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2010年1月11日月曜日

4分間のピアニスト('06)       クリス・クラウス


<「表現爆発」に至る物語加工の大いなる違和感>



1  簡潔な粗筋の紹介



本稿に入る前に、以下、本作の粗筋を簡潔にまとめておこう。

ピアノ教師として女子刑務所に赴任して来た80歳のクリューガーは、新入りのジェニーが机を鍵盤代わりにして指を動かす姿を見て、一瞬にして抜きん出た才能を認知する。

「未来のモーツァルト」を目指してピアノの練習に励んでいたジェニーは、何度か国際コンクールで入賞した実績を持っていたが、12歳のとき、養父によってレイプされるという心の傷を負ってしまい、以後、荒んだ青春を送っていた。

そんなジェニーを見て、彼女の才能を花開かせることこそが自分の使命だと感じたクリューガーは、所長を説得してピアノのレッスンを始めようとするが、ポップミュージックを弾くジェニーの音楽を「低俗」と決めつけて簡単に折り合えなかった。

冤罪の殺人事件の女囚として刑務所に入所しても、ジェニーが起こした看守への暴行事件によって、遂に手錠監禁される始末。

それでも、ジェニーの「才能を生かす使命」「を感じたクリューガーは、ジェニーとの紆余曲折の関係を経ながらも一定の信頼関係を構築する。

クリューガーもまた、ナチス時代に同性愛者を裏切ったという深き闇の世界を引き摺っていて、そのトラウマも関与して、ジェニーの「才能を生かす使命」を継続させていたのである。

2人の関係を快く思わない看守による卑劣な陰謀が、決勝コンクールを数日後に控えたジェニーを暴力事件に巻き込み、再び監禁される事態を出来した。

覚悟を決めたクリューガーは、ジェニーを刑務所から脱出させるという行動に打って出た。ジェニーをドイツ・オペラ座での決勝コンクールに参加させるためである。

彼女を逮捕するために集結した多くの警察官の包囲網の中で、「4分間のピアニスト」として、満席の聴衆の度肝を抜くジェニーのピアノ演奏が開かれたのだ。


(以上、「シネマカフェ・ネット」を部分的に参考にした)



2  ヒューマンドラマとサスペンス映画の無秩序な混淆①



結論から書いていく。

本作の最大のウィークポイントは、物語構成の統一感の欠如にある。

具体的には、音楽という一つの芸術表現との関わりの中で、ヒューマンドラマの中にサスペンス映画が必要以上に侵入してしまったこと。それ以外ではない。

要するに、ヒューマンドラマとサスペンス映画が無秩序に混淆し、テーマを拡散させてしまったことが何より問題なのである。

そのテーマとは何か。

ここに作り手自身のインタビュー記事があるので、引用してみる。

「--Q.本作で一番描きたかったことは何でしょうか。

ストーリーの中で伝えたいことというのは、後からはっきりしてくるものです。ストーリーを作るというのは直感的な作業です。まずストーリーができて、それが何を意味するかは、後から、ひょっとすると完成してから、ストーリーの展開の中ではっきりしてきます。本作は、自由、個人の自由というものに強く関わっていると思います。

 クリス・クラウス監督
そして、自由が最もその効果を現すのは、人間にとって最も非実利的な領域、つまり芸術を創る、あるいは、芸術を堪能する行為においてなのだ、ということが次第に分かってきました。これが、本作の主題だと思います。人は内なる自由にいかにして到達するのか、また、どうしたらその手助けができるのか、ということです」((HP「Let’s Enjoy TOKYO」より/筆写段落構成)

「人は内なる自由にいかにして到達するのか、また、どうしたらその手助けができるのか、ということ」を主題にしたことで、ラストシーンの「4分間のピアニスト」を大団円に持っていき、その「4分間のピアニスト」に官憲の手錠を掛けられるところで閉じていくという映像の括り方には、「作り過ぎ」のあざとさが見え隠れするものの、サスペンスタッチで映像展開を繋いできたことによって、テーマ拡散させてきた物語の主題を鮮明にするためには、「最高のパフォーマンスを身体化した最高のステージでの手錠捕縛」の描写なしに済まなくなったのである。

