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2009年4月14日火曜日

4ヶ月、3週と2日('07)   クリスティアン・ムンジウ


<限界状況からの危うい突破への身体化現象>



序  限りなく澱んだ空気の中で



人間の内面的振幅のその微妙な綾を直接的に映し出す手法として、ワンカット・ワンシーンという撮影技法は多分に有効であるであろう。

意図的に揺れ動くハンディカメラが女子大生の走る後ろ姿を捕捉することで、少なくとも、彼女の不安や緊張感を再現することに成就したとも言えるからである。

一貫して音楽とユーモアを排除した本作の導入は、その日常性の中に出来した溢れるような不安感情を、観る者の内側との心理的共有を果たすべくダイレクトに開いて見せるのである。

まもなく、物語の核心部分が説明されることで、観る者は二人の女子大生の内面世界に少しずつ踏み込んで、そこに凝縮された感情の断片を共有するに至るだろう。

厳格なリアリズムに徹した本作のストーリーラインは、妊娠中絶する当人のあまりに非自律的な不手際によって、より不都合な状況を作り出し、そしてその状況の逢着点が、強引に予約を取ったホテルの一室での閉鎖的状況であった。

そこに今、三人の人間がいる。

一人は、やむなく妊娠中絶を引き受けることになった医師ベベ。

あとの二人は女子大生。

一人は、妊娠中絶を求める当人のガビツァ。

そしてもう一人は、ルームメートであるガビツァから妊娠の事実を告白され、彼女のために金銭の確保(裕福な家庭の恋人からの借財)や、ホテルの予約等で奔走するオティリア。

この闇の中絶手術を実施する空間であることの閉塞性によって、手術に関わる三人を閉じ込めたかのようなホテル内の一角の、息が詰まる圧迫感が漂う閉鎖的状況下で、この医師以外に頼るべき伝手(つて)を持たない二人の女子大生が、選択の余地のないその非武装の脆弱さを晒していた。

そんな二人の弱みにつけこんで、彼女たちを心理的に威圧し、不条理な「取引」を強いる中絶医の男が支配する、限りなく澱んだ空気の中で、本作の最も重要なシークエンスが、そこに開かれたのである。

本稿はそのシーンを再現することで、この真摯な映像が訴える本質的なテーマに言及したいと思う。



1  抵抗虚弱点を利用し切った心理的権力関係



―― 以下かなり長いが、筆者の状況説明を添えて、このシークエンスを再現してみよう。


「二人が会えるか心配だったけど、会えて良かった」とガビツァ。

この言葉から全てが開かれた。

狭いホテルの暗い一室に、カーテン越しに開かれた窓から、薄曇りの空の隙間を縫って、その澱んだ空気を幾分でも浄化させる対比的効果を狙ったかのように、緩やかな日差しが差し込んでくる。

ホテルの予約に苦労するオティリア
「初対面の印象は悪かった」と男。更に続ける。
「電話で頼んだ事は二つ。一つは予約するホテル。二つ目は、本人が来ること」

ベベという名の中絶医の男は、そう言った後、座って正対するガビツァに静かだが、しかし厳しい表情を決して崩さない口調で迫っていく。

「大したことじゃないと思った?」とベベ。
「取ろうとしたけど、満室だったんです。どこも…」とガビツァ。

「取れるまで待つべきだった。受付でIDを預けた」とベベ。

ガビツァは、傍に座るオティリアに一瞬顔を向けた後、「すみません」と謝罪した。


いかにも依存的な性格を露呈する彼女は、その直前に、ホテルの予約が入ってないことで、他のホテルを予約せざるを得なかったオティリアに、「自分でやらないでひどいわ。自分で何とかしてよ。できることがあるでしょ…」と批判されていた。

オティリアとベベ
加えて、中絶手術を受ける当人であるガビツァの代わりに、オティリアがベベを迎えに行くことになった経緯が、既に映像で紹介されていたのである。

以上が、中絶医のベベの感情を著しく害した、ガビツァの振舞いであった。

「謝ってもIDは受付だ」とベベ。
「これ以上、延ばせないと思って…」とガビツァ。

ベベはそれに反応せず、ここから現実的なテーマに会話の内容を切り替えていった。


このホテルの一室での中絶を切望するガビツァに妊娠期間を尋ねるが、最終生理の意味を把握できない答えを受けて、ベベはこの重要な一件についての確認を後回しにする。

要領を得ない反応をするガビツァに代わって、オティリアはベベ医師に手術の方法を尋ねていく。

ベベは掻爬(そうは)はせず、器具の挿入によって堕胎すること、その際に痛みがあり、出血も伴うが、麻酔の必要がないこと、更に器具の挿入中は外れないようにじっとしていることを具体的に説明する。


