1 釣り堀で
不動産会社に勤務する近藤薫は、若いアベックに高層マンションの一室を案内するが、不調に終わり、バルコニーの窓を閉めたとき、ふぅっという溜息を洩らした。
このファーストシーンの何気ないカットの内に、30歳になって真面目に仕事する彼女の性格が映し出されていた。同時に、営業ウーマンとして自立的に生きる彼女が抱えるストレスの重量感も感受されるだろう。
弟、透の結婚式の件で、久しぶりに会った姉弟は、家族の再会の話に話題を振っていかざるをえなかった。姉弟の両親は既に離婚していて、弟を引き取った父と、姉を引き取った母との折り合いは当然悪く、その辺の苦労を弟は姉に漏らしたのである。
その際、結婚式の招待状を受け取った姉の意思を確認することなく、弟が勝手に「御出席」に丸をしてある葉書きを見て、当惑を隠せない姉。その辺りに、二分した家族の問題に集約される近接した外部環境に対して、努めて協調して生きてきた姉の薫の性格が反映されていた。
会社勤務のストレスから、1週間の有給休暇をとった薫は、自宅近所の馴染みの釣り堀で留守番を頼まれた。
そこに一人の少女が餌のつけてもらいにやって来たので、彼女は優しく反応した。
「一緒にやろう。自分でつけた方が、魚もたくさん釣れるよ」
この言葉の内に、彼女の協調的な性格の芯を支える自立的なメンタリティが読み取れるのである。
映像のこの導入は目立たないが、一人の若い女性のキャラクターの骨格と、そこから開かれるストーリーラインの伏線を敷いた描写として重要なものとなっていた。
釣り堀で、少女と共に餌をつける薫は、その少女が小4であることを知って、「自転車乗れる?」と聞いた。
「うん」と少女。
「幾つのときに乗れるようになった?」と薫。
「年長」
「凄いね。私が乗れるようになったのは、今のあなたの歳」
笑いながらそう答えた薫は、このとき、自分が小4だったときの、刺激的な夏の日々を思い出していた。
2 出会い
『20年前の刺激的な夏は、母の家出で幕を開けた』
このナレーションから、ストーリーラインの中枢が開かれていった。
『家出する前の日、母は念入りに家の中を掃除した』
10歳の薫の一学期の成績表を見た母は、国語の成績が上がったことを褒めた。
既にこのとき、家出を覚悟していた母の不満の原因は、勝手に会社を辞めて、収入の当てのない中古車販売業を始めた夫との不仲にあった。
「あんた、無理に結婚しなくてもいいからね。その代り、手に職をつけなさい」
これが娘に対する母の置き土産の言葉だったが、娘は母の家出を正確に認知できていなかった。
父がそれについて何も語らず、母の代わりに夕食を作る一人の若い女性が出現したからである。
ヨーコ |
それがヨーコだった。
「オス。て言うか、初めましてかな、やっぱ」
左手を高く掲げて、ヨーコは薫の前に現れるや否や、キッチンで煙草を吸い始めた。
「そんなに驚かないでいいよ。ご飯作りに来ただけだから。」
全く見ず知らずのヨーコの出現に驚くばかりの薫は、男勝りでずけずけと話す、このようなタイプの大人と初めて出会った戸惑いもあって、当然の如く、反応の術を知らなかった。
「買い物行くから付き合ってくれる?」
そう言って、ヨーコは薫を誘い、さっさと階下に下りて行って、サイクリング車のキーを外していた。
傍には、まだ言葉を返せないが、ヨーコの自転車を興味深く見つめる薫がいた。
ヨーコがサドルを盗まれた話をしたとき、未だ乗れない自分の自転車を見せながら、薫はヨーコに問いかけた。
「サドルだけ盗られて、どうしたの?」
「隣に置いてあった自転車のサドルを盗んで、取り付けて帰った」
自分の盗みの一件をあっけらかんと答えたヨーコは、そのまま薫を連れてスーパーに直行した。
カレーの材料をどんどんカートに放り込み、薫が食べたいと言った麦チョコを何袋もいっぺんに買ってしまう大胆さに、薫は眼を見張りながらも、その表情から笑みが零れていた。
買い物から帰って来た二人は、そこで仕事から車で帰宅した父と顔を合わせた。
遊びから帰って来た弟の透は、ヨーコを見るなり、「誰?」と父に尋ねた。
「新しいお母さんだ・・・冗談だよ。本気にする奴があるか。今日から晩ご飯作ってくれるらしいから」
子供たちへのヨーコの紹介は、それだけだった。
ヨーコは洗い終わったカレーの皿に麦チョコを入れて、「ほれ、餌だ」と、まるでドッグフードのように子供たちに渡した。
