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2009年11月5日木曜日

レナードの朝('90)   ペニー・マーシャル


<「爆発的奇跡」―― ロマンチシズムへの過剰な傾斜という凡作の極み>



1  隔離施設の中の治療的試み



1969年夏 

ブロンクスにあるベインブリッジ病院。 慢性神経病の患者専門の病院である。

臨床医の応募のために、セイヤー医師は当病院の面接を受けて、何とか就職できた。

彼は5年かけて、4トンのミミズから1デジグラムの髄液を抽出する研究していた男。人馴れしていない印象が、彼の一挙手一投足から伝わってくる。

硬化症、トウレット症候群、パーキンソン病等々の患者を収容している当病院は、「神経難病病院」という名の隔離施設と化していた。

「治療などありません。ここは庭ですよ。水と栄養をやるだけ」

これは、赴任早々のセイヤー医師が、同僚となる医師に言われた言葉。

不断に動き回ったり、意味不明な言葉を撒き散らしたり、といった患者たちの喧騒の世界に、それまでの医師たちがそうであったような適応の仕方で吸収されていくことに対して、ミミズ研究一筋のセイヤー医師は違和感を持ち、彼なりの適応様態を開いていった。

ルーシーという新しい患者の臨床の中で、セイヤーが投げたボールをキャッチする患者の現実に驚いた彼は、早速、その「成果」を病院のスタッフに報告するが、彼らは、セイヤーの進言を、「反射行動」と決め付けて相手にしなかった。

「新任で意気込んでいるんだろ」と一笑に付されたのである。

セイヤーとエレノア
しかし、セイヤーは看護師のエレノアの協力を得て観察を続けた。

そして、ルーシーと同じ症状の患者たち15名が、音楽やトランプなどの固有の刺激に反応を示すことを発見したのだ。

「非定型精神分裂」、「非定型ヒステリー」、「非定型神経障害」などという病名を付与させられていた一群の患者たちを、“定型の何とか”にしようと努めた結果、セイヤーは「皆、1920年代に流行した嗜眠性脳炎を患っている」というデータを基に、「嗜眠性脳炎」と特定したのである。

当時、「眠り病」と呼ばれていて、幼少時に発症した原因不明の病気を研究していた医師と会って、セイヤーは彼から、自分の力で何もできない当時の患者たちの8ミリを見せてもらって、ほぼ確信に達していった。

「脳が機能を失ってしまったから、頭の中では何も考えてない」

このような把握を持つ老医師の確信的断定にセイヤーは疑問を持ち、それを検証するために、相手が投げたボールをキャッチした行為を「反射行動」と決めつけられたルーシーを、改めて実験するに至った。

その結果、病棟の窓から外の風景を見る彼女の脳内で、「思考」や「感情」の片鱗が窺えたのである。

セイヤー医師が次に関心を持ったのは、突然の発症のため、11歳の時に学校を退学するに至ったレナードだった。

「病状は徐々に悪化して、部屋に行くと放心状態で座っているの。それが一時間も二時間も続き、また正常に・・・ある日、勤めから帰るとベッドに寝ていて、“ママ、ママ”と言い続けていた。それが最後の言葉で、あの子は“消えて”しまった。同じ年に、今の病院に入院させたの。正確には、1939年の11月14日よ」

これは、セイヤー医師に語ったレナードの母の言葉。

レナードと母
30年間の「眠り」の生活をベインブリッジ病院で送っている中年患者、それがレナードだった。

セイヤー医師は、以降、「嗜眠性脳炎」と目される患者たちへの「治療」を集中的に遂行していく。ボールのキャッチング、そして、「アリア」などの独唱歌曲を流す音楽療法、等々。

特定の音楽のみに反応する患者、ナースが支えると歩行する患者、トランプゲームで誰かが最初の一枚を切ると、一斉にそこにいる患者たちが自分のカードを切って出すという、「反射行動」とも言える行動類型が見られ、しかもそこには個人差が認められたのである。

とりわけ、レナードに思考行動が存在すると予想したセイヤーは、彼に付き切りで、自力で表現できない、その内面世界深くに踏み込んでいった。

その結果、セイヤーは、リルケの「豹」という詩を愛読していたレナードの過去の記憶と出会うことになったのである。


鉄柵の間から外を眺めつづけたあまり

彼の目は力を失い

世界は無数の鉄柵となって

その向こうの世界は失われた

小さい輪を描いてぐるぐると堅い足取りは

踊りの儀式のように麻痺した意志の周囲をめぐる

時折り 瞳の帳(とばり)が音もなく上がり 形をとらえ

それは緊張した無言の肩から

心臓に伝わり 息絶える


この一篇の詩の中で端的に表現された、無機質の檻の中から世界を見る「豹」の無念さこそが、レナードの30年間の「眠り」の内実だったのだ。



2  覚醒



Lドーパ(レボドパ)という薬剤がある。

それはドーパミンの前駆物質であり、アミノ酸の一種として、脳内でドーパミンに転換され、当時からパーキンソン病の症状を改善する新薬として注目を浴びていた。

セイヤー医師は学会の発表会に出て、「嗜眠性脳炎」の治療薬にLドーパが有効であると考えた。

「極度の痙攣は静止状態に見えるのでは?様々な症状が全て極度に進行したら、全身が硬直して石像のようになる」

当学会で発表した薬学士に、セイヤーは以上の仮説を問うたが、「臨床は医者の仕事だ」と相手にされなかった。

しかし自分の仮説を治験する強い意志を持って、彼はベインブリッジ病院の院長に「家族の同意書を取る」という条件でLドーパの投薬使用の許可を得たのである。

その対象人格は、既に特定されていた。レナードである。

「あの患者たちは、内部では正常なのです」

そう確信するセイヤーは、早速、レナードの母親の同意を取るための話し合いを持った。

「パーキンソン氏病だったの?」
「症状は似ているのですが、違います」
「その薬にどういう効果が?」
「それは分りません」
「予想では?」
「さあ・・・別の病気のための薬なので・・・」
「どんな希望が?」
「息子さんを連れ戻せたらと・・・」
「どこへ?」
「この世界へ」
「あの子のために、この世に何が?」
「あなたが・・・あなたがいます」


