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2008年11月12日水曜日

ロゼッタ('99)     ダルデンヌ兄弟


<もう誰とも繋がれない少女の自我 ――「自己防衛」のための青春の尖りの苛酷さ>





序  青春の尖り



思うに、青春の尖りには二種類ある。

一つは「自己顕示」であり、「自己主張」であるが故の尖り。もう一つは、「自己防衛」としての尖りである。

前者の尖りは青春そのものの尖りであり、まだ固まっていない漂泊する青春が、その内側に蓄えてきた熱量が噴き上がっていくときの、「怒りのナルシズム」である。

それは青春が初めて、その怒りを身体化させていくに足る頃合いの敵と出会って、その前線で展開されるゲーム感覚の銃撃戦を消費する快楽であるだろう。

従ってそれは、そこで分娩された快楽を存分に味わっていく過程で、自我を固有な形に彫像していく運動に収斂されていくので、その運動が極端に規範を逸脱しない限り、一種の通過儀礼としての一定の社会的認知を享受すると言っていい。

青春を鍛えるには、それが鍛えられるに相応しい敵対物が求められるからである。敵対物の存在しない青春ほど、哀れを極めるものはないのだ。漂泊する青春を過剰に把握し、その浮薄なる「既得権」を必要以上に守る社会が一番ダメなのである。

一方、「自己防衛」のための青春の尖りには、甘美なナルシズムが入り込む余地がない。

なぜならその尖りは、けばけばしい衣装を露出させて手に入れる快楽とは無縁であり、日常性の内側に社会の厳しい前線が侵入してくるリアリティと、常に対峙しているような時間と地続きになっているのだ。

守るべき者がその身に負った過大な重量感が、そんな青春をしばしば苛酷にする。

そこには、ゲームが支配するガス抜きのルールが存在せず、青春の尖りは険阻な表情を崩せないでいるに違いない。

それ以上追い詰めてしまうと、青春という液状の自我が、社会のどのような隙間からも一気に流れ去ってしまいかねないような充分な危うさを抱え込んでいるのである。

従って、その自我が必死に防衛しようとするものに、許容値を越えた劇薬が含まれていない限り、社会はその尖りに寧ろ同情的であっていい。

潮目の辺りで、我が身を乗せる流れにしがみつく青春にこそ、救命ボートの一艘くらいは差し向けられてもいいのである。しかしそんな青春に限って、我が身を守るはずの攻撃的な棘によって、しばしば痛々しいまでに自傷してしまうのである。



1  少女の固い自我の奥深くまで肉薄した傑作


「怒りのナルシズム」でしかない尖りの青春ではなく、「自己防衛」のための青春の尖りの苛酷さ。

その苛酷さを、厳格なリアリズムで映像化した作品がある。

ダルデンヌ兄弟①
ベルギーの「怒れる作家」、ダルデンヌ兄弟による「ロゼッタ」である。

作品の中の少女は、「自己防衛」するための尖りの継続に疲弊し、遂に自傷するまで曲線的な走行を捨てられなかった哀切を、その表情の暗鬱さの内に滲み出していた。

確かにこの作品は、私の中で内容的に些か納得し難い描写が垣間見られるものがあったが、それでも、たった一人の少女の不安定な日常性を、ひたすら手持ちカメラが追い駆けることで、それが少女の固い自我の奥深くまで肉薄し、そこに洩れ出た心臓の高鳴る鼓動音を、フィルムの乾いた黒に刻みつけたという点に於いて稀に見る傑作であると言っていい。