左からベベ、オティリア、ガビツァ
彼は中絶する当人の表情がより沈み込んでいる顔色を見て、ガビツァを難詰(なんきつ)する。

「何を期待していた?決心したから電話をしたんだろ?」
「だけど…」
「“だけど” 何?」

苛立つ感情を乗せて、ベベはすぐ切り返した後、相手に最も自覚させたい認知を迫っていくのだ。

「これは遊びじゃない。違法行為なんだ。特に私は、より重い刑に問われる。真剣勝負だ。始めたら引き返せない」

沈黙して反応できない相手に、ベベは手術後のケアに関わるアドバイスを与える。

「挿入後の経過に問題がなければ、出血して胎児が出て来る。その後がとても大事だ。出血がひどいから、手伝いが必要になる。部屋中が血だらけになったら困る。そのためのビニールシートだ」
「寮に忘れてきました」とガビツァ。
「忘れただと?ビニール袋で代用すればいい」とベベ。

自分が置かれている立場の困難さを相手に認知させたと信じた男は、更に命令調で言葉を加えていく。

「もう一点、大事な点だ。部屋に人は入れるな。鍵を掛けて誰も入れるな」
「どれくらい、かかります?何日かかりますか?予約は3日間です」とオティリア。

それに簡単に答えた男に、ガビツァは「トイレは?」と尋ねた。

「手伝ってもらえ。どんな事情でも動いてはダメだ。プローブが外れないためだ。挿入は一度だけ。だから友達の手伝いが必要なんだ。収縮を感じて出血が始まれば、もう大丈夫。それまでは絶対に動いてはダメだ。感染症にも注意を。挿入する時にアルコールで消毒するが、その後、感染症の危険がある。出血の危機は常にある。念のため、抗生物質を渡しておく」

「危険性はあります?胎児が出て来ないとか?」とオティリア。
「可能性はあるが、まず出て来るだろう」とベベ。
「最悪の結果を考える必要があります。気を失うとか、熱が出たり、大出血したら、どうすればいいの?救急車を呼べばいい?」とオティリア。
「そんなことしたら、違法行為をバラすようなものだ。それを忘れるな。妊娠していないと言ってもすぐバレる。どう言えばいいか・・・産まれそうなのに気がつかなかったと言えば、処置はしてくれる。だが、できれば呼ぶな。いつもの生理の状態は?出血が多い?」
「そう思います」とガビツァ。
「診察するから横になって・・・・ファスナーを下して。座って」

ガビツァのお腹を触診するべべ
べべは、ガビツァのお腹を触診する

「何か月だっけ?」
「3ヶ月です」
「気をつけなくては。最後の生理は?」
「12月です。20日に来る予定でした」
「でも来なかった?」
「はい」
「じゃあ最後は11月だね」
「そう思います」
「計算しよう。11月、12月、1月、2月、何か月だ?」
「止まったのは12月からです」
「生理が止まった前の月から数える」
「多分、3ヶ月ちょっと」
「“多分”ではダメだ。3ヶ月を過ぎているね。もう一度よく考えて。何ヶ月目?」

正確な妊娠期間を聞くベベに、「多分」としか答えられないガビツァ。

「4ヶ月過ぎると、罪が重くなるんだ。殺人罪で、5年から10年の刑になる。知ってたか?」


首を横に振るガビツァは、「ひどい生理不順なんです。2か月とぶこともあるから心配しなかった」としか答えられない。

「いい加減にしてくれ。そんな不順なら医者に行きなさい。皆、そうなんだ。延ばし、延ばして助けを求めに来る。自分の行動の責任は自分で取れ。バカバカしい」

男はその場を離れた。

トイレに行ったらしいが、実際の所は不分明である。程なく戻って来た男は、シビアな言葉を更に加えていく。

「分ってるか。危険を冒すんだぞ。何か月であろうと、堕胎する医者がいるか?」
「お願いです…」とガビツァ。蚊の鳴くようなか細い声である。
「低姿勢だな。だが、全ては金次第だ」とベベ。
「払います!」とガビツァ。ここだけは明瞭に言い切った。
「どうやって?幾らある?」と男。

それに答えられないガビツァの代わりに、オティリアが言葉を添えていく。

「実は、部屋を3日間取ったんです。他に手がなくて」
「それで?」
「最初、3000レイ(注1)持ってたけど、部屋代が高くて、2850レイしか残っていません。足りませんよね?」とオティリア。
「金額の話をしたか?電話で話したっけ?」
「しなかったから、ラモーナや他の友達に聞きました。それで、高くても3000レイだろうって…」
「そう言われたのか?」
「“そう思う”って」
「友達が詳しいなら、手術してもらえ。私が電話で何と言ったか覚えてるか?状況を理解し、助けられると言った。そうだろ?金額を言ったか?」
「“それは相談しよう”と」とガビツァ。

「そうだ。だから相談のために、本人が来るように言った。妊娠したからって、責める気はない。誰もが過ちを犯す。君に何も聞かなかった。名前も何も、私には関係ない。私は何も隠さない。自分の車で来たし、IDも受け付けにある。警察が来たら、真っ先に捕まる。自由を危険に晒している。家族があるし、子供もいる。その私が君を助けるなら、相当の見返りがあるべきだろ?それが私の考えだ。二度も言わせるな。君はどう思う?3000レイのために10年の危険を冒すとでも?そう思うか?私を物乞いとでも?はした金で満足するとでも?どうする?トイレに行く間に答えを出しておけ。どっちが先に相手を?嫌なら私は帰る。助けを求めて来たのは君だ」