或いは、この勝負を賭けた決定的な描写に流れ込むために、複雑なプロット展開を捏(こ)ね回してきたとも言えるだろう。



3  ヒューマンドラマとサスペンス映画の無秩序な混淆②



では、この映画にサスペンスタッチの描写が挿入された意味を考えてみよう。

件の描写が挿入されているラインには、二つある。

一つはジェニーの養父の「暗躍」であり、もう一つは老ピアニスト、クリューガーの「ナチス体験」である。

前者は、主人公のジェニーが女子刑務所内で事件を起こして監禁された際、彼女を訪れたクリューガーへの告白によってある程度読解可能になるから、その後の養父の「暗躍」を、観る者がフォローしていく上での支障にはさしてならないだろう。

だから取り立てて、この養父の「暗躍」をサスペンスラインで括るのは無理があるかも知れない。

しかし、クリューガーの「ナチス体験」に関しては、その脈絡が非常に判読しにくい展開となっているので、これが観る者を混乱に陥れるネックとなってしまうのだ。

なぜなら、この体験はクリューガー自身の回想によって、突然、映像の中に現出し、しかもそれが何回かにわたって断片的に挿入されてくるので、結局、ラストシーンに至るまで彼女の「ナチス体験」はその封印を解くことをしないのだ。

では、「ナチス体験」の描写の意味とは何だったのか。

「ナチス体験」
大戦時、クリューガーはナチスの病院で看護師をしていたときに、同僚の看護師女性と愛し合っていた。同性愛である。

しかし、「同志が拷問でハンナの名を吐いた。ハンナは処刑されるはずだった。だけど、執行当日に爆撃で処刑台が爆破されたの。そこで別の方法が取られた。ナチスに首を括られた」(ジェニーに対するクリューガーの告白)のである。

これだけのエピソードが、それらが本作の中に断片的に挿入されてくるのだ。

恐らく、処刑寸前にハンナと思われる女性が、暗い密室(地下壕の処刑場?)で、そのブロンドの髪がカットされる後ろ姿のシーンに象徴される描写の読解などは、繰り返し再生して確認しなければ困難だろう。

奇を衒(てら)ったような件のサスペンスラインは、明らかに映像の構成力、即ち、シナリオ構築の失敗であると言っていい。

それでも本作が、「ナチス体験」を必要とした理由は何だろうか。

私は、その理由には二つあると思っている。

一つは、クリューガーのトラウマの継続性であり、もう一つは、クリューガーがピアノを教授していたハンナのエピソードが欲しかったからである。

前者は、質は違うが、同様に深刻なトラウマを持つジェニーとの、「心の闇」に関わる悪しき経験による親和動機の形成条件としてリンクさせたかったと思われる。

ジェニーとクリューガー
とりわけ、孤高の青春を生きているように振舞うジェニーにとって、クリューガーの告白の内実、即ち、ハンナへのピアノレッスンを中断された重い過去を持つ、クリューガーの「才能を生かす使命」という言葉には、自分に内在する、身体が記憶したピアノへの熱い思い入れの心情を溶かすものがあった。

そして二つ目は、その「才能を生かす使命」によって、一時(いっとき)、クリューガーを疑い、殴りさえしたジェニーの、ドイツ・オペラ座での決勝コンクール出場を決意させる決定的な契機となるエピソードの導入である。

ドイツ・オペラ座でのコンクールの直前に、出場を放棄しようとしたジェニーに、クリューガーが語った内容は、前述したハンナの処刑に関する重い記憶の開示であり、その後のクリューガーの告白は以下の通り。

