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2008年11月10日月曜日

シン・レッド・ライン('98)        テレンス・マリック


<「一本の細く赤い線」――状況が曝け出した人間の孤独性についての哲学的考察>



序  「戦争神経症」という名のPTSD



太平洋戦争末期の沖縄戦に、「シュガーローフの戦い」(注1)という名の激戦があった。その壮絶なる戦闘の中で、決して少なくない数の若き米兵たちが、戦争に対する恐怖感から次々に精神を病んで、その治療を専門とする病院が作られたと言う。彼らが病んだ疾患の名は、「戦争神経症」というあまりに直接的過ぎる病名であった。

「戦争神経症」―― それは今ではPTSD(心的外傷後ストレス障害)の一つとして、精神医学のフィールドの中に認知され、その研究も進んでいるが、当時はまだそれについての理解は限定的だった。

そもそも、ヒステリーの一種のように見られていた、「戦争神経症」という名のPTSDが注目を浴びた契機は、第一次世界大戦だった。

近代工業の顕著な進化が軍事力に転用されて、未曾有の大量殺戮を可能にしたこの戦争の中で、砲弾によって一瞬にして肉体を吹き飛ばされる戦場の現実は、兵士たちにとっては、塹壕に潜っていても圧倒的な恐怖感を覚えるものだったに違いない。

恐怖への反応が過剰な者の中に、特段の外傷が見られないのに精神状態の不安定な帰還兵たちが多く現出して、まもなく彼らは、「シェルショック」と呼ばれるようになる。脳に受けたダメージの甚大さが注目されたのである。

これが「戦争神経症」に対する医学的研究の始まりとなって、その後、このような症例があらゆる戦争に於ける不可避な現象として、極めて現代的課題になっているという状況にある。

ともあれ、多くの米兵が「戦争神経症」に罹患した沖縄決戦の凄惨さは、私が命名するところの、「見える残酷」という至近戦の恐怖が生み出したものだった。今なお太平洋戦争が悲惨さのイメージによって語られることが多いのは、硫黄島や沖縄での肉弾戦の壮絶さを連想するからである。それらは紛れもなく、「見える残酷」の極限の様相を呈していたのである。

そして、映画のモデルになった「ガダルカナル戦」の苛烈さもまた、眼を覆い難い惨状を晒すことになったのだ。


(注1)沖縄戦の最大の激戦の名称で、「安里52高地」(現在は、安里配水池公園)での攻防戦のこと。1週間にわたっての激戦によって、3000名近くの戦死傷者を出したばかりか、多くの「戦争神経症」の罹患者を出したと言われている。



1   「人間は眼を瞑り、必死で自分を守る。それしかできん・・・・」



―― 「シン・レッド・ライン」という、あらゆる意味で鮮烈で根源的な映像の背景となった、「ガダルカナル戦」についての言及は後述するとして、まず映像の中に入っていこう。


「戦場」という、不安と恐怖に充ちた未知のゾーンに放り込まれた若き兵士たち。

若者たちにとって、玉砕覚悟で突撃する日本兵との肉弾戦の経験は、一応の大義名分で武装した彼らの自我を一瞬にして凍らせてしまったに違いない。そして、そこで運良く命を拾ったばかりに、恐らく、繊細な気質を持つ者の神経の暴走がそこから始まってしまったのだ。

彼らは「シン・レッド・ライン」、即ち、正気と狂気を分ける境界線(後述)を踏み越えて、そこで過剰に反応してしまったのである。

「大自然の中での戦争?なぜ、自然が自らと戦う?陸と海は和を保ってる。自然には復讐の力が?それも、一つではなく二つ?」

南太平洋の悠久なる大自然。

大ワニが川を泳ぎ、原色の彩(いろど)りを輝かせる鳥が囀(さえず)り、眼前に広がる海で、島の人々が悠々と泳いでいる。そんなパラダイスのような原始の地で、身も心も自然に委ねるようにして、米軍の脱走兵たちが生活している。その一人の若き兵士は、大自然を相手に問いかけていた。

人間もまた神が造った自然の一つでしかないのに、その大自然をステージにして殺戮を繰り返している。そこで殺されるのは、歴史のゲームのような戦争に翻弄される人間のみならず、人間が放った圧倒的暴力のステージにされた、大いなる自然それ自身でもあるのか。

こんな哲学的な問いかけから始まる、奇異なる映像の印象的なモノローグ。

問いかけているのは、主役のいない映画の中で、主役に近い役割を与えられているウィット二等兵。

ウィット二等兵
そんな彼の、繊細なモノローグは続く。

死んだ母を思い出して、遠く隔たった島の片隅で若者は瞑想するのだ。

「・・・・母さんは死ぬとき、小さく縮んで顔は灰色だった。“死が怖い?”と聞いたら、首を横に振った。僕は母さんの死相が怖かった。神に召されることのどこが美しく、幸せなのか。“生命の不滅”って言うが、一体どこに?・・・・死ぬときの気持ちって?“この呼吸が最後だ”と自分で知る気持ちは?母さんのように死を迎えたい。母さんのように・・・穏やかに。生命の不滅は、きっとそこに隠されている」

まもなく、原住民の子供と戯れるウィット二等兵の前に、彼を捕捉するためのアメリカ哨戒船が現われた。

捕捉された彼は、ウェルシュ曹長の計らいで看護兵に取り立てられ、彼の所属していた陸軍C中隊に配属されたのである。

C中隊を率いるのは、一見、パットン将軍(注2)を思わせる叩き上げのトール中佐。今や、日本軍が占領する空前絶後のガダルカナル戦に向けて、兵士たちは至高なる大義名分の下、日本軍が建設予定の飛行場を阻止するために、海兵隊に続いて陸軍の部隊が動き出したのだ。


(注2)第二次世界大戦で、その名を轟かせた米国の将軍。アフリカ戦線で、ドイツのロンメルの機甲兵団を粉砕、その後戦死に名高い「バルジの戦い」でも戦功を上げる。特徴的なその勇猛な人柄は、戦争神経症の兵士を殴ったというエピソードが、彼の伝記映画「パットン大戦車軍団」(フランクリン・シャフナー監督)の中に紹介されている。


軍法会議という難から解き放ったウェルシュ曹長と、逃亡兵としてのペナルティを免れたウィットとの会話。

「この世の中、男の価値なんか無だ。そして世の中は一つしかない」
「俺は見ましたよ。別の世界を・・・時々思うんです。あれは幻だったかと」
「俺には見えない世界だ・・・俺たちの世界は自滅にまっしぐら。人間は眼を瞑り、必死で自分を守る。それしかできん・・・・」

二人にどれほどの価値観や戦争観の違いがあるか、この会話だけでは不分明だが、まもなくその後の二人の態度を見ていく限り、ウェルシュはニヒルで実存的な観念によって、そしてウィットは、退路を断たれた者の決死の観念によって、約束されない未来を切り抜けようとしていくことが判然としていく。

クインタード淮将(右)の指示を受けるトール中佐
トール中佐のモノローグ。

「ここまで這い上がった。自尊心を呑み込んで、将軍たちにゴマスリ。奴らのため、家族のため、国のため・・・・地面に撒いた水だった。愛を与えてやることもなく、もう遅すぎる。俺は死ぬ。木のようにゆっくりと・・・・シーザーになる気持ち・・・恐怖も増す」

このC中隊の指揮者は、眼前に迫った戦場に全てを賭けている。

しかしその心中は、決して穏やかではない。

この後、過剰なまでに露呈する好戦的な態度を見る限り、パットン将軍にしか見えないこんな男にも、苛烈な状況を突き抜けていかねばならない恐怖の壁があったのだ。

船内での、若き兵士の吐露。

「俺は怖いんです。子供の頃、継父によくブロックで殴られた。それが怖くて逃げ隠れ、よく鳥小屋で寝ました。ここはもっと怖い。毎分・・・いや毎秒を数えて生きている。もうじき上陸が始まる。浜辺で敵機にやられちまいます。この船は海に浮かぶ墓場だ」

