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2008年12月2日火曜日

雨月物語('53)     溝口健二


 <本来の場所、本来の姿――「快楽の落差」についての映像的考察>



1  夜の琵琶湖の不吉



「『雨月物語』の奇異幻怪は、現代人の心にふれる時、更に様々の幻想をよび起す。これはそれらの幻想から、新しく生まれた物語です」

これが、映画「雨月物語」の導入となった。

「戦国時代、ある年の早春。近江国琵琶湖の北岸・・・」というキャプション(映像字幕)で、物語が開かれていく。

信長死後、秀吉と柴田勝家の賤ヶ岳の合戦(注1)が近江の国を舞台に激しく争われていた。それは戦国乱世がまもなく終わろうとする頃の、最も激しい時代の息吹を伝える、殆ど最後の戦いでもあった。しかし民衆たちはまだ戦乱の中にあって、生活のため、立身のために、それぞれの思惑で時代と関わりあって生きていたのである。


(注1)1583年、賤ヶ岳付近で羽柴(後の豊臣)秀吉と柴田勝家が、織田信長亡き後の覇権を賭けた戦い。この戦国乱世の権力闘争の結果、柴田勝家が敗れて自害し、秀吉の全国制覇への基礎が築かれた。


近江の陶工源十郎は、生活のために自ら作り貯めた陶器を売り捌(さば)く目的で、町に出て行こうとしていた。しかし彼の義弟藤兵衛は、まさに立身のために、女房の阿浜(おはま)が止めるのも聞かず、地道な生活を捨てようとしていた。

時はまだ、兵農未分離の時代だったのである。

「大きな望みを持たずに、出世ができるか!望みは大海の如しか・・・俺もつくづく貧乏が嫌になったんだ。兄貴、俺も一緒に連れて行ってくれ、頼む!」
「まだ言っているのか。つまらない望みは捨てろ」

源十郎も制止するが、籐兵衛の気持ちは変わらない。

二人は結局、町に出て行き、源十郎はまもなく、大金を持って笑顔の帰宅をする。

家には、妻の宮木(みやぎ)と息子の源市が待っていた。

家族の団欒がひらかれるが、籐兵衛は侍になる志を遂げられず、惨めな帰宅をしたのである。侍になるには、「具足(注2)と槍が必要だ」と言われて帰って来たのだ。惨めな帰宅を果たした夫を、妻の阿浜は詰るだけだった。

源十郎と宮木
一方、濡れ手で泡のような大金を手にした源十郎は、金の亡者になっていた。

彼は来る日も来る日も、陶器を作り上げていく。もう一度大金を得るためだ。そんな夫を横目にして、妻の宮木は不安でならない。

「まるで人柄が変わったように気ばかり焦って、私は夫婦共働きで気楽に働いて、三人楽しく日を過ごすことができればと、そればかりを願っているのです」

籐兵衛もまた、義兄の仕事を手伝って、懸命に働いている。彼は再び町に出て、侍になる思いを遂げたいのである。


(注2)色々な意味があるが、ここでは単に、武具としての甲冑(鎧や兜)のこと。


そんな中、彼らの部落に柴田の残党が押し入って来た。

源十郎たちは山に避難し、陶器の破壊も運良く免れた。

この一件があって、遂に彼らは部落を出ることを決心したのである。

小舟に乗って、夜の琵琶湖を静かに櫓を漕いで行く。

モノクロの画面に、霧に霞む幻想的な湖の風景が映し出されていた。小舟の中で、男たちは相変わらず欲深い会話を続けている。

そこに、一艘の小舟が近づいて来た。船の中には、海賊に襲われた瀕死の船頭が乗っていた。

「女は気をつけろよ・・・」

この不吉な言葉が最後となって、その船頭は息絶えた。

「戻りましょう。これはきっと、行ってはいけないという印です」

宮木の言葉に、源十郎は答えた。

「女は岸に戻そう。俺たちは運を天に任せる」
「行かないで下さい・・・」と宮木。
「あたしは行くよ。この人は眼が離せない」と阿浜。
「女はさらわれるぞ」と藤兵衛。
「そのときはそのときだ」と阿浜。
「どうでも行くなら、私も行きます。どこまでも連れて行って下さい」と宮木。
「お前には、源市がいる」と源十郎。
「連れて行って下さい」と宮木。

