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2009年8月17日月曜日

その土曜日、7時58分('07)   シドニー・ルメット


<「失敗は失敗のもと」という負のスパイラル――自壊する家族の構造性>



1  兄



「不動産業界の会計は実にはっきりしている。ページにある数字を全部足せばいい。毎日、それできちんと帳尻が合う。総額はいつもパーツの合計だ。明朗会計。絶対的な数字が出る。でも俺の人生は、そうはならない。パーツが積み重ならず、バラバラだ。俺はパーツの合計にならない。一つ一つの結果が積み重ならないんだ。まとまらない」

この言葉が、本作の中枢を成している。

言葉の主は、アンディ。

ニューヨークに住む不動産会計士で、一見、エグゼクティブの裕福さを満喫しているように見えるが、その実、相当の経済的リスクを抱えている。

彼が勤務する会計事務所で、近々、国税庁の調査が入ることを会議で知った彼は、自分の不正の発覚を恐れて青ざめた。既に辞職した者の給与が払い続けられている不正に、彼が関与しているためだ。

強盗事件4日前のことだった。

アンディは調査の一件を知ったその日、マンハッタンの高層ビルにある一室に潜り込んだ。

そこで彼は、いつものように麻薬注射剤の注入を受け、心を落ち着かせようとした。冒頭の言葉は、そのときの彼の実感的な呟きである。

「不動産業界の会計は実にはっきりしている」から、不正会計の発覚も容易なのだ。

しかし、「絶対的な数字」が出る彼の仕事の合理性とは裏腹に、彼の人生は経験と努力の成果であるはずの累積的な重量感を持ち得ていないのである。彼の人生の中の様々な「パーツが積み重ならず、バラバラ」であるという強迫観念が、その自我に張り付いていて、形成的な人生の「軌跡」が、そこに存在しないのだ。

「一つ一つの結果が積み重ならない」人生の実態を感受したとき、彼の中で不気味に騒ぐネガティブな観念が出来し、それが自分の人生の総体を根柢から変容させていくインモラルな想念に束ねられ、まもなくそれが一気に肥大し、暴れ回る時間を分娩してしまうのである。

映像のファーストシーンが、ここでは重要な意味を持つだろう。

恰も、主人公の自我が捕捉する記憶のパーツをバラバラにしたストーリーラインの無秩序性に合わせるかのように、映像の時系列をもバラバラにした戦慄すべき物語で、そこだけはタイムスタンプの表示がないが故に、特段に印象づけるファーストシーンにおける、中年夫婦のセックス描写の鮮烈度は、暗鬱なシークエンスの連射を捨てない本作の中で、異界の境地に接続するかと見紛うべき異様な眩さを放っていたのだ。

セックスの限りを尽くした夫婦に当たる光線は、まるで中年夫婦の「黄金郷」を誇示するかの如く、その輝きを限りなく増幅させていて、そこで交わされる男の言葉には、「パーツが積み重ならず、バラバラ」であるという強迫観念からの解放感を、高らかに謳い上げる自信を随伴するものだった。

「急にどうしたんだろう。倦怠期の夫婦が。マリワナのせいか?」と夫。アンディである。
「ニューヨークから持って来たいつものと同じよ」と妻。若く見える美しい女、ジーナである。
「じゃ、何だろう?あの古い映画のタイトルみたいだ。“リオのせいにしろ”。間違いない。リオに来たせいだ。最高だな。こうして生きたい」
「このまま、リオで暮らすお金がある?」
「考えるよ」
「夢物語だと思うか?」
「そうね・・・」
「これから上向く」
「そうね。ただ、ここにいると惨めにならない」

“早く天国に行きますように。死んだのが、悪魔に知られる前に”

ここでアイルランドの諺が挿入され、徹頭徹尾、シビアで救いのないな映像の幕が開かれた。

アンディ
諺の意味するものは、明らかにアンディの行く末を暗示しているが、その結末まで予想できる所がサスペンスムービーの瑕疵とも言えるが、しかし本作は、必ずしもサスペンスの王道で勝負する作品として構築されていないのだ。

このファーストシーンにおけるアンディの至福感 ―― 本作は、この「黄金郷」のイメージが削ぎ落とされ、そこに生じた圧倒的な落差感を顕在化させる状況下に翻弄され、予想だにしない事態の加速的な悪化によって、全てを失っていく男の焦燥と絶望をじわじわと、しかし限りなく、人生の底を突き抜けていく最悪のストーリーラインの内に刻まれていく。

元はと言えば、万全の準備を怠った男の愚行から発した机上のプランニングではあったが、この戦慄すべき映像の底流を一貫して支配するのは、「パーツが積み重ならず、バラバラ」であるという男の強迫的な心理的文脈であり、従って、映像の流れ方の基幹は、継続的な内的秩序を構築し得ない男の現在から、その不安定な自我を形成した男の過去に遡及していくことで、そこに運命論的でネガティブな風景が露わにされていくのである。

これは、「パーツが積み重ならず、バラバラ」であると感受する男が、好むと好まざるとに関わらず、その視界を遮(さえぎ)るくすんだ風景の爛(ただ)れを封印し、「軌跡」を構築できない焦燥の根源を成す過去に向かって、本人の意思とは無縁に恐怖突入する物語であると同時に、「リオでの生活の再構築」=「黄金郷」の獲得というイメージが決定的に自壊していく物語であるのだ。