「お母さん見たら怒るよね」
恐らく何事にも厳しい躾をして来た母を思い浮かべて、薫は弟に一言漏らした。
この日、日本産のコンピュータゲームであるパックマンを父が持ち帰って来て、立ち所に、弟の格好の遊び道具になっていった。
ヨーコと薫 |
こうして夏休みになって間もない頃、唐突に闖入(ちんにゅう)してきたヨーコとの出会いが開かれていった。
そして、喜怒哀楽をあまり表情に表わさない少女に、恐らく今までにない情感的経験が生まれて、いつもと違う夏休みの一日が閉じていった。
3 世界が変わる
二日目も、ヨーコはやって来た。
自販機の釣銭の取り忘れを捜している薫の前に、昨日と同じくサイクリング車で現れて、「歯が溶ける」と学校で注意されている250mlのコーラ缶を買って与えた。
その際、ヨーコは、「石油があと何年でなくなるか、学校でどう教わった?」と薫に尋ね、「30年」と答える少女に、「私も30年。あれ?おかしいね」と答えていた。
この短い会話の内に、薫にとってのヨーコの存在が、単に「奇麗でガサツなお姉さん」という印象を越える何者か、即ち、国語の得意な10歳のナイーブな少女の心の窓を大きく開かせていく存在性を身体表現していたのである。
映像はその直後、学校で禁止されているコーラを美味しそうに飲む薫を映し出した。
「自転車乗れるようになると、世界が変わるよ。大袈裟じゃなく、本当だから」
薫に対するヨーコの友達感覚のアプローチは、キャッチボールの後、「世界が変わる」自転車のレッスンを開いていった。
神社の境内でスタートしたレッスンは、教える者の本気と教わる者の本気の相乗効果によって、あっという間にマスターするに至った。
自転車レッスンの休憩での、二人の会話。
「前にサドル盗られたって言ったよね。隣の自転車の取り付けて帰ったって」と薫。
「言ったよ」とヨーコ。
「その盗られた人はどうしたの?やっぱり、隣の人のサドル取り付けて帰ったの」
「そうか。そういうことが気になるのか・・・そういうとき、薫はどうするの?」
大人の反問に答えを窮した薫に、ヨーコは子供の読解ラインを計算したかのように、そこもまた正直に反応した。
「人は正直であろうとすると、無口になると何かで読んだ。でも、そういう人は中々いないし、私もなれない。だから尊敬する、薫のこと」
お互いに顔を見合って、微笑を交換した。
子供の視線に合わせたヨーコの裸形の人間的アプローチは、感情を直接的に表現することを抑制してきた少女の心を解放系にしていくが、しばしば、大人の世界のリアリティをヨーコが身体表現するとき、薫は今までもそうであったような対応を表出してしまう。
中古車の販売の一件でトラブルを起こした父の煮え切らない態度を批判するヨーコは、そんな大人の空気に入り込めず、ビールの空きコップの片づけをする薫に、そこだけは完全に大人の感情を表出したのである。
「いいよ、薫。私やるから」
萎縮する薫の表情を見て、ヨーコは自分のストレスの発散の目的もあって、近所にあるという山口百恵の邸宅を捜しに行こうと提案をし、二人は夜の道を軽快なステップで彷徨した。
結局、目的を果たせなかった二人は、夜の遊歩道の一角に腰かけて、興味深い会話を結んだ。
「薫はさ、犬を飼うのと、自分が飼われるのと、どっちがいい?・・・誰かを手下に置いていうこと聞かせるのと、誰かの言うことを聞いておとなしくしているのと、どっちが性に合ってる?」
「分んない。分んないけど、ただ、この間、サイドカーに犬が乗っているの、見たことがある・・・サイドカーに犬が、生まれたときからずっとついているみたいだったの。あの犬になれるんならいいな。あんな風に済ました顔でサイドカーに乗って」
薫は、家族4人がオンボロ車でドライブしているときに見た、バイクのサイドカーに済まして大人しく、堂々と飼い主の横に陣取って座っている犬を思い浮かべた。
その後、薫の父がサイドカー付きのバイクに乗って、二人を迎えに来た。
バイクの後ろにヨーコが乗り、サイドカーには薫が乗った。
夜の街を、風を切って進むこの構図は、まさに薫の憧憬するイメージそのものだった。
清志郎の曲のBGMに乗って弾ける笑顔が、単なる帰宅のためのドライブを、未知の楽園での夢のドライブに変えていることを充分に表現し切っていた。
