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2008年12月15日月曜日

妻('53)     成瀬巳喜男



<覚悟を決めた女、覚悟できない男>

 

 1  煎餅を齧る妻、布団の中に潜り込む夫



 1950年代初めのこの国の、とある木造家屋が、朝の外光を浴びた裏通りに融合した絵画のようにして、比較的明るい長調の旋律に乗って映し出されてくる。

 今度は、その家屋に住む中年夫婦が、いつでもそうであるような日常の継続性の中で、それぞれの作業に余念がない姿を映し出す。しかしそれも束の間、この映像が刻んでいく現実の様相は、長閑な旋律に相応しくない描写だった。

 夫は咥(くわ)え煙草で外套の埃を庭に払い、帽子を被り、出勤支度を整えている。一方妻は、朝餉(あさげ)の後の片づけを、恐らく、いつものゆったりとした律動によって熟(こな)している。残り物の食べ物を妻が口に頬張って、食器を台所に運んだ場所に、鞄を持った夫が急くようにやって来て、そのまま玄関に直行する。夫はかなり使い古した靴を磨いて、振り向くことなく家を出た。

 その夫の後ろ姿を視界に入れた妻は、無表情に夫の出勤を見守るだけ。そこに、一言の会話を刻むことがなかったのである。

 最後までパラレルに進行する夫婦の朝の風景が炙り出したのは、倦怠期を迎えた子供のいない中年夫婦の日常的現実のさまだった。
 
 その後、夫婦のモノローグが流れていくことで、この映画の主題がどこにあるかということが、観る者に理解されるに至る。
 
 まず、妻のモノローグ。
 
 「この頃の主人って、一体どういうんだろう。私の顔を見ると疲れた、疲れたって・・・・・。いい加減私だって、家庭ってものが嫌になってしまう。もともと、暖簾に腕押し見たいな人で、何を考えてるんだか、さっぱり訳が分らない。だから、私はいつもまでも独り者みたいにイライラしちゃうんだわ。いつまでもうだつの上がらない安月給で、私がこんな内職でもしてるから、何とか家計が立ってゆくんだけど。結婚十年目の夫婦生活ってもの、一体こんなことでいいんだろうか」
 
 更に、夫のモノローグが続く。

 出勤途上での、くすんだ感情がそこに吐露されている。
 
 「どうして、たった二人だけの生活が上手くゆかないのか。妻は一体、俺にどうしろと云うんだろう。一々俺を遣り込めて、それでいい気持ちって訳でもあるまい。この頃、俺はつくづく自分の家が重荷になってきた。家と一緒に妻に対しても、少しずつ気持ちが薄れてゆくのをどうすることも出来ない。長年連れ添ってる夫婦の間っていうものも、考えてみれば案外頼りないものだ・・・それにしても、十年間の夫婦生活から、二人は一体何を得たんだろう。失ったものだけが多いんじゃないだろうか」
 
 夫の名は、中川十一(じゅういち)。妻の名は美種(みね)子。

 中川十一は安月給の会社員。

 結婚して十年になるが、子供のいない夫婦は二階に間借り人を置き、妻の機械編みの副職で、何とか家計を遣り繰りしている。この夫婦は、以上のモノローグで露呈されたような関係が長く続いていて、映像を通してその関係の破綻が顕在化していくことを、観る者に想像させるに充分な導入になっている。
 
 夫の十一が、会社の昼休みにアルマイトの弁当箱の蓋を開けてみると、目刺し四本と沢庵二切れ、そして誇張されたような梅干が一つ。それらがそこに、時代とマッチした細(ささ)やかなる庶民の生活のリアリティを際立たせている。

 十一が弁当を食べ始めると、そこに髪の毛が一本、冷たいご飯の中に混じっていた。彼はそれを不快な表情で取りあげて、捨て去った。妻が作った弁当の粗末さが明け透けに説明されるこの描写の中に、既に、モノローグでの夫婦の関係の有りようが滑稽含みで表現されていた。

 一方、同じ部屋で昼食をとるタイピストの相良房子の持参した弁当の中身は、手の込んだサンドウィッチや果物が、如何にも女性らしい細やかさで綺麗に盛り付けられていた。

 そのコントラストに思わず吹き出したくなるような、成瀬らしい言わずもがなの描写が、映像に生活臭たっぷりの律動感を刻んでいた。
 
 その頃、妻の美種子は、友人である未亡人の訪問を受けていた。

 その友人は嫁ぎ先での居心地が悪くて、子供を連れて自活の道を考えている。古本屋や洋裁店でも開いて、女一人生きていく方途を模索する彼女の眼から見ると、美種子の生活はパラダイスに見えるらしい。それをやんわりと否定する美種子には、未亡人の自立の困難さを見せ付けられて、「誰か心当たりでもない?好きな人でも探しなさいよ」と答えるのが精一杯だった。

 このような描写によって、繰り返し、「女の自立の困難さと、それを乗り越えていく逞しさ、或いは、その悲哀のリアリズム」という、成瀬映画のお馴染みのストーリー・パターンが、既に、ここでもなぞられていく流れが踏襲されているのが了解される。そしてこのパターンの範疇に収まっている、「生活力のない男たちのだらしなさ」という定番的な造形にも変化がない。成瀬的映像宇宙には、常に特別な衒(てら)いがないのである。

 十一は会社の帰りに、間借り人の松山に偶然会って、二人は一杯飲み屋で愚痴を零し合っていた。映像では、松山の愚痴を十一が聞いている場面だけが紹介されている。
 
 「それでも、奥さんがちゃんと働いておられるからいいですよ」と十一。
 「いやぁ、僕は昔の亭主ってだけで・・・・・どうもその分上手く、ピッタリいかないんですよ」
 「ピッタリいかないって、どういう風に?」
 「つまり、昔の亭主にですね、義理のようなもんだけで向かってこられちゃたまりませんからね。女房の気持ちはもう、千里も先に離れているんです・・・僕は近い内に女房と別れようと思ってます。それがまあ、私としての、真心からの贈り物ってものになる訳ですからね」
 
 松山は失業中で、その夫を女房が水商売をして扶養している。松山には、それがいつも重荷に感じられているようである。
 
 
 夜遅く、松山夫人が中川家に帰って来た。当の松山は、二階の自分の部屋で泥酔して横になっている。当家の主はもう布団の中に潜って、本を読んでいる。中川夫人は松山夫人の帰宅を確認して、主人に厭味を言った。

 「狐につままれたみたいだわ」

 そう言いながら、左手でバリバリと下品な音を立てている。煎餅を齧(かじ)っているのだ。右手では、お茶を飲んでいる。

 中川夫人の話は続く。

 「あの人クリスチャンで、前には小学校の代用教員までしてたのよ」
 「それは時と場合には、人間、どんなことでもやるだろうさ」
 
 夫にはどうでもいい話だった。
 
 「だって、あの人がバーの女給だなんて・・・」
 
 音を立てて煎餅を齧る妻の振舞いを、夫は不快な表情で一瞥して、そのまま布団の中に潜り込んだ。それを確認する妻は、何事もないように一日を閉じていく。

 