緊迫した状況の中での、四人の会話。

これが、船の上で飛び交っていた。

結局、源十郎と藤兵衛夫妻が町に行くことになった。

途中の村には、宮木と源市母子が残されることになったのである。



2  魔境の世界に拉致されて



大溝の城下町(注3)。

その市に、源十郎は自信作の陶器をずらりと並べていた。

次々にそれを求める町の民。源十郎は満足げに、自らの商売に身を入れている。

そこに笠を被った一人の美女が現われた。傍らの老女が陶器を注文したあと、言い添えた。

「この山陰(やまかげ)の朽木屋敷に届けてくれますね。お金はそのときにお払いします」

有無を言わせない相手の求めに、源十郎は承諾するしかなかった。

一方、藤兵衛は城下町を走り抜けていく侍たちを見て、陶器の稼ぎを具足と槍に変えてしまった。藤兵衛を追って、必死に止めようとする阿浜。彼女は夫を見つけられず、落武者らしき男たちに暴力的に拉致され、犯されてしまうのだ。

「馬鹿野郎、見るがいい!私のこの姿を。女房がこんな目に遭わされて、さぞ満足だろう!それで出世ができれば、お喜びなんだろう。藤兵衛の大馬鹿野郎!」

町の外れのお堂に一人取り残された阿浜は、自分の立身しか考えない夫を呪うしかなかった。


(注3)現在、琵琶湖の北西側に位置する滋賀県高島市に、大溝藩の城下町の遺稿が残る。因みに、本作の源十郎が若狭と夢幻の時を過ごした朽木屋敷は、今も冬のスキーを楽しむ朽木地区としてその名を残している。(高島市HP参照)


源十郎は、老女と美女の案内を受けて、朽木屋敷に入って行った。

見るからに寂れた風情の場所に、そこだけは眩い輝きを見せる屋敷の屋内の静寂な佇まい。

美女の名を若狭と紹介され、源十郎は手厚い持て成しを受けることになった。

源十郎の眼の前に若狭が立ち、彼の手を取って、持て成しの場所に移された。若狭は源十郎の身分や名を知っていて、驚かされるばかりだった。

「これは、私が作った物ではありませんか?」と源十郎。
「あなたの焼いた器で、お酒が頂いてみたくなりました」と若狭。

「こんなお方のお眼に留まって幸せな奴だ。百姓の片手間の仕事ではございますが、自分の拵(こしら)えました物が、子供のような心持が致しまして、大事にかけて下さるお方がありますと思うと、嬉しくてなりません。しかもこんなご立派なお座敷で、あなた様のような美しいお方のお手に触れるかと思うと、夢のような幸せでございます」

「いいえ、私のような落ちぶれ者にかかっては、心を込めたお作が泣きましょう」
「自分の作った物が、これほど美しく見えたのは初めてです・・・人も物も所によって、こうも値打ちが変わるものか。茶碗も皿も立派なお座敷に出世をして、まごついています」
「あなたの腕は、貧しい片田舎に埋もれて終るものではありません。あなたは持っている才を、もっと豊かにしようとお思いにならなければ・・・」
「それには、どうすれば宜しいのでございましょう?」
「若狭様とお語らいになされば良い。またと言わず、この折に、お契りになされたら良い」

傍らにいた老女が、源十郎と若狭との契りを促したのである。

妖艶な若狭が源十郎に縋りつき、男がそれを受け入れようとすると離れる若狭。まもなく酒宴が始まって、男の前では若狭の舞が披露されている。

二人が契りを結んでいくまでの描写は幻想的で、まるでこの世の生業(なりわい)とは無縁な、闇の中の超越した時間がそこに映し出されていた。

そんな中での老女の言葉。

その言葉の背後に、若狭の父の歌が哀感を込めて重なっている。

「朽木の一族は、織田信長のために、憎むべき信長のために滅ぼされました。後に残りましたのは、この姫様と乳母の私だけです。先殿様のお心は、今もこの屋敷に留まわれ、姫様が舞われますと、このようにお歌いなされるのです。良いお声でございましょう。姫様のご祝言をお喜びになっておられるのです」

