このブログを検索

マイブログ リスト

  • 覚悟の一撃 2 ―― 人生論・状況論 - イメージ画像(日比谷公園) 価値は表層にあり ―― 表層を嗅ぎ分けるアンテナだけが益々シャープになって、ステージに溢れた熱気が、文明の不滅なる神話にほんの束の間、遊ばれている。表層に滲み出てくることなく、滲み出させる能力の欠けたるものは、そこにどれほどのスキルの結晶がみられても、今、それは何ものにもなり...
    5 年前
  • 「私たちは強い」 ―― 国旗を掲げる最強のアスリート - *船上パレードで笑顔を見せるウクライナの選手たち* *1 一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うること勿れ* ウクライナ侵略を続け、今なお暴虐の限りを尽くすロシアの戦争犯罪を追及する人権関連の国際法律事務所「グローバル・ライツ・コンプライアンス」が、報告書を発表している。 そ...
    4 週間前

2009年9月2日水曜日

カポーティ('05)  ベネット・ミラー


<「恐怖との不調和」によって砕かれた、「鈍感さ」という名の戦略>



1  野心



1959年11月15日 

グレートプレーンズの中枢に位置する、小麦畑が広がるカンザス州西部のホルカムで、その事件は起きた。

平原の一角の高台にある、富裕なクラッター家の家族4人が、惨殺死体で発見されたのである。

「間違いは正直に認めなきゃ」
「正直な人なんている?」
「僕だよ。正直に書いてる。今の僕の人生じゃ、自伝も退屈だろうけど、偽りはいけない。自分に正直なのが大事だ。全て精神分析しなくていい。正直じゃなくてもいいが、僕は南部出身の白人だ。物議を醸すような生き方はしない」

ニューヨークのサロンの場で、議論の中枢を仕切っている一人の男がいた。

ジェームス・ボールドウィン(注1)の過激なテーマの新作の構想を批判しながら、「嘘のない正直さ」を書く自分の文学論を展開していた。

男の名は、トルーマン・カポーティ。

既に、奔放なヒロインを主人公にしたメロドラマとして著名な「ティファニーで朝食を」(後に、ブレイク・エドワーズ監督、オードリー・ヘプバーン主演で映画化)の上梓によって世に出て、彼は一躍文学界の寵児になっていた。

映像は一転して、NYタイムズの記事を読んで、それを切り抜く男の真剣な表情を映し出した。

カポーティである。

その表情は、サロンで饒舌振りを発揮していた男の、囲繞する空気を支配するかの如き、突き抜けた人格イメージを感じさせない真摯さを印象づけるものだった。

小説家の直感で、彼はこの事件を次回作のテーマにしようと意を決したのである。

直ちに彼は、幼馴染みで良き文学者仲間である、ネル・ハーパー・リー(注2)を随伴して、カンザス州ホルカムに向かった。

「取材助手とボディガードを兼任できるのは君だけだ。緊張する」

ネルに対しての、列車内でのカポーティの言葉である。

「あなたの新作は、第一作(注3)を凌ぐ出来でした。まさか、あんな傑作とは」

カポーティに対しての、その列車の車掌の言葉である。

「情けない。彼にお金を渡し、お世辞を言わせた」

カポーティに対しての、ネルの言葉である。

アラバマ時代の幼少期より、カポーティという人間を知る経験的直観が、男を見透かしていたのである。

ネル
このエピソードの中に、「自分の評価を上げるためには、どんなことでもする」という、この映画の主人公の性格のアウトラインが浮かび上がってきていると言っていい。

―― ここで興味深いのは、男の虚栄心の対象が、サロンに集うような知識人であって、車掌のような庶民ではないということ。

通常、誰にでも好かれたいと思う「八方美人」的な性格なら、このような恥ずかしい行為を他人に依頼するという事は考えられないからである。

既に映像序盤の7分間の中に、ネームドロッピングを駆使する男の虚栄心と、自分のポジションのステップアップを狙うその野心的性格が垣間見えるのである。

映像序盤における簡潔な描写は、本作が単なるサスペンスムービーのカテゴリーに収まらない、シビアな人間ドラマの性格を漂わせていて、観る者の興味を惹く導入であった。


(注1)20世紀を代表する米の黒人作家。「もう一つの国」という著名な作品で、同性愛や「性」、暴力、人種差別などをテーマに描いた、「魂の孤独の書」とも思われる。

(注2)人種的偏見によって逮捕・起訴された黒人青年の弁護を引き受け、絶望的な法廷闘争をするヒューマンな弁護士である父との思い出を、成長した娘が回想する自伝的文学で、後に映画化され、絶賛された。内容の一部は後述する。

(注3)オー・ヘンリー賞を受賞した、19歳のときの作品である短編集の「ミリアム」ではなく、ここでは文壇で一躍脚光を浴びた、23歳のときの初の長編作品、「遠い声 遠い部屋」のことであると思われるが、定かではない。因みに、内容は、「父親を探してアメリカ南部の小さな町を訪れたジョエルを主人公に、近づきつつある大人の世界を予感して怯えるひとりの少年の、屈折した心理と移ろいやすい感情を見事に捉えた半自伝的な処女長編」(新潮文庫版のキャッチコピー)



2  恐怖との調和 



現地に着いた二人は、早速、馴染みの編集者、ウィリアム・ショーンの許可を取って、ニューヨーカー誌の記者として、カンザス州捜査局のデューイ刑事に会いに行った。

「事件が町に与えた影響を、取材して書きたい」

記者会見の場に来ることを告げられただけで、刑事たちの反応は冷ややかだった。

その理由の一つは、このときのカポーティのパフォーマンスにあった。

自分のマフラーが超高級品であることをアピールすることで、相手の信用を得ようとする安直な戦略は、主人公の形成的な性格として既に了解済みである。

自分のステータスの高さを、「物」によって表現する心理の裏側に張り付く素性の貧しさが、ここでは身体化されていた。

あっさりとした記者会見の結果、二人は独自調査に向かうことになった。

そんな中で、教会に安置されてある一家4人の遺体を覗き見するカポーティの好奇心は、目的のためにはアンチモラルな行動をとる性格を露わにするが、まだこの辺までは、それが作家的なモラリズムの範疇にあることを窺わせるものだった。