 2  食べ滓を穿(ほじく)り出す妻、名曲喫茶で憩う夫



 会社の昼休み。

 十一はタイピストの相良房子に誘われて、名曲喫茶で憩いの時間を過ごしていた。

 「らんぶる」、それが喫茶店の名前だった。

 相良は音楽や美術に関心を持つ、自立心の強い若き未亡人だった。その明朗で澄んだ笑顔が十一の心を優しく包み込み、癒していく。それは、この映像が初めて見せる柔和な描写だった。

 十一は彼女から絵の展覧会の切符をもらい、それとなく誘われたのである。しかしこの時点では、女からのその誘いの内に、男女感情のときめきを連想させるイメージを湧出させるものは何も見えない。
 
 十一の勤務先に、妻から連絡が入った。二階に間借りしている松山夫人が、夫に無断で家を出たとのこと。
 
 
 その夜の中川家。

 食事の後の夫婦の風景が、人工灯の下で映し出されている。夫はいつものように夕刊を読み、妻は箸の先で楊枝代わりに食べ滓を穿(ほじく)り出して、それをお茶でブクブクさせて飲み込んだ。その音を夫の視線が一瞬捉えるが、いつもの妻の動作に反応する気力も削がれている。

 「松山さん、帰って来たらびっくりするでしょうね。七輪まで持ってっちまったのよ」
 「栄子さんも、案外やるんだね」
 「あなた、働き者だって褒めてらっしゃったけど、あんな優しそうな人が、却って気が強いのよ」
 
 そこに松山が帰って来た。部屋を見れば、一組の布団以外に何もない。傷心の松山は下に降りて来て、その思いの丈を夫婦に零すだけ。

 「全く恥ずかしい話しです・・・こんなに気の強い奴だとは思わなかったんですが・・・」
 「奥さんもよく話し合って、円満に別れるなら別れるで・・・」
 「布団の間に手紙が挟んでありましてね、頼むから探さないでくれ、と書いてあるんです」
 「あんまり立ち入ったことは言えませんが、こんな乱暴な別れ方、やっぱりどうも・・・」

 十一には、松山夫妻の唐突で、品位を欠いた別れ方に納得できない気持ちがある。彼には、どこかで自分の身になって考える所があるのかも知れない。

 そんな松山がお土産に買ってきた天婦羅と日本酒で、侘しい宴が始まった。部屋代が溜まっていた松山に就職口が決まったその日に、彼の妻は姿を消したのである。

 「どうせ私たち夫婦の間には、大手術が必要だったんですよ・・・却って、こうした乱暴な別れ方でさっぱりしましたよ。今度は生まれ変わったつもりで、何でも遮二無二やり抜いて、金の鬼でもなりますかな」
 
 松山の抑制的な話に、十一は今、反応する術を知らなかった。脳天気に天婦羅をもらって喜ぶ、妻の表情とのコントラストが印象的だった。

 
 日曜の朝。

 十一は庭の掃除をしている。そこに妻の一言が侵入した。
 
 「あなた、今日はあたし、出かけますからね」
 
 驚く夫は、思わず切り返す。
 
 「僕も今日、出かけるんだけどなぁ」
 
 妻も切り返す。
 
 「あら、たまの日曜日くらい、家にいて下さったっていいじゃありませんですか」
 「うん、しかしどうしても、僕が行かなくちゃなんない所なんだよ」
 「何ですの?御用は」
 「専務の家で、重要な用件があるんだ」と夫。

 妻の顔を正視せず、掃除を続けるようにして答えた。後ろめたい感情が映し出されている。
 

 まもなく、十一は房子と上野の美術館でデートしていた。
 
 「たまには、宜しかったでしょ?お誘いして」と房子。
 「ええ、毎日毎日、息が詰まりそうですからね」と十一。

 共に笑顔満面だった。その満面に笑顔を表す二人を、美大生の谷村が偶然目撃した。彼は芸大生だから、上野の国立博物館の前を絶えず通っている。その谷村とは、中川家に間借りしている一人である。
 

 その夜の夫婦の会話。

 妻はもう一人の間借り人の松山に対する不満を、夫にぶつけた。
 
 「あなた、何とか松山さんにおっしゃってよ。一文にもならない人置いておくなんて嫌だわ」
 「まあ、もう少し成り行きに任せるさ」
 「あなたって、あたしが一生懸命内職していることなんか、ちっとも分って下さらないのね」
 「分ってるさ。分ってるけど、内職って程のこともないじゃないか」
 「まあ!松山さんは一文もくれないし、谷村さんだって・・・」
 
 そこに谷村が入って来た。煙草をもらいに来たのである。煙草をもらった谷村は夫婦の部屋に居座って、雑談の花を咲かせた。主に谷村の相手となったのは中川夫人。話をしながら、両耳を交互に耳掻きで掃除する描写は、殆ど、もう違和感のない風景になっている。谷村が眼の前で手にした、「らんぶる」のマッチを話題にしたときの、十一の反応の無表情ぶりでこの場面は閉じていく。
 
 次に開かれた場面は、その「らんぶる」での十一と房子のデート。
 
 房子は実家のある大阪に帰ることを十一に告げた。それを聞いて悄然とする十一。映画を観終わった夜の、公園での散策。
 
 「ねえ私、時々お手紙差し上げてもいい?」と房子。
 「勿論です。僕も出します」と十一。

 二人は指切りして、まるで恋人同士のように振舞っている。
 
 「相良さんが大阪行っちゃったら、当分ぼんやりしちゃうな・・・もう少し若かったら、追っ駆けて行くんだけど、どうにもならない。困った気持ちなんです。この頃、毎晩のように相良さんの夢を見るんですよ」
 「あら、私も二、三度、中川さんの夢を見ましたわ」
 
 ドキンとする言葉を言われて、十一は房子の顔をまじまじと見つめる。しかしこの描写は、ここでフェードアウト。

 成瀬はいつもそれ以上描かないが、その後に起こるであろう男と女の感情のクロスは、当然、観る者に想像させて止まない。そこに大人の男と女がいて、このときを逃したら永遠に悔いが残るという思いが双方にあれば、大抵そのままで済む訳がないのである。何かが起きつつあったのだ。

 いつものように、中川家で当家の住人たちを待つ美種子は、思いもよらない事態と出会うことになった。先日出奔した妻を、松山が強引に当家に連れて来たのである。慌てる美種子と、玄関での大声に驚いて階下に下りて来た谷村。
 
 「どうなさったんですの?松山さん」と美種子。
 「奥さん、今夜はね、この不貞な女を折檻するために連れて来ました」
 
 感情を抑え切れない松山を、谷村が必死に止めている。松山夫人である栄子は泣き崩れていた。
 
 「男を騙して生きていけるもんかどうか、今夜こそ折檻してやるぞ!」

 怒鳴るだけ怒鳴って、 酔いつぶれている男を谷村が自分の部屋に寝かしつけて、階下では、美種子が栄子に静かに話して、落ち着かせようとした。
 
 「あなたも、松山さんを捨てっ放しじゃあいけないわ。あたしの所だって、とっても困っているのよ。あなたに貸したんですもの」
 「すみません。でもあたし、もう松山には何の愛情もないの。長いこと待っていて、戻って来た松山は、昔の松山と丸っきり違う人に変わっているんですもの。臆病になっちまって、あたしに寄っかかったまんまなの。あたし、こんな夫婦に戻るために、何年もじっと一人で待っていたんじゃないわ!馬鹿らしくなったのよ。あたしはあたし一人で、自由にさせてもらいたいのよ・・・」
 