それを耳にした曹長は、相手の名を訊ねる。名をトレインと答えた若者は、上官に理屈っぽく反応した。

「永遠にあるのは、死と主イエス。戦争が俺の最後じゃない。あなたも同じです」

狭く閉鎖系の艦内での空間を共有するある若者は、恐怖で身を小さくし、またある者は強がって見せるが、ポーズだけ。

そして、小隊を指揮する弁護士出身のスタロス大尉は、冷静に船内を見回っていた。

ベル二等兵(左)とケック軍曹
ベル二等兵と名乗る男は、戦前は将校だったが、妻と一緒に生活するために除隊し、再び兵卒として太平洋戦線に招集された。

彼には故郷で待つ妻のことしか頭にない。

映像で何度も紹介される妻との穏やかな生活の回想シーンが、死骸で埋め尽くされる凄惨な戦場へのアンチ・イメージとして異彩を放っていた。



2  「あなたを裏切らぬよう、部下を裏切らぬよう、私をあなたに預けます」



まもなく上陸用舟艇に乗って、戦場の島に降り立った兵士たち。

空からの援護を受けて、砂浜を走り抜けて行く。兵士たちは未知なる島の草原を掻き分けて、ジャングルに這い入って行くのである。静寂が空間を支配して、極彩色の鳥がいつものように朝靄の自然に溶け込んでいた。

不気味なほどの静寂の中での、ベル二等兵のモノローグ。

「色々な形で生きているあなた。あなたが与える死。だが、あなたから全てが生まれるのに」

ジャングルを抜けると、そこは光の洪水だった。原住民に先導されて、兵士たちは丘を登っていく。

二等兵のモノローグは続く。故郷を思い出している。

「あなたの栄光。慈悲。安らぎ。真実。あなたは魂を鎮め、理解を下す。そして勇気と満ち足りた心を・・・・」

兵士たちは草原を掻き分け、どこから来るか分らない日本軍の襲来に怯える兵士の表情がリアルに映し出された。彼らの顔は眩い陽光に照らされて、隠しようがない恐怖心が無残なまでに炙り出されていたのである。

突然、草むらの中に原住民の腐乱死体が、彼らの視界を捉えた。更に進んで行くと、負傷兵が丘の上から次々に運ばれて来る。一様に悶絶している。

しかし映像は、そんなグロテスクな風景とはあまりに不釣合いな静寂の中に、その凄惨な現実を淡々と包み込んでいるのだ。

ウィット二等兵のモノローグ。

彼は看護兵として、その任務に当たっている。彼には、魂の救済の問題が絶対的な課題なのだ。

「人間は一つの大きな魂を共有しているのか。幾つもの顔を持つ、一人の男なのかも。 誰もが魂の救済を求めている。人間は火から取り出されたら、消える石炭」

美しく、静寂なる夕闇の自然に包まれて、中隊は移動しようとしている。

「あの高地に突入する」とトール中佐の指示。
「無理です」とスタロス大尉。
「迂回はできん。左側は断崖で下は川。ジャングルは日本軍が押さえている」と中佐。
「水は?あそこには水がありません。部下が倒れます」

スタロス大尉(右)
大尉は異議を唱えるが、命令は覆せない。

高地奪取を目指す部隊の正面攻撃が、いよいよ始まった。

スタロス大尉は部下に命じて、防衛拠点の掃討を指示する。

ここで日本軍の機銃が、初めて映像に映し出された。

彼らはそこに向かって攻め込んで行くのである。

闇の中の長い静寂。山々が赤く染まってあまりに美しい。

しかし、スタロス大尉のモノローグは沈痛極まっている。

弁護士出身のインテリは今、至高至善なる神に祈るしかないのだ。

「聞いて下さい。あなたを裏切らぬよう、部下を裏切らぬよう、私をあなたに預けます」

殆ど日没の夕景は、その紅の残りを広々とした川に染めている。

テレンス・マリックの映像は、なぜこんなにも美しいのか。

しかしその悪魔的な美しさの裏に、未知のゾーンに踏み入れた人間の不安と恐怖が蠢(うごめ)いていた。



3  「俺は人を殺した!レイプより悪い」



姿かたちが全く見えない日本軍からの、突然の迫撃砲弾が炸裂した。怯えるばかりの米軍兵士たちが、震えるように呼吸を繋いでいた。

ベル二等兵はペンダントを開けて、そこに写った妻の写真に見入っている。祈っているようだ。いよいよ戦場が開かれたのである。

「よし、いよいよだ。10人ずつ突入する。走り続けろ。俺が最初に行く」

ケック軍曹の合図で、兵士たちは動き始めた。この戦慄の中で、思わず吐き出す兵士もいる。

「立てないんです。気分が・・・」
「どうした?」
「分りません。胃が・・・胃が攣(つ)っちまって・・・体が伸びないんです」と兵士。
「誰か運んでやれ。衛生兵に看てもらえ」とウェルシュ曹長。

その兵士を残して、部隊は一気に丘を登っていく。

先陣を切った二人の兵が撃たれて、ガムを噛み続ける下士官が表情を強張らせた。

映像を通して、最も激しい戦闘の描写が繋がっていくのだ。

兵士たちの悲鳴の声と、それを上回る銃撃戦の音響が画面を支配した。日本軍も決死の覚悟で闘っているのである。

中隊長である大尉は担架兵を呼ぶが、手一杯で誰も負傷者を助けられないでいた。ウィット二等兵は中隊長の許可を得て、負傷者を助ける代わりに原隊への復帰を果たそうとする。大自然の懐深く抱かれていた彼もまた、今、戦う兵士を目指すのだ。

「俺は人を殺した!レイプより悪い」

初めて日本兵を射殺した、若い兵士のモノローグが捨てられた。

感情だけが徒らに暴れているようだ。既に「シン・レッド・ライン」を越えつつある者の狂気に捕まっているのか。

日本軍との激戦中、自分の手榴弾のピンを誤って抜いてしまったケック軍曹は、尻を自爆してしまった。

「女房に手紙を・・・“男らしく死んだ”と」

その言葉を残して、軍曹は息を引き取った。誰も彼を知らないので、手紙を渡す術がない。戦場とは異界なのだ。

そんな異界に、被弾してのた打ち回る一人の兵士がいた。

その兵士を助けられないで、悲痛な表情で傍観するスタロス大尉。苦悶する中隊の中から、ウェルシュ曹長が飛び出して行った。彼はのた打ち回る兵士の下に行き、モルヒネを与えて戻って来たのである。

「さよなら・・・さよなら・・・曹長殿」

ウェルシュ曹長(右)
与えられたモルヒネを足に刺して、その兵士は息絶えた。それは、過去に観たことがない壮絶な映像だった。これほどリアルに、「戦場のホットスポットでの人の心の振れ方」を描いた映像がかつてあっただろうか。

このときの功によって、中隊長から叙勲の申請を伝えられた曹長は、その激しい感情のうねりを上官に向かって爆発させた。

「それ以上何か言ったら、ぶちのめすぞ!・・・・・勲章だと?くだらねえ!」

戦場の只中に於いて、彼は必ずしもネガティブなニヒリストではなかった。

彼はまだ「シン・レッド・ライン」を越えていないようだった。「失ってはならないもの」を知っているのである。

一方、曹長から叙勲申請を拒絶された中隊長は、今度は自らトール中佐の頂上突入の命令を拒んだのである。狂気の戦場で、軍の上下関係が崩れつつあった。

「弁護士口調は止めろ!元は弁護士でも、ここは法廷じゃない。ここは戦場だぞ!正面から攻撃しろ。俺の命令だ。いいな?」
「命令には服せません。二年半も一緒の部下を、自殺に追いやることなど・・・・」
「覚悟の上の決断か?分った。俺が今、そっちへ行く。俺が行くまでそこを死守するんだ!」

激昂した中佐が丘陵を上って来るまでの間にも、味方の死者は増え続けている。その中には、少年兵の姿もあった。

最前線にやって来た中佐が、新たに現場の指揮を取った。

中佐は明朝の突撃を決定し、志願兵を募ったのである。直ちに、七名が突撃隊として編成され、ガフ大尉がその指揮の任に当ることになった。その配下には、ベル二等兵とウィット二等兵も含まれていた。

その日、命令に服従しなかったスタロス大尉はトール中佐に呼び出されて、「私はいつも正しいのだ」という確認を強いられ、彼はそれを認めるしかなかったのである。

ウェルシュ曹長
明日の戦闘を前にして、ウェルシュ曹長はウィット二等兵に自らの思いを語った。

「お前に同情するよ。少しな。お前は軍隊に殺される。利口なら自分だけ守れ。他人は守れない。焼け落ちる家に飛び込むのと同じだ・・・この狂気の世界で、一人の男に何ができる?死んだらそれっきり。死後の極楽なんかありゃしない。世界はここだけ。この島だけだ」

