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2008年12月3日水曜日

近松物語('54)       溝口健二


<「峠の爆発」―ラインを重ねた者の突破力>



序  「近松ワールド」を代表する一作



「おさん」は、元禄文化が生んだ最も有名な人物の一人である。

中でも、井原西鶴の「好色五人女」の内の一人で、「おさんの巻」の主人公としてつとに名高い。勿論、「おさん」は実在の人物で、手代との不義密通の廉(かど)で磔となった江戸時代を代表する美女の一人とされる。

この美女の悲恋を、元禄文化の一方の雄である近松門左衛門が浄瑠璃に仕上げて、「三大姦通劇」の一つとして現在に伝わっている。その名は「大経師昔暦」(注1)。

それは、天和三年(1683)に、実際に起こった姦通事件をモデルにした、「近松ワールド」を代表する一作と言っていい。

映画「近松物語」は、この浄瑠璃がベースになっている。

しかしその内容は微妙に異なり、それは、溝口ワールドの内に位置づけられる、幾つかの代表作の一つと評価される映像作品に結実したのである。

脚本は、「雨月物語」の依田義賢、撮影は宮川一夫というお馴染みの匠の手による本作は、「武蔵野夫人」、「夜の女たち」、「楊貴妃」、「赤線地帯」という駄作を世に送った監督の作品とは思えないほどの秀逸さ。

例えば、「赤線地帯」に代表されるように、単に類型的なエピソードの繋がりだけで、そこに描き出された者たちの人生を深々と描き出せなかった多くの失敗作とは違って、この作品は「雨月物語」同様、余分なものを削った分だけ見事に洗練されていて、日本映画史上にその名を刻む一級の名画として、今でもその輝きを放って止まないであろう。


近松門左衛門像(尼崎市近松公園・ウィキ)
(注1)因みに、他の二つの姦通劇は「堀川波の鼓」、「鑓の権三重帷子」である。いずれも、「夜の鼓」(今井正監督)、「鑓の権三」(篠田正浩監督)という著名な作品となって映像化されている。



1  引き回しされる男と女



―― 本作の世界に入っていこう。


京都烏丸四条室町にある大経師(だいきょうじ)。

そこは宮中や幕府の表具や経師(布や紙を貼って、巻物、掛物、屏風、襖などに仕立てること) を施す職人集団。

しかも当家は、暦の発刊も独占的に許可された特別な待遇を得ていた。

それを象徴する表現が、冒頭の大物の客の台詞の中にあった。

「どこの家も要りようの暦を、一手に引き受ける。金のなる木を持ったようなもんや。大名や町人も不景気で青息吐息やそうだが、このお宅は結構やな」

この大経師の後妻が、美女の誉れの高いおさんだった。

彼女は何不自由しない生活を送っていて、傍目には羨望の的だった。

しかしおさんには、ウィークポイントがあった。商売を営む実家の兄に当たる、道喜からの金の無心が収まらないのだ。

道楽三昧の生活を送る道喜(左)
今回は、家を質に入れたその金の利子に詰まって、妹に泣きついて来たのである。

「何とかしてくれ・・・三日のうちに返せなんだら、わしゃ、牢に入らんならん」
「まあ、商人らしくもない。そんな向こう見ずな真似をして・・・」

おさんは吝嗇(りんしょく)家の亭主である以春に頼もうとしたが、「金の無心なら断る」と初めから釘を刺され、結局切り出せなかった。

その亭主の以春は、おさんの眼の届かないところで女中のお玉に色目を使っていて、彼女を困らせていた。

誰にも相談できないお玉は、当家でも信望厚い手代(注2)の茂兵衛に、そのことを打ち明けたのである。

「お家(いえ)さまにも申し上げようかと、何ぼも思うたけど・・・」
「そりゃいかん。そんなこと言ったら大騒動になる。第一、お家さまがお気の毒や。とにかくお家のためを思うたら、誰にも傷がつかんように、しっかり腹に納めて辛抱するのが奉公人の務めや。ご奉公しているのを忘れたらいかんで」

お家さまとは、若くして当家に嫁いだおさんのこと。お玉は茂兵衛の言葉に納得するしかなかった。

そこに階下から番頭の声があった。

不義密通の罪で引き回しされる男女が、馬に乗せられて商家の前を通り過ぎていくのだ。それを見る群集の好奇心が、罪人となった男女に束になって降り注いでいくのである。

商家からその光景を眺める以春は、傍らの妻に言い放った。

「これから磔にかかって、晒し者にされんのや。本人だけやない。家の恥や。女子のすることは恐ろしい。武家が不義者を成敗することができなんだら、家は取り潰しや」
「あんな浅ましい目に遭うくらいなら、いっそ、ご主人に討たれてしもうた方がええのに」

そんな夫婦の会話から離れたところで、女中たちの正直な反応もあった。

「男はどんな淫らな真似もできるのに、女子も同じことしたら、何で磔になるのやろ。えらい片手落ちの話やな」とお玉。
「人を殺したり、お金盗んだのと違うのに」と別の女中。
「ほんまに、あんなの可哀想や!」と、これも別の女中。
「それは可哀想や。気の毒やと思うけど、人の道はずしたらいかん。それが御政道の決まりや」

女中たちに不満をぶつけられて、茂兵衛はそう答えたのである。


お玉を口説く以春
(注2)番頭と丁稚(商家などに奉公する年少者で、雑役の仕事が多い)との中間に位置する、商家の使用人のこと。



2  逃走へ



大経師の亭主の吝嗇故に、金の工面ができないで悩むおさんは、その思いを茂兵衛に相談することになった。

茂兵衛はそれを快諾した。彼は主人の印判を用いて、取引先から一時的に金銭を借りておこうとしたのである。

しかし運悪く、それが先輩の手代の助右衛門に見つかってしまったことで、彼の恫喝に屈することなく、茂兵衛はその事実を、直接、主人に打ち明けてしまったのだ。

だが、茂兵衛の甘い考えは、以春の逆鱗に触れることになった。

主人は単に吝嗇の故ではなく、そこには茂兵衛に対する激しい嫉妬心も絡んでいた。実の所、以春は自分の妾にしようとした女中のお玉から茂兵衛との関係を告白されていたのである。