 栄子は思いの丈を吐き出した。

 この吐露によって、映像を今まで観てきた者は、彼女が決して悪妻ではないことを初めて知る。このような展開の巧みな妙に、観る者は、そこで描かれた外面的印象だけで人間を判断することの怖さを思い知らされるのである。そこに、成瀬の人間観が垣間見える。人間を単純に善悪二元論で把握することの傲慢さを、常に成瀬はその映像によって検証してきたのである。
 
 程なく、松山は郷里に帰って行った。
 どうやら、妻の栄子から手切れ金を渡されて帰省したらしい。この男は最後まで無気力だった。

 夫と別れて安心した栄子が、美種子のもとを訪ねて来た。
 
 その二人の会話。
 
 「栄子さん、あなたずっと一人で働いているつもり?」
 「今、親切に言ってくれる人、二人ばかりあるけど、その人たちだって、いつどうなるか分らない人たちなのよ。あたし結婚は懲り懲り。あたしはあたしなりに、自由に暮らしていくわ」
 「偉いわね。あたしなんかとってもできやしない」
 「うふふふ、こちらの旦那さまのような方なら、結婚してもいいけど」
 「嘘!頼りないのよ」
 「本当に男って信用できないわね・・・」
 
 ここで栄子は用件を切り出した。

 二階の空いた部屋を貸して欲しいとのこと。その間借り人はバーで働いている女性で、月に二度訪ねて来るパトロンがあるという話なので、美種子は夫と相談してから決めると答えた。

 その夜、帰宅した夫にその件を相談しても、夫は「君のいいようにするさ」の一言。美種子は、夫のそんな答えを予測していたように反応し、間借りの件を承諾したのである。

 彼女にとって、家賃収入で自分の着物を買うことの方が重要だったのだ。夫に相談したのは、殆ど儀礼的な手続きと言っていい。

 夫の十一は、近く大阪に出張に行くことを妻に報告した。その妻から、大阪にいる相良房子から届いたハガキを渡された。ハガキに書かれていたことは儀礼的な内容である。それでも、それを読む夫を一瞥する妻の表情は穏やかではなかった。
 
 「こちらへ参りまして、はや一月余り過ぎてしまいました。葉桜のこの頃、お変わりもございませんか。子どもはもうお友達ができて元気ですが、私は折に触れ、東京の空ばかり懐かしく・・・何卒お体大切にお暮らしくださいませ」 
 
 夫がハガキを読んだ後、妻はさり気なく相良房子のことを夫に尋ねた。夫は、彼女がすでに会社を辞めたタイピストであることを説明しても、妻はなお問いかける。

 「親しくしてらしたの?」
 「親しくって、会社の人だもの」
 「若い方?」
 「子供がいるよ」
 「奥さん?」
 「いや未亡人だ」
 「大阪にいらしたら、お会いになれるわね。いいわね、あたしも旅行がしたいわ」
 
 妻にはこんな経験は初めてなのだろう。特別に嫉妬感を剥き出しにするほど夫への思いが強いとは思えないが、自分の副職と間借り代で支える家計を握る妻としては、皮肉の一言でも言いたいに違いない。勿論、夫からの反応は皆無だった。
 
 
 十一は大阪に向かった。

 会社の出張だったが、当然ながら、房子と会うことも視野に入っている。

 十一がその房子に会えたのは、出張二日目だった。

 子供を連れて現われた房子とゆっくり話すために、十一は旅館の部屋を借りた。子供を寝かした後の二人の会話。

 「もう何時頃ですの?」と房子。
 「何時だって構わないでしょう?」
 「ええ、でも・・・」と房子は口ごもっている。
 「どうしたの?」
 「あたくし、家のこと考えたり、あなたのことを考えたりしていると、後できっと何か責められるようなことになって、お互いに苦しむんでしょう?」
 「苦しんだっていいじゃないか。愛し合っていて、お互いに遠慮するなんて嫌だ」

 二人はもう、相手を必要とするまでに愛し合っている。映像で初めて見せる十一の、毅然たる態度だった。

 翌朝、十一は房子の子供と旅館の部屋で遊んでいる。房子は鏡で身だしなみを整えながら、その光景を横目で見つめていた。彼らはこの部屋で一夜を過ごしたのである。当然、そこで何があったか、観る者には充分に想像できる。

 「あなた、明日お帰りになるんでしょ・・・・・私たちどうしていったらいいかしら・・・いっそ、東京へついていきたいわ・・・」

 子供を相手にしながら、男は黙っている。

 「どうして黙ってらっしゃるの?」

 女はその一言しか、もはや放つべき言葉はなかった。

 男の昨夜のあの毅然とした態度は、もうそこにはない。男の優柔不断が露呈された描写だった。成瀬の映画はいつもそうなのである。



 3  頬を濡らす妻、告白する夫



 十一が出張から帰ったその日、自宅では、新しい間借り人の引越しの荷物が運び込まれていた。既に二階には間借り人の女性がいて、そこに、パトロンと思しき中年男が訪ねて来た。

 しかし十一には、彼らの存在は眼中にない。大阪の房子のことが、どこかで気になっているのである。十一の妻、美種子だけが彼らの存在が気になってならないのだ。

 だから夫に向かう言葉も、彼らの関係の有りように及んでしまうのである。

 「・・・男っていい気なもんね。あんな若い人、お金で自由にして」

 全く反応しない夫に何かを察知した妻は、話題を変えた。恐らく、それが本命の話題だった。

 「大阪で、相良さんて方にお会いになったんでしょ?」

 それでも答えない夫に、確認を迫った。

 「お会いになったの?」
 「・・・会ったよ」

 元気なく答えた夫の一言に、妻は夫に近づいて、再び確認を迫った。

 「やっぱりそうなのね。いつか展覧会に一緒にいらしたのも、その方なんでしょ?ちゃんと見てた人もいるのよ。あなた、その方好きなの?好きなんでしょ?好きなのね」

 反応のない夫に明らかな感情を読み取った妻は、この映像では珍しく真剣な表情を寄せていく。夫もその表情に、答えざるを得なかった。

 「君には済まないんだけど、本当はもっと早く打ち明けようと思っていたんだ・・・」
 「まあ、じゃああなた、その人を愛しているんですか?」
 「好きなんだ」
 「本気なんですの?」

 答えない夫に、妻は自分の感情をぶつけていく。

 「男なんて皆、勝手よ。皆、悪いことしてるんだわ。この頃妙だ、妙だと思ってたけど、まさかあなたが女を作るなんて。あなたさえしっかりしていて下されば、そんな女なんか寄り付けないはずじゃありませんか。今更、あたしたちの間にこんなことが・・・ひどいわ・・・ひどいわ」
 
 映像で初めて見せる妻の涙は、煎餅をバリバリ齧る下品な女のそれではなかった。

 「あたし嫌よ。別れないわ。どんなことがあったって、別れないわよ・・・」
 
 夫は最後まで妻をフォローできない。最後まで妻と視線を合わせず、そこに小さく座って、頭(こうべ)を垂れていた。

 
 妻の美種子は、栄子と会っていた。全て彼女に話したのである。
 
 「中川さんを好きになる女の人って、分るような気がするわ・・・しっかりしないと、命取りみたいにならないとも限らないことよ」
 「そうかしら」
 「中年の恋って、なかなか一筋縄じゃ元のところに戻らないんですって」
 「だって、金のない男を・・・」
 「恋は思案の外って言うじゃないの。あたしこれでも、多少、男って者を見てきたつもりよ。中川さんて、浮気や冗談で女を好きになれる人じゃないから、怖いと思うわ」
 
