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2008年12月5日金曜日

人間の約束('86)      吉田喜重


 <「神の手」が乗せられたとき>



序  日常と非日常が薄皮一枚で仕切られている危うさと恐怖


2000年の初夏、交通事故で脊髄損傷になってから5年半。私の身体は、一日の大半を電動ベッドの上で過ごす生活を常態化している。

リハビリや食事などで最低10時間の座位の状態を義務付けていても、私の身体が戻る場所は、僅か一畳ほどの電動ベッドの空間である。

この空間の中で、私は何度「尊厳死」について考えたであろうか。

無限に続く、痛みと痺れの負の連鎖。

そして自由を奪われた辛さの認知が、しばしば抑えられないほどに、内側からストレスが噴き上がってくる。このストレスとの上手な付き合いが未だ成就しないのだ。

それでも私は、内側から噴き上がってくるものと付き合っていかねばならない。

私の中の負の連鎖がほんの少し油断している間に、内側にまだ生き残されている液状化した熱量を総動員して、私はそこに〈時間〉を作り出していく。

私に残された時間は限られている。

何かをしてもしなくても、必ず身体が土に帰る絶対時間の中から、これが自分の〈時間〉であったという確かな流れを奪い取っていかねばならない。

私の生が少しだけそんな意識を引っ張り込んだとき、私の中の脆弱なものが、決して流れてはいけないものに背を向けて、ようやく動き出した。〈時間〉を作り出せたのである。

その〈時間〉の内実の一つは、映画を舐めるようにして観ることであり、それについて自分の言葉を記録していくことである。私にとって、それは内側で噴き上がってくるものの、格好の調節池となった。

今のところ、これは程ほどに功を奏している。

何かについて思いを巡らし、しばしばそれに取り憑かれ、疲弊するまでにゲームの虜になること。

そこで作り出された〈時間〉は、殆ど快感でもある。

身体の苦痛の隙間から掻きだしてきた精神的快感の、その危ういバランスの上に、私の脆弱なるものが漂流している。その漂流に、何キログラムかの覚悟だけは張り付いているのである。

この張り付いたものに拠って立って、どうにか〈時間〉が固められて来ているように思えるのだ。

厳しいときには、厳しい映画が相応しい。

厳しすぎる映画こそ、もっと相応しい。

そのもっと相応しい映画が私の前に現れた。吉田喜重監督の「人間の約束」がそれである。

受傷後5年目に観たその映画は、およそ20年前に観た同作品とは全く違う何かになっていた。

それは決して私の成熟の故ではなく、私の身体と、それを取り巻く環境の激変によるものに違いない。

それはあまりに深く、私の内側に突き刺さってきた。

観終わった後の衝撃の深さは、とうてい他の作品の及ぶところではない。

感動とか、興奮というものとも少し違う。

日常と非日常が薄皮一枚で仕切られている危うさと恐怖、恰も、そこに人間の深淵を垣間見せられたかのような驚愕が、そこにあった。



1  金盥に揺蕩(たゆた)う乱れ髪



―― この深遠なる映像を、そのプロットに沿ってに追いかけてていこう。


東京郊外のとある公園の水場に、その老婆は佇んでいた。まもなく警官に保護されて、その老婆はパトカーで自宅に送り届けられた。

老婆の名は、森本タツ。

自宅の一階の離れの部屋で、何事もなかったかのように、タツは家族に語って見せた。

「大沼は、いつ見ても広々としたいい沼だぁ。水藻(みずも)を取る舟が何艘も浮んどった。私ら娘の頃は、よう水藻取りさせらたもんだ。水底(みなそこ)からゆらゆらと藻が揺れて・・・」

タツが公園の水場で見たものは、既に埋め立てられて存在しない故郷の沼の風景だった。

そんなタツの話を聞く家族は、彼女の認知症が際立ってきたことを実感せざるを得なかったのである。

この出来事が、一家を襲った重苦しい物語の端緒となった。

映像はタツの徘徊を映し出さないが、代わって、それを重く受け止める家族の歪んだ表情を丹念に、不安と怯懦(きょうだ)の感情をじわじわと炙(あぶ)り出していく。

それは、とうに亀裂が生じていた家族の崩壊の始まりを告げるかのようだった。

家族は、タツとその夫である亮作(りょうさく)、息子依志男(よしお)とその妻律子、そして孫二人。三世代同居の6人家族である。

今なら平凡な家族の範疇に入らなくもないが、長男の浮気が夫婦の亀裂を生み、成人しつつある孫たちも家族の中の役割性を喪失している殺伐さは、家族内の情緒的繋がりを稀薄化させている風景を炙り出しているようにも見える。

そのミクロな共同体の危うさを内包する事実は、もはや隠せなくなっていた。

タツの認知症の加速的な顕在化は、この危うさを、劣化した家族の日常性の亀裂を修復できないところにまで現象化しつつあったのである。

認知症の特徴的症状の一つである過剰摂食を止めないタツから、強引にその箸を奪って、トイレに連れて行こうとする律子に対して、タツは激しく抵抗した。

「鬼!律子は鬼だよぉ」

これが長男の嫁を「鬼」呼ばわりした、タツの最初のレジスタンスだった。

しかし、このレジスタンスは、律子に「下(しも)の面倒まで看させるのは忍びない」という亮作の意向で、老人専門病院にタツを入院させる契機になったのである。

タツを入院させたその帰り、長男夫婦は深夜のレストランに立ち寄った。

「食欲がないのか」
「ええ、何だか気が抜けてしまったわ」

律子には、義母を病院に追いやったという自責の念がある。彼女にとって、それは未知の領域を開いたときの不安を伴う感情だったに違いない。 

「お袋のことだったら、あれでいいんだよ」

夫の依志男には、まだそれほどの危機感がない。エリートサラリーマンの日常の主体は、どこまでも会社にある。

「あなたは血が繋がっているから、そんな風に言えるのよ」
「君には済まないと思っている。親父たちを引き取ったばかりに、家ん中がめちゃくちゃしなってしまった」
「それほどではないわ、あなたの浮気に比べれば」

依志男には、思いもかけない妻の一撃だった。

「あら、どうしたの?真に受けたの」
「俺たちの夫婦生活も、お袋がボケてからは惨憺たるものだな」
「それを浮気の口実にするつもり?」

律子の皮肉には毒気が含まれている。

夫婦関係に生じていた亀裂も、日常会話の俎上に載せられるほどに顕在化していた。

亮作とタツ
病院では、亮作がタツに寄り添っている。そのとき、隣のベッドから老女の呟きが聞こえてきた。

「死なせて、死なせて・・・早(はよ)う死なせておくれよぅ」

他の老女も、同様の呻き声を口真似してみせる。耐え切れなくなった亮作は部屋を出て、汚物入れにビニール袋を捨てに行った。病室に戻りかけたとき、彼はふっと鏡を見る。

「え、はい、おばんです」

亮作は鏡に映った自分を他人と判断し、挨拶したのである。鏡の脇には張り紙が貼ってあり、彼はそれを声に出して読んだ。

「これは鏡です。写っているのは自分です」

思わず、それを読んだ老人の顔が歪んだ。

暗がりとはいえ、鏡に写る己の姿に反応する恥ずかしさには、そのような錯誤を犯す自分に対する不安感が含まれていたのである。

亮作が深夜の病室からの人声を耳にしたのは、そのときだった。

その声に誘われて、亮作がその病室の扉を少し開いて中を覗くと、異様な風景がそこに広がっていた。一人の老人が、シーツを裂いて作った紐の片方をベッドに結わえ、それを首に巻き力一杯引いていたのである。その老人は自殺を図ろうとしていたのだ。しかしその紐が切れて、途方もない企ては未遂に終わった。