投薬療法に半信半疑なレナードの母から何とか同意書を取って、いよいよセイヤー医師によるレナードへの投薬が始まった。

最初はジュースの中に、次にミルクの中に溶かして、そして少しずつ増量しながらLドーパの投薬は続いたが、効果はなかった。セイヤー医師は最後に、Lドーパを直接、水に溶かしてレナードに飲ませたのである。

数日後の夜半の病棟。

セイヤーは、信じ難き光景を目の当たりにすることになった。

ベッドに寝ているはずのレナードが、そこにいなかったのだ。レナードは病棟の食堂のテーブルでクレヨンを右手に持って、自分の名前を書いていたのである。

「とても静かだ・・・僕は眠ってない」

それが、レナードが映像の中で語った初めての言葉だった。



3  氾濫から叛乱へ



レナードの、母との初めての対面。

自分の両足でしっかり立って、両腕を大きく開き、「ママ、ママ」と言って、笑顔の中で母を迎えるレナード。

映像が用意した、最初の感動のシーンである。

瞬く間に、病院中に驚異と感動が広がった。

30年後に覚醒したレナードが、セイヤー医師が撮ったポラロイドカメラの写真を見て驚いた直後、自ら鏡を覗いて、初めて時間の経過を知ったときのレナードの当惑は、自分の現在を受容できない感情だったのか。

「眼を閉じるのが怖い。一度、眼を閉じると…」

就寝前に漏らしたこの言葉は、「現在」と「過去」を簡単に接続できないレナードの実感が切実に溢れるものだった。

翌日、セイヤー医師がレナードを随伴して、「文明」を体験させる旅を開いていく。

初めての髭剃りに戸惑いながら身支度を整えて、レナードは30年振りのブロンクスの街に出て行った。

セイヤー医師の運転で、車内から覗き見るブロンクスの街は、車の洪水に溢れていて、「浦島太郎体験」を彷彿させるレナードの心には、視界に入るもの、聴覚が捉えるものの全てが新鮮だった。

ロックンロール、派手な女性の服装とミニスカート、ジェット機の轟音、汚染を知らない水辺での戯れ、等々。

レナードにとって、「神経難病病院」としてのベインブリッジ病院の外に広がる世界に触れたことの意味は、ある意味で心地良くも、名状し難いほどに刺激的な経験であっただろう。


革命的とも言える、レナードの治験における成功例が後押しとなって、セイヤー医師は病院長を説得し、遂に他の「嗜眠性脳炎」の患者と目される人たちに対して、Lドーパの使用の許可を得るに至ったのである。

奇跡が起こったのは、Lドーパの使用からまもなくのことだった。

夜半の病棟で、何人かの患者たちが自らの脚で立ち、動き、自分の名を独言し、その思いを言葉に変えているのだ。

やがて病棟中の患者たちが、同様の行動を結び、まるでそれは、この世に初めてその姿を見せたことの驚きを繋いでいるようだった。

セイヤー医師の初めての臨床患者であったルーシーもまた、その例外ではなかった。

「とても変な夢を見てたわ」

それが、映像で見せる彼女の初めての肉声だった。

「ルーシー、今年は何年かな?」とセイヤー。
「1926年よ。バカね」とルーシー。彼女には、33年間もの年月が存在しなかったのである。

そして、一日だけの患者集団の「ピクニック」。

貸し切りバスを利用しての「ピクニック」には、植物園の見学あり、ダンスホールあり、

一方、「ピクニック」に行かなかったレナードは、一目惚れの相手との柔和な懇談に終始していた。彼女の名はポーラ。

明らかに、Lドーパの使用によって性的感情の亢進が見られたのである。この推進力は、まもなくレナードの「叛乱」の布石となるものだったが、当然ながら、そのことの因果関係を予想できた者は少なかったであろう。

「私がいなければ、あの子は死んでしまうわ」

これは、レナードの母の憂慮。この憂慮もまた、この年の夏の終わりに現実のものとなっていく。

そんなレナードから、夜半、セイヤー医師に話をしたいという連絡があった。

殆ど使命感のみが推進力となっている就眠中のセイヤー医師は、直ちに病院に赴き、レナードの突飛な話を聞くことになる。

レナードはセイヤーに力強く訴えた。

「皆に知らせるんだ。生きることの素晴らしさを。持っているものの尊さを教えてやらなきゃ。人生は喜びだ。尊い贈り物だ。人生は自由で素晴らしい!我々は感謝の念を忘れている。仕事、楽しみ、友情、家族への感謝を」

今や、Lドーパの顕著な効用によって、溢れる自分の蓄電した熱い思いを、彼は朝の5時まで喋り続けた。この推進力も、恋の力に依拠する面が大きかった。

彼は自由にブロンクス、延(ひ)いては、ニューヨークの街を羽ばたきたいのである。

セイヤーにその思いを伝えたレナードは、本人の出席の中で開かれた臨時の理事会において、自分を含む患者たちの自由散歩の許可を強く求めるが、当然の如く、病院サイドから拒否されることになった。

その直後の、レナードと医師との短いが、重要な会話。

「何かあれば、責任を問われる」とセイヤー医師。
「あんたは何と?」とレナード。
「僕の意見は弱い」とセイヤー医師。
「賛成を?」とレナード。
「そうだ…安心するのはまだ早い。あの薬は実験段階だ。もっと観察を…」

