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2008年12月23日火曜日

海を飛ぶ夢('04)    アレハンドロ・アメナーバル


<「生と死への旅」という欺瞞性> 



1  「非日常の日常」である現存在性



私は脊髄損傷患者である。

「ブラウン‐セカール症候群」(脊髄の片側半分が損傷されて、出来する症病)という名で説明される疾病と付き合って6年。

私の場合、不全麻痺による「中枢性疼痛」に日常的に苦しめられていて、具体的には激しい腕や腰、首の痛みと、24時間、間断なく続く痺れの状態に、正直、「安楽死」を願わない日はないと言っていい。

しかしこの国で、私が望む死が自らの存命中に実現できる見通しは殆どないだろう。

なぜなら、私が終末期患者ではないからだ。

私が安楽死を切望するのは、激しい肉体的苦痛の継続と、それによる精神的苦痛の日常性からの解放を願うからである。

然るに、それだけの理由で安楽死を許容し、それを介助してくれるシステムが形成されるとは到底思えない。

それにも拘らず、私の肉体の異変がいつ起こるとも知れないので、そのための準備だけは怠りたくなかった。

それ故、私は「日本尊厳死協会」に入会し、「リビング・ウィル」を鮮明にした次第である。

尊厳死協会のパンフレットから、その「リビング・ウィル」の要旨を参考のために記しておく。


1)私の傷病が、今の医学では治せない状態になり、死期が迫ってきたとき、いたずらに死期をひき延ばす措置は、いっさいおことわりします。

2)ただし、私の苦痛を和らげるための医療は、最大限におねがいします。

3)数ヶ月以上、私の意識が回復せず植物状態に陥って、回復の望みがないとき、いっさいの生命維持措置をやめてください。

以上、私の宣言に従って下さったとき、全ての責任はこの私自身にあります。

(日本尊厳死協会リビング・ウィルより)


しかしリビング・ウィルは、私にとって何ら「保険」ではない。

安楽死という「保険」こそ、私の精神的人生の手強い味方になってくれるものだと確信している。この「保険」があれば、私の中の日常的な「耐え難き苦痛」と、もう少し粘り強く付き合っていこうという気持ちが起こるような気がするからだ。

その「耐え難き苦痛」をどれほど人に説明しても絶対に分らないだろうから、安直なヒューマニズムで「安楽死否定論」を語ってくれる数多の厄介なる原理主義者たちに、これ以上語るべき言葉を私は持たない。

こんな私でも、恐らく、この類の疾病に苦しむ患者の倍位のリハビリを日常的に続けている。

日本尊厳死協会HP・関東甲信越支部講演会
老化による、これ以上の筋劣化を防ぎたいからだ。

そして疼痛の隙間を縫って、自分なりの自己実現を果たしていくことに、しばしば信じ難きエネルギーを蕩尽する。こんな文章を書き続けていくことは、その一つである。

私の中では、「いつ、死んでもいい」という気持ちと、寧ろ、それ故に、「残り少ない時間を有効に使いたい」という気持ちが適度な均衡を保っていて、それが緊張感溢れる「非日常の日常」である現存在性を支えていると言っていい。



2  不必要な贅肉を貼り付けた、鑑賞者好みのエピソード・ストーリー



そんな私の「非日常の日常」の只中に、一本の無視し難い映像が海の向うから飛び込んできた。それは、あまりに私の内側をネガティブにヒットする映像になっていて、それ故にかなり不満な内容を含んだ一篇だったが、それでも私はそれを、「自分の映画」という感覚で鑑賞したことは間違いないのである。

ラモン・サンペドロ氏・1998年1月12日死去
その映画のタイトルは、「海を飛ぶ夢」。

そして、その映画のモデルになった四肢麻痺患者が自ら著わした本のタイトルの原題は、「地獄からの手紙」。

しかし、当著の邦訳名は、映像のタイトルと同じものだった。

既にそこに、私の違和感がある。

彼の本を読む限り、まさに「地獄からの手紙」以外の何ものでもない精神世界が、そこに表現されていたからだ。

あまりに叙情的なイメージは、彼の心の叫びから却って距離を置いてしまうのである。



――「海を飛ぶ夢」という、私には大いに気に喰わないタイトルの映像を簡単にフォローしていこう。


ラモン・サンペドロ。

これが映像の主人公であり、同時にスペインに実在した人物の名である。

彼は20代半ばに、自宅近くの岩場から引き潮の海に飛び込み、浅瀬の海底に強打し、脊髄損傷による四肢麻痺患者となった。

この絶対的自由を奪われた生活が30年に及んだとき、彼は匿名のサポーターたちの幇助によって、遂に致死量の薬剤を服用し、念願の「安楽死」を実現したのである。

彼の死が本当に「安楽死」であったかどうか疑わしいが、少なくとも、彼の死が「尊厳死」を目指し、その目指したものに一応の自己完結を果たしたものであることは間違いないだろう。