それを見て、他の老人たちは笑い転げているばかり。その残酷な光景を目の当りにした亮作は、急ぐようにタツの病室に戻って行った。

亮作に異常な行動が現われたのは、その直後だった。

それは、タツの病棟で垣間見た、死に急ぐ老人たちの行為をなぞるようでもあった。

彼は故郷にある寺の墓地の土を掘って、その穴に自分の体を埋めようとしたのである。この行為は住職に見つかって止められたが、亮作は明らかに自殺を図ったのだ。

「埋めておくんなさい。俺をここに埋めてくれ・・・ねぇ、駄目けっ」

亮作は住職に、そう言ったのである。真剣だったのだ。遺書もあった。しかしこの異常な行為は、亮作の確信犯的行動ではなかった。

彼は後にタツに向かって、独り言のように語っている。

「おらもなぁ、この頃はだいぶ耄碌(もうろく)してきただ。先だっても大沼に行ったときな、先祖伝来の墓の前によ、穴を掘ったりして・・・どうしてあんなことをしただか、さっぱり覚えがねえだ。やっぱりボケの始まりかなぁ、ああ・・・」

亮作に認知症の初期の兆候が現われたのは、疑いようがなかった。

その亮作が、既に認知症の症状が顕著な妻、タツを介護している。「認認介護」である。タツの傍らに寄り添う亮作は、力強く言い切った。

「タツ、おらぁ先だってな、大沼へ行って土地を売っぱらった。その銭とな、戦死をした二人の息子の軍人恩給を合わせリャ、おらぁ死ぬまでは、何とかなるだ。な、お前もよ、思い切ってボケるがいいだに、なあ・・・・」

老いた妻を抱きながら独白する亮作の言葉には、永く人生を共にしてきた者への深い愛情がある。「思いきってボケるがいいだに」という慈愛に満ちた男の言葉には、そこに込められた作り手の思いが重なっているようにも見える。映像で最も感動的なシーンが、そこにあった。

因みに、私たちが「愛」と呼んでいるものから、様々な衣裳や装飾を剥ぎ取れば、恐らく、このような裸形の表現に逢着するに違いない。「愛」とは究極的には「援助感情」である、と私は考えている。

亮作のタツに対する思いの深さには、「何とかして上げずにはいられない」という裸形の感情が張り付いている。心の奥の深い所から噴き上げてくる、そんな自然な感情こそ、私たちが「愛」と呼ぶものの本体ではないだろうか。

また、亮作がタツの介護に向かう気持ちの根柢には、彼らが、本来は核家族であった長男の家庭に割り込んできたという、ある種の後ろめたさがあるのだろう。長男との同居を希望したのがタツであることを思えば、より一層、亮作は責任感を覚えたに違いない。


業所調査による在宅介護での認認介護の出現率・山口県地方自治研究センター論文より



しかし、この二人の関係の図式は、所謂、“老老介護”、或いは“認認介護”でもあった。

“老老介護”は、一歩間違えれば自滅に至る介護になるであろう。まして亮作には伴侶への深い思いがあっても、その思いを体現する身体のパワーと、それを支えるに足る知的判断力に欠けるものがあった。

そして、そんな彼らの身を案じる長男夫婦の存在が厳としてある。“老老介護”の限界と、病棟の悲惨な現実を目の当りにして、長男夫婦が、母タツを自宅に呼び戻そうと考えたのは自然な流れであった。

まもなく、「鬼」と罵られた嫁の律子が、義母タツの介護を一身に負うことになった。しかしそれは、この家庭でやがて起こる悲劇の序章でもあった。

その悲劇が起こったのは、律子がタツの入浴介助を行なっているときであった。これには伏線がある。

タツの枕元に置かれた金盥(かなだらい)。

それは、タツが後生大事にしている水鏡でもあった。

そこに映されるタツの陶酔するような表情は、彼女の娘盛りの懐かしき面影であり、そこに揺蕩(たゆた)う乱れ髪は、故郷大沼の水藻の優しい囁きだった。

タツはそのとき、純真無垢な一人の処女だったのだ。

そこに律子が背負った現実の、無機質な表現が侵入してきた。

律子はタツに入浴を促すが、タツはそれを恥らうように拒んだのである。

「どうしたの?お風呂に入るのいい気持ちでしょ。いつも入りたいって言うのに」

タツは律子をじっと見て、「今日は入れないんだよ」と反応するのみ。

「どうしてなの?」
「始まったんだよ」
「え?」
「ほら、あれ・・・女のほら・・・」

律子は言葉を失った。

彼女は、タツの寝巻きの裾が汚れていないのを確認して、明瞭に事態の意味を把握した。

嫁の眼には、そこで展開されている事態を認めまいとする感情が露わになっていた。

「ゴメンネ。ゴメンネ」
「お婆ちゃん、ふざけちゃ駄目!さあ、お風呂に入りましょう」
「嫌だよ、嫌だよ。恥ずかしいよぉ、嫌だよ・・・」

駄々をこねるタツの内面世界は、少女の羞恥心で溢れていた。

タツのその思いを否定する律子は、眼の前で竦む、単に老いただけの小さな体を強引に抱き上げて、浴室へ運んで行った。

しかし、湯船の中のタツは、心地良さそうだった。

その小さな体が、陶酔しているかのように、少しずつ浴槽に沈んでいく。

認知症になっても、女であることを捨てようとしない老女に対する律子の視線には、明らかに嫌悪感が含まれている。

従って、彼女のタツに対する入浴介助は、些か手荒かった。

それを拒むタツは、自らの意志で浴槽に体を沈めていく。

老婆の誇りのような髪は、まるで水藻のような広がりを乗せて、水面を泳いでいた。

タツはこのとき少女であることを捨てて、或いは、それを捨てない心で、漂う液状のラインの向うの世界に侵入していこうとしたのだ。ラインの向うには、「死」の世界が待っている。

律子はタツの意志を、そこに痛切に感じ取った。どこかでそれを認める思いが噴き上げてきて、律子は浴室を後にした。

離れに戻った彼女は、そこに人の気配を感じた。亮作が仏壇の前に座っていたのだ。

我に返った律子は、「お爺ちゃん、大変!お婆ちゃん、湯船の中で・・・」と叫んで、その場に崩れた。

それを聞いた亮作の行動は、認知症の兆候が現われていることが信じ難いほど力強く、迅速なものだった。

彼は浴室からタツを抱えて、離れに戻って来た。

「タツ、タツ」という呼びかけに、タツは呟く。
「死なせて、死なせて。早よう死なせておくれよぉ」

その絶望的な呟きは、亮作が老人病棟で垣間見た、老女のそれと同じものだった。

「ごめんなさい。お婆ちゃんを湯船に置き去りにして・・・・私どうかしてたんです。お婆ちゃんが死んだらいいなんて、そんな・・・・」

激しく嗚咽する律子に対して、亮作は言い放った。

「いいか、婆さん楽にするんならよぉ、俺がやる。お前らには触らせねえだ。お前もその方がいいだべ」

これが亮作とタツとの、初めて交わした「人間の約束」だったのか。

そこにタツの明瞭な死への意志があり、その意志を確認し、それを自らの手で遂行しようとするタツの夫の、同じように明瞭な意志があった。





認知症サポート医・かかりつけ医・厚生労働省HPより



2  金盥に皺だらけの顔を沈めたとき



その夜、律子は夫に、「私、お婆ちゃんを殺そうとしたんです」と告白した。

しかし、夫から返ってきた言葉は意外なものだった。そこには、律子が近年経験したことがないであろう夫の優しい気遣いが、慰める者の感情の含みの中に示されていた。

「君も俺も疲れてる。子供たちにとっても、このままでは良くない。お袋には可哀想だが、また病院に入ってもらおう」

妻は自分の犯した説明のつかない行動に、泣き伏すだけだった。後に、妻はこのときの自分の思いを夫に語っている。

「お婆ちゃんが憎くって、あんなことしたんじゃない。あの歳になっても、まだ女でいることを意識しているお婆ちゃんが、私、どうしても嫌だったんです。いつか私も、ああなるかと思うと・・・」