4 夏休み
薫の父とヨーコ |
薫の父とのトラブルがあって、ヨーコは薫の前で初めて涙を見せた。
いつものように普通の会話をしている中で、菓子を食べながら、少しずつその表情の変化を見せるヨーコが、突然、抑えられなくなって嗚咽したのである。
そんなヨーコの表情の変化を察知しつつも反応できない薫の前で、必死に感情を復元させようと努めるヨーコに、薫は最も本質的なことを尋ねた。
「もう、ここへは来ないの?」
その問いに対するヨーコの反応は、薫の了解ラインに合わせた直接的な言葉だった。
「分んない。でも来なくていいって言われたら、もう来ちゃいけないんだろうね」
その一言を残して、ヨーコは薫の家を出て行った。
映像はその後、薫の父から貰った手切れ金代わりのギャンブルの当り券を換金して、一緒に付いて来た薫に、「あたしの夏休みに付きあってくんないかな」と誘うヨーコの笑顔を映し出した。
こうして、「二人の夏休み」が開かれたのである。
弾ける笑顔の中に、ヨーコと薫が夏の陽光を背にして、躍動していた。
夏休みの宿題用にスケッチする薫と、海岸で、甲殻類のカメノテ(海岸の岩の割れ目などに群生)を採って、それを食べようと勧めるヨーコがいた。
二人はまもなく、浜辺でアイスクリームを売るおじさんの家に宿泊することを決めた。
本職は干物作りのアイスクリーム屋のおじさんの家での夕食は、場違いな印象を与える民宿代わりの家の雰囲気と、同様に場違いな印象を与える二人の関係の構図を、その家の祖母の一言が鋭く射抜いていた。
「あんた、男がいるね。この子、その男の子供だ。あんた惚れちゃいけない男に惚れて、二進(にっち)も三進も行かなくなって、ついその子を連れ出しちゃったんだよ。男の気を引くためだ。奥さんと別れてくれなきゃ、その子、返さないわよって脅す気なんだ。よくある話だよ」
部屋に戻った二人の、その直後の短い会話。
「さっきのヨーコさん、私の知らない人みたいだった」
「そういう私は見たくない?」
「自分がどうしていいか分らなくなる」
アイスクリーム屋のおじさんとビールを酌み交わし、腰の曲がった母親から厭味を言われ、含み笑いをするヨーコの態度に、10歳の小学生は違和感を持ったのである。
翌朝、薫が起きたとき、隣にヨーコがいないことに不安を持って、慌てて外に飛び出した。
南伊豆の海岸で |
ヨーコは海岸でカメノコを採取していた。
昨日まで触るのを嫌がっていたカメノコを、薫は軍手を嵌めて採取していく。
「嫌いなものを好きになるより、好きなものを嫌いになる方がずっと難しいね」
ヨーコは自分の少女時代の話を薫にしたとき、この印象的な言葉を残した。
薫と過ごしたヨーコの夏休みは、帰りのバスの中での二人の笑みの交換の中で閉じていった。
そして、薫の夏休みも帰宅した草々、閉じていくことになった。
薫の母親である良子が、突然、帰宅して来たからである。
「ごめんね、薫。寂しい思いさせちゃって」
これが、母の第一声だった。
娘を柔和に包みながら、母の思いはそれ以上の言葉を繋げなかった。
その母の視線が部屋の奥にまで伸びていったとき、表情が一瞬、強張(こわば)った。
ヨーコの存在が捕捉されたからである。
「人様の家に上がり込んで、何様のつもり?」
ヨーコに近づいて、感情を抑えた言葉を吐き出した。
それでも全く反応しない相手に向かって、「謝りなさいよ」と、今度は感情を強く込めて迫った。
「謝りません」
ヨーコがその一言を放った瞬間、良子の平手打ちが飛んだ。
「許すつもりのない人には、謝っても仕方ないの」
これがヨーコの反応だった。
言葉と同時に、彼女の右手が良子の右肩を突き返していた。
ここから当然ながら、ケーフェイ(格闘技の事前の打ち合わせ)のない、二人の女のキャットファイトが開かれたが、その決着も一瞬だった。
ヨーコの頭突きが良子を痛打して、転倒させたからだ。
ヨーコはそのまま玄関を出て、アパートの階下を降りて行った。
薫は慌ててヨーコを追って行くが、それを階下から薫を制止した。
「ストップ!私、薫のこと好きだよ。薫と友達になれて良かったと思ってる」
それだけを言い残して、振り返ることなく、ヨーコは愛用のサイクリング車で走り去って行った。
『帰って来た母は父に見切りをつけ、私は、山形にある母の実家に引き取られることになった』