 バー勤めの女の眼から見れば、中川の恋の本気度が確信できるのである。そんな話を受けて、美種子は不快感を露にした。その顔は嫉妬感で我を失った悲哀さというよりも、夫に裏切られた者の悔しさのそれに近かった。
 
 美種子はその夜、自宅に戻らなかった。栄子のアパートに泊まったのである。
 
 「美種子さん、中川さんとはっきり別れてもいいっていう気持ちがあって?」
 「そうね、今のところ・・・」
 「いい方ですものね。第一便利な方だわ。お庭を掃いたり、薪を割ったり。松山なんか何にもしないで、世の中を呪ってばかりいたんですもの」
 「でもね、中川が他の女を好きだなんて、思っただけでも嫌だわ。不潔だわ」
 「そんなあなた、世の中に絵で書いた夫婦なんて滅多にないわ。間違いのないような顔をして、始終間違っているのが人間なのよ」
 「あたし、大阪へ行ってみようかしら」
 「それよりもまず、手近に中川さんの気持ちを引き留めておくことだわ。あんまり責め立てない方がいいのよ」
 「でもあたし、中川に面と向かうといっぺんに腹が立っちまって」

 二人の女同士の会話には、男に散々手を焼いた者の開き直りと、今、初めてそれを経験する者の開き直りにくさが、微妙にクロスしていた。
 

 一方、妻のいない中川家で、十一は美大生の谷村と恋愛談義。

 「谷村君、君は恋愛したことがあるかい?」 
 「恋ですか?いいですね、惚れたことはあるんですけどね」
 「それは有望だ。恋をすることは人生の弔いだ。君の絵もきっと今に上手くなるよ」
 「僕の絵は今でも・・・上手くないのかな」
 「君の絵はどうも絵の具が付き過ぎているんじゃないかねぇ」
 「そうですか。僕はですね、何て言うかこう、命を吹いたものを描きたいんですよ」
 「命を吹いたもの?」
 「ええ」
 「そうか・・・命を吹いたものねぇ・・・」
 
 十一は自分の恋が、谷村の言う、「命を吹いたもの」かどうか考え込んでしまった。
 

 翌朝、十一が出勤しようとする時間に合わせたかのように、妻の美種子が帰って来た。その顔には、「お帰り」と迎える夫に対する不快の念が滲み出ている。
 
 「あなた、夕べあたしがどこへ泊まってきたかも心配なさらないの?」
 「お母さんの所だろう?」
 「恥ずかしくて、母の所なんか行けませんわ」

 夫婦の会話はそれだけ。

 これ以上弁明できない夫がいて、それ以上何も聞こうとしない妻がいた。
 
 妻が戻った本来の家に、一人の女性が訪ねて来た。
 間借り人の女性のパトロンの奥さんだった。

 「私はこの三ヶ月余りってもの、本当にろくろく眠れもしませんのですよ・・・主人は家具の製作所をやっておりますが、あの女にすっかり騙されて、家へも滅多に帰って来ませんし、たまに帰れば金や品物を持ち出して、後から後から馬鹿なことをされますと、私はもう腹が立って、腹が立って・・・」
 「ごもっともですわ・・・知り合いの方の紹介で是非って言うもんで、お貸ししたんですけど、そんなことが分っていれば、ねぇ・・・」
 
 間借り人の女が帰って来るまで待たせて欲しいという、相手の申し出に応じた美種子には、同じ立場に立たされた女の思いが重なっていた。パトロンと称する男の経済力が大したことがないのを知って、美種子は、若い女の前で見栄を張る中年男の哀れさを感じ取っている。

 同時に、そんな男の奥さんの涙を見ていて、自分も或いは、他人に同情される哀れな女に見られることを情けなく感じたのかも知れない。ここまできたら夫婦もお終いだ、と彼女は思っていたのだろうか。

 無気力な男を袖にした松山夫人と、若い女に入れあげる夫を取り戻すために奔走する、今、眼の前にいる中年婦人とのあまりのコントラスト。美種子の気持ちは複雑だったに違いない。

 
 十一の職場に、桜井節子と名乗る女性が訪ねて来た。美種子の友人である。今回の件を全て把握していて、夫である十一の本心を確認しに来たのである。
 
 「あんまり苛めない方がいいわよ」
 「苛めれているのはこっちなんですよ」
 「白状しなければいいのよ。黙っていればいいのにさ」
 「そうかな」
 「あたし、中川さんが、本気でその人を好きなんじゃないと思うけど・・・まぁ、つまんないこと考えないで、いい旦那さまになってよ。何て言ったって、美種子さんは中川さん一人が頼りなんですもの」
 「ありがとう」と十一。

 彼には、既に包囲網ができている。全ての動きを封じられたような、情けない中年男がそこにいた。


 その晩の夫婦の会話は深刻だった。
 
 「やっぱり別れましょうか」と妻。
 「会社なんか行って、妙なこと喋らない方がいいね」と夫。
 「あらっ!あたし気にかかるから行ったのよ」
 「他人に喋り散らしてみっともないじゃないか」
 「あたし、嫌なのよ。あなたの気持ちがここにないのが寂しいのよ」
 
 涙ぐむ妻をよそ目に、布団に入ろうとする夫。その夫の布団を、妻の次の一言がめくり返した。
 
 「あたし、大阪に手紙出しておきました」
 「何て出したんだ?」
 「あたしの気持ちを書いて、変なちょっかいを出さないで下さいって書いたの」
 「どうしてそんなことをするんだ!」
 「いけないんですか?節子さんもいいって言ってたわ」

 妻の涙はいつまでも濡れてはいない。やることはやる。言うことは言う。そのことで夫の立場がどうなろうと、夫の感情がどれほど自分から離れていこうと、妻は自分の心の中で溜まったストレスを必ず表出せざるを得ないのである。


 翌朝、桜井が訪ねて来た。

 美種子はなかなか布団から出て来ない。それを無視して、桜井はお土産に持ってきた大きなヒラメを刺身にしようと、台所で手に取った菜切り包丁を見て驚いた。殆ど料理用に使用されていないような錆びた包丁と、古びた台所。そこには、この夫婦の食卓風景が垣間見えていたからである。

 「美種子さん、もう少し几帳面かと思ったら・・・これで一体何を食べさせていたの?」と桜井。
 「まぁ、まずいものですね」と十一。
 「そうでしょう?呆れた美種子さん」と桜井。

 彼女の声だけが、この家で飛び抜けて明朗だった。
 桜井は十一に包丁を研がせて、ヒラメの刺身を作るつもりでいる。彼女なりの配慮だったが、布団の中でこの遣りとりを聞いていた美種子だけが腹を立てていた。

 「あたし、これから里へ行って来るわ」

 美種子は桜井に不貞腐れて見せて、女同士の小さなバトルが始まった。

 「一体、美種子さん、胸を打ち割って話せるお友だちって、誰があって?」
 「あたし、誰も友だちなんか欲しくないのよ。皆嘘つきだわ。あたしの家庭のことは、あたしが何とかやってみるわよ。たとえ中川と別れても、もう相談に乗って下さいなんて言わないわよ」
 