律子の心情はとてもよく理解できる。そこで彼女が犯した行為も、私たちの理解の及ぶギリギリのところにあるだろう。

しかし彼女は森本家では、やはり他人だった。

彼女の行為は、タツが仮に実母であったとしたら、果たして同様に遂行されたであろうか。

そして同様に、タツに感じ取った感情を実母に対しても抱いただろか。

いや仮に、同様の感情を抱いたとしても、それは娘の包容力によって充分にカバーできる感情であったと言えないだろうか。

観る者は、タツに対して注ぐ労(いた)わりの視線に呪縛されることなく、このような状況に置かれた孤独な律子の心情にまで、その想像力をほんの少し広げる必要がある。

律子もまた、情緒的交流の稀薄な家庭にあって、やり場のないストレスを膨大に抱え込んでしまった、一人の孤独な女性なのだ。

その責任の一端は、確かに律子にもある。

しかし全てではない。

律子のこの夫への告白は、彼女を労わる作り手の、その寛容な視線が描き出したものであるに違いない。この重苦しく厳しい一篇は、決して残酷に流れる映像ではないのである。

その夜、亮作はタツを道連れに心中を図った。

離れの部屋のガスの栓を開け、一気にタツとの「約束」を遂行しようとしたのである。

しかし、それに気づいた依志男によってガスの栓が締められ、部屋の窓が開け放たれた。亮作の計画は、ものの見事に頓挫したのである。

依志男は感情を爆発させない代わりに、静かに父を諭そうとした。

「それで二人が死ねばいいと思ったかも知れないけど、僕たちはどうなるんです。ガス爆発でもしたら、律子や鷹男(長男)や直子(長女)も巻き添えで死ぬかも知れないんですよ。ここは、僕の家です。勝手な真似はしないで下さい・・・・お父さん、聞いて下さい。明日、お袋には病院に戻ってもらいます。いいですね」

この家は長男のものであって、亮作夫妻の家ではない。そんなニュアンスを感じ取ってか、亮作はきっぱりと言い放った。

「タツはどこにもやらねぇだ。おらがここで面倒をみてやるだに」

妻律子の神経が参っていることを依志男は強調して、母の病院行きを促すのみ。

「しくじっちまったか」

亮作は息子の話を聞き流して、聞こえないようにそう呟いた。

結局、タツは病院に行かないで、傍らに金盥のある寝床の中に身を横たえていた。

しかしもう、律子にはタツの世話を焼くことができない。タツが「鬼、お前は鬼じゃ」と言って、息子の嫁を退けたからである。

以来、タツは自分の介護を息子の依志男に委ねていくことになった。清拭を息子に任せることになったのだ。

体を拭いてもらうだけではない。或いは、痛みを訴えることで、息子に抱いて擦ってもらう。それは殆ど、赤子が母親を求める心情のアピールと言っていい。

粗相(そそう)をしても紙おむつを取り替えてくれる優しい息子が、いつでもタツの声の届くところにいた。息子は、不器用な手つきで紙おむつを取り替えるのだ。

母と息子のストレートな関係が一時(いっとき)続いたあと、その母は息子の耳元で囁いたのである。

「死なせて、死なせて。早(はよ)う死なせておくれよぉ」

タツは息子の首に両腕を回し、自分の口元に招き寄せて、そう懇願したのだ。

恰もそれは、タツの新たな「約束」の催促のようでもあった。

なおも同じ言葉を囁く母と、その母の無理な要求に蒼白になる息子。

母子の関係は、一気に緊迫の度を増幅したのである。

亮作は、家の前の空き地に積まれた廃品を選(よ)って、それを自宅に運んでいる。本人の意識では、無駄に捨てられた物を再利用するつもりなのだ。

しかしその異様な光景は、家族にとっては「痴呆」の現われにしか見えない。

律子は息子の鷹男を促して、義父の行為を止めさせようとする。

「お爺ちゃんが乞食みたいなことをしてるの。早く連れ戻して来てちょうだい」
「嫌だよ」
「お爺ちゃん、ボケてしまったのよ。あのまんまじゃ、車にでも轢(ひ)かれかねないわ」
「放っとけよ」
「事故にあったらどうするのよ」

律子の心配は、亮作が事故に遭うことへの恐れというよりも、多分に世間体への配慮の感情が先行しているように見える。

母のその気持ちを見透かしたような鷹男の言葉には、それが本音ともとれるような毒気に満ちていた。

「寿命だろ、それも・・・・ボケてしまった老人はもう人間とは言えない。動物なんだよ。親子だからって面倒見ることはない。これは社会全体の問題だよ。もう人間でもないんだったら、動物園のような施設を作り、そこに入れて社会が管理すべきなんだ。個人が責任を負える問題じゃないよ」

間髪入れず、父依志男の平手が息子の頬を強く打った。

「人間には口に出してはならぬことがある。よく覚えておけ」

三世代家族の亀裂をストレートに露出させるような息子の言動は、父にとって、決して認める訳にはいかない言葉の暴力以外の何ものでもなかった。

既にこの家族は、「口に出してはならぬ」ことを平気で口に出す者を、その内側に抱えていたのである。

亮作もまた、二人の孫が祖父母を見る冷たい視線を日常的に感じていたに違いない。

とりわけ自分たちの存在が、家族の足枷になっているという思いも強かったであろう。

タツの認知症の深刻化によって、いよいよ亮作は、自分たちの「遅すぎる死」を悔やみ、呪う以外になかったのである。

彼はタツとの「約束」を、今度こそ完遂しようと心に決めたのだ。

そこに、口紅を塗りたくった妻タツの穏やかな表情がある。その妻の顔を見ながら、亮作は呟いた。

「お前はまっと、ひょうきんな婆さんだよ、口紅を塗りたくっちまって、死化粧でもしているつもりだべ。分ってるだって、お前の心は。おらもよ、だいぶん耄碌(もうろく)してきただに。この頃はな、小便垂れ流す始末だぁ。自分の体というのにな、人間ってのは思うようにならねえもんだよ。だけどな、ちっとも心配することはねぇぞ。お前を楽にしてやるぐらいの力は、まだ残ってるだからな」