このナレーションは、成人となって少女時代を回想する薫自身の言葉である。
このナレーションにもあるように、母は最初から離婚覚悟で、自分の荷物を東京の自宅に取りに来たのである。当然、母には薫を育てる明瞭な意志を持っていた。
回想映像のラストシーン。
中古車販売業に見切りをつけた父は、弟の透を引き取り、姉弟は別れることになった。
そんな寂しさも手伝って、弟とキャッチボールをする父の傍に近づき、父から「やるか?」と聞かれた。
「いい」と薫。
「徹底しているな、お前は。意地張るのもいい加減にしないと、大人になってから苦労するぞ。ま、それもお前の人生か」と父。
この時だった。突然、薫は父に体当りし、何度も腹の辺りに頭突きを繰り返した。
「ワンワン!」
父の顔を見上げて、薫は恨めしそうに、そう訴えた。
そのとき、10歳の少女は犬になっていた。
明らかに、母を頭突きで転倒させたヨーコの真似をしたのだった。
「ワンワン」
娘の気持ちが通じたのか、父も小さく反応した。
娘も「ワン」と小さく答えた。
その後、父から貰った偽造コインを手に持った薫は、誰も見ていないことを確認して、コーラの自販機にそのコインを投入した。警告音が鳴り響き、薫は一目散にその場から走り去って行った。
『夏休みは終わった。あの時しくじった私は、宝くじで大金を当てることもなく、警察のお世話になることもなく、今年30になる』
回想映像は、このナレーションと共に閉じられた。
5 自転車
本作のラストシーン。
釣り堀からの帰り、弟の透から電話があった。
20年前には市場に出回ることもなかった携帯を、薫は手に取った。
20年前に父の愛人だったヨーコが実は隣町に住んでいたという事実を、薫は弟から知らされたのである。
薫はそのまま自転車に乗って、その場所を訪ねて行った。しかしそこは既に駐車場になっていて、ヨーコが住んでいたアパートは、もうそこにはなかった。
そのとき薫は、あの夏の日をまざまざと思い起こした。
毎日ペダルを踏む自転車によって、ヨーコのふくらはぎが固くなっていて、それを触らせてもらったエピソードが脳裏によぎったのである。
「私も毎日、乗ってるよ」
そう呟いて、薫は颯爽と自転車に乗って走り抜けて行く。
堅固な自我を持って構築される日常性を再び更新するために、現在の自分の時間を肩肘張らずに繋いでいくというような、心に余裕を持った泰然としたイメージを残して、映像は静かに閉じていった。
6 成就した「役割設定映画」 まとめとして①
本作は、私が言う所の、典型的な「役割設定映画」であると言っていい。
「役割設定映画」とは、登場人物のキャラクターが、それぞれ他に代替できない役割性を担って、映像の中で様々に身体表現されるという映画のこと。
多くの映画は、多かれ少なかれ、このような性格を帯びた物語の中で成立しているが、それが観る者に特段に気にかかるものにならないのは、その設定濃度が稀薄であるか、それとも、その性格を稀釈化する映像的完成度によって補完されているからである。
例えば、多くの日本人が愛好する黒澤明の「七人の侍」が典型的な「役割設定映画」であったにも拘らず、それを観る者に深く印象づけなかったのは、透徹したリアリティに富んだ映像総体の完成度の高さによって補完されることで、役割設定性が稀釈化されていたからである。
「ノー・カントリー」より |
ところが、リアリティで勝負したはずの「闇の子供たち」という極めて挑発的な邦画のケースを勘考した場合、主人公のジャーナリストが実はペドファイルの当人だったという設定の乱暴さが、その役割設定性を壊し、そこに「記号」としての機能性を強引に当て嵌めてしまったことで、肝心のリアリティを自壊させてしまったのである。
その辺に、映像作りの難しさが伏在するだろう。
では、本作の場合はどうか。
本作の役割設定性の本質は、「もし、ヨーコという超個性的な女性が10歳の主人公の前に出現しなかったら、少女の夏休みが悲惨なものになった」という文脈によって説明できるだろう。
恐らく、長年の間に累積された夫婦の不和がその夏ピークに達し、偶然性の有無は不分明だが、子供の最も愉悦する季節である「夏休み」が開かれる初めの頃に、確信的に家出を断行した母親のいない少女の心象風景はあまりに無残であり、不安を丸抱えした自我が拠って立つ、その安寧の基盤を失って揺動している様態は悲惨ですらあったかも知れない。
