを象徴するシーンがあった。

ケントンがスティーブンスの仕事部屋に入って来たときのこと。

花を飾りにきたケントンは、読書するスティーブンスに興味を見せて、何の本を読んでいるかを執拗に迫ったのだ。しかしスティーブンスは、その本をケントンに見せることを拒んだのである。照れ臭いのだ。

そのときの会話。

「見せて。隠さないで、見せて」
「独りにして下さい」
「なぜ、本を隠すの?」
「私のプライベート・タイムです」
「私がプライバシーを侵害してるわけ?・・・何の本なの?お願い、見せて。私を守ろうとしているの?ショッキングで、私に悪い本だから?見せて」

ケントンは、スティーブンスの呼吸音が聞こえる辺りにまで近づいていく。

スティーブンスの手から本を取り上げて、その本のタイトルを確認した。その間、スティーブンスはケントンの顔を見つめている。

ケントンから本を取り上げたスティーブンスは、静かに答えた。その視線は、ケントンの表情から離れることがない。

「そうです。私は手当たり次第に本を読むのです。そして教養を広げるために・・・私を独りにして下さい。僅かな自分の時間なのです」

そこまで言われて、女はもう反応できない。

しばらく、二人は見つめ合っている。しかし、そこに何も起こらない。

男は執事の枠を逸脱しなかったし、女もまた、女中頭の役割を踏み越えられなかったのだ。二人はそのとき、男と女の関係の最も近接する辺りまで距離を縮めながらも、後(あと)ほんの少しのスタンスを埋められないのだ。男がそれを拒んでしまったからである。



4  感情を濃密に交わらせることのないフラットな会話が捨てられて



まもなく、新しく雇い入れた女中がケントンの下に退職願を申し入れて来た。

ドアの外には、彼女の恋人が待っている。その恋人もまた執事であった。彼女はこの若い執事との結婚の故に職を辞すつもりだったのである。

それを知って悩むケントン。自分が紹介した女中だからだ。

そのケントンを慰めるスティーブンス。しかし彼女は、その思いの一端を吐き出した。

「今夜は疲れてて・・・忙しい一日でしたの。とても疲れているんです。とても、とても・・・分からない?」

スティーブンスは、ケントンの感情の奥にあるものを察知しながらも、微妙に話題をずらした。

「ケントンさん。申し訳ありませんでした。夜の打ち合わせは有意義と思ったのですが、重荷とは・・・」
「今夜は疲れているだけですわ」
「いいんです。一日の仕事の後では負担です。今夜限りにしましょう」

そう言って、部屋を立ち去ろうとしたスティーブンスの後ろから、ケントンの言葉が追いかけた。

「今後、お互いの連絡は日中だけに。できるだけメモで。では、お休みなさい」

更に、女の言葉が追いかけていく。

「スティーブンスさん・・・明日はお休みを取ります。9時半には帰宅します」
「分かりました。では・・・」

男は部屋を去った。

女はその部屋に残された。涙がうっすらと滲んでいた。

次の日、女は屋敷を後にした。
それを階上から男が見つめている。それだけだった。

休みを取ったその日、ケントンは一人の男からプロポーズをされていた。相手はスティーブンスも良く知る男であった。彼女は男から、「海辺の下宿屋を一緒に始めよう」と誘われていたのである。

その明らかなプロポーズに迷う彼女は、その夜スティーブンスに相談した。

「求婚されたんです」とケントン。

スティーブンスは一瞬顔色を変えたが、その変化を悟られまいと、表情を咄嗟に復元させた。

「迷ってますの」
「なるほど」とスティーブンス。既にいつもの表情に戻っている。
「彼は来月、故郷の西岸へ・・・返事を迷ってますの。そのことを言っておきたくて・・・」
「分りました。ありがとう・・・それでは、どうか楽しい夜を、ケントンさん」


感情を濃密に交わらせることのないフラットな会話が、そこに捨てられた。



5  部屋に残された女の嗚咽が、再びそこに捨てられて



まもなくダーリントン卿の邸宅では、最も重要な会議が開かれていた。

英国首相と外務大臣、更にはドイツの大使も出席していた非公式な会議である。ドイツを支持してきたダーリントン卿のやつれた表情が、印象的に映し出されていた。

ケントンが帰宅して来て、スティーブンスが声をかけた。

「どうです?楽しい夜を?」
「お陰さまで。詳しく聞きたい?」とケントン。
「まだ用が・・・今夜は重要な集まりなのです」
「毎度のことでは。求婚を承諾しました。ベンさんと結婚します」