タツの枕元に近づいて、亮作は意を決したように金盥の傍のタオルを手にとって、呟いた。

「タツ、お前には何一つしてやれなかっただ。だからお前の望みどおりよ、楽にしてやる。あの世へ行ったらよぉ、忘れねえで早う、おらぁ迎えに来てくれよぉな」

亮作が手にしたタオルが、タツの顔を押さえにかかった。

「ひい、ふう、みい、よう、いつ、むう・・・」

それは、死への旅路へのカウントダウンのはずだった。

しかし、亮作の手には充分な力が乗り移っていかない。彼の手は震え、もう一方の手を重ねるが、それでも全身の力がそこに加わっていけないのだ。

亮作の眼に、仏壇の上に飾られた二つの写真が捉えられた。それは、戦死した息子たちの肖像写真だった。亮作の手が鈍り、遂に彼はその手を離してしまったのである。

亮作の目頭に冷たいものが滲み出ていて、それが流れていくラインを見定めたように、黒ずんだ皮膚を濡らしていった。

「駄目だ、おらにはできねぇ」

確信犯を決意した老人は、その確信的行為にまたもや頓挫した。

そこだけが孤立しているような離れの屋根を、激しく叩きつけていた雨はいつしか小降りになっていた。

暦を一枚めくっただけの、依志男の帰宅。

しかしこの日は少し違った。

玄関のチャイムを鳴らすことなく、鍵を取り出し、扉を開けた。そのまま二階に上らずに、離れの部屋の襖を静かに開けたのである。

依志男がそこで見たものは、あってはならない光景だった。

母タツが布団から這い出して、枕元に置かれた金盥に、その小さな体を地虫のように寄せている。

依志男は全てを理解した。死を願うタツの意志が、これほどまでに堅固であることを。

隣の部屋では、父が寝息を立てていた。依志男は動けない。

あの母の耳元での囁きが、彼の脳裏に焼き付いている。或いは、母の願いを叶える意志を固めて、依志男は離れに忍び入ったとも考えられる。

タツは自ら、金盥にその皺だらけの顔を沈めた。

亮作の手で果たせなかった「約束」を、今や自らの手で完遂しようとしている。

タツの自我は壊れ切っていないのだ。壊れ切っていないからこそ、意を決して自死に向かっているのである。

依志男は母に近づくが、それを傍観する者に、なお留まっている。

タツは苦しくなって、金盥から顔を上げた。水面の向うにある死に、タツはなかなか辿り着けない。依志男の気配を察したタツは誘(いざな)うように何か呟いて、再び水面に顔を沈めた。依志男はもう逃げられない。それまでの迷いが吹っ切れたかのように、そこで展開されている禁断の事態に踏み込んでいくのである。

母の後頭部にそっと手を添えて、そこに触れたものに自らの意志を伝えたのだ。

恐らくその手に、下からの小さな抵抗が伝わってきたに違いない。それでも息子は、その手を離せない。離してはならないのだ。それを離したら、もっと大きな不幸がその後に待っている。

だから、息子はこの瞬間だけは、ようやく固めた意志を砕こうとしなかった。そこに流れた時間の長さは永遠のようでもあり、それが存在しなかったと思えるような短い時間のようでもあっただろう。

確かなのは、そこに動かなくなった母がいて、動かなくなったものを見つめる自分がいたということだ。しかしそれも幻想であったかも知れないのである。 そういうイメージが観る者に伝わってくるような静謐(せいひつ)な描写だった。

「約束」を果たした依志男は、隣の部屋で眠る父を確認したつもりだったが、父の眼は見開かれていたようにも見えた。父は何もかも了解しているのだ。息子はそう感じとったのだろうか。

依志男は離れを後にして、階段を上っていく。

突然、内側から何かが突き上げてきて、彼はその場に膝まづき、激しく嗚咽した。煩悶を噴出すようなその嗚咽は、再び激しさを増した雨の音に吸収されてしまった。




認知症の症状とは?・飯能老年病センターHPより



3  「あいつが来て、やった」



タツの死は、その状況の不自然さから、警察の検死と関係者の事情聴取を招来することになった。

その結果、亮作が「自分がやった」と供述し、その身柄はが所轄の警察署に拘留された。

様々な状況から、警察は亮作の犯行に疑いを持つが、森本家から提出された亮作のノートによって、タツの死が亮作絡みであることを否定できず、一応その線で片付けられていったのである。

しかし、依志男の心境は複雑だった。

父が息子の犯行を庇っているように思えたことで、その父を人柱(ひとばしら)にしてしまった息子の懊悩は深かった。彼は警察署に出向き、父と二人だけの時間を作ってもらったのである。そこで息子は、父親にその思いの丈をぶつけていく。

「母さんが死んだのは、お父さんが窒息させたからからじゃない。僕が、母さんを洗面器の中に入れたからだ。母さんの顔を水の中に抑えこんだのは、僕だ。お父さんは、それを見ていたじゃないですか」

息子の絞り出すような告白に、父は反応しない。認知症を装っているのか、それとも、それが認知症の急激な進行の表れなのか、亮作は意味不明な言葉を吐き出した。

「・・・あいつだに、あいつが来てるだ・・・・あいつがよ、おらを呼びに来てるだ。ほら、そこに・・・」

亮作が指差す方向に、無論誰もいない。依志男は当惑するばかりだった。

一方、亮作のノートを読み終えた刑事たちは、そのノートに書かれてある「あいつ」の存在が疑問として残った。

「あいつが来て、やった。だから、あいつは死んだ」

ノートにはそう書いてあった。ベテランの刑事は、森本依志男を疑った。刑事部長にその根拠を聞かれた刑事は、自信なさ気に答えた。

「いや、証拠はないんですけれども・・・・明日から事情聴取をしようかと思っています。ボケ老人の安楽死は、情状酌量されるとしてもですね、尊属殺人には間違いないですからね」

若い刑事は言葉を挟んだ。

「尊属殺人の最高刑は、死刑です。それが嘱託殺人として情状酌量されれば、執行猶予で釈放ですからね。おかしな話ですよ」

刑事部長も言葉を加えた。

「法律なんていうものは人間が決めた約束事だ。まあ、場合によっては破られることもある、ということだろうな」
「そうすると、やっぱりあいつですか」
「えっ、まだ他に犯人がいるということですかね」
「森本亮作でもなし、森本依志男でもない、あいつ・・・私も刑事じゃなかったら、そう言いたいところですけどね・・・」

この最後の言葉は、ベテラン刑事の反応である。

ここで刑事たちは、重要な会話をしている。

明らかにベテラン刑事は森本依志男を疑っていて、事情聴取をするつもりだが、タツの死を殺人事件の範疇で括っていくことに消極的であるように見える。

彼は既に家族の事情聴取を済ましていて、亮作の日記にも眼を通している。その中で、タツが死を望んでいたことを知っていたはずだ。そのタツの死が自死でないとすれば、そこに亮作や依志男が、当然絡んでいたと見ても不思議ではない。ところが、亮作が自首したことで、逆に依志男こそがタツの嘱託殺人の犯人であると考えたのである。

亮作と二人だけの会話を取調室で臨んだとき、ベテラン刑事は隣の面通し室からの盗聴を遠慮した。その理由を、彼は若い刑事に説明している。

「いや、せんでもいいやろ。どうせ今度は息子の方が、自分がやりましたって言ってくるやろ」

ベテラン刑事は、事件の構造を殆ど把握しているのである。しかし刑事である以上、正体不明の「あいつ」を犯人にすることはできない。彼は、警察署を去る間際の森本依志男に一言、言い添えた。