「夏休み」という最大の愉悦の季節が、最悪の季節に変貌せんとするまさにその只中に、ヨーコという素性が不明な「奇麗なお姉さん」が出現するや、彼女は不安含みの少女の心を解放し、その発達段階において、初潮を迎える辺りの微妙な時期に差し掛かったはずの少女の自我に、後年に渡って何某かの影響を与えたであろう、近接感のあるホットな人間的アプローチを具現したのである。
そういう意味で、この作品は、自分の感情を積極的に出し入れしない少女の危機を救済する映画であると言えるだろう。
ヨーコという存在の決定的な役割性によってリードされ、その自我の稜線を未知のゾーンにまで伸ばし、全面解放系にしたという意味で、本作は典型的な「役割設定映画」であると把握できる。
結局、ヨーコの役割は「自在に羽ばたきなさい」というメッセージに尽きるだろう。
しかしこのメッセージを、自己表現に抑制的で繊細な少女に要求するのは、極めて高いハードルとなるに違いない。
このハードルを乗り越えるには、少女の感情世界に限りなく寄り添ったアプローチが必要となるのだ。
即ち、少女の視線にまで下りていく必要があるということである。
思えば、ヨーコという女性はがさつで男勝りの印象を与えながらも、少女時代より文学に親しむ感性を持ち、今なお「ヴィヨンの妻」を読む知的感受性を保有していた。
即ち、少女の前で思わず嗚咽してしまう、ある種のナイーブさをもその自我に共存させていたのである。
この複雑だが、ある意味でパンフォーカスな視座を持ち、守備範囲の広い個性的なキャラクターが、10歳の少女の感情世界を把握する能力を持つに至ったと考えられる。
少女の視線にまで下りていくことによって、二人の距離感が決定的に縮小されていったのだ。当然、ヨーコの意識的なイニシアティブなしに成立しない関係様態だったと把握されるのである。
しかし全体の印象には嘘臭さがなく、ヨーコの役割設定性にも特段の不自然さが感じられなかった。
映像総体の完成度の高さによって補完されることで、役割設定性が稀釈化されていたからである。
その意味で、本作は成就した「役割設定映画」であると言えるだろう。
7 「距離」についての映像 まとめとして②
これは、「距離」についての映像であった。
大人と子供の距離である。
この「距離」は、どこまでも少女に対する大人のアプローチの能力に拠って立っていて、大人の側の反応如何によって少女のその時々の対応が形成されていったのである。
しかしヨーコは、「豪胆さの中の繊細さ」という形容に相応しいと思える、一人の自覚的な成人であったが故に、時々、大人の世界を少女の前で露呈することがあった。
少女の戸惑いは、常にそこで生まれたのである。
例えば、父とヨーコが本質的に「大人」の世界の問題で深刻に話し合っているムードを感じ取ったとき、ビールの空きコップの片づけをする薫に対して、ヨーコは「いいよ、薫。私やるから」と言って、子供である薫の「大人の視線に合わせようとする『良い子戦略』のあざとさ」を拒絶したのである。
そのときのヨーコの行動は、完全に大人の視線からの小状況の収め方であったと言えるだろう。
また、大人と子供の距離感を少女が過剰に感受し、それを自己表出することがあった。
薫の父と「手切れ金」を貰って別れたヨーコが、薫と南伊豆に「夏休みの旅行」に行ったときのこと。
干物作りを本職にするアイスクリーム屋のおじさんの家に泊まった際、そこでビールを酌み交わしていたとき、おじさんの母親から、「惚れちゃいけない男に惚れて、二進も三進も行かなくなって、ついその子を連れ出しちゃったんだよ」などと厭味を言われ、それが半ば本質を衝いていただけに、さすがのヨーコも含み笑いをするしかなかった。
しかし、そんなヨーコの若気(にや)けた態度に今までにない距離感を感じた薫には、「自分がどうしていいか分らなくなる」という反応をする以外なかったのである。
10歳の少女の内側には、「相手の厭味を受容する若気(にや)けた『大人』」としての、ヨーコへの人格イメージが形成されていなかったのである。
偶(たま)さか、子供じみた悪戯をしたり、奇抜な行動を身体化したりしても、どこまでも少女の中で、ヨーコの存在は物事に毅然と対処する積極的で、自立的な人格イメージの内に結ばれていたのだ。