「私はなぜ、60年もここにいるか分る?」

このクリューガーの言葉は、前述した告白に対して、ジェニーが「私に泣けって?」と「お涙頂戴の告白」を否定する感情を吐いた一言への静かな反応。

「死者のため?死体愛好家の同性愛者。イカれているわ」

それでも、こんな悪罵を加えるジェニーに、ピアノの「恩師」のクリューガーは、それ以外にない長広舌を繋いだのだ。

「酷いことを。よく言えるわね。この日のためにどれほど苦労したか。あなたの態度にも発作にも目を瞑ってきた。刑務所から連れ出した。全て打ち明けた。あなたは平気で私の心を踏みにじる。破滅するのは簡単。どうしてなの?それだけの才能を、なぜドブに捨てるの?ハンナは才能を生かすために努力したかも知れない。人生に他に何がある?生きる目的は何?人の頭を叩き割ること?刑務所で無駄に過ごすこと?世界を破壊すること?人には成すべき使命がある。今の私は何をすべきなのか。恐らく、耐え抜くことね。でもあなたは、あなたの使命は火を見るより明らか。演奏することよ」

要するに、「ハンナは才能を生かすために努力したかも知れない」のに関わらず、ナチスによってその自由が奪われて、才能が開花する可能性を摘んでしまう人生ほど無駄なことはないと言い放つことで、土壇場に追い込まれたクリューガーは、ジェニーの説得において、余命幾許(いくばく)もない人生を生きる者の「大告白」に打って出たのである。

その「大告白」を支えたのが、クリューガーの「ナチス体験」であり、具体的には、ピアノを教授した同性愛の対象人格者であるハンナの「才能開花の中断」という、殆ど検証不能で、その場凌ぎの物語であった。

ある実在のピアニストの話をブログで読んだ記憶があるが、幼少時より自然にピアノに親しみ、その才能を開花させてプロになった人は、ピアノを弾けない状態が続くことに耐えられないらしいのだ。

恐らくジェニーも、自分の身体に身に付いたピアノの演奏に飢えていた。

だから、クリューガーの勝負を賭けた最後の言葉に、ジェニーは肯定的に反応したのであろう。

また、それ以前にクリューガーは、刑務所で自殺した女性の葬儀の場で、机をピアノの鍵盤代わりに弾いているジェニーの才能を認知し、彼女が監禁される原因となった事件を起こした際に、その監禁室を訪ねて、彼女の才能を評価し、それを生かすことの必要性を説いていたのである。

以下、そのときのクリューガーの言葉。

「あなたは、どこか傑出している。神様からの贈り物だわ。あなたは嫌な人間だけど、才能がある。あなたには、その才能を磨く義務がある。今日ここでしたことを、あなたがきちんと償うのなら、あなたの力になるわ。良い人間にするためじゃない。良いピアニストにはできても、良い人間にはできない」

因みに、ジェニーが起こした事件とは、ピアノを習う生徒が自殺して、そこから煙草を盗んだ新入りのジェニーが、刑務所内の少女から恫喝され、喧嘩しようとしているところを看守のミュッツェから制止を受けるという経緯があり、その後、ピアノを習いに来たジェニーを注意するミュッツェを身近にあった椅子を使って重傷を負わせた事件のこと。

ともあれ、以上が、クリューガーの「ナチス体験」の意味であったと思われる。

そして、この映画にサスペンスタッチの描写が挿入された意味もまた、このエピソード導入と深くリンクするものであるだろう。

しかし残念ながら、本作は、回想シーンを断片的に挿入する流行のサスペンス描写の誘惑に勝てなかったのだ。



4  ジェニーの深き闇の世界①



ここでは、2人のトラウマについて言及する。

まず、ジェニーのトラウマについて。

ジェニーが大暴れするのは、自分の身体を他者に触れられたときか、人権蹂躙な言動を浴びせられたときに限定される事実を確認しておく必要があるだろう。

後者に関して、最も象徴的な描写は、心を預けていたクリューガーから、「この、ドブネズミ」と言われたときのこと。

クリューガーとの諍(いさか)いによって、決勝コンクール出場を断念し、その場を立去ろうとしたジェニーが戻って来て、初めて「ピアノの恩師」を殴り飛ばしたのだ。

これには、重要な伏線があった。

その経緯については後述するが、クリューガーを慕う看守のミュッツェの姦計によって、刑務所内で同房の2人の女に重傷を負わせたジェニーは監禁室に閉じ込められ、警察の捜査の対象ともなっていて、ドイツ・オペラ座での決勝コンクールへの出場が閉ざされてしまっていたのである。