2  池の中で身動きが取れない少女の叫び



―― 以下、映像の世界に入っていこう。


少女はいつも怒り続けている。

映像の冒頭で、理由もなく解雇された故に工場内を逃げ回り、自分のロッカーの中に潜り込んで抵抗するシーンは、少女が拘泥する意識の中枢を描き出していて印象深い。

作り手は、観る者にいきなり勝負を挑んでくるのだ。

私たちは少女の視線に同化し、彼女の怒りを共有するか否かについて問われるような錯覚に陥ってしまうのである。

作り手は観る者に、余分なスタンスによるアプローチを許容してくれないのだ。

キャンプ場のトレーラーハウスで、アル中で不道徳な母と暮らすロゼッタは、懸命な就職活動に奔走する日々が続くが、実を結ばない。

彼女は林の中のキャンプ場に戻るとき、いつも秘密の入り口を通って、秘密の場所に隠してある長靴に履き換える。

貧しいキャンプ生活を象徴するような長靴に履き換えた少女は、有刺鉄線で守られた池に忍び込み、そこで自分の仕掛けた捕獲瓶で鱒などを釣り上げるのである。

とてもゲームとは思えない、彼女の荒い呼吸音が観る者に伝わってきて、生活を守るために必死に生きる少女の苛酷な日常性を想像させるのに、それは見事なまでに嵌った描写になっていた。

映像を通して何度も繰り返されるこの描写の意味は、あまりに重い。

それは禁断を犯して振舞う尖りが、ひたすら「自己防衛」の故の突出であることを端的に説明しているからである。

しかしロゼッタという少女が守るべきものは、自分の生活だけではなかった。

彼女は、酒びたりで、人生に希望が持てないような、自堕落な母の健康と生活をも保障しなければならないのである。

母を施設に入院させようとして、娘はその母と揉み合った末、池の中に落ちてしまう。

長靴に池の水が充たされて、池の中で身動きが取れないロゼッタは、走り去る母に向かって「助けて」と叫ぶが、孤独な少女に対して、どこからも援助の手が差し延べられることはないのだ。

それは、映像のテーマを象徴的に物語る描写だった。

少女の自我が頑なで、しばしば鋭く尖ってしまうのは、少女が置かれた環境の苛烈さに起因するのである。 



3  「自己防衛」に必死で動く少女の不徳行為    



そんな少女に、初めて援助の手が差し延べられた。

ワッフルスタンドで働くリケは、店で何度か言葉を交わしていたロゼッタに会いにキャンプ場へ行く。

しかし、トレーラー生活を知られたくない少女は、リケに殴りかかっていく。

少女のこの尖りは、「自己防衛」のそれというよりも、決して知られたくないものを、知られたくない者に覗かれたことへの怒りだった。

そんな少女も、「店に空きができたから、知らせに来た」というリケの言葉に救われたのである。

失業の恐怖から一時(いっとき)解放されたロゼッタは、母と争った夜、リケの部屋に初めて泊まった。

リケの優しい心遣いがロゼッタの頑なな自我を解きほぐし、そこにビールをラッパ飲みする少女の解放感が、恥ずかしそうに踊っていた。

その夜、少女は安らぎの眠りの中で、自分に確認するようにして呟いた。

「あなたはロゼッタ・・・私はロゼッタ。仕事を見つけた・・・私も見つけた。友達ができた。 私にもまっとうな生活。私もそう、失敗しないわ・・・私も失敗しない。おやすみ」

束の間、至福の境地に酔っていた少女の足元が、僅か三日間で崩された。

折角手に入れたワッフル店の仕事も、社長の息子が代わりを務めることになって、呆気なく解雇されてしまったのである。

途方に暮れた少女を、リケだけが見捨てない。

少女を心配するリケは、キャンプ場にロゼッタを訪ね、禁断の池で魚を獲る作業を手伝おうとして、誤って池に落ちてしまったのである。

「沈んでいく!ロゼッタ、助けてくれ!」

救いを求めて叫ぶリケと、その現実を捕捉する、冷たく曇った少女の眼。助けを求められた少女が、そこで選択的に固まっているのだ。

僅かな時間だったが、それを選択しなかったという倫理的補償への希求が勝ったのか、少女の自我は駆動した。

リケが死ねば仕事がもらえるという邪念を断ち切ったとき、少女は棒切れを持って、溺れる者を禁漁池から救い出していた。

しかしそれは、「自己防衛」に必死で動く少女の不徳行為を開かせる契機にしかならなかった。



4  悄然として虚空を浮遊する少女の自我



どうしても仕事が欲しいというロゼッタの、殆んど強迫的な渇望は、少女をして最も卑劣な行為に走らせた。ワッフルを密かに売り捌(さば)くリケの行為を、社長に密告したのである。