この男に始まって、この男によって終焉する映画の逢着点はあまりに凄惨だが、一切は、「パーツが積み重ならず、バラバラ」な自我の無秩序を復元させようとして叶わなかった破滅の物語でもあった。

いつものように麻薬注射剤の注入を終えた夜、妻と交わした会話には、ファーストシーンにおけるそれとは決定的な落差感を露呈するものになっていて、まさに追い詰められた者の焦燥感が、破滅的な愚行に誘(いざな)われていく前夜にあるとことを示唆していた。

ファーストシーンとは一転して、これまでもそうであったように、アンディとジーナのセックスは不調に終わり、暗い部屋での能天気だが、しかし男が誘(いざな)われていく危うい世界への序章でもあった。

アンディとジーナ
些か長いが、男の心理に侵入するために、夫婦の全会話の内実を紹介する。

「失礼、ごめん…俺のせいか?」
「原因はともかく、今日も失敗したってことよ」
「これから変わる。君は宝だ」
「料理も掃除も下手。セックスも。妻の価値ないわ」
「“リオのせい”だ」
「何のこと?」
「まずいセックス」
「そうね。リオのせいにするわ」
「多分、戻れるよ」
「どこに?」
「リオ」
「住むの?」
「勿論」
「そんなこと、できるわけないわ」
「リオデジャネイロの不動産業は上り調子だ。ブラジル人にも、ニューヨークの物件を紹介できる」
「言葉も話せない」
「勉強するさ。それくらい何だ。出会った頃、俺の成功の見込みはウエストチェスターの店を継ぐことくらいだった。今の暮らしを見ろよ。不動産の仕事に就いたときは雑用係だったが、今や収入は6桁だ。頭が切れる。金儲けが上手い」
「そうね。ブラジルだし」
「どういう意味?」
「悪事がバレても平気。犯罪人引き渡し協定がない」
「何で、そんなこと知ってる?」
「映画で見たわ」
「その映画は、俺も見たな」
「それじゃ、何?本当にリオに住める?」
「言わぬが花だ。だけど戻りたいよ。あそこに住めれば天国だ。だろ?いいね?」
「リオで何語を話すの?」
「ポルトガル語」
「スペイン語なら少し話せる」
「笑ってごめん。でも同じ言葉じゃない」

著しく生産性を欠落させた、強盗事件4日前の夫婦の会話であった。

男の過去に遡及する蛇行曲線的な暴れ方については、3章で明らかにしていく。



2  弟



ハンク(左)とアンディ
兄のアンディは、弟のハンクに宝石強奪の計画を打ち明けた。

「奪える金は60万ドル相当。その店は保険に入っているから、実際の被害は出ない。ブツは2割で捌(さば)き、互いの取り分は6万ドル。安全だ。ケガ人も被害者も出ない。完璧だよ」

弟が金に困っている事実を知悉(ちしつ)している兄は、敢えて心の余裕を見せるために笑みを浮かべながら、冷静に犯罪計画を打ち明けていった。

「必要だけど犯罪は困る。子供もいるし…」とハンク。
「クソまみれの人生なんだろ?そう大した犯罪じゃない。兄貴を信じろ」とアンディ。
「どこの店だ?」とハンク。
「やると言うまで教えない」とアンディ。

結局、別れた妻子への毎月の養育費、私立学校に行かせた娘の高額の授業料、おまけに自分の家賃も満足に払えない借金まみれの生活で二進(にっち)も三進(さっち)もいかない弟は、不動産会計士の兄のオフィスを訪ねた。

「やるよ」

ハンクがそう言っても、簡単に計画内容を話さなかったアンディは、弟の心の奥にある感情を読み取った後、強盗対象の店が自分たち兄弟が育ったウエストチェスター(ニューヨーク郊外にある閑静な高級住宅地)にあり、今も父母が経営する宝石店であることを明かした。

「土曜なら、金庫に1週間分の売上がある」というその金と、陳列棚の宝石を強奪する計画を、躊躇(ちゅうちょ)する弟に一気呵成(いっきかせい)に説明する。

前金を受け取ったら引き下がれない弟の脆い性格を知悉(ちしつ)する兄は、相当の確信犯である風貌を印象づけた。

「できるさ。誰だってできる。簡単な仕事だ。今更、考えてももう遅い。俺たちの未来がかかってるんだ」

それでもなお怖気づく弟に、兄は幼児をあやす母親のように、「おもちゃの銃でやれ。両親ではなく、知らない年寄りが一人でいるだけだ」などと言って、繰り返し諭し、勇気づけていく。

そんな頼れる兄の甘言に乗って、弟は作り笑いの表情で返すだけだった。

ところが、自分一人で強盗を遂行する自信がないハンクは、ウエイターの仕事をする友人のボビーに依頼し、「やばいと思ったらそのまま帰る」という条件付きで、自分の代わりに「宝石強盗」を引き受けてもらったのである。

事件当日の朝。

ハンク(右)
ハンクは、妻と添い寝しているボビーを起こしに行って、車でマンハッタンを後にした。ウエストチェスターの店に着いたとき、付け髭で変装したハンクは、店に入る老婆の顔を視認できなかった。