ミュッツェとジェニー
事の一切が、ジェニーを憎むミュッツェの姦計である事実を知ったクリューガーは、そのミュッツェと、もう一人の看守のコワルスキー、更に、2人の元犯罪者の協力を得て、既に辞任を決めていた覚悟のもとに、監禁室のジェニーを解放したのである。

その際、クリューガーのグランドピアノも、刑務所外部に移動させる離れ業を行っていたというお負けつき。

2人は一旦、クリューガーのアパートに立ち寄った。

そこでジェニーは、飲酒しないクリューガーの部屋にアルコールがあったことを目敏く見つけ、最も忌み嫌う自分の養父が訪問していた事実を直感的に感じ取って、クリューガーにそのことを問い詰めたのである。

あっさりその事実を認めたクリューガーに、ジェニーは捲(まく)くし立てていく。

彼女はクリューガーが養父から金を受け取って、コンクールに出る服を買い、シューマンを選曲させたと決めつけて、怒りを振り撒いたのだ。

「野心を満たすためならどうでもいい」とジェニー。
「私は金をもらっていない」とクリューガー。

それを信じないジェニーは、ドイツ・オペラ座に赴くことを諦めて、その場から逃げようとした。

クリューガーはそのとき、咄嗟に自分がかつて同性愛者であって、その相手が自分の責任で死に至った事実を告白した。

ナチス統治下の病院のナースだった自分の過去を記録したファイルを、ジェニーに渡そうとするクリューガーに、 「この紙を食え」と言った後、家を出ていく彼女に向って、クリューガーは、思わず、「この、ドブネズミ」と吐き捨てたのである。

ジェニーがクリューガーを殴り飛ばしたのは、このときだった。

人権蹂躙の言葉を言われたとき、大抵、彼女は暴力を振るうのだ。どうやらこの辺りに、彼女の攻撃性の地雷原がある。

そしてもう一つ、彼女の攻撃性のルール。

前述したように、それは自分の身体を他者に触れられたときである。

映像でその暴発が記録されたのは、ジェニーについて詳細に知らないミュッツェが、彼女から一方的に不意打ちの暴力を振るわれて、発語できないほどの重傷を負った事件のときである。

簡単に、その経緯を書いておく。

女子刑務所にピアノ教師として赴任してきたクリューガーの教室に応募した、4人の「生徒」の一人が、首吊り自殺するという、映像の冒頭から開かれたあまりに暗鬱な描写。

その死体から煙草を盗んだ新入りのジェニーが、まもなく刑務所の一画を仕切る女から恫喝され、喧嘩しようとしているところを看守のミュッツェから制止を受けた。

その後、ピアノを習いに来たジェニーの態度に憤慨したクリューガーの命で、ジェニーを注意するミュッツェを椅子で打ちのめしたのである。

結局、ジェニーは監禁室に縛られるに至り、ピアノの才能豊かな彼女を訪問するクリューガーとの厳しくも、容易に軟着点を確保できない関係が開かれていくが、それについては後述する。



5  ジェニーの深き闇の世界②



ここでは、ジェニーの深き闇の世界に肉薄したい。

彼女は養父から幼少時より、「モーツアルトにする」ための厳しいピアノレッスンを受け、国際コンクールで半分は入賞するほどの成長を見せていたが、彼女は12歳のとき、その養父からレイプされたという筆舌に尽くし難いほどの辛酸を嘗めていた。

