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2008年12月18日木曜日

煙突の見える場所('53)     五所平之助


<特定的状況が開いた特定的人格の特定的切り取り> 



 序  お化け煙突  



 かつて、東京足立区千住に「お化け煙突」と呼ばれた名所があった。

 隅田川の河畔に4本の煙突が、そこだけが異様な存在感を見せるかのように、天に向って聳(そび)え立っていた。その正体は、東京電力千住火力発電所が、そのエネルギー源を供給するための排出ガスの設備であって、別に観光目的の故の物理的財産でもなく、ましてや巨大な風呂屋の煙突などではなかった。ところが、この4本の煙突が、見る場所によっては3本になったり、或いは2本、または1本になったりするのだ。それが、「お化け煙突」の名前の由来になったのである。


 本作は、この「お化け煙突」が3本に見える河の対岸に住む人々の、それぞれの人生の哀感を描いた物語である。



 1  こうのとりのゆりかご



  そのストーリーラインを追っていく。


 その家は、大雨が降ると浸水する危険性と隣り合わせの古い家屋だった。

 主人公の名は、緒方隆吉。日本橋の足袋問屋に勤める中年のサラシーマンである。その妻、弘子は戦災未亡人で、緒方とは再婚の夫婦の関係を、今のところ取りあえず問題なく営んでいる。二階には独身の若い男女が間借りしていて、一応、その家屋空間に四人の大人が共存しているのである。夫婦には子供がいないから、家庭の世俗じみた会話が些か不足しているようだ。

 また、二階の独身男は税務官吏で、その名は健三。なかなか税官吏とは思えない、人の良さそうな若者。一方、独身女は街頭放送所の専属のアナウンス・ガール。その名は、仙子。「自立する女」の印象が強い娘である。

 元々この家は、隣家にある「法華経祈祷所」を営む中年夫婦から借りたもの。しかし四六時中、法華の太鼓の音が騒がしく、緒方にはそれが常に煩わしい。また、反対隣の家のラジオ店は子沢山の家で、そこからの騒音も緒方の悩みの種になっている。
 
 その日、妻の弘子は、夫に内緒で働く競輪所の両替の仕事から帰って来て、夫といつものように睦み合っていた。子供を欲しがらない夫には、献身的な妻の存在だけで充分だった。彼は妻に対して、新鮮なまでの愛情を持続しているようだ。そこに宣伝放送の仕事から戻ってきた仙子は、まるで見てはならないものを見たときの不快感を露骨な態度に表した後、そそくさと二階に上がって行った。

 「仙子さん、じっと見ていたわね。妙な人ね」と弘子。
 「構わないじゃないか。僕たちは正式の、つまり法律によって戸籍にもはっきりと証明された夫婦だもん。恥じることないじゃないか」
 「でもやっぱり、嫌な気がするわ」

 夫のフォローにも、気持ちを満たせない弘子の思いには、若い独身男女を間借りさせている中年夫婦の苛立ちが垣間見える。
 
仙子と健三
二階では、今度は仙子が、二人の部屋を分ける襖越しに、健三相手に不満を吐き出している。

 「あたしが見てたら、二人ともまるで悪いことしていたみたいに、もじもじして離れちゃったの」 
 「でも残酷だな。黙って見てるなんて」
 「見られるより、見てる方がずっと嫌な気がするわよ。でも私見てたの。人間の愛情なんて情けないもんね」
 「悪いな、本当に。下のご夫婦に悪いよ」
 「あたしなら、人に見られたって平気だな。却って続けていてやるわ」
 「そんなことできるもんか」
 「だって、本当に愛していたら、そういうもんじゃない?」
 「僕は違うな。僕は人をびっくりさせるのは嫌いだな」
 「へえ、偉いのね、健三さんは・・・」

 そこで、健三の小さな叫び声。驚いた仙子は、隣の部屋に入って行った。
 画鋲を踏んで、健三が声を上げたことを知って、仙子は些か拍子抜け。部屋に戻ろうとした仙子の視界に、一枚の貼り紙が捉えられた。

 「“仙子さんに気をとられるな 勉強に専心せよ”」

 それを見て、仙子は笑みを漏らした。彼女はそれを咎めず、「割と上手い字ね」と言って、満更不快でもなさそうだった。
 
 階下では、中年夫婦が食後の団欒。

 しかしその団欒は、思わぬことから切断された。歯痛で悩む弘子の鎮痛剤を取りに行った夫が、そこで見つけたのは、自分名義の預金通帳。驚く隆吉に、弘子は隠さずに話した。

 「あたし、それが2万円になったら、あなたに見せて、びっくりさせようと楽しみにしていたのに・・・」
 「どうしたんだ、そのお金は?」

 夫の語気は強かった。

 「アルバイトしてたの。お加代さんに手引きしてもらって・・・」

 彼女はそこで、競輪場でのアルバイトを告白したのである。

 「そりゃ、僕は安月給取りかも知れん。でもそれが何だ!君はそれを承知で一緒になったんじゃないか」

 夫の不満な感情は収まらない。
 その不満が信じられないかのような妻の弁明は、却って夫の感情を刺激するばかりだった。夫には、加代という女が嫌いらしく、そしてそれ以上に、自分に秘密にしていた妻の態度が気に食わないのだ。

 「君は一体、僕の何なんだ!赤の他人なのか?」
 「あたし、あなたと一緒になれて幸福だと思っていますわ」
 「そ、そりゃ、僕だってそう思っているさ・・・寝てから、気持ちを上手く整理して話すよ・・・」