「気が休まった。あまりに恐ろしいものに直面すると、ホッとする。普通の生活を忘れられる。僕に“普通の生活”はないが…」

これは、NYにいる、カポーティのゲイのパートナー、ジャックへの報告。

「他人に誤解されながら生きていくのは辛い。僕も子供の頃から、普通じゃないと思われている。人は僕の外見だけ見て、決めつける。話し方が変だとか…」

これは、辛い思いを引き摺る事件の第一発見者に語ったもの。

この「同情戦略」は上首尾に運んで、二人は、彼女から事件の犠牲者の日記を借りて、それを読み込んでいく。

「僕は会話の94%を記憶している」

ネルに語ったカポーティの言葉である。

自分でテスト済みだという記憶力で、取材の会話を掘り起こし、タイプライターに打っていく。

そんな二人は、文学好きのデューイ刑事夫人と懇意となっていった。

その主役はカポーティ。

彼は刑事夫妻の前で自分の辛い過去を語ったり、サロンでのそれのようにネームドロッピング振りを被露し、懇談の中で関係を結んでいく。

そして遂に、事件現場の写真を私的に見せてもらうことに成功した。

「息子を撃ち殺す前に、なぜ、頭の下に枕を?娘には、なぜ毛布をかけた?」

惨たらしい写真を平然と見ながらの、カポーティの言葉である。

彼には、残酷さが心の安寧に繋がるらしいのだ。

―― だが、「恐怖との調和」を公然と語る男の物語には、未だ「本物の、直接的で、加工されていない恐怖」への免疫力の試練が検証されていないのだ。これについては、本稿のエッセンスでもあるので後述する。

ともあれ、映像は観る者に一つの布石を打ったのか。なお序盤の展開である。



3  運命



1960年1月6日。

犯人が逮捕された。

ディック・ヒコックとペリー・スミス
刑務所仲間が賞金目当てに警察に通報することで、二人の犯人が特定されたのである。

ディック・ヒコックとペリー・スミス。

二人の名である。

犯人が拘留されている保安官事務所を訪れたカポーティは、そこで犯人の一人であるペリー・スミスと会って、簡単な会話をする。

どこか繊細な印象を与える彼に、特別な関心を寄せたカポーティは、一緒に写真まで撮ってもらう些かフライング行為を断行する。

近未来に予定されている、「新しきジャンルの小説」に使用するためのものだが、彼の性格の自己中心的な面が露わになっていた。

まもなく、4件の第一級の殺人罪に問われた、二人の凶悪犯に死刑判決が下された。

陪審員による、全員一致の結論だった。

ペリー・スミスを救おうと、カポーティは控訴のための弁護士を見つけることを約束し、面会リストに自分の名を加えてくれるように頼んだ。

どこまでも、真実を描く「新しきジャンルの小説」のためである。

NYに戻った彼は、サロンの場で、ペリー・スミスについて喋りまくっていた。

「彼は悲しげで内気で、恐ろしい人間さ。家族全員の顔を猟銃で撃ったんだ。初め、こう思った。“僕は怖気づき、じき逃げ出す”と。殺された一家の息子は頭に枕をあてがわれて、その直後、至近距離から撃たれた。撃ち殺す前に、寝かしつけたかのように。人は彼を怪物と…僕の本を読めば、彼が人間だと分る。この本を書く運命だった」

「この本を書く運命」のために、カポーティは飛翔しようとしている。

「今はまだ何も書いていないが、“世紀のノンフィクション“と彼は言っている」

これは、NY誌の編集責任者、ウィリアム・ショーンの言葉。

そんなカポーティを遠眼で見ていたネルは、ジャックに「彼は自分を愛している」と洩らした。

更に、カポーティの独演は続く。

「今回の調査で、僕の人生が変わった。あらゆるものを見る眼が変化した。僕が書く本を読む者も同じように変わるだろう」

―― このような彼の言動を見ていると、素人目には、「自己愛性人格障害」の症状に近いと思われる。何か常に特定的他者からの評価を求め、サロンの中心に自分がいて、そこで自己の特別な才能を過剰なまでにセールスする態度と、それとリンクするように、「見透かされることへの恐怖感」、即ち、虚栄心の突出が強く印象づけられるのである。加えて、自分の野心のために他人を利用しようとする行動傾向の暴走を見るとき、私には「自己愛性人格障害」のパーソナリティがイメージされるのだ。

6週間後に、二人の死刑が決定されていた。

「その前に、正当な弁護士が必要だ。彼らには生きていて欲しい。彼らのために弁護士を付ける」とカポーティ。
「自分のためだろう」とジャック。相手の性格を知悉(ちしつ)する者の言葉である。
「違う。彼らのためだ」とカポーティ。自分を知悉する者への日常的な反応なのであろう。

カポーティとペリー
カポーティは、在監中のペリーに面会に行った。

そこで彼は、ペリーが1カ月間も食事を摂取していない現状を知って、その行為の意外性に驚いた。

「自分を殺す権利は、あの男にはない。彼を殺すのは、この州の住民の権利だ」

だから栄養液を与えるという言う刑務所長の言葉に、カポーティは「今、すぐ会わせてくれ」と言って、彼に賄賂を与えた。

「先住民を母に持つペリーを、白人と同じように処遇している」と所長。

言わずもがな、賄賂の効用によって、ペリーとのその日の面会が実現した。

「弁護士の一件は、お礼を言う。ここまで来てまでネタが欲しいか?」

カポーティは、同じ刑務所に拘置されているディックから厭味を言われた。本音なのだ。そのディックは、ペリーについて、「あいつは心神喪失で無罪になろうとしている」と言い添えた。

目の当たりに見たペリーの体は、相当に衰弱していた。カポーティは、そんな彼のために離乳食を買って、それをゆっくりと食べさせていった。

「これはお袋が、酒に溺れる前の写真だ」とペリー。

恐らく、自分を守る者の真意を忖度(そんたく)し得る、形成的な自己防衛戦略の研ぎ澄まされた能力を保持するに違いない男には、自分に同情する態度を見せるカポーティへの武装を少し解くことが、この時点で有効な関係処方であると考えたのだろう。

だから彼に、触れられたくない自分の過去のプライバシーを開いたのだと思われる。

「幼い君を引き取ったのは?」とカポーティ。
「施設だ。リンダと一緒に」とペリー。リンダとは、10年も会っていない彼の実姉である。

カポーティはペリーの少年時代の写真を見ながら、ゆっくりと自分の過去の不幸を語っていく。

「君はそんな特別じゃない。俺も子供の頃は、何度に親を見捨てられた。母に捨てられ、街から街へ移り、母は新しい街で、新しい男と出会った。僕は毎晩、ホテルの部屋に置き去り、母はドアをかけ、僕を出すなと従業員に言った。僕はあまりに怖くて、大声を出して、叫んだものだった。叫び疲れて倒れるまで、僕はドアの傍に倒れ、カーペットの上で眠った。それが何年も続いた後、母は突然、僕を捨てた。僕をアラバマの親戚に預けたんだ」

「育ての親は?」とペリー。
「叔母たちだ。ネルと会ったのもその頃だ。隣家に住んでいた」とカポーティ。
「君の母親は?」とカポーティ。今度は彼が聞いていく。
「チェロキー族(注4)だ」とペリー。
「アルコールに弱いのでは?」とカポーティ。
「弱かったよ」とペリー。