そのため、そのとき入店して来た老婆が知らない年寄りでなく、自分の実母のナネットである事実を確認できなかったのである。

事件が発生した。


拳銃で撃たれながらも、気丈な母の反撃によって、ボビーの死体が宝石店のガラスを破砕して、街路に投げ出されてしまったのだ。

全く予測し難い事態の発生に驚愕したハンクは、慌てふためいて、公衆電話から兄に事件の失敗を報告した。

「どうすんだ?」という嘆息を漏らすばかり。

その後、ボビーへの依頼と銃の使用の一件を、事件が出来して初めて知った兄は弟を責め立てた。

その兄に呼ばれた弟は、目撃者とレンタカーの問題について繰り返し確認する。

弟は兄の攻撃的態度に恐れをなして、レンタカーの指紋やボビーの妻に顔を見られた事実を、泣きべそをかきながら誤魔化すのみ。

「なら、大丈夫。車で足がつかなければ。会社に行け。普通にだ」と兄。
「本当に悪かった。こんなのは耐えられそうにない。母さんが…」と弟。
「オヤジなら良かったのに…」

この兄の言葉に度肝を抜かれた弟は、兄の表情を思わず見遣った。

自宅に戻ったハンクは、留守電に入っていた言葉に驚愕する。レンタカーに忘れ物をしたという連絡だった。

更に、ボビーの妻に顔を見られていたハンクは、その妻の兄という男に強請(ゆす)られることになった。絶体絶命のハンクは自殺を考えるが、死ぬ勇気もなかった。

結局、弟は兄に救いを求める以外になかった。

既に、弟のハンクと妻のジーナが浮気している事実を告白されたアンディは、自分の会社での不正が発覚して、最悪の状況を迎えていた。

それでも彼が今、優先的に選択すべき行動は、強盗事件が自分の身に及ぶことを回避すること以外になかった。

彼は弟と会って、絶対に失敗が許されない行動計画を説明する。

「考えられる最悪のケースだ。だけど、俺が何とかする。お前は俺の言うことを聞いて、指示通りに動け」
「そうやって強盗したら、こんなドツボにハマった!」
「じゃ、一人でやる。お前はムショでカマでも掘られろ」
「何をするか、とりあえず言えって。悪かったよ」

兄は弟に、強盗事件で死んだ犯人の妻の名を聞いて、彼女に弟を強請(ゆす)る男をアパートに呼ぶように指示することを求めた。理由は、「金の問題を解決する」ため。

その手段の難しさを指摘する弟に、余裕の笑みを浮かべる兄は解決方法の詳細の説明はしなかったが、観る者には容易に理解できるだろう。

兄弟が向かった先は、アンディの行きつけの麻薬注入の闇のスポットだった。金を手に入れるためである。

そのスポットで、アンディは二人の男を撃ち殺した。

思いもよらぬ展開に衝撃を隠せないハンクに対して、アンディは指紋を拭き取るように一方的に命令して、迅速にその場を立ち去った。

動顛する父チャールズ①
状況の悪化は最悪の展開を見せていくが、二人はもうポイント・オブ・ノーリターンの地点にまで流れ込んでいた。

兄弟は、事件解決のために女のアパートに向かった。

その車を、事件の全貌に迫っていた父チャールズの車が追っていく。無論、二人はその事実を知らないが、詳細の事情については次章で言及する。

アパートに着いたアンディは、強請(ゆす)りの男を撃ち殺した。

「危険な人物」を生かしておくことの怖さを知る彼の、当初からの計画だったに違いない。更にアンディは、顔を見られている女も殺そうとするが、必死な表情のハンクに止められる。

「彼女を殺すなら、僕を殺せ」

この言葉に、「悪くない」と言って反応したアンディは弟に銃口を向け、「寧(むし)ろ、いい考えだ。分るだろ?」と迫っていく。

「何を?」と弟。
「知ってる」と兄。

事件を知る者は、全て消さねばならない。

それがどこまで本音か不分明だが、血を分けた兄の明解な答えには、犯罪の合理性による判断が働いているようにも見えた。

既に、事件の広がりを防ぎようがないこの時点で、自分だけが「無傷」で済むと考えているほど甘いとは思えないが、「犯罪人引き渡し条約」が締結されていないブラジルへの高飛びを考えていたとしたら、「弟殺し」の理由は、単に障害物であると思ったか、それとも、この事件における「決定的な失敗」の原因子であることへの苛立ちが、兄の心を噴き上げていたのかも知れない。

そんな兄の心が読めたのか、弟はそこだけは明瞭に言い切った。

「ごめん。僕が全部ダメにした。撃てよ」

弟は覚悟を決めたようだった。と言うより、何もかも失った彼にはもう、この世に何の未練も残っていない風に見える。

その言葉に一瞬、躊躇した兄に向って、弟はなお括ったかのような言葉を繋ぐ。

「いいから引き金を引けよ。僕の望みだ。早く」

兄の表情には、括り切れないものがあるように見えたが、それでもそれ以外の選択肢が存在しないと考えたであろう兄は、銃の引き金の手を一瞬、動かした。

そのときだった。

アンディの背後から銃口が火を噴いた。女が隠し持っていた銃によって、アンディが撃たれたのである。

衝撃でその場に立ち往生するハンクは、「早く、立ち去って!」という女の叫びに反応し、鞄に入った金を置き捨てて、走るように立ち去って行った。アンディを撃った女が、携帯で警察に連絡していたからである。