 庭まで聞こえてくる言い争いに、十一が心配そうに部屋を覗いてみるが、関わりを恐れるかのように再び包丁を研ぎ出した。

 女のバトルはまだ終わっていない。
 
 「今だから言うけど、美種子さんて冷たい人なのね。一体あなたは、これまで人に何を与えたことがあって?気障な言い方かもしれないけど、人に何も与えようとしないで、人から与えられないのが不服で、プリプリしているのがあなたなのよ」
 「まぁ。いつ、あたしがそんな」
 「昔っから。友だちに限らず、いつだって。中川さんの問題だってそうよ」
 「違うわ。夫婦間のことは一人身のあなたには分らないのよ」
 
 二人の女友達は、遂に仲違いしてしまった。

 桜井は庭にいる十一に、「別れちまいなさいよ」と言った後、美種子には、「あたしもうお目にかからないけど、まあ上手くおやんなさいね」との捨て台詞を残して、中川家を後にしたのである。

 それを追うように、美種子もまた、「里に帰る」と言って自宅を離れて行った。中川家に残ったのは、主人の十一ひとり。
 結局、その夜は、間借り人の谷村と十一による、ヒラメの刺身をつまみにした寂しい酒盛りが、薄暗い人工灯の下で、ただ時間を潰すかのようにして執り行われたのである。
 


 4  討ち入る妻、置き去りにされる夫



 東京に出て来た房子から、中川の職場に電話があった。「らんぶる」で会いたいという用件に、男は当惑したような反応を見せながらも受託した。

 その直後、美種子の実父が職場に訪ねて来た。
 
 「君は一体、美種子をどうするつもりなんだ・・・他に女ができたから、美種子は捨てると言うのかね」
 「いえ、そんな・・・。一度お伺いします」
 「いくら自由な時代になったからと言って、君、夫婦というのは、そんな簡単なものじゃないでしょ・・・・今夜、どうしても来てもらいたい」
 
 義父に釘を刺された十一は重い気分を残しつつ、「らんぶる」で房子と再会した。
 
 「家内から手紙がいったんだって?」
 「ええ」
 「随分失礼なこと書いてきただろう?」
 「いいえ、お怒りになるのは無理なくってよ。でもあたし、お手紙頂いてみてよく分ったんですの。あなたのこと、本当に好きだったのが・・・」
 
既に過去形のような房子の言い方に、十一はそれ以上何も加えなかった。彼の中でも、この関係がもうどこかで終わってしまったことを実感しているようだった。

 そんな男が旅館の一室で、房子に旅行を誘っても、彼女には男の優柔不断の性格がはっきり見えているから、男と覚悟の駆け落ちなどする気は毛頭ないのである。彼女の中では、感情のどこかでお互いに未練が残るこの関係に、一応の終止符を打つつもりで上京したのだった。

 彼女には、十一の妻とのバトルを制してまで、その夫を奪う覚悟などある訳ないのだ。それよりも彼女には、女としての自立を志向する思いのほうが遥かに勝っている。彼女は、一人の幼子の母なのである。

 ここでも男だけが、置き去りにされてしまった。
 
 覚悟のない男に全身全霊を賭けて恋を貫く女性など、滅多にいる訳はないのだ。これが成瀬映画に於ける、この国の極めて定番的な男性像であるかのようである。
 

 十一は美種子の実家に向かわなかった。

 彼は対決を避けることで、決定的な状況に於ける決定的な判断を避けたのである。そんな夫の性格を見透かしたように、妻の美種子は、実父に言い放った。

 「やっぱり来ないつもりよ・・・・・あの人、臆病に見せかけて冷たいところがあるのよ」
 
 この美種子の言葉には、狭隘な主観性が滲み出ている。

 映像で観る限り、中川十一という男は決して冷徹な人物ではない。彼は他人の厄介な問題を引き受ける器量のない一介の小市民だが、非情な合理主義者ではないのである。まして、臆病に見せかけて事態を回避する冷徹漢どころか、丸ごと臆病で、優柔不断な人間であると言っていい。

 妻、美種子に対する冷たさの印象は、明らかに妻に対する広い意味での愛情を欠落させる、その感情の表れであると見ることができる。この夫婦は、既にお互いの人間性の奥にある部分が見えなくなる程、冷え切ってしまっているのである。
 

 翌日、美種子は実家から戻って来た。

 そこに夫はいなかった。彼女は夫のスーツの上着のポケットから、小料理屋のマッチと、相良房子の東京の寄宿先のメモを取り出した。意を決した美種子は、それ以外にない行動に打って出たのだ。房子の寄宿先を訪ねたのである。
 
 まもなく、寄宿先に居合わせた房子を呼び出した美種子は、陽光に反射した高円寺の裏通りを、揃って並ぶように歩いていく。

 背丈も大して変わらぬ二人の女の後姿は、洋服と和服によってその違いを映し出していた。洋服の女は相良房子。明らかに自立に向かう新しい女のイメージがある。和服の女は中川美種子。この時代の、妻としての既得権を必死に守り抜こうとする古い女のイメージがある。

 その古い女の方から、ダイレクトに重量感のある言葉が放たれた。

 「あたくし、あなたのために、生きるか死ぬかっていうことまで考えていますのよ・・・どうしても一度お目にかかりたくて、思い切ってお伺いしましたの。あたし、とてもびっくりして、初めは信じられなかったのよ。あなた、会社にいらっしゃった方なんですってね・・・主人とは、いつ頃から妙なことになったんでしょう。あたくしたち夫婦は、お互いに色んな苦労をし合ってきた永い間柄なんです。一朝一夕には破れないことよ。第一、世間が許しません」

畳み掛けるような美種子の攻勢に、房子は反駁していく気力も萎えていた。この時点で、殆ど勝敗は決していたのだ。

 美種子の攻勢を躱(かわ)すようにして、房子はミルクホールに身を置いたが、「お紅茶二つ」と、後方から美種子が勝手にオーダーを決めた。まるでそれは、この関係の空気を支配するのは自分であることを誇示するようだった。

 「あたし離婚して、慰謝料なんかもらって、引っ込むような負け方なんかしたくないのよ。それでもあなたが嫌だとおっしゃるなら、あたくし、死んで二人を憎みます」
 「もう沢山です。あたくし、今夜大阪へ帰りますので、色々用事がありますから」
 「あたくしは、あなたとまだ十分の一もお話してないことよ。あなた、今日主人とどこかで会うんでしょう?」

 横を向いてその問いに答えない房子に対して、美種子のリードは続く。

 「やっぱり会うのね」と美種子。
 「いいえ」と房子。完全に逃げ腰になっている。
 「嘘、ちゃんと分ってます!あなたは主人を連れ出して、どっか出かけるつもりなんでしょ」
 
 立ち上がって、その場を立ち去ろうとする房子に、美種子の尋問のような言葉が追い駆ける。

 「お願い、あんたの本当の気持ちが窺いたいの。別れて下さる?別れて下さいね。お分りになって?あたくし、よくよくだから会いに来たのよ。もう二度とあなたとお目にかかりたくないから、あなたの口から、はっきり言って頂きたいの」
 「随分、古風なことおっしゃるのね。あたくしは今夜、大阪に発つと申し上げております」
 房子には、それが精一杯の抵抗だった。二人の女のシビアな対峙は、戦いと呼べるようなものではなかった。初めから引いている女がいて、初めから押し捲る女がいた。ただそれだけのことだった。