二等兵は、無限に広がる夜空を見た。月が輝いていた。夕靄の中に二匹の野犬が、黒いシルエットで映し出されていた。

近くの丘で、狂気に囚われた一人の下士官が叫んでいる。彼は既に、「シン・レッド・ライン」を越えてしまっているのだ。

「生き残る者を誰が選ぶ?死ぬ者を誰が選ぶ?何もかもダメだ。俺を見ろ!一発の弾も飛んでこない!一発の弾も!なぜだ。俺は立ってて、他の奴らは死んだ。俺を撃つ奴は誰もいない!」

ベル二等兵は、故郷の妻のことしか考えていない。

「僕ら・・・君と僕。僕らは一体。水のように流れて二人の区別はなくなる。僕は君を呑む。今・・・今・・・」



4  「お前は死ぬ。鳥が見えるか?お前の肉を食う」     



突撃の朝になった。

兵士たちの顔に緊張が走っている。

朝の輝きは、草原を焼き尽くすような光を注いでいた。

7人の兵士は戦闘の丘を登っていく。

ガフ大尉
ガフ大尉の指揮で、丘を守る日本軍の防衛拠点に近づき、迫撃砲を撃ち込んだ。それが戦闘の合図となったが、日本軍の陣地からの発砲で、一人の兵士が倒された。

眼の前にいる敵との壮絶な銃撃戦。初めて日本兵が、迫って来る眼前の敵として大きくその姿を現した瞬間である。

ある者は手榴弾を投げ、ある者は拳銃で敵を殺す。裸の日本兵も、陣地からの機銃掃射で応酬する。どちらが善で、どちらが悪であるかの評価は、殆どどうでもいいような殺戮の丘に、兵士たちが暴れていた。

塹壕から這い出して来た日本兵を、米軍兵士が執拗に虐待する。殺された仲間の恨みを晴らしているのだろうか。

「一人殺った」

妻のことのみを考えて戦場に侵入したベル二等兵は、その戦場での初めての殺人に表情を引き攣らせた。彼は仲間の胸に飛び込んだ。彼の自我は、まもなく戦場に慣れていくのであろうか。慣れて感覚鈍磨していかない限り、その繊細な自我は持ち堪えられないのであろう。

多くの日本兵が、次々に捕虜となっていった。

彼らの体が放つ悪臭に、米兵たちは鼻にタバコを詰め込んで、彼らとの存在境界を守ろうとする。苦渋な表情で、そんな米兵を睨む日本兵。その隣の日本兵は、合掌して経文を唱えている。武装解除された日本兵は悉(ことごと)く裸になっていた。上半身裸の日本兵と、完全武装する米兵とのコントラストの中に、戦闘での勝敗者の存在性を浮き彫りにさせているのだ。

ウィット二等兵が見つめているのは、土の中から僅かにその顔を出している日本兵の死体だった。その顔はやがて土に還って、本来そうであったような自然の一部に溶けていく。その溶けていく死体に向かって、彼は心の中で呟く。

「君は正しい?優しい人間?自分の行為に自信を?人に愛されているか?僕は愛されていた。善と真実を信じてきた人間は、苦しみが少ない?」
「やったぞ、良くやった!敵を一掃した」

トール中佐
一人、上機嫌なのはトール中佐。

彼はガフ大尉を賞賛し、叙勲の申請を約束した。しかしまだこの中隊は、戦場を支配していないのだ。戦場を支配することの意味を最も敏感に認知しているトール中佐は、大尉に命じて最後の攻撃を促した。彼は「殊勲の名誉」を確実に手に入れることで、そこに随伴する「苦労の果ての報酬」が内包する快楽を堪能したいのである。

然るに、この男を内側から動かすモチベーションの類の堅固さが、多くの場合、このような苛酷なる状況を突破する強力な因子になるであろうこともまた、動かし難い真実であるに違いない。

かくて、日没前に高地奪取を図る最後の攻撃が始まったのである。

まもなく、高地を占領した米軍は、間髪を入れず、掃討作戦を展開していく。

そしてクライマックス。

深い霧の中を、その歩を確かめるように、兵士たちはゆっくりと前進する。

そこに突然霧が晴れて、恐怖と戦慄で無力な日本兵が、次々に大きく映し出されていった。

兵力に勝っている米兵たちの殲滅戦が始まったのだ。

この描写は殆ど虐殺と言っていい。逃げ惑い、泣き喚く日本兵。

戦闘意欲を失って、日本兵はただ殺戮されるためだけにそこにいた。

スタロス大尉のモノローグ。彼は常に神に問いかけている。

「この大きな悪。どこから来たのか。どこからこの世に?どんな種、根から生まれたのか。背後に誰が?俺たちを殺し、生と光を奪っているのは誰か。幸せを奪い面白がっているのか。俺たちの死が地球の糧に?草を生長させ太陽を輝かせるのか?あなたの中にもこの闇が?あなたにも苦悩の夜が?」

一人の米兵が、死を待つばかりの日本兵を挑発する。                                                                

「八つ裂きにしてやろうか?お前は死ぬ。鳥が見えるか?お前の肉を食う。お前は旅立ち、もう戻れない」

死の際(きわ)にあるその日本兵も、恐らく、地上での最後の言葉を吐き出した。

「貴様、貴様もいつかは、必ず死ぬ。死ぬんだよ・・・」

言葉が分らない者同士が、同時に「死」という、永遠なる未知のテーマについて、その思いをぶつけ合ったのである。

日本兵の死体に向かって、「お前は無だ」と呟く米兵。瀕死の仲間を抱いて、必死に思いをぶつける若き日本兵。彼はそこで泣き崩れている。何もかも失った無力感が、若者を地獄の果てで悶えさせているのであろうか。

それを見つめるベル二等兵。
彼は今、恐らく妻のことを考えていない。眼の前の異国の若者と、地獄を共有しているのだ。

一つの大きな、転換点とも思える戦闘が終焉した。



5  「どんなに訓練を受け、用心しても、生か死を決めるのは運だ」



兵士たちは川で手足を洗い、そこに付いた血を拭っている。何かを忘れようとしているかのようだ。

トール中佐はスタロス大尉を呼びつけ、その指揮権を取り上げることを伝えた。

「君は柔い。人間が優しすぎてタフな資質に欠けている・・・ここに残ってても意味はない。皆のためにも事を穏便に」
「部下は殺せません。腕の中で部下が死んでったことが?」

二人の会話は、当然噛み合わない。結局スタロスは、負傷兵と一緒に輸送機で帰国することになった。

戦闘の重要な局面が終焉し、日本軍の陣地の全ては焼き尽くされて、そこに仏像のような黒いシルエットが紅蓮の炎の中に映し出されていた。


ウェルシュ曹長
戦士たちは一週間の休暇をもらって、それぞれが思い思いの時間を消費する。彼らの雄叫びや騒々しさは、まるで昨日までの地獄の世界から、一刻でも早く解放されたい気分の裏返しであったに違いない。

そんな中で、スタロス大尉の部下たちとの別れがあった。

「あなたに礼を。正面攻撃に抗議し、兵のことを思い、隊をまとめた。解任されるなんてひどい話です」

部下の兵士からの心遣いに、スタロス大尉は正直に反応する。

「さあ、それはどうかな。指揮官の迷いは、自分のしていることが正しいのかどうか・・・だが今は・・・どうでもいい。解放された。嬉しい」

スタロスは負傷兵と共に、輸送機に乗り込んで行く。

彼の最後のモノローグ。

それは常に神に祈り問いかけていた彼が、束の間、神の如き何者かとなって、誠実なる垂訓を遠慮気に呟いているかのようだった。

「お前らは息子。愛する息子だ。俺の心に生き、いつも俺と共にある」

スタロスとの別れを惜しんだ部下のモノローグが、ネガティブに繋がっていく。

「こびりつく戦闘の恐怖・・・それに慣れることはない。戦争が人を気高くする?人間を犬畜生にする。そして魂を毒する」

また日本兵から、「おまえもいつか死ぬ」と言わせた米兵は、それを思い出して、雨の中、天に吠えるように喘いでいた。彼もまたいつか、PTSDの虜になるのだろうか。

ベル二等兵のモノローグ。なお、妻のことを想って止まないようだ。

「愛する妻よ。胸をかき抉るおびただしい血、眼を背ける光景、騒音。僕は変わりたくない。昔のままの僕で君のもとへ。どうやって対岸へ?あのブルーの丘へ。愛・・・どこから訪れるのか。誰が胸に火をつけるのか。戦争もその火を消せず、征服できない。囚人だった僕を、君は解放してくれた」