暗い監房内で、昔からの友人のように、二人の男が至近距離で話し込んでいた。

生まれ育ちの環境が酷似すると信じる作家が、ここでは作家としての野心を捨てて、本音で語り合っている印象を受ける。だから作家の声は、いつもの鼻に抜けた特徴的な話し方ではなく、くぐもっているが、しかし真情を吐露する者の如く、相手の琴線に触れるような静かな口調になっていた。

「もう君は、自殺何か考えてないよな?」

このカポーティの問いかけに、ペリーは瞼を少し濡らしながら、ディックへの警戒を言い添えた。

「君の日記を貸して欲しい。読みたいんだ。僕が君を理解できなければ、世の中はいつまでも君を怪物と看做(みな)すだろう。僕はそれを望まない」

相手の顔を真剣に見ながら話すカポーティの要請に、同様に相手の顔から眼を逸らさないペリーは、深々と話し込んだ男を信じる思いで、日記を貸すことになった。そこには、野心的作家としてのカポーティの顔が、単に憐憫で語りを繋ぐ男の顔を押しのけていた。


―― この章は、本作の物語展開が中枢部分に踏み入っていく導入として、極めて重要なシークエンスが詰まっている。とりわけ、カポーティとペリーの関係が特定化されていって、酷似した養育環境の確認の中で一定の共感感情が生まれ、相互の距離が近接していく描写には、二人の出会いを敢えて「運命的」なものと把握することで、映像は観る者に「心理サスペンス」の世界に誘(いざな)っていくのだ。

しかし、二人の養育環境の微妙な落差については詳細に語られていないが、映像が観る者に与える情報から逸脱することに言及するのはフライングになることを承知で書けば、カポーティの養育期の自我には、「アラバマ」という南部世界との出会いがあった。これは本作で、ネルとの絡みでしばしば話題にされたが、それに特段の反応をしないカポーティの態度があったことによって、彼の自我養育の大きな形成と無縁であったとは言えないだろう。(注5)


(注4)1830年代に、ジャクソン大統領下の強制移住法の制定によって、インディアン準州(オクラホマ州)への強制移住の旅である「涙の道」で知られるネイティブ・アメリカン。厳冬の「旅」だったので、4000人以上の犠牲者を出したと言われる。

「アラバマ物語」より・カポーティ(左から二人目)、ネル(右)
(注5)映画「アラバマ物語」の冒頭の部分で、ネルと少年期のカポーティが紹介されているので、以下、長くなるが抜粋する。

「1932年。メイカムは既に古ぼけてた町になっていた。その年は酷暑で、朝の9時にはシャツは汗で型が崩れ、女たちは昼前の水浴びと昼寝を欠かせなかった。……人々は急ぐ用事も買い物もなく、また買うお金もなかった。その代り、恐れるものが何一つなかった。私は6歳の夏を迎えていた」

恐慌下の厳しい経済環境の中で、スクスク育つ主人公の少女、スカウト(ネル)は、同じ年のチャールズ(カポーティ)と知り合った。

以下、そのときの会話。

「僕、チャールズ。字も読めるよ。読みたい本があったら任せて」
「何才?4才半?」とジェル。スカウトの兄である。
「じき7才さ」
「スカウトも来月学校だ。赤ん坊の頃から読めたぜ。7才には見えないな」とジェル。
「体が小さいだけだ。ディルって呼んでね。家はミシシッピだけど。夏休みで伯母さんの家に来てるの。ママは写真家の助手をしている。写真展に僕の写真を出して、賞金5ドルももらったんだ。そのお金で映画を20回も見られたよ」
「ウチのママは死んだけど、パパはいるよ。あんたは?」
「いない」
「死んだの?生きているなら、いるはずじゃない?」
「・・・・パパは鉄道会社の社長だ。いつか運転させてもらう。そのときは友達を呼んで・・・」

映像は、ここから3人の親交が始まっていくが、この出会いの会話によって、アラバマ時代のカポーティの児童期が、ある程度読み取れるだろう。

6歳のとき、母の親戚である伯母の家に預けられたカポーティには、既に両親が離婚していたので、父のことを聞かれても誤魔化すのみだった。

以来、ニューオーリンズ、アラバマ、ジョージアといった南部の町に住む親戚の家を頼って、不安定な児童期を過ごしていくことになる。

恐らく、「母は突然、僕を捨てた。僕をアラバマの親戚に預けたんだ」と本人が告白しながらも、元気にジェル、スカウトの兄妹と遊び回ったこのアラバマ時代の思い出は、相応に良好なものであったに違いない。

またこの会話の中で、体が極端に小さかった彼は、そのコンプレックスを読書好きのクレバーな印象を相手に与えたり、既に離婚した両親に関して虚実を取り交ぜて話したりすることで、自分を大きく見せようとする感情傾向と同時に、相手からの不必要な警戒感を解こうとする、子供らしい関係構築への努力が顕在化されているようにも見える。

その辺に、子供なりに他人との距離の測り方を学習する自我形成の一定の達成が読み取れるが、しかしその内的文脈は、あまりに不安定な養育環境の負の部分を庇い切れるものではなかったであろう。



4  金脈



ペリーから日記を貸してもらったカポーティは、いかに彼が自分を信頼しているかについて、ネルに電話で話した。

「彼は僕に全てを委ねてるんだよ。親身になってくれる人を、心から求めている。尊重して欲しいんだ」
「どうなの?」
「何が?」
「あなたは親身になってるの?」
「そうだな・・・彼は金脈だよ。その彼が人生を語ってくれた。死んだ母親のことや、自殺した兄や姉のことをね。ひどい話だよ」
「あなたも母親の話を?」
「ああ、全部ね。この1か月、話尽くした。そして時々、僕はいい本が書けると思い、息が止まった。君に聞かせたい一節がある。彼が書いた“スピーチの草稿“だ。何かで彼がスピーチするときのためだ」

以下、その内容を語っていく。

「“何を言い出せなかったか、思い出せない。これまでの人生で、こんなにい嬉しかったことは一度もなかった。素晴らしく、且つ稀な瞬間だ。ありがとう!“」
「笑えない」

ペリー
ペリーの日記を読むカポーティの上ずった調子に、ネルは暗鬱な一言を添えるのみ。

彼女は何もかも把握しているのだ。そこにいるのが、野心的作家としての男以外でないことを。

それでも、野心的作家としての男は、死刑囚の日記をタイプライターに打っていく。

「“ある日、母が死んだと感じた。その1週間後、母が死んだと知らされた。施設の修道女が震える僕を叩いた。夢で、大きな黄色い鳥が修道女の眼を抉(えぐ)った。人には真実が見えるときがある“」