源十郎が覚醒したとき、傍らに若狭が佇んでいた。二人は契りを結んだのである。

若狭は男を湯浴みに招いて、男の耳元で囁いた。

「でももう、あなたは私のものになりました。これからは、私のために命を尽くして下さらなければいけません」

源十郎は未知なる快楽ゾーンである、朽木屋敷という名の「桃源郷」にその身を預け入れてしまった。

常に傍らには、絶世の美女の若狭がいる。まるで身分の違う二人が、そこで夢幻の時を重ねているのだ。男だけは、至福に充ちた思いを重ねていると信じているのである。

「・・・天国だ」

源十郎と若狭
男はもう充分に、異次元の魔境の世界に拉致されてしまっていた。



3  欲望の果てに辿り着いた世界で



一方、源十郎の妻の宮木は、落武者たちの理不尽な暴力に怯える日々を送っていた。

息子を連れた母が、一路、故郷を目指している。しかし峠の裏道で、宮木は落武者に襲われて、槍で一突きにされてしまったのである。

映像は、妻子の悲劇をそれ以上追わないが、その描写が映像の重要な伏線となっていくであろう物語の流れ方を、観る者に想像させるに足りるものであったと言える。

また、藤兵衛は落武者の一人を槍で突き殺し、その男が抱えていた大将の首を横取りし、それを味方の陣営に運んだのである。

「下郎、身分不相応な大将首を拾ったのう?」
「いいえ、拾ったんではありません!私が突き殺しました!」

藤兵衛は懸命に弁明するが、相手は信用しない。

藤兵衛
それよりも大将首を届けたという事実を評価して、彼に馬と鎧と家来を与えたのである。まさに戦国乱世であった。

まもなく、家来を引き連れて、馬に乗った鎧の武者が城下を通り過ぎていく。藤兵衛である。藤兵衛は家来と共に、城下にある遊女屋に立ち寄って、根拠のない手柄話に花を咲かせていた。

あろうことか、そこで偶然出会ったのは、女房の阿浜だった。

「随分、偉くなったようだね。夢に見ていた手柄立てて、立派な侍になることができたんだね。お前が、お前が出世している間に、あたしこんなに出世をしたよ。こんな綺麗な衣裳を着て、紅、白粉を濃く塗って・・・好きな酒をたらふく飲んで、毎晩違う男と寝ているよ。立派に女の出世じゃないか・・・さぞ満足だろう?本望だろう?人が偉くなるためには、嫌な辛抱をしなけりゃならなくなる。女房がこんなに落ちぶれても、お前が出世をすりゃ、それで皆、帳消しさ。さぁ、今夜お前もお客になって、功名立ててもらった褒美に落ちぶれ女を、このあたしをお買いよ!」

阿浜は、これまでの鬱憤を全て晴らすかのように、藤兵衛に向って激しく捲(まく)し立てた。藤兵衛は必死に弁明するばかり。

「阿浜、立身も出世も、お前がいればこそだ!」
「嘘だ!侍になれれば、あたしなんてどうなってもていいと思っていたんだろう!」

そう叫んで、井戸に身を投げ入れようとする女房を、藤兵衛は抱き止めて、必死に弁明を繰り返した。

「立身すれば、褒めてくれると思ったんだ。俺は、お前がこんなになってるとは知らなかった」
「あたしは穢れてしまったの!皆お前の罪だ!元のあたしが現われることができるかい・・・それができなければ、あたしは死んでしまうだけだ」
「できるとも!きっと元のお前にする!」
「幾度死のうと思ったか分らないのに、もう一度会わなければ死に切れなかったんだよ!」

女郎屋の隅での、夫婦の激しくも、切ない遣り取りが続いていた。

藤兵衛の言葉がどれほど真実であったか疑わしいが、しかし、彼が落ちぶれ果てた女房を見て、激しく後悔したことだけは疑えないだろう。

自分の欲望の果てに辿り着いた世界で、同時に男は最も大切なものを失ったかも知れなかったからだ。



4  夢魔の世界から切れて



そして、ここにもう一人、藤兵衛と同じような思いに辿り着こうとしている男がいる。源十郎である。

彼は旅の僧に、「顔を見せて欲しい」と話しかけられた。

「お前の顔には死相が出ている。何か妖しい者に会いはしなかったか?」
「いいえ、別に」
「お前は、家はないのか?妻子はないのか?お前を頼りにする者があるなら、早く帰れ。この上、彷徨(さまよ)うていたら、命がない。早く帰りなさい」
「なぜでごさいますか?」
「訳はない。命がなくなるのだ」
「私は今、朽木屋敷で若狭様と楽しい日を過ごしているんでございます」
「それが死霊じゃ」
「バカバカしい・・・」
「お前は、望んではならぬ恋を望んだのじゃ。妻子が愛しくはないのか?妻子も命も捨てるのか?・・・待ちなさい。それほど行きたくば、行くがよい。だが、みすみす取り殺される者を見捨ててはおけぬ。死霊を払ってあげる。来なさい。その眼で、その耳で、しかと死霊の恐ろしさが分れば夢も覚める」