路上に止めた車の中で待機していた父は、ハンクが慌ててビルから飛び出て来て、路上を駆け抜けて行くのを視認して、「ハンク!」と叫んだ。

全てが長男の責任であると考える父には、「兄に利用された被害者である次男」だけでも救おうと思ったのだろうか。

疾走するハンクのその姿が、映像が映し出した「ベビー」の最後のシーンになった。



3  父



父のチャールズは、事件の前日、娘と電話の遣り取りをしていた。

会話の内容は日常的な内容で、アンディとハンクの様子も気になるようだった。

そのとき、翌日の土曜日の午前中には自分の免許の更新のため、午後から出店することを確認した。

動顛する父チャールズ②
出店したチャールズが、宝石店が事件現場に変容している現実に驚愕し、衝撃の大きさのため取り乱していたが、長年連れ添った妻の死を迎えることなく、妻に撃たれて死んだ犯人への疑問が湧き上がってきた。

父の話を聞くアンディとジーナは、事情を知るだけに適切な反応ができないでいた。

脳死状態の妻の人工呼吸器を外すことに同意したチャールズは、妻の弔いを終えた直後、、長男のアンディに、心の中の苦渋を吐き出していく。その父子の会話を、ジーナは室内で聴き入っていた。

「理想の父親になれず、済まなかった。気持を表現するのが下手だし、愛情もうまく示してやれなかった。お前の求める父親になれなくて、済まなかった。私を超えて欲しいという思いが、重荷になっただろう。今更言っても無駄だろうが、お前を愛している。色々、済まなかった。悪かった」

父の声は嗚咽に変わっていた。

「望む息子になれなかった」とアンディ。
「お前は頑張ったさ」と父。
「それでも父さんは、ハンクの方が好きだろう。あんなろくでなしが」
「赤ん坊なんだ。親が必要だ」
「だけど本音は、見た眼が可愛いからだろ?」
「長男は一番辛い思いをするもんだ」
「そう。聞くけど、家族の中で、いつも俺だけ仲間外れだった。毛色が違う気がした。俺は実の息子か?」

長男の放った最後の一言に、父は咄嗟(とっさ)に反応した。長男の右頬を強く平手打ちしたのである。

「俺たちは帰らないと…」

長男は、父の突発的な行動に特段のリアクションを見せず、妻のジーナを伴って実家を離れて行った。

夫が運転する車内で、父子の会話の一部始終を視認していた妻は、明らかに抑制を失っている夫の様子に不安がった。

「オヤジが…」

アンディはそこまで言って、嗚咽した。

「お父さんが…とにかく、車止めたら?」

妻の助言を素直に聞いた夫は、集中力なく運転する車を止めた。

「俺の父親だ…」

アンディはそこまで言って、再び泣き崩れた。

「それがどうしたの?」と妻。
「どうして…今更、ずるいじゃないか!オヤジみたいになるのが怖かった!今までずっとだぞ!今更、謝られても水には流せない!そんなに簡単にいくか!汚ねえぞ!卑怯だ!ほんとに今更何だ!冗談じゃない…」

号泣し、叫び、呻き、吠えていた。

映像で初めて見せるアンディの裸形の自我が、妻一人のみと共有する小さなスポットで暴れ回っていた。

この感情を、父親の前で吐き出せない屈折こそが、この男の「パーツが積み重ならず、バラバラ」な自我の、その無秩序のルーツである事実が開示されたのである。一切は、父と長男との根深い確執であると信じた男が、その確執を作り上げた帳本人から、「お前を愛している。色々、済まなかった。悪かった」と打ち明けられても遅いのだ。

この感情の爆発は、既に予想し難い最悪の事件を起こした後から、「父の謝罪」が追い駆けてきたことへの無念であり、後悔であり、そしてそれ以上に、母の葬儀の直後の傷心の心が、一時(いっとき)、その出口を見つけようと求めるかの如く、眼の前の長男に吐き出すことで少しでも楽になりたいと思ったに違いない、ある種の状況的な情感濃度の深い、そんな父の自分勝手な「告白」への憤怒でもあった。

父子の会話の後、映像が開いたのは、アンディとジーナの夫婦の破局の場面だった。

ハンクと浮気していることを、夫に告白する妻。

ジーナ
その告白に特段の感情を見せずに、自分から去って行った妻との思い出を消す夫の孤独が晒されるばかり。

強盗事件一週間後、父のチャールズは犯人に関わる捜査を開始した。事件で府に落ちないことが多過ぎるからである。

かつて通った故買商を訪れ、チャールズはそこで、アンディが既にこの店を訪れていた事実を知って驚いた。事件の首謀者が長男であった疑いが深まったとき、父の主要な行動のラインは長男への行動監視となっていく。

長男が次男のハンクと行動を共にしている事実を確認し、父は二人の尾行を続けた。

この間の二人の行動は、前章の「弟」の中で説明した通りである。既に長男は麻薬の闇のスポットで殺人を犯し、事件の犯人の妻の兄を殺した後、弟をも殺そうとして、背後から女によって撃ち抜かれていたのである。

その父は今、救急車で搬送された長男の傍らにいて、彼との会話を結ぼうとしている。救急指定病院から、「少しの時間なら、話してもいいですよ」という許可が出たからだ。

父が話しかける前に、長男から話しかけてきた。

「父さん…母さんのことは事故だ。金が必要だった。銃を持っていくのは予定外だった。母さんも偶然、店にいて…あんなことに…」

長男は事件について弁明するが、その言葉に嘘はなかった。父もそう思っていたのか、優しく包み込んだ。

「いいんだ、アンディ。もう、いいんだ」

そう言った直後だった。父は長男の眼を閉じて、眠りに就かせた後、心拍計の警告音を発して、病院の反応を確かめた。

「大丈夫。今度あったらリセットを押して」

看護師の反応を確認した直後、父は長男の人工呼吸器を外し、その顔に枕を強く押しつけて、力の限り圧迫した。

「父さん…」

この言葉が、長男の最後の音声となった。父は長男を確信的に殺害したのである。その行為の後、人工呼吸器を戻し、父は病院のスタッフを呼んだのだ。

一切が解決した。最も人工的で暴力的な手法によって、一切が終焉したのである。

長男を殺した男は、ゆっくり病院の廊下を歩いて去っていく。

その歩行に眩いライトが照射して、その光線がピークアウトに達したとき、静かに映像が閉じていった。

ラストシーンの眩い光線は、倦怠期を迎えた長男夫妻が、それを弾き返すかの如き幻想的な「リオのパラダイス」の中で、激しい睦みのピークアウトに達したときに照射した、ファーストシーンにおける印象的な光線の眩さと対比するかのようにも見えた。