そのことによって解雇されたリケと、代わって職を手に入れたロゼッタ。

二人の若者の立場が逆転しても、少女の澱みに起因する落差は変わっていないのだ。

卑劣な行為で職を得たロゼッタをリケが追い回し、難詰する。

「何のつもりだ!」
「殴りなさいよ!」

少女は開き直るだけ。

「なぜ、やった?」

胸倉を捕まれた少女の答えは、この一言しかあり得ない。

「仕事のためよ!」

それが、少女の全てなのである。

それ以上何もない。卑劣な行為で仕事を手に入れた少女には、ひたすら突き進む以外にないのだ。

仕事を終えたロゼッタを待つのは、それがなければ生活できない大切な長靴と、自堕落な母親の無気力な姿。少女の生活は何も変わらないのだ。

自らの力で変えようとしても、変えようがない風景の塊に、少女の自我は悄然として虚空を浮遊する。



5   もう誰とも繋がれない少女の自我



もう誰とも繋がれない少女の自我は、確信的に裏切ったはずの澱んだ感情を、未だ浄化できない時間の重さに震えていたのか。

その震えを抑えられなくなったとき、少女は受話器を取った。

「仕事を辞めます」

少女は、自らの曲線的歩行に終止符を打ったのである。

最も大事なものを手放した少女は、ガスボンベを取り替えて、人生の重さを背負うような歩行で、トレーラーハウスに戻って行く。

その這い蹲(つくば)うような歩行の周りを、リケのオートバイが絡みつく。

事情を知らない青年は、未だ晴らし切れない鬱憤を、少女に向かって撒き散らすことしかできないのだ。

自分が背負うものの重さに堪え切れなくなったのか、ロゼッタという名の少女が、ボンベと共に地に臥して嗚咽する。

何かが弾けて、何かが拓かれた。

映像に初めて映し出される少女の涙は赤く染まって、辺りの風景を束の間変えていく。

オートバイから降りた青年の手が、堰を切って嗚咽する塊を、後ろから静かに抱え起した。優しさの衝撃が、少女の全身を襲った。

少女はその場に、呆然と立ち竦む。

少女の体に触れた温もりを確かめるため、立ち竦むのだ。

そこには、もう誰とも繋がれない少女の自我が震えているかのようだった。

この長々と続く少女の重い歩行の終りに、失ったものを取り戻した魂の安堵が拾われて、映像は完結する。



6  若者に対する柔和な眼差しが過剰に露出する映像



何も語らない映画の、その最初にして最後の語りが、ラストシーンに凝縮されて放たれた。

「自己防衛」に走った青春の尖りが、もう一つの青春から延ばされた優しさの中で少しずつ溶かされていくのである。

青春は孤立することなく、橋を架けていけ。

そんなメッセージが、観る者の余情を柔和に包み込んで、予約された軟着点に帰っていくようだった。


観終わって暫くしてから、じわじわと底の方から沸き上がってくるような映像の断片的な記憶。その継続力にこそ、映像総体の価値がある。

「ロゼッタ」は、そんな映像の一つだった。感銘も深かった。

ロゼッタへの感情移入も容易だった。

しかし、それが却って不自然なような気がしたのである。

何かが過剰なのだ。それがずっと気になっていた。作り手の映像技法に、初めから搦(から)め捕られていたような思いがあるのか。

この作品は、私が観たこの監督の他の作品よりも、些か過剰に、ロゼッタというたった一人の、最も重要な登場人物によってのみ勝負してしまっている。

終始、ロゼッタの視線で周囲を眺め、そのロゼッタの視線を、同時に手持ちカメラが追い駆け、執拗に張り付いて離れない。お陰で、職を求めて懸命に振れていくロゼッタの心情に容易に同化できたから、この技法の効果は絶大だった。