部屋の奥に去っていくスティーブンスの後姿に、ケントンの決定的な言葉が投げかけられた。

一瞬立ち止まって、男は振り返る。

「おめでとう」とスティーブンス。それだけだった。しかし女は畳み掛けていく。
「契約期間を繰り上げて、辞めさせて頂けます?彼は2週間後に発つのです」
「考えましょう。では、これで・・・」

男はその言葉を捨てて、足早に去ろうとした。女はなおも言葉を放っていく。

「スティーブンスさん。ご一緒に長年働いてきて、それだけなの?」

女の表情には、苛立ちの感情を隠し切れないでいるようだった。

「だから先ほど“おめでとう”と・・・」

男は、裂けつつある感情を必死に堪えている。

「ベンさんと私にとって、あなたは重要な方なのよ」
「なぜです?」
「色々あなたの話題を彼に話しますの。あなたの面白い癖や、独特の動作を。彼は大笑いしましたわ。鼻を摘んで胡椒をかけるあなたの真似をしたときはね」
「そうですか・・・ではこれで失礼します」

男は、足早に去っていった。
女はそれを凝視するだけ。そこにはもう何も起こらなかった。

男はその後、ダーリントン卿の甥である記者から、会議の内容について説明を受けた。彼は伯父である卿がドイツに加担する態度に不満を持ち、それを諌めようとしていていたのだ。しかし、執事でしかないスティーブンスには、政治的意見を吐露する立場ではないし、またその能力の範疇も超えている。記者から顔色の悪さを指摘され、スティーブンスは部屋に戻って行った。    

そこにケントンが待っていた。彼女はスティーブンスに謝罪したのである。

「さっき私の言ったことは気にぜずに。馬鹿なことを言いました」
「私は気になどしていません。何を言われたかも覚えていません」
「私が馬鹿でした」

ケントンは明らかに傷ついていた。

「ここであなたの相手をしている暇はありません。お疲れでしょうから、休まれた方がいい」

女は決定的に傷ついていた。

しかしスティーブンスの方が、もっと傷ついている。その思いを、男は決して表出しないだけなのだ。思いを出さない男は、代わりにワインセラーから持ち出そうとしたワインを割ってしまったのである。

「クソ!」

男が初めて映像で見せる、明瞭な感情表現だった。

男は新しいワインを持って屋敷の廊下に出た。突然、男の耳に、女の啜り泣きの声が侵入してきた。男はその声に誘(いざな)われて、その身を近づけていく。声の主がケントンであることは、すぐに特定できていた。

「ケントンさん」とスティーブンス。
「スティーブンスさん」とケントン。

嗚咽を抑えられない顔を上げたその表情から、声をかけられた感動が映し出されていた。しかし男の次の文言は、明らかに女の密かな思いを打ち砕くのに充分だった。

「ケントンさん。忘れていました。朝食室の隣の小部屋ですが、新しいメイドに埃が残っていたと注意を」
「注意しておきます」
「ありがとう。それを言い忘れていました」

そう言って、男はケントンの部屋から去っていった。部屋に残された女の嗚咽が、再びそこに捨てられたのである。



6  いつまでも雨に咽ぶ街路が残した記憶を追って



1958年。ケントンは夫のベンと語らっていた。

ケントンの泊まる宿に、夫が訪ねて来ていたのである。

「感じのいい宿だ。こういう下宿屋が夢だった。他の夢と一緒に消えたがね」
「それで話って?」
「昨日、キャサリンに会った。いいニュースがある。赤ん坊が生まれる」

ケントンの表情に、歓喜の笑顔が広がった。

「日曜に来てくれって。君を拾って、一緒にバスで行こう」
「考えさせて」

ケントンは、その表情を歓喜の前のそれに戻していた。

「君がいないと寂しい。寂しい」 

夫のベンは、明らかに妻に対して未練を持っていた。その言葉に反応するケントンの表情を、映像は映し出さない。困惑極まるその複雑な表情を。

一方、スティーブンスはケントンを待つために、“海望ホテル”のレストランにいた。

「私が女中頭をしていた頃を懐かしく思い出します。一番幸せな日々でした・・・」

スティーブンスが、待ち合わせのレストランで、ケントンからの手紙を読んでいたとき、そこに本人は現れた。

「ミス・ケントン・・・ミセス・ベン」
「お待たせを」
「ご無沙汰を。昔通りだ。多少変わった。皆、変わります」
「あなたは見違えませんわ」
「あれから、もう20年?」
「そうなりますわ」