そんな妻への愛のみで状況を耐えてきたかのようなベル二等兵は、この休暇中に、当の愛妻から手紙を受け取った。

しかし、手紙の内容は残酷極まりないものだった。

「愛するジャック。空軍大尉に出会って、恋に落ちたの。離婚して彼と結婚を。私たちの思い出のためにもあなたの同意を。許して。とても寂しかったの。いつか再会を。これだけ愛し合ったのよ。必ず会えるわ。こんなことを言う権利はないわね?習慣の力でつい・・・輝ける歳月を共にしたお友達!私を去らせて」

妻への愛を支えに、突撃隊を志願したベル二等兵だったが、「お友達」と呼ばれて激しく動揺する若者が、そこに立ち竦んでいた。彼の自我は、この地獄にあって堪え切れるのだろうか。

ウェルシュ曹長のモノローグ。

「どんなに訓練を受け、用心しても、生か死を決めるのは運だ。どんな人間か、タフか、そうでないかは無関係。運悪く、そこにいた奴が殺られる」

ウィット二等兵のモノローグ。

彼は自らが故郷と考える、自然と共に生きる人々の下に入っていく。しかし彼は今や、何人もの日本兵を殺したアメリカ兵に過ぎなかった。

「以前は家族だった。なのに亀裂が入った。今は背を向けあう。光を遮りあって、生来の善を失った人間。それを手放し、不注意に撒き散らす。手を伸ばせば栄光に触れられるのに・・・」

再び、ウェルシュ曹長のモノローグ。

「死にかけている鳥に、苦しみだけの一生を見るか。全てを奪う死は、そういう人間を笑う。ある者は同じ鳥を見て、神の栄光を見る。生の喜びを感じる」



6  「唯一できることは、自分ってものを持ち、自分を“島”にすることだ」      



休暇は終わった。戦闘が再開されたのだ。

日本軍との、川伝いを進むジャングル戦の火蓋が切って落とされたのである。どこにいるか分からない敵を求めて中隊は進むが、最前線の兵士たちの表情には戦慄が走っている。銃弾の音が近づいてくるが、敵との距離が測れずに皆、苛立っていた。休暇中のガス抜きが終わった後の戦闘は、却って不安感を高めるだけである。

ウィット二等兵はファイフ二等兵、クームス二等兵を伴って、斥候を志願した。恐怖に慄く二人を引き連れて、ウィットはジャングルを川伝いに、忍び寄るようにして進んでいく。

まもな、敵の増強部隊が彼らの視界に入った。

慌てて川を引き返す三人。クームスは撃たれて、ジャングルの水の中で呻吟している。「こいつは、もう持たない」と言い放ったウィットは、ファイフを連絡係で返して、自ら敵軍と対峙する覚悟を決めた。クームスの喘ぐ肉体は急流に流されて、あっと言う間に消えていった。

日本兵包囲されたウィット二等兵
原始の自然に溶け込んだようなウィット二等兵の俊敏な動きが、画面いっぱいに展開されて、まもなくそこだけ開けたような草むらにその姿を現した。しかし彼を包囲する多数の日本兵が、そこに待っていた。

「降伏しろ・・・お前か、俺の戦友を殺したのは?分るか?俺はお前を殺したくない。分るか?俺はお前を殺したしたくない・・・素直に降伏しろ。動くな!降伏しろ!」

一発の銃弾が、雷鳴のように鳴り響いた。降伏するポーズを示さないウィットに向かって発砲されたのである。

映像はウィットの表情の内に、彼が自らに問いかけてきたものへの答えを出せない者のように映し出そうとしたのだろうか。それともその答えが、死の際(きわ)で見出すことができたのか。銃弾の直後の映像は、ウィットが原始の自然の海で、子供たちと嬉々として遊泳している姿だった。

ウィットの遺体は、原始なる島の土に埋められた。

「お前の輝きはどこへ?」

ウェルシュ曹長のモノローグ。

大切な友を喪った上官の哀しい表情が、最後に印象的なまでに映し出されていた。常に自我の内側に異界の情報を濾過しつつ、状況と適度な距離を確保してきたかのような男が、ここでもまた、誰も見えない「自分の場所」で感情を刻んでいたのだ。彼の頬を濡らす薄い液状のラインが、男の自我の小さな震えを、それ以外にない表現として鮮烈に記録する描写に繋がったのである。

その直後、スタロス大尉に代わって新任した中隊長の訓示が続く中、ウェルシュ曹長はそれを無視するかのように心中で吐き出した。

「全て嘘。聞くこと、見ること、ヘドが出る。一人消えれば次が来る。兵士は箱の中。動く箱の中。殺られるか、嘘に漬かるか。唯一できることは、自分ってものを持ち、自分を“島”にすることだ。善に出会えなきゃ、せめて存在を感じたい。その一瞥で、俺はあんたのものになる」

まもなく、兵士たちは地獄の戦場を後にした。その中にウェルシュ曹長とベル二等兵も含まれていた。



7  「僕の眼を通して、君が造ったものを見るがいい。輝ける全てのものを」



この映像の最後のモノローグの一つは、地獄の中で生き残った一人の米兵が晩年になって、この忌まわしき日々を回想するシーン。

「共に戦った日々はどこへ。日々を過ごした彼らは誰だったのか。俺の兄弟。友達。光が生む暗闇。愛が生む闘い。一つの心が生むものなのか。同じ一つの顔の目鼻?」

もう一つは、島を去る船の中で呟く若き兵士の、希望に向かうかのような表現したものによって括られた。

「僕の魂よ。僕を君の中へ。僕の眼の中へ。僕の眼を通して、君が造ったものを見るがいい。輝ける全てのものを」

君とは何を指すのだろう。神なのか。絶対的な何かなのか。

「輝ける全て」とは、一体何なのか。最後まで映像は、観る者に、「常に問い続ける者」であることを求めて止まないようである。


この形而上学的な一篇の最後は、原始の川をカヌーで漕ぐ子供たちと、極彩色のつがいの鳥、そして最後に、画面いっぱいに広がる海の浅瀬に根付く、一本の椰子の幼木を映し出した。

そしてそこに、原始の島に生きる人々の歌声が画面を追い駆けていって、大自然で始まり大自然で閉じる、鮮烈なまでに印象的な映像がフェイドアウトしていった。


*       *       *       *



8  それぞれが思い思いに語り、その心の声を陰鬱な映像をなぞるようにして捨てていく



テレンス・マリックのこの二十年ぶりの新作は、人間がその境界線を踏み越えたときに見る極限のさまを映し出したものである。

ある者は発狂し、ある者は恐怖に震え、ある者は殺人マシーンと化し、またある者は、既に死体となった戦友を抱いて慟哭し、そしてある者は一切の感情を蹴散らして、自らを無機質な塊に変えていく。

ここで描かれた中隊の曹長は、「ここで自己を守るには自らを島にする」と、心の中で呟いた。

ファイフ二等兵
この映画には、当然その骨格となるストーリーはあるが、主役と呼べる者は特定的に登場しないし、その必要性もないかのようでもあった。苛烈な状況の振れ幅の激しい展開の中で、それぞれが思い思いに語り、その心の声を陰鬱な映像をなぞるようにして捨てていくのだ。

ある者は自分に問い、愛する者に問い、あなたという名の神に問う。無論、そこに答えはない。
「シン・レッド・ライン」を越えた者たちの、苦悩や絶望や危うさに答えられる者など果たしているだろうか。

テレンス・マリックの哲学的テーマは、あまりに重すぎる。だからこれは、最も重い映画になった。



9  ガダルカナル決戦の壮絶さ   



映画の舞台は、ソロモン諸島ガダルカナル島。

言わずと知れた、太平洋戦争の激戦地である。ミッドウェイ海戦(注3)に続く当戦史の大きな転換点になった、この平和な島での戦闘は、二万人の日本兵の犠牲者を出したことでも分るように、言語を絶するほどに苛烈だった。


(注3)太平洋戦争下の1942年6月、ミッドウェイ諸島で展開された日米の激戦この海戦により、日本海軍は4隻もの主要な航空母艦(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)を失い、戦争の行方を決定付ける敗戦となった。


―― ここで本来の映画評論のテーマ性とは大幅に逸脱するが、映像の背景を理解する意味でのみ、ガタルカナル島での戦闘についての報告を記述しておこう。

ところで、太平洋戦争での重要な分岐点と言われる、ガダルカナル決戦の壮絶さは、映像に余すところなく描かれているように見えるがが、実は原作者も作品の巻末(「お断り」/注4」)で言及しているように、原作自体決して実録ものではない。