「明日、お宅へお伺いします。ゆっくりお聞きしたいことがあるんで。あいつについてです」

暗に事情聴取の本当の理由を了解させるような含みを、そこに持たせたのである。刑事は依志男に自首を促したかのようであった。

映像のラストシーンは、車内で妻律子に真実を告白し、納得させた上警察署に車をUターンさせる描写で括られた。


*       *       *       *



4  神の見えざる手



刑事たちの会話の中に出てきて、亮作もまた息子の前で語った「あいつ」とは何者なのか。

佐江衆一
実は、「あいつ」とはこの映像に登場する何者かであって、この映画の原作である「老熟家族」(佐江衆一著 新潮文庫)の中には全く出てこない。

そもそも原作は、農業を離れてから子供夫婦の厄介になる後ろめたさや、老いの無力感によって、ひたすら「安楽死」を願う老夫婦の苛酷な現実が残酷なまでに描かれていて、映画では僅かにしか言及されなかった亮作の日記の内容は、どうすれば楽に死ねるか、という記述で満たされていたのである。

そこには孫との確執や、犯行当日のアリバイ作りなどの描写があり、明らかに、崩壊寸前にある家族の危うさと、「安楽死」以外の選択肢がない「老い」の凄惨な現実が、些か過剰にデフォルメされた形で描かれていた。

しかし映像は、原作をストレートに映し出さなかった。

「安楽死」の是非の問題や現代家族の内包する家庭崩壊の危機、認知症患者への介護の困難さとその限界性の問題、更には近代家族のその基盤の揺らぎの問題などを、必ずしも主要なテーマとして描こうとしているようには見えなかったのである。

この映画で特徴的なのは、「あいつ」という不明なる何ものかについての言及である。

因みに原作には、このような記述があった。それは、亮作の日記を読んだ刑事が、その感想を語っている部分である。

「この日記からは、亮作がタツさんと二人で安楽死あるいは尊厳死を望んでいたことが読みとれるが、しかしその決断には神の力のようなものが必要だったかもしらんね。新聞の切り抜きの中に、安楽死を願った少年が、“神のお告げ”を受けたと言う記事があるだろう?亮作は、そういう力が自分を前に押し出してくれるのを待っていたんじゃないのかな」(「老熟家族」佐江衆一著 新潮文庫)               

ここで表現された「神の力」が、映像の中で、「あいつ」という、一歩人間の側に近づくような表現に変わったのであろう。

それは、見えざる神が、そこにそっと差し出した力のようなものであった。吉田監督もそれに近いような説明をしていたように思う。

「あいつ」とは、母の自殺を幇助した見えざる「神の手」であったとするならば、直接「安楽死」に導いた長男の手は、父と長男の共同意思を結実させた、まさにその「神の手」であるということなのか。

恐らく、そうなのであろう。

この二人の共同意思の中に、母の切実なる死への願いが、どこかで確実に吸収されていたに違いない。苦痛から解放されたいからこそ、人は安楽死を望むのだ。死そのものが苦痛なら、誰も死への誘(いざな)いに乗ったりしない。

上から「神の手」が乗せられたとき、「安楽死」を望む老母の意思の中で、恐らく、苦痛なる死の観念は解体されていた。解体できた瞬間がそこに生まれた。その瞬間を、「神」が創り出したのである。



5  「みずからの死すら知ることができない人間」



では、映画の表題となった「人間の約束」とは、何を意味するのか。

映像の中で表現されたこの言葉は、先述した刑事たちの会話の中にあった。

「法律なんていうものは人間が決めた約束事だ。まあ、場合によっては破られることもある、ということだろうな」

この事件を、尊属殺人と考えるか、それとも嘱託殺人とするかという若い刑事の疑問に対して、刑事課長が答えた言葉だ。

それは、法律という人間の約束事は絶対的なものではなく、場合によっては破られることを暗に認めている、と解釈される。その例外の一つに、「安楽死」の問題があると言える。

しかしこの映画が、その「安楽死」の是非を主題にしたものでないことは、吉田監督自身の言葉で明らかであり、それを観る者にとっても瞭然とするところだろう。それこそが、「安楽死」の問題を積極的な主題にした原作と、決定的に分れるところである。


因みに、吉田監督(画像)自身の言葉。

「高齢化社会に生きる老人の安楽死をモチーフにしたが、安楽死の是非を問おうとしたものではない。水のイメージがしばしば現われるのも、みずからの死すら知ることができない人間、この小さな無知なる存在を、この変幻する水のなかに映し出そうとしたのである」(「吉田喜重 変貌の倫理 2006」HP作品解説より)

人間は「死」を意識することはできても、それを知ることは決してできない。「死」は人間にとって、どこまでも観念でしかないからだ。

吉田喜重監督
その「死」のイメージを、変幻する水の中に映し出そうとした作り手の思いは、映像の中で、繰り返し印象的に表現されていた。



6  「目指されるべき」死である「尊厳死」



監督自身が、「安楽死」に対してどのように把握しているか、私は知らない。

しかし映像を観る限り、この映画が実は、「尊厳死」の有りようの一つのモデルを提示したものであることが充分に読みとれる。

「尊厳死」―― それは、余りに重量感のある言葉である。

本作を深く読み解いていく上で、その言葉についてのテーマ思考が避けられないのは、殆ど言わずもがなのことであろう。

その辺から言及していく。

今や自明であると信じられている、この厄介な概念を簡潔に定義した文章をここに紹介する。

「『尊厳ある死』(Death with Dignity -本来の意味での『尊厳死』)とは、人間としての尊厳を保って死に至ること、つまり、単に『生きた物』としてではなく、『人間として』遇されて、『人間として』死に到ること、ないしそのようにして達成された死を指す。

こう理解するなら、『尊厳死は倫理的に許されるか』と問う必要はなく、定義からいって尊厳死は目指されるべきこととなる」(清水哲郎HP『安楽死と尊厳ある死』より引用)

この「目指されるべき」死である「尊厳死」を、果たして望まない者がいるだろうか。

では、「尊厳死」を望む者は、均しく安楽死を望むと言っていいのか。なぜなら、「尊厳死」=「安楽死」ではないからである。

では、「安楽死」とは何か。同様に定義する。

「苦しい生ないし意味のない生から患者を解放するという目的のもとに、意図的に達成された死、ないしその目的を達成するために意図的に行われる『死なせる』行為。

安楽死の区分
行為の様態に関する区分
積極的安楽死 (active euthanasia) 〈死なせる(殺す)こと killing〉
消極的安楽死 (passive euthanasia)〈死ぬに任せること allowing to die〉
決定のプロセスに関する区分
自発的安楽死 (voluntary euthanasia) : 患者本人の意思による場合
非自発的安楽死 (non-voluntary euthanasia) : 患者本人に対応能力がない場合。典型的には新生児で重度の障害がある場合の安楽死が問題になるときには、この部類に含まれる。
反自発的安楽死 (involuntary euthanasia) : 患者本人に対応能力があるにもかかわらず、意思を問わずに、あるいは意思に反して決定される場合。これは稀であろうし、もちろん倫理的には認められないであろう。

以上、組み合わせると、理屈としては6通りの区分が可能である。この内、自発的消極的安楽死がマスコミ等では、『尊厳死』 と言われている。また、非(反)自発的積極的安楽死が 『慈悲殺』mercy killing に当たる」(同上より引用)

以上の概念的枠組みから言えば、「自発的消極的安楽死」=「尊厳死」ということになる。



日本初の独立型 ホスピスとして開設されたピースハウス病院
これは、ターミナルケア(終末期医療)のホスピス病棟において認容されている、「緩和医療」(注1)の状況を想起することで理解できるであろう。