勿論、それはお玉の、その場凌ぎの言い逃れだった。

その場に立ち会ったお玉は、茂兵衛を庇うために、主人に自分が頼んだものだという作り話をするが、以春は、「お前ら密通していたんやな」と感情を荒げるばかり。真実を知るのは、おさんと茂兵衛の二人だけだった。

左から手代の助右衛門、おさん、以春、茂兵衛
しかし怒りが収まらない以春は、助右衛門に命じて、茂兵衛を裏の納屋の二階に閉じ込めてしまったのである。

お玉の部屋を訪ねたおさんは、お玉から全ての事情を聞き知った。

毎晩、お玉の寝所に屋根伝いに忍び込む以春の魂胆の醜悪さに、おさんは強い憤りを感じた。

それでなくとも、吝嗇で傲慢な亭主に対して大きな不満を感じていたおさんは、一計を案じて、その晩、お玉の部屋に自分が泊まることになった。亭主の不埒な現場を押さえようとしたのである。

ところが、そこにやって来たのは亭主ではなく、監禁された納屋から脱出してきた茂兵衛だった。

「わしはこの家を見限った。ここを立ち退く。一言、礼を言いたくて来たねん・・・」

茂兵衛は自分を庇ってくれたお玉に、最後の別れを告げに来たのだった。

あろうことか、布団から顔を出したのはお玉ではなく、おさんだった。驚く茂兵衛に、おさんは事情の要諦を説明したのである。

一方、茂兵衛が納屋にいないことを知って驚いた助右衛門は、家内を捜索する中で、茂兵衛とおさんが一緒にいることを不義密通と勘違いし、事は一気に大きくなってしまった。

亭主の以春に弁明するおさんは、それを信じようとしない亭主につくづく愛想が尽きたのである。

その間、茂兵衛は当家に見切りをつけて、逸早く逃走した。

お玉(左)とおさん
彼は未だに、おさんの金を用立てようと必死だったのだ。その金策のために逃走したのである。

おさんもまた、彼の後を追うように経師屋を離れ去った。

離れ去った二人が、偶然、夜の京の町で出会い、そのまま共に逃走することになったのだが、この辺りの描写の繋ぎ方は、いかにも物語的であったと言えようか。

ともあれ、全ては、ここから開かれていくのである。

「なあ、茂兵衛。人の運ほど、分らんものはないなぁ。たった一日の間に、こんなことになってしもうて」
「お気の弱いことおっしゃいますな。明日のことはまた、明日考えましょう」

二人はその晩、宿屋に泊まることになった。

茂兵衛はおさんとは別の部屋をとって、朝を迎えることになったのである。



3  静かな夜の湖畔を切り裂いて



一方、二人の駆け落ちを確信しつつあった以春は、手代の助右衛門に命じて、おさんのみを捕えて、戻して来るように手配をした。

彼は今や、名字帯刀を許された大経師の看板を背負っているので、自らの立場を守ることに腐心するのみ。彼が奉行所に事件を訴える義務を怠った理由は、そこにしかなかった。

しかし、以春は二人の不義密通を、袖の下を使って役所に内密に知らせることで、何としてでもおさんの身柄のみを確保することに奔走した。

幕府に知られずに役人を動かす力が、以春には備わっていたのである。

まもなく、その手配が京都の周辺に及んでいく。二人はそのことを知って、いよいよ追い詰められていくことになったのである。

琵琶湖を渡る一艘の小舟があった。

霧の霞む夜の湖を静かに進む小舟に、男と女が乗っている。おさんと茂兵衛の二人である。

「おさんさま、お覚悟は宜しゅうございますな」

茂兵衛はその一言を放って、おさんの足を紐で縛っている。

「私のために、お前をとうとう死なせるようなことにしてしもうた。許しておくれ」
「何をおっしゃいます。茂兵衛は、喜んでお供するのでございます・・・今際(いまわ)の際なら、罰も当りますまい。この世に心が残らぬよう、一言お聞き下さいまし。茂兵衛は、茂兵衛は、とうから、あなた様をお慕いもうしておりました」
「え!私を」

おさんの驚きの声が、静かな夜の湖畔を切り裂いた。

思いも寄らない茂兵衛の告白に、今まさに身を投げようとする女の心が大きく揺さぶられ、激しく崩されていく。
それはかつて、女が一度も経験したこのない決定的な衝迫力を持つ何かだった。女の中で何かが弾け、何かが芽を噴き上げていく瞬間だった。

こうなったときの女は、滅法強い。

自分を今まで呪縛していた観念から解放されたときの女の強さは、それになお縛られる、男の表層の観念の無意味さを突き抜けてしまっているから、自由になったときの突破力で状況を支配できるほどに、女は逞しさを発揮するのである。