明らかに恫喝的な男の長広舌が終わった。男は形式的な「トイレ行き」のために、再びその場から姿を消した。


(注1)「在横浜ルーマニア名誉領事館」に確認した事実によると、本作の背景になった時代、即ち、チャウシェスク政権が崩壊した「ルーマニア革命」直前の通貨価値を円換算にすると、約100倍位だということ。従って、3000レイ(レイは、「ルーマニア・レウ」という通貨の基本単位の複数形)は30万円というところだろうか。


「気分が悪い。こんなことになるなんて」とガビツァ。深くうなだれている。
「なぜ、2か月って言ったの?」とオティリア。

詰問調になっているが、まだその声には穏やかさが消えていない。

「そう言わないと、断られると聞いて」とガビツァ。
「断らなかった。なぜ、グズグズしてたの?」とオティリア。
「私に何ができる?部屋代は払ってあるし」
「部屋代?ホントあんたには頭にくる!注意しろと何度も言ったのに!」

オティリアは感情を小さく吐き出した。当然ながら、その声が小さいのは、トイレに行っている男に聞かれたくないためだ。

「どうすればいい?あなたは何もしなくていい。手術はしてもらうとして…問題はお金」

そう言い放って、ガビツァはオティリアの前に歩み出て、彼女から金銭を受け取ったのである。このとき、若い女の肌を求めた男の相手を、ガビツァは決断したかのようだった。

そこに男が戻って来た。

「幾ら?4000なら充分?5000?幾ら?」

ベベと交渉するオティリア
男に向かって、オティリアは金銭の交渉を持ち出したのである。ガビツァの自暴自棄的な振舞いを目の当たりにして、理知的な彼女が僅かの間で咄嗟に決断した行為であったように見える。

「そんな大金あるのか?相談に乗るのに」

男は、金のない相手の弱みを見透かしていた。

「借りるわ」とオティリア。
「借りる?何千レイもの金額が簡単に手に入るのか?どうやって手に入れる?」
「借りる」
「返済方法は?」
「関係ないでしょ」
「生意気言うな」
「だからつまり…」
「すぐ手に入るのか?」
「遅くても次の土曜日には」
「土曜までに?」
「ええ」
「分った。それでいいなら」

男はそう言った後、今度は手術の当人であるガビツァに向かって、「金が用意できたら連絡を」という捨て台詞を残して、その場を立ち去ろうとした。

「待って。今日、やりましょう」とガビツァ。慌てて男を引き留めにかかったのだ。
「医者は君か?」とベベ。

男は自分の置かれた優位な立場を、ここでも相手に確認させようとしている。

「違います。ごめんなさい」とガビツァ。うなだれるだけだ。
「それでどうする?」とベベ。一気に畳みかけようとした。
「2800レイあります。今日はこれだけ。残りの2000は火曜までに必ず。それでいい?信用して下さい…」

ガビツァは男の前にオティリアから受け取った金をおいて、必死に懇願する。

「なぜ信用できる?友達でもないのに。君を知らない。明日、姿を消すことも可能だ。私は大損だ」
「そんなことはしません。IDを」
「それを預かってどうする?国中を探すのか?」
「どこにも行きません。月曜までにお金を用意します」

完全に追いつめられた状況下で立ち往生するガビツァに代わって、オティリアはそこだけは明言した。

「グズグズするな。待てないぞ」

男の物言いも感情を高ぶらせてきた。

「私はただ…」
「何だ。同じことを言わせるな!」
「お金を持っていたら渡してます!必ず、今度の土曜日に!」

オティリアの感情も、抵抗する者のように高ぶっている。

「ふざけるな!俺をなんだと思ってるんだ!バカにしやがって!ずる賢い奴ほど、人をコケにしようとする!女ギツネ対マヌケ男か!ふざけるな!」

男は一切の欲望を捨て去って、そのまま帰ろうとした。少なくとも、映像ではそう見えたが、そこに相手の弱みを見透かす男の計算が、多少なりとも働いていたと言えなくもない。

「待って!私を助けて下さい!依頼主は彼女ではなく私。あなたの言った方法で私が払います」
「私の方法で?」
「そうです。ドジったのは私です。彼女は関係ない」
「どういうことだ」
「彼女は姉じゃないんです。ごめんなさい。でもこれは本当の事です。ルームメイトなんです」
「何者だろうと構わない」
「私にできるのは、責任を負うことです。彼女には何の責任もありません。提案が・・・」

金銭の不足分を自分の体で贖(あがな)うことを申し出たガビツァの物言いに、いかにも自らが男の欲望の犠牲となるという被害者意識丸出しの感情を読み取って、男は関係の優越性の確認と、相手の「認知の過誤」をたしなめることで、その被害者性を無化しようとする。

「そんな立場か?するならお願いだろ。助けると言ったし、条件も説明した。呑めないなら、やめだ」

男がここまで言ったとき、ガビツァとの話に耐えられなくなったのか、オティリアは何か言葉を挟んだが、映像からは拾えない。

「何と言った?聞こえなかった」と男。
「彼女は生理中です」とガビツァ。
「文句を言いたいのなら・・・」と男。

一言、言い放って帰ろうとする男を、必死に止めるガビツァ。恐らく、男にはオティリアの言った意味が理解できていたから、相手の弱みを更に強調化させる効果を狙ったような振舞いによって、関係の優劣性を復原させようとしたのであろう。

