<偏見を削っていく条件についての映像的考察>
序 「偏見」という普遍的な宿痾
フィラデルフィア。
アメリカのペンシルバニア州南東部に位置する港湾都市で、150万の人口を抱える州内最大の都市である。
独立記念館という世界遺産を持つこのデラウエア川に臨む都市は、言わずと知れたアメリカ独立宣言(1776年)の起草地であり、1787年には憲法発布が行われ、1790年から1800年までの10年間は、ワシントンD.C.が正式な首都になるまで合衆国の首都としての機能を果たした歴史的な街として、あまりに著名である。
現在は製鉄・造船業などで栄えているが、人々の貧困率も高く、その中心部には犯罪多発地帯としてのエリアが存在し、社会問題化しているとも言われている。
まさに、アメリカの原点的な都市の中に抱えた矛盾の大きさが、本作のような映像に集約されたような感も深い。
歴史と現実のこの不具合が、天国から地獄に突き落とされた一人の男の、その振幅の激しい生き様にオーバーラップさせたかのような本作の問題提起は、痛烈なまでにアイロニカルである以上に、抜きん出てシビアで、現代的なテーマを内包すると同時に、そこに「偏見」という、人間心理の殆んど普遍的な宿痾(しゅくあ)とも言える問題が絡みついて、本作はそれなりに秀逸なる一篇に仕上がった。
1 連邦雇用条例の重さ
アンドリュー・ベケット |
「血液検査の結果が出たわ。後でお話を」
全ては、この一言から始まった。
本人は既に、自分の体の異変に気づいていた。
額や首筋にはカボジ肉腫(注1)の兆候が現われていて、最近の体重減少や体調不良との因果関係でエイズを疑っていたが故に、既に検査を受けていたのである。
一方、ベケットは法律事務所では実績を積み重ねて、上級弁護士への昇進を果たしていて、まさに順風満帆なエリート街道を歩むその一つの頂点に近づきつつあったのである。
企業訴訟を専門とする事務所によって、彼に任された仕事は著作権絡みの重要な案件であり、彼は自分の健康の不具合を隠しつつ、日々の職務に就いていたのだ。
口腔内にカポジ肉腫を発症したエイズ患者(ウイキ) |
一ヵ月後、野球帽を被った坊主頭のベケットは、一人の男の事務所を訪ねた。
その男の名はジョー・ミラー。その職業は弁護士。
それもかつて、ライバル弁護士として法廷で対決した男。
その男を訪ねたのだ。
訪問を受けたミラーは、ベケットのやつれた顔を見るなり、唐突に尋ねた。
「その顔は?」
「エイズだ」とベケット。
思わず握手した右手を咄嗟に引っ込めたミラーは、ベケットの一挙手一投足が気になるのか、彼の話を集中して聞けなかった。
ベケット |
「私はウィラーの事務所をクビになった。彼の事務所を不当解雇で訴えたい」
「あの名門の法律事務所を相手に?」
「それで弁護を頼みたい」
「話してくれ」
「私が重要な訴状を置き忘れたと言う。だが違う・・・」
「何人の弁護に相談を?」
「9人」
「続きを・・・」
そのときの、法律事務所の様子が回想されていく。
「最近の君はおかしい。ボヤッとしたり、物忘れしたり」と社長。
「態度にも問題があると・・・」と重役。
「誰が?」とベケット。
「私だ」と社長。
「まさか・・・クビだと?」
「こう考えればいい。ここでは君の未来に可能性はない。将来が期待できない以上、ここにいても無駄だ。では・・・追い出す訳ではないが、委員会があるので・・・」
「待ってくれ。どう考えてもこんなの不合理だ。理屈に合わない」
「その態度に問題があるんだ」と重役。
結局、表面的な解雇の理由は、「職務態度に問題あり」というものだった。そこまで話を聞いたミラーは、病気のことを事務所に伝えていたかどうかについて確認する。
ノーと答えたベケットに、ミラーは更に確認する。
「伝染性の病気を雇用主に伝える義務は?」
「それは関係ない。私は雇われてから辞めるまで、顧客に素晴らしい働きをしてきた。事務所に入れば、今でもだ」
「エイズでは辞めさせられないので、君を無能に見せようと訴状を隠したと?」
「そうだ。嵌められた」
「信じないね」
「とても残念だ」
「訴訟は無理だ」
「訴訟は起こす。君が嫌なら・・・」
「ああ、嫌だね」
「お邪魔をした」
ベケット(左)とジョー・ミラー(右) |
「病気の件はお気の毒だ・・・」
事務所を出たベケットがそこに残した葉巻が気になって、ミラーは知り合いのドクターのもとに予約を入れ、自分の診察がてら、エイズという病気について聞きに行った。
感染を疑っているのである。
「HIVウィルスは、体液からしか感染しない。血液、精液、膣分泌液だ」
「でも知らないことが日々、発見されるでしょ。今日安全だと聞いて、家に帰って子供を抱いて、半年後に間違ってた、洋服からでも感染するとか?」
こんな自分の問いが不毛だと知ったミラーは、その夜、女児を産んで間もない妻に皮肉を言われた。
「ゲイが嫌いなんでしょ?」
「別に・・・」
「同性愛の知人がいる?」
「君は?」
「沢山」
「誰だ?」