そんなイメージが崩された少女にとって、大人と子供の距離感を感受するばかりだったのである。
それでも、少女の側から「大人」であるヨーコとの距離を埋めようと素朴にアプローチすることもあった
自転車レッスンの休憩での、二人の会話の中で、薫はサドルを盗んだヨーコに、「その盗られた人はどうしたの?やっぱり、隣の人のサドル取り付けて帰ったの」と聞くことで、柔和に迫ったのである。
このときの少女の心理は、最低限の倫理規範について厳しく躾けられてきたであろう母親からの影響を受けていて、そんな母とは違うずぼらな父にも似た行動を平気で犯す、「大人」の行動規範の逸脱性が気になったのである。相手が自分にとって極めて近接感を感受する「大人」であるが故に、少女は相手の反応によって確認できるラインの中に距離の縮小を願ったのだ。
「そういうとき、薫はどうするの?」と反問され、答えられない少女に、一人の「大人」であるヨーコは、「人は正直であろうとすると、無口になると何かで読んだ。
でも、そういう人は中々いないし、私もなれない。
だから、「尊敬する、薫のこと」と答えることで、少女の小さくも、気になったらそれを確認せざるを得ない自我を納得させたのである。
何より、子供の疑問に正直に反応するヨーコの態度に、少女は驚きを禁じ得なかったとも言えるだろう。
―― この章をまとめてみよう。
ヨーコの人格から発散されるエキスを少女が存分に吸収することができたのは、少女の中になくて、少女がどこかで憧憬するメンタリティや行動傾向を、ヨーコの中に発見できたからである。更に言えば、そこで発見したものを自分の内側に吸収する能力が、10歳の少女の自我の内に形成されていたからである。
しかし所詮、10歳の少女が、自分の父ほどの年齢の男を愛する成人女性の内側深くに侵入することなどできようがない。
その逆はあり得ても、年少故に大人の感性に到達し得ない少女には、自分の視界で捉え得る相手からのホットなアプローチが差し伸べられない限り、関係の近接感は保持し得ないのである。
だからこの関係はどこまでも限定的であり、条件制約的であり、受動的である外はないだろう。
そこに微妙な感情の落差が生まれ、その落差によって関係の距離感の近接性が崩されるのである。
少女の場合も、この文脈をなぞっていた。
それは、大人と子供が結ぶ関係の本質的な限定性であるだろう。
本来、大人と子供の関係とは、基本的人権においては「平等」ではあるが、それぞれの条件において、完全に「対等」であるとは言えないのだ。
10歳の少女が、成人女性の身体表現を受容し得る条件制約性の中でしか成立しない、その関係が包含する矛盾が飽和点に達したとき、その関係にピリオドが打たれるのは必至だった。
映像の二人のケースは、相手の男、即ち、少女の父親との関係の縺(もつ)れを原因子にしていたが、それは本来、禁断の愛が自壊する必然性の問題の内に還元されるものだったと言っていい。
だからこの二人の極めて特殊な関係は、「自在に羽ばたきなさい」というメッセージを残して、困難な状況下に置かれた少女の夏を、「風の又三郎」の如き疾風によって駆け抜けていった一人の成人女性との、その思い出深き睦み合いの邂逅と別れを必然化する枠組みの内に規定されていたのである。
「距離」についての映像の鮮度が抜きん出ていても、結局は映像総体の完成度の高さによって補完されることで、稀釈化された役割設定性から完全なる武装解除を具現することができなかったのだ。しかしテーマ性の陳腐さと共に、そのことが全く映像の瑕疵(かし)になっていないということ自体、充分に評価に値する何かであった。
それは多分に、原作、シナリオ、演出、そして何より、「器が大きいのか、それとも漏れているのに気付かないだけなのか、ミステリアスな男だよ」(薫の父に対する仕事仲間の評価)と言わしめる父親役の男優も含めて、主役の二人を演じた女優の天晴れな演技力に依拠するものであったに違いない。
8 サイドカーの犬 まとめとして③
ここでは、思春期にまでほんの少し遠い年齢にあった少女、薫について言及したい。
本作が、なぜ回想シーンという形式を必要としたのだろうか。そこから書いていく。
それは単に、少女時代の忘れ難き思い出を振り返るという感傷的なラインではなく、端的に言えば、現在、不動産の営業の仕事している30歳になった独身女性の薫の中で、20年前のヨーコとの関係を通して明らかに影響が見られる描写を導入したかったからであろう。