儀礼的な会話が続いていた。その話題の中心は、その後のダーリントン卿の変化についてであった。

スティーブンスから語られる卿の話。

「正直申して、あの後亡くなるまで卿は、廃人同然で・・・図書室にお茶をお持ちしても、思いに耽っていて、私の姿も眼に入らぬ風でした。時には、誰かと議論しているような独り言を。誰もいないのに。訪ねて来る人もなく・・・」
「お気の毒に・・・」
「あなたのいた頃が、黄金の日々でした。あの頃の卿を記憶に留めましょう。幸いルイス様がお越しになり、じき米国から奥様も・・・」
「あなたがいて、きっと大助かりよ」 

ここまで話して、スティーブンスはいよいよ本題に入っていく。

「色々大変ですよ・・・人手不足でして・・・」
「お手紙で読みました。それで私も、もう一度お勤めをと・・・」
「良かった」
「ところが事情が変わったんです。もし勤めるなら、この近辺でないと。娘のキャサリンに赤ん坊ができるんです。側にいてやりたいんです。孫が大きくなるのを側で見たいし・・・」
「分りました」とスティーブンス。

明らかにその声には力がない。その表情に翳(かげ)りがある。

「私の孫ですから・・・」

これが、レストランでの会話の全てだった。

まもなく二人は、外に出て会話を繋いでいた。
黄昏時の街路で、ケントンは正直に吐露したのである。

「私は、ダーリントン・ホールを本気で去ったのではないの。あなたを困らせたいという気持ちだったのです。結婚した自分に驚いたくらい。結婚して、ずっと不幸でしたわ。でも娘が生まれ、ある日、夫を愛していることに気づいた。この世の中で、あの夫ほど、私を必要としている人はいないのです。それでも時々、人生を誤ったと思うことが・・・」
「人は皆、人生に悔いがあります」

スティーブンスは、もうそんな言葉でしか反応できなかった。

バス停で、二人はバスを待っている。

ケントンは、街路の人工光の眩(まばゆ)さを見て、言葉を繋いでいく。 .

「夕暮れが、一日で一番いい時間だと言いますわ。皆、楽しみに待つと・・・」
「なるほど」
「あなたは、何が楽しみ?」
「お屋敷に戻り、人手不足の解決策を考えることかな」
「あなたはベテランですわ。今までに何度も解決を・・・」
「そうですね。毎日仕事に追われっ放し。これからも変わりません」

雨が降り出してきた。

簡易な屋根の作りの下に、人工照明が多彩な彩(いろど)りを添えていた。

「どうか、お達者で」とスティーブンス。
「あなたも、スティーブンスさん」とケントン。
「約束します。あなたとご主人が幸せな日々を送られることを。もうお眼にかかることもないと思うので。ぶしつけなことを・・・」
「ありがとう」

女の柔和の瞳から熱いものが光っていた。

そこに、女を送るためのバスが到着した。相合傘の下で、二人はバスの乗降口に急ぐ。バスの扉が開いて、二人は最後の言葉を繋いだ。

「お目にかかれて、本当に良かった」とケントン。
「お会いできて良かった。さようなら、お元気で」とスティーブンス。

握手するその手が放されて、雨の中の静かな別れが閉じていった。

遠ざかるバスの中に、女の涙が捨てられていく。男は自分の車の中で、いつまでも雨に咽ぶ街路が残した記憶を追っているようだった。

スティーブンスは邸宅に戻って来て、執事の仕事に専心していた。

屋敷の広いホールの中に一羽の鳩が闖入(ちんにゅう)して来て、主人であるルイスと、執事であるスティーブンスは、その鳩を傷つけないように、そっと窓から外に放った。

 それは、ケントンとの別離を象徴させる構図だった。

スティーブンスが仕えるルイス
男の執事道に、まだ終わりが来ないのだ。


*       *       *       *



7  自分の等身大のサイズで転がすことができるその能力の凄み



心に沁みる映画だった。

こういう静謐(せいひつ)な映像は、私の好みでもある。

映像が優しく閉じていったとき、深く静かな感動が、眼に見えない稜線だけを際立たせるようにして、私の神経細胞をゆっくりと駆け上っていって、そこで束の間まどろむ心地良さは、私にとって失いたくない時間との親和力を継続させていた。