激怒したレナードは自由散歩を強行しようとして、力ずくで阻まれた。

レナードの母は、息子の異様な変貌に驚いて、セイヤー医師に訴えた。

「別人みたい。あの子を変えてしまったのね!」

別人になった当のレナードは、遂に「叛乱」を惹起するに至った。

強行突入の事件の結果、閉鎖病棟に強制収容されたレナードは、今度はそこに捕捉されている「同志」たちの先導に立って、激越なアジ演説を放っていくのだ。

「病人は奴らだ!奴らこそ治療すべきだ!我々は最悪の経験を生き延びた。連中は違う!それを恐れている!俺たちからあることを学んだからだ。答えの見つからない病気があることを、我々から学んだからだ!それを分りもせず、病気を治せると思うか?」

30年間もの「眠り」の中で失ったものを奪回せんとする者のように、時折、筋肉を引きつりながら、吠えまくっている一人の中年男が、病棟の中枢を支配し切っていた。

「奴らが悪い!」

レナードのアジ演説に反応する患者たちの昂揚もまた、一つのピークアウトに達していた。

20人の患者たちのハンガーストライキを惹起するに至り、彼らの「自由の保証」を追認しようとするセイヤー医師の要請に対して、病院長は突っぱねた。

「彼は救世主ではないんだよ。彼は病人だ。奇跡で甦ったのではなく、薬のお陰だ。実験段階のね」
「他の患者に異常は・・・」
「投与期間の違いさ・・・彼の気持はよく分る。だが、他の患者の健康の方が大事だ」

この病院長の言葉に、セイヤーは反論すべき何ものもなかった。

レナードと話をするために、彼はその足で閉鎖病棟に赴いた。

「君の行動は皆、薬の副作用なんだよ」とセイヤー医師。
「僕は病気と闘って、やっと戻って来た。30年だぞ。30年間、闘い続けた。今も闘っている。眠っているのはあんただ!」
「薬が必要だろう?朝起きて薬がなかったら?」
「うるさい!」

そう吐き捨てて、レナードはセイヤー医師を突き飛ばした。

この粗野で鋭角的な会話の中でも、断続的に続いていたレナードの痙攣発作が激化していた。この事実は明らかに、Lドーパという治験薬の効果が稀薄になってきた結果、レナードの現在の症状が抜き差しならない状況にあることを身体化していたのである。

再度、閉鎖病棟を訪ねたセイヤー医師に、「助けてくれ」と哀願するレナードがそこにいた。彼はもう、自分の意志で歩行が困難になる兆候が現出していたのだ。

そんなレナードの状態を病院長に説明したセイヤーは、彼を閉鎖病棟から解放する許可を得るに至った。

これが、レナードの「叛乱」の全てだった。



4  ラストダンスの眩さの中で



薬の副作用による、レナードの筋肉痙攣の重い現実が病棟内を染色し、そこだけは特段に目立つようになっていた。

「薬は効かなくなるの?」
「私達もいずれ、彼のように?」

レナードの痙攣の発作を目の当たりにした患者たちの不安が、病棟内を駆け巡っていたのだ。

「皆が彼のようになるという根拠は何もない。皆、違う人間だ。皆、異状ない」

セイヤー医師は、そう答える他になかった。

自らの意志で自らの体を自在に操作できなくなっている現実を認知する中で、レナードは自分の症状の変化について日記に記していく。しかもそれを、セイヤー医師に頼んで8ミリに記録してもらっているのだ。

「気分が悪いというより、何も感じない。死んだように何も感じない。僕は人間でなく、痙攣の塊に思える。どちらが支配者なのか・・・とにかく、病気には違いない・・・」

それでもレナードには、薬剤しかなかった。治験薬としてのLドーパしかなかったのだ。

薬剤の量を500ミリグラムにまで増やしていったとき、突然、注視発作(両眼が特定方向を注視する痙攣状態)が現出した。

「カメラで撮ってくれ」とレナード。彼は覚悟を括っているだ。

そんなレナードの気迫に押されて、「とても回せない」と迷いながらも、セイヤー医師はレナードの注視発作の現実をハンディカメラで写していった。

「写せ!写せ!学べ、学べ、学べ。僕のためだ。学べ」

机に倒れて痙攣しながら、レナードは叫び続けた。

そんなレナードを救うためという「治験」の必然性なのか、彼に対する投薬量が675ミリグラムにまで増えていった。

増量していくに連れ、副作用の発作は激甚なものになっていく。投薬と副作用のジレンマが、既にピークアウトに達しつつあったのだ。

「もう読めない。一か所をじっと見る事ができない。やっぱり失敗だった」

「治験」の「失敗」を認めるレナードの覚悟も、限界点に達しつつあった。

「よせ、そんなこと言うな」とセイヤー医師。
「本当だよ。僕を見ろ。みじめな僕を」とレナード。
「よせ」とセイヤー医師。
「これは僕じゃない、僕じゃない・・・」とレナード。

以下、病院のスタッフやセイヤー医師に対する、レナードの母の言葉。

「あの子が生まれたときは意識もしなかった。“健康な子を授かったのは人生の幸せだ”などと“私は幸運だ”などと。でも、あの子が病気になったときはこう言った。“なせ、こんな不幸が?”でも、それを止めてくれる人はいなかった。“息子の苦しみを止めて”と言う相手が・・・息子が苦しんでいるのよ、止めて!」
「彼は闘ってます」とセイヤー医師。
「負け戦よ」