隆吉と弘子
夫は懸命に自分の昂ぶる感情を抑えようと努める。彼もまた、妻の気持ちが理解できない訳ではなかったのである。
 
 再び、階上の二人。

 「実は僕、役所辞めようかと思ってるんだ・・・」と健三。

 彼は身の皮を剥ぐようにして、税の取立てをするのがいたたまれないらしい。それに対する仙子の反応は冷淡だった。

 「あたし、お金貸さないわよ」
 「何の?」
 「役所辞めたら、すぐに生活に困るじゃない」
 「そうなんだよ。そこでどうしたらいいか、分らなくなっちまうんだよ」
 「あたしなら、困っても、困ったかことから逃げ出さないわ」
 
 再び、階下の二人。
 
 「だからお前は、どこか僕に冷淡な所があるような気がするんだよ。例えば今度のアルバイトのことだって、僕に相談なしでやっている。それでいて、平気なところがあるんだな。また時々つまらんことでびっくりする。そんなとき僕は、ヒョイと君の過去に後ろ暗いことがあるような気がするんだ。君の前の夫のことだって、君はそれを一言も口にしたことはないだろう?一言も」
 「だって、空襲のときに死んだんですもの」
 「そうだと君は言う。だが僕は、正直に言うと、君はその男を殺したんじゃないかって気がするんだ」
 「そんなこと私にできて?前の人のことを言わないのは、きっとあなたを愛し過ぎてるせいじゃないかしら。それで昔のこと、すっかり忘れてしまったんだわ・・・」
 「お前は、口が上手い」
 「本当よ。あたし、初めてあなたと結婚したような気持ちでいるの・・・本当よ。あたし、幸せだと思ってるわ」

 自分の思いをストレートに表現した妻は、隣の布団に包(くる)まって、少女のようにペロリと舌を出して笑みを浮かべた。

 「弘子、腹を立てて済まなかった。お前が僕に黙ってアルバイトして腹も立ったが、有り難いと思ってたんだよ、本当は・・・もう喧嘩するの止そうね」

 夫も自分の思いをストレートに表現して、妻の優しさを素直に受容した。電気が消えた後の二人の短い会話。
 
 「ねえ、お金が貯まったら、早く家建てましょうね」
 「うん」
 
 安普請の一軒家の中で小さく揺れた漣(さざなみ)が静まったとき、長い一日が閉じていった。

 
 事件が起ったのは、弘子が競輪場のアルバイトで捨て子の場内放送を聴いたその日だった。

 彼女が帰宅したとき、夫の隆吉は困り抜いた顔をしていた。その傍らに、産着に包まれた赤ん坊が泣いていたからである。夫はてっきり妻が預かってきた子だと考えていたらしい。しかし妻との会話で、その赤ん坊が捨て子であることを確認して、夫婦は当惑するばかりだった。


 まさに緒方家は、「こうのとりのゆりかご」(熊本慈恵病院の赤ちゃんポスト/画像)の「標的」になったように見えたが、それは特定者による確信犯的行動だったのである。

 慌てる弘子が、赤ん坊が置いてあった縁側に出たとき、そこに一通の手紙が添えてあった。

 「“重子はあなたの子です。その証拠に戸籍謄本を同封しました。育ててやってください。
弘子殿  塚原忠二郎“」

 弘子には、これで全て合点がいったのである。

 塚原忠二郎とは、弘子の前夫。その男が、この赤ん坊は弘子の子であると断定して、おまけに戸籍謄本まで同封して、緒方家の縁側にその赤ん坊を置き去っていたのである。見る限り、その行動は確信的だった。

 戸籍謄本に眼を通した隆吉は、力なく呟いた。

 「塚原氏は生きていたんだな」
 「生きていたって、あれが私の子でしょうか?塚原があたしに押し付ける筋はないはずだわ、あんなもの」
 「ものじゃないよ、赤ん坊だよ」
 「とにかくあたし、警察に行って相談してきます」

 弘子が赤ん坊を抱いて、外に出ようとしたとき、夫の隆吉は不思議な顔をして言葉を挟んだ。

 「おい、待てよ!おかしいじゃないか。これは、おかしいよ。お前は一体、誰の妻なんだ?この戸籍謄本じゃ、お前は塚原忠二郎の妻になっているじゃないか」
 「そんなこと・・・私はあなたの妻ですわ。緒方隆吉の妻です」

 隆吉は戸籍を確認すべく、引き出しにあった二人の戸籍を確認した。そこには、弘子が隆吉の妻になっていたのだ。二つの戸籍の存在は、弘子が形式的に重婚していることを意味することになった。事態の非日常的な展開に二人は当惑し、翻弄されるばかり。

 隆吉は早速、六法全書を取り出してきた。彼は「重婚の罪」によって、自分が罰せられることを知り、妻を責め立てた。

 「お前は塚原の戸籍から抜けていなかったんだ。お前が悪いんだ。僕たちは一昨年結婚した。それからずっと一緒なんだ。それなのにお前は僕の知らない間に妊娠し、僕の知らない間にこの子を産んでしまっているんだ」
 「どうしたらいいのかしら・・・どうしたらいいのかしら・・・」
 「そんなこと僕に分るもんか。分ったら、ちゃんと処置を取ってるよ。僕はちゃんとできる人間なんだから。唯、どうしていいか分ってたらな。僕は知らんぞ」
 「どうしてあなたは、そんなに私をお責めになるの?」

 出かけようとする妻を止めて、夫は辛辣に言い切った。

 「僕は自分のものならともかく、人の赤ん坊なんて大嫌いなんだ」
 「それは、私が産んだ子供じゃありませんわ」
 「当たり前だ!僕は塚原の所へ行きたいなら、行けと言ってるんだ」
 「私はあなたの妻ですわ。世の中の人が何と言おうと・・・」
 「お前今、出かけようとしたじゃないか?」
 「ミルクを買いに行こうと思ったんですわ・・・どうすればいいの?」
 「ミルクなんて買わなくたっていい。こんなもん死んだって、何だい」

 そこに子沢山のラジオ店の主人が、心配そうに顔を出した。生きるの、死ぬのという夫婦の会話が漏れ聞こえてきたからである。赤ちゃんを見て、ラジオ商は驚いた。それを無視するかのように、隆吉は妻を促した。

 「仕方がない、行って来い」
 「奥さん、子供は授かりものですからね」とラジオ商。
 「早く、行って来い」と隆吉。

 一切、相手を無視している。

 「大事になさるんですよ」とラジオ商。

 彼はその一言を残して、隣家に戻って行った。
 
 赤ちゃんの鳴き声だけが、夜の静寂を切り裂いていた。税務署から帰宅した健三が、その声に驚いた。

 「赤ちゃんですね」
 「それが、僕には分らんですよ」

 隆吉はぶっきら棒に答えるばかり。

 隣家の法華祈祷所の中年夫婦もまた、その声に如何にも迷惑そうな様子。いつもと逆のパターンなのである。その妻は厭味たっぷりに言い放った。

 「あの声は神様の声だよ。緒方さんの家の人たちを責めてる声だよ。不信心の緒方さんのところに、何か知らせがあったんだ」

 緒方家の二階でも、若い二人が早速話題にしていた。

 「全くおかしいよ。緒方さんも分らないって言ったんだよ。ここから見るあの煙突みたいだよ。今日、僕が見た煙突は2本なんだよ」

 「2本?お化けじゃあるまいし、そんなに色々見えるはずないわ」と仙子。

 彼女はどこまでも合理的思考の持ち主なのである。

 「ここから見ると、3本なんだがなぁ・・・」
 
 健三が窓から覗くと、3本の煙突が夜の闇に聳え立っていた。
 


 2  対岸の煙突が重なり合うまでに




 赤ん坊が泣き喚く時間が、夫婦の日常性になりつつあり、二人の関係にも隙間風が吹くようになった。
階上の二人にもストレスがプールされつつあった。(画像は、教会に設置されたイタリアの「捨て子ボックス」)

 とりわけ、赤ん坊の泣き声で不眠症に陥っている健三は、とうとう理性が抑えられず、二人の男女の生活の境界ラインである襖を無造作に開け、自分の感情をストレートに切り出した。

 「どうなんだ?好きなのか、嫌いなのか?」
 「どっちも本当よ」と仙子。
 「ほらね。そこんとこが、よく分らないんだよ」

 青年のストレスは、弥増(いやま)すばかりだった。
 
 一方、階下では、弘子の表情から、すっかり生気が失せていた。夫は妻から赤ん坊を取り上げて、自分であやしていく。それでも赤ん坊の泣き声は止まらない。

 「赤ん坊の泣き声もたまらんが、お前の顔もたまらんよ」
 「すみません。私、あなたに気の毒です」
 「お前のせいじゃないよ。この赤ん坊のせいでもないし・・・」

 階上では、健三がつまらないことを言い出した。

 「ねえ、こういうことにしたらどうだろう?つまりその、ジャンケンで決めたら・・・君が負けたら、君が僕を好きだってことにする」
 「あんた、負けてよ」と仙子。
 「うん、僕は勝負事弱いからな・・・」

 二人は真面目な顔をしてジャンケンを始めるが、階下から、「静かにして下さい!」という隆吉の苛立った声が届いて、二人は子供じみたゲームを止めた。

 「止めよう。下らないこった。何もかも赤ん坊のせいだよ」
 「あんた、バカよ。負けてあげようと思ったのに・・・」と仙子。

 どこまで本音かどうか分らないが、男はこんな言葉でもエネルギーに変えられるのである。

 階下の二人。

 若者たちの小さな騒ぎに苛立つ隆吉に、弘子は二階の二人を庇ってみせた。
 
 「あの二人、何の関係もないんですもの、可哀想だわ・・・」
 「可哀想だ?世界中で一番可哀想なのは僕だ。世の中には自分の子供さえ捨てる人がいるのに、何の責任もないこんな泣き虫な他人の赤ん坊を、捨てることさえできない・・・僕は一度も自分の女房を騙したことはない。それなのに女房から騙されても、殴ることさえできないんだ」
 「殴ってちょうだい!」 
 
 夫婦に一瞬の沈黙。その沈黙を破ったのは夫だった。

 「僕は、平凡なサラリーマンかも知れないが、今まで道端に唾さえ吐いたことがないんだ。それなのにいつのまにか、罪を犯したことになってるんだ」
 「だからあたし、警察に行くと言ったじゃありませんか・・・あたしは、どんな罰でも受けますわ。出て行けとおっしゃるなら、出て行きます。その赤ん坊を殺せとおっしゃるなら、殺します。捨てて来いとおっしゃるなら、どこへでも捨てに行きます。でもあたし、あなたを騙したんじゃない」
 「騙したんじゃないにしても、隠してたじゃないか。競輪場で働いてたことだって、そうだ」
 「競輪場で働いていたのだって、少しも疚しい気持ちは持っていませんでしたわ。相談しなかったとおっしゃるけど、自分のことくらい自分でするの、当たり前じゃないですか・・・あたしはあの空襲のときから、そんな風にしなくては生きていけなかったんですわ・・・あの空襲の翌朝、やっと助かって帰って来てみると、あたしの縁続きの人たちは、皆死んでしまっていましたわ。一人残らず・・・塚原も死んだと思ったわ。でもあたし、塚原を探して、沢山の死骸を引っくり返しながら見ているうちに、戦争というものに、腹が立ったわ。それだけでなく、あんな戦争を起した人間も嫌になってしまったわ。あたし、自分は一人ぼっちになんだと思った。一人で生きようと思った。疎開先でもそうだったわ。あたし、百姓家の裏に捨ててあった野菜屑を拾いながら、自分が犬だと思った。一人で生きていて、犬よりも劣ると思ったわ」

 そこに、赤ん坊の泣き声が侵入してきた。
 
 「畜生!静かにしろ!」

 殆んど反射的に、隆吉は反応した。
 
 「そうです、あたしは畜生ですわ」
 「お前のことを言ってるんじゃない。いや、そうじゃない。お前は畜生だ。この赤ん坊が証拠だ」

 夫の冷淡な口調に妻の心が追い詰められて、その表情をより強張らせていった。

 「もう、私たちもお終いですわね」

 重苦しい沈黙を、今度は妻の方が裂いた。しかしその言葉には、断崖に立ち竦む者の絶望感に近い感情が張り付いていた。

 「お終いでもいい。夫に隠し事をするような女房なんか、看れるもんか」
 「分りました。私はやっぱり一人ぼっちなんですわ。それでいいんですわ。だからあのときも、それで沢山だと思ったんですわ。あのときは空襲で滅茶苦茶で、どんな戸籍でも作れたの。だから私は、捨て子を届けるように、自分一人の戸籍を作ったんですわ・・・」
 「大したもんだ。そんなに一人で生きていきたきゃ、生きていけばいいじゃないか」

 振り返った妻は夫を睨み、呆然とし、落涙した。今その夫は赤ん坊を抱いて、必死にあやしている。

 「長い間、お世話になりました」

 妻はその一言を残して、家を出て行った。

 「おい!この赤ん坊どうするんだい!」

 慌てる夫。

 妻は家の前の堤に出て、急ぎ早に河川の方に向って走っていく。夫は妻を追い駆ける。しかし声を掛けられない。

 妻は河川敷の一角に腰を下ろして、追い詰められた者のように虚空を見つめている。やがて立ち上がって、河の流れの方にその身を寄せていった。夫はそれを止められない。しかし、未知の恐怖に立ち会ったかのような不安感が、明らかにその表情に滲み出ていた。


 夫婦の会話を階上で聞いていた健三と仙子が隆吉に追いついて、事情を尋ねた。
 
 「どうしたんですか、一体?」と健三。
 「バカな奴ですよ。河の方へ歩いていくんですよ。死ぬんじゃないでしょうか」
 「どうして、止めないんですか!」と健三。

 危険な事態を予感して、青年は隆吉を責めた。
 
 「どうやって止めんですか?」と隆吉。

 オロオロするばかりだった。決定的状況での、決定的判断力と行動力が欠乏する男なのだ。

 「奥さん!」と仙子。
 「奥さん!」と健三。

 彼だけが、一人で弘子の元に走って行った。

 その行動に触発されたかのように、隆吉も「弘子!」と叫んで追い駆けて行く。仙子も続く。河の中にどんどん入り込んで行く弘子を、健三が後ろから抱き止めて、河川敷に戻した。河原に戻された弘子は、そこでただ呆然としていた。三人は、そんな弘子に何も声を掛けられない。

 「あたし、どうしたのかしら・・・」

 夫の一瞬の笑みの表情を見て、正気を取り戻したかのように、妻は突然泣き伏した。

 「何でもない、何でもないことよ」と仙子。

 彼女がここでは主役だった。

 
仙子は映像で見せたことのないような思いやりを表現して、弘子を精神的に介抱する。一方、健三は隆吉に向って、若者に溢れる正義感を謳い上げていく。

 「・・・聞いてみると、僕は大した問題じゃないと思うんですよ」
 「そうでしょう?相手は赤ん坊なんですからね。だがあの赤ん坊は、大変な赤ん坊なんですよ」
 「知ってますよ。僕はそんなこと言ってるんじゃないんです」
 「じゃ、どんなこと?」
 「どんなことって・・・どんなことでも、あなたは嫌々我慢していれば、それで済むと思っているかも知れないけど、あの塚原って男のしたことは悪いことなんですよ・・・正義の、人間の正義の問題なんですよ。だから、我々は戦わなければならないんですよ」
 「しかし、僕らにも弱みはあるんですよ」 
 「弱みがあるかないか、戦ってみなけりゃ分らないじゃないですか?それは緒方さんの誤解かも知れないじゃないですか。ねえ、緒方さん、こりゃ、あなたがその塚原という男を捜しさえすれば、解決がつく問題ですよ」
 「え、僕が?塚原を?どうして、どうやって捜すんですか」
 「どうやってって、やってみなけりゃ仕様がないじゃないですか・・・あなたって、本当に情けない人だな。正義の問題なんですよ。個人の問題じゃないんですよ・・・」

 ここまで聞いていた仙子は、異議を唱えた。

 「健三さん、正義、正義って、言うだけなら、誰でも言うわよ」
 「言うだけじゃないさ・・・簡単じゃないか、その塚原って男を捜せばいいんだろう?」

 健三はそう言って、隆吉に自分が塚原を捜しに行くと言い出した。そして実際、青年は税務署の仕事を休んで、正義の名の元に動き回ったのである。


 それからの青年の活動の内実を、本人がモノローグで語っていく。

 「僕は正義の問題から、とうとう、塚原忠二郎を捜さなければならない羽目に陥ってしまった。我ながら、思いがけないことになったものだ。だが、もうこうなっては仕方がない。僕はまず、塚原の本籍のある区役所に行ってみた。それから塚原の住まいを訪ねて歩いた・・・僕はこんな余計なことに首を突っ込んでしまった自分が、間抜けに見え、バカに見え、お人好しに見えてやり切れなかった。全く正義というやつは、人間に何て余計な負担を要求するのだろう・・・」

 このモノローグが示すように、青年の活動は実らなかった。

 青年が何より不愉快だったのは、肝心の隆吉がパチンコ三昧の生活を楽しんでいて、人の苦労を、「正義のためなんでしょ?」とあっさりと片付ける態度にあった。そして青年は遂に、「正義」の実現を断念したのである。
 
 仙子が訪ねたときの青年の部屋に、貼り付けられていた一枚の紙。そこには、「“馬鹿げた正義感にかられて勤めを忘れるな”」と書いてあった。しかし健三という青年が、正義に向って再び動き出した。


 それを決定づけたのは、次の仙子の言葉だった。

 「私、健三さん、愛してるわ」

 
 そして遂に、健三は塚原を捜し出した。

 彼は初対面の塚原に対して、ダイレクトに赤ちゃんの一件を切り出した。その反応はあまりに早かった。健三は塚原の案内で、一人の女に会うことになった。その名は、勝子。勝子は塚原の別れたばかりの妻であり、その女こそ塚原が捨てた赤ちゃんの母親だったのである。

 塚原は、産みたくない子供を産んだ勝子の赤ちゃん、重子を、未だ籍があるのを知った弘子の元に預けたのだ。彼はたまたま競輪場で見た弘子に対して、甘える気持ちが起こったと言うのである。それが、塚原から聞いた話の全てだった。
 
 その間、赤ちゃんの具合が突然悪くなり、慌てふためいた夫婦は、直ちに医者を呼んで来た。

 「近頃は、こんな薄情な親が多くなった。恥じなさいよ」

 それが、医者の捨て台詞。

 赤ちゃんの具合は重篤だったのである。

 そこに重大な情報成果をもって帰宅した健三は、すっかり浮かない顔をしている。塚原という男のだらしない生きざまを散々見せ付けられて、かなり憤慨しているのだ。あんな男に子供を返すことは殺しにやるようなものだ、と健三は仙子にぶちまけた。彼女から塚原の女房のことを聞かれたが、女もまた、「亭主に輪をかけた、全くダメな人間なんだ」と吐き捨てた。

 その言葉を聞いて、仙子は厳しく反応した。

 「ダメ、ダメ、本当にダメ、全くダメ!健三さんは偉いのね。首切り役人人みたいに。死刑を宣告するみたいに、他人に向って、あいつはダメ、全くダメだって宣告する権利あるの?そんな人嫌いだわ」

 そう言い放って、仙子は自分の部屋に戻って行った。そこに階下から、「仙子さん!」と呼ぶ弘子の声が聞こえて、仙子は階下に降りて行った。

 「赤ん坊が死ぬんです!お医者さんに見放されてしまったんです!」

 弘子は仙子に、ワラをも掴む思いで訴えた。

 「僕たちはこういう目に遭うようにできているんだ。何もかもダメになるように決められてるんだ」

 しかし、これが夫である隆吉の反応。

 あまりに冷淡な反応に、仙子は手厳しい一言。

 「何がダメなんです?赤ちゃんは生きてるじゃありませんか。どこがダメなの?」
 「でもお医者さんが、手遅れのような・・・」と弘子。

 今度はその弘子に向って、仙子は怒りをぶつけていく。

 「手遅れか、手遅れでないか、そうやっている間に、できる限りのことをしたらどうなんです!」

 仙子はそう言った後、健三に氷を買って来るように頼んだ。ところがその健三も、赤ちゃんの容態に対して消極的な態度。仙子は、今度は自分の周りの三人の大人に対して、怒りをぶつけた。
 
 「どうして皆、こうなんだろう。赤ちゃんはまだ生きてんのよ。生きてるってことは、助かってる証拠なのよ。どこにダメなところがあるの」

 仙子にここまで言われて、健三は忽ち翻意して、氷を買いに行った。そして仙子が医者を迎えに行く。隣家からは、法華経の題目が唱えられていて、そんな雑音の侵入を全く意識しないほどに、弘子の気持ちは切迫していた。

 「ねぇ、あなた、息が苦しそうだわ」と弘子。
 「もう、止してくれ。僕は、自分の方が一体、生きてるのか死んでるのか、分らなくなってきているんだ」と隆吉。
 「大丈夫よ、この赤ちゃん。大丈夫よ。こんな小さい体をして、病気と戦って、一生懸命に頑張ってるんだわ」と仙子。

 三人の言葉の中で、未だに隆吉だけが自分のことのみを考えている。仙子や弘子の思いと完全に切れてしまっているのだ。
 

 弘子は殆んど一睡もせず、夜を明かした。

 ウトウトしていた彼女は赤ん坊の泣き声で、完全に覚醒した。夫の隆吉も覚醒し、夫婦は眼の前の赤ん坊の表情をまじまじと見詰めた。

 「おい、元気になったんだよ」と隆吉。
  「ああ、良かったわ。夕べの3時頃はもうダメだと思ったわ。重子ちゃん・・・」と妻。 
  「重子」と夫。 

手を叩いて赤ん坊をあやした。

彼は単に、難しい状況を引き受けることをしないタイプの男なのだろう。

まもなく子供を産んだ母親が、緒方家を訪ねて来た。勝子である。

 彼女は塚原に子供を一時的に預けただけで、母親としての思いは変わらないらしく、赤ん坊の引取りを要求したのである。緒方夫婦は、勝子の生活力のなさを見て、赤ちゃんの引渡しを拒んだのだ。
 
 思いもかけない展開である。

 矛盾した行動でもある。健三は夫婦の矛盾した態度を難詰した。健三にとってみれば、捨て子を元の親に戻す為に尽力した自分の行動が無意味になってしまうのである。それもまた、当然の心理。怒りを収められない健三は、そのまま二階の自室に戻って行った。
 
 緒方夫婦は相談した結果、赤ちゃんを勝子に戻すことを決めた。夫婦はとことん話し合って、和解に達するまでに、その関係にできた溝を埋めていたのである。

 一方、緒方家に起った事件によって翻弄された階上の男女は、結婚する約束を取り決めるまでに、その関係を深めていた。


映像のラストシーンは、末梢的なことで言い争う若い二人の視界に入った対岸の煙突が、まるでそれが一本であったかのように重なり合っている描写だった。

 二人はそれを見て、何かを悟ったように些細な愛情のゲームを止めて、それぞれの勤務先に向かって行った。その表情から、存分な笑みが零れ出ていた。

       
                       *       *       *       *

 