小説の題名を決めたカポーティは、それをデューイ刑事に報告した。

「男性的な名前なので気にいるだろう。『冷血』だよ。どうかな?」とカポーティ。
「それは犯行のことか?犯人と親しくする君のことか?」とデューイ刑事。彼も眼の前の人物の本質を理解していた。
「色々あるが、前者を指している」

そう言った後、刑事にカポーティは捜査ノートを見せて欲しいと頼んだ。これが目的なのだ。

「君が見つけた弁護士が、最高裁での審理を取り付けた」

死刑の執行の延期を意味する言葉を告げた後、刑事は作家に言い切った。

「奴らが釈放されたら、NYまで君を捜しに行く」

それでも、ノートの貸出しを認めたデューイ刑事のその事実を、ペリーに報告するカポーティ。

「これは僕自身のためでもあるんだ。今、君を失ったら耐えられない」

それに対するペリーの反応は、カポーティの野心の範疇に属する内容だった。

「あんたの本を裁判に使える。心神喪失のことは本に書いたよな。弁護士がダメだったとも」
「まだ、何も書いてないんだ…」とカポーティ。

明らかに、カポーティは動揺している。

彼のノートからピュアな人間性を感受して、それを「冷血」と言う名の“世紀のノンフィクション“に写し取ることで、作家的野心を具現するはずの思惑が、心神喪失によって無罪に逃げようとするペリーの確信犯的態度に接し、自分の描くストーリーから逸脱する危惧を感じると同時に、少しでも可能性があったら助かりたいと考える相手の本音を知ってしまったのだ。

まさに、ディックの警告通りだった。デューイ刑事のアイロニカルな恫喝も的を射ていたのだ。

「何をしていた?」とペリー。
「取材だよ。君と話したりね」

動揺するカポーティは、嘘をついて誤魔化すしかなかった。

「どんな題名だ?」とペリー。
「まだ分らない…」とカポーティ。

以降、ペリーの扱いに困惑するカポーティは、嘘に嘘を塗り重ねていくのだが、しかし彼は未だに最も肝心な事実を相手から聞き出していないのだ。

事件当日の一切の事実である。

だから、カポーティは「友情」の継続を確認して、ペリーにその告白を求めていく。

「家族を殺す気はなかった。計画的犯行ではないことを、あんたの本に書いてくれ」

ペリーはそう明言した。

その真意が明け透けなので、カポーティは死刑囚の前から姿を消した。

年来の約束通り、ジャックと共にスペインに行った彼は、肝心な事実の記述を抜きにタイプを打っていく。

「君の新作を読み耽っている。いい出来だ。すごい傑作だよ。前半だけだが、素晴らしい。いつ書き上がる?」とNY誌のウィリアム・ショーンからの電話。
「ペリーから、犯行の夜の話を聞かないと完成できない。秋になったら、彼に会いに行く」

結末が分らないから、まだ会いに行けないというカポーティに、ショーンは「控訴は棄却された」という事実を告げ、すぐに会いに行けとのこと。

ネルがペリーからの手紙を、スペインにいるカポーティに届けに来た。

「親愛なる友よ。どこにいるんだ。医学辞典で読んだのだが、絞首刑による死は、窒息及び、頸椎骨折と気道断裂が原因となるそうだ。死刑囚には気のめいる話だ。孤独な僕の傍に君が居てくれたらと思う」

「控訴棄却の話は昨日聞いた」とカポーティ。
「だから、気嫌がいいのか?」とジャック。
「何てことを言うんだ。ペリーへ手紙を書いているが、今は執筆に集中している」とカポーティ。

「ジャックは、僕がペリーを利用し、しかも彼を愛していると思っている。利用しながら愛すなんてあり得ない」

これは、ネルへのカポーティの言葉。

「あなたは本当に、ペリーを愛しているの?」とネル。
「例えて言えば、彼と僕は一緒に育ったが、ある日、彼は家の裏口から出て行き、僕は表玄関から出た」

意味深な作家の反応だった。

まもなく、カポーティはペリーに面会に行った。

「ずっと会いに来なくて悪かった」
「長かったよ。執筆は進んでいるか?」
「ゆっくりとね」
「見せてくれるか?」
「殆ど書いてない」

死刑囚の前で、相変わらず嘘を付く男がいる。

NYの「新作朗読会」。そこでカポーティは、自作の完成部分を発表していく。

「“ペリーの声は優しく、取り澄まして、耳当りは柔らかいが、人工的なものに聞こえ、煙草の煙で作った輪を吐き出すようだった。4つの棺は、花で埋まった安置所にあり、葬儀では封印される予定だった。棺の中を見たら、誰もが心を乱したであろうからだ。その場に粛然とした雰囲気を与えたのは、遺体の頭部が木綿で包まれていた事だ。その木綿は、普通の風船の倍の大きさに膨れていた。木綿には光沢のある物質が吹きつけられていて、クリスマス・ツリーの雪に見えた。ある夜明け、車に乗った人々が、この町の惨劇を知らないため、ホルカムを通りかかって、その光景にびっくりした。どの家も、どの窓にも煌々(こうこう)と明かりがついている。部屋の中にはきちんと服を着た人々が、家族そろって夜通し眼を覚ましているのだ。眼を開け、耳を澄まして、再び同じことが起こるのではと、恐れを慄(おのの)きながら…”ありがとう」

場内から万雷の拍手。それを体感して、愉悦する作家がそこにいた。

その後、カポーティは、サロンの場で相変わらず騒がしく独演会を繋いでいる。

「あなたの犯人の描写は恐ろしいものでした。ぞっとした」

サロンに闖入(ちんにゅう)した一般の聴衆の一人から真摯に思いをぶつけられたカポーティは、それをサロンの歓談の空気の内に吸収するだけだった。

「この本は全てを変えるだろう・・・今後の文学の流れも変える」とショーン。

しかしショーンにとって気がかりなのは、10月までに作品が完成するかどうかという一点にあった。

「大丈夫だと思う。予定は来月らしいな」とカポーティ。

絞首刑の予定のことが、カポーティの唯一の気がかりな点だった。

来月の10月には、二人の死刑囚の絞首刑が執行される予定になっていて、その前にカポーティは、パズルの抜けた部分を埋めるために、ペリーに会いに行かねばならなかった。

事件当日の犯行の惨状について、本人から聞き出すためにである。


―― この章は、本作の中で、最も心理描写が際立つシークエンスの連鎖だった。

中でも、「ペリーを利用し、しかも彼を愛していると思っている。利用しながら愛すなんてあり得ない」というジャックの言葉が、ネルに反応したカポーティの言葉の内に間接的に語られていたが、ペリーを「金脈」と公言する野心的作家の自我の内側の澱みが、「男らしい」ジャックの率直さの心に届き得ないほど、その複雑な心理を露呈させる重要な描写となっていた。