「負け戦」を意識しながらも、レナードは懸命に髪を整え、スーツを着て、目一杯にめかし込んでいた。ポーラと会うためである。

病棟内のカフェテリアで、ポーラを前にしても痙攣が止まらないレナード。

「僕は一生病院暮らしさ。当然だ。この通り病人だからね。君に会えると気分がいい。会うのはこれっきりに・・・これで“さよなら”だ」

レナードは一方的に別れを告げて、立ち上がり、握手を求めた。

その握手の手を握りしめ、ポーラは放そうとしなかった。彼女は立ち上がり、レナードの手を引いてダンスに導いたのである。

ポーラとレナード
不思議なことに、ポーラがリードするダンスの中で、レナードの痙攣は完全に治まっていた。

そこに現出した小さな奇跡は、多分にメンタルな側面を持つ現象だろうが、このような小さな奇跡を抑制的に描く映像に衒(てら)いは見えなかった。

それでも、そこだけは特段の輝きを放つ限定的なスポットとして、映像は敢えてそれを求める観客のニーズに合わせるかのように、飛び切りの感動譚を作り出したのである。

ポーラが去って、その後ろ姿を病棟の窓からいつまでも俯瞰するレナードの心情に、観る者の心の琴線が触れて、小さな奇跡譚が生んだ感動譚に酔い痴れる場面であった。

「命を与えて、また奪うのが親切な事かい?」

レナードとポーラの「ラストダンス」と、その後の二人の哀切な別離を目の当たりにしたセイヤー医師が、エレノアに思わず口に出した言葉である。

彼もまた、自分が果たした「最先端治療」による新薬の投与という医療行為に対して、一瞬、疑問を呈せざるを得なかったのだ。

「素晴らしい夏でした。命の甦り。汚れない魂。奇跡の夏でした。15人の患者と周囲の者にとって。しかし奇跡の現実が襲ってきました。薬のせいにして逃げることもできます。“病気がぶり返した”とか、“患者が失われた歳月に対処できなかった”とか。だが現実は、何が正しく、何が間違っていたのかは謎なのです。ただ一つ、薬の窓は閉ざされましたが、別の目覚めがあったのです。つまり、人間の魂はどんな薬よりも強いのです」

セイヤー医師の、本作における最後のスピーチが記録された。

人間関係を苦手としてきた一人の医師が、レナードを中心とする多くの患者たちとの、医療の制約をしばしば超えた関係の中で形成された感情は、彼にとって、「この世に信じられる人間がいる」という実感的経験と、愛するポーラとの別れの儀式を通過せざるを得なかったレナードの裸形の感情を目の当たりにして、「この世に愛すべき対象となる人間が存在する」という素朴な思いを存分に感受した経験の重量感は、件の医師の情感体系を変容させるほどの意味を持ったに違いない。

ファーストシーンで、エレノアの誘いを断ったセイヤー医師は今、自らエレノアに誘いをかける人格性を立ち上げていたのである。

このラストシーンは、愛する女性と自在に交流できないレナードの苦悩を対極にするとき、健康体のセイヤー医師が自由に「愛」を語れる立場にあることを決定的に価値付けた描写として、特定的に選択された映像の括りであった。



5  「病気それ自身の正確な内実」 ―― まとめとして①



本作を「闘病もの」という映像ジャンルに含めることに対して、それほど違和感がないだろう。

その把握を前提に、本稿を記していきたい。

「震える舌」の批評の際にも書いたが、私の把握によれば、「闘病もの」の映画には、そこで避けてはならない三つのテーマの描写が求められると考える。

それらは、「病気それ自身の正確な内実」であり、「病気と闘う者、或いは、それに甚振られる者の日常的な記録」であり、「その病気に罹患した者への関与者の、その関与の有りよう」である。

それぞれ言及していこう。

まず、「病気それ自身の正確な内実」について。

この点に関して言えば、「嗜眠性脳炎」へのアプローチは、本作のセイヤー医師の孤軍奮闘の振舞いを通して、極めて真摯にフォローされていた。

因みに、「Yahoo!百科事典」によれば、「嗜眠性脳炎」とは以下の説明の通り。

「流行性脳炎の一種で、近年は欧米でごくまれに報告されるが、ほとんど姿を消した脳炎である。高熱と複雑な脳神経症状がみられ、回復期には嗜眠状態を呈すること、しばしば後遺症としてパーキンソン症候群を残すこと、冬から初春にかけて流行することなどが特徴である。

第一次世界大戦中の1916~17年にウィーンで流行したとき、オーストリアの神経学者エコノモが命名・報告したので、エコノモ型脳炎ともいわれ、またその後に日本脳炎が明らかにされたため、嗜眠性脳炎をA型脳炎、日本脳炎をB型脳炎とよんで区別した。1925年ごろまで世界各地にかなりみられ、病原体はウイルスと推定されているが、確認はされていない。しかし、現在でもウイルス性疾患と考えられている」


ここで、「嗜眠性脳炎」を巡る「治療」という名の医学的アプローチについて、本作の中から確認していく。

この点に関しては、「『レナードの朝』をめぐる議論」(池田光穂)というブログに、「2009年8月29日高知大学医学部授業『医療人類学』における授業討論の記録」が掲載されていたので、この記録を基に「病気それ自身の正確な内実」というテーマを、筆者の加筆を付与しつつフォローしていきたい。


―― 以下、その記録の時系列の羅列の断片。


【 「脳が機能を失う」→何も考えてない(はずだ)という先輩医師たちの信念

外界からの特定の刺激に反応(個人差=個体差):

「他人の意思を借りて歩く」(セイヤー医師は、ルーシーの「条件反射行動」を、他者が与えた契機によって動き出すというニュアンスを含め、この表現で説明した/筆者注)

病院長の許可条件:治験対象者は1名、親族の同意が必要であるということ

Lドーパ、その後、塩酸アマンタジン(パーキンソン病等に効果が期待され、1960年代に、抗ウイルス薬として開発された/筆者注)の処方

セイヤーの推論:

(1)パーキンソン病の症状が「進行」した時の状態が、嗜眠性脳炎の後遺症患者と同じでは?と考える
(2)パーキンソン病の患者の治療に(中脳黒質の変性=ドーパミン系の欠如)、L-DOPAを使う

セイヤーの実験:

(1)Lドーパの規定の処方 → 効かない
(2)オレンジジュースとの混合処方で効かなかったのでは? → 混合処方をやめる
(3)投与量の増加:最大5グラム

(本人の)加齢意識の欠損、時間進行の消失:

「眠っている、または死んでいる」(講演会でのセイヤーの発言)

現実のレナード:投与開始後1ヶ月後には性欲昂進(映画ではマイルドに表現)

Lドーパに対する耐性の始まり。

レナードの行動の変容を薬が効果を失った、と解釈するセイヤー

耐性後の症状:チックの悪化、動作の突然の中途停止:投与量を増加しても症状の改善がなくなる。

レナードが前の症状に戻ってから(治療を中止して以降)映像をみて回想にふけるセイヤー 】


以上の記録の時系列の羅列の断片で確認できるように、本作が、「嗜眠性脳炎」を巡る「治療」という名の精緻な医学的アプローチによって、「病気それ自身の正確な内実」を、観る者に理解可能なレベルで映像化されていたことが検証できるだろう。



6  「病気と闘う者、或いは、それに甚振られる者の日常的な記録」 ―― まとめとして②



本作の原題名が、「AWAKENING」。

その意味は、「覚醒」である。そして、邦題名が「レナードの朝」。

この邦題名が全て集約しているように、「嗜眠性脳炎」と看做(みな)される一人の患者の「覚醒」から「叛乱」、そして、「覚醒」以前の世界への病状退行という流れを、精緻に記録する映像作りにおいて、本作はほぼ成就したと言えるだろう。

とりわけ、Lドーパの投与による覚醒の結果、「文明」との刺激的なクロスを経て、強烈な覚醒意識、或いは、過覚醒とも言える、能動的な自己実現的な行動へと繋がる一連の描写は、薬剤効果の賜物であるというセイヤー医師の「科学的」認知との間に顕著な乖離を窺わせて、そこで生まれた両者の緊張関係を、「静」と「動」の二項対立の内に映し出すシークエンスには興味深いものがあった。

なぜなら、レナードの性的感情の澎湃に象徴されたポジティブな人生観や、その後の「叛乱」へと至る感情の昂揚を、本人自身、Lドーパの投与の多大な影響を認知しつつも、その内的世界の振れ方について、当初、自助努力を介在させた「闘病」による克服と考えている節があり、それを客観的に観察するセイヤー医師による、レナードの曲線的な疾病プロセスに対する把握とのズレは、まさにそれ自身が、難病に拉致された者が「闇」を抜けて、束の間放射する、目眩(めくるめ)く「光」の世界の検証的具現であったからだ。

ジスキネジアの画像(meddic.jpより)
一時(いっとき)、「光」の世界を記憶した者が、突然、「闇」の世界へのとば口に立たされたのである。Lドーパの副作用による、「ジスキネジア」(注1)というパーキンソン病に酷似した痙攣発作が現出したのである。

「闇」から「光」。

そして、その「光」の世界から「闇」の世界への病状退行が、レナードの病棟内での日常的振舞いを通して丹念に描かれていて、観る者をウイルス性疾患の恐怖の前で震撼させるほどの説得力があった。


(注1)Lドーパの長期に亘る処方によって現出し、時間の経過とともに現出と消失を繰り返す不随意運動のこと



7  「その病気に罹患した者への関与者の、その関与の有りよう」 ―― まとめとして③



これについては、レナードとセイヤー医師、彼の母、そしてポーラとの関係の様態の中で印象深く表現されていた。

とりわけ、レナードとセイヤー医師との関係は、患者と医師の関係を越える人間的繋がりにまで昇華されていて、レナードの苦悩に肉薄する医師の苦悩もまた、その裸形の人間性の様態を余すことなく描き切っていたと言えるだろう。

この二人の関係を最近接させた描写があった。

本稿の1章の「覚醒」で書いたが、セイヤー医師が、リルケの「豹」という詩を愛読していたレナードの過去の記憶と遭遇する重要なシーンである。

「鉄柵の間から外を眺めつづけたあまり 彼の目は力を失い 世界は無数の鉄柵となって その向こうの世界は失われた」

オーストリアの詩人・作家のリルケ
このリルケの「豹」という著名な詩を、繰り返し暗唱していくことによって、セイヤー医師は、思考と感情を保持し続けたレナードの内面世界に初めて侵入できたのである。

レナードの疾病の本質を、既に「脳が全く働かない眠り病」という限定的な枠組みから解放させ、「非定型・・・」という都合の良い概念を「嗜眠性脳炎」に集約させていたセイヤーの「リルケ体験」によって、ミミズの研究一筋の学究肌の根気を持つ、彼の固有な目的的倫理感・使命感を駆動させることで、当時、パーキンソン病の新薬として脚光を浴びつつあったLドーパの処方を決断させるに至ったのである。

医師と患者を内側で結ぶ、「リルケ体験」の重要性が改めて確認し得るものであると言っていい。

「リルケ体験」以降の二人の関係の振れ方は、多分に曲線的な起伏を呈するが、基本的には、「叛乱」の際においても、管理者としての医療スタッフという枠組みの制約を受けていたセイヤー医師に対して、「彼は別だ」とレナードに言わしめたり、自分の病状退行の凄惨な現実を記録することを件の医師に特定的に依存したり等々のエピソードを見る限り、一貫してその関係が形成的であり、構築的であったという把握が可能であると言えるだろう。

また、レナードと彼の母との関係については、30年以上前にまで遡及して、我が子の思春期の苦悩を深々と共有した母親が、入院後も30年間、その名状し難い時間を延長させ続けた重量感というものが、母の言葉を通して随所に挿入されていた。