「待って、お願いします!」

ガビツァは最後まで懇願する女だった。

なお帰ろうとする男に向かって、今度はオティリアが言葉を繋いだ。

「彼女にプローブを、そして・・・」
「“そして”何だ?私を甘く見たら大間違いだぞ」

男のこの言葉によってカットが切れて、次のシーンはオティリアが服を脱ぎ、男が靴を脱ぐシーンにシフトしていた。

その場に一人置き去りにされたガビツァは、部屋から走り去って行った。

心が落ち着かない彼女は、ホテルの客から煙草をもらって、それをトイレの中で吸うが、その指先は震えていた。

一方、男との「取引」を終えたオティリアは、男の肌の記憶を一刻も払拭するために、バスタブで自分の体を洗浄した。

彼女は男の鞄からナイフを抜き取ったが、それが何を目的とした行動であるか判然としない。

恐らく、これ以上の甚振(いたぶ)りを許さないという思いを込めた、男の心身に及ぶ暴力からの護身用の目的であるだろう。

そしてまもなく、「取引」の後の中絶手術が始まった。

「胎児をトイレに流すな。詰まるからな。塊でも粉々でもダメだ。犬が掘り出せる所に埋めるな。きちんと包み、バスで高層ビルまで行って、10階まで上がって、ゴミ捨てシュートに投げ込むんだ」

男がそう言って帰った後、ベッドに横たわるガビツアと、彼女を横目に見て沈黙を守るオティリア。

「ありがとう・・・」

カビツアのその一言に、オティリアは答えず、詰問する口調で責め立てていく。無自覚なカビツアに対する、彼女の鬱積した憤懣が沸点に達したようだった。

「ねえ、教えてほしい。なぜ、ラモーナはベベを薦めたの」
「彼はルシアナの中絶を」
「ラモーナじゃなくて?」
「ええ」
「じゃあ、なぜ彼を?知らない人を紹介した?あなたが頼んだから?」
「3ヶ月以上でもやってくれるって」
「なのに2か月と言ったの?」
「それが一番いいと思った」
「そう思わないのが一番。嘘をつくなら、前もって言って。なぜ、私を姉と言ったの?一体どうして?」
「本人が行く約束だったから、仕方なく嘘を」
「行くべきだった」
「代役を頼んだでしょ」
「あなた自身のことよ。行くべきだった」
「本当に辛かったの」
「それで嘘をついたのね」
「いいえ、あなたには・・・」
「誰にも嘘はつかないで」
「言い忘れただけよ」
「どうでもいい。あなたのバカな考えにはもううんざり」
「あなたも同意したわ。安ければ男でも構わないって」
「安い所に行くべきだと言ってのよ。男でいいとは言ってない。まさか男だとは」
「私が何をした?」
「やめて!予約係がミスしなければこんなことには。なぜ、電話で予約したの?」 
「どこからでも予約できると思った」
「“思った”?そう・・・」

そんな含みの多い会話があって、そこに映像の勝負を賭けただあろう、この25分間にも及ぶ長いカットは閉じていく。



2  限定的空間における、限定的な時間の中で形成された心理的な権力関係



―― 以下、この状況の持つ「関係性」について言及してみる。

このような時代に、このような状況に置かれたとき、このような振舞いをするであろうという心理的文脈のラインが、相当の説得力を持って写し撮られた映像のリアリズムの真髄が、そこにあった。

言うまでもなく、いかにも官僚的な対応をするフロントが事務的に動くだけのホテルの、その薄暗い一室で形成された閉鎖的状況を、一貫して支配しているのは中絶医のベベである。

女子大生ガビツァには中絶以外の選択肢を持ち得ず、且つ、その闇の中絶を引き受けるに足る医師が他に存在しない限定的状況の中枢に、その男がいるからだ。

そこには限定的空間における、限定的な時間の中で形成された心理的な権力関係という厄介なものが、紛う方なく存在すると言っていい。

だからそこでは、男の欲望を最大限に達成し得るための「取引き」=ビジネス以外の関係様式が成立しようがないのだ。

即ち、女子大生には、女としての自分の性を含む「条件闘争」とも言うべき、限定的で従属的な方略以外の選択肢を持ち得ないのである。

男はそのような相手の「抵抗虚弱点」(人格が抱える最大の弱み)を見透かしているから、限りなく自分の欲望戦線の許容域値を上げることが可能であった。

だから男は、この状況の中で相手を一貫して恫喝しながらも、その支配的時間の隙間に、「いい加減にしてくれ。そんな不順なら医者に行きなさい」とか、「自分の行動の責任は自分で取れ。バカバカしい」などという類の拒絶のポーズを巧みに出し入れすることで、相手の不安を必要以上に駆り立て、その心理をどこまでも自分の律動感の中でコントロールし、決して自分のリスクを高めないための関係情況を作り出してしまったのである。