しかし、それこそが自分の心をも充分に支配し切れない、私たち人間の心の世界の真実の一端を露わにするものなのだ。

他人を利用しながら愛することができてしまうほど、私たちの情感世界は複雑であり、且つ厄介であるということである。

私はそれを、「脆弱性」という言葉によって把握している。

言わずもがなのことだが、カポーティに利用されながら愛されているペリーもまた、同様の心理を保持しているが、彼の場合は、そこに処刑の恐怖という現実が横たわっているため、カポーティに何とか縋(すが)っていこうとする心情だけが透けて見えてしまうのだ。

その意味から言えば、彼らの心の有りようは、ただ、私たち「普通の人間」よりも、その心理が極端な形で顕在化されていたということであろう。

なぜなら、彼ら自身がその「状況」を自ら作り出してしまったからである。

「状況」を作り出した二人の自我のルーツに、彼らの特殊な養育環境があったことは否定し難いだろう。これは前述した通りである。

従って、以下のカポーティの言葉が、相応にインパクトのある表現として際立つ所以であった。

「彼は家の裏口から出て行き、僕は表玄関から出た」

ほんの少しの養育環境の差異に見えるだろうが、その「ほんの少し」が、人間の自我形成の「発達課題の三命題」、即ち、発達が「順序」、「秩序」、「臨界期」を持つことを認知すれば、個々の自我形成環境の事情次第によって決定的な事態にまでなってしまうということである。



5  告白



カンザス刑務所。

“スミスとヒコックの死刑執行延期”の記事を見て、動揺するカポーティがいた。

彼はNYで「新作朗読会」を開催してしまった手前、もう後戻りができないのだ。

「連邦裁での再審のため死刑が延期になった。君のお陰だ」とペリー。その顔には笑みが浮かんでいる。

カポーティーが関心を持つ事件当日の出来事について、ペリーは答えなかった。

それだけが唯一の訪問の理由だった作家には、もう刑務所にいる必要はなかった。

彼はペリーの反対を押し切って、彼の姉に会いに行くことにした。

「昔は可愛かったけど、今は彼が怖い・・・・弟に騙されないで。繊細な面も見せるから。傷つきやすいと思うだろうけど、握手するように簡単に人を殺すのよ」

これが、10年間、実弟と会っていない姉の言葉だった。彼女は、弟の性格を知り尽くしているのである。

ペリーへの再訪。

このとき、ペリーはカポーティの朗読会と本の題名を新聞記事によって知っていた。

そのことを確認するペリーに、カポーティは「朗読会のため、主催者が勝手につけた題名だ…事件の夜の話を聞かずに、題名を決められるか?」と言って誤魔化したのである。

ペリーにはもう、事件の全貌について作家に話す以外にない心理状況に誘(いざな)われていく。

「友だちというのは偽りか?」とペリー。
「偽ってなんかいない。本当に友達になりたかったんだ」とカポーティ。

カポーティは、「君の姉が会いたがっている」という一言を加えることで、死刑囚の心の深奥に迫っていく。

「自分こそが君の友人なんだ」という作家の身体表現に、どれほど真実が含まれているか不分明だが、恐らく、演技する作家自身にも自分の演技のリアリティを把握できていなかった。それにも関わらず、この柔和なアプローチによってペリーの心が溶融し、「告白」への障壁に一つの決定的な穴が穿(うが)たれていったのは事実である。

カポーティがペリーの姉から受け取って来た、姉と弟が並んで映っている児童期の写真を見ながら、ペリーは真相を吐露していく。

「俺たちはどうかしていたんだ。あの家に1万ドルがあると聞き、家族を縛って家中を探した。だが金があるというのは間違いだった。金はなかった。リチャード(ディック・ヒコックのこと・注)は信じず、家中をひっくり返し壁を叩いたりして、金庫を探した。その後で、奴はナンシーを乱暴しようとした。俺は許さず、“止めろ”と言った。彼女の部屋にいた俺をリチャードが連れ出し、明かりを消して地下室に下りた。そこには、父親と息子がいた。奴は“目撃者を残すな”と」

告白は続く。

「だが、俺が渋れば殺さずに引き揚げると思った。一晩中、車で逃げれば捕まらない。クラッタ―氏の手首を頭上のパイプに縛ったが、痛そうなので縄を解(ほど)いた。そして彼を、楽なように箱に座らせた。妻と娘を心配していたので“大丈夫だ”と言った。二人ともじきに寝るし、そのうち、朝になれば誰かが見つけると」

核心に入っていく。

「彼は俺を見ていた。俺の眼を見ていた。まるで、俺が彼を殺す気だと決めつけているように。この善良な男は俺を恐れていると思った。俺は恥を感じた。そして思ったよ。彼はいい人間だ。紳士なんだと…喉を切るまでは、そう考えていた」

ペリーの頬を、熱いものが伝わってきた。

「あの音を聞いて、我に返った」

回想シーン。

心神喪失状態の中で、次々に4人を銃殺するペリーがそこにいた。

「あの音」とは、ペリーがクラッタ―氏の喉を切る音のことである。そのときペリーは、「我に返った」と言うのだ。

「犯罪の成果」をカポーティに聞かれたペリーは、「40、50ドル…」と答えた。涙を拭うカポーティ。

相手の心情に同化しているのだ。

暗鬱な心境下で、カポーティは最後の決定稿を書き上げていく。


―― 私が恣意的に「告白」と題したこの章は、事件の暗部に肉薄するシークエンスである。

場所は、カンザス刑務所の監房。

そこで、二人の男の心理戦が開かれた。

「告白」を迫る作家と、それを拒む死刑囚。

拒む理由は、事件の暗部を封印したいと思う男の、記憶に張り付く恐怖なのか。作家は話を聞き出すことを断念し、彼の姉に会いに行った。

ところが、そこで聞いた実弟へのネガティブな反応を、刑務所を再訪した作家は、正直に伝えなかった。

寧ろ、彼の姉が「君に会いたがっている」という嘘を言い、彼女が「不要だから持って行って」という写真を、死刑囚である弟の前に差し出すことによって、ペリーの「告白」を引き出したのである。

それは天才を自称する作家の、地味だが、しかし自らの幼少年期を想念させるかのように、そこだけは相手の孤独の心理を理解していると確信したであろう、それ以外にない戦略だった。

その戦略が功を奏して、「未完の傑作」を延長させている作家の前で語られた内実は、未決拘禁者としての死刑囚の、その心の深奥に澱むネガティブな記憶のファジーな再現のようにも見える。

然るに、そこで重要なのは、事件の真相を語る者が、「この善良な男は俺を恐れていると思った。俺は恥を感じた。そして思ったよ。彼はいい人間だ。紳士なんだと…喉を切るまではそう考えていた」という語りに現れているように、どこか確信的に防衛機構を張り巡らせることで、事件を惹起させた自らの心理が、「心神喪失状態」の結果であったという希望的認知の枠内で自己完結されている点にある。