それを象徴する会話があった。

Lドーパの処方を決断し、病院の条件付きの許可を得たセイヤー医師が、レナードの母親の同意を取るための話し合いを持ったときのこと。

「どんな希望が?」とレナードの母。
「息子さんを連れ戻せたらと・・・」とセイヤー医師。
「どこへ?」
「この世界へ」
「あの子のために、この世に何が?」
「あなたが・・・あなたがいます」

この会話の含意は重要である。

永遠に続くかの如き、難病による「ロックドイン」(注2)とも言えるような状態下にある我が子の傍にあって、その思春期から見守り続けたレナードの母には、薬剤処方に依拠した単純な治療的アプローチによって、「この世界に連れ戻すことへの希望」を語られても俄に信じ難いだろうし、更に、「この世界での希望」の内実があまりに不透明であるばかりか、老い先短い自分が、この世界に連れ戻った我が子を守り続ける保証など全く存在しないのである。


(注2)「患者さんの全身どこも動くところが無くなり、他人との意志疎通の方法が何も残されない状態」(日本ALS協会の定義)


要するに、レナードの母にとって、「この世界での希望」よりも、「この世界での不安」の方が遥かにリアリティを持ってしまうのだ。

だから、「あなたがいます」とセイヤー医師に言われても、レナードの母の心が簡単にその「甘言」に振れていかないのは、心理的に当然過ぎることだった。

確かにレナードの母は、「光」の世界に復元した我が子との初めての対面において、「ママ、ママ」と言って抱擁を求める我が子を受容したが、同時に、「別人みたい。あの子を変えてしまったのね!」という吐露の内に、僅かのスパンで病状退行していった息子の現実を、「負け戦よ」とネガティブに反応する思いが包含されていたのである。

この一連の、「対レナード」との関係文脈の流れを通して透けて見えるのは、何だったか。

セイヤー医師は、少しでも可能性があれば、そこに仄かに見える「光」に向かって突き進んでいくという意味で、紛れもなく、近代医学の申し子だったと言えるだろう。

後述するが、近代医学は「あいまいな科学」であるが故に、個々人の医療従事者の経験的判断に依拠する部分が多く、「治療革命」の具現は、セイヤー医師のような突破力なしに成就しないと思われるのである。

「現実は、何が正しく、何が間違っていたのかは謎なのです。ただ一つ、薬の窓は閉ざされましたが、別の目覚めがあったのです。つまり、人間の魂はどんな薬よりも強いのです」

これは、ラストシーンでセイヤー医師が放った言葉であり、映像自身の括りでもあるだろうが、このような信念の持ち主だからこそ、彼は仄かに見える「光」に向かう突破力を身体表現したということだ。

まさに、そこに絡み付く近代医学によって、一縷(いちる)の可能性をも狭める堅固な扉を、勇気と覚悟、そして自己責任の名において抉(こ)じ開ける推進力を持つ近代医学の申し子として、セイヤー医師のポジションが特定できるのである。

「現実は、何が正しく、何が間違っていたのかは謎なのです」の後に繋がるだろう、「だから進軍せねばならない」という、近代医学の黄金律の如き文脈こそが、その「科学」の「あいまいさ」を突き抜けていく過剰な熱量によって、「光」に向かう突破力を不断に分娩するセイヤー医師と、身も心も預け切れない普通の感情の人格主体であったレナードの母との決定的落差であったと言えるだろう。

最後に、ポーラとの関係について簡単に言及する。

レナードの「叛乱」が消沈していって、物語展開が束の間、眩いまでの「光」の世界から「闇」の世界に病状退行していくことで、映像の濃度がくすみ、澱みを増幅していく流れが極まった。

そのとき、そのネガティブな流れに歯止めをかける必要があった。この種の映像展開の定番的エピソードの挿入が求められたのである。

そのネガティブな流れに「天使」を導入することで、「闇」の世界への崩壊感覚を稀釈化させる役割を担って、レナードとポーラの「ラストダンス」という極め付けの感動譚が、何かそこだけは、一つの小さな自家発電の熱量を供給させるに足る充分な輝きを放っていた。

苛烈な疾病のリアリズムの展開が、ここで一服の清涼剤として多分に効果的な浄化作用の恩恵に浴することで、相当程度、シビアなドラマの濃度が中和化されてしまったのだ。

「天使」の導入というエピソードに異議を挟むつもりは毛頭ないが、最後に観る者のカタルシスを束ねる役割を果たすかのような「ラストダンス」の欺瞞的構図は、如何にも作り物的な安直性を露呈させてしまったと言わざるを得ないのである。



8  「爆発的奇跡」―― ロマンチシズムへの過剰な傾斜という凡作の極み ―― まとめとして④



この映画が最もダメなところは、Lドーパの処方を受けた「嗜眠性脳炎」と目される患者たち全員が、夜半の病棟内で一斉に覚醒するという奇跡譚を挿入してしまったシークエンスである。

私はこの描写を、「爆発的奇跡」と呼ぶ。

その後の、覚醒した患者たちによる、貸し切りバスを利用しての、一日だけの「ピクニック」のシーンは特段に問題はない。あり得ることだし、その必要性もあるかも知れない。彼らがその「ピクニック」で、植物園を見学したり、ダンスホールで興じたりするシーンも違和感はない。

但し、この「ピクニック」の描写もまた、「爆発的奇跡」を前提にしていることを考えるとき、結局、この一連のシークエンスは「爆発的奇跡」なしに成立しないのだ。

従って、オリバー・サックス(現役の神経医学者)の原作をベースにした「闘病もの」の映画を完結させるためには、思い切り膨らみを持たせた感動譚を遠慮なく全面挿入する以外にないということか。

多くの場合、感動譚の定番が奇跡譚なので、ここでは存分に「爆発的奇跡」の描写に依拠したという単純な話なのだろう。

しかし、「爆発的奇跡」の描写は、ポーラという名の「天使」のキャラクターの挿入と、彼女の導きによる「ラストダンス」のシーンと共に、極め付けのような定番的な感動譚の映画がリザーブされた落とし所に軟着陸する安直さによって、「映画の嘘」の印象度を必要以上に強めてしまった。

