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2009年11月18日水曜日

アニー・ホール('77)  ウディ・アレン


<自分の狭隘な「距離感覚」の中でしか生きられない男>



1  コメディの本道を外さない、毒気に満ちた心理描写の連射



 「ナイトクラブのコメディアン、アルビーと歌手志望のアニーがここニューヨークで出逢い、ナーバスな恋が始まった。なんとなくうまくいっていた2人だが、アニーは人気歌手トニーからハリウッド行きを勧められ、引き止めるアルビーも虚しく旅立つ決意をしてしまった・・・。刺激に富んだウイットとちょっと危ないユーモアで綴るウッディ・アレンの代表作」(ワーナーホームビデオ・ジャケットより)

 こんな簡単な説明でプロットが要約できるラブコメディだが、ナイトクラブのコメディアン、アルビーの心理描写の連射によって、スラップスティック的な滑稽な台詞や、大袈裟な仕草のフラットな散布に流すことなく、既成のコメディー・ムービーのシンプルな文法を変容させた革命的一篇。

 しかしそれでも、映像で連射される心理描写を、当然の如く、寡黙な映像のカテゴリーに収斂させず、初めから終わりまで、アイロニー、ブラック・ユーモアやスノッブ的な衒気(げんき)による留まることのない饒舌の洪水や、映像分割、状況や時系列を無視したシュールな描写、観客に直接語りかける「第四の壁」(観客席との間に存在すると仮定する眼に見えない壁)の突き抜けによる描写のリアリズムの否定、等々といった映像技法の駆使によって貫徹した、如何にもウディ・アレンらしいアンチ・ハリウッドの挑発的映像の括りもまた、コメディの本道を外さない毒気に満ちていた。

 因みに、映像の括りは、以下のアルビーの言葉によって閉じられている。

 「精神科医に男が、『弟は自分が雌鶏だと思いこんでいます』
 医師は、『入院させなさい』
 男は、『でも、卵は欲しいのでね』

 男と女の関係も、この話と似ています。およそ非理性的で、不合理なことばかり。それでも付き合うのは、卵が欲しいからでしょう」


 要するに、「アカデミー作品賞」という名におよそ相応しくない映像の作り手を確信的に自認するからこそ、ウディ・アレンは世界映画祭の最大級のレッドカーペット・セレモニーに出席しなかったのだろう。



 2  自分の狭隘な「距離感覚」の中でしか生きられない男



 そこそこに人気のあるピン芸人(話芸で観客を笑わせる漫談家という意味で、欧米では「スタンダップ・コメディアン」と言う)の皮肉屋は、なぜか女にモテて、生活にも不自由しない中年男。

 「私を会員にするようなクラブには入りたくない。これが、女性関係での僕の気持ち・・・アニーと別れたが、未練はある。今も二人の関係とか、なぜ、それをぶち壊したかを考えている。一年前は愛し合っていたのに。でも僕は、ガックリ落ち込む性格ではない」

 そして、相当程度ペシミスティックな男の対異性観には、以上の映像冒頭シーンでの吐露に集約されるように、好悪感情が激しく、選別意識も甚だしい、極めて厄介な性格の御仁である。

 自分が特定的に選別した異性の対象人格に赴くのはOKだが、自分の誘惑に簡単に乗って来る女を受容できないと放言する極め付けの天の邪鬼、ウルトラ自己中心主義。

 卑屈さをも垣間見せるそんな放言の根柢には、自分の感情許容値の狭隘さが丸出しにされた傲岸さを露呈していると言っていい。

 「ロブスターは食べたいが、触るのは嫌だ」という男の感覚基準が、この男の性格傾向を決定づけているのだ。

 15年間も精神科医に通っている男の「病理」が垣間見られるとしたら、まさに精神科医を必要とせざるを得ないこの男の、その「病識性」それ自身によって説明できるものだろう。

 そんな男が、自分より遥かに年下の美女(アニー・ホール)に恋をして、あっという間に同棲生活に入った。


 ところが、ロブスターのエピソードに象徴されるように、ホットな感情全開のデートで会っているときは、その幻想の魔力によって存分なほど至福な思いに満たされるが、いざ物理的共存を具現するとなると、相手の欠点ばかりが気になって仕方がないという始末の悪さは、本質的にこの男が、「自分の距離の最適感覚」(パーソナルスペース)の中でしか充足できない類の、対異性観の艱難(かんなん)さを持ち合わせていることを証明するだろう。