加えて、そんな原作を映像化した本作は、言うまでもなく、一つの独立した表現作品であるが故に、「ガダルカナル」に拘泥する理由は全くないと言っていい。

しかし紛れもなく、この苛酷なる戦場が20世紀の「大日本帝国」下の歴史の中で、「極北的な凄惨さ」のイメージを被されて存在したことは周知の事実である。


マタニカウ川を巡回する海兵隊

「1942年から3年にかけてのガダルカナルは、アメリカ人にとって特別な意味をもつものだった」と原作者が巻末文で述べているように、「ガダルカナル」に象徴される激越な戦場が太平洋戦史の決定的な分岐点として存在し、そしてその戦場の有りようが言語を絶するものであったということ。この歴史的事実のみが原作と映像、更にその映像を観た者たちにとって何より緊要であるということだ。


(注4)「まったくの架空の島を使うと、私の世代がガダルカナルという地名から思い起こす特性を。すべて失うことになっただろう。それゆえ私は、ガダルカナル作戦を自由につくりかえ、実在しない土地をそこに加えたのである」(「シン・レッド・ライン」/巻末『お断り』」より/ジェイムズ・ジョーンズ作・鈴木主税訳/角川文庫)


従って、「地獄の戦場」の代名詞としての「ガダルカナル」についての言及は無視し難いと思えるので、その戦場に足を踏み入れた者の手記の一部を引用して、ここに実録の世界の一端を確認してみよう。

手記の著者は、一人の元アメリカ軍人。

それは、「シン・レッド・ライン」と同じように、米軍側からこの地獄の戦場を目撃し、自らをそこに投入した者の視点で著述した貴重な記録である。

「このもの凄い雷の最初の一撃がリゴードの部隊を襲ったとき、兵たちはみな地面にへばりついてしまった。われわれは地面の這う小さな虫で、なにか巨大な足が虫の群れの真っ只中に踏み込んできたように感じた。誰も彼も僅かな隙間を求めて走った。大木の根元や、小さな窪地や、枯れた樹の幹の傍らのくぼみを求めて。

わたしは径の左側に、格好の場所を見つけた。その隠れ家は小さな地面の隆起と太い樹の間にあった。わたしは其処が無性にいとおしく思われて、ぴったりと身を寄せた。リゴード大尉はと見ると、彼はまったく遮蔽物に頼らず、素早くあたりを行ったり来たりして、部下の様子を見てまわっていた。

部下の兵たちは、恐怖の坩堝に投げ込まれていた。迫撃砲弾は、彼らのあいだで炸裂し、みな多かれ少なかれ度肝を抜かれた。その音も怖いが、戦友の負傷を目撃するのは、なお耐え難いことであった。

砲声は約十秒おきに聞こえた。弾丸は、あたり一面に滅茶苦茶に落下した。五十メートル先と思うと、今度は七メートルの至近距離で炸裂した。

狙撃兵の機関銃の射撃音は、その間じゅうずっと意地のわるい間隔をおいて続いた。味方の火力も、ときおり頼もしい、低い、強烈な音で応じたが、充分なものではなかった。

味方の機関銃座の一つがやられたのを、われわれは知った。敵味方の機関銃が、互いに相手を撃破しようとするときの、射撃音の「対話」を聞いたことのない者には、それがいかに恐ろしいやりとりであるか想像もできまい。初めのうちは、双方同じように応酬しあう。そのうち、人間同士の議論のように、片方が次第に優勢になって、ついには射撃音が全く途絶えてしまう。あの機関銃座がやられたときも、まさにそうだった。音はこんな具合に聞こえた。

『タタタタタタタタタタッ』日本軍独特の、かん高い射撃音。
『ババババババババババッ』低音の、味方の銃声。
『タタタタタタタタタタタタタッ』執拗な敵の銃声。
『ババババババババババッ』そして味方。
『タタタタタタタタタタッ』自信に満ちて、日本側。
『ババババッ・・・・・・ババッ』しどろもどろな、味方の音。
『タタタタタタタタタタタタタッ』これでもか、と敵側。
『ババッ』やり込められたように、味方の音。
『タタタタタタタタタタッ』いい加減に決着をつけろ、と言わんばかりの日本側」

(「最前線の戦闘~米軍兵士の太平洋戦争~」J・ハーシー他、西村健二編訳 
第一章 ジャングルの谷間へ ― ガタルカナル戦従軍記 ジョン・ハーシー より/筆者段落)


以上の「射撃音」の記述は、そこに身を置いたものでなければ決して理解できないであろう戦慄感に満ちていた。あまりにリアルすぎる描写だが、しかし私たちの貧弱なる想像力ではとうてい及ばない「経験的な距離」が、そこに横臥(おうが)しているに違いない。

こんな記述もある。

「・・・・まわりでは恐ろしい轟音がまだ聞こえていたが、善良な若者たちに、恐怖がどのような形で働いているかを、わたしは観察できた。

誰もが、それぞれ何かに心を奪われていた。一人の兵は、ライフルの銃床についた泥を落とし、別の兵は、水筒の蓋をまわして、何度も開けたり閉めたりしていた。上衣のボタンを数えている者もあった。わたし自身は、おかしな話だが、大きな木の葉を細かくちぎっていた。

穴のなかに這いこみたい、という本能が、ほとんど不可抗的に働いた。ある兵士は、大木の平たく広がり伸びた太い根のあいだに、われとわが身を押し込もうとしていた。一人の曹長が、馬鹿にしたような調子で呟くのが聞こえた。『何が一体怖いんだ。森のなかに熊でもいるのか?』

恐怖のため、自分の仕事にはなはだ几帳面になる者もいた。機関銃を分解する兵たちは、速いだけでなく、おそろしく効率的にやってのけた。敵から千六百キロも離れた練兵場でするときより、遥かに巧みなように見えた。

兵たちはお互いに気が立っているようであった。リゴード隊長は、撤退命令を下して戻ってくると、小声で言った。『おい。ここはまだジャングルのなかだ。見張りを厳にしろ』。下士官や兵たちは、隣りの者が軍務を怠ってでもいるかのように、その命令を伝えた。

『何を見ているんだ?ようく眼をあけろっ』怒ったように、一人が呟いた。
『おい、しょぼくれるな。眼を覚まして監視しろ』隣の兵が、つぎの兵に言った。
『この、うすのろめ。茂みのなかを、ようく見ろ』
『なに言ってやがる。眼を開けてろと*よ。さあ、眼を開けろ』

こんな具合に、まちまちの言葉、いらいらした口調で、命令が伝えられていった」(前掲書より/筆者段落構成)


アメリカ軍第2海兵隊
ここに記述されているのは、殆ど説明の余地のない戦場のリアリズム。

その一方、完全武装の米軍と至近戦を戦った日本兵たちの凄惨さは極限の様相を呈していた。「遠い島ガダルカナル」(半藤一利著 PHP研究所刊)の中で引用された見習い士官の小説から、一部を引用させていただく。

「・・・・海水を汲み蟹をとるのだが、蟹はまたたく間にとりつくした。また海岸には海岸のマイナスがあったのである。屍臭といたる所に垂れながす糞便のため、蝿が無数に殖え爆弾であけられた赤土穴には、スコールが溜まりぼうふらの温床となった。マラリアは風土病と重なり飢餓に苛まれた身体をどしどし斃していった。飢えのため餓鬼のごとく米を欲しがる数日が過ぎると、顔は黄色にはれむくみ、飯の顔を見るのが厭になる。とくに身体から水分がぬけ、容貌がシワだらけにしぼむと、それが最後だった」

「ガ島のどんな草でも動物でも、もはや口に入らぬものは無い。山辺に生えている里芋の葉に似た野草をとって、唇をはらした兵がいた。山猫を食べ下痢を起して止まらないものもいた。野牛は珍味であったが、衰弱した兵の手に負えるしろものではない」(「ガダルカナル」山内七郎著)

人は生きるために、どんなものでも口にする。

極端な話、そこに食べるものがなければ、人肉さえその食の対象にするのだ。それは一見、非人間的で狂気なる行動のように思われるが、眼の前に横たわるる死体を、腐敗しないうちにその肉の一部を口にしようとするのは、宗教的な罪悪感情や良心と上手に折り合いがつけられる限り、ある意味で、人間の自我がまだ死んでいない証拠であるとも言えるのである。

勿論、上記の報告にはそんな記述が全くないが、そこに置かれた状況の極限性は、「人肉喰い」が生じる必要条件を満たしていることには変わりないのである。ともあれ、ガダルカナル島が「餓島」と呼ばれた理由が分るような凄惨な報告が、ここにあった。