従って、観る者はロゼッタの母親や、リケという重要な登場人物の内面深くに侵入することができなかった。

少女と母
とりわけ、母親の「病理」に入り込めない辛さが、必要以上に彼女を、少女の最大敵対者の如く厄介者視する視座を作り出してしまっていて、そこに、この作り手にほぼ一貫的に見られる、物語の安定的な均衡を確信的に捨てたかのような、一種の実験的映像の危うさを際立たせてしまったのである。

何のことはない。ロゼッタの母親の病理的なキャラの設定は、ロゼッタの苛酷を鮮烈にするために利用されたのではないかとさえ思われるのだ。あの母親を、単に無力なる女として描き出すことも可能だったのではないか。

ロゼッタの母親の病理的なキャラ設定に止まらず、要するに、ロゼッタに関わる大人についての描写は悉(ことごと)く、少女の思いを堰き止め、しばしば妨害する何者かでしかなかったこと。それが私には、終始気になって仕方なかったのだ

その意味でこの作品は、作り手の若者一般に対する柔和な眼差しが、過剰に露出する映像になっている。

それは、若者を苛酷な状況に追いやる社会に対する作り手の怒りを反映していて、詰まるところ、〈若者⇔大人=社会=制度=抑圧機構〉という単純な対抗軸で括ってしまう危うさだけが印象付けられてしまうのだ。

ともあれ、ロゼッタ一人で勝負したこの作品に対する作り手の強い思いが、全篇を通して伝わってきたのは確かである。

ダルデンヌ兄弟②
若者に対する思い入れの強さは、ダルデンヌ兄弟の作品の随所に覗えるが、特にこの「ロゼッタ」ではその思いが過剰に溢れ出ていて、それは私には、より表現性を持たせたいというモチーフによって、ドキュメンタリー作品から劇映画に進出した、兄弟の意志の過剰さのように見えるのである。



7  「左翼」の狭隘な空気によってインスパイアーされる怖さ



――「ある子供」の公開を記念して来日したダルデンヌ兄弟は、明瞭に語っていた。

「なぜ、若者を撮るのか。それは、若者は変わっていくことが出来る――すべてに可能性のある年齢だからです。日本でもそうでしょうが、社会というものは、若者を恐れます。それは社会が変化を恐れるからです。だから、若者をないがしろにし、排除する。私たちは若者を批判しないし、死なせたくないのです」(ジャン・リュック・ダルデンヌ談)

彼らはこうも語っていた。

「若者はいつの時代も社会に反逆してきた。殻に閉じこもってばかりいては駄目だ。いつまでも大人のやることに期待していては駄目だ。いつか町に出て“もうたくさんだ、こんな世の中は変えなければ ! ”と叫ぶべきです」(工房通信悠悠HPより)

このような言葉を聞くと、その昔、全共闘の学生達に向かって、羽仁五郎という名の、今はすっかり忘れられた左翼知識人が、滔滔(とうとう)と思い入れたっぷりにアジテートしていたことを、苦々しく思い出す。一度、「左翼」の狭隘な空気によってインスパイアーされてしまうと、中々その看板を下ろしにくくなるので、大抵の「左翼」が看板だけをそのままにして、「時代が変わった」などという定番的なシフト隠しで、近代文明の恩恵を存分に享受するというスタイルだけは、ほぼ定着しているように見える。

ダルデンヌ兄弟の拘りが本物かどうか、私は知らない。

リエージュを流れるムーズ川(ブログより)
私の浅薄な知識による限り、彼らが生まれ育った、南部ベルギーのリエージュ近郊の経済停滞の状況は、相当深刻らしい。

彼らの作品の殆んど全ては、そのような社会状況を間違いなく背景にしているのである。

「イゴールの約束」の批評でも書いたが、フランス語を母語とする、ベルギー南部のワロン地方の経済停滞は、産業構造の高度化によって深刻になっていて、とりわけ20%を越える若者の失業率は社会問題化されていると言う。