4  「失敗は失敗のもと」という負のスパイラル ―― まとめとして



心理学者、岸田秀の言葉に、「失敗は失敗のもと」という卓見がある。とても説得力のある言葉である。失敗をするには失敗をするだけの理由があり、それをきちんと分析し、反省し、学習しなければ、かなりの確率で人は同じことを繰り返してしまうということである

岸田秀
だから私もまた、「失敗は成功のもと」ではなく、「失敗は失敗のもと」であると考えている。

以下、この把握によって、映像の心理学に言及したい。

単刀直入に言って、この家族の最大の失敗は、外観的な可愛いさ故に、「ベビー」と呼ぶほどの次男への愛情過多を延長させてきた父親が、その偏頗(へんぱ)性によって、屈折した長男の心理を正確に把握し得ず、恐らく思春期以降、その歪んだ関係様態を放置してしまったことにあると断じていい。

要するに、この「成功家族」のシンボルとしての父親が、「パーツが積み重ならず、バラバラ」な時間を延長させてきてもなお、そのサイズに見合った程良い軟着点を手に入れられなかった長男の自我に、一貫して柔和に寄り添うアプローチ、即ち、ある種の精神的タッチケアを表現することから逃避してしまったこと。それが、この外見的には「成功家族」の自壊を予約させる運命論的悲劇の根源にあるということだ。

この家族の第二の失敗は、「オヤジみたいになるのが怖かった!」と言わしめるほどに、父親に対する過剰な反発から自我を屈折させた長男が、内在する才能を生かして一定の社会的成功を手に入れてもなお、「あれがあるから、現在の誇れる自分がある」とポジティブに把握し得る「軌跡」を構築できなかったこと、そして、その確かな整合性を実感できない爛れを認知するかの如き微分裂した自我が、却ってその空洞を補償するために麻薬に走り、パーツの合計がきちんと計算されるはずの財務会計に手を出し、不正を働いたことに尽きると言っていい。

加えて、以上の心理的文脈との関連から、「リオのパラダイス」という幻想を持ったこと。これが、この家族の第三の失敗の遠因であると思われる。

その心理もまた、微分裂した自我を軟着点に持っていく、殆どそれ以外にない究極の選択であったはずだが、寧ろこの幻想を抱懐することによって、ニューヨークでの日常性がよりネガティブに相対化されてしまったのではないか。

以上の心理の延長線上に、男は強盗事件の机上の計画を立て、それを決して依頼してはならない、自立し得ない「ベビー」(弟)に丸投げしたこと。これが、この家族の第四の失敗であり、且つ決定的な頓挫と不幸のもとであると言える。

その辺りの詳細については後述する。

人間は自分の中にあって、自分が嫌うものを相手の中に見てしまうとき、間違いなく、その相手を嫌いになるだろう。また、自分の中になくて、自分が愛着するものを相手の中に見るとき、その相手を好きになる確率は高まっていくに違いない。

映像の家族の父親が、二人の息子に投射した視線と感情のラインは、恐らく以上の文脈で説明できるであろう。

ハンクと、父のチャールズ
父親は自分の中にあって、恐らく、自分がそれほど好んでいないと思われる性格、例えば、目的のために手段を選らばない行動性癖と、それを遂行する意志の力を、長男の中に見たはずである。

だから感情の必然的流れの中で、ある種過剰な性癖を有する長男との距離を近接させる努力を怠ってきてしまったのだろう。

父親の内側において、それがどこかで自覚的な行動傾向であることを認知していたこと、それが却って、長男の自我形成の内に極めてネガティブに捕捉されてしまったのではないか。

従って、長男もまた、そんな父親の性格を過剰に感じ取って、自分の人格総体が愛着の対象外になっているという思いの中で必然的に父親を忌避し、一貫してその堅固な人格性を恐怖の対象にしたに違いない。

この二人は、ある意味であまりに酷似した性格・行動傾向の持ち主なのである。

それが、最も端的に現れた描写がある。

自分の妻を殺害した犯人の行動の謎について、納得いくまで自らの手で捜査し、事件を画策した真犯人に関わる有力な新証拠を発掘し、その結果、許すべからざるその対象人格に対して、決定的な私的制裁を加えようとする行動傾向がそれである。

事件のプランナーだった長男もまた、弟が犯した決定的な失敗を決して許すことなく、その悲哀な状況下で一瞬の躊躇が生じたにしても、自らの手で処断しようとする意志を持って、それを観念の世界では半ば成し遂げたと言っていい。