夫のその問いに対して、妻は知人の名を次々に挙げたが、その中に叔母の名が入っていることに、ミラーは驚いた。
「認めるよ。僕は偏見がある。ホモは嫌いだ・・・僕は自分より逞しい奴とベッドに入る気はないね。古い男で結構」
はっきりそう言い切った夫に、「頭は原始人ね」と揶揄されて、ミラーは更に感情を込めて反論する。
「もし君の所に、手も触れられたくない男が来たとして、弁護を引き受けるか?」
「断るわね」
「そういうことだ」
このシビアな会話の軟着点を求めるようにして、夫婦は睦みのうちに流れ込んでいった。
2週間後、市の図書館で、ベケットは資料検索のための学習に余念がなかった。
そこに、一人の図書館員が資料を手にやって来た。
リンパ球に結合するHIV-1(ウィキ) |
静寂した空間の中に発せられた、含みを持つその声に小さな緊張が走った。
周囲の視線がベケットに集中したのである。その視線の中に、偶然、図書館に居合わせたミラーもいた。
「ありがとう。どうもありがとう」とベケット。
彼の反応は率直だった。
「個室が空いていますが・・・」と図書館員。
彼の反応は曲線的である。
それを聞き流したベケットは、「ここでいいよ」と一言。
しかし図書館員の表現は、次の一言によって、ダイレクトな尖りを見せてしまった。
「個室のほうが、気楽では?」
この言葉に一瞬、ベケットの表情は変色した。ミラーの表情にも緊張が走っている。
「いや。そちらが安心かい?」
ベケットは皮肉を込めて突き返した。その緊張した空気を払ったのは、ミラーの介入だった。彼はベケットに挨拶を交わし、驚くベケットもそれに返礼した。
「お好きなように」
図書館員は、その一言を残して立ち去ったのである。
そこに残った二人の会話。
「それで、弁護士は?」とミラー。
「僕がやる」とベケット。
短かった。
アメリカ独立宣言の街①・サウス・ストリートから見た中心部(ウィキ) |
「彼らは君がエイズだと?」
「僕の額のシミを見つけた」
「しかし、どうやって彼らが、原因不明のシミを見つけたからと言って、それで君がエイズでクビになったと証明する?」
「そうだな。シミを見つけたウォルターは、ワシントンの法律事務所にいた。そこの助手メリサは、3年もシミがあちこちに出てた。それがエイズのシミだと、皆知っていた」
「クビには?」
「彼女はならなかった」
「君に有利な判例は?」
「判決が出ている。最高裁だ」
ベケットはそう言って、図書館で調べた資料を、ミラーに見せた。
その資料は、以下の通りであった。
「1973年の連邦雇用条例において、雇用者の求める業務を為し得る身体障害者の雇用差別は禁じられている。条文には、エイズ差別は明記していないが、その後の判例により、エイズも身障と認める。身体の障害に加え、エイズへの偏見が、彼らが死に至る前に社会的な死にまで強いるからだ。差別とは、個々人を公正な判断に基づかず、特定の集団に属するが故、不当に扱うことである」
この文面をミラーが読み上げて、途中から、既に丸ごと暗記していたベケットが繋いでいく。
それは、二人の男の他者でしかない関係が、弁護士と原告の関係に変容した瞬間だった。
まもなく、ベケットの弁護士になったミラーが、ベケットを解雇した事務所を訪れた。ベケットの訴訟についての訴状を、ウィラー社長に渡すためである。
それを受け取ったウィラーは、直ちに訴訟準備に動き出した。
ベケットの私生活を全て調べ上げることから、彼らの狡猾な行動は開かれたのである。
一方、ベケットは裁判を前に家族の温かい空気に包まれていた。
「お前は俺の弟だ。心配するな」と兄。
「私はママとパパが心配だわ。散々心配させて、これから大変でしょ?」と姉。
「今までも、お前は病気と戦ってきた。ミゲールと二人で、大変な勇気だ。誰が何と言おうと、恥じることはない。わしらはお前を誇りに思ってるよ」
これは、父の思いのこもった励まし。
ベケットとミゲール |
「私は、偏見に負ける子は育てなかったわ。堂々と戦いなさい」
これも、母の思いのこもった励まし。
「皆、愛しているよ」
これが、ベケットの家族に対する率直な心情の吐露であった。
2 アメリカ独立宣言の街
アメリカ独立宣言の街② |
その法廷で、ミラーが弁論の要旨を語っていく。
「陪審員の皆さん、テレビや映画は忘れて下さい。すごい証人が現れたり、涙の告白もありません。お話しするのは単純な事実だけです。ベケット氏は解雇されました。その理由を、私たちと彼らから聞くでしょう。皆さんは、その話からどちらがより真実かをお決めになる。私は次の点を証明します。その一、ベケット氏は優秀で、有能な弁護士です。その二、彼は衰弱性の病に感染しており、合法的な権利として、その病を人には言いませんでした。その三、だが彼の雇用者は、その病に気づきました。その病とはエイズです。その四、彼らは怖気づいた。恐怖で、彼らは人々がするように、この病を持つ者を遠くに追い払ってしまった。彼らの態度は理解できます。この私にも・・・。エイズは不治で致死の病です。皆さんがチャールズ・ウィラー氏たちを道義的、道徳的にどう判断しようといい。だが、エイズを理由に彼を解雇した。これは法律違反です」