何よりこの時点で、ペリーの死刑執行は延期されていたのである。

「心神喪失状態」という把握によって、眼の前の作家が物語を結んでくれることへの期待感が、彼の内側に張り付いていたことを否定できようか。

その結果、件の作家には、それを写し取る作業しか残されていなかった。

彼が死刑囚の語りの前で涙を流したことや、死刑囚自身の涙もまた、彼らの自我が許容する支配下での自然な反応であったに違いない。

しかし、普通の理性的自我の普通のサイズで生きる者にとって、二人の涙はどこまでも、「握手するように簡単に人を殺すのよ」と言うペリーの実姉の了解ラインの範疇に収斂される何かでしかないだろう。

二人で写真を撮ってもらう
そこにこそ、二人を結ぶ心情的文脈があり、且つ、彼らを孤独の境遇に追い遣った因子があるとも言えるのか。

但し、映像は限りなく、二人共に「冷血」に成り切れない者の悲哀にも似た視線を、観る者に運んで来たのは間違いないと思われる。良かれ悪しかれ、そういう映像であるということだ。



6  恐怖との不調和



「とにかく、この本を完成させたい。この本の執筆に4年の歳月を費やした。昨日、死刑延期が決まった。また延期だ。次は最高裁だ。精神的苦痛だよ。結末を書きたいのに、その結末が見えない」(ショーンへの電話)

その後、ネルの自伝的小説を映画化した、「アラバマ物語」の試写会があった。

カポーティはネルに、「彼らが僕を苦しめる」と嘆息したのも束の間、カンザス刑務所のペリー・スミスから電話があって、「控訴棄却」を告げられ、2週間後に死刑執行される事実を知ったのである。

1965年4月14日。

死刑執行の当日である。

ペリーからの電話があっても、カポーティはそれに出ようともしなかった。

ネルからの督促の連絡によって、彼は嫌々ながら刑務所に行くことになったが、ネルが伝えたペリーからの電報が、彼の重い脚を運ぶに至ったのである。

以下、ネル宛てのペリーの電報。

“彼が刑務所まで来られないのは残念だ。少しだけでも話したかった。来られない理由は何であれ、非難はしないと伝えておきたい。残された時間は少ない。君たち二人には心から感謝している。長年にわたる友情とその他全てに対して、うまく礼は言えないが、君たちには深い情愛を感じている。もうじき時間が来る。お別れだ、友よ。 君たちの友人ペリー”

ショーンを随伴したカポーティが刑務所に到着して、ペリーとの5分間の面会が許可された。

「僕をどう思っているかな?」とカポーティ。
「電報は本音だ。来たくないのも分る。俺が君なら来ない……見ていくか?」とペリー。
「見て欲しいか?」とカポーティ。
「友だちに居て欲しい」とペリー。
「分った。それなら見ていく」とカポーティ。

カポーティは、嗚咽を堪(こら)えられなかった。

「できる限りのことはした。本当だ」とカポーティ。
「分ってる」とペリー。彼も嗚咽している

「言い残すことは?」と教誨師。
「家族はここに来ているか?」とペリー。

姉が来てくれると思ったのだろう。カポーティの言葉を信じているのか。

「いや」と教誨師。
「じゃ、伝えてくれ…何を言いたかったか思い出せない…」とペリー。

まもなく頭巾を被されて、ペリーは恐怖で身震いしていた。

絞首刑が執行され、それを視認するカポーティ。

「恐ろしい体験だった。立ち直れないと思う」とカポーティ。電話でネルに伝えた
「彼らは死んだのよ。あなたは生きている」とネル。
「彼らを救うために何もできなかった」とカポーティ。
「そうね。救いたくなかったのよ」とネル。

多くの者がそうであるように、カポーティもまた、「写真」、「包帯で包まれた棺」等の如き、間接的であったり、そこに加工が施された情報への「恐怖との調和」が可能であったにしても、ダイレクトで生身の恐怖に対して身震いした、その破壊力は尋常ではなかったということだ。彼は、「恐怖との不調和」の時間を延長させてしまったのである。

それでも彼は、ネルが言うように、紛う方なくペリーを救いたくなかった。新しい地平を構築していくはずの、一つの画期的な文学作品が自己完結しないからだ。

ラストシーン。

飛行機の中で、ペリーの日記を見遣るカポーティ。そこには、姉と写った写真と、ペリーが書いたカポーティのデッサンの肖像が挟まれている。



カポーティ本人(ウイキ)
「『冷血』によりカポーティの名声は高まった。その後、彼は一冊の本も完成させなかった。最後の未完成の銘文は、『叶えられぬ祈りより、叶えられた祈りに涙が多く流された』1984年、アルコール中毒が原因で彼は死んだ」

この意味深なキャプションによって、映像は閉じていった。


―― 私が恣意的に、本作を6つのセクションに区分けした最後の章のテーマは、「恐怖との不調和」である。

“世紀のノンフィクション“に挑戦した作家が、それを手に入れた代償の大きさを一言で言えば、「恐怖との不調和」であるだろう。加工が施された情報への「恐怖との調和」が可能であった男は、「包帯で包まれた棺」の中を覗いても全く動じる素振りすら見せなかった。

この行為は過剰であっても、野心的作家の、その固有の野心の範疇に属するものとして、さして問題にされないかも知れないだろうし、その行為が惹起させる恐怖もまた限定的であるだろう。それは容易に、作家的野心の感情の内に収斂される類の奇行で済まされる何かであるとも言える。

然るに、利用しながらも憐憫し、愛したとも言える対象人格の死、それも本人の震える姿を目の当たりにした処刑死に、求めれれて立ち会った男が視認した行為は、「恐怖との調和」に馴致(じゅんち)すると豪語した男の感覚器官に深々と鏤刻(るこく)されて、その主体の自我を打ち砕き、その特殊な時間を凍結させ、その後の男の人生の軌跡に決定的な影響を与えるほどの破壊力を持ってしまったのである。

少なくとも、「恐怖との不調和」こそ、男の人生の前に大きく立ち塞がった障壁だったという文脈が、この映像の把握であったと思われる。


この章における、ペリーの恐怖感の描写のリアリティについても一言。

「じゃ、伝えてくれ…何を言いたかったか思い出せない…」とペリーに言わせる描写には、正直、鳥肌が立った。

極度の緊張によって過呼吸状態の男が、そこで語りたかったものが姉へのメッセージであることは自明だが、その言葉を思い出せないほどの極限状況下に置かれた者の悲哀さを感受して止まなかったのは事実。

同時に、肝心な言葉を思い出せないほど、この男にとって、語るべきに足る、「家族」という物語の圧倒的不在の問題を見せつけられて、悲哀の感情をを深々と感受させられた次第である。