ともあれ、こんな言語を絶する世界の中に、普通の神経を持った人間が置かれたらどうなるか、説明するまでもないだろう。

人間が自らの人格を守るための自我という名の防波堤は、その抑制の許容臨界点を超えてきたとき、信じ難いほど脆く、裂けやすいものになる。私たちの「精神の気高さ」を声高に語ることを止めない者は、その「気高さ」が常に温風ゾーンに守られていて、現在もその強力な精神的保険によってカバーされている安心感が、その「気高き精神」の内に担保されているからである。

PTSDについて考えるとき、いかに私たちの自我の継続的、且つ、絶対的な「安全保障」が幻想に過ぎないことを思い知らされるのだ。

最も脆弱なるもの―― それこそ私たちが良心=自我と呼ぶものの、正真正銘の有りようである。だからこそ、それを少しでも堅固なものにするために、内側で不断に問いかけ、呻き、それなりの答えを出す努力を惜しんではならないのであろう。



10  「一本の細く赤い線」を越えてしまうとき



―― 以上、映像の舞台となったガダルカナル島戦についての記述が長々と続いたが、その目的はあくまでも、映像の背景となった「戦場」のリアリティについての理解を深めるためのもので、それ以上の含みは全くない。

先述したように、この映像が「ガダルカナル島戦」の地獄の惨状、そして恐らく、「戦争の現実」についてのリアルな認識を求めたり、まして、「反戦」というイデオロギーを被せた「問題作」でないであろうことは殆ど自明である。或いは、本作は「戦争映画」という範疇で片付けられる代物ではないと言ってかも知れないのだ。

ただ、この映像の中の将校、下士官や兵卒たちの、それぞれに個々の自我だけが潜り込んだかのような、内的宇宙の閉鎖系を心理学的に把握するには、彼らの自我を捕捉した「非日常の日常化」とも言うべき、極限状況についての一定の背景的理解が必要であると考えたので、ここに敢えて言及した次第である。


―― 以下、この究めつけの映像についての、私なりに集約した感懐を簡単に記しておく。


「一本の細く赤い線」(注5)を越えたら、そこに関与した者たちの自我が、恐らくその記憶情報にインプリンティングされることのなかったであろう、大いなる不安含みの未知のゾーンに否応なく放り込まれて、そこで人間のあらゆる能力、性質、感情、更にそれらを含む固有で様々なる経験知の価値の実体が無残にも晒されてしまうのだ。

極限状況に於いて、一人一人の自我が裸にされ、その武装の有りようが問われてしまうのである。放り投げられ、晒されて、非武装なる人間存在の本質的な孤独性が炙り出されてくるとき、そこに於ける表現様態の一切、ひいては、自己の全人格的能力が検証されてしまうということだ。戦場に於いて蒙る恐怖の感情指数はそれぞれ違えども、そこに置かれた者の状況性は皆、殆ど均しくシビアなものであるが故に

だから、「ここで自己を守るには、自らを島にする」と言い放ったウェルシュ曹長のように、全く未知のゾーンである極限状況の只中では、圧倒的に小さな存在に過ぎない個我を、観念の最後の砦の如く閉鎖系にすることによって、理性が機能し得るギリギリのところで、小宇宙と化した「島」の中に呼吸を繋いでいく以外、恐らく有効なる自衛の手立てがないのだろう。

以上の把握を前提にすれば、本作は、極限状況に置かれた人間の様々な自我の展開の様態と、それが表現されたときの大いなる危うさ、そして、決して約束されない未来に時間を繋ぐ一縷(いちる)の希望の可能性についての、極めて形而上学的なテーマを、作り手特有の個性的なまでの筆致で具象化した映像であると言えようか。

本作が描いて止まない世界 ―― それは「一本の細く赤い線」を越えてしまったら、そこにしか辿り着かない宿命であるかの如く、人は一様に孤独になり、その孤独の極限性の中で、人間存在の根源的な有りようを実感せざるを得ないという文脈以外ではなかった。誰とも繋がれず、深いところでクロスしあう何ものもなく、ただその厳しく、予想し得ない現実の襲来を引受けざるを得なくなるのだ。

そんな感懐を抱かざるを得ないほどに、それまでうんざりするほど捨てられてきた「反戦」、「戦争映画」、「ヒューマンドラマ」、「社会派の問題作」等の一切の表現世界の範疇を、本作は圧倒的、且つ、根底的に突き抜けた映像だった。そう思った。


(注5)これは、映画の原作(「シン・レッド・ライン」/作者・ジェイムズ・ジョーンズ/角川文庫)の冒頭の引用文からの言葉である。以下、鈴木主税訳の「アメリカ中西部の古い諺」から引用する。

「兵隊こうしろ、兵隊ああしろ 
いや、「兵隊、魂は?」 
だけど「英雄の赤い線」 太鼓がどんどんと鳴り出せば―― 
キプリング
正気と狂気のあいだには、一本の細く赤い線があるだけだ」



11  極限状況の中で晒される私たちの自我の、稜線の見えないその裸形のラインの中で



―― 映像に戻る。

「俺たちの世界は自滅にまっしぐら。人間は目を瞑り、必死で自分を守る。それしかできん」

これは、米軍下士官の冒頭の台詞である。

まもなく、訪れる敵の見えない相手との戦闘によって、この世界は現実化する。高地を占領するまでの戦闘の全ては、米軍の若き兵士たちの恐怖を基調にした描写によって支えられている。

「誰か!誰か助けてくれ!」
「助けてやるから静かにしろ、喚くな!」
「チクショー!俺は死ぬ!死ぬんです、曹長殿」
「叫ぶのは止せ!」。

大体、ハリウッドが製作した過去の戦争映画に、戦闘の恐怖で胃が攣(つ)ってしまったり、死に怯えて絶叫したりする兵士たちの「醜悪」なる現実を、ここまで執拗に描写する作品があっただろうか。勇敢な兵士たちが不必要なまでにゾロゾロ登場してきても、この映画には最後までヒーローは出て来ないのだ。

この凄惨な殺戮の描写を貫流するのは、それに不釣合いなほどの荘厳な音楽。家に帰れば普通に生活しているはずの人間たちでも、暴力的状況にインボルブされる可能性を否定すべき何ものもなく、苛酷なまでに重い歴史の現実から完全に解放されることはないだろう。

いつの世も、人間はそうだったのか。人間の大いなる愚かさは、脳を発達させ過ぎた故のペナルティであるということなのか。

然るに本作は、天にも届かんとする高みから俯瞰するような、倣岸で独善的なまでに気取った視線によって、人間及びその存在の有りようを観察する愚挙に走ることから完全に解放されていた。

映像の中で、特段に破壊的な生活とは無縁に人並みの欲望を持ち、人並みの日常性を繋いできたに違いない男たちが、偶発的に遭遇した暴力的状況の只中でそれぞれに喘ぎ、煩悶し、叫びを上げ、深々と祈りを刻んでいく。

恰も、その多様な表現の出火点が、作り手自身の自問自答の如く揺曳していて、そこにはいつでも、それらの表現の痛みを感受して止まない作り手の誠実で、謙虚なる人間観が投影されているようにも見えるのである。そこでは、米兵も日本兵も、双方の力関係に於ける優劣の落差感など確信的に蹴飛ばされているようだった。

そればかりか、自分の肉塊を射抜く敵弾の視界を靄(もや)で閉ざすことで、飽和状態下の不安と恐怖の感情の鼓動を異様に高める描写的効果が奏功し、名状し難いほど沈鬱とも思えるフィルムの中に、暴力的状況の只中で晒される自我の、殆ど半壊した様態の悲哀や歓喜がダイレクトに映し出されていたのだ。そして、その一つ一つの喘ぎや叫び、呻き、煩悶の中に、まさに作り手自身の問題意識や感情の文脈が、少なからず、根源的問いかけを持って被さっているようにも思えたのである。

人はなぜ、かくまでに暴れ回り、暴れるたびに、煩悶を引き摺り込み、引き摺り込んだ時間の中で、なお暴れることを止めないでいるのか。煩悶とは無縁に装うスキルを持ち得た者も、それを持ち得なかった者も、極限状況下に置かれた人間の孤立したさまは、いつでも私たちが非理性的に排斥したいと願っている、霞(かすみ)の深い心の澱みに隠蔽している実相であると言えないのか。