 3  特定的状況が開いた特定的人格の、特定的切り取り



 ここに、一人の中年男がいる。
 
 彼はごく普通の、平凡なサラリーマンと言っていい。その性格は、どちらかと言えば小心で、保守的である。この国の多くの男たちと同様に、この男もまた、攻めよりも、守りの方により振れていきやすいタイプである。そしてこの国の多くの男たちと同様に、この男もまた、決定的な局面で守りへのシフトを崩せなかったのだ。

 しばしばそんな男に限って、その本来的な守りに向う臆病心が、攻めに転じることがある。自分が守りたいものが、その自我アイデンティティの根拠であるとき、それを守りたいと願う心の振れ幅が広がって、却ってそれを攻撃してしまうことがあるのだ。

 臆病心とか、恐怖心とかいう感情ほど、そこに理性的なバリアが堅固に築かれていないと、得体の知れないエネルギーをプールさせて、それが自己増殖した挙句、とんでもない攻撃性に転嫁してしまうことがあるということだ。人の防衛意識は、その自我の拠って立つ基盤の危機に立ち会うとき、自分でも抑制の利かない暴力性を身体化させてしまうのである。

 男の場合、それが切に守りたいものであるのに拘らず、その本体に向って攻撃性が無造作に開かれてしまったのである。

男には妻がいて、その妻の存在こそが、ある意味で男の自我の安定の根拠であった。しかしそうであればこそ、男は自分が知らない女の「過去」に執拗に拘り、そのグレーな時間を主観的なまでに受容できなかったのである。
 
 男の理性を撹乱させた起爆剤は、「捨て子事件」である。

 そしてそこから開かれた、禁断の領域への侵入の現実だった。「捨て子事件」によって、二通の戸籍謄本の存在が明瞭になったのである。

 その戸籍の一つに、世帯主である夫婦の名が刻まれていたが、もう一通には妻の名前しか書かれていなかったのだ。この根本矛盾の正体は、妻が重婚しているという事実。重婚の罪は、当然の如く、この国では固く法で禁じられていて、その法によって男は捕縛される危機にあることを知って動転した。それ故、捨て子を警察に届けることすら不可能になってしまったのである。

 男は自分が感知していない世界で、引き受けたくない責任を負わされた現実の理不尽さに憤慨する。

 当然だろう。

 だが、問題はその先の展開にある。

 男は妻を一方的に責め立てたのだ。その気持ちも分らなくもない。しかし男は、一切の状況からの逃避に潜り込んでいく。この辺りから、守備優先の男の性格が際立つようになっていくのである。

 男は赤ちゃんの泣き声の度に、妻の「過去」を様々に炙り出していった。一応は、「妻の告白」という形をとっているが、それを惹起させたのは、妻の「過去」が、罪に問われる自分の現在の状況を招来した全てであると言わんばかりの、あまりに自己中心的な夫の防衛意識それ自身であった。
 
 然るに、男は妻の愛情を決して心底から疑っていないのだ。

 妻の中で、夫の存在の大きさを否定しないその心を、男はどこかで読み取っているが、それでも男は妻を責め立てる。自分の中の名状し難い不満のエネルギーが、その内側に同居する不安感とリンクして、事態の発信源であると特定する無防備な妻の自我を甚振(いたぶ)って止まないのだ。

 妻が自我抑制の臨界点を超えたとき、女の内側でも理不尽と思える状況の突破力が手に入れられず、険悪なだけの空気に翻弄された挙句、遂に我を失って、自宅の前に広がる河川の中に身を沈めようとした。そのとき女の自我は、殆んど有効に機能できないほど劣化していたのである。

 しかし、そこまで追い詰められた女を、女の夫は救えないのだ。

 彼女を救ったのは、正義感溢れる税官吏。

 この設定にはたっぷりとアイロニーが効いていて、言わずもがな、リアリティに欠ける嫌いがあるが、ここで作り手が強調したかったのは、決定的状況においても決定的に振舞うことができない主人公の、その自我の迷妄ぶりであるだろう。そのことは、男がそこで何も為し得なかったという凡庸な人間の真実の様態を映し出すことで、物語がお手軽なヒューマニズムに流れ込めない実人生の残酷さと滑稽さを、同時に暗示しているとも言えるのである、
 
 そして物語の展開は、その直後に、パチンコに興じる男の不甲斐なさを皮肉る滑稽さを映し出した。同時に、正義感溢れる青年のドンキホーテ振りが揶揄されていく。しかしその後に、実人生の残酷さがリアルに映し出されることで、人間がその内側に共存させている裸形の文脈が繋がっていくのである。

 塚原夫婦の敗北的な人生と、その開き直りのさまが抑制的に描き出された後、折角の正義感も、その怒りの矛先を失って、虚空に舞うばかり。青年が帰宅したとき、そこには、もう一つの敗北的な人生が待っていた。赤ん坊の病気の悪化に、ただ絶望的に嘆息しているだけの緒方夫婦の存在である。フラットな正義感は、容易にペシミズムに流れ込んでしまうのだ。

 このときの青年もまた、同様だった。

 しかし、殆んど予定不調和的なペシミズムに流れ込んだ青年の絶望感にもまた、人生のシビアな内実が張り付いていない分だけ立ち直りも早い。青年を含めて緒方夫婦の三人が、揃って仙子に難詰(なんきつ)されることで、残酷にシフトしていった映像が劇的な変貌を見せていったのである。
 
 この映画の展開の中枢にあるのは、言葉を発することができない一人の赤子が発する、その音声的な表現である。赤子は泣くことで、夫婦や若者の日常的な集中力を奪い、そして、その赤子が音声的な表現を繋いでいくことで、大人たちの感情を削り取っていく。緒方家に集う四人の大人たちの自我を、自律し得ない一人の赤子が完全に支配し切っているのだ。
 