それは、「何を言いたかったか思い出せない」という言葉を、人生の最後に残した男の悲哀であった。



7  「恐怖との不調和」によって砕かれた、「鈍感さ」という名の戦略 ―― まとめとして



「この映画では、何かを手に入れたいという強い気持ちから、自分の行動や自分の行動から生まれた結果に鈍感になってしまった人間を描きたかったんだ。そういった意味では、この一人の人物の話というよりはもっと大きな話になっているよね」(「CINEMA VICE」より【ベネット・ミラーインタビュー カポーティ】)



「ティファニーで朝食を」発表後のカポーティ(ウイキ)
人間の「善悪」やエゴイズムの問題、死刑制度や取材のモラルハザードの問題、養育環境と犯罪の関係、等々、様々な解釈が可能な本作だが、果たして、ここで引用した作り手の把握によって了解し得る作品であるか否か、観る者によって分れるだろうが、少なくとも、私にはこの作り手の簡潔な説明が一番納得し得る作品解釈であった。

人間が特定の目的を持って或る行動を起こすとき、当然、その行動によって手に入れる何某かの結果・成果を想定しているはずだが、残念ながら、目標設定点と結果・成果が重ならない現実を、私たちは嫌と言うほど経験しているだろう。

まして目標設定点のハードルが高く、それが多分に未知のゾーンに捕捉されているならば、そこで手に入れられるものの成果の確率は遥かに低いものになるに違いない。人間が支配し得る領域など、高が知れているのである。

仮に目標設定枠内にある対象を支配したつもりになっても、その支配感覚の正体が、そこで生じた昂揚感の被膜が剥がれてしまう類の情感系の暴走に依拠した、ある種、過剰な推進力による幻想の産物でしかないと感受されてしまったとき、それを充分に支配し切れない現実を認知する恐怖を封印するために、人は度々、その不快感との継続的な共存を拒み、一切を周囲の環境の問題に還元したりもするのだ。それを心理学で、「自己奉仕的バイアス」(注6)と言う。

地団駄を踏み、自らを卑下し、攻撃することによって疲弊していく自我の落胆感を、少しでも軽減しようとする防衛戦略が、そこに垣間見えるだろう。


(注6)目的が成就したときは、自分の能力等の問題に帰属させるが、それが失敗したときには、外部環境の問題に帰属させる傾向のこと。


また、自らが手に入れようとした本来の果実が目前にあるのに、未だそれを手に入れられない不快感との長期に亘る共存に耐えられるほど、人間は強靭ではないし、継続力を持つ物語に絶対依存できるものでもない。

人間はそこまで厚顔になれるし、無恥の世界で開き直ることもできるのだ。感性を鈍感にすることによって守られる城砦の正体こそ、私たちの「自我」であるだろう。鈍感さもまた自我の戦略なのである。

私はそれを「脆弱性」の問題として把握しているが、そんな把握があっても、なお懲りない人間の過剰さもまた、「脆弱性」の世界に収斂されるものであるということだ。


―― 以上の言及の内実と些か異なるものの、この問題意識によって本作を分析してみたい。

カポーティがペリーに憐憫を感じ、彼に救いの手を差し伸べたいと、一時(いっとき)、想念する時間を持ったことと、彼を利用することによって、“世紀のノンフィクション“という名の「新しい文学世界」の構築を目指す一連の行為は、彼の自我の内に充分同居するものだった。

それを彼のエゴイズムと決めつけ、糾弾するには、あまりに傲慢過ぎるという誹(そし)りを免れないだろう。多かれ少なかれ、私たちも似たような人間関係を形成し、そこで似たような行動傾向を晒しているというのが現実ではないのか。

ただ、カポーティの場合には、それでもなお私たちの、常識的な経験則の範疇を越える過剰さが垣間見られたのも事実であろう。だから彼は、その過剰さの故に自分を支配し切れず、事態の展開を支配し切れなかった現実もまた否定し難いだろう。

彼のそんなちっぽけな自我の、どこか過剰な「自己愛的人格障害」をイメージさせるに足る、途方もない誇大妄想を簡単に弾いてしまうほどの状況のリアリズムが、厳然と彼自身を食(は)んでいき、自縄自縛(じじょうじばく)に陥らせ、遂には状況逃避という、最も人間的だが、それ故に極めて利己的な行為を選択させるに至ったのである。

ここで、上述した問題意識によって、彼の内面世界の有りようを勘考して見よう。

繰り返すが、鈍感さもまた自我の戦略である。

鈍感になることによって相手に対する憐憫の感情を稀釈化し、相対化させていく。

それなしに特別のバリアのない空気の中で、自然裡に感情を放置しておくと、その感情に対象人格の悲哀が乗り移ってきて、自分の欲望戦線との間に少しずつ乖離が生まれ、いつしかリバウンドさせた挙句、肥大化した自らの情感系が、その本来の作家的野心を砕いてしまいかねないのだ。

そのリスクが統御不能になるギリギリの所で、対象人格への悲哀と憐憫の感情の「暴走」を防ぐのだ。

それがカポーティの戦略だったと、私は考えている。

「鈍感さ」という名の自我の戦略である。

彼は対象人格への情感系の中枢を鈍感にさせることによって、作家的野心を温存させ、近未来への飛翔を図る本来的な感情を堅持させたのである。

だからその情感系の中枢にストレスがストックすれば、ゲイのパートナーと共にスペインに逃避したし、NYでのサロンの世界で過剰に饒舌を繋いだと考えられる。

「鈍感さ」という名の自我の戦略に潜らなければ、カポーティという鬼才は「新しい文学世界」を構築し、それを世に発表できないのだ。あのような特殊な状況下では、唯一、鈍感になることだけが、殆ど沸点に達しつつあった彼の作家的野心を温存させる手段だったからである。

然るに、目標設定点に据えたはずの成果が手に入らず、彼の戦略がいつまでたっても自己完結しなかった。

思惑外のその苛立ちと焦燥の中で、その不快感との継続的な共存を強いられるばかりで、彼の自我は疲弊し切っていく。

上述したように、未だそれを手に入れられない不快感との長期に亘(わた)る共存に耐えられるほど、人間は強靭ではないし、継続力を持つ物語に絶対依存できるものでもない。

カポーティの脆弱さが、映像後半を通してたっぷり見せつけられるが、その辺りの心理描写はあまりに直接的過ぎて些か不十分であったものの、本作の白眉に近い印象深い映像が拾われていたことは評価されるだろう。

そんな苦衷の心理の中に、突然、待機していたはずの決定的な情報が飛び込んできた。そこで生じた時間の空白は、僅か2週間。

欲望戦線の稜線が伸ばされ過ぎた挙句、何年も待って唐突に手に入れた念来の思惑の達成の瞬間が、今、自分の眼の前にぶら下がっているというのに、この革命的な作家の心は欣喜雀躍(きんきじゃくやく)しないのだ。