僧侶の話を真剣に聞くものの、その場を立ち去ろうとした源十郎を、その僧侶は職業的使命感によって呼び止めた。僧侶は男に死霊払いを施したのである。

死霊払いを施された男は、朽木屋敷に戻って行った。

いつものように若狭が待っている。その若狭のために、美しい衣裳を贈ったのである。

「何やら、お元気のないお姿。どうなされました?」

源十郎の異変に気づいた老女は、男に命令口調で言い放った。

「もう外へ出てはなりませぬよ。御一族が滅ぼされてしまいなさると、私どもを侮り蔑み、あらぬ雑言を吐くのです。浅ましい世の中」
「源十郎様、あなたをもうどこへもやりたくない。ね、この屋敷を捨てて、私の国へ参りましょう?源十郎様は、私の生涯の夫。行ってくれますね?」
「許して下さい!私は、私は、嘘をついていたのです。私には妻や子供がいます。国に、戦の中に、残してきたのです」
「そのようなことは、もう忘れておしまいなさい」
「帰らせて下さい」
「いいえ、返しませぬ」

女は妖気を漂わせて、男に近づいていく。男は逃げる。女はそれを追う。

しかし女は、男の肌に違和感を覚え、咄嗟に離れていく。男の背中には、僧侶が書いた経文が広がっていた。女はそれを恐れたのである。

「妻子がありながら、なぜ契りを交わされた!男は一旦の過ちで済もうが、女は済まん」
「お許し下さい!私を国元に返して下さい!」
「いいや、返さぬ!」

老女の鬼気迫る態度に、男は土下座するだけ。

「・・・若狭を、いつまでもお傍に置いて頂きとうございます」 

若狭は一人の女に戻り、男に哀れみを願う。老女も若狭に合わせて、律動を少し緩めていく。

しかし男の中では、もう夢幻の世界から身も心も解き放たれていた。

男は抜刀して、辺り構わず暴れまくる。暴れまくった男は、やがて意識を混濁させ、夢魔の世界から切れていったのである。



5  本来の場所、本来の姿




男が覚醒したとき、そこは朽ち果てた屋敷を覆う、見渡すばかりの雑草の世界。男はそこで始めて、自分が棲んでいた異次元の世界の恐怖に立ち竦んだ。

男にはもう、帰るべき場所は一つしかなかった。

その場所を求めて、男はひたすら疲弊した体を運んでいく。男が遂に辿り着いた場所、そこは妻子の待つ我が部落の寂れた家屋だった。

「宮木!宮木!」

男は廃屋のような我が家に戻って、必死に妻を捜し求めた。妻の宮木は囲炉裏端で夕餉の支度をしていた。唐突な夫の帰還に驚いた妻は、夫の懐の内に飛び込んでいく。妻を抱き止めた夫は、心の底から自らの思いを吐き出していく。

「さぞ、心配しただろうな。無事で良かった!本当に無事で良かった!源市は?抱かせてくれ」

源十郎は、布団にくるまっている一人息子を抱き上げて、改めて妻に許しを乞うた。

「もっと、立派な土産物を二人に持ってきてやろうと思った・・・俺は大変な過ちを・・・」
「何もおっしゃいませんで。あなたは無事に戻って下すったんですから」
「眼が覚めた!お前の言うとおり、俺の心は歪んでしまっていた・・・」
「もう、そんなお話はお止めになって。さぞお疲れでございましょう。さぁ、お酒もできております・・・」

号泣する夫に、それを包み込む優しい妻。

夫は妻の差し出す酒を一気に飲み込んだ。格別な酒を味わった夫は、ようやく安堵した心を懐かしき場所に投げ入れていく。

「心が、晴れ晴れとした・・・静かだな・・・どこへ行っても、気持ちの落ち着く日は一日もなかったが、戻った・・・戻った・・・」 

男はこうして夢魔から解き放たれて、本来そこにあるべき普通の日常性に戻っていった。傍らでは、心優しき妻が着物の綻びを繕っていた。男だけがそれを知らない。

この時代の中で極めて不安定だが、しかし、そんなリスキーな日々に馴致した者たちのいつもの朝がやって来て、そこでのみ居場所を確保し得るだろう男がようやく覚醒した。村の名主が人の気配を感じて、廃屋を訪ねたのである。

「源十郎!帰ってたのか」
「ええ、どうも留守の間、いろいろお世話になりまして・・・」

名主は、布団で休んでいる源市の元に歩み寄って言葉をかけた。

「ああ、いたいた!坊主、どこへ行ってると思って心配していたら・・・ああ、良かった!良かった!お前が帰っているのがすぐ分ったんだな」

源十郎は妻を起そうとして、名を呼んだ。しかし妻からの反応はなかった。名主は訝(いぶか)しげな表情を浮かべて、源十郎に問いかける。

「源十郎、お前夢でも見ているのと違うか?」
「夢?」
「宮木は落武者に殺されたよ」
「え?殺された?」
「まあ、無事でいてくれりゃあ、どんなに喜んだか知れないと思うんだが、可哀想に・・・南無阿弥陀佛、南無阿弥陀仏・・・・宮木が死んでから、この子はわしが引き取っているのだが、急に見えなくなったから、夕べから大騒ぎだ。親子というものは争えんものじゃな。お前が帰って来たのを、この子がどこで知ったのかな?」