 仙子の当然過ぎる普通の態度の表出によって、普通にさえ届かない空気の中を彷徨する三人の大人は、自らが表現し得る身体性をようやく映像の内に刻んでいく。そして棄てられし赤子の、生の復権を告げる泣き声が澱んだ空気を切り裂いたとき、風景が一変したのである。

 風景の変貌は、風景が搦め捕っていた四人の自我の確かな変容を顕在化させてしまったのだ。赤子によって支配されていた自我が呪縛から解かれて、本来そこに辿り着かねばならない物語のラインを紡ぎ始めたのである。

 神からの試練を受けたかのような事件の後に待っていたのは、それをまさに試練として受け止めなくてはならないという啓示的な文脈であった。「重子」と命名された一人の赤子の存在とは、その音声的表現の固有の出し入れを唯一のシグナルにすることによって、脈々と日常性を繋いできた特定的な大人たちの自我を支配し、その日常性を根柢から問い直すために仕向けられた、「見えない神」からの授けものであると把握することが可能であるだろう。


 無論、彼らには、神の裁きに耐え、苦難な人生を余儀なくされたヨブ(旧約聖書の「ヨブ記」の主人公)のような苛酷な試練を与えられることはなかったが、それでもそれは、彼らの日常性を問い直すに足るだけの決定的な試練となった授けものであった。(画像は、ジェラルド・ゼーガース画の「忍耐強いヨブ」)
 
 ―― それは、どんな試練だったのだろうか。

 その試練の中枢的ラインは、階下に住む緒方夫婦の関係の修復の様態にある。具体的に言えば、緒方隆吉という、一人の凡庸な中年男が、妻弘子に対して如何にその心を繋ぎ合っていたかというテーマに関わる、一つの細(ささ)やかな、しかし根源的問いかけであると言っていい。

 彼は本当に心から妻を愛していたか、そしてそれが、無限抱擁の包容力にどれほど近づき得る重量感を持っていたかについて問いかけたのである。その結果、妻を愛する夫を演じていた男の臨界点が無残に晒されて、それによって、今度は男自身が自らの生の在り処を問うという、極めて実存的な濃度の深い煩悶に拉致されてしまったのである。


 捨て子事件と二通の戸籍謄本の出現によって、男は妻と信じた女の「過去」の世界に呪縛されてしまったのだ。男が妻の中に見たのは、「過去を持つ女」としての妻の存在の仕方であり、それ以外ではなかった。男は妻の中に、自分を一貫して大切に思ってくれる存在性を示す現在的人格を、あるがままに受容することができなかったのである。
 
 人間の存在とは、常に身体を効率的に転がしていく自我が確信的、又は非確信的に状況を作り出してきたか、それとも、その時々に捕捉されてきた状況に如何に対応してきたかについて、それ自身のうちに刻んできたその軌跡の集積の様態であって、その軌跡から特定的な情報のみを、恰も、それが一つの価値の検証であるかのように抽出したり、或いはそれが、存在総体の負性価値を表出するものとして摘出したりすることが表現的には可能だが、しかし、そこでの自我の振れ方が極めて恣意的な様態を示すから、その自我の本来的な性格が包み隠さずに炙り出されていくのである。
 
 そして決定的状況下で、男の自我が炙り出してしまったものは、男が極めて防衛的な性格の持ち主であること、更に他者と関わるとき、その人間の負性的側面にのみ捕捉されてしまいやすい包容力の狭量さであった。そして、そこに男の悋気がべったりと絡みついて、男の自我の状況支配力の限界をも晒すことになった。男はもう、自分で自分を追い詰めていくという流れ方しかできなくなってしまったのである。

 男の防衛的な性格は、重婚罪への恐怖感が自ら拠って立つ精神的、生活的基盤の喪失への恐怖に繋がって、本来、プライオリティの筆頭であるべきはずの愛妻が陥った立場への理解と、それに対する援助感情を削っていくことになったのだ。
 
 男はあまりに臆病であり過ぎた。

 妻を本気で愛する気持ちがありながらも、ひたすら自己防衛に振れてしまったのである。そこには当然、妻への愛情の裏返しとしての悋気が存在したであろう。しかし男は悉(ことごと)く状況から逃避し、自らが投げ入れていくべき身体表現によって、妻の自殺を食い止めるという決断力の欠如を晒したばかりか、その後も、妻との精神的共存の決定的選択を回避してしまったのである。即ち、男に最も欠けていたのは状況突破力それ自身であったのだ。
 
 そして、男の状況突破力を阻害した最大の要因は、男が女の人生の軌跡のその負性的側面にのみ捉われてしまったことにある。男は妻を、「許しがたき過去を持つ女」という負性的文脈で把握してしまったことで、もうそれ以上先に進めなくなってしまったのだ。男は妻の現存在性のかけがいのない価値を、絶対的に選択することによって妻を守り、夫婦が置かれた困難な状況を突破する熱量を、その内側に再生産できなかったのである。
 
異なった角度から見ると、対岸に聳(そび)える煙突の本数が、その位置から捉えた本数分だけ特定的に捕捉されてしまうように、人間は自らが拠って立つ基盤が自然理に自我に投影させた特定的な視線によって、人間的現象、とりわけ特定的状況が開いた特定的人格の、その本来的な多様性の一角を、その特定的状況の圧倒的状況下で、特定的に切り取ってしまいやすいのである。

 まして、特定的状況が内包する問題が深刻であればあるほど、その状況にインボルブされた自我は、より防衛的な方向に振れていきやすいのだ。かけがいを常に策定することで自らを安堵させていく自我能力の臨界点を状況が越えるとき、自我はプライオリティの保守的ラインをも崩されて、本来的に守るべきはずの何ものかを愚かにも手放してしまうのである。