まさにそこに形成された心理的権力関係は、立場の弱い者の「抵抗虚弱点」を最大限に利用した不条理性を露わにしているということ以外ではないのだ。

金銭の不足分を自分の体で贖(あがな)うことを申し出たガビツァの物言いに、いかにも自らが男の欲望の犠牲となるという被害者意識丸出しの感情を読み取って、男は関係の優越性の確認と、相手の「認知の過誤」をたしなめることで、その被害者性を無化しようとするのである。

「彼女は生理中です」とガビツァ。
「文句を言いたいのなら・・・」

一言、そう言い放って帰ろうとする男を、必死に止めるガビツァ。恐らく、男にはオティリアの言った意味が理解できていたから、相手の弱みを更に強調化させる効果を狙ったような振舞いによって、関係の優劣性を復原させようとしたのであろう。

僅か3カットの長回しの描写で、本作の作り手は、この閉鎖的状況の中に、凄惨なまでのリアリズムを貫徹し切った映像を構築してしまったのである。



3  彼らが生きた時代の、彼らが呼吸していた社会の心理的縮図



ここで描き出された構図は、彼らが生きた時代の、彼らが呼吸していた社会の心理的縮図であるように思われる。

ホテルに宿泊するときも、IDカードを預けることを義務付けられる程に管理された密告社会(注2)の中で、自分の安全と安心を保障するには、自分を決して裏切らないか、または裏切れないと確信できる対象人格を作り出し、関係様態を構築する必要があったに違いない。

そのためには相手の「抵抗虚弱点」を把握し、それを自分の利益に沿うように利用する心理的な権力関係を形成していくことが、最も有効な自我防衛の方法論であるだろう。

まさにホテルの一室で形成された限定的な空間における関係もまた、相手との信頼関係が未形成であるが故に、相手の抵抗虚弱点を利用し切った心理的権力関係を仮構する方略こそが最適戦略だったと言えるのである。


(注2)「世界の先進国の中で国民全員が身分証明書(しかも、顔写真貼付の)を絶えず肌身 離さず所有していない国は日本だけなのです。(略)日 本では路上での警察官による不審尋問にさいして身分、住所を聞かれても適当に答え ることすら可能です。そこには全く身分を証明する手段がなくとも全く問題にならず 、本人の言うことがそのまま通用するのです」(「在スイス・ヘルスケア-ネットワ-ク主宰:鈴木伸二」のブログより)という指摘もある。



4  胎児埋葬行



ここからは、3人の緊張感溢れる閉鎖状況下での時間の後の映像を、簡単に追っていく。、

オティリアは電車に乗って、恋人の家を訪ねた。

彼女は、恋人のアディの母のバースディパーティに招かれていて、重い気分を引き摺った状態の中で恋人との約束を守ったのである。

ワンカット・ワンシーンによるディナーシーンの中央に、富裕な生活を送るが、しかしガサツな男たちが自由に放談する空気感に全く馴染めない、オティリアのグルーミーな心だけが晒されていた。そんな恋人の気分の変調を感受するアディは、まもなく自室で二人だけの時間を持った。

「何があったのか言ってくれ。ずっと機嫌が悪い」とアディ。
「話したくない…本当に知りたい?」
「勿論だ。何でも話してくれ」
「カビツアの中絶の手伝いを」
「そのための金だった?」とアディ。息を呑んでいる。
「月曜に返すから心配しないで…私が妊娠したらどうする?」
「やめてくれ!」
「あり得ることよ。考えたことある?どうする?ちゃんと私を見て答えて!妊娠したらどうする?」

一瞬、反応できずに横を向いた青年を、直近の現実問題として、女子大生が迫っていくのだ。

「しない」とアディ。その一言のみ。
「どうして分る?」とオティリア。
「してるのか?」とアディ。言葉が震えている。

そんなリアルが会話がその後も続くが、「妊娠してないのに、なぜこんな話を?」と答える、覚悟の稀薄な青年の心の脆弱さを露わにしただけだった。

孤独感を深めるオティリアは、カビツアの待つホテルに戻って行った。そこには、カビツアが処理した胎児がタオルに包まれてあった。オティリアはそれをビニールに包もうとするが、そこに入り切らないほどの「生命」の大きさを目の当たりにした後、自分のバッグに入れ替えたのである。

「埋めてくれる?」とカビツア。
「投げ捨てないわ」とオティリア。

彼女は明らかに、「バスで高層ビルまで行って、10階まで上がって、ゴミ捨てシュートに投げ込む」と言った男の指示を拒否しているのだ。

二人にとって、「生命の絶えた胎児の埋葬」こそが贖罪意識の身体化なのだろう。

まもなく、ホテルの外に出たオティリアの「胎児埋葬行」の、長々と続くシーンが開かれていく。

貧しい社会主義国特有の夜の灯りの乏しい街には、男の忠告通りに野犬(注3)が溢れていて、適切な「埋葬」場所が見つけられず、最後にオティリアが選択した場所は、高層ビルの屋上に備えてあるダストシュートだった。