名主の話が全てだった。

何もかも夢だった。夢でなかったのは、息子の源市の元気な姿だけだった。異次元の夢を見た男は、その夢から覚めた後も、最も哀切なる夢を見てしまったのだ。

一方、源十郎と時を同じにして帰郷した藤兵衛は、妻の阿浜の前で、侍の槍刀の一切を村の川に投棄した。

「いくら言ってもお前さんはバカだから、自分で不幸せな目に遭わなきゃ気が付かなかったんだね」
「戦が、俺たちの望みを歪めてしまったんだ・・・」
「あたしの苦労を無駄にしちゃ嫌だよ。しっかり元気を出しておくれね」

儚(はかな)い夢を追いかけて破れた男は、今、妻の言葉を噛み締めて聞く耳を持つことができていた。彼らの帰郷は、或いは、失ったものよりも、手に入れたものの方が大きかったと言えなくもないのである。

藤兵衛と阿浜の夫婦に比べて、源十郎が失ったものはあまりに大きかった。

「なぜ死んだ、宮木・・・なぜ死んだ・・・」

妻の墓に、腑抜けとなった男が蹲(うずくま)っている。そんな男を励ますような妻の声が、男の耳に柔和に侵入してきた。

「死んではおりません。あたしはあなたのお傍におります。あなたの迷いももう消えました。本来の場所で、本来の姿に戻るのです。さあ、早くお仕事を・・・」

男にしか聞こえない妻の声。

男はこの声に動かされるようにして、本来の場所に戻り、本来の姿を取り戻し、かつてそうであったような日常性を作り直していった。妻の声は、陶器を作る男の耳に今でも届いている。

「まあ、綺麗な形だこと!こうして轆轤(ろくろ)のお手伝いをしているのが、楽しくてなりません。早く焼きあがったところが見たい。薪は割ってあります。もう乱暴な兵隊もいません。安心して、立派な焼き物を作って下さい・・・色々なことがありましたねぇ・・・今あなたが、やっと私の思うお方になってくだすった、とそう思ったとき、私はもう、この世の人ではなくなったのです。これが世の中というものでしょうね・・・」

この妻の声を心の糧にして、男は心穏やかに、黙々と作陶の仕事に励んでいく。


*       *       *       *



6  「女性=犠牲者」という、憐憫にも似た表面的把握



この映画の主題は、あまりに明瞭である。

陶器を市場で売ってしこたま稼いで帰郷した源十郎が、その後、眼の色を変えて陶器作りに励むことになった。

それを手伝う源十郎の妻、宮木が放った言葉。 

「まるで人柄が変わったように気ばかり焦って、私は夫婦共働きで気楽に働いて、三人楽しく日を過ごすことができればと、そればかりを願っているのです」。

この直截な台詞の内に託された作り手のメッセージは、要約すれば、「地道に生きろ」という言葉に尽きるだろう。

本作は、地道に生きることから離れていった二人の男が、遂にそのペナルティを受けて、彼らが本来そこに拠って立って、呼吸を繋ぐべき場所に戻っていくまでの、些か説教臭いが、しかし説得力を持つ脚本の鋭利な切れ味によって、一級の人間ドラマに仕上がった映像であった。

そんな作り手のメッセージの中に、日本人的な無常観が内包されることで、海外での高い評価を受けることになったと思われる。

しかし残念ながら、作り手のメッセージに奥行きのある含みが感じられなかったのは、「この国の男どもは、観音菩薩であるべき女たちをあまり泣かすな」という、身も蓋もない短絡的な、「女性=犠牲者」という憐憫にも似た表面的把握が、本作にべったりと張り付いていたからではないか。

「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」より
それは、新藤兼人の「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」という記録映画でも紹介されていたが、溝口健二の私的経験が、本作にも存分に反映されていたことは否めないだろう。

もとより、彼の女性に対するある種の贖罪意識の振れ具合が、溝口的映像世界に刻まれているという見方はかなり知られている。

そして何よりも、田中絹代との関係。

彼の視線には、この特別な女優を特別な意識を持ってクロスする過剰なる思いがあったと言われている。

彼はその女優に、この国の女性像として、最も自分の理念系に相応しいキャラクターを被せようとしたのではないかとも思われる。その結晶こそが、「雨月物語」であると考えられなくもないのである。