死刑執行という本物の恐怖とクロスしたとき、多くの者がそうであるように、彼の内側にも「恐怖との不調和」の感情が分娩されてしまったのではないか。

自分が知らない所で、呆気なく済ませて欲しいと願ったのか、彼はこの極限的なリアリズムからの逃避を図ったのである。

彼は逃げた。どこまでも逃げた。

それでも追い駆けてくるものに拉致されて、彼は最も見たくない恐怖のリアリティを体験するに至ったのだ。

自分が憐憫を寄せる男の死刑執行によって自己完結するという、その文学世界のエゴイズムと傲慢さを嘲笑(あざわら)うのは容易だろう。

しかし、この男には、それ以外の選択肢がないような自我形成を経てきた思春期前後までの特殊な養育史があった。

「アラバマ」の経験的媒介の有無がペリーと別れる所かも知れないが、それでも、「会話の94%を記憶している」と豪語する本人の言葉に象徴される才能を自分の中に発見し、それを「サロン」などの場を利用して、継続的に、且つ特段に叫び続けねばならないほど、彼の内側には、過剰なまでのアイデンテイィティ確保への執着のモチーフが存在したに違いない。

私が「自己愛的人格障害」というイメージで彼を見るのは、その所以でもある。

それは、幼少期に穿(うが)たれた自我の空洞への過剰な補填の作業であるようにも見えるが、青年期に踏み入れた彼は、傑出した才能によって過剰に補填し得る幸運を手に入れて、本人に「彼は家の裏口から出て行き、僕は表玄関から出た」と言わしめた、眩いばかりの稀有な人生ルートの鉱脈を確保するに至ったのである。

そんな男が今、人生の一大飛翔を賭けた時間の只中にあるにも関わらず、状況逃避を図り、遂にその身体が丸ごと拉致されてしまった。逃げ切れなかったのだ。

その結果、何が起こったか。

「恐怖との不調和」の記憶の継続的、且つ内面的累加の時間である。鈍感という戦略に逃げ切るには、彼が経験した「恐怖との不調和」という心的現象は、あまりに破壊力があり過ぎたのである。

これは作り手が言うように、「何かを手に入れたいという強い気持ちから、自分の行動や自分の行動から生まれた結果に鈍感になってしまった人間」の物語という解釈が最も相応しい映像作品だった。

但し、その「鈍感さ」は、上述したように、人間の宿痾(しゅくあ)のような「脆弱性」の産物であるが、同時に、「鈍感さ」という名の自我の戦略に潜ることによって、対象人格への悲哀と憐憫の感情の「暴走」を防御する、ある種、最も人間的なエゴイズムの集中的身体表現であったということだろう。


―― 因みに、近年の脳科学によると、恐怖記憶を抑制するメカニズムの研究がマウスの実験で発表されていて、その一部が話題になった。

即ち、「ICER」(アイサー)という蛋白質を持たないマウスの場合、ブザー音を聞かせ、恐怖で体を竦(すく)ませる時間を測定した所、通常のマウスより2倍もの恐怖感覚を覚えていたと言うのだ。これは、何某かの恐怖体験によって「ICER」の機能が抑制されてしまうと、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症させてしまうリスクを高めてしまうということを意味する。

ついでに書けば、ニュージャージー州立大学によるラットの研究によって、恐怖記憶を消去する扁桃体の細胞である「ITCニューロン」の存在が注目されていて、この細胞が傷つけられればPTSD発症のリスクを高めてしまうメカニズムは、上述した「ICER」の場合と同質なものだろう。ともあれ、現代脳科学の目紛(めまぐ)るしい研究成果に驚きを隠せないほどだ。

また最近、アメリカの学会の発表で、「9.11」以降、当時、事件現場を通り過ぎた人たちの間で、PTSDの発症が目立つという報告があって、改めて、PTSDの底知れぬ自我破壊力の恐怖を思い知らされた次第である。

もし今後、以上の研究成果の正しさが検証されていくならば、本作の作家の「ポスト・『冷血』」における自我の崩れ方が了解可能になるかも知れない。そう思った。

彼の場合、かつて養育環境の貧困によって、「見捨てられ不安」から「ボーダーライン」(境界性人格障害)の症状を呈していたようにも見られるが、「アラバマ体験」や文筆家の才能の早期の開花とリンクすることで、「自己愛性人格障害」に似たパーソナリティを形成してきたのではないかと、私自身勝手に把握してきたが、例の恐怖体験によって、「ICER」や「ITCニューロン」の機能が抑制され、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に近い精神状況を延長させてしまった事態も考えられるのだ。

一切は、素人の乱暴な精神病理的把握だが、映像のラストシーンの描写を事実として認知するならば、「恐怖との不調和」の記憶の継続的、且つ、内面的累加の時間の持つ破壊力の甚大さに特段の感懐を持たざるを得ないのである。

更に踏み込んで書けば、その養育環境の貧困によって、「見捨てられ不安」から「ボーダーライン」(境界性人格障害)の症状を呈していたとも思える二人の少年は、そこに関与した内的・外的条件の差異によって、一方は表玄関から出られたかも知れないが、もう一方は貧困なる内的・外的条件の拡大的継続性によって、なお社会適応可能な「ボーダーライン」から、「反社会性人格障害」(サイコパス)への負のステップを上り詰めていってしまったのではないか。

その結果、後者は、家の裏口から出て行く人生以外の選択肢を持ち得ない不幸に、丸ごと拉致されてしまったとも言えるだろう。


最後に一言。

ベネット・ミラー監督
本作の作り手の、「この一人の人物の話というよりはもっと大きな話になっているよね」という狙いは、残念ながら作品の中で充分に反映されていなかった。

恐らく、9.11以降の世界の秩序破壊の現実を指しているものと思われるが、それをも射程に収めたいのなら、遥かに状況感覚的な切っ先鋭い映像構築が求められたであろう。その不足は明瞭であったというのが、私の偽らざる感懐。

加えて、作り手は、「カポーティの文章は冷静で突き放したようにも見える。冷たい性格だと思われているが、結局、彼自身は『冷血』になりきれなかった。人間的で、米国と同じ運命をたどった悲劇の人物として描きたかった」(「asahi,com:『冷血』」2006年10月18日より)とも述懐しているが、その心情は、映像からひしと伝わってきたのは事実。その意味では、相応に成功を収めた秀作だったと言えるだろう。

しかし正直な感懐を書けば、ドイツ人の血を引く、「フィリップ・シーモア・ホフマン」という名を持つ、私の好きな主演俳優の、その超絶的な表現力に依拠した作品になっていたのもまた否定し難いと思われる。

(2009年9月)

0 件のコメント: