チャールズ・チャップリン監督
「チャップリン映画」の中では、最も好きな作品。
金鉱を求めてアラスカの雪山で苦労する男たちの話に、滑稽なラブストーリーが絡んで、極めて完成度の高いチャップリン喜劇が誕生した。
嵐によって自分たちの小屋が断崖の縁まで飛ばされて、その小屋の中で右往左往する、大男と小男のエピソードの可笑しさは絶品である。
これが1925年に作られたとは信じられないほど、そのしっかりとしたストーリーラインと、チャップリンの自作自演の腕力の確かさに脱帽してしまうのだ。笑いとペーソスとハッピーエンドというコメディの常道を、決して外さないチャップリンの映像群は、サイレントの世界の中にこそ輝きを放っていたと言えるだろう。
晩年に作られた作品の悉(ことごと)くが本来のパワーを持ち得なかったのは、
自在なる身体表現としての「チャップリン」に集中的に被せられたイメージの生命が、サイレントムービーの時代の範疇の内に、あまりに過剰に定着してしまったからである。
つまり「チャップリン」は、サイレントムービーが表現し得るであろう最高達成点に届いてしまったのである。
「チャップリン」は、この時代に生きた人々にとって、特上の娯楽であり過ぎたのだ。
「チャップリン」の普遍性は、宇宙にまで行くことが可能な時代に生きる、私たちの文化遺産であることによって証明されているが、「人格としてのチャップリン」が年老いて、高度な内面表現に勝負をかけた感の深い、『ライムライト』のカバレロに変貌していくとき、そこに、ある種の違和感を覚えてしまうのは、私たちが
自在なる身体表現としての「チャップリン」に馴染みすぎてしまっているからである。
私たちは人格としてのチャップリンに、恐らく、『ライムライト』の哀切さを求めていないからだろう。
チャップリン映画の中では珍しく、大規模ロケーションを敢行(天候不順などの理由で失敗したが)するほどに、相当の気合いを込めて創り上げた大傑作 ―― 「チャップリンの黄金狂時代」に集中的に表現されている映像的イメージこそ、今なお、私たちは求め続けてしまうのである。
(2006年1月)
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