震えるような荒い呼吸を吐き出して、彼女はそこに胎児を投げ込んだのである。

結局、彼女が拒絶した男の忠告通りに行動する以外になかったのだ。彼女の「胎児埋葬行」は挫折したのである。

一貫して行動の選択肢が限定されていた女子大生の、あまりに重い一日の終わりもまた、自分の意思通りに事態が進まない悲哀の中で閉じていくことになったのである。


ブカレスト市内の野犬(イメージ画像・ブログより)
(注3)「ブカレスト市内には多くの野犬がおり、歩行中に噛まれるなどの被害が多発しています。ルーマニアでは2005年3月に1件の狂犬病の発生が報告されており、狂犬病が撲滅されたとは言えない状況です」(外務省海外安全情報ホームページ「ルーマニア」 2008年10月15より)ということ。今なお、野犬問題はルーマニアの社会問題となっていて、その駆除に対する過激な動物愛護団体の抗議運動もあり、事態の改善が進んでいない現状を呈している。


ホテルに戻って来たオティリアを待つ部屋に、カビツアはいなかった。彼女はレストランで食事を待っていたのである。

「何してるの?探したわよ」とオティリア。
「お腹ペコペコだった。熱があるみたい」とカビツア。

その言葉に反応したオティリアは、「薬飲んだ?」と言って、カビツアのおでこに手を当てて、熱を確かめた。

カビツアのテーブルに向き合った座ったオティリアは、静かに眼の前のルームメートの表情を見つめていた。

「埋めた?」とカビツア。

オティリアは自分の為した行為の真実を語ることなく、近未来の不安と恐怖を無化するための一言に話題を結んだ。

「これからどうするの?2度とこの話はしないことよ」

黙って小さく頷くカビツア。

ホテルのレストランで、「ビーフ、ポークのヒレ肉、レバー」を注文するカビツアと、それらの肉を視界に入れるオティリア。

あまりに生々しい風景を前にして、食事の注文が決められないオティリアには、既に「食事」という日常性にも戻れないようだった。

代わって、メニューをじっと見るカビツアに対して、一貫して無自覚で、自己中心主義的であった思いを抱懐していたかのように、オティリアのやり場のない視線は、最後にルームメートを捕捉し、いつまでも見続けている。

そこにもう、何の会話もなかった。

それが映像の括りとなって、静かに閉じられていった。



5  限界状況からの危うい突破への身体化現象



以下、もう少し本作のテーマの中枢に踏み込んでみたい。

なぜ、オティリアはガビツァを献身的に支え、サポートしたのだろうか。

そのあまりの彼女の献身的な振舞いに、疑問を呈する向きもあると思うが、多大なリスクを負った彼女の内面世界が理解できなくもないと考えている。

結論を言えば、それを私は、「他に何の選択肢を持ち得ない、非日常的状況下にインボルブされた自我の不安と恐怖、そしてその限界状況からの危うい突破への身体化現象」という風に把握したい。

要するに、そこで映し出された現実は、「友情の献身性」とか、「無自覚なる者と、自覚的行動者との対比」、「抑圧され、凌辱される女の悲哀」などというカテゴリーに収まらないほどの、言ってみれば、「恐怖脱出」の逃れようがない裸形の人間的振舞いについての、一切の創作的な虚飾を剥いだ冷厳なリアリズム以外の何ものでもなかったのである。

本稿の最後に、二人の「友情」の様態について言及したい。

言うまでもなく、このドラマは、カビツァの中絶の遂行に関わる一日を描いたものだが、そこで捨てられていたこの二人の関係の有りようが想像できるだろう。

ルームメイトであるという関係の縛りの中で、オティリアは恐らく、何事にも主体的に行動できないカビツァの、依存的で計画性のない性格を十二分に知悉(ちしつ)し、それに対して適切なアドバイスを加えたりすることなどを通して、些か不均衡な関係を構築してきたに違いない。

オティリアは、妊娠期間の自覚が稀薄なカビツァの、その生来の無自覚過ぎる生活に殆ど馴致してきたように見えるのである。

それでも、カビツァの性格を抱擁するだけの性格的包容力と、それを身体化する能力がオティリアには備わっていたのだろう。


カビツァはオティリアにとって、多分に憎めないルームメイトであったと思われる。非主体的で脆弱な自我を持つカビツァと、主体的で人並み以上の堅固な自我を持つオティリアの関係は相互依存的、「共依存」(他者への過剰な依存状態)的と言うよりも、人間的な親和動機によって触れ合うような関係であったように思われるのである。

親愛、信頼、礼節、援助、共有、依存 ―― 私はこの6つの要件によって成る関係を「友情」と呼んでいる。

この私の定義から言えば、二人の関係は一方が他方に依存し、依存される者も、依存する相手のその無自覚性を、適度に受容する関係を既成事実化してきてしまっているように見えるのだ。