映像は、そんな彼の究極なる思いを、彼を取り巻く人々との触れ合いを通して、叙情的な旋律で描いた一篇だった。


脳血管性痴呆症で下肢に障害を持つ、一人の女性弁護士フリアが、ラモンの安楽死訴訟の手続きを支援する人権団体に所属するジェネに連れられて、ラモンのもとを訪れた。

フリアは、無料でラモンの弁護を引き受けるつもりでやって来たのである。

彼女の内側にある言いようのない辛さが、彼女をラモンのもとに誘(いざな)ったのだ。

弁護のために彼女が把握しなければならないラモンについての情報は、当然、形式的なものであるはずがない。

彼女は初対面のラモンに向かって静かに、しかし本質的な問題を問いかけていく。

「ラモン、なぜ死を選ぶの?」

ラモンは、永く彼の中で考え抜かれてきたに違いない言葉を、ゆっくりと吐き出した。

「つまり・・・今のような状態で生きることは、尊厳がないからだ。他の四肢麻痺患者は怒るかもしれない。尊厳がない生き方だなんて言ったら。でも、僕は誰のことも批判しない。生を選ぶ人たちを批判するつもりはないよ。だから僕や、死を手伝う人を批判しないでくれ」

フリアも反応することで、そこに会話が生まれる。

「手伝う人がいる?」
「その人が、恐れを克服できるか、どうかだろう。死に対する恐れだ。でも、大したことじゃない。死はいつでも僕たちの周りにいて、誰にでも、いつか訪れるものだから。死は僕たちの一部だ。僕が死を選んだからって、なぜ恐れる?死は“感染”しない」
「裁判になれば聞かれるわ。“なぜ、他の選択肢を放棄したか”と。なぜ、車椅子を拒むの?」
「車椅子の生活は、失った自由の残骸に縋りつくことだ。例えば、君はそこにいる。僅か1メートル。その距離は、常人には僅かなものだ。でも僕にとって、この距離は無限だ。君に触れようと手を伸ばしたくても、永遠に近づけない。叶わぬ旅路。儚い幻。見果てぬ夢だ。だから死を選ぶ・・・・」

ラモンとフリアとの会話には、辛いものを抱える者同士の淡い色彩感のようなものがあった。

二人の関係の接近は急速だった。ラモンの中に、フリアに対する異性愛に似た感情が生まれていたのである。

フリアとラモン
その感情は、海岸を散歩するフリアに向かって、健常者と化した男が宙を舞って海岸に降り立ち、女の前に現われて、愛の交歓をする描写によって説明される。

勿論、想像の世界だが、ラモンの苦悶に優しげに寄り添うような安直で、情緒過多な描写は、却って、彼の苦悩の奥にあるものをオブラートに包んで、中和するだけの意味しか持たないのではないか。

人間の死という厳粛で、究極の問題に真摯に向き合っているつもりでも、決して観念でしかテーマと遊べない、「健常なる者」のフラットなイメージがフィルムに刻み付けられたような違和感だけが、そこに残された。

死をひたすら望む者の思いを、一個の未だ不確かな愛情がどこまで変容させ得るのか、というテーマにアプローチすることで、そこにドラマ性を形成していくかのような思わせぶりの展開は、フリアのラモン宅での事故による車椅子生活によって、恐らく、映像のテーマ性の一つは保留にされた。

それは、ラモンの絶望的な感情の流れの先にあるものを描くための一つの布石となった。

少なくとも私には、30年間に及ぶラモンの苦悶の継続力を、そのような状態に置かれた者なら大抵行き着くであろう、とんでもないペシミズムの世界を、そのままの形で素直に解釈できない「健常なる者」の貧弱な想像力が、必ず寄り道せざるを得ない、「愛」の問題の範疇に脈絡させる安直さが透けて見えてしまうのだ。

このような、とてつもない問題を映像化するには、その作り手が、一週間でもいいから自ら描こうとする主人公と同じ身体的条件を、時間限定で、自らに課して経験することを私は勧めたい。

そうすれば絶対的自由を奪われた、その「耐え難き精神的苦痛」をせめて仮想できるかも知れないのだ。


「・・・・依存する生き方は、プライバシーを犠牲にする。でも何とかうまく対処し、僕の“王国”を守るよ・・・・」

これは、車椅子生活を余儀なくされたフリアに宛てた、ラモンの手紙の一節。

しかし、まもなくラモンと彼の家族は、この王国を撹乱する者の訪問を受けることになる。

これには伏線がある。

安楽死を求めるラモンの裁判手続きが拒否された報道が、テレビに映し出された。

そこに映し出されたものの中に、同じ四肢麻痺患者の神父のコメントが紹介された。

その神父は、「家族や周りの人間に愛情が足りないのだろう」と言ってのけたのだ。

この放送を見ていたラモンの実兄は、弟を詰った。

「お前はさぞ満足だろう。家族に恥をかかせて・・・・」

ラモンの実兄
愛情をもって実弟を守り続けてきた兄には、神父のコメントは当然、心外だった。

しかしそれ以上に、家族の愛情に守られながらも死を望む弟の思いに、兄はどうしても遣り切れない気持ちを抱き続けている。

そんな兄に、弟は必死に反応する。

「兄さん、待ってくれ。僕の話を聞いて。明日、兄さんが事故で死んだら?真面目な話だ。考えたことあるか?僕はどうなる?家族を養えるか?マヌエラやハビや父さんを僕の僅かな年金で。これ以上困難な状況で、僕に生きていけと?」