これに対して、相手側の弁護人はベケットの職業的な不適正を突いてきた。
「ベケット氏の仕事上の業績は、適切でいいときもありましたが、多くの場合月並みであり、ひどく不出来なこともありました。事実、彼は自分が虚偽による犠牲者であると訴えてます。しかし、嘘をついたのはベケット氏です。徹底的に自分の病気を隠しました。事実、彼はその二枚舌に成功しました。ウィラー氏たちは、解雇のとき、彼がエイズだと知りませんでした。事実、彼は死にかけています。事実、彼は腹を立てています。自分の生活、その無軌道な行為が命を縮めたから、彼はその怒りをどこかの誰かにぶつけたい。それがこの訴えなのです」
こうして、人生の残りの時間が限られた男の、その誇りを賭けた苛烈な裁判が展開されていく。
男はメディアの格好のターゲットになり、ゲイに偏見を持つ者たちや、男の戦いを支持する者たちが法廷を囲繞して、一人の男の戦いが一つの街をあっという間に駆け抜けていったのである。
「フィラデルフィアは兄弟愛の街だ。自由の誕生の地だし、独立宣言が為された街だ。独立宣言の言葉は、“普通”の人間が平等ではなく、人間は、“皆”平等だ」
「もし差別によって解雇したなら、そんな事務所と市は付き合いません」
前者がミラーの言葉で、後者が市長の言葉。
それらのコメントが、テレビのインタビューを通して市民に流されていく。
「僕だってホモは嫌だ。だが法が破られた。法を忘れるな」
これはそのテレビを酒場で観ているミラーが、「最近、君は歩き方が変わったぞ」と、彼をからかう友人に対して答えた言葉である。
「この病気を持つ者は皆同じです。有罪でも無罪でもない。ただ生きたいだけです」
「彼はやせて、とても疲れてました。でも頑張ってました。私はおかしいと。あの人たちが何も気づかなかったなんて」
次々に法廷内の証言が加わっていくが、肝心の原告側弁護人であるミラー自身がどこへ行ってもホモと見られる経験の中で、次第にストレスを溜めていく。
彼は遂に法廷の場で、原告側証人に向って、「あなたはホモか?」と繰り返し尋ねたり、汚い隠語を吐き出したりしてしまうのだ。
それを聞いて、不安がるベケット。裁判長に呼ばれたミラーは、その真意を質される。そのときのミラーの弁舌は、刺激的なものであった。
「この法廷の人々は、性のことが頭から離れない。性的な興味がだ。誰と誰にどんな性癖があるかと、アンディ(ベケットの愛称)を見てそう思い、ウィラー氏にも、裁判長にすらどうかなと・・・私のことは間違いなく疑っている。ならハッキリさせた方がいい。隠さずに・・・。話はエイズだけじゃない。本当のことを話すべきだ。我々の中にある嫌悪、恐怖。同性愛へのだ。その嫌悪と恐怖の気持ちが、この同性愛者の解雇にどう繋がったか。ベケット氏の解雇にです・・・」
刺激的だが、あまりに本質的なミラーの弁舌。
隣の席に戻ったミラーに、ベケットは「良かった」と一言添えた。
その後、裁判長は明言した。
「この法廷では正義だけを考え、人種も、宗教も、肌の色も、個人の性の志向も一切関係ありません。しかし我々の社会は、法廷の中とは違います。確かにそうです。しかし今の質問は、弁護側の異議を認めます」
しかし、良識的にまとめた裁判長の法廷の空気を、ミラーは敢えて破っていく。海兵隊(?)出身らしい直属の上司であったウォルターに対して、ミラーはその過去の掘り起しから迫っていくのである。
「皆、共に暮らしていて、何も起こりませんでしたか?」
「何もって、何が?」
「水兵同士が、デッキの下でエッチするとか?」
「一人いました」
「一人いたって、ホモですか?」
「見せびらかすように、素っ裸で歩きまわっていた。皆、嫌がっていた。モラルを壊していた。そこで悪いことだと教えました」
「手紙でも書いて?」
「便器に頭を突っ込んでやりました」
「お仕置きを?」
「そうです」
「アンディにも同様に?・・・撤回します。あなたはメリサさんがエイズだと知っていた。あなたはシミとアザの区別がつきますね?」
「彼はラケットボールのあざだと・・・」
「彼女がエイズだと知って、避けようと?彼女はあなたが嫌悪していたと、どうです?」
「私は彼女のような人々に深い同情を感じます。自分のせいであの病に罹(かか)ったのではない」
法廷は、少しずつ本質に肉薄していった。
しかし、肝心の原告であるベケットの容態は、死期に近づきつつあるかのような、眼に見える衰弱を示しつつあった。
彼は自分に寄り添うように看護するミゲールに、決して回避できない現実を言語化した。
「葬式の準備を始める。僕の死期に備えるんだ」
その言葉が自分の弱音であると悟ったかのように、ベケットは「ノー、ノー」と言って、打ち消した。
アメリカ独立宣言の街③(ウィキ) |
3 マリア・カラスの誘(いざな)い
ミラーがゲイ・パーティに参加したその夜、彼はベケットの自宅に残って、法廷での証言の準備をするつもりでいた。そこでも彼は、ゲイに対する偏見をなお消せないでいた。