例えば、一人の人間が以下のような状況に置かれた場合、そこで果たしてどのような判断を望むのだろうか。

(1) 耐え難い肉体的苦痛がある
(2) 死が避けられず、その死期が迫っている
(3) 肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、他に代替手段がない
(4) 生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示がある

これは東海大安楽死裁判に於いて、患者の死を認容する条件として出された有名な判例である。

まず患者サイドから言えば、「安楽死」への切実なる希求以外ではないだろう。

医療サイドから言えば、その患者の「積極的安楽死」の希求を受容し、何某かの医療的措置をとることが可能である。

しかし、これはあくまでも裁判の判例であって、当然の如く、絶対的判断基準となるものではない。なぜならこの国には、他の外国(オランダ、ベルギー、フランス、アメリカ・オレゴン州)のように、「安楽死」、「尊厳死」に関する立法的措置が存在しないからだ。

安楽死法というものが存在するとき、その法の内実の如何に問わず、それは既に一つの「人間の約束」として、その法を定めた国民国家の成員の全てが、そこでの様々な制約をクリアすることを条件に、少なくとも、「約束」の遂行を果たす権利を持つことができるだろう。

その権利を持たない国の住民は、苛酷とも思える状況だけが弥(いや)増してきて、しばしばその者のとる行動が悲劇的になるのは例を挙げるまでもない。

そして延命治療を保障した近代医学は、そのような悲劇に多くの場合、後ろ向きである。

そこに、生命至上主義という近代社会のイデオロギーが、延命医療の先に待っているであろう「悲劇」へのとば口を、恰も仁王像のような出で立ちで、そこから侵入する「邪悪」なる魂を完璧に塞いでしまうのだ。

「人の命は地球より重い」などという、奇麗事のメッセージで重武装するそのイデオロギーは、果たして、もうそこにしか行く当てのない者の、その微(かす)かな願いまで奪ってしまうほど絶対的な価値であると言えるのか。

「安楽死」に異を唱える者の多くは、それが生命の価値を相対化する安易なイデオロギーによって、それを選択しなくてもQOLを保障できると判断する者にまで、安直に「死の権利」を保障する危険を説くのだろうが、それは厳格な方法論の導入によって、充分に解決可能な次元の問題に過ぎないのである。

また「安楽死」を求めるなら、何も医療の手を借りずに自殺すれば良いではないか、などという乱暴な意見も聞こえてきそうだが、それに対する私の答えは一言に尽きる。

激しい苦痛が伴う自殺ができないからこそ、「絶対的苦痛から解放されるであろう、安楽死をこそ求めるのだ」ということ。それ以外ではないのだ。


(注1)治療ではなく、身体的、精神的苦痛の除去を目的とする限定的な医療で、主に末期ガン患者などに対して実施される。鎮痛剤の投与やペインコントロール(疼痛緩和)などがある。



7  「人間の約束」のラインを越えてしまったとき



―― さて、映像で紹介される老夫妻の場合を考えてみよう。


森本タツは一体何を求め、その夫、亮作はどこに向かったのか。

吉田監督が、「安楽死」の是非を問う映像の作り方をしていないことは、繰り返される水鏡の描写と、「神の手」をイメージさせるシーンの巧みな演出によって、充分に読みとることができる。

その印象的な描写に勝負を賭けた作り手の、静かで、思いを込めたメッセージがひしと伝わってもくる。そのことで、創作の芸術性や映像の完成度が高まったと言えるだろう。

そして何よりも、その描写の内に、老夫妻の精神世界が内包するものの重量感が放つ、圧倒的な思いが存分に塗り込められて、観る者はそこに立ち竦むばかりとなるのだ。

彼らの思いのその中枢にあるものは、紛れもなく、人間が人間として生き、そして人間として死んでいくときの、当然過ぎる「尊厳死」への絶対的な渇望である。

彼らは認知症の進行の先にある残酷なる世界に怯え、それが同居する家族の生活権への侵害となることを恐れていた。

そしてそのことが、厄介者視されることによって生じる尊厳性の保持への危機感を噴き上げさせて、それ以外にない世界への安らかな侵入を切望させたのである。

ガス自殺が未遂に終わったとき、「ここは、僕の家です。勝手な真似はしないで下さい」と息子に難詰(なんきつ)された亮作の反応は、充分に印象的だった。

亮作は、ガスを室内から排出するために開け放たれた窓を、「早く戸を閉めてやんねえか」と強く促したあと、「おらぁ婆さんに風邪を引かしたら、どうするだよ」と反駁したのである。

自分が道連れにしようとした妻を病気にさせまいとする思いの内には、当然、息子の物言いに対する反感がある。

そして、肉親であったからこそ言い放った、「僕の家」という息子の表現の内には、まさにその直接性において、「自分たち老夫妻の居場所がない」と実父に痛感させるに足る、刺々しいまでの負荷感情が含まれていたであろう。

では、老夫妻が願った「尊厳死」は、どのような形で実現できるのか。

原作に於ける亮作の日記は、「安楽死」についてのスクラップ記事や、その方法についての言及で埋まっていた。

彼は「尊厳死」を実現する手段として「安楽死」を求めたのだ。

死を懇願する彼らのその思いの本質は「尊厳死」であって、必ずしも「安楽死」ではないのである。彼らは本当のところ、老衰という「尊厳死」の理想形である自然死をこそ望んでいたであろう。

しかし彼らに、しばしば、「大往生」と讃えられる仏の迎えが遂に来なかった。

その迎えが来る前に、認知症という、およそ「大往生」と対極にある「醜悪なる老い」の状況に囚われてしまったのである。

延命医療という強力なサポートによってほんの少し長く生きたばかりに、彼らは「醜悪なる老い」の世界に拉致されてしまったのだ。

重ねて書くが、「尊厳死」=「安楽死」ではない。

しかし延命医療によって、「尊厳死」の実現が「安楽死」という切実なる医療技術なしに、しばしば成立しなくなったこと、これこそ由々しき問題なのである。

同時に、「醜悪なる老い」を突破する一つの方程式として、それは現代に於いて不可避な、一つの人生の緊要なるテーマになってしまったのだ。(この映像が「安楽死」の是非を問う作品ではないにも拘らず、映像の印象的なテーマが私にもたらしたものは、「尊厳死」と「安楽死」についての精密な考察の必要性だった。だから私は、多分に誤解がある「安楽死」の是非論について言及したかった)

ともあれ、母タツの介護を律子の代わって引き受けた、依志男の心情描写は印象的だった。

彼は母の小さな生身の身体に触れ、その弾力性を持たない乳房に触れ、そして醜悪な老いを恥じる母の切実なる死への懇願に触れることで、父亮作とほぼ同じ視線に立つことができたのである。

依志男は紛れもなく、亮作とタツの間に生まれた実子だった。

確かに息子夫婦は、財産分与と引き換えに「呼び寄せ老人」(介護される親が、子供の家へと呼び寄せられること)として、老夫妻を郷里から引き取ったと原作にはあるが、映像に映し出された息子の思いは、その打算性を見えなくするほどの柔和な視線を、しばしば垣間見せていた。

だからこそ、息子依志男は、認知能力を劣化させた祖父を人間扱いしなかった、孫の鷹男の頬を強打したのである。

そしてその息子は、遂に法律という、「人間の約束」の枠組を示すラインを越えてしまったのだ。彼は母との「約束」を優先したのである。それは、母が父亮作と交わした「約束」でもあった。