このラモンの心情に、観る者は果たしてどこまで迫れるのか。

単に言葉としてではなく、彼にそれを言わせる最も深い所にある不安と恐怖の感情を。これは私自身の生存と、それを継続し得る拠って立つ精神的な世界と全く同質の感情である。

ともあれ、テレビで暴言を吐いたその神父がラモン宅を訪ねたのである。

ラモンにテレビでコメントした同じ文脈の説教をするために。

その二人の、激しい対話のエッセンス。

教会の詭弁性を批判された神父が、ラモンを痛罵する。

「“尊厳死”という言い方こそ詭弁ではないのか?・・・・ストレートに“自殺する”と」
「・・・・中世なら、私も当然、火炙りだろ?自由を求めた罪で」
「・・・・命が代償の自由は自由ではない」
「自由が代償の人生は人生ではない!」

尊厳死の自由と権利を求めるラモンと、それを認めない神父の議論は当然噛み合うことがない。

神父がラモン宅に自説を展開するために訪れたというその事実こそが、ラモンとその家族にとって屈辱的であり、許し難いことだった。

テレビで家族の愛情の不足を詰った神父に対して、ラモンの義姉のマヌエラだけは、その心情を吐き出さざるを得なかった。

「あなたがテレビで言ったことは一生忘れません・・・・“ラモンの家族に愛情が足りない”だなんて。いいですか?義弟は愛情に包まれて暮らしています。私は長いこと世話をして、息子のように愛してます。誰が正しいのか分りません。命は私たちのものではなく、神に帰属するのかどうか。でも、一つだけ分ります。あなたはやかましいわ」

ラモンの義姉・マヌエラ
ラモンの日常の世話をし続けてきたのはマヌエラなのだ。

そのマヌエラに、事情を知らない神父が、愛情の不足を説くという発言こそ冒涜的なものだった。

同じ四肢麻痺患者の中に神父のような者が多く存在することは事実だろうが、しかし全ての四肢麻痺患者が、神父のような思考や感情を持っている訳ではないのだ。

自分の正しさを強要する傲慢な姿勢こそ、この手の人間の扱いにくいところである。

それは、いずれの国でも例外ではないだろう。


映像はフリアに代わって、ロサという子持ちの女性の存在の重要性を描いていく。

身の不遇を託(かこ)っていて被害者意識の強い彼女は、ラモンとの初対面以来、彼に見透かされていた。

彼女はテレビで知ったラモンにフラットな同情心を持ち、自らの不遇を共有し得るパートナーであるという感覚で、ラモン宅を訪れたのだ。

その心情の浅薄さをラモンに指摘され、泣きながら帰宅した彼女だったが、訪問を重ねる度に二人の距離は縮まっていった。

ラモンとの遣り取りを通して、ロサの方からラモンの思いに、少しずつ近づいていったのである。

「あなたは私に生きる力を与えてくれる」というロサに対して、ラモンの心情は一貫して変わらない。
「いいか、僕を本当に愛するのは死なせてくれる人だ。それが愛だよ、ロサ・・・・」

ロサ
ラモンはロサに自殺幇助を頼んでいるのだ。

それをサポートしてくれる行為こそ、彼は「愛」と呼んでいる。

映像上では、このようなラモンの決意の固さを、フリアとの関係の破綻の中で、より心情的に分りやすいような描写の導入で補完的に説明している。

私にとってこんな描写はどうでもいいことだが、プロットの関係で簡潔に記しておく。

車椅子状態になったフリアが、まさにその車椅子に乗ってラモンを訪ねて来た。

その訪問に感動し、歓喜するラモンの表情が印象的に映し出されたが、死を望むラモンの気持ちに変化がないことを知ったフリアは、彼に死の幇助を約束し、自らも命を絶つと言明したのである。

「心中」の決行日の特定を迫ったラモンに、フリアはラモンの著作の刊行した後で、それを遂行することを約束したのだ。

しかし、ラモンの著書がフリアから彼のもとに送られてきたとき、同封された彼女の手紙を読んだラモンは、その夜、自らを30年もの間縛ってきた暗い床の中で慟哭し、錯乱した。