「アベルを死へと導くカイン」(ジェームス・ティソ画)
嫉妬の故に、アベルを殺したカインの物語(「創世記 第4章」)との近接度が指摘されるように、結果的には彼の「弟殺し」は未遂に終わったが、映像のケースでは、事件の机上のプランを済し崩しにして、決定的な失敗の原因子となった弟を屠(ほふ)ることで、主観的には、限りなく自分を軽傷の状態に留めて置こうと考えたが故に、目的のために手段を選ばない行動性癖と、それを遂行する意志の力において、この父子の酷似性には運命のいたずらを越えるものがあった。

3章で書き留めたように、父親もまた、愛妻を殺害するに至った強盗事件の原因者である長男を、確信的に殺害するに至ったのだ。

その状況は、人工呼吸器をしながらも、父に事件の真実を語ることで自分の行為の弁明をする必死の思いが伝わるシーンの只中であった。

それでも父は、全く躊躇なく長男を殺した。最初から殺害意志を抱懐し、老いてもなお失わない堅固な意志を持って、長男の病室の中にその身を投げ入れたのである。

長男の一連の殺害行為もまたそうであったように、決断に迷いがないのだ。決断したら貫くのみなのである。

貫いたら行為に対して、悔いを残すことがないであろうと思わせる強靭さが、この父子の自我に張り付いているのだ。

二人の自我の有りようは、それと全く対極的な次男の脆弱な自我の有りようと比較することで、あまりに自明な様態を展開していたのである。

果たしてこの父子は、目的のために手段を選らばない性格・行動傾向について、それを誇るべきもののように感受していたのだろうか。

葬儀の日、父は長男に謝罪した。

謝罪された長男は、父の身体が視界から消えた場所で、その「遅過ぎたアプローチ」に憤怒し、怒号し、嗚咽した。彼の中では既に、「パーツが積み重ならず、バラバラ」な時間を復元させることが困難になっていたからである。父子共に、もう後戻りができない辺りにまで、恐らく、不快をも随伴した偏頗(へんぱ)な性癖を構築してしまっていたのだ。

父親の「長男殺し」を考えてみると、その忌まわしき行為の根源的原因が自分に内在し、そこで生まれた深い悔悟の念を随伴する、自覚的な問題意識によって為されたものであるという心理要因を否定しないが、印象的な感懐を言えば、その心理要因以上に、そこまで徹底した行動を為さねば済まない本来的な性格に起因するとも思われるのだ。それこそが、由々しき不快な何かであるのだろうか。


ともあれ、その正体が極めつけのエゴイズムであるという把握は、恐らく間違っていないだろう。

大体、この父親が心底から家長としての責任を痛感していたならば、自分を無傷な状態にさせたまま、「殺人事件」を「病死」に置き換える行動を選択するとは考えられないだろう。

この父親もまた、決定的な所で、「自己基準」で動くエゴイストであると言わざるを得ないのである。

そのことを検証する典型的な描写は、長男の犯した殺人事件の現場近くに居合わせた父親が、次男だけを必死に救い出そうとした行為の内に集中的に表れているだろう。


彼にとって、次男の存在はいつまでも「ベビー」であり、親の庇護の対象人格であり続けるのだ。

一切は長男の我欲によって出来した出来事であるという一方的な把握が、男の脳裡に予断を持って棲みついているのである。

実際は、強盗事件の計画の提示を拒絶すればできたのに、それを引き受けるに至った次男の振舞いもまた、「ベビー」であるが故の失敗であり、その失敗を出来させた長男のインモラルな我欲こそ糾弾されねばならない何かであるという、息子たちへの不公平で一方的な了解ラインが、父親の内側に寝そべっていると言わざるを得ないのだ。

「ベビー」であり続けた次男の甘さ
要するに、この家族における父と長男の二人は、常に決定的な所で、自分の決定的な甘さに気づいていないのである。

二人とも、そこで出来した不幸の原因が、元はと言えば、自分に起因するというシビアな自覚において決定的に欠如していたのだ。それは、エゴイズムの一定の自覚を、より不快なものにさせないための自我防衛であるようにも見えるのである。自我防衛の過剰さが反転したとき、その自我の尖りの見えにくい辺りに付着する、非武装なる甘さを分娩してしまったのではなかったか。

だから彼らは、自分を無傷か軽傷のままの状態で、困難な状況下での危機脱出を図ろうとしていたのだろう。その意味で、この二人は本質的にエゴイストであり、「自己基準」で動く典型的な人物である。だから、二人の行動形態は酷似していたし、その行動ラインには、父子の殆ど運命的な符合性が見出されるのである。

それに比べて次男の甘さは、ごく普通のレベルの、大人の理性的思考を著しく欠如した人間の甘さであり、その隙だらけの性格が自壊を予約させる生活を形成してしまうのは、あまりに必然的だった。

映像は長男の命だけを奪って、形式的には、次男の際どい状況逃避と、父の計算し尽くされた自我防衛を成就させている。

これは、何を意味するのだろうか。

本作の作り手は、一切が長男の、「パーツが積み重ならず、バラバラ」の自我という、屈折した心理的文脈に起因する濁り切った「メロドラマ」の、その疲弊の果ての攻勢終末点(クラウゼヴィッツの言う攻撃の限界点)という風に解釈したのかどうか不分明だが、少なくともこの映画が、長男のパラダイス幻想に始まって、予約されたかの如き、長男の無残な死に終焉する家族の、その運命論的悲劇の極限のさまを、不必要なまでに情感系を預け入れる姑息さの排除の内に、冷厳な筆致で衒(てら)いなく描出したものであることは容易に想像できる。