証言の練習に入るつもりのミラーに、ベケットは尋ねた。
「祈ることはあるか?」
「・・・ああ、祈るよ」
「何を祈る?」
「・・・何かな。赤ん坊の健康とか、出産を無事にとか、フィリーズ(注2)の優勝とか・・・」
そこまで話して、証言の練習に入ろうとしたミラー意志を、ベケットは再び遮った。
「慈善施設に寄付をする遺書を書いた。ミゲールへの遺言検認も・・・」
ベケットには、「裁判の終りまで自分の体が持たない」という気持ちがあるので、証言の練習などという途方もない課題に、中々入り込めないのだ。そんな気持ちが、ベケットの関心をシフトさせた。
「オペラは好きかい?」
「あまりオペラは聴かない」
「大好きなアリアだ。マリア・カラス。アンドレア・シェニエ(注3)、ウンベルト・ジョルダーノ、マッダレーナの歌だ・・・」
マリア・カラス |
「アンドレア・シェニエ」の中の、「亡くなった母が」の哀切極まる独唱である。
ベケットの言葉の中に、オペラの世界の感情が入り込んできた。
「彼女は言う。フランス革命で、暴徒が彼女の家に火をつけ、彼女を救うため、母親は死んだ。“私の揺りかごの家が焼けていく”この苦痛に満ちた声。分るかい?」
静かに頷くミラー。
もう彼の中では、証言の練習の意志が失せていったようだ。
「弦楽器が始まると、全てが変わる。曲が希望に満ちてくる。変わるぞ。ほら。“愛された人にまで悲しみを”このチェロのソロ。“その苦しみの中で、愛が私に訪れた 調和に満ちた声が言う まだ生きるのよ 私は生命よ 見えるのは天国”・・・」
次第にミラーの表情が変化してきた。
目頭が熱くなっている。
オペラを聴くベケットも、その世界と完全に一体化している。
だから、涙も自然に溢れてくる。
オペラを聴くベケット |
オペラが終わり、ベケットは「非日常なる日常性」の世界に戻ってきた。
しかしミラーは日常性に戻れない。
だから彼は帰るしかなかった。
ベケットの壮絶な内面世界に初めて触れて、ミラーは自分が入り込む余地のない感情に置き去りにされて、ベケットの自宅を静かに去って行った。
帰宅した彼の耳には、オペラの旋律がこびり付いていて、彼は産まれてまもない女児を固く抱きしめた。
その後、ベッドに眠る愛妻に寄り添うが、未だ纏(まと)わり付く旋律を振り払えないでいた。
明らかに、彼の中で何かが変化し、何かが新しく生まれようとしていたのである。
(注2)1883年、フィラデルフィアに創立されたMLBナ・リーグ東地区のチーム過去にワールド・シリーズ制覇を2度、リーグ優勝を6度果たしていて、近年低迷が続いている。
(注3)「1幕・革命勃発も近いパリ郊外のサロン。従僕のジェラールは貴族社会に反発を抱きながらも令嬢マッダレーナに思いを寄せている。夜会の席で詩人のアンドレア・シェニエが愛の崇高さを歌い旧体制を批判すると(「ある日青空を眺めて」)、皆が耳をそむける中でマッダレーナは彼に惹かれ、感動したジェラールも革命家を志し制服を脱ぎ捨てて出ていく。
2幕・五年後、革命下のパリ。ジェラールは革命政府の一員となったが、愛するマッダレーナを密かに探している。革命で路頭に迷ったマッダレーナはシェニエを訪ね、革命詩人の彼もまた追われる身だが、死ぬまで彼女を守ると言って二人は愛を誓う。そこへジェラールが現れ彼女を連れて行こうとし、それを阻むシェニエと決闘となるが、刺されたジェラールは相手がシェニエと気付くと夜会での敬意を思い出し、彼女を守ってやってくれと彼を逃がす。
モデルとなったフランスの詩人・アンドレ・シェニエ |
4幕・監獄。シェニエは死刑を待ちながら詩を書き上げる(「五月の晴れた日のように」)。そこへマッダレーナとジェラールがあらわれ、マッダレーナは看守に金や宝石を渡して女死刑囚の身替わりにしてくれと頼み、ジェラールは二人の助命を嘆願しに行く。シェニエとマッダレーナは獄中で再会し永遠の愛を誓うが、その時死刑執行の名前が読み上げられ、二人は「死に栄光あれ」と叫んで死刑台への馬車に乗り込む」
(川北祥子HP「映画を見たらオペラも見ようよ」:第8回『フィラデルフィア』の生命の歌『アンドレア・シェニエ』~解説したがるオペラ好き~)
4 約束された未来の世界の中に
法廷が開かれて、ベケットが証言台に立った。
彼はウィラーの法律事務所に入った経緯を、淡々と説明していく。
「・・・街で一番名のある事務所だし、優秀な弁護士たちにも惹かれました・・・特にチャールズに・・・彼は私の理想とする弁護士です。法律の知識に溢れてて、剃刀のように頭が切れ、誰よりも優れた資質と素晴らしいテクニックを持ち、凄い能力で複雑な法律概念を解明し、仲間にも法廷にも、それを説得できる・・・表面は優雅な顔をしていますが、心はとても大胆なのです」
ここでベケットは、ミラーに自分がゲイであることを話していたかと聞かれて、「ノー」と答えた。
「なぜ?」という問いに、ベケットは説明を加えていく。