その手紙に何が書いてあったか定かではないが、映像は間接的に、献身的な夫と共に生きることを選択したフリアの切々たる思いが、そこに書かれていたことを映し出していた。

ラモンはこのとき、二つのものを失った。

フリア
短い期間だったが、愛と呼べる淡い何かを共有したかけがえのないパートナーと、そしてそのパートナーと約束した死への道行きという、それだけは絶対失いたくないもの。

それは選択肢が一つしかないと括った男と、その男より選択肢が限定されることがないと翻意した女との、決定的なる落差でもあった。

加えて作り手は、「愛と死」という根源的問題を巡って柔和にクロスした二つの人格が、この機を境に対極的な関係性を露わにしていくことで強調されるだろう、中枢のテーマ性の切迫感を表現したかったと思われる。

ともあれ、この二つの枢要な、言わば、自我がなお拠って立つ切実な心のラインを、ラモンは同時に失ったのである。

ラモンにはもはや、ロサの存在だけが唯一の、死への旅路を約束してくれるパートナーになったのだ。

ロサはその禁断のカードを、自ら切ることをラモンに約束した。

その約束の地にラモンが向かうとき、家族との哀切な別離が情感たっぷりに描かれる。

家族はラモンの旅が何を意味するのかを知っているのだ。

ラモンを乗せた車が発進したとき、彼を日常的にサポートした甥が、その車を追い駆けていく。

観る者は、ここで感涙に咽ぶだろう。

しかし私には、こんなドラマティックな描写が目障りでならない。

感動を計算して作ったようなエピソードの連続に閉口するだけなのである。

ラモンの甥
観る者の涙を誘って、そこに安上がりなカタルシスを保証してしまったら、何も残らないのではないか。そんな不満が、私の中に終始付きまとって離れなかったのだ。

ラモンの後半生を貫いたその究極的なる思いは、ロサの直接的幇助によって自己完結した。

彼はその幇助に直接的、間接的に携わった人々への迷惑を配慮して、その最後のメッセージと共に、自死の現場をリアルタイムでビデオに収め、恐らく、そこに行けば何も残らないであろうと信じる世界に旅立った。

そして映像は、ラモンを認知できない状態にまで下降していったフリアの、そこに何の含みを持たない表情を映し出して閉じていく。


テーマとしては極めて重いこの映像の骨格は、最後まで不必要な贅肉を貼り付けた、鑑賞者好みのエピソード・ストーリーの流れのうちに括られていて、何か最も肝心な日常的なるものの描写によって、正攻法に勝負することを回避した印象だけが残されたまま、閉じていった。

それだけの映画だった。



3  削り取られた内的葛藤の軌跡、或いはその日常性



一体、この映画は何ものか。

何が語りたいのか。

そこで何を拾って、何を捨てたかったのか。

何かある種のもどかしさ、どうしてもそこに馴染めない違和感のようなもの、それでいて、どうしても言及せざるを得ないものが、そこにあった。自分の現存在と重厚にクロスするものがあったからだ。


この映画の作り手は、来日会見の際、以下のように語っている。

「人間と死を語るこの映画は、私にしか作れなかったでしょう。私の作品には常にそれがテーマとしてベースにありました。人間そのものや、生きる意味を与えるもの、そしてその意味を引き裂くもの、つまり死に興味があるのです。この映画が第一に描いているのは、旅です。生と死への旅。私は、これからも旅となる映画をつくります。」(ネットサイトAll About 「アレハンドロ・アメナーバル監督来日インタビュー」より)

アレハンドロ・アメナーバル監督
核心的なものを説明したつもりでいても、全く何の説明にもなっていない典型的な語りが、ここにある。

要するに、「絶対的な死の観念」に照射されることによって、「生」の意味が見えてきて、その価値が問われるということ。

唯、これだけのことを言ってるだけなのだ。

当たり前のことである。

別に持って回って言わなくても、こんなことは誰でも知っている。死が絶対であるが故に、「人生」という概念が成立しているということを。

確かに、死は日常的に語られない。

死を日常的に語らないのは、それが切迫していないからだ。

切迫していなくても、死が「人生」の終着点であること(「死の普遍性」)は、児童期以降の普通の人格を持つ者なら誰でも知っている。

しかし、死は誰も経験できないから、それはどこまでも観念の世界でしかない。

観念であるからこそ、人は死を恐れるのだ。

「死後の世界」などという宗教的な幻想を作り出すことによって、人は死への恐怖を緩和したり、時には、その「甘美なる誘(いざな)い」を美化したりさえする。

幻想は人の心に安寧を与えてくれるから、人は抱え切れないほどの種類の幻想を作り出していく。

人がそんな幻想の大いなる安寧によって鎮めたい最大のものは、死の観念以外ではないのだ。

人が死を経験できないのは、その死を記憶する能力が人間にないからである。その能力は、人間の自我である。死とは身体の解体であり、その身体の中枢に自我が存在するから、死とは結局、自我の死を意味することになる。