次の女の一言は、その逞しさを象徴するものだった。

「お前の今の一言で死ねんようになった」
「今さら、何をおっしゃいます」
「死ぬのは嫌や。生きていたい」

おさんはそう言って、茂兵衛に抱きついた。

女の突破力を、茂兵衛はまだ受け止められないでいる。男の観念の残像と、その身分の壁が男をまだ狼狽(うろた)えさせているのだろう。

助右衛門に命じる以春
一方、二人が琵琶湖で心中したという噂が以春に伝わって、彼は再び助右衛門を遣わした。

彼に命じて密かに捜索させるつもりなのである。何としてでも、以春はおさんの身柄のみを確保することに拘っている。

全ては、大経師の特権を守る為の浅知恵でしかなかった。

おさんと茂兵衛は、大経師の浅知恵によっては、とうてい把握できない世界に侵入していった。

彼らの世俗的な思惑とは無縁な次元で、二人はその思いをクロスさせつつあったのだ。



4  峠の爆発



峠の茶屋を目指して、男は女を担ぐようにして、その歩を一歩ずつ進めていく。

ようやく辿り着いた茶屋は、単に一軒の農家のようでもあった。

男は農家の主婦に一時(いっとき)の休憩を求めて、快諾された。人の良さそうな農婦だった。

女は旅の疲れで、足が動かなくなるほど弱っていたのである。男は女の足を労り、一泊の休憩を求めて、それも快諾された。

「こないな楽しい旅はないのや。ほんまに嬉しいと思うてる」

女はもう、突き抜けてしまっていた。

男だけが、まだ突き抜けられていない。

女の言葉に男が無言で反応した行為は自己犠牲的だが、しかしそれ以外にない現実的な文脈だった。


府中宿甲州街道)の高札(ウィキ)
峠の麓の高札(板面に記された法令)を既に確認していた男は、役人が捜しているのはおさんではなく、おさんを勾引(かどわ)かしたとされる男自身であることを承知していたからだ。

男はこのとき、自らを犠牲にしてまでおさんを救うことのみを考えていたのである。

女が農婦に足の手当てをしてもらっている間に、男は茶屋をそっと抜け出した。

男は峠を一人で下っていく。

まもなく、女がその事態の異変に気が付いた。

女は血相を変えて茶屋を飛び出して、男を追っていく。

「茂兵衛!茂兵衛!」

男はその声を振り切るように、峠をひたすら下っていく。

女は男を追うことを止めない。自分の足の痛さを忘れたかのように、女は男を追っていく。

男は廃屋の影に隠れて、両耳を両手で覆った。女の歩きはあまりに覚束なかった。

女は、男が隠れ忍ぶ場所のすぐ手前で倒れ込んだのである。

ここで男はもう、我慢の限界を越えてしまった。倒れた女を助けない訳にはいかなかったのだ。

「なぜ、なぜ逃げるのや!なぜ、私一人置いて!」

女は男の胸に飛び込んで、自分を置き去りにしたその心を責め立てた。

女は嗚咽の感情を、思い切り男にぶつけたのである。

「私のために、苦労かけもうして、申し訳ございません。」

男は女にひたすら謝り、自分だけ大経師に戻るように促した。まだ男の心は、女の思いにまで届いていないのである。

「私がお前なしで生きていけると思うてるのか!お前はもう奉公人やない。私の夫や!旦那様や!」
「悪うございました!悪うございました!もう二度と、離れません!」

女はきっぱりと、思いの丈を男にぶつけていく。

男は、自分を縛っていた何かが解き放たれたように、女を力強く受け入れた。長く思慕してきた女を、男は自分が最も愛する者として受け入れたのである。

もうそこには、「お家さま」と「手代」はいなかった。

そこにいたのは、おさんという名の一人の女であり、茂兵衛という名の一人の男以外ではなかった。

「峠の爆発」
それはまさしく、「峠の爆発」と呼ぶべき何かだった。

男の心が、ようやく女のそれに追いついて、二人のラインが重なった瞬間だった。



5  縛る縄を解き放たれて



茂兵衛はおさんを連れて、実家に戻った。

実家では、既に茂兵衛の手配が回っていて、彼の父は息子を受け入れなかった。

「茂兵衛、行きましょう」
「せっかく、ここまで来たのに・・・」

この二人の諦め切った反応に、茂兵衛の父は温情を示して、裏の納屋に隠れるように指示したのである。父もまた、一つの覚悟を括ったようだった。

二人は父の温情に甘えて、暗い納屋にひっそりと息を潜めていた。

そこに父が食事を持って来て、二人に諭すように言い添えた。

「ここへ泊まったら、夜が明けんうちに、立ち退いてくれ。悪いことしたには、訳もあろうが、親の前で捕まるような真似はするなよ」

二人は茂兵衛の父の温情に感謝して、その晩、納屋の暗闇の中で不安な夜を明かしたのである。

翌朝早く、助右衛門の一行が村の者と連れ立って、茂兵衛の実家にやって来た。助右衛門は恩着せがましい説諭と恫喝によって、遂に茂兵衛の父の口を割らせた。

一行は素早く二人が潜む納屋に侵入し、おさんのみを強引に引き離して、彼女の実家に連れ戻したのである。それもまた、事を穏便に図ろうとする以春の浅知恵だった。

一方、茂兵衛は実家の納屋に縛られて、彼を引き取りに来る役人を待つばかりの身であった。

「お父つぁん、逃がして、逃がしてくれ!このままでは、死に切れん!」
「逃げてどうするねん!お前はご主人のご内儀に思いをかけられるような身分やない!いつまでも埒もないことを言うな!」
「お父ぁんには、わしの心が分らん!」
「分らんで、幸せや!・・・明日、お前を京から受け取りの役人衆が見える」
「ほんまか!」
「ほんまや・・・こんな倅を持ったのも、親の因果や。この不幸者めが!」