 
 ここに脳天気な男がいた。中川十一である。

 この男は、東京での房子との逢瀬の場所である「らんぶる」にやって来た。房子を待つためである。当然の如く、そこに彼女はいなかった。その代わりに、彼女からの手紙が届けられていた。
 
 「今朝ほど、奥様のご来訪を受けました。今は心もとり乱れて、これを書いております。私、奥様にはお目にかかりたくはなかったのです。卑怯ですけど、私、奥様を知りたいとは少しも思いませんでした。お目にかかって、本当に弱ってしまいましたわ。それと同時に、私の気持ちもはっきり定まりました。お別れいたします。今さら何も申し上げることはございません。仲良くお暮らし下さい。私は私の道を歩みます。さようなら」
 
 読み終わって、男は無表情に店を後にした。

 男の心の中にどれほどの旋風が突き抜けていったか、男は何も語らない。語れないのだ。全ては自分の決断力の決定的な不足にあることを、この男がどこまで認知できているか疑問だが、男は昨日もまたそうであったような日常性を重ねていくことしかできないであろう。そんな思いを、男は常に引き摺っていることを自己了解しているようなのだ。

 禁断の恋を突き抜ける覚悟と能力なくして、その甘美なる酩酊の世界に侵入することなどおこがましいのである。

 しかし、男の妻は違っていた。

 彼女は覚悟を決めて家を出て、そして覚悟を決めて女に会いに行った。勝負に臨む者の強靭な意志が男の妻には明瞭にあり、男の愛人にはなかったということである。

 成瀬映画のこの鬼気迫る「非日常のリアリズム」は、まさに「日常のリアリズム」によって物語を構成することを得意にする映像作家の独壇場だった。

 
 主のいない中川家で、妻はやるべきことを成し遂げたような余裕の中で、谷村を相手に新聞記事に眼を通していた。そこには、「家具商の妻、服毒自殺」の記事が片隅に張り付いていた。
 
 「知らないんでしょうか?女って怖いなぁ」と谷村。

 二階のバーの女を見上げるように美種子に話しかけた。
 
 「あの奥さんがねぇ、何も死ななくたって・・・」と美種子。

 夫婦生活の修羅場を今まさに進行中の中年女には、他人事ではなかった。
 
 「本当ですよ」と谷村。夫婦生活の修羅場を知らない若者には、全てが他人事でしかなかった。
 
 程なくして、飲み屋で時間を潰してきた十一が帰って来た。
 
 そのだらしない夫の姿を見ながらの、妻のモノローグ。
 
 「夜遅く、お酒に酔って、夫が帰って来た。夫は何も言わない。あたしも黙っている。夫はいつものように、自分で布団を出して寝てしまった。一言も口を聞かないまま、夜が更けて、そして夜が明けて、夫はまたいつもと同じように出て行く」
 

翌朝、出勤途上での、夫のモノローグ。

 「やっぱり、別れるより道はないのかも知れない。思い切って別れてしまえば、案外二人とも生き返れるのかも知れない。しかし・・・」
 
 そして、妻の最後のモノローグ。

 「信じ切っていた夫の気持ちが、こんなにも頼りなく離れていくものだろうか。相手の女に会って、言いたいことの半分も言えなかったけれど、本当はあたしが、黙って身を引くべきなんだろうか。でもたった今、この家を飛び出して、あたしは一体どこへ行けばいいのだろう。飛び出さなければ、いつかまたこんなことを繰り返すかも知れない。女とは妻とは、そんなものなのだろうか」
 

 いつものような朝が来て、いつものような出勤風景があって、そして冒頭に於ける夫婦のモノローグを繋いでいくような日常性の、そのほんの一片がそこに加わった。私たちが目撃した僅か二時間足らずの時間の中で、そこに一体、どれほどの日常性の危機が駆け抜けていったと言うのか。

 それは、何の変哲もない一組の夫婦の、極めて情緒に乏しい時間が継続していくさまを、ごく普通の市民の視界に束の間よぎっていっただけに過ぎなかったのか。

 この映像の中で展開された、日常的にありふれた物語の一切が、まるで幻想であったと思えるような映像の円環的な括りによって、作り手が観る者に提起したメッセージは、恐らく、それ程難解なものではない。その辺りは後述するとして、少なくともこの映画を観終わって、私たちの想像力が、「夫婦の決定的な別離」を予想させるに足る充分な了解性の内に収束せずにはおかないだろう。

 果たして、この夫婦が離婚に至るかどうか、誰も分らない。

 世の中にこんな夫婦がごまんといて、その多くが離婚せずに、殆ど惰性のような日々を、内実を失った共存を累積させていくケースの方が一般的であるようにも思える。まして、女が一人で社会的に生きていくのが困難な時代を背景にしているのだ。難しい時代の中の、難しい夫婦がそこにいたのである。

 彼らの何人かが決定的に決別し、何人かが決定的にその関係を復元させたにしても、その将来の予測は決定的に困難なのである。
 
 何が起こるか分らないのが人生であるからだ。

 美種子と十一の関係の未来は重苦しいまでに暗鬱だが、それでもこの夫婦の決定的別離を確言できないのが、私たちの人生の難しさなのである。

       
                       *       *       *       *

 

 5  失うべくして失う危機に遭遇しただけの物語



成瀬巳喜男監督
「妻」は、「めし」、「夫婦」から続く、所謂、「夫婦三部作」の掉尾を飾る傑作である。それも地味で、観られる機会が少ないが、しかし、内容的には前二作と全く引けをとらないどころか、寧ろ、そこで描かれたものの濃密度に於いて、それらを上回る傑作であると、私は考えている。
 
 いずれも、子供のいない夫婦の危機を題材にしたものだが、この「妻」は、前二作に於ける夫婦の危機の深刻度が全く異なっていると言っていい。

 どこが違うのか。

 三作を通して観た者ならすぐ分ることだが、中年以降の人生を共存していく伴侶に対する「愛情」の重量感に於いて、この作品は決定的に異なっているのである。少なくとも、前二作には、相手を思いやる感情が人並みか、或いは、それ以上にあって、その感情が束の間破綻の危機を顕在化した状況に於いて、決定的な復元力になったのである。

 それは、それまで他人であった普通の男女が愛情を媒介に共存させてきたエネルギーが、代わり映えのしない日常性の累積の中で大抵逢着するであろう、「倦怠期」という名の袋小路の時間の中で生じた喪失感、空洞感や焦燥感等の未知なる感情によって、その継続力を実感できない辺りにまで、フラットなかたちで鈍化された感情空間であると説明できるだろう。

 言い方を変えれば、こういうことだ。

 即ち、何某かの愛情や縁で偶(たま)さか共生する男女の、その関係の継続力が劣化したことを、漸次実感した感情空間の只中で、そこでの夫婦は、一人の男と女である原点に立ち返って、様々に噴き上がってくる不安や疑問に囚われるに違いないということである。