幻想を作り出した自我の死は、その幻想の一切を消滅させるに至る。それだけのことだ。

従って自我の死とは、あらゆる存在性の完全な消滅を意味する。「死後の世界」など存在しようがないのだ。

ところがこの監督は、「生と死への旅」などと語ってくれるが、それは一体何のことか。

「アザーズ」より
それが、「アザーズ」(注)という、「一回的な逆転劇の虚仮威(こけおど)しの妙」のみで成功した感のある、愚にも付かない映画で展開された、「生と死の自由なる往還」を意味するのだとしたら、この映像の主人公であるラモンの死生観と、明らかに矛盾する。彼は映像の中できっぱりと、「死後の世界」を否定しているのだ。


(注)2001製作のアメリカ映画。生者と死者が入れ替わってしまうという落ちに流れる、「シックス・センス」の如きホラー・サスペンスで、私から言わせれば、「生と死の自由なる往還」をゲーム化した、如何にもハリウッド好みの浅薄な映画にしか見えない。


恐らく作り手にとって、ラモンの死生観などどうでもいいのだ。

そこに一人の四肢麻痺患者がいて、彼が「死を切望する旅人」であるということだけが重大事なのである。

結局、この映画は、尊厳死を切望する男が、「安楽死」もどきの死を遂行するまでの緊迫した時間の中で、そこに様々にクロスした人々との愛や生の形を描き出そうとした作品であるという外はない。

要するに、それは尊厳死の問題をテーマにしつつ、その問題と真摯に対峙し、真っ向勝負した作品ではないのだ。

甥(左)と実兄(右)
ラモンの内側に深々と侵入し、その30年近くに及ぶ内的葛藤や、名状し難い苦悶の軌跡を一切省略し、且つ、尊厳死に向かわざるを得なかったであろう最も肝心な日常性の描写(例えば、排泄や清拭、鎮痛の訴えやそのケアなど)をも省くことで、そこで捨てられた黙視し難い描写の隙間に、大いなる叙情性が不必要なまでの旋律を奏でてしまったのである。

ここに、小奇麗にまとめ上げた、ハリウッドのマジョリティ好みのフラットな感動譚が誕生したのだ。

全ては、不治の病に苦悶する薄幸の弁護士、フリアとの出会いから始まった。

そのフリアをラモンに紹介した人権団体のジェネ。

そして同様に、自分の身を不遇と考えるロサ。

更に、ラモンの提訴をメディアを通して知って、直接、ラモン宅に説教しに来た四肢麻痺患者の神父。

このような人物がそれぞれの動機によってラモンに関わり、印象的なエピソードを綴っていく。

映画は、それぞれのエピソードの微妙な繋がりとその展開に重きを置き、実話に基づくラモンの、他者の幇助による自死までの重い時間の流れを描き出したもの以外ではなかったのだ。

どう見てもこの作品は、このようなエピソードのフラットな羅列によって構成されているとしか思えないのである。

辛辣に書けば、ラモンの死から逆算して、彼に重厚に、時には軽薄に関わってきた者たちの出現と、その発言やパフォーマンスに重点が置かれていて、最も肝心なラモンの内側の奥深い闇の世界が、そこに描き切れていないのだ。

肝心な描写の欠落が、観る者にラモン・サンペドロが抱えた闇の世界への理解を阻み、その人格総体に対する感情移入を塞いでしまったのである。

では観る者は、どこかで深い「感動」を期待するその思いを、どこに投げ入れたらいいのか。

その対象は、紛れもなく、ラモンを長きにおいて支えた彼の家族の心情以外ではない。

ラモンの介助を身を粉にして果たしてきた義姉のマヌエラ、寡黙だが、慈悲深いラモンの父、そして、ラモンの口笛の合図で彼のもとに直ちに駆けつける甥、更にその甥に、ラモンの裁判が認められたら自分の大切な身内を喪うことになるんだぞ、と怒って見せたラモンの実兄。

観る者は、この人たちの自己犠牲的なラモンへの思いや行動に、そこ以外にないという「感動」への渇望を充たしていくであろう。

即ち、この映画は、尊厳死を目指す当の本人ではなく、その周囲の者への感情移入によって支えられていると言っていい。

何のことはない。

この映画はラモンという、死を望んで死に向かわんとする者の、その薄皮一枚で繋がれた危うい生を基軸にして、それと関わった者たちの相対的な生の在り処や意味を、訳知り顔で問いかけただけの作品なのである。

この作品に著しく欠落した、ラモンの内的葛藤の軌跡やその日常性。

なぜ、そうなってしまったのか。

作り手の側に、その辺の深い関心や問題意識がないからである。

ラモンが映像を通して、かくまでに死を望み、絶対的に奪われた身体の自由への絶望からの解放の手段として、かくまでに尊厳死を渇望しながらも、特定のキャラクターを持った人物とのクロスにおける非日常的な描写ばかりで、表面的に一見、深刻な会話や薄暗い映像を流しても、それは死を望む者の闇の奥に迫れないカットを巧みに繋ぎ合わせただけの、実にフラットな描写の印象しか残さない凡作に終わってしまったということだ。