父は息子を激しく拒みつつも、その手は息子を縛る縄を解(ほど)いていた。

「みっともない真似をするんじゃないぞ!さぁ、早う行きくされ!」

これが、父と息子の最期の会話になった。解き放たれた息子が向う場所は一つ。おさんの元である。



6  背中合わせで握り合う手



そのおさんは、実家に戻っていた。

母と兄からの執拗な説諭が繰り返されて、以春の元に戻ることのみを強いられた。

それでもおさんは、首を縦に振らない。彼女には大経師に戻る意志など全くないのだ。

彼女の心は一つ。茂兵衛との再会のみである。

その茂兵衛との再会が、思いもよらず実現した。

縁側に出て哀しみに暮れる女の視界に、最も会いたい男の姿態が捉えられたのである。父から縄を解かれた男は、一直線に女の元に向ったのである。

再会の喜びが爆発し、二人は言葉を交わすことなく固く抱き合った。その二人の姿をおさんの母が目撃し、母は二人を密かに家の中に招き入れた。

「茂兵衛、逃げて来たのか?」
「はい。もうお眼にかかれないものと諦めておりました」
「どんなことがあっても、もうお前の傍を離れない。どこへもやらない」

茂兵衛とおさんは、今や一人の男と女に変貌していた。

「峠の爆発」以来、二人の心のラインが重なって、いかなる苦境に陥ろうとも、彼らの思いはますます募っていくばかりだった。

それが禁断の恋の信じ難いほどの突破力なのである。

その突破力によって、二人はおさんの母の説諭を突き抜けていく。

「おさんさまを、お連れ申しに参りました」

茂兵衛の力強い一言は、却っておさんの母を激昂させた。

「無法じゃ!茂兵衛さん、あんたが一人で名乗って出ておくれ。そうしたら、みんな助かるのや。真実、おさんを思ってくれてるなら、どうぞ、そうしてやっておくれ!頼みます!頼みます!」
「私も、一旦はそう思いました。どうぞ、お許し下さりませ」

茂兵衛はゆっくりと、自分の思いを静かに、しかし、確信的におさんの母に伝えたのである。

その母の前で、男と女は抱き合った。

禁断の恋の突破力は、なお継続力を持っていた。

ここまで追い詰められても、二人は確信的に無法の世界から解き放たれようとはしなかったのである。

それは既に、二人が死を覚悟していることを如実に示していた。

二人は一度は琵琶湖で死ぬつもりだったのだ。

おさんと母
彼らにはもう、死への恐怖に怯える何ものもなかったのである。

彼らはまもなく役人に捕縛された。

彼らの罪状は、「不義密通の罪」。無論、大罪である。

その大罪のペナルティは、市中引き回しの上、磔の刑。

お上に正式に二人の罪を届けなかった以春は京を追放され、闕所(けっしょ・注3)の処分が下されて、繁栄を誇ったその大店は時の幕府に没収されることになったのである。


(注3)江戸時代、幕府によって財産が没収されること。


引き回しされる一頭の馬の上に、男と女が背中合わせに縛りつけられている。おさんと茂兵衛である。

その光景は、彼らが物語の冒頭で見た引き回しの男女の表情と決定的に違っていた。その男女の顔はうな垂れていて、晒し者にされる羞恥心に懸命に耐える者の表情だった。

しかし、この男女は違っていた。

彼らは、背中合わせになりながら、手を固く握り合って、そこには、見物衆の好奇心に晒される者の羞恥心が全くなかったのだ。

禁断の恋の最終到達点
彼らの元で働いていた女中の一人の言葉が、そのことを端的に表現していた。

彼女はこう言い放ったのである。

「お家(いえ)さんの、あんな明るいお顔は見たことがない。茂兵衛さんも晴れ晴れとした顔色で、ほんまに、これから死なはんのやろか・・・」

これが、映像を括る最後の言葉となった。


*       *       *       *



7  思いの全てを雪崩れ込む濃密度



この映画は、男と女が初めて手にしたであろうその生命の輝きを、ある一定の限定的に制約された時間の中で噴き上がった瞬間において、そこに、その思いの全てを雪崩れ込む濃密度によって、集中的に表現された一服の劇薬であった。

限定的に制約された時間とは、琵琶湖畔の告白から峠での固い抱擁に至るまでの、最も個性的な時間である。

しかしその時間は、二人にとって最も至福なる人生の瞬間であって、同時に、感情が少し遅れてきた男が、既にその感情に辿り着いた女の情念にようやく追いついた、何よりも決定的な人生の瞬間を激烈に表現する時間であった。

その時間は、そこに至るまでの世俗的な時間の一切を、単に予定された振幅を含むだけの「伏線」とする意味しか持たせず、またそれ以降の時間を、「爆発」の後に当然やって来るであろう、「余話」の範疇でしか扱えないほどの価値を越えるものではなかったのである。

全ては、「峠の爆発」を頂点として、そこに関わる者たちの心理的、且つ、情景描写を様々にあしらった物語であったということだ。それ以外ではないのである。



8  男と女 ―― その自我の流れ方 



男が女の至福の感覚に追いついたとき、全てが極まったのである。

しかし男が女に追いつくには、男の中になお残っていた観念の粒子を払拭する必要があった。

「職人道」に生きる男の規範の観念系

男は観念によって自我を武装しているから、その武装が男に比べて常に形式的でしかない女の自我の流れ方の速度に、いつも少しずつ、その武装解除の決断が遅れてしまうのである。

「武士道」や「町人道」、「商人道」、「職人道」、「粋人道」等を必要とする男に比べて、女は自分の自我の武装を、そんな形式的で観念的な枠組で一々把握し、それを自己確認していく面倒臭い言語的手続きを殆ど必要としないのだ。