いずれにせよ、およそ掴み所がなく、複雑で振幅の激しい溝口健二という映像作家によって放たれた本作の読解は、それほど困難を極める内容になっていない点にこそ、彼のストレートな思いの表現を読み取れる所以でもあると言えようか。



7  欲望の無限連鎖と快楽の落差 



―― 私は今、本作を作り手の些か浮薄な理念系の文脈から逸脱させて、「人生論的映画評論」に相応しく、以下のように勝手に読解している。

そのテーマは、「欲望の無限連鎖と快楽の落差」である。

本作について、挑発的なようだが、私はそれ以外のテーマ的な関心を持ち得ないので、その一点についてのみ言及していく。


主人公の源十郎は一介の、ごく普通の農民であった。

彼には美しい妻がいて、可愛い盛りの息子が一人いた。既にそれだけで、充分に至福のときを過ごせたはずの男に変化が起ったのは、彼が農業の片手間に副収入を当て込んで、精を出した陶器作りを始めた辺りからである。

しかも、時は戦国乱世。

身分が未だ流動的な時代下にあって、彼の家族は部落での生活の安定的保障が手に入れられないでいた。農民にとって耕地を荒らされることは、即、生命の危機に繋がるのである。部落を侵入する落武者たちの暴力に対して、彼らは為す術を持たなかったのだ。

恐らく源十郎は、耕地を喪失することの不安から陶器作りへの生業の変化を急いだと思われる。偶(たま)さか、彼が作った陶器が町の市で大きな稼ぎになることを経験したとき、彼の心は、不安定な農作から即収入を当てにできる陶器作りにのめり込んでいく必然性があったと言えるだろう。

これが、彼の欲望の第一のステップアップであった。

既にこの時点で、彼は細(ささ)やかな幸福のみを求める妻の心から離れていたのである。

しかし、彼だけがそれを自覚できない。なぜなら、彼が陶器を売って儲けた金で小袖を買って、それを妻に送ったときの至福の表情を記憶にしっかりと刻み付けてしまっているからである。妻にとっては、夫からの贈り物に対する感謝の念を表したに過ぎない思いが、夫の欲望の未知のゾーンを開いてしまったのであろう。

全ては、そこから始まったのだ。

男の欲望のステップは、異界の美女、若狭との出会いによって開かれた。

無論、その若狭なる美女が死霊であり、そんな死霊が男をどのように利用しようとしたかなどについての言及は、映像の主題性の枠内の中枢に関与しない末梢的な事柄であるに過ぎない。

何より由々しきは、男が欲望の高いハードルを越えてしまったという、その欲望の流れ方である。

男は妖艶な女との愛欲の沼に搦め捕られ、酒池肉林の日々を重ねていく。

このとき男は、遥かに自らの「分」を逸脱し、その守備範囲を突き抜けて、感情の稜線の不分明な辺りまで駆け上っていってしまったのである。

男が開いた欲望の未知のゾーンに、それと全く馴染まない男の無力なる自我だけが晒された。男の噴き上がった感情は、自らの自我を薄明の世界に置き去りにして、初めは馴染みにくかったであろう未知のゾーンに同化していくことになる。

その頃には、身体の暴走を抑圧できない男の絶え絶えの自我は、無限に伸ばされたかのような、その感情の稜線の存在性に、それなりの合理的な理屈を与えて整合性を図っていくのである。

人は常にこうして、内側の亀裂の危機を乗り越えていく。自我が新しい物語(「これが本来の自分の望むべき生き方だった」等々)を紡ぎ出すことで、人は簡単に欲望の無限連鎖の世界に嵌っていくということである。

このような欲望の連鎖を可能にするもの、それが私の言う「快楽の落差」である。「快楽の落差」とは、欲望によって手に入れる快楽の落差感覚のこと。

それは、こういうことだ。

自分の眼の前に、少し跳躍すれば手に入れられるかも知れない欲望の対象が眩いまでにその輝きを放つとき、余程の強固な抑制因子が内側に張り付いていない限り、人は大抵、その対象に近づくことを止めないだろう。

そのアプローチの様態は様々だが、普通の人間ならその対象への一縷(いちる)の警戒感を捨てることなく近づいて、その甘い蜜の香りがやがて脳の快楽中枢を不断に刺激してしまえば、もうその対象を擯斥(ひんせき)することが困難になるはずだ。