8  ヨーロッパの失業率の実態、或いは、イデオロギーを超えて共感し得る人間の真実の声



―― 因みにここに、ヨーロッパを中心とする失業率の実態についての報告がある。

「今年に入って失業率がついに10%の大台を超えたフランスでは特に25歳以下の4人に一人、約78万人の若者が失業中という深刻な事態を迎えています。特に貧困層を中心とした、何も資格を得ずに義務教育を終えたり、学業を中断した若者については、その40%が失業中だとされています。

一方で、大学を卒業後1~5年以内で求職中という25歳以下の割合も男性11.9%、女性7.1%と、低い数字とはいえません(2004年のフランス統計局の調査結果)。不況のあおりをうけ、また、企業が即戦力となる人材を求める傾向の強いフランスにおいて、若者たちの職探しは困難を極めているようです。

ちなみに日本の総務省が5月末に発表した日本の完全失業率は4.4%。そのうち15~24歳の完全失業率は10.3%と、フランス同様、平均失業率の2倍以上となっています。若者の就職難は全世界的な傾向となりつつあるのかもしれません」(イーキャリアHP・「深刻化する若者の失業率」)


「どこの国でも平均失業率のほぼ2倍が若者の失業率です。多少国によって違いますが、今の日本は5%弱で、若者の失業率が10%。ともかく1990年代には、全体の失業率が10%前後の国がいくつも出現します…新たな改革を実施して、産業構造や職業構造を21世紀型に変えつつある国では失業率が低くなってきており、フィンランド、オランダなどといった国が低い失業率を示し始めています。

いずれにしても、大きな産業構造の変化があると職業構造が変わり、職業構造が変わると雇用の実態が変わって、そして雇用が変わるとそこに失業という非常に厳しい摩擦状態が生まれ、軋みが社会に出てくるのが常です」(大阪府HP大阪労働より)


産業構造の変化=高度化が、職業構造の変化を生む。

この大きな社会的変化のうねりが階層分化を促進させ、その変化に適応できない人々の多くが失業問題を抱えてしまうという流れは、際限なく進化を遂げる近代が初めから内包していた問題であったことは自明である。

そしてその近代を作ったエネルギーは、ごく一握りの自由思想家や産業資本家の黒々とした欲望に起因するものではなく、いつの時代にも通底していたであろう、「少しでも楽になりたい」と願う私たち一般大衆の本源的な欲望に根ざしているということ、これは否定し難い事実なのだ。

だから、どこの国でも抱える社会問題の全てを、単純に政治や制度の責任に被せてしまうのは、確かに分りやすいだろうが、それ故にこそ、あまりに粗暴な議論であると言わざるを得ないのである。

若者の抱える問題について言及する際に、彼らの対立項としていつでも安直に、〈大人=社会=制度=抑圧機構〉という構図が利用されるお馴染みのパターンがあるが、私はその強引な枠付けこそ極めて問題であると考えている。

だから私は、単純にダルデンヌ兄弟の把握に首肯できないのである。

「ロゼッタ」で描かれた世界がどこまで事実を反映しているかどうか、それも私には分らない。

誇張でもあるとも思えるし、作り手のイメージがそのまま突出しただけとも思える。

それにも拘らず、私がダルデンヌ兄弟を高く評価し、彼らが丹念に作り上げた「ロゼッタ」という映像を評価するのは、いつでもそこに、作り手のテーマに沿った堅固な骨格の物語が存在するからである。人間の真実の声が、少なからず拾われているからである。

(但し、カンヌを再度制した「ある子供」 という作品は、作品のモチーフだけが前のめりに疾走してしまった結果、人間ドラマとしての必要な描写を削り取ったという印象が強く、私には評価しかねる内容だった) 

兄弟はこうも語っている。

「若い世代を一つの枠に閉じこめるのではなく、一人ひとりに物語を見つけるのが好きなんだ。それと、社会の端にいる人を描くことで、むしろ中心が見えてくると思うから」(2005.12.2 読売新聞)

ここに、イデオロギーを超えて共感し得る人間の真実の声があった。その声に、恐らく私は誘(いざな)われてしまうのである。

(2006年2月)

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