だから女は、一度突き抜けてしまったら最も強い何者かになり得るのである。

彼女たちの自我武装が形式的だからこそ、それが可能なのである。

その自在性の圧倒的なパワーに、男はたいてい平伏(ひれふ)してしまうのだ。


言ってみれば、女の自在性は、ある種の近代的自我のフリーハンド性を、極めてナチュラルな形で自己表現していると見えなくもない。

突き抜けて、覚悟し切った女の強さ
女の強さは、その自在性の内にこそあると言っていい。

とうてい、「道」を必要とすることなしに生きていけない男の自在性の足りなさとは比ぶべくもないのである。

琵琶湖畔で、男と女は死を覚悟した。

男は女の足を縛り、女も死への誘いに何の躊躇もなかった。しかし男は、今際の際で女に有りっ丈の思いを告白してみせた。

男にとって、それは死への旅路の思い出を刻む吐露でしかなかった。

死を決意させたのも観念なら、その死の旅路に、「告白」という土産物を残そうとした男の思いもまた観念だった。

どうやら男という生き物は、観念から観念への旅しか選択できないようである。

しかし、男の死への旅路の置土産は、女の情念に大きく振れて、それが目指すものの反対の方向にそれを突き動かしてしまった。

「死ぬのは嫌や。生きていたい」

女のこの言葉は、映像を貫流するマニフェストと言っていい。

このとき女はなぜ、この絶対状況を突破できたのか。

そして、そこで突き動かされたものに、男はたじろいだ。

男を求める女の思いを、男は受け止められないのだ。なぜなのか。


―― その辺りを少し書いてみる。



9  観念体系に縛られて



まず男のケースから。

男にとって、死の覚悟の根柢にあったのは、「職人道」への道を閉ざされた絶望感であったように思われる。

この男から、「職人性」の世界を奪ったら、恐らく何も残らないであろう。

彼は貧しい百姓の家を離れ、幼くして丁稚奉公の世界にその身を投げ入れて、筆頭手代の地位に近づくほどの精進を重ねてきた。今では、もう押しも押されぬ大経師の看板職人になっていたのである。

ところで、階級社会の秩序が比較的堅固に形成されていた江戸封建社会で、それぞれの出自によって職業選択が制約された環境下にあって、それでも多くの階層内秩序への侵入によって、そこで、「能力を持ち、その能力によって努力するものは報われる」という、一種の能力主義社会の、「分」に見合った報酬の享受は約束されていたのである。

江戸時代は、多くの者が決めつけてしまうほどに、頑なで、フレキシビリティの欠如した社会ではなかったということだ。

この把握はとても重要である。


現在に繋がる「職人道」①・筥迫(はこせこ・紙入れの一種
物語の主人公である茂兵衛もまた、職人集団という一つの階層内秩序の中で、その優れた能力によって最大限の出世を遂げつつあったと言える。

彼らの中で、その拠って立つ自我の基盤はその能力が正当に評価され、暖簾分けしてもらって自立するという、何にも増して替え難い観念のラインの内にこそ求められるであろう。

この観念のラインに、突然亀裂が生じたのだ。

大経師の主人である以春の茂兵衛に対する仕打ちは、恐らく彼の想像を越えるものであったに違いない。

後に、それが自分に対する主人の嫉妬絡みの仕打ちであると分ったが、しかしそれ以上に、彼は暖簾分けを嫌がる主人の魂胆を読み取って、遂に当家との絶縁を決意させるに至ったのである。

職人にとって、拠って立つ自我の基盤となる儚い夢が砕かれたら、もう立ち行けなくなるのだ。

観念体系の崩壊は、男にとって、生き死にの問題に関わるからである。

彼が観念体系に拘る限り、他の店にシフトする選択肢も当然あった。


現在に繋がる「職人道」②経師(有限会社 青木経師店HPより)
彼はそれを視野に入れて動くべきだった。動こうともしたはずだ。

しかし彼には、当家に対する唯一の未練があった。

おさんへの強い思慕の念である。

これは、彼の自我の中で説得的に封印されていたはずだが、おさんからの思わぬ相談の依頼に、男の心が大きく振れてしまったのである。

その時点では、彼はおさんの求める五貫(注4)の金銭の用立てをすることで、当家との未練を断ち切ろうと考えていたに違いない。

しかし、彼のこの考えは信じ難い展開に見舞われることで、一気に破綻していった。

おさんとの不義密通の嫌疑をかけられたばかりでなく、当家に失望したおさんもまた、茂兵衛の旅路の同行者になってしまったのだ。


(注4)千文が一貫とされていて(江戸時代には九百六十文)、四貫文=一両という尺度となっていた。


だが、この二人の旅は、微妙なところで未だ重なり合っていない。

男の旅の目的は、女のための金策。それが、男の喪失しかかったアイデンティティを支えていた。

女の存在性の大きさが、なお男の自我を支配していたのである。

このとき女には、帰るべき場所を失った不安な心から発した男への依存感情があった。

従って、女は言わば、目的を持たない旅に打って出たということになる。女はかくも危険な選択をしたのである。

そんな女を、男は捨てられない。

捨てられない感情が、男の中にべったりと張り付いていたからだ。

しかし、この二人の道行きが、不義密通という大罪に踏み込んだ者の、謂れ無きレッテルを貼られることになった。

二人はとうとう、その身を寄せることが許容され得る如何なる場所をも失ってしまったのである。

そんな二人が、琵琶湖畔に小舟を浮かべた。

先述したように、男が死を覚悟したのは職人世界への復帰を完全に断たれたことと大いに関係するだろう。

だから男はこの世に未練を残すことなく、小舟の中で女に告白する。男には、死への旅路という選択肢しか残っていなかったのである。

その覚悟を決めた心に、女の情念が唐突に侵入してきた。

そんな女の情念を男が直ちに受容できなかったのは、簡単に観念体系のシフトが進まなかったからである。

一度破綻した彼の観念体系を埋めるべき何ものもなく、且つ、大罪人としての未来しか男には残されていなかった。こんなとき、男は最も弱い何かになるのだ。

そして、何よりも重要な点がある。

女に対する階層内秩序の堅固な身分意識だけは、彼の自我を深々と支配していたということだ。

男にとって女の存在は、固有名詞としての「おさん」ではなく、どこまでも「お家さま」なのだ。手代という身分の男が、「お家さま」を抱擁することなどできようがないのである。