4  尊厳死の問題の最も奥深い闇



ラモン・サンペドロ氏
ここに、この映画のモデルとなった実在の人物、ラモン・サンペドロの原作がある。

それは、自らの身体の解体を、尊厳死によって終焉させようとする手立てとしての安楽死を渇望する者の、その魂の叫びであり、それについての深い形而上学的な考察の一篇である。

彼はそこで明瞭に書いている。

「死という選択肢 ―― 生きることの価値。それは、人間の感情を左右するさまざまな事柄に出くわしたときに、精神と肉体が快く一致し、調和しているという認識そのものにある。しょせん人は、死の恐怖から逃れることはできない。だから、生きることが苦痛になったとき、そこから解放されるための選択肢は、論理的にいって死以外にないのだ。生きることの価値が失われ、残るのは混沌のみだとしたら、再生に向けた唯一の活路は物質の解体だけなのである」(『海を飛ぶ夢』ラモン・サンペドロ著 アーティストハウス刊より)

同時に、この著作は、彼の望みを奪う者たちへの激しい怒りの記録でもある。

彼は、死を望む四肢麻痺患者に鎮痛剤を投与する医療に対して激しく糾弾する。

「そうして苦痛でのた打ち回るたびに、鎮痛剤の投与量が増やされていくのだ。これでは、患者の意識の自由など、おかまいなしではないか!こうして人は『社会復帰』させられ、飼い慣らされていく。要するに、受け入れろ、さもなくば狂え、というわけだ」(同上)  

一貫してこの一篇は、長きに渡る彼の生と死に関する考察であり、そこで結論付けられた安楽死への強靭な意志を連綿と綴った、そのマキシムな感情の表出だった。

しかしそこには、彼の日常性の記録がすっぽりと欠落していた。

彼は日常性への記述よりも、なぜ自分が安楽死を望むのかという形而上学的、且つ、法的根拠を縷々(るる)記述することの方が遥かに切実だったのである。

映像の作り手は、この原作に相当触発されたと考えられる。

その脚本化に当って、ラモンの家族の入念な取材を果たし、その家族の承諾を得て実名の映像化に踏み切っている。監督自身は、実話をベースに、そこに多分に創作性を持たせた映像を作り上げたと語っていた。

しかし、日常性の記述がないラモンの原作に創作性を加えた映像を作っても、そのまま、ラモンの心の真実を投影されたものにはならないのである。

ラモンが日常性に言及しなかったのは、それ以上に訴えたい何かが彼の中にあったからに過ぎないのだ。

では、ラモンにとって、何が一番問題だったのか。

脊髄損傷という不治の病によって身体の絶対的自由を奪われた現実それ自身と、たとえ相手が自分に対して善意や好意でアプローチしてきても、他者の介助によってしか成立しない自分の生存性を保障するために、しばしば、心にもない微笑によって反応せざるを得ないような関係の隷従性の意識と、更にそのことが、人間が人間であることの尊厳的な価値を自らのうちに見出せなくなったという、まさにその現存在性の問題であったと考えられる。

しかも、この苦渋な時間が30年近く続いたのである。

その限りなく拷問のような時間の中で、彼は尊厳死を切実に求めたのだった。

恐らく、それは時の流れと共に膨れ上がっていって、もう自分では制御し切れないほどの慟哭を堆積してきたに違いないのである。

だからこそ映像は、その堆積してきた慟哭の重みを描き出さねばならなかったのだ。

そこにこそ、尊厳死の問題の最も奥深い闇がある。

映像はその闇に遂に届かなかったのである。



5  「人間らしさ」の喪失



ここで、尊厳死の問題に言及してみよう。

本稿が、「人生論的映画評論」のカテゴリーに含まれるという理由である以上に、何よりその問題が、一応、本作の中枢的テーマの一つであるからだ。

映像から離れて、今回も、この類の厄介なテーマに言及しようと思う。

尊厳死とは、そもそも一体何なのか。

一言で言えば、人間が人間としての尊厳を保って死に臨むことである。

ここで言う尊厳とは、「人間らしさ」を保持している状態を意味する。

では、「人間らしさ」とは何か。

厄介な概念だが、私はそれを「自我が精神的、身体的次元に於いて、統御可能な範囲内にある様態」という風に考えている。

例えば、耐え難いほどの肉体的苦痛が継続するとき、間違いなく自我は悲鳴を上げ、その苦痛の緩和を性急に求める。しかし、その緩和が得られないとき、その自我は確実に抑制力を失い、破綻の危機を迎えるだろう。