それでも依存する者のその無自覚さの内に、殆ど悪意の感情を感受させないことによって、そこに相応の信愛感情を随伴した関係が成立していたに違いない。

本作のオティリアは終始自覚的で、責任感もあり、彼女なりの秩序だった行動動規範を保持していた。

では、そんな性格の発露が、たった一日の非日常的な世界を描く本作を貫流していたと言えるのか。

オティリアがルームメイトの狼狽する心情に同情し、その危うい現実を看過できないと感受させる成熟した自我は健在だったかも知れないが、「他人の不幸を見ていられない」性格の持ち主であったと想像される人格が、彼女の行為をこの非日常的な一日を根柢から支え切ったと言うには、事態が内包する問題の困難さは尋常ではなかったと言えるだろう。

そんな彼女の前に、あまりに無自覚なカビツァの振舞いが、その裸形の感情ラインを押し出してくるに及んで、オティリアの感情ラインも一貫して鎮まることはなかったのだ。

ルームメイトの人格の未成熟さに馴致していてもなお、自らの「献身的振舞い」の限界性を痛感したに違いない。

詰まる所、「他人の不幸を見ていられない」性格の範疇を遥かに超えた現実が、唐突にオティリアの内側を襲って来たとき、彼女の理性的自我は、「堕胎を決して許さない社会」(注4)の苛酷な縛りに対する恐怖を肌で感じた取ったのである。


(注4)「チャウシェスク政権時代の人口大増進政策によってルーマニアの人口はバルカン半島一となっている。しかしそのために子供を育てきれなくなった親が子供を捨てるといった事例が続出し、大量の孤児を出してしまい、孤児院は常時満員状態となった」(「ウィキペディア/ルーマニア」より)ということだが、具体的には、子供を4人産んでいない女性の中絶が法律で禁止されていた事実によって、本作のテーマの一つとなった、「妊娠中絶」のハードルの高さが了解されるだろう。


今、自分がそれを為さなければ、自分のルームメイトが有罪刑となって、全体主義国家(ルーマニア共産党による一党独裁政権)の絶対的な権力に捕捉される恐怖が、そこにあった。

それは他人事ではないのだ。

二人の女子大生の心理を捕縛して止まない全体主義権力の恐怖の一端を我が身で感じたとき、オティリアには恐らく、本作で描かれた振舞い以外の選択肢が存在しなかったに違いない。

これは、他に選択肢を持ち得ない女子大生の、険阻な断崖を背に、追い詰められた心理の振れ方をテーマにした作品であったと言える。

クリスティアン・ムンジウ監督
他に選択肢を持ち得ない人間の限界状況を抉り出すことで、この作り手は、彼女たちが生きた時代の閉塞感を描きたかったのだろう。

恐怖と不安と孤独こそが、本作の心理的背景の骨格を成すものだったのである。

要するに、オティリアがカビツァに妊娠中絶の相談を受けた瞬間から、そこには既に、「情況」が形成されてしまっているのだ。

その「情況」に拉致されたオティリアに、果たして、その震撼すべき現実から巧妙に逃避する可能性があったかどうか、それについては何とも言えないが、少なくともオティリアの理性的性格と、そしてそれ以上に彼女の置かれた「情況」の苛酷さを想起するとき、彼女は居ながらにして、殆ど脱出不能な呪縛に繋がれてしまっていたのである。

オティリアは、出口の見えない困難な「情況」にインボルブされてしまっていたのだ。

だから逃げられないのである。逃げようと思う気持ちが明瞭に内在していたとしても、その「情況」が作り出した苛酷なリアリズムを突き抜けていくほどに、彼女の逃避行動には破壊的な突破力が欠如していたということである。

カビツァの置かれた「情況」が、自分の「情況」としてリアルに重なっていく心理を延長するとき、「他に何の選択肢を持ち得ない、非日常的状況下にインボルブされた自我の不安と恐怖」の感情が塒(とぐろ)を巻くことで、いよいよ「恐怖突破」の熱量が奪われていって、心理的権力関係の作り出す極限的な「状況」に規定された彼女の「情況」は、結局、自分の「性」を人身御供(ひとみごくう)にするという選択肢以外に流れ込めなかったのである。

一切は、「状況」の振れ方に委ねるしか適応方略が存在しなかったのだ。それだけが彼女の、「限界状況からの危うい突破への身体化現象」だったからである。

そして、何よりも見事なラストシーンの括り方。映像の緊張感を、そのテーマ性の中で閉じていくには、観る者にそれ以外の描写しか存在しないと納得させ得るに足る、極め付けのカットが最後に用意されていたのである。

―― それに言及することで、本稿も閉じていこう。



6  「情況」の最も困難な時間が終焉した後に



そこに相当の温度差がありながらも、二人はこの決定的なまでに重要な一日の中で、言葉に出せないほどの不安と恐怖を「共有」していたという把握がここでは肝要であるだろう。

しかもこの「共有」の本質は、「2度とこの話はしないことよ」とオティリアに語らせるレベルの「共有」であって、私はそれを「秘密の共有」と呼んで、しばしば「友情」を構成する重要な要件であると考えている。

二人の場合に関して言えば、この「秘密の共有」による「友情」の強化が具現される可能性については甚(はなは)だ疑わしい限りだが、それでも不安と恐怖を「共有」した時間の重量感の記憶だけは、彼女たちの自我に貼り付いてしまったに違いない。