女の生存という決定的な証拠を残してしまった次男のケースはともあれ、完全に無傷でその身を解放させた父親の場合、その無傷の生還によって閉じる映像の含みやメタファーには、恰もそれが、アングロサクソンの自己完結の必然的な有りようであると言わんばかりに、「失敗は失敗のもと」というときの根源的問いかけが欠落しているようにも見えるのだ。

アングロサクソンの象徴的表現を父親が代弁し、その「鬼っ子」である長男には、自己の犯した犯罪の責任をアングロサクソン流の方略によって贖(あがな)い、そして何より、丸ごと「ナイーブ」な次男には、残りの人生において、父親が代弁したアングロサクソン流の身体表現を存分に学習してもらうというテーマを与えることで、「苦労なしの人生は認知されない」人生の実感的学習を通過させんとする意味が包含されていたのか。

本来的に「ナイーブ」さとは、「ベビー」の言い換えであり、「失敗は失敗のもと」という真理を徒(いたずら)になぞってしまう幼稚さの証明であるから、牽強付会(けんきょうふかい)の仮説を強引に当て嵌(は)めれば、次男には「鬼っ子」に化けない程度の、アングロサクソン流の身体表現を存分に学習してもらう必要があったとも言えなくもないだろう。あまりに穿(うが)った読み方であった。(注)


(注)因みに私は、本作の家族の父親をアングロサクソンの「最強国家としてのアメリカ」、長男の「鬼っ子」を「戦前の帝国日本」、そして「ナイーブ」さの象徴である次男を、「完全依存の現代日本」の姿という風に当て嵌めてみたが、その符合性に驚くものを感じた次第である。無論、当て嵌めゲームの感覚であり、そこには映像との脈絡は全く存在しない。


それでもなお確認できること ―― それは、「失敗は失敗のもと」という極め付けのフレーズは、まさにこの家族の行動様態の内に集中的に表現されていたという一点である。


ここで、極め付けの「愚行の連鎖」であった強盗事件のフレームについて俯瞰して見よう。


① 父母の宝石店への強盗計画を練り上げたアンディの心理は説明可能だが、ほぼ犯罪者としての確信犯に最近接していたこの男が、あろうことか、その犯罪の遂行を、確信的犯罪者としての最低限の能力、即ち、寸分の「ナイーブ」さを保有し得ない程度の能力において自立的でなかった、脆弱な自我の主である実弟のハンスに依頼したことである。

② 単に言葉としての伝達の枠内で済ませずに、犯行に関する細かい指示を、兄が弟に与えることを徹底させなかったこと。

そこに、弟の性格を知悉(ちしつ)するはずの兄の性格・行動傾向、即ち、自分の能力を基準にして他者の能力を測定する「自己基準」的な傾向性が多分に表れている。

仮にその状況性を、弟以外に完全犯罪を遂行する手段があり得ないと判断せざるを得なかった事情を勘考するならば、「ナイーブ」な弟が引き受けるハードルの高さを考えるとき、それを安易な犯行と把握する主観の甘さには相当程度の問題性があると言わざるを得ないだろう。

従って、そこで高まったリスクによる困難な犯行の完遂に向けて、より万全の準備が不足していたこと、これが全てである。

要するに、確信犯の危険水域に最近接していた男が、「犯罪の素人」に犯行を依頼するときのハイリスクの計算ができないほど、兄が置かれていた状況の切迫感が読み取れるということだ。恐らく、この切迫した心理状況の内に、重大な過誤がスパイラルに派生してきた諸問題の根源があるだろう。

③ 犯罪者としての能力の欠如した弟が、その犯罪を依頼するに相応しくないタイプの男を選び、且つ、犯行当日の朝、自ら当人を迎えに行って、その妻に顔を見られてしまったこと。まさに、犯罪者としての最低限の能力をも持ち得なかったルーズさを反映するものである。それは、兄の指示の適切さを越えた範疇にありながらも、上述したように弟の件(くだん)の能力への把握の甘さが指摘される所以だろう。

④ 犯行の代行者であるボビーがモデルガンではなく、本物の拳銃を携行し、且つ、それを使用する状況を作り出してしまったこと。共犯のつもりであった犯行が、「俺一人でやる」というボビーの言葉に簡単に乗ってしまった事実を含めて、一切が、弟の「ナイーブ」さに起因するものである。

応戦する実母・ナネット
⑤ その日の午前中に、宝石店で店番する者が兄弟の知らない第三者でなく、実母であったという偶然の事情が出来したこと。この件に関しては、予測し難い偶然の結果であるが、人生にはこのような偶然性の出来が往々にして起こり得るものであるが故に、だからこそ犯行を計画する者は、その時間帯を空間的に支配し切る必要があった。

即ち、眼を凝らして宝石店に入る者の視認を精密に遂行すべきだったのだ。

しかし、肝心の弟は犯行の遂行を他人に丸投げしたばかりか、自らの変装に留意しながらも、人物の視認を怠ってしまったのである。

映像では、駐車する車が死角になっていて、それが実母の入店を見逃してしまったように描かれていた。これも偶然性の産物と認知できるものの、重大な犯行を犯す者の自覚の欠如とも言えるだろう。

なぜなら、人物の特定という最も由々しき行為を怠ってしまったら、あとは第三者の入店を期待する思いしか残らないからだ。即ち、偶然性への暗黙裡の期待という感情に事態を委ねる甘さが指摘されるのである。

この致命的ミスによって惹起した事態の重大さを思うとき、この事態に深く関与した弟の「ナイーブ」さが、そこにも大きく影を落としているということ。それ以外ではなかった。