「仕事に私生活を持ち込むべきではありません。しかしやはり話そうと思いました。そのとき、ラケットクラブであることが・・・ちょうど3年ほど前です。誰かが冗談を言い始めました・・・」
ここでベケットはゲイを笑いものにする話題が出て、話ができなかったというのである。
それでも彼は、自分が正義の法の一部になれるという自尊心で、弁護士活動を続けてきたことを語ったのである。
その後、会社側の弁護士は、ベケットがゲイ専門のポルノ映画館に通っていたことを追求し、それを認めさせたというのだ。
その辺りの証言から、ベケットの体調が少しずつ限界の様相を示してきて、証言を継続する体力の衰弱が顕在化するに至った。
彼の眼から周囲の風景が揺らいで見えて、その場で座り続けることの困難さを露呈したのである。
衰弱するベケット |
相手の弁護士は鏡を持ってきて、ベケットに体のシミの認知を迫った。
その時だった。
ミラーが立ち上がり、ベケットにはっきりと尋ねたのである。
「現在、体のどこかにシミがありますか?解雇当時、顔にあったのと同じシミが?」
「はい。胴・・・胴体に・・・」
「お許し頂けるなら、アンディにシャツを脱いでもらい、シミを見ていただきたいのですが」
法廷での勝負を賭けたミラーの攻勢が始まった。
相手側は異議を申し立てるが、ミラーの反論によって、裁判長の許可を受けることになった。
ミラーは大きな鏡を用意した。
ベケットは多くの陪審員や家族が見つめる前で、上着を広げ、シャツのボタンを外して、その上半身を晒したのである。
ミラーの鏡に写ったその体には、既に無数の大きなシミが点在していて、それを見ることから眼を背ける者が相次いだ。
自らの身体を晒したベケットの証言は終了したのである。
その後、ウィラー社長が証言台に立って、自分の正当性を主張するばかり。
「アンディの言う通り、あなたは最高だ。あなたは、ゲイ?」とミラー。
それに笑って答えないウィラーに、裁判長は答えを求めた。
「私は同性愛ではない」
ミラーは、ウィラーに畳み掛けていく。
「あなたの期待の星、アンディ・ベケットが、実は同性愛で、エイズだと分ったとき、あなたは恐怖で胸を突かれたのでは?彼と握手したり、サウナで過ごしたひと時、お尻を叩き合ったこともあったでしょう?だから、“何てことだ!何ておぞましい”と?」
「つまらん思いつきや想像で、勝手なことをおっしゃるのはいい。だが事実はこうです。彼は自分勝手に仕事をしていた。自分の正体も正直には話さなかった。彼はルールを曲げたのだ。長年のその結果、彼は解雇されたのです」
「ルールって、誰が作ったルールです?」
「聖書を読みたまえ。旧約と新約を。人のルールが書かれている・・・」
ウィラーがここまで言ったとき、突然ベケットはその場で卒倒してしまった。
不治の病を患っていることが見た目にも判然とする、痩身な彼の肉体の防衛体力の限界が尽きたのだ。
かつて、法廷の場を職場にした男は、今や自己防衛の空間と化したその場を後に、救急車で病院に搬送されて行ったのである。
その後も、法廷が継続された。
そして陪審員の審議が始まり、遂に判決が言い渡された。
「未払いの報酬及び給料で、14万3000ドル。精神的苦痛及び屈辱に対し、10万ドル。懲罰的損害賠償として478万2000ドルを支払う」
ベケットの裁判は完璧な勝訴で完結した。
それでも相手側は、当然上訴をするだろう。
独立記念館(ウィキ) |
まもなくミラーが、病床のベケットの見舞いに足を運んだ。
「どうだい?」
ベケットは酸素吸入器を外し、ジョークで反応した。
「弁護士1000人を海に沈めたらどうなる?」
「さあ」
「世の中良くなる・・・お見事、弁護士さん。ありがとう」
「君のお陰だよ、弁護士さん」
ジョークで反応するミラー。
二人はもうそれ以上、余計な会話を繋がなかった。
繋ぐ必要がなかったし、それを必要とせざるを得ない関係のレベルを、ほんの少し超えてしまっていたのであろう。
まもなくベケットは、殆ど約束された未来の世界の中に入っていった。
しかし彼の死を、映像は映し出さなかった。
葬儀を終えた家族や知人たちが集まって、葬儀とは思えないような柔和な雰囲気の中でクロスし合い、まるで団欒のひと時を日常世界のうちに記録する描写によって括られていったのである。
愛をテーマにするニール・ヤングのメロディに送られて。
* * * *
5 偏見を削っていく条件についての映像的考察
兄弟愛の街・フィラデルフィア(ウィキ) |
これについては、映像全体を通じて比較的情緒含みで流され続けてくるから、正直、閉口する気分になるのは事実。
それでも、作り手の意図的な抑制のバリアを突き抜けて露出される映像には、目立つほどのあざとさが感じられなかった分だけ、本作は確実に救われていると言えるだろう。
第二に、そんな「自由と兄弟愛の街」で出来した、差別と偏見に関わるテーマ性への明瞭な言及である。
そして第三に、死を直近にした者の壮絶な孤独の呻きである。実はこの辺の描写が、テーマ言及を拡散させることなく映像化することに成就したからこそ、本作を秀逸な人間ドラマとして評価することが可能になったと言えるだろう。