 自分の中にあって、自分が嫌う性格を相手に見たとき、この男はその相手を絶対許容しないというような典型的なタイプの人物なのだ。


 同棲したアニーに精神科を勧め、大学の受講を勧めたにも拘らず、立ち所に悋気(りんき)するという感情を惹起させる心理的文脈は、この男が同棲相手の美女を独占的、且つ、全人格的に求めていることを露呈するものだが、それでも物理的共存を継続できない男のエゴイズムと、そこに張り付く過度な神経質ぶりがネックとなっていると把握し得る、男の自己分析は決して間違ってはいないのだ。

 別れたアニーを追って、嫌いなロスに長時間に及ぶフライトを敢行するほどに、この男は、「自分を捨てて『距離』を作った女」であるが故に彼女への全人格的価値を認知し、もう会わずにいられないという厄介な性癖。

 要するに、自分の狭隘な「距離感覚」の中でしか生きられないのだ。

 相手から求められると腰を引き、肝心のセックスもままならない。こんな男が自分のサイズに見合った女を探し出すのは容易ではないだろう。



 3  「惨めさと悲惨さ」について語る男の人生の風景




 ここに、ア二―に「死の否定」という本を買ってやると言って、勧めたときのアルビーの台詞がある。

 「僕の強迫観念は『死』なんだ。大きな課題だ。僕は実人生には悲観的でね。人生は悲惨で惨め。この二つしかないと思っている。悲惨な病人や体の不自由な人。他の者は惨めだ。惨めなのも生きている証拠。感謝しなくちゃ。惨めなのは幸運だ」

 嘯(うそぶ)いているように思えるこの言葉には、相当のリアリティがある。

 自分の「距離感覚」の中でしか生きられない、この男の人生の価値基準のハードルはあまりに高く、対人関係によって心の空洞感を満たすのは殆ど困難であるか、無い物強請(ねだ)りに等しいと言っていい。

 男はそのことをきっちり認知しているが故に、「惨めなのも生きている証拠。感謝しなくちゃ。惨めなのは幸運だ」と吐露せざるを得ないのだ。

 当然の如く、この男の「距離感覚」の中で生きられるパートナーは限定される。


 唯一、ア二―だけが男を一時(いっとき)至福にするが、それも相手の人格の裸形の様態を見せつけられるほどに自我を解放系にする状況性、即ち、物理的共存を具現するとなると、その関係の継続力は途端に委縮し、先細りの様相を呈してしまうのだ。

 「アルビー、正直言って2人の関係はもうダメね」とア二―。
 「関係と言うのはサメと同じで常に前進していないと死ぬ。僕たちの関係はサメの死骸だ」とアルビー。

 大体、「常に前進していないと死ぬ」と決めつけるような関係は疲弊するだけだろう。

 なぜなら、物理的共存を継続すればするほど、自我を解放系にせざるを得ないのが人間関係の宿命であるからだ。自我を解放系にすることによって、自分の醜悪な姿態や内面を晒しつつ、それを許容する関係の鷹揚さに我が身を預け入れていくのである。

 再会したロスで、男は女に最後通牒を突きつけられたのも当然のこと。

 「あなたは人生を楽しめない人なのよ。ニューヨークに縛られて、島みたいに孤立して」
 「一人でも餓えた人間がいてはだめだ。僕は何も楽しめない」

 それでも男は女にプロポーズするが、ロスで自己実現の時間を構築している女からの反応は、「友達でいましょう」。

 「僕を愛しているくせに何だ」

 男は、「自分を捨てて『距離』を作った女」に対して、空洞感の大きさの分だけ魅力を感じてしまっているのだ。

 「今の時点では、愛しているとは言えないわ。そりゃ、あなたはいい人よ。お蔭で世の中に出て歌も歌えるわ。自分の感情の整理もついたし・・・」

 これが女の答えだった。

 そして、狭隘な「距離感覚」の中でしか生きられない男に相応しいラストシーン。

 別れた女との物語を脚色し、それを芝居にすることによって、束の間の幻想の関係を自分の都合の良いように神話化し、それが最も重要なことと把握しつつ、そこに心の安寧を作り出すトリックの内に自己完結を果たしていくのだ。


 結局、男の愛の振れ方は、この男がその内側に仮構した物語の中でしか、女と愛情交歓できない厄介さを持っていることを意味するのかも知れない。

 「僕は、ガックリ落ち込む性格ではない」と言いながらも、常に死についての厭世的な思考を巡らさざるを得ない、この男のペシミズムと付き合うのは、この男の本質、即ち、「惨めさと悲惨さ」という言葉に集約される辺りにまで肉薄することなしに、男との価値観の共有も覚束無いし、共存することさえ叶わないだろう。

 そう思わせる映像だった。

(2009年11月)

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