「養父は私をモーツアルトにしようとした。12歳で放棄したら、奴は私を犯した。コンクールなんて、だからクソさ」

これは、監禁室での接見で、クリューガーに吐露したジェニーの恨み節。

後述するが、彼女はこの畏怖すべき経験によって養父から離れ、チンピラ崩れの男と出会い、その男が犯した殺人事件の容疑者として逮捕され、刑務所行きになったのである。

この殺人事件が、娘に真実を話すように求めた養父の助言を嫌ったジェニーの冤罪であったことは、後に映像の中で、養父自身の言葉によって語られている。




要するに、彼女は無実の罪で女子刑務所に収容されたのである。

因みに、クリューガーに語った、そのときの養父の言葉を添えておく。

「娘は全て中途のまま、街角のどこかで、駅のトイレかどこかで、チンピラと知り合った。最低のクズ野郎だ。そして、若造は父親を殺した」
「記録ではジェニーが」とクリューガー。
「ウソだ」
「なぜ刑務所に?」
「有罪判決を受けたからだ。やってはいない。男を庇って判決を受け入れた。奴は娘を見捨てた。娘は助けを拒絶した。男に不利な証言をするよう、私が責め立てたからだ。彼の子供を宿していた」
「ええ」
「娘は激しく怒って、私を法廷に引っ張り出し、供述したんだ。私との関係を。私に何ができた?娘と寝たと認めるか?妻は自殺しただろう」
「私にに何をしろと?」
「どうかアノの練習を。娘は無実だ」

以上の会話によって、観る者に明らかにされたジェニー心象風景の救いのなさ。

養父からのレイプ事件こそが、大人を信頼しないジェニーの原点に横臥(おうが)していたものだった。

ジェニーの養父(左)
言わずもがなのことだが、ジェニーは自分をレイプして、奴隷のように扱った養父への憎悪からピアノを離れ、そのトラウマによって、他人から体を触られるのを極度に嫌っていたのである。

それでもジェニーには、体が記憶したピアノ演奏の心地良さが消えていなかった。しかしピアノを弾くことは養父を喜ばせるだけであることを認知している彼女は、ピアノ演奏の心地良さを封印する年月を過ごすに至った。

そんなジェニーの中で封印されていた記憶を再び蘇生させるには、それを蘇生させるに充分なほどのインパクトが必要だった。

クリューガーとの出会いは、彼女にとって封印した心地良き記憶を蘇生させていくに足るほどの何かだった。

「天才は天才を知る」

まさに、この言葉通りの事態の展開が、女子刑務所の中で開かれたのである。

一端開かれた回廊を閉ざすのは困難であるか、それとも、相当のリバウンド効果を覚悟せねばならないだろう。

しかし、彼女は養父が待望するような、シューマンに代表されるロマン派のピアノ曲を演奏することだけはできなかった。

彼女の中で延長されている根柢的な矛盾が、彼女にシューマンを弾かせないのだ。

彼女はひたすら、ポップミュージックだけを弾き続けようとする。

それが、彼女の本来的な音楽世界との親和動機を説明するものではないのにも拘らず、彼女は養父を拒否するためにのみ、ポップミュージックを演奏することで、辛うじてピアノレッスンにその身を預けようとしたのである。

ところが、彼女のそんな事情を知らないクリューガーは、彼女の音楽を「低俗」と切って捨てるだけだった。

密かに養父が依頼した、「シュピーゲル誌」のカメラマンの好奇な視線の前で、ジェニーが手錠をしながら、後ろ向きに鍵盤を叩く絵柄は、映像による表現力の一つの達成点を示していたが、そんな彼女が弾くポップミュージックの「遊び」を受容しないクリューガーの、その持前の一貫した頑固さをも、映像は映し出していた。