マリア・カラスのオペラを聴き入る男の内面世界は、彼を弁護する男の浮薄な情緒的乗り入れを拒むほどに排他的だったのだ。
その排他性の根柢にあるのは、自分のみしか実感し得ない、死の淵に立つ者の絶対孤独の境地である。他者でしかない者の境地に、その身を投げ入れることが可能な魂の実存性を対峙させるのは、人間として殆んど不可能であるという他にないのだ。
オペラを聴き入る男と、その内面の極みにクロスできない男の描写は、恐らく本作の白眉である。
この描写なしに、本作の成功はあり得なかった。
明らかに勝負を賭けた描写だったのだ。
思えば、この描写の直前は、ゲイ・パーティに参加することで、弁護士が確実に原告との距離を相対的に縮めたシーンであった。
そしてこの描写の後に待っていたのは、原告がその上半身を晒すに至るまでの、法廷に於ける壮絶な状況描写であった。
二つの印象的な描写を繋いだオペラの描写の持つ意味は、本作が単に偏見を告発するお手軽なヒューマニズムによって、正義なる者への予定調和的な物語に収斂させなかったという点で決定的に重要であったと言えるであろう。
然るに私は、本作にとって最も重要なテーマは、以上の見えやすい了解性のうちに収まらないと考えている。
「偏見を削っていく条件についての映像的考察」―― これが、本作に付与した私なりのテーマである。
そしてそのテーマを体現させたのが、ミラー弁護士の存在と、その関わり方にあると考えている。
従って、彼の心理の振れ方についての言及こそが、本作の核心であると思うのである。
ミラー弁護士の心理の変遷を追ってみる。
ミラーは普通の人格の持ち主であり、普通の市民がノーマルに抱えた意識と切れることない価値観の持ち主である。
フィラデルフィア市庁舎・ブログ
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そして彼は黒人であることとは無縁に、やり手の弁護士として名を売るほどに有能であった。
その有能さは、彼の人格形成と市民意識の感覚レベルに一定の影響を与えるものであったかも知れないが、この男が、「普通の人間」だという大枠的な把握は変わらないだろう。
そんな男の「普通さ」の片鱗が最初に検証されたのが、ベケットの弁護依頼の訪問の際である。
彼の意識は、「エイズだ」とベケットに開口一番告げられたときに、既に固定化されてしまっていた。
固定化された心は、そこに弁護依頼の思いを伝えられても変容の余地がないのだ。
このときミラーは、明らかにベケットの弁護依頼を断った他の弁護士と同様に、「行為としての差別」を開いてしまっている。
彼はそのとき依頼を拒む理由を告げなかったが、その晩、愛妻に語った言葉の中で、その意識の歪みが露呈されている。
彼は、妻にこう語ったのだ。
「もし君のところに、手も触れられたくない男が来たとして、弁護を引き受けるか?」
この言葉は、ミラーの意識を裸にしている。
しかし愛妻には、肝心なニュアンスが伝わっていない。
そこに誤魔化しがある。
ミラーは大嫌いな男に弁護を依頼されたから、それを拒んだのではない。
弁護を依頼した人間がゲイであり、且つ、その者がエイズ患者であるから断ったのである。
彼がゲイを嫌悪するのは、単に彼が市民社会のノーマルな感覚の枠内で、その身体的感覚においてゲイ性に馴染めないだけなのだ。
彼は、その意識こそがノーマルなものであるという了解性を全く疑っていない。
それは私も経験的に理解できるが、異性の肌にのみ興奮を覚えるという感覚が絶対的な基準にならないということであり、そしてそれが既に、「性」に対するある種の偏見のデータベースになってしまっているを意味するだろう。
更にその情報が、多くの場合、誤解や曲解に基づいているということだ。
今でも、同性愛についての原因究明が研究テーマにされていることでも分るように、それが遺伝子レベルの問題を含む生物学的因子とか、何某かの精神的疾患の関与を疑ったり(注4)、果ては環境ホルモン原因説や脳機能説等々、引きも切らず、同性愛の「アブノーマル性」を含んだ様態に関わる説明が不必要なまでに連射され続けているが、本来、明瞭な科学的認知によって特定されることが困難であるが故に、それを一つの「性的指向」(注5)の形態でしかないと把握することなく、多分に好奇的なメディアの情報の垂れ流しという現象も手伝って、その様態の不確実性の空隙を突くようにして、人々の偏見に充ちた感情が分娩されてしまうのである。
偏見には、人間の無知、無教養の問題が重厚に絡んでいるということだ。
(注4)アメリカ精神医学会が発行する「精神障害の診断と統計の手引き」として知られる「DSM」には、同性愛を疾病とする見解が記述されていたが、「DSM 2」の第七版からは同性愛についての記述の削除があり、治療の対象から除外されている。