或いは、身体の四肢麻痺状態が、その身体の死に及ぶまで永久に続くことが回避できないとき、その患者は自分の身体の介助を他者に絶対依存しない限りその生存の保障はない。

従ってその患者は、自らの身体の清拭を他者に依存するばかりか、排泄の全面的な介助をも求めざるを得ない。

カテーテルによる排尿を世話してもらったり、糞便の処理まで依存することになるのだ。

たとえそこに、相手の善意を感じ取ることができたとしても、「絶対依存」とも言える、その現存在性を30年近く継続させてきて、機能を失った殆ど別の物体と化した自己の身体に一貫して馴染むことができず、更にその自我が、それ以前から作ってきた自己像との矛盾を克服できないとき、人はそこに、自らの人格としての尊厳を受容することが可能だろうか。

延命治療
「人間らしさ」の喪失とは、以上の例で明瞭である。

即ちそれは、自我が自らの現存在性と折り合うことができない状態のことであり、まさに、その折り合いのレベルこそが人間の尊厳の度合いであると言っていい。

私たちが人間の尊厳について定義するとき、どうしてもそこに抽象的なニュアンスが含まれてしまうのは、個々の尊厳観が微妙に異なり、極めてその相対度が高いからである。

そこにこそ、尊厳死の問題の難しさと深淵さがあるのだ。

それにも拘らず、尊厳死の問題と重厚に脈楽することを否定し難い現象がある。

「耐え難き肉体的、精神的苦痛」の状態がそれである。

なぜなら、人がその状態に置かれたとき、自我がその状態を統御し得る限界を突き抜けてしまうからである。



6  尊厳死という選択肢しか持ち得ない男の「絶対状況」



ここで、映像の主人公の場合について考えてみよう。


ラモン・サンペドロは、治癒の見込みのない四肢麻痺患者である。

病名は重度な脊髄損傷。

しかし、脊損の医療的アプローチが限られている現在、彼にどのような治療的なアクセスが可能なのか。

はっきり言えば、痛みを若干緩和するための投薬と、筋肉の硬縮を防ぐための形ばかりのリハビリしかないのである。

ラモンにも、薬を服用するシーンがあった。

フリオからの手紙によって精神錯乱状態になったとき、安定剤を多量に飲むシーンがそれである。

脊損患者にとって、安定剤は鎮痛剤の役割をも果たす。寧ろ鎮痛剤として、安定剤や抗鬱剤を飲むケースが多いからだ。

しかし映像で見る限り、ラモンは激しい肉体的苦痛を訴えている様子はない。

彼は完全麻痺患者だから、不全麻痺の私などに比べれば、痛みの訴えは少ないかも知れないが、それでも痛みがない訳がない。

現に彼の著書には、若干だが痛みに触れた部分もある。

その辺に関して作り手の想像力が及ばないのは、脊髄損傷という病気の凄惨さについてあまりに無知であるか、それとも関心がないかのいずれかである。

恐らく、ラモンには「耐え難き肉体的苦痛」というのはなかったであろう。

しかし安定剤を飲むシーンに象徴されるように、かくまでに尊厳死を希求するラモンの思いの根柢に、人間の尊厳性に関わる自己像の受容度に対する意識が欠落していることは間違いない。

それは当然の如く、自分の身体に別の物体を貼り付けているという存在性への否認意識であり、そのことによって喪失した身体表現的自由への絶望的な諦念が、詩作などでギリギリに持ち堪えていた彼の自我を、復元力を持たないほど破綻させてしまったのであろう。

このときの、尊厳死という選択肢しか持ち得ない彼の「絶対状況」は、同じ脊髄損傷患者としての私には手に取るように分るのだ。

それにも拘わらず、彼のその願いは、言わずもがな、彼の国では却下されざるを得ない。

彼の死は、必然的に尊厳死を目指した自殺以外の何ものでもなくなってしまうのだ。

他者の幇助によるラモンの自殺が安楽死であったかどうか疑わしいが、少なくとも彼の死が、所謂(いわゆる)、安楽死の絶対要件を充たしていないことは事実である。

確かに彼の死は自らの意志に基づくものだが、しかし彼の疾病の状態が終末期的なものでも、或いは、「耐え難き肉体的苦痛」を日常的に訴えるレベルのものでもなかった。

このような要件を充たしていない者に、たとえ、それが尊厳死を目指すものであったとしても、安楽死の法的認知を付与することは困難であるに違いない。

ところが、ラモンのようなケースにおいても、安楽死を認知する国家がある。オランダである。

そのオランダに対して、ラモンがどのように見ていたかについて、その辺の記述がないので不分明だが、しかし、アメリカで近年話題になったキボーキアン医師(1998年までに、120件以上もの安楽死を実行し、医師免許を剥奪された)を称賛していることでも分るように、ラモンは彼の本国アメリカに出向くことが困難であったから、せめて、オランダの国民であることを願っていたに違いないようにも思える。