執事道一筋の人生のうちに、その自我を決して裸にできない武装を、いつしか過剰化させた固有の時間が常態化したとき、男はその内側で、目立つほどに抑制的な人生の振舞いを表出する自我の要塞を構築してしまったのである。そんな男が恋をしても、そこに絡む感情の無軌道な澎湃(ほうはい)は望むべくもないのである。

刺激溢れる文化に遊ぶ現代人は、こんな男を、「人生を楽しめない奴だ」と一笑に付すかも知れない。或いは、「好きな女を口説けない臆病な男だ」と嘲罵するかも知れない。そんな連中は、恐らく、この映画と付き合うだけ無駄である。

そこに一欠片(ひとかけら)の思いも柔和にクロスできない連中には、こういう映画は最後まで分らない。分る必要もないのだ。所詮、好みの尺度でしか、文化とのクロスの濃度を測れないからである。

私の場合、「日の名残り」という地味な映像の、目立つことのない丁寧な映像の、繊細さを売り物にしないかのような一種のトラップに見事に嵌ってしまった。

男の内的世界の秩序の様態が難攻不落の城砦のように見えて、あまりに眩(まぶ)し過ぎたのは事実である。それはとても私には真似ができないと思った。

そこには、人が簡単に真似することができない、固有なる軌跡の内に固められた、ある種の精神的財産のようなものが、一つの矜持(きょうじ)の如く立ち上げられているように見えたのである。

そんな人生もまた、充分に存在すべき何かなのだ。自分に少ししかなくて、自分がどこかで求める何かがそこにあったから、私は素朴にその一筋なる軌道に魅入られたのであろう。

男の継続力と、そこでの想像力を巧みに駆使して辿り着く至福の境地。分りやすいゴールを幻想し、そこへの達成感情にのみ思いを集中するストレートな軌道のうちにではなく、まさに時間を内化し、それを過程的に愉悦し得るゲームを、自分の等身大のサイズで転がすことができるその能力の凄みは、殆ど、匠の世界のスキルであると言っていい。

後述していくが、この男は「プロセスの快楽」を存分に愉悦し、それを自己完結し得る時間を作り上げた、一種の天才であると考えることもできるだろう。



8  執事道という至福



そんな男の、あまりに地味だと称される人生についての小さな物語を、もう一度簡単にフォローしていこう。

舞台はイギリス 。
時は、ヒトラー政権が暴走しつつあった1930年代。

親の代から執事の仕事を勤める主人公スティーブンスは、親ナチ的だが善良な英国貴族に仕えていた。彼はそこで新たに女中頭として採用された、些か勝気なケントンと出会ったのである。

彼女は、副執事として働くスティーブンスの父親の仕事上のミスを指摘し、父親を尊敬するスティーブンスの反感を買う。まもなく、父親の仕事振りがケントンの指摘通りであることを知ったスティーブンスは、冷酷にも、父親に対して雑役婦のような仕事しか与えなかったのである。

屋敷で開かれた政治絡みの盛大な晩餐会の当日、父親が脳出血で急逝したときも、息子の執事は仕事を優先した。新たに採用された二人のユダヤ人娘を、主人の命令で執事が解雇したときも、ケントンはその非情さを責め立てたのである。

ケントンのスティーブンスへの感情の変化が表出してくるのは、ユダヤ人娘の解雇について彼が心を痛めていたことを知ってからである。

「なぜ、本当の気持ちを隠そうとなさるの?」

ケントンは、感情を表に露出しない一流の執事の内面に触れたような気がした。女は男に近づいていく。それでも感情を見せない男に苛立ち、自分が求婚されていて、そのため、近く仕事を辞めなければならないことを告げた。このときケントンは、最後の賭けに出たのだ。

しかし、男から返ってきた言葉は、「おめでとう」という素っ気ない一言。女はその切なさに啜り声を上げて泣くだけだった。

それに気づいた男は、女の部屋にそっと忍び込む。

女は当然それに気づいて、男からの反応を待つ。

それでも男には、末梢的な仕事の用事しか伝えられないのだ。女にはもう去っていくしか術がなかったのである。

二十年後、ケントンからの便りを受けて、老執事スティーブンスは再会の旅に打って出た。

彼女をスタッフに向かい入れるための、意を決した旅である。

ケントンもまた、再会を楽しみにしていた。そして儀礼的な再会。

しかしケントンの娘が孫を出産したことで事情が変わり、スティーブンスのスタッフに加われなくなったことを、女は告げた。

男は、女との永遠の別れを覚悟したのである。

日が沈んだ雨のバス停で、二人は言葉少なく別れていく。バスの乗客となった女の眼から涙が溢れていた。 男はいつもと同じ表情で、女を見送るだけだった。
ただそれだけの話である。