男はこのように、いつまで経っても、そこだけは捨てられない類の観念体系に縛られて止まない生き物なのであろうか。



10  平和な社会の中での魅惑的な快楽ゲーム    



次に女のケース。

おさんは一介の商家の娘から、大経師という特別な大店の後妻に嫁いだ。

亭主の以春は既に初老期を迎えていて、そこに三十歳もの年の開きがあり、とうてい若い娘の異性的対象となるような人物ではなかった。

しかもこの男は吝嗇家で、好色な人物。

その性格は、名字帯刀を許された自分の身分を鼻にかける傲岸不遜そのもの。そんな男に、都で名高い美女が嫁いだのである。

嫁いだ理由も、彼女の実家の経済的事情と関係しているらしい。

言ってみれば、おさんは実家の商売を支えるための政略結婚的な含みを持たされて、大経師の後妻になったのである。

然るに、不幸この上ないおさんの身の上に、観る者は限りなく同情するであろうが、それはあくまでも現代の視点で物語を了解してしまうからである。

当時にあっては、おさんは寧ろ、玉の輿(こし)に乗った奇特な存在として羨望の的になっていたと考えられる。

もとより、結婚=「恋愛」の帰結点という観念はおろか、「恋愛」という概念など存在しなかった時代の縛りの中では、おさんの後妻入りは稀有なほどの幸運だったと言えるだろう。

―― 大体、自由恋愛という観念は、近代ヨーロッパから移入された一種のイデオロギーであり、近代以前の社会の多くは、「結婚した後、相手を好きになる」ように求められた観念が普通に根づいていて、誰もそれを疑っていなかった。

それにも拘らず、江戸の庶民の異性間交流はビジネスの範疇を超えて活性化していたという報告が、近年次々に世に送り出されていて興味深い。

それは、内乱のない平和な社会の中での魅惑的な快楽ゲームとして、異性間交流の内包する価値が絶大であったという普遍的な把握によって了解されるものであろう。

とりわけ庶民の世界では、好きな者同士が結ばれるという形式は、特段に例外的なケースではなかったはずである。

後述するが、それ故にこそ、現代の女性の感覚と大して変わらないような不義密通事件が多発していて、しかもその多くが、庶民レベルでは、内々の話し合いで大事になる前に解決されていたらしいのである。

お玉(右)の相談を聞くおさん
どうやらそれは、おさんのような特別な大店(おおだな)に嫁いだ娘のケースとは相当な隔たりがあるようだ。



11  女としての感情が一気に噴き上がって



さて、おさんの場合。

彼女が以春との結婚生活に特段な不満を持っていたとは言い切れないが、それでもその不満を自分の中で処理できる許容範囲で、日々の生活を送っていたであろうことは容易に想像できる。

しかし、一つの事件が決定的に彼女を変えてしまった。

それは彼女に失望する時間すら与えずに、一気に絶望の淵に陥れることになってしまったのである。

彼女にとって、夫である以春に対して以前から不満の因子になっていたと思われる現実が、たった一つの事件で集中的に噴き出てしまったとき、彼女は恐らく、自分の内側でで折り合いが付けられなくなってしまった。

それでも、夫からの温和なフォローがあれば復元したかも知れないその関係性に、より深い亀裂を生み出す夫の恫喝を前にして、彼女は一気に自分が帰るべき場所を失う危機感に襲われてしまったのである。

おさんと以春
その意味で、彼女を謂(いわ)れ無き不義密通者に仕立て上げた挙句、戻るべき場所から駆逐した張本人こそ、紛れもなく、以春その人だったと言えるだろう。

帰るべき場所を失った女は、実家にも戻れず、結局、その時点で最も頼りになるべき存在だった、手代である茂兵衛の目的的な旅路に同行する以外になかったのだ。

そして、その旅路が一大姦通事件として巷間に喧伝されるに及んで、彼らは遂に、琵琶湖畔で心中する苦境に追い遣られてしまったのである。

男も女もそのとき、本気で死ぬつもりだった。

しかし男の唐突な告白が、女がそこに向って旅立つ方向を、全く正反対の向きに変えてしまったのである。

なぜ女は、そこで変わり得ることができたのであろうか。

その一。

男の告白のうちに、人間の真実の声を聞き取ってしまったからである。

大抵、人間は死ぬ前に嘘はつかない。

茂兵衛が語った言葉は、追い詰められた果てに、死の旅路に向かう者が吐き出した、正真正銘の人間の真実の心情の吐露であった。

これが女の情念に強く共振し、激しい反応を惹き起こさせたのである。

その二。

女の中に、茂兵衛に対する好意的感情が内在されていたということである。

勿論、おさんの中に、茂兵衛に対する異性的な感情が強くあったとは思えない。

仮にそれがあったにしても、女の中で固く封印されていたはずである。

それでもおさんは、手代としての役割を真摯に果たす茂兵衛を快く思っていた事実は疑えないだろう。その思いは、人間としての茂兵衛の誠実な人柄に対する好意的感情と言っていい。

これが心理的伏線になければ、茂兵衛の告白を積極的に受容する態度に繋がらないのである。

その三。

女にとって、茂兵衛以外に依拠すべき誠実なる魂が存在しなかったということ。女もまた追い詰められていたのである。これはとても重要な点である。

なぜなら、心理的に追い詰められた者には、その思いを近くする者の魂に強く引かれていくものである。そこに、追い詰められた男と女がいた。男が冥途の土産に心情告白したとき、同様に追い詰められた女は、そこに被せられた不必要な観念の鎧を砕いて、封印された情念を裸にすることができたのである。