ラモンの母国、スペインにも安楽死協会が存在するのだが、当然の如く、カトリックの安楽死否定論に阻まれた。そして彼は1998年に、30年間に及ぶ四肢麻痺生活に自らの堅固なる意志で閉じたのである。


本稿の最後に ラモンの安楽死事件に言及したスペイン紙の記事の翻訳があるので、これを引用させて頂くことにする。オランダやアメリカの安楽死の現実にも言及しているので、興味深いと思われる。


「非合法な安楽死 1998年1月14日エル・パイス

安楽死の権利を法的に主張した最初のスペイン人、ラモン・サンペドロ氏が先週の月曜日コルーニャのボロイで死亡した。恐らくは誰かの手助けを得ての事であろう。

この人物は50代で、25才になるかならないかの頃に首から下が麻痺状態となりこの何年か死を嘆願していた。何らかの方法で自殺する事は可能であったが、個人的な問題で終わらせる代わりに安楽死の合法化の為の要求に変える事を選んだ。

積極的な安楽死が禁止されているスペインで、90年代を通じ自分の立場を憲法裁判所やストラスブルグの人権裁判所に訴えた。
両裁判所は彼の居住地域に該当する審級裁判所に提訴するよう申立書を彼に送付した。結果的に解決は図られなかった。

積極的安楽死は世界中で引き続き犯罪と見なされている。ただ、オーストラリアの一地域(北ダーウィン)とアメリカのオレゴン州だけは住民投票で承認され、僅かな期間だが合法とされた。しかし、米国では連邦裁判所が1994年の州法を違憲と判断し、オーストラリアでは中央議会が昨年3月に、ダーウィンの決議案を廃案とした。現在の所、消極的安楽死---つまり人工的な延命(いわゆる残酷治療といわれる)の処置を行わない事で死に至る安楽死---だけが認められている。

他の諸国同様スペインの刑法でも、死を願う病人に手助けをする事を禁じている。そして果てしなく続く苦痛や、植物状態で生き長らえる事には見て見ぬふりをしている。

この様な苦痛をラモン・サンペドロは30年近く受けつづけて来た。

オランダでは積極的な安楽死は非合法だが、ある法律を儲けている。ある一定の条件下で医師が処置を行なわれたものであれば、医師の刑事責任は免除される。一定の条件とは、患者の度重なる要求を叶えるため、大きな苦痛からの解放、或いは回復の手立てが全くない状況などである。先入観とは別に、安楽死の合法化が危険であるとして合法化を遅らせてきた。

客観的な理由は基本的に次の二つが掲げられる。

一つ目には、病人が決断を下す際に主治医や家族の影響が入る可能性。二つ目は、末期患者に当てるコストを節約する傾向が医療システムに起きる可能性。その結果患者が死を求めるよう仕向ける恐れがあるという事。

オランダ、オーストラリアそしてアメリカでも慎重な手続きで、安楽死が患者の正当な意思を現実化するためのもの以外に使われる事を防ぐ十分な研究がされている。

ラモン・サンペドロの場合、彼の死が誰かの助けによるものならば、合法的な行為の結果ではないだろう。

しかし、倫理的にかなった人間的な行為の結果であると指摘出来るであろう。刑法第143条の適用の結果として、もし誰かがラモン・サンペドロの絶望的な願いを聞き入れたのなら、禁固3年の判決を言い渡される可能性がある。現行法はこの様に無慈悲なものなのである。

しかし、協力者と推測される者を刑務所に送る前に、判事達はもっと他のことも考慮しなければならないはずである。日々、ますます、責任感のある模範的な医師達が尊厳死を選んだ患者達の手助けを秘密裏に行っているのだ。先進国の死者の2%がすでにこの方法で推移している。積極的な安楽死、常に必要不可欠な保証を備えた安楽死、その安楽死の合法を延期する事は理由もなく苦しみを引き延ばし、或いは非合法も暗闇に尊敬と同情の行為を追いやる事に等しい』(ネットサイト「periodico 」より、スペイン紙翻訳文引用/筆者段落構成)


このスペイン紙が、果たして同国の世論をどこまで反映しているか不分明だが、少なくとも、ラモンの死に対して同情的な一文を寄せていることは印象深い。

しかし、これだけは言える。

ラモンの国がいつの日か安楽死を法制化するに及んだとき、その間に何人もの、或いは、何十人ものラモンのような死を積み重ねていくことが不可避となるであろうことが。


【余稿】

敢えて傲慢な物言いをすれば、私だったら、このような映画を作るとき、ラモンの一日の日常的様態を淡々と、感傷を排して入念に描くことを描写の中枢とし、そこに必要なだけのカットバックを取り入れて、限りなくラモンの内面に迫る映像化を目指したであろう。

なぜなら、そんな苛酷な一日を追うことで、それが30年にも及ぶ時間の長さの圧倒的絶望感を表現し得たに違いないと考えるからだ。

(2006年2月)

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