余計なものが多少入っているが、この作品は執事道を貫徹したために、愛する者にその思いを最後まで打ち明けることができなかった男の、その職人的生き様を描いた映画である。

「私が考えるに、執事が真に満足できるのは雇い主に全てを捧げて仕えられたときだ」

ここに、男の人生の全てがあった。

彼の至福は、執事道とも言うべき職責を全うしたときにのみ得られるのだ。

執事道とは、特定の他者に対する絶対的な奉仕の精神であるのだろう。

そこに自分のプライバシーの全てが吸収されている。同じ屋敷内で感情を強く表に出すことなく生活できる能力、そのレベルに達したであろうスティーブンスには、プラトニックラブの世界で手に入れる至福の境地こそ、内なる秩序を確保できる唯一の方法論であったと言える。

彼には、内的秩序を壊すほどの洪水のようなときめきの感情を必要としなかったのである。女の匂いを感じるだけで充分だったのだ。必ずしもストイックだからではない。

執事道に一生を捧げる思いの深さが、恐らく彼の人生の全てだった。

それ故、これは哀切なる失恋の映画ではない。このような生き方にも至福が存在することを教えてくれた映画である。

だから執事は、最後まで目立った破綻は見せなかった。

なぜならば、彼は「プロセスの快楽」で生きた人生の達人であったからである。



9  匠のスキルの領域としての「プロセスの快楽」



私が思うに、快楽には、「達成の快楽」と「プロセスの快楽」がある。

「プロセスの快楽」は、欲望の達成に至っても至らなくても、そこに至るまでの過程を楽しむことができる快楽である。

ここで、「プロセスの快楽」について簡単に言及しておく。

ある目的を実現するプロセスの中で、人はしばしばゴールラインの遥か手前に佇んで、陶然としたひと時を愉悦することがある。文化という名の余剰の時間と遊んで以来、私たちはそのような佇みの価値を自立化させて、そこからたっぷり蜜を舐め、時にはそこで自らの時間のうちに上手に自己完結させることで、果てることさえ厭わない。その快楽を私は「プロセスの快楽」と呼んで、所謂、ゴールの快楽(「達成の快楽」)と分けている。

それは「想像の快楽」を伴走させることで、達成を目指した遥かな行程を、意識が自らを加工して独りで支え切ってしまうのだ。

それは甘美な夢遊びのゲームともなって、時間の曲線的な航跡に絡みつく様々な凹凸を潤し、フラットな人生の記憶に彩を添えるのである。ただそれだけのことだが、気恥ずかしくも、添えられた彩が物語のサイズを異化しない限り、ゲームは私たちを、私たちがそれでしかない存在し得ない場所に、迂回のコストを幾分乗せながらも、しかし確実に軟着陸させてくれるのだ。

それは殆ど、匠のスキルの領域と言っていいかも知れない。

私はそのような「プロセスの快楽」=「想像の快楽」の凄みを、未だその自我に固め上げていないが、経験的に、その価値の有り難さだけは分かっているつもりだ。分かっていても、容易にそれを実践躬行(じっせんきゅうこう)できないのが人間の哀しい性(さが)であると言っていい。それでも「プロセスの快楽」で突き抜けられたら、人間の過剰な苦悩を幾らかでも削り取ることができるはずである。

「海の上のピアニスト」
余談だが、「海の上のピアニスト」(ジュゼッペ・トルナトーレ監督)の主人公が、そのラストシーンで、文明の世界に侵入することを躊躇(ためら)ったのは、未知の世界からの圧倒的な刺激情報に対して、自我が十全に適応できないという判断が働いたからであると思われる。人間には、そこに踏み込まないことによって守られる世界というものが存在するのだ。

本作の執事もまた、そのことを熟知していたに違いない。

そこに、過剰に踏み込むことによって失うものよりも、踏み込まないことによって守られるものの方に価値を見出すのは、魔境に誘(いざな)うような様々な経験から、常に回避する臆病さを検証するものとは決して言えないのだ。