オリバー・サックス教授
因みに、ここに映画監修に関与したオリバー・サックスの原作があるので、以下、本稿のテーマと脈絡する辺りを引用する。

「L・ドーパの投与は1969年3月初旬にはじまり、量を少しずつ上げて一日5グラムとなった。2週間というものほとんどなにもおこらなかったが、そのあととつぜんに『転換』が生まれた。全身から硬さがとれ、レナードはエネルギーと力への予感でいっぱいになった。ノートをつけたり、タイプを打ったり、椅子から立ち上がったり、大きな声ではっきりと話をしたりすることもできるようになってきた。それをとっても、25歳を過ぎてからできなかったことである。3月末には自由に動けるようになり、30年間忘れていた健康であることの幸福感を味わうことができた」(「レナードの朝」オリバー・サックス著 石館康平 石館宇夫訳 晶文社刊より)

「映画では『はしゃぎ症』患者、脳炎後遺症患者は、ある日、一夜のうちにとつぜんめざめている(劇的な展開上このように圧縮されているが、実際は数週間のうちに、それぞればらばらにめざめた)。その翌日、めざめた全員が集会室に集まっている。これは複雑なシーンである。そこには15人の患者がいて、それぞれみんな自分自身の世界へとめざめている。この時点では、この集団はおよそ共同体らしいものとはなっていない。患者の誰もが依然として孤独で、自分だけの殻にこもっていた」(同上)

前者がレナード自身について、後者が15人の患者の「覚醒」と、その後の孤独の様態について記述してある。

原作を読むまでもなく、「嗜眠性脳炎」と目される患者の「爆発的奇跡」のエピソードが、如何に現実離れした話であるということが確認されるのだが、創作性なしに成立しない「映画の嘘」への批判は的外れなので、その一点を不必要に誇張する批評のみで本作の評価を決めるのはフェアではないだろう。

しかし「爆発的奇跡」のエピソードが、「映画の嘘」の印象度を必要以上に強めてしまうことで、「闘病もの」の映像的リアリティを壊してしまうのは、映像総体の完成度の評価を貶めると言わざるを得ないのだ。

大体、「闘病もの」の映像に過剰なロマンチシズムは不要なのだ。従って、「爆発的奇跡」のエピソードなど全く論外な挿入であると言っていい。

残念ながら、本作は「爆発的奇跡」のエピソードによって、「ロマンチシズムへの過剰な傾斜という凡作の極み」という欠陥を晒してしまったようである。



9  近代医学の宿命についての考察 ―― まとめとして⑤



私は壮年期に、二年間、原因不明の下痢と胃腸障害に苦しめられたことがある。

腸の検査をしても正常でありながら、それでも毎日、下痢が続いて止まらなかった。

思いあぐねた結果、私が治療のために向かった先は某病院の東洋医学科だった。しかし、そこで多くの種類の漢方薬を処方され続けても、症状に全く変化が起こらなかった。灸治、鍼灸治療や温熱療法等の漢方治療を受けても変化なし。

そんなときのこと。

担当医は万事休すと思ったのか、率直な思いを私に語ったものだ。

「近代医学の過半は何も分らないのです。それでも求められたら治療をしなければならないので、個々の医者が自分の信念と責任によって診断を下し、様々な処方薬を書いていくのです。佐々木さんの病気は、私にもどうしていいか分らないのです」

明け透けにそう言われたとき、私には特段の動揺もなく、驚きもなかった。それは二年間に及ぶ下痢・胃腸障害と付き合ってきた私の経験的実感だった。

「自分は今、病気だと思う」という病識を持つ者は、既に充分過ぎるほど病人であると言っていい。従って、「自分は病人でない」と思わない限り治らないのだ。

そんな風に考えて、殆ど開き直りの感覚で、私は一切の薬剤の処方をぴたりと止めてしまった。

「毎日、下痢が続く自分の状態が、壮年期の私自身の普通の日常的な健康様態なのだ」

そう信じ込んで、私は下痢・胃腸障害と淡然と付き合っていくしかないと、完全に病識の観念を能動的な構えの中で読み替えて、全人格的に吸収し、引き受け切ったのである。

すると半年ぐらい経過したら、物の見事に一切の症状が治まったのだ。今もその因果関係について、私は全く確信的把握に届いていない。

「佐々木さんの病気は、私にもどうしていいか分らないのです」

この言葉が記憶に蘇ってきたが、実際、「分らない」という現実を受容し、認知する構えだけは、私にとって何より貴重な学習的経験だった。

以降、「確信幻想」の怖さへの認知が深まり、「分らない」のに「分った」振舞いをする態度の過剰さにだけは観念投入することを戒めてきたつもりである。

一切は幻想であると思うが故に、ただひたすら、「自分の物語」を押し付けることなく、それを自在に展開していこうと括った次第であった。

「だが現実は、何が正しく、何が間違っていたのかは謎なのです」

映像のラストシーン近くでの、セイヤー医師のこの発言は、私にはとてもよく理解できる。

自らの果たした治療について疑問を呈したセイヤー医師の自戒のメッセージは、恐らく本人が頂門の一針としているところだろうが、ここで改めて近代医学への過剰な幻想について考えてみたい。

多くの難病を克服してきたとされる近代医学は、実は大して進歩することもなく、相変わらず、「永遠の謎の解明」への挑戦を繰り返すその果敢なプロセスを、私たちは「科学」と呼んでいるだけなのかも知れないのだ。