そして人は、その対象との絶対的距離をどこかで巧みに無化してしまうだろう。距離を無化させた駆動力こそが、「快楽の落差」である。

自分が今まで味わったことのない種類の快楽と出会ってしまったとき、人はもうメロメロになっている。勿論、快楽の感情は相対的だが、少なくとも、自らが至福と信じたものから離れてまでも、自分が今手に入れた快楽の、殆ど暴力的な被浴が記憶に刻まれてしまったら、人はもうそれ以前の日常世界に戻れなくなってしまうのだ。それが、「快楽の落差」の最も怖いところである。

快楽に落差があるから、人は欲望に自分なりの価値付けをして、その感情の稜線を昇りつめていく。「快楽の落差」が大きければ大きいほど、人がもうそれ以前の日常世界に帰れなくなってしまうのは、人の心理的文脈の自然な流れであると言ってもよい。

厄介なのは、欲望を抑制すべき人間の自我が、そこで手に入れた快楽の被浴を脳の中枢が刺激されることで、既に肥大した欲望の文脈に少しずつ馴化(じゅんか)してしまうことだ。(注4)

更にもっと厄介なのは、その馴化の流れにひと通りの物語を張り付けてしまうことである。こうして人は、知らず知らずの内に欲望の無限連鎖の世界に嵌っていき、そしてその速度に容易(たやす)く順応してしまうのである。

この順応性は人間の文明を啓いた起動力になったが、同時に、多くの大切なものを喪失させてきた元凶でもあった。

これほどまでに人は状況に順応し、その状況が垣間見せた欲望の対象に搦め捕られてしまうのである。

ここで重要なのは、その欲望を作り出すのは人間だが、しかしその欲望を、全ての人間が均等に手に入れられる訳ではないということである。

しかし隣人が手に入れた快楽を、自分だけが手に入れられないという意識に拉致されたとき、人はその快楽の取得を自分の快楽の標的にシフトさせ、そこに向かって動いていく。動いていくことで手に入れられる快楽は、その時代の全ての者の欲望の対象になっていくだろう。

要は、欲望の対象が自分の手に入れられるだけの距離にあるか否か、ということなのである。今までは欲望の対象にすらなっていない何ものかは、その時点では特定的な価値にすらならないだろう。そんな対象に快楽の誘(いざな)いが待っている訳がないのだ。

しかし、自分の手の届く距離に快楽の匂いを嗅ぎつけたとき、人はそれを手に入れることなしに済まなくなる。そこが厄介なのだ。

芳醇な香りを乗せた快楽の最近接が、人の欲望の具体的な対象となって、人の思いを強力に集合させていく。

人はこのような快楽の誘いに対して、殆ど無力である。人間の欲望の稜線がどこまでも伸びてしまって、その抑制的管理は困難を極めるだろう。

だから、この世にただ一人の「聖人」も出現しなかったのだ。出現したのは、一握りの「求道者」や「禁欲主義者」であり、そして、多くの「平凡なる善人」たちであった。

前者は快楽の誘いから逃げ回ることで、その狭隘なる自我を固めたつもりになっただけだろうし、後者は快楽の誘いと同居できる自我を巧みに形成し得た、言わば、あるがままの世俗の徒であった。

人間のこのような本来的な脆弱さこそが、その脆弱さを封印し、そこにとてつもない価値を集合させて、「神」なるものを創り出さざるを得なかった者たちの根底にある。私はそう考えている。

人間は限りなく脆弱である。

自ら欲望を作り出し、その欲望から、常により価値のあると思わせる欲望を作り出していく。

そしてその欲望の無限連鎖の中で、今、まさにそこにある、香しいまでの欲望と上手に付き合えない多くの者たちは、いつの日か、私的状況が抱え込んだ劇薬性に麻痺していって、自らを失い、自らが守るべき大切な何かを失ってしまうことになるだろう。


(注4)自我の本体であると思われる、前頭前野に向かうA10神経の末端シナプスにはオートレセプター(自己受容器)がなく、フィードバック機構が充分に作動せず、ドーパミンが過剰流入し、過剰快感を被欲し、過剰覚醒を出来させ、それが創造力の源泉になっていくという仮説がある。


本作の主人公である源十郎は、まさに「快楽の落差」の格好の餌食になってしまった。

彼にとって村に残した妻子は、何よりもかけがえのない絶対的な何ものかであった。

しかし、城下町で嗅いでしまった濃厚な蜜の香りは、彼が今までに経験したことのない眩い輝きを放って止まなかった。

それは、この男が本来的に求めていた欲望の対象となるべき何かでなかったはずだが、その対象が男に擦り寄って来たとき、男は半ば警戒しつつも、この未知なる芳香への免疫が形成されていなかったため、芳香の求心力に容易く吸収されてしまったのである。