私たちはそんな「人生知」の重要さについて、あまりに無頓着であり過ぎる。異性の肌を生涯知らないことで、全く何の不都合もなかった歴史上の人物は少なくない(性的欲望が人間の本能ではないからだ)。私には少し難しいテーマだが、蜜の味を舐めないことを、その人生の軌道の中でほぼ普通に具現できて、特にストレスを溜めないで済む人生が立ち上げられれば、それを仙人の特別なる世界であると切り捨てる訳にもいかない何かが、其処彼処(そこかしこ)にあっていいのだ。

それを人間存在の不思議であると、初めから決め付ける人生も当然あってもいいが、しかしこれだけは言える。

人間は実に様々に、己の人格の相応のサイズに合う、合わないに関わらず、それぞれの物語を勝手に作って生きていく好奇なる生命体であるということだ。それが、自我という化け物のような能力を有した人間の宿命なのである。

自我は、自分の好む物語を作り上げ、その幻想世界を遊泳して、固有なる時間を様々に切り取って生きていく。だからこの世に人間の数だけ物語が生まれ、物語の数だけ人生が展開していくのである。それ以外ではないのだ。

閑話休題。

こで再び、執事の人生にリターンしよう。もうここまで書いてきたら、殆ど本稿の結論に達しているが、それを要約しておく。

繰り返すが、男は「プロセスの快楽」=「想像の快楽」によって、自分の内側に細(ささ)やかだが、しかし、かけがえのない至福の境地を作り上げることができた、一種の人生の達人である。

他者を必要以上に傷つけることなく、他者からもズカズカと自分の内的世界に踏み込ませることもない。それを臆病と呼ぼうと何だろうと、自分の内側の時間のみで、自分だけが実感し得るに足る分だけの幸福感を培養し、それを単純再生産していく合理的文脈によって、その度に自己完結できる人生。それ以上の人生の醍醐味は存在しないと思わせる心理学的リアリティが、そこにある。

そんな人生を殆ど何の不都合もなく歩む執事の自我のうちに、彼にしか了解されないプライドラインがバリアを築いていて、誰もそこに踏み込ませないし、そこから無謀な飛翔に打って出ることもない。そんな人格イメージを思わせる男の人生は、多少の振幅に一時(いっとき)足を掬(すく)われることがあっても、男が構築した物語のうちに予定調和的に流れ込んでいく合理的文脈に於いて、間違いなく、匠のスキルを手に入れた者の整合性を検証する何かであったに違いない。

「プロセスの快楽」―― それを充分に堪能することで、彼は自らの執事道の人生に、えもいわれぬ心地良い彩を添えることができたのではないか。そんな読み取り方もできる映画だった。



10 親和力を感受させる「人生知」



最後に、映画「日の名残り」の原作について簡単に言及する。


作者のカズオ・イシグロ(画像)は1954年、長崎生まれの日本人。

 5歳のときに、父の仕事の都合で渡英し、以降英国に永住するが、1983年には英国の国籍を取っている。1989年、「The Remains of the Day」(日の名残り)で、英国最高の文学賞を受賞し、その後も旺盛な作家活動を続けていると言う。

さて、その「日の名残り」だが、この格調高い原作の末尾に、執事道を生き抜いた男の人生論が、一人称で語られている箇所があるので、それをここに引用しよう。

「人生が思いどおりにいかなかったと言って、後ろばかり向き、自分を責めてみても、それは詮無いことです。私どものような卑小な人間にとりまして、最終的には運命をご主人様の―― この世界の中心におられる偉大な紳士淑女の手に委ねる以外、あまり選択の余地があるとは思われません。それが冷厳なる現実というものではありますまいか。

あのときああすれば人生の方向が変わっていたかもしれない―― そう思うことはありましょう。しかし、それをいつまで思い悩んでいても意味のないことです。私どものような人間は、何か真に価値あるもののために微力を尽くそうと願い、それを試みるだけで十分であるような気がいたします。

そのような試みに人生の多くを犠牲にする覚悟があり、その覚悟を実践したとすれば、結果はどうであれ、そのこと自体がみずからに誇りと満足を覚えてよい十分な理由となりましょう」(「日の名残り」カズオ・イシグロ著 土屋政雄訳 中央公論社刊/筆者段落構成)

この文章の中に、男の人生のエッセンスが凝縮されていると言っていい。

簡潔で当たり障りのない文章だが、そこに含まれている「人生知」は、私にとって最も親和力を感受させる何かであった。素晴らしい原作と、素晴らしい映像が睦み合って、私の中に生涯忘れ得ぬ優れた品性の名篇の記憶を鏤刻(るこく)したのである。

(2006年11月)

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