(注5)「性的指向とは、性的意識の対象が異性、同性または両性のいずれかに向かうかを示す概念のことで、具体的には、異性愛、同性愛、両性愛を指します。性的指向を理由とする差別的取り扱いについては、現在では不当なことであるという認識が広がっていますが、特に同性愛者については、いまだ偏見や差別を受けているのが現状です」(東京都中央区HPより)
因みに、偏見とは「過剰なる価値付与」である。
一切の事象に境界を設け、そこに価値付与して生きるしか術がないのが人間の性(さが)である。その人間が境界の内側に価値を与えることは、境界の外側に同質の価値を残さないためである。
通常、この境界の内外の価値は深刻な対立を生まないが、内側の価値が肥大していくと、外側の価値との共存を困難にさせるのだ。これが偏見である。
この偏見感情が、本作で象徴的に露呈される描写があった。
ベケットの裁判がメディアによって喧伝されたことで、裁判所を囲繞する者たちが、それぞれの思いでメッセージを伝えてくるシーンである。
「エイズはホモの治療薬だ!」
これが、ステッカーに書かれたそのメッセージである。
このメッセンジャーたちは当然の如く、体制サイドの規範意識を陵辱するカテゴリーのうちに同性愛者のその存在性を位置づけて、それを断罪して止まないのだ。
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無論、そこには無知の問題が重厚に絡んでいるが、それ以上に、同性愛=悪徳という価値措定が過剰なまでに張り付いているから、彼らにとっては、自分たちのアンチ・ゲイの価値観をしばしば、「行為としての差別」として身体化せざるを得なくなるのである。
それが、偏見感情の最も厄介なる病理性なのだ。
ミラーにもまた、無知から来る同性愛者の偏見がこびり付いていた。
そして、そこにエイズに対する偏見が絡んでくると、もう彼の自我の守備範囲を越えてしまうのである。エイズに対する偏見も、彼の無知と誤解に基づいていた。
ベケットが彼の事務所に残した物理的接触の痕跡にすら恐怖感を持つ男であるが故に、彼はドクターの所見のフォローを必要としてしまうのだ。
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そんな男が偶然、市立図書館で図書館員から、「微笑の中の差別」を受けるベケットを見て、鋭く反応した。
反応した感情の基盤には、一定の教養を持つ市民的ヒューマニズムの等身大の感覚の媒介があるだろう。
そのヒューマニズムの形成力は、明らかに、「微笑の中の差別」を露出する図書館員とは切れていた。
彼は、ドクターの所見のフォローで納得し得る柔和な教養を保持していたのである。
そしてその出会いが、ミラーを少しずつ変えていく契機となった。
それは彼の中の偏見が、無知からの解放と、固有の人格とのクロスによって削られていくプロセスの始まりであった。
彼はベケットから、エイズによる不当解雇の法的根拠を確認したことによって、本来の職能意識が覚醒し、一気に自分のフィールドである法廷の世界に、その人格を投げ入れてゆく決意に到達したのである。
しかしそれは、彼の中の偏見感情が完全に払拭されたからではない。
一人の人間が、その自我のうちに刻んできた負性感情が簡単に払拭される訳がないのだ。
その矛盾が、法廷の開始後にあからさまに露呈される。
彼は周囲から、「ゲイを守るゲイの弁護士」という烙印を押され、ストレスを溜め込んでいく。
そのストレスは偏見に対する怒りから発するものではなく、寧ろ、「ゲイの弁護士」という烙印の内に屈辱感を感じていたのである。
そこに彼の限界があった。
彼もまたそれを認知した。
その認知のうちに溜まった感情を、法廷で堂々と放出したのである。
放出したことで、一人の矛盾を抱えた弁護士は、内なる偏見と対峙し、向き合うことになったのだ。
向き合ってからの彼の法廷内での弁論は、少しずつ、本来の職能的な冴えを増していく。
この辺りの描写は、とても説得力があった。
その心理の流れ方が、恐らく、観る者の平均的な感情のレベルと重なってきたからである。
ミラーはいつしか、そこに合理的な理由があったとは言え、ゲイ・パーティに足を運ぶ感情にまで辿り着いていた。
しかしパーティの後、彼は異次元の世界で佇むベケットを視界に入れることになる。
哀切極まるオペラの独唱の世界に嵌り込むベケットの、その「絶対孤独」の闇の深さを露呈させたかのような世界の前で、ミラーは立ち竦み、適切な言葉すら届けられないのだ。
心の動揺を隠せないのである。
ベケットの家からその身を解放した瞬間、彼は恐怖の時間を抜け出した者の如くホッと息を継ぎ、帰りかけようとして立ち戻り、ドアをノックする寸前で断念した。
自分にはどうしても入り込めない世界があることを、まざまざと感じ取った彼は、その晩、妻との睦みの中にも入り込めず、なお心の動揺を継続するばかりだった。
この晩の出来事は、ミラーという一人の弁護士を大きく変貌させる何かになったのである。
彼はもう、「依頼を引き受けた弁護士」ではなく、「一定の使命感で動く弁護士」に変容したかのようであった。