その一。
それは本稿の冒頭でも触れたが、留守番を頼まれた釣り堀で、小学4年生の女の子に釣りの餌を一緒に付けるシーン。
このシーンは、20年前にヨーコと南伊豆へ旅行に行ったときのエピソードに対応するものである。そのエピソードについては、本稿でも書き添えておいたが、海岸でカメノコを採取するという印象深いシーンがそれである。
昨日まで触るのを嫌がっていたカメノコを、薫は軍手を嵌めて採取していくが、その際、ヨーコが薫の手を取って採取する描写の伏線にあったのは、一時(いっとき)、「にやけた大人」の世界を垣間見せたヨーコに対して距離感を感じた少女の感性の振れ方であった。
そこで、少女の中に自ら積極的に未知のゾーンに踏み入っていくことで、二人の距離感覚を埋めようとする健気な努力を後押しする思いが生まれ、それを身体表現して見せるという前向きな振れ方を副産物にしたのである。
ともあれ、この描写は映像の冒頭での釣り堀の描写に対応していて、明らかに不動産の営業で働く大人になった薫の自我に影響を残すものだった。
その二。
ラストシーンで、有給休暇中に自転車のペダルを漕ぐ薫が、ふっと20年前の小さなエピソードを思い起こしていた。
ドイツ製のサイクリング車を毎日乗り回すヨーコが、自分の固くなっているふくらはぎを少女に触らせたエピソードがそれである。
それは何より、「世界が変わる」と言う彼女によって自転車訓練した日々こそが、回想の起点にあったことを想起させるものであった。その懐かしき日々を同時に思い出す30歳の薫が、今ここにいて、自分のペースを崩さずに呼吸を繋いでいるのだ。そこにもまた、あの夏の日々を共有したヨーコの影響が見てとれるだろう。
少なくとも、本作の作り手は、ヨーコによる影響力を多分に残す場面を、成人した薫の回想シーンの中で強調しているのである。
―― 次に本作のエッセンスとも言うべき、「サイドカーの犬」というメタファー的な語彙(ごい)の意味について考えてみたい。
薫が中古のマイカーを運転する家族旅行の車内から視認した、「サイドカーの犬」の印象について触れた背景には、ヨーコからの鋭い問いかけが前提になっていた。
「犬を飼うのと、自分が飼われるのと、どっちがいい?」
ヨーコはその後、もっと直接的に問いかけた。即ち、「誰かを手下に置いていうこと聞かせるのと、誰かの言うことを聞いておとなしくしているのと、どっちが性に合ってる?」と。
このヨーコの発問に言葉を窮した薫が吐露したのが、「サイドカーの犬」のエピソードだったのだ。
少女はこのとき、「サイドカーに犬が、生まれたときからずっとついているみたいだったの。あの犬になれるんならいいな」と答えたのである。済ました顔でサイドカーに乗っている犬の凛とした印象に感銘を受け、それを自分の憧れとしてヨーコに話したのである。
要するに、誰かを手下に置くのも嫌だが、だからと言って、誰かの言うことを聞いておとなしくしているのも拒否したい。自分は今子供だから、大人の庇護を必要としているが、しかし大人の言うことを唯々諾々として命令に服するのも好まない。
未だ思春期に達しない幼さを残しているが、そんな大人びた感情を言語化する10歳の少女が、突き抜けて自立的なヨーコという成人女性のポジティブな行動傾向への憧憬を乗せて、そこに深く呼吸を繋いでいたのだ。
恐らく少女にとって、「サイドカーの犬」の原イメージには、未だ自立できる年齢に遥かに届かない少女が、快適な時間と空間を誘導してくれるべきドライバー(=父親)への憧憬が多分に含まれていたように思われる。
現に、この話をヨーコにした後、サイドカーをつけたオートバイに乗って、少女の父親が2人を迎えに来て、帰宅のドライブを愉悦する描写が挿入されていた。
父親の後方に、ヨーコが満面の笑みで同乗し、そのヨーコと笑みを交換する少女の至福の表情が印象的に映し出されていたのである。
少女にとって「サイドカーの犬」の原イメージは、自立できる年齢に届く前に、素晴らしい夢に溢れた世界に誘導してくれる父親、或いは、家族像への憧憬が張り付いているのだ。
しかし、回想映像のラストシーンで、薫が家族を分解させた原因者でもあった父親に対して頭突きを加え、「ワンワン」と吠える描写は、明らかに、少女が夢見る「サイドカーの犬」の原イメージを破壊する者への抗議であると見るべきであろう。