 それが人間の真実の姿でもあり、その裸形の人格を剥き出しにしたときの、私たち人間の圧倒的な脆弱さでもあるということだ。

 要するにこの物語は、「特定的状況が開いた特定的人格の、特定的切り取り」についての、あまりに人間的な振幅を描いた映像作品だったと見ることができようか。

 本作は、容赦なく凡庸な男の自我の様態を描き出してしまった。どこまでも、この中年男の人格の格好悪い振幅のさまが、物語の中枢にある。

 そんな男の特定的視線によって捕捉された妻は唯、その視線の狭隘な世界の中で翻弄され、甚振(いたぶ)られ、傷つき果ててしまうのである。


 妻は、一貫して変わらなかったのだ。

 夫の視線の、ほんの少しばかりの包容力によってのみ救われるだけの女は、結局、「赤子の蘇生」という、神がリング上に投げ入れたタオルのサポートによって、本来そこに向うべきはずの予定調和の物語に救われたのである。

 男は遂に、自分を根柢から変えることができなかった。

 人生は、そんな安直な流れ方をする訳がないのだろう。しかしそんな男でも、少しは彼なりの変化を見せたのだ。それは、今度同じような状況に拉致されたときには、少なくとも、「あの経験があったから、今がある」と述懐できるような、何某かの学習を媒介したと思わせる括りでもあった。

 そして失うものが何もない若者たちだけは、たとえその視線が曲線的な航跡を刻んだにしても、そこそこに柔軟な軟着点に辿り着くことが可能であった。彼らの柔軟さは青春の硬直した尖りと共存できるほどに、未だ人生観、生活観の頑な城砦に流れ込む防衛意識とは無縁であったのである。

仙子
とりわけ、映像中盤からの仙子の存在の不可思議さは、まるで、神の啓示を伝える使者の如く振舞っているように見えて、蓋(けだ)し印象的だった。彼女は緒方家に集う三人に試練を与え、それを検証する何者かであるかの如く動いているようにも見えたのだ。

 また彼女を思う青年は、彼女の歓心を買う行動を敢えて見せるかのように、彼女から投げられた試練を、「正義感」の名において遂行した。多くの若者の一時(いっとき)の激情は、当然、継続力を持たないが、仙子の不興を買うことによって、再び蠢動(しゅんどう)していく。最終的に、仙子の選別試験をクリアした若者は、それが予定調和のハッピーエンドに逢着することを確信する者のようにして、彼女の思いとラインを合わせて堤を歩いて行く。
 
 若い男女のラインの寄せ合いで括られた物語のラストシーンが見せたのは、あれほど離れていた3本の煙突が、まるで1本に重なったかのような距離感の解体だった。元々、4本の煙突の数になぞって構成されたであろう主要登場人物四人の心の距離感は、それが最も離れていた感のある状況下において、火力発電所の煙突の数は、その本来の本数である4本の姿を、モノクロ画面の中に鮮明に映し出していた。

 思えば、河川の堤に守られて、そこだけが独立した一画のように存在していた緒方家と、その近辺の階上からは、3本の煙突が、恰もそれが、本来の本数であるかのようにしてラインを印象的に見せていたが、それが2本になり、そして遂に、若者たちの視線のシフトによって1本に重なり合ったとき、まさにこの曲線的な展開の物語に内包されたメタファーとして、それは本篇の主人公である緒方夫婦の心の澱みの解消をも、充分すぎるほど映し出していたのである。


 「お化け煙突」の存在は、見方によっては、一つの人格を肯定的にも、否定的にもしてしまうというメタファーを含むと同時に、或いはそれ以上に、それは登場人物たちの心の距離感をも暗示していたのではないだろうか。(画像は、五所平之助監督)

 
 ―― 以上が私の本作への把握だが、「お化け煙突」に対してこんな見方もある。

 佐藤忠男によると、それを「戦後民主主義」の時代の精神と関連づけた評論である。
 
 「このユーモアの素直さの土台には、もし人々が、お化け煙突が四本に見えたり三本に見えたり二本に見えたり一本に見えたりするたびに、いちいちびっくりして感心するほどのみずみずしい無垢の精神があるならば、という重大な条件がつけられていることを見逃してはならないだろう。戦後民主主義の時代とは、人々が子どものように、分らないことは学ばなければならないと思った時代であり、そのことを、四本煙突にいちいち子どものように無垢な驚きの表情を見せる弘子や健三が現していた。映画『煙突の見える場所』が政治的テーマなどひとつも含まないにもかかわらず、戦後民主主義時代と呼ばれた時代の精神の、ひとつのもっとも純粋な結晶とも見えるゆえんなのである」(「お化け煙突の世界―― 映画監督五所平之助の人と仕事」佐藤忠男編 ノーベル書房刊)


 ―― 最後に一言。

 映像全体に不要なる澱みを残したかのような描写への、容易に妥協できかねる不満を述べる。


原作は椎名麟三。(画像)

 その昔、私が最も親近感を抱いた戦後派作家である。

 その影響もあってか、登場人物たちの台詞の表現には不自然さが目立つ箇所が多くあり、それが最後まで気になった。正直、私の主観的な許容範囲内に収め切れない部分もあって、そんな素人紛いのシナリオを棒読みにする役者の演技と付き合う辛さに、しばしば集中力が切れたのも事実だ。何とかならなかったのか、と今でも引き摺っている部分があるのだ。

 椎名麟三がシナリオを加筆修正したと聞いているが、有能な小説家と達者な脚本家の違いを瞭然と検証させしめた根柢にあったものは、極めてイデオロギー性の濃度の深い、孤高なる作家的精神の文脈であると考えざるを得ないところでもあった。

 それは私の中では、前出した佐藤忠男のありきたりで、「戦後民主主義」への拘泥の強い文化人の、一見、もっともらしい映像分析では処理し難い把握なのである。

(2006年9月)

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