その結果、裁判を勝訴に持ち込むが、これが安直な予定調和のハリウッド劇の範疇に収まらない印象を観る者に与えたのは、彼の心理描写が相当の説得力を持っていたからである。
彼は今や、不当解雇の裁判に挑んだ男をサポートしたのではなく、死に望む者がなお誇りを賭けて戦う壮絶な人生の、そのラインの辺りにまで近づく実感を持って、全人格をダイレクトに投げ入れる括りの中で、まさに自分のための闘いを表現し切ったのである。
「法を守るための闘い」の曲線的な継続力が、遂に偏見を削り取っていく自己変容のさまとして、彼の内側に刻まれてしまったのだ。
ミラーの中の細(ささ)やかだが、しかし彼の自我の城砦を柔和化させる一つの変容の様態は、彼の自我に巣食っていた偏見感情の尖りを幾らかでも削り取っていく何かであった。
本作のラストに於いて、一人のエイズ患者に対して共感感情に近い辺りまで、一人の人間としてのミラーが辿り着いた軌跡は、必ずしも直線的な正面突破による栄光によって称賛されるものではなかった。
当然のことである。
人間の偏見感情が、その自我の内部で削られていくプロセスは、恐らく容易ならざるものであろう。
しかしミラーの中で、その容易ならざるプロセスを保証した条件は、事態が内包する特有な因子にのみ集約されるものではない。
それは恐らく、普遍的な要件であると言えなくもないのだ。
偏見を削り抜いていく条件の第一は、無知からの解放である。
これは、決して知識の多寡の次元ではない。
正確な知識による理解と、それ以上に、それをサポートする人間的教養というものがその根柢において枢要で、且つ、有機的な役割を果たしているはずである。
そして条件の第二は、偏見の対象となった人格に対するナチュラルな理解である。
それは相手の人格に絡みつく、曲解的なイメージを教養的に除去していくプロセスを介して、その人格の内面世界に支障なくアプローチし得る心理的な現象の総体であると言っていい。
このような条件を内的に媒介させていくことで、僅かずつ感受し得た相手の人格に対する共感感情が形成されていくと考えられる。
共感感情の獲得は、既に自我の奥深い部分で、認知と情動のクロスが睦み合うようにして、同居する心理現象を顕在化させたということなのである。
6 決定的な状況描写としての支配力
最後に、この映画の表現的成功について一言
これには、二つあると思う。
二つ目は、勝負に出た描写で、映像で描かれた主人公の内面世界が、必要なだけの説得力をもって表現されていたことである。
まず、一つ目。
本作は、ミラーの自我から偏見感情が削られていく心理的過程を丹念に描いた作品であって、それは無論、彼がいかにして、スーパーマンに変貌を遂げたかという描写の醍醐味で勝負した作品ではなかったということである。
従って、本作が出色であったのは、ミラーという弁護士が初めから、弱者を助けるスーパーマンとしてのキャラクターを誇示する形で、あざとく描き出されていなかったという点にあると思われる。
それ以外ではないのだ。これについては、これ以上の説明の要がないであろう。
そして二つ目。
法廷で主人公が、カボジ肉腫に冒された肌を晒した描写である。
ここまでに劣化した肉体であるが故に、その肉体が衰弱する時間の残酷さが浮き彫りにされていって、その飽和点が法廷内での卒倒の描写であったこと。
些か作りすぎの描写であるとも言えるが、しかしそこでは、映像の刻々と動く時間のうちに、一歩ずつ死へと向かう肉体の無残さが鮮烈な筆致で再現されていて、しかも、そこに至るまでの描写の必要な布石が説得力を持っていたことで、物語の過剰さを払拭していたように思われる。
勝負を賭けた描写の一つは、空回りすることなく、小さくも、しかし決定的な状況描写としての支配力を示したのである。
そして彼が倒れたその瞬間に、敵であるウィラー社長が、「医者を呼べ!」と思わず叫ぶ件(くだり)はリアリティに満ちていて、人間ドラマとしての深みを持たせる映像として秀逸だった。
その社長が敗訴の後、すぐに上訴を求める描写を合わせて、まさに本作は、人間の現実の生態を十分に窺わせるリアリズムによって貫徹されていて、相当程度、説得力を持つ人間把握の表現だったと言えるだろう。
ジョナサン・デミ監督 |
しかし冷静さを取り戻したとき、上訴を決めるその男には、恐らく、その男の人格のサイズに合った理性的判断を表出したということである。
以上が、本作が人間ドラマとして秀逸であるとする、私なりの把握である。
但し、家族愛に過剰なほど恵まれすぎた主人公のポジションが些か気になるのは、本作が「人間愛」を中枢的テーマに据えていることに起因することが、あまりに見え見えであり過ぎる点である。
他にも苦言を呈したい描写が幾つがあったが、取り立てて指摘するほどのことではないので、控えることにする。
私にとって、本作の副題への言及こそが枢要であると考えるからだ。
(2006年11月)
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