頭突きという手段を使ったのは、自分の母に対するヨーコの攻撃的手段を真似たものだが、しかしこのプロテストはヨーコの影響と言うよりも、自分の原イメージを壊されたことに対する少女なりの不満の表出であった。
少女はその後、父から貰った偽造コインでコーラ自販機を利用しようとして警告音を発せられ、慌てて退散するという描写の挿入を見る限り、少女にとって父に対する不満の表出は、犬の真似をしてプロテストする程度で自己完結する何かでしかなかったに違いない。
どこまでもこの少女は、未だ10歳の小学生であるという制約から自由になり得る突破力を備えている訳がないのだ。少女の悪戯を追いかけていったナレーションもまた、その心理をなぞる内容だった。
やはり少女にとって、10歳の夏休みは、他の学年の何ものにも代え難い貴重な経験を学習した時間であったということだろう。
9 秩序破壊のヒーロー(ヒロイン)の幻想譚 まとめとして④
常々思うのだが、いずれの国の映像表現者も、子供を主人公にした作品を製作し、演出するとき、なぜかそこに例外を見出すのが困難になるほど、多くの場合、「大人VS子供」という二項対立の構図を前提化して、「大人は判ってくれない」式のストーリーラインを構築してしまうようだ。
そしてしばしば、そのストーリーラインの中枢に、「秩序破壊のヒーロー(ヒロイン)」を登場させ、「大人の横暴に甚振られる幼気(いたいけ)な子供」の危難を救出する役割を演じてくれるという定番的パターンを介在させることで、救出された子供に秩序破壊の正当性を説諭し、了解させるに至るのである。
いずれの国の映像表現者も、押し並べて「権力」、「体制」、「権威」を厭悪(えんお)するという心理的文脈の延長線上に、「子供の天敵としての大人」を糾弾して止まないようだから、彼らが描く映像作品の多くは極端な二項対立の構図を構築してしまうのだ。
それが映像表現者の宿痾(しゅくあ)であると思えてしまうほど、どうも彼らの過剰さの根源に横臥(おうが)するナイーブさに、正直、私は閉口してしまうのである。
例えば、本作の場合、主人公の薫が楽しいはずの「夏休み」をブルーに染め抜かれる、まさにそのタイミングを測ったようにして出現した(実は、薫の父親に妻なき家庭の食事の世話を依頼されたから)ヨーコの余りある豪胆さが、「母の不在」を感受させないほどに関係の空洞感を完璧に埋めてしまうという、言ってみれば、「急転直下の救出譚」を構築するストーリーラインの予定調和性の根柢を支え切ったのは、ヨーコという名の「秩序破壊のヒーロー(ヒロイン)」の全人格的表現力であった。
この「秩序破壊のヒーロー(ヒロイン)」は、「風の又三郎」のようにやって来て、倫理的に過激な破壊性を持たない程度において、乳歯が永久歯と抜け替わる時期の最後の季節の辺りで、「サイドカーの犬」のように道路の左側のみを歩く秩序順応性の高い少女に対して、「秩序破壊マニュアルの小学生版」を植え付けたが、しかしそれ以上に、自転車操作に象徴される「世界が変わる時間の醍醐味」を、その人格表現の最近接感の只中で経験させた挙句、最後に少女の実母に頭突きを喰らわす行為によって颯爽と消えていったのである。
根岸吉太郎監督 |
既に、秩序順応性の高い少女の自我を形成した主体的媒体が、少女の実母であった事実は否定しようがないのである。そんな少女の自我の形成的基盤が構築されていたからこそ、少女の飛翔が可能だったのであり、良かれ悪しかれ、成人化した営業ウーマンの秩序だった堅実な人生行路を保証したのもまた、彼女の実母であったという事実を無視し難いのだ。
映像の中で描かれる少女の実母の印象は、家族を捨てた「悪い大人」のイメージの枠内に収納されていた分、頭突きを喰らわして颯爽と消えていった「秩序破壊のヒーロー(ヒロイン)」のイメージが些か良好過ぎたのは、初めから、「子供の天敵としての大人」の規範を破砕するラインの内に物語が構築されていたからである。
本作もまた、数多の「大人VS子供」という二項対立の構図から解放されていなかったと言えるだろうか。
(2009年9月)
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