 それを要約すれば、こういうことである。

 「今の自分が居る場所は、果たしてここでいいのか。今の自分が向かう道は、果たして現在の延長上にあるのか」
 
 たとえ愛し合った男女であったとしても、共存化を深めていけば通常はその関係から性的感情が、程度の差こそあれ少しずつ脱色化していくものである。関係は共存化を深めれば、中性化せざるを得ないものである。それでも、その関係が長い期間をかけて培ってきた「愛情」本来のパワーがあれば、それがいつでも関係修復の復元力になっていく。早い話、「愛情」さえあれば、関係がしばしば垣間見せる綻びのかなりの部分を解決に導くと言っていい。
 
 では、「愛情」とは何か。

 「浮雲」の評論でも書いたが、私はそれを「援助感情」をコアにした「共存感情」であると考えている。しかし異性愛という刺劇的な愛情には、この二つに「性的感情」とか「独占感情」等という感情が加わってくる。だから男女の愛は厄介なのだが、その厄介なものを人は好み、それによって世代間継承を具現していくので、それは人間存在にとって最も重要な関係様態の一つであると言えるだろう。
 
 要するに、結婚した男女の共存がやがて中性化したとき、人は通常それを「倦怠期」と呼ぶ。しかし私たちは、その倦怠期で味わう空洞感や喪失感を、皆、それなりの対応で克服していく。ここで重要なのは、それを克服するときのコアもまた、「愛情」であるということだ。

 愛には共存によって培ってきた相手への特別な思いや、「親愛の情」というものがある。これが緊要なのだ。これがあるから、人は伴侶との関係を簡単に捨て切れないのである。これこそ「援助感情」であると言っていい。そのような「援助感情」が根底にある限り、その関係に多少の破綻が生じても崩れ去ることはないだろう。

 倦怠期以降の夫婦の継続力は、この「援助感情」の多寡によって決まると、私は考えている。「援助感情」の本質である「親愛の情」こそが、関係の濃密度を決定付けるのである。
 
 
成瀬の「夫婦三部作」の前二作に於ける夫婦関係には、「親愛の情」が明らかに形成されていた。「めし」における妻と、「夫婦」に於ける夫には嫉妬感情の一定の形成も見られていて、そこに、異性愛の残存感情が張り付いていたことも否定できないだろう。その感情を含む「親愛の情」が崩壊していなかったからこそ、彼らは決定的別離に流れていくことはなかったのである。

 これは彼らの関係の綻びの原因が、確信的な不倫を経由していないことと多いに関係するだろう。彼らには、それぞれの伴侶と離婚する意志を覚悟した感情形成が殆ど見られなかったのである。
 
 ところが、この「妻」という作品に於ける夫婦関係は、その関係を決定的に繋ぎとめていく「親愛の情」の形成ですら、今や形骸化しつつあって、殆ど絶え絶えの継続力を晒すばかりなのである。

 それは冒頭のモノローグに於いて、既にその関係の様態の崩れが伏線化されていた。映像での彼らの会話には、共存感情を検証するような何ものもなく、その内容は、間借り人の部屋代の遅れに対する愚痴であったり、その間借り人たちが関与するトラブルへの嘆息だったり、等々である。

 少なくとも、映像前半では夫婦の内面的なクロスは全く見られない。しかし、そこに思いもよらない事態が現出した。夫の浮気である。その事実を妻が疑い始め、そして夫自身からそれを告白された後の映像の展開は、多分に滑稽含みの中でも緊張が走っていく。後半はこのような緊張の心理描写を精緻に刻んでいくことで、映像を確かな作品に仕立て上げていったのである。
 
 妻、美種子の里帰りに端を発した覚悟の愛人訪問は、鬼気迫るものがあった。美種子のこの気迫の起動力は、一体何だったのか。

 一貫して夫に対する親愛の情感を失った女をして、そこまで気迫に満ちた行動に駆り立てたものは一体何か。

 それを一言で説明すれば、「妻の座」への執着心と、その座を奪う者に対する憎悪感情であるだろう。

 「妻の座」への執着心の内には、それを奪われることによって喪失しかねない生活の日常的基盤がある。彼女は編み機の副職で家計を助けながらも、未だ社会的に自立し得る経済的努力を経験してきていない。女が自立して生きていくのが困難な時代にあって、大抵の女性は「妻の座」を手に入れて、そこに永久就職するのが一般的だった。美種子もまた、そんな普通の女性の範疇に含まれる種類の女性だった。

 しかし彼女には、「めし」、「夫婦」の妻たちのような、夫に対するある種の献身性が殆ど見られない。台所仕事も疎かにするそんな女が、「妻の座」を安易に、しかも継続的に確保できると考えたのが間違いだったのである。

美種子を「悪妻」と呼ぶには誇張があるが、しかしどう考えても「良妻」ではない。それどころか、主婦としての為すべき役割を果たそうとしないこの妻が、それでも、人並みの幸福を確保できるのが当然であると考えるその神経は、些か常軌を逸している。

 従って夫、十一からの「愛情」の被浴を期待するのは、そのキャラクターを考えれば、どだい無理な話であると言わざるを得ないだろう。ある意味で、彼女は失うべくして失う危機に遭遇しただけの物語をなぞっていったのである。
 


 6  覚悟なき者が不倫に走ることの怖さ



 一方、美種子の夫、中川十一の場合はどうだったのか。
 
 映像で観る限り、彼の妻に対する思いは、一貫して冷めているように見える。この夫婦が新婚当時、どれほどの固い「親愛の情」で結ばれていたか不分明だが、冒頭のモノローグから想像すると、かつてはそれなりの情緒的結合が存在していたことは間違いないようだ。

 当然の如く、そんな夫婦も倦怠期を迎えれば「共存感情」が稀薄化し、関係の中性化も一気に加速するであろう。十一から見る美種子の一挙手一投足は、とうてい受容し難い振舞いのように見える。それを知ってか知らずか、美種子の方も夫からの視線を気にする素振りすら見せないのだ。このことは、妻の眼から見た夫の存在の稀薄性を検証するものである。

 彼女の視界には、夫の存在の異性性が剥落し、その存在を中性的な何ものかとしか把握できていないのである。夫の浮気によって、妻の悋気が噴き上がったのではない。そんな中性的で、甲斐性のない夫に浮気されたことそれ自体が、彼女にとって許し難かっただけなのである。
 
 通常、自分の中になくて自分が憧憬するものを、相手がその人格の内に持っているとき、人はその相手にかなりの確率で好感を持つ。また自分の中にある程度あって、自分が厭悪するものを相手の中に存分に見せつけられてしまったら、人はその相手をかなりの確率で嫌悪するに違いない。

 十一にとって、相良房子の存在は前者であり、妻の美種子の存在は後者である。彼は房子の中に、自分の妻にはない上品さと教養を感じ取った。そこに仄かに漂う色香に、十一は男として明らかに反応し、強い愛情を抱くに至ったのである。房子の中にある魅力は、十一が恐らく異性に対して本来的に渇望していたものであるに違いない。

 一方、彼は妻の美種子に、もはや下品で、金のことだけを考える世俗的な人物であるとしか把握できなくなっていた。

 一貫して妻の話題は世俗的な次元の事柄ばかりで、彼はそれを辟易するように消化するしかなかった。夫婦の話題が限定的になるのは当然のことだが、それを毎日のように見聞きする夫にとっては、もはや妻の存在は、雑音を吐き出す中古のスピーカーのような夾雑物でしかなかったであろう。