ここに興味深い報告がある。

「医学は科学ではない」(米山公啓著 ちくま新書)という著書を書評した、松田博市氏の一文である。

「nikkei BPnet」に掲載された「“あいまいさ”こそが医療の本質」(2006年2月2日)という書評を抜粋する。

「医師で、かつて医大の助教授でもあった著者は、医学は科学的な根拠に基づき体系的に構築された学問ではない、という。物理学や化学では、ある理論に基づきどこかの実験室で実証されたことは、理論が正しければ世界中どこでも再現できる。医学にはそういった普遍性、法則性がない。対象である人間が、一人ひとり皆違うからだ。つまり、医学は常に高い精度で同じ結果を出す科学ではないのだ。

(略)何年も患者に接してきた医師は、臨床の現場ではすべてを科学で解決できないことを知っている。あいまいで複雑な人間の体は、データだけではとらえきれない。プラシーボ(偽薬)は、まったく薬効のないはずのものが薬効があるように人体に作用することだが、効果があるということは体の中の細胞や体内物質が変化しているということである。実際にもプラシーボで脳内に麻薬様物質が分泌され、痛みが軽減していることが観察されている。

つまり人間の体は、考えるだけで薬様物質を生みだすことさえできるのだ。

近代医学の立場では説明できなくても、病気が治るのであればこれも立派な治療といえる

(略)実際の診療現場は、もっとあいまいでアナログ的なものなのである。医学には非科学的な部分が存在し、限界もある。あいまいさこそが医学の本質だということを理解し、西洋医学以外の存在も肯定する姿勢こそ医学には必要ではないだろうか。

医学は科学ではないということに気がつけば、患者も医学に何をどこまで求めていいのかがわかる。新しい医療の方向はそこから見えてくるはず、と著者は提言している」(筆者段落構成)

結局、近代医学は特定の困難な病気を克服したという幻想を過大評価して「科学」の名を被せてきたのかも知れない。

―― ここに、一人の苦しんでいる患者がいる。

その患者に付された、「非定型・・・」という名の疾病名の本質に誰も肉薄することがなかった。しかし、ある瞬間に光を与える可能性を感知した医師が存在し、そしてその医師が自分の仮説によって、その患者を治療するに足る新薬を発見した。

医師はその新薬を件の患者に治験する許可を得て、それを試行錯誤しながら積極的に投薬していった。

その結果、「闇」の世界から一人の患者を救い出したと信じ、そして束の間、「光」の世界の中で彼を限定的に解放させ、それを見守った。だが、そこにはどこまでも治験の制約があり、その医師の仮説的主観に基づく治療は継続力を持たず、件の患者は、再び「闇」の世界に病状退行していった。

これが、本作のレナードとセイヤー医師との、最先端の近代医学の範疇における人間的関係の様態だった。

医師は最後に、このような言葉で括った。

「奇跡の夏でした。15人の患者と周囲の者にとって。しかし奇跡の現実が襲ってきました。薬のせいにして逃げることもできます。“病気がぶり返した”とか、“患者が失われた歳月に対処できなかった”とか。だが現実は、何が正しく、何が間違っていたのかは謎なのです。ただ一つ、薬の窓は閉ざされましたが、別の目覚めがあったのです。つまり人間の魂はどんな薬よりも強いのです」

私たちは15人の患者を「闇」の世界に戻したこの医師を、果たして、「医の倫理」という名分によって責めることができるのだろうか。

映像は、そのような問題意識を包含させて閉じていった。

眼の前に、この薬(或いは技術)があれば救えるかも知れないと信じる医師がいて、それを求める患者がいたとき、その両者に一定の信頼関係が形成されていることを前提にするならば、臨床試験(治験)のデータが完備されていなくとも、患者家族の同意書を取ることを条件に、医師の倫理的責任の名によって、患者への投薬(或いは応用)を遂行する行為を躊躇しないだろう。

結局、近代医学は、このようなケースにおいて「敵前逃亡」をしないのである。

少しでも「救い」の可能性があれば、本質的に私たちの近代医学は、その被膜のような視界不良の「境界」を突き抜けてしまう宿命を、その内側に張り付けてしまっているのだと思う。

良かれ悪しかれ、それが、近代医学が抱えた無人の野を行くが如き「爆発的推進力」であるに違いない。

この「爆発的推進力」の威力は決して劣化することなく、近代医学の恩恵を当然のように被浴する人々の、そこに求める幻想のラインの繋がりが簡単に切れるとは思えないので、せいぜい自分に合った「処方箋」を書いてもらうことを心がけるしかないのだろう。

近代医学との上手なマッチングを探っていくという戦術論 ―― それこそが何より肝要だと思うのだ。



【余稿】   〈物の見事に嵌った「デ・ニーロ・アプローチ」〉


本作はどこまでも、多くの患者のエピソードを過剰に膨らませて、一つの人格に集約した感のあるレナードを演じたロバート・デ・ニーロと、ヒューマンな医師を演じたロビン・ウィリアムズという二大名優の映画であり、実在の人物であるレナードとセイヤー医師の、実録性の濃度の深い映画ではなかったということだ。

「動」と「静」という見事な対局性を持つ役割分担による、二人の演技の競合に引っ張られ過ぎて、観た後の感想は、多くの場合、二人の演技能力のレベルへの評価に流されてしまっていたように思われる。

とりわけ、本作ほど、「デ・ニーロ・アプローチ」(役になり切るために最大限の努力をする役者魂)が物の見事に嵌った映像はないと思われるので、一人の俳優の計算され尽くされたスイートスポットへの吸引力に呑まれることに無自覚であれば、特段に異を唱えることもないのだが、一貫して「感動の涙」とは無縁に、一人の客観的な観客であり続けた私の内側には、このような感懐だけが拾われた次第だった。

レナードとセイヤー医師の存在感のリアリティに効果的な鮮度を与えるには、無名の俳優の起用こそが最適戦略ではないかとも思われた。言い過ぎだったか。


(2009年11月)

1 件のコメント:

辻 さんのコメント...

日本語の起源

言霊百神

kototama 100 deities

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