状況の苛酷さが増幅するほどに、私たちの自我の許容臨界点は危ういラインにまで下降していって、「一本の細く赤い線」を簡単に突き抜けていってしまうのだろうか。

そこで晒された卑屈さや醜悪さもまた、作り手の内側の感情ラインと地続きになっていて、それを鑑賞する私たちの自我が勝手に作り出した心地良い物語の脆弱さを、根底から破砕する怖さがそこにあった。

これは言ってみれば、私たちが素朴に信じて止まない心地良い物語の欺瞞性を、私たちの心の内側から問題提起していくことの重要性を、自分の心のサイズで省察する誠実な態度を暗に求める一篇であるとも言えないか。

無論、作り手であるテレンス・マリックは、教壇に立つオーソリティ溢れる教授のように、それについて訳知り顔で講釈し、気難しい説教を垂れているわけでは決してない。単に私たちの心の問題の中で、極めて厄介な状況下での振幅について問題提起しているだけなのだ。

いや、作り手は問題提起すらもしていないのかも知れない。そのような状況下に置かれた自我の様々な振れ方を描き出すことで、そこに現象化された根源的なテーマを共有しようと願っているだけなのかも知れないのである。

では、根源的テーマとは一体何だろうか。

こんな風に考えられないか。

それは、私たちが自然を恣意的に加工し、しばしば破壊することで作り上げた、近代文明社会の中に呼吸を繋ぐ私たち人間が手に入れた、過剰な快楽装置や圧倒的な利便性、そして超絶的な合理主義の達成点とは裏腹に、どうしてもそこだけは進化が遅れる精神世界の陥穽、即ち、諸科学的達成の速度に追いつけない精神の理性的文脈の不具合感という、由々しき問題性であると考えられなくもないのである。

そのような問題性を感覚的に受容するには、このような映像的文脈が最も相応しいと思わせるような何かが、紛う方なくそこにあったのだ。

だから作り手は、そのような感覚を、不特定多数の見知らぬ鑑賞者と共有するだけで充分であると思ったのかも知れない。その意味で、解答が用意されない様々な問いかけを連綿と繋いでいくことによってのみ、既に本作は充分なほどの表現的達成に届き得たと言えないか。内面的に問い続けていくことの価値を、これほどまでに深々と映像化した作品を、私は未だかつて知らないのである。

人間は、根源的に孤独を意識する存在様態を生きるしか術がない故に、それを実感せずに生きるスキルを身につける分だけ、実に厄介なる生物である。そしてそのスキルを固めていく自我の、本来的な生存適応戦略が有効に機能する限りに於いて、なお心地良い物語を繋いでいけるであろうことは確かであるに違いない。

しかし、それが繋げなくなる許容臨界点が間近に迫りくるにつれ、「一本の細く赤い線」の強迫が弥増(いやま)してきて、遂にそこを超えてしまったかのような未知なるゾーンへの、著しく曖昧な踏み入れの実感の際(きわ)に晒されたとき、「人間」という名の自我の圧倒的な脆弱さが否応なく剥き出しにされる以外にないのだ。

まさに、その文脈が示唆するテーマこそ緊要でありながらも、私たちはその心理的文脈の厄介なる陥穽を超克し得る能力を、今なお手に入れていないという現実を目の当たりにしてしまうのである。

だから人間は、いつも同じ誤謬を執拗に重ねていってしまうのか。

それはもう、大脳をここまで肥大させすぎた私たちの宿痾(しゅくあ)と言っていいのか。

作り手はそんな根源的な問いかけを映像に刻んでいるわけではないが、解答を用意できない問題の困難さについて、それ以外にないと思われる表現の連射の中で、少なくとも、私たちの存在の自己証明のテーマが内包する心理的文脈の複雑さの問題だけは、観る者にひしひしと伝わってくる力技を発現させていたと言えるだろう。

ウェルシュ曹長(左)トール中佐(中央)スタロス大尉(右)
極限状況の中で晒される私たちの自我の、稜線の見えないその裸形のラインの中で、文明という名の人工的世界を構築してきた私たち人間の、その本質的脆弱さが集中的に検証されてしまうのだ。



12  未知のゾーンに放り込まれた人間の脆さと怖さ



―― つまるところ、私たちは以下の三点の箇条的文脈の中で、「人間」の根源的問題を把握し得ると考えられるだろう。

その一。

「一本の細く赤い線」の際(きわ)にあるとき、私たちは人間存在の孤独性をリアルに実感してしまうということ。これは、人間がそれぞれ、〈私の生〉しか生きられないという自明なる真実を検証するものであるだろう。

その二。

私たちの学習能力が極めて限定的であり、そこに私たちの脆弱さの本質が伏在しているということ。私たちは未知なるゾーンに投げ入れられてしまったら、多くの場合「経験知」が無化されて、情報砂漠の中で感覚的に反応してしまう様態を晒すことになるに違いないのである。

その三。

それ故にこそ、私たちは何某かの表現を繋ぐことによって、未知なるゾーンの只中で、存在の自己証明を継続的に図らざるを得ないということ。その半ば自覚的な作業の継続の中でしか、私たちは「現在」と「この場所」を繋ぐ文脈を心理的に確保できないのである。

―― 以上の把握に立つことで、私は映像の中のあまりに多様なモノローグの本質と、それを必要とせざるを得なかった自我の究極的な喘ぎ、呻き、振幅というものを読み取ろうとするのである。これについては後述する。

どれほど偉そうなことをレクチャーしても、所詮人間は、「それ自身」の持つ能力の範囲の中でしか「時間」を切り開くことが困難であるということだ。そして、「それ自身」の能力の落差など高が知れているということなのである。

「原始なる自然」の世界と切れて築いた文明の、未知なる輝きを目眩(めくるめ)く放つ快楽装置に身も心もすっぽり嵌ってしまった以上、もう私たちには、その世界からの自覚的離脱は相当の覚悟なしに殆ど困難であると言っていいだろう。

快楽装置を手放せない私たちの不寛容さは、間違いなく自らの異文化のフィールドへの跳躍力の劣化を招来し、ひいては、その自我の劣化にまで繋がっていくのかも知れないのである。

そう思うのだ。

それが人間であり、「進化」を求めて止まない人間の悲しき性(さが)と言えようか。

それに引き替え、悠久の自然はあまりに寛容である。

もかも呑み込み、何もかも在るがままに推移する。そんな自然に則して生きる南太平洋の原住民たちが、そこにいた。

殺戮に走る者も走らぬ者も、そして彼らを包む大自然もまた、神の創造物ではなかったのか。

思うに、テレンス・マリックが描く自然はあまりに美しく、寛容である。

その中で、自我の武装を壊されたか、壊されかかっている人間の、様々な裸形の感情だけが暴れている。だから「自然に帰れ」という単純なメッセージを発信した訳ではないだろうが、私たち人間が、「シン・レッド・ライン」という闇と地続きな世界に住んでいるという危うさは、益々顕在化しつつあるようにも見える。テレンス・マリックはそう言いたいのか。

繰り返すが、本作は「戦争映画」などというものではない。

いわゆる、「反戦映画」の範疇にも含まれないし、それに関わる作り手の確信的なメッセージなど微塵も感じられないのだ。当然ながら、「プロパガンダ性」を持った映像ではあり得ない。テレンス・マリックは一貫して、伝道師の如き振舞いを回避し、眼に見えない「神」に対する遠慮げな問いかけはあっても、それに対する正鵠(せいこく)を射た解答を用意することをも逡巡しているかのようなのである。

全ては、殆ど横断的な繋がりを持たない登場人物たちの、「自分だけの内なる世界」に籠る孤独の心境の中で煩悶させ、それをなお継続させる固有なる時間を捨てさせなかったのである。

ここには「善と悪」、「正と邪」という二元論的解釈は成立しないのだ。ヒューマニズムの問題も埒外である。自我のマニュアルが全く届かない未知のゾーンに放り込まれた人間の脆さと怖さを、常に変わらぬ自然の営為を絶対基準にすることによって、そのことのメッセージ性を高めようとしたようにも思われる。