ところが、この二人の不安と恐怖の「共有」感覚が、束の間、解体されてしまったのである。

それを象徴させた映像表現こそが、ラストシーンの含意であったと思われるのだ。

具体的に書けば、そこに流れていく映像の厳しい展開の中で、手術と胎児の取り出しによって、あろうことか、中絶の当事者であるカビツァの未自覚の自我から、不安と恐怖の感情が殆ど払拭されていたのである。

彼女は「お腹ペコペコだった」と言って、何と「ビーフ、ポークのヒレ肉、レバー」を注文していたのだ。当然、彼女に他意がある訳がない。ただ相当程度、他者への細かい気配りとか、人間的想像力というものが貧弱なだけである。まさに、それこそが看過し得ない人格的欠如とも言うべきものだったが、その辺の自我形成を充分に具現していたなら、恐らく、この映像で描かれた厄介な事態の到来を防ぎ得たに違いないだろう。観る者に、そう思わせるに足る描写だったということだ。

然るに、オティリアの時間の流れ方を考えてみよう。

彼女は、カビツァが中絶手術によって取り出した胎児を、自分のバッグに入れて処分するという、最も危険で緊張感溢れる行為を遂行せねばならなかったのだ。

主観的には、自分の行為に対して「胎児埋葬行」という思いがあっただろうが、野犬の咆哮が止まないかのような、人間の息吹を感受させない、どこか寂寞した夜の町を、「埋葬場所」を求めて這いつくばって動く内面の昂りは、中々思い通りにいかない現実に直面することで殆ど沸点に達していたであろう。

彼女は結局、「高層ビルの屋上に備えてあるゴミ捨てシュートに捨てろ」と命じた男の指示に従わざるを得ない行動を選択したが、その行動もまた、他に有効な選択肢を一貫して持ち得ない者の必然的な流れ方であったに違いない。その「埋葬場所」がダストシュートへの投入という、意に反したであろうオティリアの心情世界には、自分が為した行為の不条理性を認知する余裕すら入り込めなかった現実だけが暴れていたのか。

まもなく、オティリアはホテルに戻って来た。

しかしホテルの部屋には、自分を迎えるはずの肝心のカビツァが待機していなかったのだ。焦慮する彼女は、ホテルマンに尋ねてカビツァの居場所を確認することになる。カビツァはレストランで注文した食事を待つカビリァを見つけ、前述したように簡単な会話を交わすだけ。

苦労の果てに、遂に「胎児埋葬」を貫徹できずに終わって、心労が沸点に達していたであろうオティリアと、食事を求める余裕を持ち、闇の中絶という「大仕事」を終えて、一時(いっとき)の「解放感」に浸っているかのようなカビツァ。


既にこの時点で、二人の「共有」する感情は壊れてしまっていたのある。そこに感情の落差が生じていたのだ。ある意味で、この落差は不安と恐怖の感情から、二人の自我が解放されるタイムラグの産物と言えるかも知れないが、二人の振舞いを捉えるカメラは、そこに形成された感情の落差が、単なるタイムラグの産物と読み取れないような現実を映し出してしまっていたのである。

それは、「共有」する情報に対する認知の重量感に関わる落差であったのか。

カビツアの前に届けられた「ビーフ、ポークのヒレ肉、レバー」を見て、オティリアの心は騒いでいたように思われる。自分が今、為してきた行為の記憶があまりに生々しく喚起されたのである。

食事の注文が決められないオティリアの視線は定まらず、その視界が捕捉する身近な対象を求めて浮遊しているようだった。そしてその行き着く先は、メニューをみるルームメート以外になかったのである。

「情況」の最も困難な時間が終焉した後に、オティリアの心情を拾う何ものもない現実的な実感が、彼女の「孤独感・寂寥感」を却って増幅させたかのようなもう一つの時間を作り出し、そこに捨てられていたようだった。

徹底したリアリズムを貫徹した本作に見合った、その見事なラストシーンの括り方に感服した次第である。



7  「孤軍奮闘」する主人公の「孤独感・寂寥感」



稿のついでに言及すれば ―― オティリアに事実を告白されたときの恋人アディの反応の「身勝手さ」は、どこの国でも変わらない男たちの自然な振舞いを彷彿させるものだったが、それでも彼らがその身を預けていた、全体主義国家の厳しい「性の管理制度」の現実の特殊性を考えるとき、やはり彼の振舞いの自己防衛性は、通常の「道義的責任」の範疇を逸脱すると言えるかも知れない。

そのような現実を目の当たりにしたオティリアの「孤独感・寂寥感」が、観る者にひしと伝わってくる映像の完成度は極めて高かった。

或いは、本作の中枢的テーマは、その心の風景において、他者である人間と深い所で繋がり得なかった一人の女子大生の、その圧倒的な「孤独感・寂寥感」を表現する狙いがあったとも思えるのである。

それ故にこそ、観る者に、「孤軍奮闘」する主人公への感情移入を容易にさせる人間ドラマだったということだ。



【本稿の多くの画像は、ブログ・「こんな日は映画を観よう」と「ラッコの映画生活」より拝借致しました。感謝しています】 
 
(2009年4月)

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