これが第四の心理的背景となって、女を根本的に変えてしまったのである。

その四。

これが、今言及した点である。

即ち、茂兵衛の告白によって、女としての感情が一気に噴き上がってしまったということである。

このとき女には、失うべきものは何もなかった。

実家に対する忠義心も殆ど消え失せていて、寧ろ、自分を苦境に追い込んだ兄の借財の要求に対して、妹であるおさんは大いに不満を抱いていたであろう。

更に、大経師に対する未練も全く残っていなかったのだ。

彼女にはもう、帰るべき場所が存在しなかったのである。

女の自我は殆ど空洞状態だった。だから死への旅路に対しても、何の抵抗感もなかったのである。

恐らく女は、このような立場に置かれた他の多くの女がそうであったように、今まで一度も激しい恋の炎に灼け焦がれるような経験を経てきてなかったであろう。

だからこそ、茂兵衛の告白は相当なインパクトがあった。

そして女は、その告白に対して、自然に我が身を流していく全ての条件を合わせ持っていたのである。

静寂なる闇夜の湖、覚悟の死の決意、自我の空洞感、追い詰められた者の孤独感、そして最も信頼すべき者からの愛の告白、等々。

このように、女には我が身を投げ入れていくための条件が揃い過ぎていたのである。

我が身を投げ入れていく女
その意志の反転は、そこに男の告白という極めて人間的な表現の媒介さえあれば、まさに起こるべくして起った必然的現象だったと言えるのだ。



12   魔境の突破を具現して   



琵琶湖の夜に霧立つその日、今まさに死なんとする女が、一艘の小舟の中で、そのか弱い足を縛られていた。

そこに男の告白が唐突に侵入したとき、女は決定的に反転してみせた。

女の中で封印されていた何かが武装解除されて、女の意志がそれを力強く立ち上げていく。

立ち上げられたものは継続力を失うことなく、一気の暴走を躊躇(ためら)うことをしなかった。

しかし、男の自我はその抑制的な観念の鎧をまとっていて、女の心が疾駆しようとする方向に、その情念を合わせられないでいる。

男の自我の武装解除は、大抵少しずつ遅れてやって来るのだ。

男は本来それを臨んでいたに違いない状況から、自らの余分なる脚力で逃走を図ってしまったのである。

その男を、女は追った。叫びながら追った。追って、追って、そして女は峠の麓辺りで倒れてしまった。

そこに、女の脚力の限界が晒された。

しかし、晒されたものへの深い憐憫の思いも手伝って、隠れ忍んでいた男の情念が遂に炸裂した。

一度炸裂した男の情念は、女が辿り着いたラインにまで駆け上り、そこで深々と重ね合った。

二つの魂はもう、戻るべき世俗の場所を自らの意志で切り裂いて、未知なる険しいゾーンに這い入っていくより外にない、魔境のようなその異界のラインを突破していくばかりとなった。

彼らはそこで合わせた二つの意志を、より強く固めていって、遂に魔境の突破を具現したのである。



13  ラインを重ねた者の突破力の破壊性の凄さ



本作は、私から言わせれば、以上の言及によって要約できてしまう映画だった。

それ以外の何ものも入り込む余地のない映画だったからこそ、この映画はひと際異彩を放ち、且つ、感銘深い作品に仕上がったのだと思う。

そこに作り手の思いとは無縁に、不必要なメッセージを読み取ることはナンセンスである。大体この映画が、身分社会や自由恋愛の横行を抑圧する、その制度的な秩序の固定的な体系を批判する作品であると把握すること自体、殆ど意味のないことである。

封建社会の批判を眼目にした作品でないことは、物語のラインの組み立てと、そこに躍動した者たちの堂々としたラストシーンを見れば瞭然とするはずだ。

彼らは禁断の恋だからこそ突破できた快楽に、存分に酩酊することができたのである。

あらゆる妨害を撥ね除けて踏み込んだ魔境のラインで、決定的に表現し得た爆発が、映像の最高到達点に向かう物語のラインと見事に重なったのである。

「峠の爆発」
映像の最高到達点 ―― それは「峠の爆発」のうちに集中的に表現されていた。

全てはここに至るまでの物語であり、ここに至ってからの突破力は、「峠の爆発」によって手に入れた破壊力の産物でしかなかった。

作り手はその有りっ丈の思いを「峠の爆発」のうちに存分なほど刻み、存分なほど炸裂させた。

それは、日本映画史が生んだ最も感銘深い愛情交歓の描写の一つだった。

いつの時代でも、どんな社会でも、こんな男がいて、こんな女がいる。

いや寧ろ、そのような時代であり、そのような社会であるからこそ、こんな男や女が生まれ、繋がっていくとも言えるのである。

こんな風に考えることもできようか。

即ち、「駆け落ちするほどの恋をしてみろ」と揶揄される時代の「優しい文化」に、どっぷりと浸かっている自由なる社会に呼吸を繋ぐ者たちにとって、命を賭けて禁断の恋を突き抜ける若者たちの、その目眩(めくるめ)くばかりの心地良さを体感し得ない人生の中から、既に一つの至福であるが故に、あまりに危険な選択肢の一つが失われてしまったということである。

それもまた、良しとしよう。

選択肢が多いだけの人生の味気なさというのもある。

少ない選択肢の中で、最も危険な魔境に踏み込むことを捨てられないのが、人間の性(さが)であると言っていい。

しかし、危険なものにできる限り近づかない知恵もまた、人間の達成点の一つでもある。命で償う恋の暴走とは無縁な人生をゆっくりと味わう幸福の極みというものも、そこには当然あるのだ。

それは、禁断の恋に誘(いざな)われて暴走した者が、そのペナルティの重さに直面して、初めて自分の人生を悔いる覚悟のなさに比べれば、遥かにクレバーな生き方であるとも言えるのである。

覚悟なくして、禁断の恋に踏み込むな。

そのとき、貴方ならどうするか。作り手は、観る者にそんな風に問いかけていると考えても面白い。


そこで、私なりの結論。

ラインを重ねた者の突破力の破壊性の凄さは、所詮、それを経験したものでなければ理解できないであろう。

然るに、魔境の近くに誘(いざな)われた経験すらなく、且つ、今なおそれに何の価値も見出せない人生を貫けれる者の幸福は、ゲームの中でしか遊べない禁断の恋の快楽を既に充分に圧倒している。