 妻が下品な振舞いをするときの夫のあからさまな不快な表情には、時間と空間を共存する大切なパートナーとしての受容度が完全に欠落していた。この男が、そんな妻と全く対象的な振る舞いを見せる未亡人に魅かれたのは、あまりに当然だったと言える。
 
 然るに、中川十一という男は、生まれて初めてであろう灼熱の恋のパートナーを、決定的な局面で手放してしまったのである。大阪での逢瀬の一夜を、彼は確信的に継続させようとはしなかったのだ。それでいながら彼は、いつもどこかで不倫の恋を求めていて、愚かにもその思いを正直に妻に告白することさえしたのである。

 この男は、ある意味で嘘を突き通す能力のない男だった。

 妻に告白しながらも、彼は妻に離婚を迫ったりしないのだ。妻の実家からのクレームが来たときも、彼はその夜、妻の実家に訪れるという約束から逃避したのである。

 要するに、この男は何から何まで中途半端なのだ。嘘を突き通す能力がないにも拘らず、どこかで房子との不倫を求めている。妻と離婚する決意もないくせに、上京した房子と逢瀬を重ねようとする。

 結局、この男は、妻の覚悟を決めた行動によって、最も大切なものを失う羽目になってしまったのである。

 一切は、男の覚悟のなさに起因するのだ。映像は、覚悟なき者が不倫に走ることの怖さを身につまされるような形で、観る者に提示してきたのである。

 

 7  等身大の人間描写を、精緻なまでに映像に刻み付けていく映画監督



 「覚悟を決めた女、覚悟できない男」―― これこそ成瀬映画で繰り返し描かれた、腐れ縁のような男と女の関係の定番的パターンだった。覚悟を決めた女は強く、しばしば気高くすら見えるが、覚悟できない男はあまりにだらしなく、しばしば醜悪ですらある。「妻」という作品の生命線も、その辺の描写の圧倒的なリアリズムにあった。
 
 普段は下品で、良妻の片鱗も見せない美種子の断固たる「討ち入り」シーンの、あの見事なまでの凛々しい啖呵と、それとはまるで対極をなす夫、十一の惨めなさまの描写のコントラストは、あまりに痛々しかった。

 房子と対峙した美種子は声を荒げる訳でもなく、しかし毅然とした態度で相手に肉薄し、圧倒した。とりわけミルクホールで、先に店に入った房子が注文する前に、「お紅茶二つ」と後方からオーダーを決める美種子の存在の重量感が際立っている。それはまさに、成瀬映画の真骨頂を示す描写だった。

 それに対して十一の哀れさは、「覚悟できなかった男」の悲嘆を極めていた。二人の逢瀬の場所である「らんぶる」で、別れの手紙を店員を介して手渡されたこの男は、まっすぐ帰宅できず、一杯飲み屋で侘しい酒を呷(あお)るだけ。その孤独を癒す何ものも手に入れられず、男はただ黙々と頭(こうべ)を垂れるだけなのだ。

 帰宅をしても妻と対決できず、そこに一言の会話もなく、翌朝になれば、ファーストシーンの無言の「葬送」のような繰り返し。

 最後のモノローグに於いても、流れに身を任せるというだらしなさ。全てを吐き出したにも拘らず、「言いたい事の半分も言えなかった」と述懐する妻のモノローグと、「思い切って別れてしまえば」と言いながら、「しかし・・・」という言葉が加わってしまう夫のモノローグとの、その決定的な違いに、観る者は「勝手にやってくれ」という思いしか抱かないに違いないだろう。
 
 よくよく思えば、夫婦の危機の不在こそ異常なのかも知れない。誰でもこの程度の危機の襲来は、不可避であると考えるべきなのであろう。人生はなるようにしかならないし、いつだって思うようにいかないものなのだ。

 成瀬は「夫婦三部作」の掉尾を飾る「妻」によって、恐らく、言いたいことの多くを吐き出したはずである。

 
めし」より
ここには、「めし」の中で垣間見られた、「こうあって欲しい」と願う観客に対する幾ばくかの迎合も見られないし、「夫婦」のような「堕胎を拒んだ最後の和解」も見られない。そこにあったのは、倦怠期を上手に乗り越えられないでいる中年夫婦のリアルな生きざまであり、僅かに執着するもの(「妻の座」)の幻想の崩れに立ち会って、なお迷走を続ける者たちのあまりに人間的な悲哀のさまであった。
 
 恐らく成瀬は、「妻」という作品の中にこそ、夫婦の現実の様態を見ていたに違いない。彼もまた、離婚経験者であった。同時に、苦労多い少年期を過ごしてきた。そんな男が作る映画に、綺麗事の入り込む余地などある訳ないのだ。
 
 ついでに書けば、「夫婦三部作」に子供を登場させなかったのは。成瀬自身が、子供の存在によって成立するホームドラマに関心を持たなかったという要因も含まれるだろうが、それ以上に、「子はかすがい」という逃げ場を予め断つことによって、純粋な夫婦関係の情緒的結合力のその強度のみを問題化する点にあった、と私は考えている。
 
 
 「妻」は、殆ど欠点の見つからない傑作中の傑作であると言っていい。それは彼の映像宇宙の中で、最も成瀬らしい作品であると考えるからだ。成瀬らしい作品とは、私の把握では以下の文脈で整理できるものである。
 
 「奇麗事に流れない」、「大したことが起こらない、円環的な日常世界の展開がある」、「プロットに於いて、目立つほどに偶然性に頼らない」、「心理描写で勝負する」、「諧謔とユーモアに溢れている」、「安直なハッピーエンドに流さない」、「奇跡や劇的な展開を好まない」、「描写の情緒的な流れを引っ張らない」、「会話での饒舌を好まず、簡潔に必要な部分以外を削る」等々。
 
 このような映像的な問題意識によって、この国の人々の心情世界にアプローチすれば、成瀬映画で描かれた日本人の生活と意識に肉薄することが可能となる。その結果、そこに余分な装飾を剥ぎ取った、裸の日本人の表情がリアルに映し出されることになる。それこそ成瀬映画の真髄であるとも言えるのだ。
 
 まさに成瀬こそ、日本人の実像を最も鋭く映像化した稀代の映画監督だった。

 彼以外に、ここまで日本の男女の有りようをリアルに抉り出した映画監督は存在しただろうか。この国の男の強さを誇示するような黒澤映画の嘘臭さは、そこにはない。この国の女の哀れさを強調するような溝口映画の嘘臭さも、そこにはない。成瀬映画に登場する男や女、大人や子供、都市住民や田舎の民に及ぶまで、そこには善悪や聖俗、美醜の典型性が表現されることは全くないと言っていいのだ。

 だから誰が善人で、誰が悪人かの区別など、成瀬作品には殆ど意味がないのである。一人の人間の中に、善なるものと悪なるものが同居していて、そのいずれかが状況次第で顕在化するのが自然である。

 成瀬は常に、そのような常識的で、正当な人間理解をベースにして、数多の等身大の人間描写を精緻なまでに映像に刻み付けていく。これ程の映像作家を、他に私は知らない。

 当稿の題材となった「妻」という、それ程知られていない作品に於いてですら、成瀬的文脈を踏まえた完成度の高さを示していることを思えば、彼の映像宇宙の底知れぬ深さに溜息が出るのは蓋(けだ)し当然なことだった。

(2006年4月)

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