まさに女が放った芳香こそが、男を存分に酩酊させる特段の快楽だったのだ。

それでも男には、まだ逃げ道が用意されていた。

しかし、男は逃げなかった。逃げられなかったのである。

男には陶器の勘定を受け取る必要があったという説明は、表面的な把握に過ぎないであろう。男は女の強烈なフェロモンを出会い頭に嗅いでしまったのである。

そしてその女から、男の陶器の素晴らしさを絶賛されてしまった。男はプライドまで刺激されたのだ。

女のフェロモンを嗅いだばかりか、男の内側で形成されつつあった一端の「陶工」としての、細(ささ)やかな自尊心をも充たされてしまったのである。その自尊心の形成に少なからず関与したのが、彼の妻であったことは皮肉だったと言える。

いずれにせよ、男はもう逃げられなくなってしまった。

それ以外に説明のしようがないのである。

ましてや、自由なる城下町の解放感と金儲けの成功が、男の心に大いなる隙を作るのに充分過ぎるほど寄与したと言えるだろう。全てのステージが、そこで万端に用意されてしまったのである。

しかし何よりも、女が放った芳香の決定力が、男の欲望ラインに過敏に反応してしまったということ。それが、男の欲望のステップアップの中枢要因だったことは間違いない。男もまた、普通の人並みの人間だったということである。それだけのことなのだ。

朽木屋敷から、男はもう帰れなくなってしまった。

男を搦(から)め捕った「快楽の落差」の威力は圧倒的だったのだ。

人間は未知のゾーンに侵入して、そこで手に入れた快楽の威力が何某かの事情で決定的に褪せてこない限り、そこからの離脱は難しいだろう。

人間は忽ちの内に新しい環境に馴化してしまうのだ。このことは経験的学習を経た者なら、否定し難い人生の真実であるとも言えようか。

そんな男が屋敷を離脱できたのは、殆ど偶然だった。僧侶との出会いがそれである。男は僧侶と出会うことによってのみ、魔境から離脱することが可能となった。

勿論、これは物語だが、しかしその描写のメタファが示すものは決定的だった。このような偶然的な、他者による強力な媒介がなければ、男はいつまでも魔境に搦め捕られていたことの怖さを、いみじくも検証してしまったのである。

人間はここまで非自律的な世界に潜ることが可能であり、ここまで至福の境地とクロスした快楽から確信的に脱出することは難しいということだ。

それでも男が帰郷を果たしたのは、男にはまだ戻るべき場所があったとういことを意味する。男には、「本来の場所、本来の姿」に戻るべき何ものかがあったこと。これが男の再生を約束させた決定力になったのである。

もし男が戻るべき場所を持っていなかったら、男の再生は覚束(おぼつか)なかったに違いない。男が刹那主義の人生に流れていった可能性も捨て切れないのである。

従って、戻るべき場所を持つ者だけが再生の道を開くことが可能であるとも言えるだろう。

これは、源十郎に限定するものではなかった。愛妻を振り切って、「分」に合わない立身を夢見て挫折した藤兵衛の場合も同じである。彼もまた、戻るべき場所を持つことができた僥倖(ぎょうこう)に救われた。

遊女になった阿浜との再会がなければ、この男の暴走は止まらなかったであろう。

映像はそこにも、極めて創作的な偶然性を媒介させた。それを媒介させない限り、主題性の枠内で物語を展開させることができなかったからである。

人間のその本来的な脆弱さを鮮烈に描いた本作は、その意味で最も根源的で、本質的な映像表現であったと把握できる。

溝口健二監督
物語はその内側に、何ともおどろおどろしい妖怪譚を挿入させたが、これは物語の仕掛けとしては一見安直だが、しかしそのような導入なしに済まないほどの映像の主題性を、物語の基幹ラインを貫流する文脈の中で、そこだけは外せない程度の重量感を持って、確として内包させていたことを認めない訳にはいかないであろう。

思うに、「快楽の落差」を本来の欲望の次元に下降させるには、最も分りやすい形での、一種世俗的なる妖怪譚を導入せざるを得なかったということではなかったか。

そうでもしない限り、「快楽の落差」の問題を、人の自我が克服するのが容易ではないということを表現的に検証できないと、本作の作り手は考えたのかもしれない。

それが、本作に対する殆ど独断的な、しかし常に評論のコアに心理学的な視座を捨てられない、既に中年の域を超えた私の基本的把握である。

(2006年6月)

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