そのとき彼の中に、母との「約束」を誠実に遂行しようという純粋な感情がどこまで含まれていたか、誰にも分らない。それは単に、彼の内側で噴き上がってきた名状し難いストレスの表出だったのかも知れないのである。

「約束」を遂行した直後、彼が階段で嗚咽したその思いには、「約束」の遂行の安堵感を読み取ることは難しい。

それよりも、自らがそっと伸ばした邪悪なる手が、そこで動いてしまった信じ難き所業への悔いの念に、彼は深々と囚われていたように思える。

しかしそれは、妻タツの尊厳死を望む亮作の思いと重なっていたに違いなかったのだ。



8  「安らかな顔」に流れていくまでの切実な軌跡



金盥=水鏡の中に自ら沈むように入り込んだタツの表情が、安楽死によって完結した尊厳死を表象したものとして映し出されていたことは、検視に立ち会った刑事が、その表情を「安らかな顔」と表現していることで明らかである。

しかし、タツの死因が窒息死ではなく、水を飲んだためとされる。これはどういうことだろうか。

たとえ覚悟の上の自死であったにせよ、器官に水が入ってくれば、気道閉塞による窒息死となり、それが水死(溺死)した者の死因となることは一般常識の範疇である。

金盥の水を我慢して飲んで仮に意識を失っても、それは酸素欠乏による結果であり、そのことで心停止を招いたとしても、死因が窒息死であることには変わらない。



では、苦しまない窒息死というのは可能なのだろうか。

仮死状態になったダイバー経験者の話によると、意識不明になる臨界点の朧(おぼろ)げな感覚があるようだが、特段の苦痛を覚えなかったと言う。

思うに、大抵の溺死者の表情が苦痛に歪むのはこういうことではないだろうか。

「人間がはじめ溺れ始めると、息を無意識に吸おうとする。それが結果としてパニックを招く。何とか空気を吸おうと必死にもがくため、動悸を早めてしまい、もっと空気を必要とさせる。動くために必要な酸素がどんどん消費されるため、頭に回る酸素を少なくさせてしまい、さらに正常な判断ができなくなってしまう。そして、徐々に無意識に近い状態になっていく」(ウィキペディア・「水死」より引用)  

枝葉末節な拘りを見せるような文章を書いてきたが、私には「あいつ」に関する描写と、この水鏡での死の描写が、抜きん出てシンボリックなそれになっているので、描写のリアリズムで静かに展開したこの映像の中にあって、そこだけはは際立って鮮明な印象をもたらすものとなっている。

なぜなら、それが原作の冷徹なリアリズムと完全に切れてしまう表現だからである。

水鏡に顔を沈めたタツは、相当な覚悟を持っていた。

しかし、覚悟だけでは成就できない尊厳死の現実がそこにある。

どうしても埋められないあと一歩の力を、タツは「神の手」によって補う以外になかった。

「神の手」を求めて、それが自分の後頭部を優しく支えたとき、タツの中で何かが固まったのだ。

だから、老母にパニックが起こらなかったのである。

恐らく、パニックが起こらなければ、人はより安楽に尊厳死に近づけるのであろう。

タツは特段の苦痛を覚える前に意識を失って、そのまま「安らかな顔」に辿り着いたのである。

それ故、タツの死因は本当のところ何でも良かったのである。

繰り返すようだが、この描写の挿入は、映像を決定づけたと言える。

タツの「醜悪なる老い」の終着点に、「安らかな顔」が待っていたのだ。

この映画は、「醜悪なる老い」が「安らかな顔」に流れていくまでの切実な軌跡を、映し出した作品なのである。

そこに、「安楽死」の是非を問わない映像の形而上学性があったのだ。

それは、残酷なストーリーを描写のリアリズムで押し切れなかった脆弱さというよりも、そこに労(いた)わりのメッセージを被せることで、尊厳なる死を望む「醜悪なる老い」への着地点を、シンボリックに確保するイメージの内に定着した何かだったのである。



―― 尊厳死についての言及が続いたが、それがこの映画の核心的テーマになっていると考えたからである。

そんな把握を含めて、この作品を形而上学的に言えば、こんな風になるだろうか。

即ち、この作品は、祖父母と息子という、三人の密やかな共同意志による「安らかなる死」への願いを、静かに揺蕩(たゆた)うような水鏡の世界の内に、作り手の死生観や思いが仮託された印象的な描写によって、そこに流れていく親子の微妙な感情を含ませながら、映像的に成就させていった、極めて芸術的完成度の高い一篇であったと括れるだろうか。



10  「仮面家族」の継続力の弱さ



吉田喜重監督と岡田茉莉子
また、この映画について語るとき、「現代家族」の有りようについての言及が不可避なので、その点も押さえておきたい。

但し映画は、「現代家族」の問題点を提示し、それについて声高に語ろうとした作品にはなっていない。そこもまた、原作と完全に切れるところであった。

ともあれ、この映画を観る者は、そこに描かれた森本家の寒々とした風景に、見せられたくないものと出合ったときの、ある種の不快感を覚えたのだろうか。それとも、そこで見せられた世界の、その擬似日常的な風景に当惑してしまうのだろうか。

今、私たちの世界はどの辺のところにあって、そこに呼吸する人々はどの辺りで微睡(まどろ)み、そしてどの辺りまで誘(いざな)われていくのだろうか.

「現代家族」は今、そこに何を抱えて、何を求め、そしてどこに向かおうとしているのか。


―― 以下、「現代家族」についての簡単な輪郭を示してみよう。

「1950年代以降の家族変動の最も顕著なものは単身世帯の増大である。つまり、現代の家族には、同居親族数が減少し核家族化が進んだこと、共同体の力の減退に伴って家族の基盤に変容が生じたこと、の二つの特徴があげられる。

合わせて、夫婦の共働も一般化しつつある。それによって、育児や子育てが保育園や学童クラブ、地域の野球やサッカー、スイミングスクールなどのスポーツクラブ、学習塾などに外注されることも増えてきた。家族の機能の分散化ともいう。また、共働きに伴う性別役割分業の問題、老親の扶養の問題も表面化してきた。

かつて、家族の機能として、生殖、育児、経済、団欒などが挙げられてきたが、今では残るものは『団欒』だけなのか、それも崩壊しつつあるのかという問題が提起され始めている。

また、こうした家族の機能不全状態の広まりと共に、家庭でのドメスティック・バイオレンス、児童虐待など事件が新聞の社会面を賑わすことが日常化してきた。増加する高齢者人口と在宅での高齢者看護などと共に、家族をめぐる社会問題は先鋭化しつつある」(ウィキペディア・「家族」より引用/筆者段落構成)



現代家族(ウィキ)
そもそも家族とは、生殖とそれによる人間の再生産を基幹機能として、限定的で特定の空間に成立した血縁共同体である。

「現代家族」は、一応そのような枠組みの内に、主に父母子を基本形とする役割共同体を成していると言っていい。

この国では、およそ7割がこのような核家族を構成し、その周囲にシングルマザーや一人親の家族、複合家族(複数の世帯からなる家族)などの変種があるが、それらもまた近代家族の概念に含まれるから、今や、「家族の多様性」が語られる時代になっていることを否定する術がない。

然るに、「現代家族」の生命線は、生殖と育児、教育という基幹機能とは別に、「パンと心の共同体」という概念に集約されるように思う。

とりわけ、最も緊要な課題であるパンの問題に関しては、近代社会のダイナミックな発展の中で、少なくとも、路上の餓死者を日常的に現出させる問題の深刻さを克服したと言える。