溝口健二監督
恋のゲームの破壊力は高が知れているのだ。

従って、経験の多寡だけが人生の豊かさを決める尺度には決してならないのである。

突入するにも覚悟がいるが、突入しない人生の覚悟というのもある。

覚悟なき者は、何をやってもやらなくても、既に決定的なところで負けている。

従って、この物語の男女のような覚悟を持って自らの人生を括り切れるならば、彼らのように多くの野次馬の好奇な視線を突き抜けて、命を賭けた恋の相手の柔らかい手を、背中合わせで固く握り合うことが可能であるということだ。

その覚悟なしに、安直に禁断の恋の快楽を語るな。

魔境が誘う蜜の味に、フラットな感覚で忍び寄ろうとするな。これは私の経験的な自戒である。



14  「恐るべき江戸時代」という嘘



―― 最後に、一つのデータを提示しておこう。

江戸時代の「不義密通」に関する興味深い情報である。そのテーマは、「不義密通はご法度の時代の不倫の結末」。

「江戸時代は男尊女卑の儒教が社会道徳の基本だったから不義密通はご法度で、『御定書百箇条』には「四十七、密通お仕置の事」という箇条があり、密通の妻も相手の男も死罪となっている。密通の男女を夫が殺した場合、夫は何の罪にもならない。ただし密通は親告罪なので、訴え出なければ処罰されず、相模原では、ほとんど話し合いで解決したようだ。

しかし、上溝(かみみぞ)村組頭の家で孫嫁が下男と密会中を夫にみつかり、その場で二人とも殺されてしまった時には、殺した夫は「お構いなし」の無罪だったが、殺された二人は弔い禁止、死骸は取り捨てよと地頭所から命じられた。死してなお罰せられたのである。

下溝(しもみぞ)村の人妻は、九歳の男の子を置いて、同じ村の男と駆け落ち蒸発した。男にも十歳の息子がいた。中年の恋はわが子への愛を上回ったらしい。

新戸(しんど)村の不良青年にひっかかった人妻もいた。二人は駆け落ちしたが、親類・五人組の捜索で見つけ出され、女は周囲の説得を受け、夫のもとに戻った。青年は出奔して二~三年後に村に戻ったが、またもや、別の人妻と駆け落ちした。青年の噂は村中に知れ渡っていただろうに、崩れた魅力が女心を誘ったのだろうか。二人はそれきり蒸発してしまった。

小山(おやま)村では妻子ある中年男が人妻と駆け落ちしたが、捜し出されて人妻は夫のもとへ帰り、男は三年間自宅謹慎になったいきさつを、男の伜(せがれ)が村役人に届け出ている。

また下溝村の青年は、人妻と密会中を夫に見つけられ、訴え出るといわれた。死罪になってはかなわないと、元名主のご隠居様に頼み込んで、女は夫の元に「形よく」返すことに話をつけてもらい、自分は村外追放の罰に従っている。

上溝村の辻堂に住み着いた僧に、よろめいた人妻があった。

馬喰町無宿というあやしげな僧だが、よほど美男子だったのか。二人の仲はエスカレートし、僧は駆け落ちを持ちかける。女は「十七歳の娘がいるから」とことわるが、僧は「娘も連れて…」と熱烈である。狭い村のこと、たちまち村中の噂になり、怒った夫は離縁を言い渡す。仲人は取りあえず女を江戸に隠し、立退料を僧に出して村外に出て行ってもらう。

しかし、その後も僧はたびたび仲人宅にきて女の居所を尋ねるが「知らない」と隠していたのに、老母が口をすべらせたことから、怒った僧は仲人宅に放火し、火附盗賊改に捕らえられた。関係者一同取り調べをうけたが、夫は供述の最後に、「不義の噂に怒って離縁といってしまったが、不義が事実だったかどうかは知らない」と歯切れの悪いことをいう。「許すから帰って来いよ」とほのめかしているようだ。

とすると、七件の不倫のうち、二人とも殺された悲劇的結末が一件、蒸発二件、夫のもとへ戻ったのが四件という結果で、奔放な浮気妻も意外に夫の寛容に許されていたようである」(ネットサイト・情報誌「有隣」№398『古文書にみる相模野の女たち』長田かな子より/筆者段落構成)

以上は、関東相模地方での様々な事例である。

この文章を読む限り、一般庶民の恋の暴走は、世論の好奇の対象となるようなレベルの高さで取り扱われていないことが、とても良く分る。

不義密通とは、社会的に影響力のある者が魔境に踏み込んだときの大罪の別名であり、一夫一婦制を範とすべき者たちが侵した秩序破壊のペナルティが引き回しの末の磔であり、それに関わった者たちも、闕所(けっしょ)処分という形で苛烈なペナルティを負ったのである。

即ち、没収されるだけの財産を持った者たちは、建前上、秩序の恒常的維持に努めなければならなかったということだ。

因みに、「不義密通」(氏家幹人著、講談社選書刊)という著作によれば、関西地方では幕府のお膝元の江戸とは微妙にその反応が異なっていて、姦通の罪を犯した者の過半が当事者間の金銭の遣り取りなどの示談で事件が処理されていたらしい。

当時も今も、この国では、建前と本音が常に微妙な部分で使い分けされているのである。

従って、本作の物語は、あくまでもモデルとなった事件の浄瑠璃をベースとした脚色であり、更にそれを映像化する際に物語的な脚色が施されていたのである。

だから本作はあくまでも実録物というよりも、一つのオリジナルな映像作品であると把握すべきなのである。

ゆめゆめ、映像で紹介された「市中引き回し」という過激な顛末が、日常的に巷間の話題を賑わしていたと考えない方がいいだろう。

現実と物語の間に横臥(おうが)する落差への把握を間違えると、「近代=自由と民主主義」の現代史観による、「恐るべき江戸時代」という、とんでもない観念的、且つ、感覚的な理解に流されてしまうだろう。

そのことだけは肝に銘じているつもりでいる。 

(2006年6月)

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