大体、この辺りまでが極め付けの「愚行の連鎖」であったと言えるが、その後にも繋がる愚行へのラインについての言及は不要だろう。なぜなら、死亡事件の出来こそが、映像での中枢の文脈であるからだ。

以上、縷々(るる)言及してきたように、本作は上述した「愚行の連鎖」を含めて、一見すると「幸福家族」に見えたであろう一つの家族の、「失敗は失敗のもと」という負のスパイラルを、運命論的なストーリーラインの悲劇に自己完結させていく破滅的な映像であった。それは充分に、「自壊する家族の構造性」を検証する一つのモデルケースでもあったと言えるだろう。

父チャールズを演じたアルバート・フィニー
「ほんの1秒ですべてが変わる。人生において、人間が知り得ない唯一のものは、次に何が起きるか、ということなんだ」(アルバート・フィニーの言葉 パンフレットより)

これは、迫真の演技で父親を演じ切った名優の印象的な言葉。

人間の宿痾(しゅくあ)のような本来的な脆弱性という問題において、その指摘は必ずしも間違っていないが、しかし「ほんの1秒ですべてが変わる」現実を認知することと、「ほんの1秒ですべてが変わる事態を合理的に予見し、そのリスクを限りなく低減させていく可能性を作り出す」ことは、当然の如く矛盾しないだろう。

この家族に最も欠如していたものは、後者の努力である。ごく普通のレベルにおいて努めていく人間学的作業を怠って、それを長きにおいて延長させてしまった所に問題の根源があるということだ。

本章の冒頭で言及したように、問題の根源に横臥(おうが)するのは、「成功家族」のシンボルとしての父親の内側で延長されてきた家族の支配力の、その露骨な様態であったと思われる。

「失敗は失敗のもと」という負のスパイラルの根源には、ラストシーンで見せた圧倒的な権力性に象徴される、言ってみれば、アングロサクソン流の問題解決手法の極限のさまを体現した、「父親」という名の男が、堂々と呼吸を繋いでいるのだ。

然るに、「責任」を感じ取ったにしては、「長男殺し」を断行しながらも、堂々と救急病院から去っていく構図には、相手が誰であろうと愛妻を屠った者への復讐を果たさずにいられない絶対命題を貫徹し、「神」からの赦しを得たとでも言わんばかりの、その確信的な暴力に対して司直の手が伸びるなどということは、以ての外であるという信念が貫流しているように見えるのである。

この強靭さこそが、アングロサクソン流の身体表現の絶対規範であったのか。そう思わせる逢着点が、そこにあった。

良かれ悪しかれ、過去を簡単に水に流してしまう、我々ナイーブな日本人には絶対にできない芸当であろう。予約された物語のネガティブな終末点とは言え、生命の際(きわ)にある長男の必死の弁明を受容した振りをして、そのモチーフだけではないにしても、窒息死させる父親の復讐的暴力を描き切ったこのラストシーンを、無媒介に受容する日本人が果たしてどれだけいるだろうか。

対象人格の掛け値なしの嗚咽を前にして、心が揺れることのない日本人がいるとすれば、唯一神とのみ契約を結ぶと自負する、アングロサクソン的な強靭さに最近接した者として、普通に評価されるかも知れないだろうが、正直、「全身リアリスト」を標榜する私にも自信がない。

ともあれ、チャールズという男に代表される人格の基幹にある、ある種の絶対規範による身体表現を開かせるに至った強盗事件 ―― それ故にと言うべきか、それを越えるものがないと思われるほどの決定的な悲劇だった。

同時にそこには、犯罪者としての「喜劇性」も見透かされる所でもあった。

シドニー・ルメット監督
弟のハンクの「悲劇」の根源には、母親のみならず、「ベビー」と呼ばれるほどに、強(したた)かに生きてきた父親によって、まるで女の子の如くペット代わりに育てられてしまった、その幼児自我の形成過程が横臥(おうが)しているのだ。

この次男だけを何とか軽傷の状態で、存分に爛れながらも、その固有の時間の延長を保証しようと図った父親の性格・行動傾向が継続されるとき、物語は充分に「喜劇性」を帯びていくのである。

人間の脆弱性の有りようを描き切った映像の相応の決定力に、反応すべき適切な物言いが拾えないというのが、正直な感懐。



5  家族という幻想が究極的に崩壊するとき



―― そこで私の最後の結論は、至って良識的な把握に落ち着くことになった。

以下の通りである。

運良く、自分の自我のサイズに見合ったコミュニティにアクセスできた者は問題ないだろうが、適正規模のコミュニティへのアクセスを切望しながら、それが叶えられなかった自我にとって、それが拠って立つ安寧の基盤は「家族」以外にないだろう。

この映画は、その「家族」の内に安寧の基盤を見い出せなかった者、それを見い出せていたと信じる主体が、突然の不幸の襲来に遭遇することによって全てを喪失してしまった者に変容するさま、或いは、現在もなお、それを殆ど見い出せないで、バラバラなパーツを形成的に繋げずに、時代を浮遊する者の魂の呻吟を、その根源において一定程度描き切った佳作であったということ。

家族という幻想が究極的に崩壊するその最悪のパターンを、恰もギリシャ悲劇的になぞったドラマの逢着点が問いかけるものは、或いは、最も現代的な家族が不断に経験する未知のゾーンの被欲の只中で、その不安定なる彷徨を延長させていく心象風景の縮図であったのかも知れない。

(2009年8月)

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