パンの問題をほぼ克服した「現代家族」について、今、心の問題だけが様々に論じられるようになったのは、その意味で必然的であったと言っていい。

家族の心の問題とは、それを構成する成員間の情緒的結合の濃密度の問題であるだろう。

その情緒的結合の濃密度こそが、家族の結合力の強弱を決定づけるのである。

そこでは、「家族だから愛し合わねばならない」という絶対的な黄金律は存在しない。

今や、「嫌いな家族とは一緒にいたくない。まして狭い空間で共存し、お互いの顔色を覗いながら日常性を共有するのは沢山だ」という感情の文脈が、そこに多少のオブラートで包みつつも、まさに、その狭い空間内に飛び交う時代になってしまったのである。

「心の共同体」を失った家族は、果たして、「パンの共同体」によってのみ家族を維持しうるのか。

まさに「仮面家族」とは、「パンの共同体」にのみ拠って立つ擬似家族以外ではなかったのだ。

「仮面家族」の継続力の弱さが、どこに起因するか明瞭である。

「現代家族」は本来、恋愛関係の延長線上に成立した一組の夫婦を起点とし、そこにDNAで繋がる次世代の生命を分娩することで、そこに成立した父母子の関係が、それぞれ「お父さん」、「お母さん」、「息子」、「娘」などと呼び合う役割共同体に辿り着く。狭義の意味の家族が誕生したのである。

その誕生は形成的に流れていくから、家族の成員は、自分に与えられたそれぞれの役割をごく自然に果たしていこうとするのである。役割の成熟度が、その情緒的結合力の濃密度を決めていくのだ。

本質的に言えば、共存関係を深めていくほど関係は中性化する。

夫婦間の愛情関係から性的要素が脱色化し、そこで失われた感情を外部世界に求めるという流れも、一夫一婦制を堅守する枠組み内に於いて補完的役割を果たすから、ある意味で人間の自然の有りようと言えるかも知れない。

しかし中性化した夫婦間の関係が、その情緒的結合力を高いレベルで確保されているならば、そこでの関係の破綻は抑止できるだろう。

逆に言えば、それが抑止力を持たなかったとき、家族の風景は一変するのである。

パンの保障さえ確保できるなら関係の崩壊は決定的になり、それが確保できなければ、「仮面家族」すらも演じることが避けられないということだ。

親子の関係は初めから中性化しているから、情緒的結合力の強弱が関係を決定づけてしまうに違いない。

パンの問題を克服した「現代家族」の光と影の世界が、そこにある。

「現代家族」は今、「心の共同体」の作り方の問題で様々に悩み、様々に突出し、様々に解体融合を繰り返していくのである。



11  歪んだ「心の共同体」



―― ここで、森本家の場合を考えてみる。

この家族は一言で言えば、都市に住む核家族に、その長男の両親が、「呼び寄せ老人」として加わって成立した三世代同居家族である。

粘り腰の共同体を連想させる三世代同居家族だが、しかし森本家の内実は、粘り腰のイメージとはあまりに縁遠い。

それぞれが多様にクロスしあって、濃密な関係を形成する体力すら、そこに垣間見ることができないのである。

一家の主である森本依志男は、仕事と不倫で家庭を蔑ろにし、二人の子供たちは、家庭の内にアイデンティティの欠片(かけら)すら見出していないように見える。

専業主婦である依志男の妻の律子は健気だが、子供の養育から解放された時間を埋めるに値する「心の安らぎ」を、自らの家庭内に作り出していないのだ。

そんな危うい家族の中で、老夫妻のみが深い所で繋がっている。

皮肉にもその繋がりの深さを見せるのは、妻タツの認知症の発症によってである。

そのタツが「まだら認知症」(注2)の兆候を見せたとき、家族に緊張が走った。

一時的に老人専門病院に入れられたタツを介護する役割を負うのは、無力な亮作に依存できない事情から、長男の妻律子以外にいなかった。

この家族の展開は先述した通りだが、タツの発症によってバラバラだった家族が、まさに、その家族の危機に前向きに反応し、それぞれの感情を集結させていく絶好の機会であるべきはずだった。

しかしそうはならなかった。危機は更に、より深刻な危機へ肥大してしまったのである。



オムロン ヘルスケアHPより

(注2)脳機能が全体的に低下するのではなく、低下する機能としない機能が混在するということ。(遠賀中間医師会病院HP「認知症について」より参照)


タツの発症は、この家族の情緒的結合力の圧倒的な脆弱さを曝け出してしまった。この家族に「パンの共同体」は成立していても、「心の共同体」は殆ど骨抜きにされてしまっていたのである。

「心の共同体」を失った家族がなお、その共同体を継続させざるを得ないとき、その矛盾の皺寄せは、最も弱い部分に向かっていくだろう。

三世代同居の家族の中で、実質的な“老老介護”(同時に“認認介護”でもあった)が、恰もそれ以外にないという、黙契のように漂う感情によって現出してしまうのだ。

老夫婦は頑ななまでに殻に閉じこもり、そのことが自分たちの誇りと尊厳を守る唯一の手立てのように、関係を切ろうとする。しかし切ろうとしても断ち切れなかった情感が、長男依志男を誘(いざな)って、そこに一親等の絆の幻想が束の間復元したのである。

しかしこの関係は、「尊厳死」を目指す見えない共同意志の、見えない「約束」の内に収斂せざるを得なかった。そこにあったのは、歪んだ「心の共同体」だったのか。

然るに、既に崩壊しつつあった、この家族の「心の共同体」の中で、その歪みは、それ以外に辿り着けない関係の、ギリギリの情緒的結合力の悲痛なる現象であったのだ。

森本家が「心の共同体」を削った代償は、あまりに大きかった。

事件によって、或いは、依志男と律子の夫婦は、その関係の中で削り取られたものを復元させていく可能性がないとは言えない。

彼らの子供たちが負ったリスクの大きさは、彼らが祖父母に僅かばかりの肯定的ストロークを差し出すことをしなかった代償でもあった。

振り出しに戻った核家族が再生できる可能性は大きくないが、血縁幻想だけに頼らない、自覚的な復元への意志によって、そこに立ち上げていくものの可能性までも否定できないであろう。

森本家の現実が、この国の家族の現在の典型的な有りようを象徴するものとは、必ずしも言い切れない。

人々はもっと温和な世界で関係を確かめ合っているだろうし、「心の共同体」の継続力は想像以上に堅固なものであるかも知れない。

「パンの共同体」をほぼ確かなものにした現在、人々がそこに居ることで自我を裸にできる、「家族」という幻想の内に「心の共同体」を拠り所にしようとする思いは、より切実に求められているに違いないからである。

確かに、「現代家族」が内包する危うさは、時代の目眩(めくるめ)く変化の中で常に揺さぶられ、時には深刻な事態を突出させるかも知れないが、しかし、いつの時代でも私たちが戻っていく場所は限られているのだ。

それが仮にどのような変種を派生させても、それを含む「家族」という心地良くも、強靭な幻想であることを、私は信じて止まないのである。



【本稿のプロットにおける登場人物の会話は、「年鑑代表シナリオ集86年度版」(シナリオ協会編 ダヴィッド社刊)の「人間の約束」より全文引用させていただいた。参考文献、「老熟家族」(佐江衆一著 新潮社刊)】

(2006年1月)







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