いずれにせよ、この充分に哲学的な映画は、現代映画史の最高到達点であるといったら言い過ぎか。

テレンス・マリックは現代映画の最も重要な監督の一人である。そのように感じさせるほど、この映像の鮮烈性は際立っていた。



13  「状況脱出」としての「感覚鈍磨」  



―― 因みに、本作に寄せた川本三郎の一文があるので、それを一部抜粋してみる。

「いつ、どこから銃弾が飛んでくるのかわからない。その緊張のなかでふいに兵隊は、目の前の草に目を向ける。おじぎ草のような草にふと我を忘れる。ここでもカメラは、一瞬だけ、そこから離れ、別の世界へ上昇する。(略)テレンス・マリックはそういう異常のなかの日常を描きたいのではない。兵隊たちには、極限状態にいながら、いや、いるからこそ、心がそこから離れて真っ白な、空白な状態になるという無の瞬間がある。テレンス・マリックは終始、それに拘っている。オリヴァー・ストーンやスピルバーグのように戦場の兵士ひとりひとりの痛苦を描きたいのではない。戦闘の極限状況や、そのなかでの兵士たちの友情を描きたいのでもない。テレンス・マリックは、死と向き合っている兵士たちひとりひとりの心が、ここから向うへ連れて行かれる瞬間を追い求め続けたいのだ。それはきわめて内省的、精神的な試みである」(「キネマ旬報99年4月上旬春の特別号」キネマ旬報社刊)

この把握に些か引っかかるものがあるが、特段に異を唱える何ものもない。

川本が言う、「死と向き合っている兵士たちひとりひとりの心が、ここから向うへ連れて行かれる瞬間」こそ、「シン・レッド・ライン」の際にある自我が、今このときに、この絶対状況下で、まさにそれ自身の崩れの危うさを防ぎ得る、殆どそれ以外に選択肢のないシフトの極点でもあったということである。

「空白な状態になるという無の瞬間」に入り込むことで、自我に絡みつくリアルな情報を必死に中和させ、「状況脱出」としての「感覚鈍磨」を図っていこうとする防衛戦略を遂行するのである。それこそが、「極限状態」に置かれた者の、「状況適応」へのスキルであるという以外にない、と私は思う。

そのような傑出した描写の繋がりが、本作のストーリーラインの濃度を、「内省的、精神的な試み」の一篇として成功裡に結ばれていったのである。生と死を分ける「空白の瞬間」の中の形而上学的な問いだけが、そこに刻まれた。

映像に刻まれた印象の鮮烈さが、本篇に固有な重量感を随伴して、観る者に根源的な問題提起を投げ入れていくのだ。



14  内側で語り継ぐことで、ギリギリに守られる何かを持つことの大切さ  



―― 稿の最後に、この映画で極めて重要な役割を果たしている描写について言及する。映像全体を通して、それぞれが、様々な事柄について静かに、心の中で呟くモノローグの描写のこと。

それは激しい戦闘の中で、宇宙のように広がる自然の中で、鬼気迫る張り裂けそうな緊迫感の中で、宵闇の孤独の空間の隅で、時には絶対者に縋るように、時には凄惨な状況から逃げ出すようにして、それが恰も、映像を繋ぐ思想的メッセージの重みを持たせるようにして語られていく。そのときだけは音響が削られて、心の中で語る者たちの内側の世界に、それぞれが戻っていくのである。

これは一体何なのか。

先に少し言及したテーマだが、果たしてこれは何を意味するのか。改めて考察してみよう。

ウェルシュ曹長(右)
中でもウィット二等兵、ベル二等兵、ウェルシュ曹長、そしてスタロス大尉のモノローグにはただならない問題提起を含んでいて、無視し難いものがある。

彼らは一様に自問するが、その答えを自分なりに用意する者もいる反面、多くは途方に暮れている。

なぜ、彼らは呟くのか。

なぜ、彼らは声高に吐き出すこともなく、それ以外にないという心境の如く呟くのか。なぜ、彼らの表情は一様に沈鬱なのか。なぜ、彼らの表情に哄笑がないのか。なぜ哄笑の代わりに、作り手は狂気の遠吠えを描き出してしまったのか。

そこが、戦場だったからである。地獄だったからである。何よりもそこに展開された人工的な振舞いが、充分に極限状況を作り出してしまったからだ。

そんな状況下に於いて、「何某かの表現を繋ぐことによって、未知なるゾーンの只中で、存在の自己証明を継続的に図らざるを得ないということ。その半ば自覚的な作業の継続の中でしか、私たちは『現在』と『この場所』を繋ぐ文脈を心理的に確保できないのである」、という先述した文脈によって把握し得る何かが、彼らの印象的なまでに沈鬱な内的表現を刻んだのである。それ以外ではなかった。

そこにたとえ、心地良き大義名分が張り付いていて、それがどれほどまで甘美な芳香に彩られていても、そこに呼吸する限り、上官から与えられた命令通りに従って動き、登り、息を潜め、四方から流れ来る砲弾の嵐を潜り抜け、そして反撃し、炎で焼き、殺め、踏み潰し、壊し切る振舞いから決定的に解放されることはないだろう。

そんな振舞いの日常化的な継続性の中で、自分の中の何かが鈍磨し、振れていくものが少なくなるまで劣化し、やがてその鼓動を感じられなくなって、いつしか、役立たないものを集めただけの神経の束と化していく確率は、漸次高まっていくに違いないのだ。

そして、そのような感情の流れ方を恐れる感情が、弱々しくも、その内側で半ば本能的に立ち上っていって、それが存在することによって内面的均衡が保持し得る感覚を手に入れたとき、恐らく、そこに呼吸を繋ぐ者はその感覚を捨てないであろう。まさにその内面的文脈が存在することによって、映像に映し出された、何人かの若きアメリカ人たちは語ることを止めなかったのである。

自分の中の何かとは、極限状況に置かれてもなお、自らの内側でそれが大きく極端な方向に振れていくことを恐れる精神世界、即ち自我である。

それが、単なる神経の束と化すことを恐れる感情もまた、自我である。

彼らは自問することによってのみ、極限状況下で生み出された圧倒的な孤立感、そして柔和なるイメージを分娩する想像力とは無縁に、余裕のない状況が作り出した孤独感を感受するが故に、己自身のちっぽけな自我(良心)の人工的な歪みを防ぐことで、必死にその内面世界を維持しようとしたのではないか。これこそ、作り手のメタメッセージではないかとも考えられるのだ。

敢えて繰り返そう。

有無を言わさず地獄に放り込まれた自我が、その地獄の諸相で自らを大きく振れさせることなく守っていくには、自らの内部で不断に語り継いでいくしかないのである。このようなことをしない限り、簡単に壊れかねない自我を平気で呑み込んでしまうような地獄が、この世に存在するということ。

そして、その中に呑み込まれてしまったら、どれほど強靭な自我でもあまりに脆弱であるということ。作り手はそのことを伝えようとしているのではないか。内側で語り継ぐことで、ギリギリに守られる何かを持つことの大切さ。それを伝えたかったのではないか。そう思うのだ。



15  「自然」、「情愛」、「神」、「実存」



―― 最後に一言。

先の四人は、心の中で不断に呟くことによって、皆、それぞれの脆弱なる自我を守り通してきた。

スタロス大尉
具体的に言えば、ウィット二等兵は「自然」を思い、自然と語り合うことで自らを守る。ベル二等兵は「妻」を思うことで、「情愛」の感情を内側で繋ぎ止めている。そしてスタロス大尉は「神」に祈り、問いかけることで、多くの部下を平気で殺すような名誉欲への堕落を防いでいる。

またウェルシュ曹長は、極めて濃厚なニヒリズムによって「戦場を俯瞰すること」で、ギリギリに「実存」を確保している。彼の自我が壊れていなかったからこそ、彼は瀕死の負傷兵にモルヒネを手渡しに行ったのである。自陣営に戻って来た彼は、受勲を拒むニヒリズムを貫徹したのである。

これは私の勝手な分析だが、彼らはそれぞれに「自然」、「情愛」、「神」、「実存」というイメージをなぞりながら自問自答を繋ぐことで、それぞれの自我を大きく削られることなく守ってきたのではないか。彼らは、或いは、作り手の分身であると考えられなくもないのである。

この一篇は、人間の問題を「善悪二元論」で峻別する安直な括りを拒んで、そこに明瞭な解答を提示することなく、しかし極めて自覚的に、私たちの時代の根源的な問題と、私たち自身の存在性について鋭利に問題提起した、優れて形而上学的な映像であったと言えるだろう。私の把握によって本作を括れば、「『一本の細く赤い線ー状況が曝け出した人間の孤独性についての哲学的考察」、という文脈こそが最も相応しい一篇だったのである。

恐らく、これを超える「戦争映画」、と言うより、「戦場」を映像表現の舞台にして、人間の内面を奥深く描き出す作品は出現しないと思われる。それほどの表現力が、ここにはあった。凄いと唸ってしまったほどだ。だから私は、本作を今なお繰り返し観続けている。

テレンス・マリックこそ、人間についての普遍的なテーマを探求し続ける映像作家であるに違いない。

(2006年3月)

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