そんな二人の危うい船出は、予想通り関係の被膜の如き脆弱さを時として露呈するものの、クリューガーの熱意溢れる指導の中で、笑顔の交歓が拾われるようになっていく。

それも束の間、二人の蜜月を裂くような事態が発生した。


コンクール予選の会場のトイレで、思わず、「怖い」と吐露したたジェニーを、クリューガーが「臆病者」と罵ったことで、ジェニーは大切な両手でガラスを割って、傷を負ってしまったのだ。

コンクール予選はクリアしたものの、自壊の危機を孕むジェニーのこの異常な行動は、どこかで確信犯的な思惑をも包含するものだった。

「規則を破れば、自分で罰を与える」と言って、自分の顔をテーブルに打ちつけるという異常な行動を、身を以て示す看守のコワルスキーに追われ、ジェニーは逃げ場なく、階上の窓ガラスに自らの体を打ちつけて失神してしまうのだ。

女子刑務所の中で何が出来したかについて映像は示さないが、涙ながらにクリューガーに語った、以下のジェニーの言葉が露呈する現実の重量感は、彼女の深き闇の世界の広がりを暗示するものだった。

「窓は割れないよ。前にもやったことがある。赤ん坊が生まれたときに、もっと上の階から…16時間陣痛が続いた。もう耐えられないと医者に訴えたら、刑務所に戻らないための嘘だと言われた。帝王切開だと入院できる。だから医者はやらなかった。ほっといただけ。私は気を失い、意識を取り戻したら看護婦が言った。“赤ん坊は死んだわ。血流が流れなくて・・・”名前はオスカー。3時間後に刑務所に戻された」

この言葉の中に、「大人=権力」と短絡視する彼女の、その根本的な不信感情の一端が露呈されていたのである。

このような心の風景こそが、ドイツ・オペラ座での決勝コンクールで、シューマンのピアノ協奏曲を自分なりにアレンジして、自己を堂々と立ち上げていった、「4分間のピアニスト」の表現爆発を可能にした自我の基幹に固く張り付くものだったのである。

ジェニーの深き闇の世界の映像表現において、本作が成就したと思える根拠もその辺りにあると言えるだろう。



6  クリューガーの60年



クリューガーの「ナチス体験」については前述したが、ここでは、「クリューガーの60年」という由々しきテーマを考えてみたい。

女子刑務所に新任したクリューガーは、殺人罪で入所したばかりのジェニーに興味を抱いた経緯は前述した通りである。

そのジェニーがピアノ教室の生徒になったものの、彼女の無礼な態度にクリューガーは一端、個人教授を断念したが、「天才は天才を知る」という言葉の通り、暴行事件を起こして監禁されているジェニーに会いに行った。

深く心を固く閉ざしていたジェニーの才能を見抜いたクリューガーは、彼女との関係の中でルールを作り、それを守ることを約束し、ピアノレッスンを開くに至ったのである。

そのルールとは、以下の通り。

「規則1 従順さ、規則2 引っかく癖を止める、規則3 臭い、規則4 コンクール、規則5 個人的関心はない」

フルトベングラー(ウイキ)
かつて、フルトベングラー(20世紀を代表するドイツの指揮者)の弟子であったクリューガーが、そこまでしてジェニーにピアノの特別レッスンを決意させたモチーフは何だろうか。

映像を観る者は、単に彼女が残り少ない自分の人生の使命だと考えて、このレッスンを開いたと理解するだろう。

そこに彼女の「ナチス体験」が関与していて、それが、彼女にとって60年前のアンチモラルな行為への贖罪意識として発現することで、最晩年の時間を実りあるものにしようと考えたとしても可笑しくないに違いない。

恐らく、その把握事態に誤謬がないのだが、「クリューガーの60年」という問題意識によってアプローチする限り、どうしても、事はそう単純なものではないように思えるのだ。

映像はそれについて全く語ることをしなかったので、観る者は、60年前の彼女のアンチモラルな行為と、女子刑務所でのジェニーとの特別レッスンのプロセスを直結して考えてしまう錯覚を持たされてしまうのである。

映像が、「ナチス体験」を必要とした理由については前述した通りだが、それにしてもこの時間の強引な飛躍に対して違和感を持ったのは、決して私だけではないはずだ。

この違和感に留意しながら、稿を進めていこう。

ところで、ジェニーとのルールの中で、最も重要な箇所は、「規則5 個人的関心はない」という点にあると言える。

これは、クリューガーの「ナチス体験」の根深さを物語るだろう。

彼女はかつてピアノの指導をしていたハンナとの関係の中で、同性愛という極めて関係の密度が濃厚な時間を作り上げていて、その結果、出来した忌まわしき事態がクリューガーのトラウマとなって、その後の60年という人生の時間を決定づけたと思われる。

即ち、「他人に個人的関心を持たない」というルールの縛りの中で、自らのパーソナルスペースを限りなく狭めながら呼吸を繋いできたに違いない。

ところが、ジェニーと同様に、或いはそれ以上に、身体が記憶したピアノの超絶的技巧による心地良さをクリューガーもまた捨てられなかった。

しかし、プロのピアノ演奏家として堂々と世に出る怖さを、彼女は知悉しているのだ。

封印しようとしても、容易に封印できない「ナチス体験」のトラウマは、彼女がピアノに向かうことを拒絶してしまうのである。

ピアノを通して結ばれた個別の関係の中で、プライバシーの濃度を深めれば深めるほど、彼女のトラウマは内側から噴き上がっていく何かだった。

ピアノへの深い愛着と、プライバシーの濃度を深めてしまう関係を作らないという、二つの問題を同時に解決する方法が、女子刑務所でのピアノ指導という方法論であったと思われる。

そこは原則的に、かつて「監獄の誕生」(新潮社)の中で、ミシェル・フーコーが書いたように、従順な身体を作り出すことで「規律」を固めていくという方法として、何より存在根拠を有するであろう刑務所空間が、一貫して命令と服従の関係によって成立しているから、「服従する囚人」から「命令する刑務所勤務者」へのプライバシー侵入は起こりにくいのだ。

従って、「他人に個人的関心を持たない」というルールの裏返しである、「他人に個人的関心を持たせない」という暗黙のルールの徹底は、女子刑務所に勤務することで保証されるのである。

それは、クリューガーにとって、好都合な自己防衛戦略のスキルの具現だったのだ。

また、彼女が女子刑務所を選択したモチーフの内に、彼女の同性愛志向が深く関与していたとも想像できるが、少なくとも、戦後の彼女のピアノへのアプローチは、このような方法論によってしか成就し得なかったと言えるだろう。

しかし映像は、「クリューガーの60年」の内実を完全に削り落した状態で、彼女をいきなりジェニーとの「奇跡的邂逅」にワープさせてしまうから、観る者は、「ナチスの時代のは悪辣さ」という異次元体験を共有させられてしまうのである。

映像の失敗は、全てその一点にのみ集約化された感があるが、ここでは、彼女の「空白の60年」について簡潔に触れるに留めておきたい。

果たして彼女は、この「空白の60年」の間、一貫してジェニーとの「奇跡的邂逅」を追い求め続けてきたことの、その「不屈なる継続力」を信じられるだろうか。

彼女はこの間、繰り返し「才能なき生徒」との出会いによって失意を味わい、それによって、殆ど惰性的な時間を繋いできたというイメージこそ容易に想像できてしまうのである。

だから彼女は、何度か「奇跡的邂逅」へのロマンを内的に形骸化させてきたはずだし、多くの場合、惰性的な日常性の無気力感の中で、孤独な人生を延長させてきたと思われるのだ。

要するに、この主観の濃度の深い映像は、「クリューガーの60年」の内実を描けなかったのである。

私から言わせれば、「ナチス体験」とジェニーとの「奇跡的邂逅」を安易に直結させるという無茶な設定の内に、物語を強行突破しようとしたシナリオの観念的暴走が垣間見えてしまうのである。

殆ど断言していいが、「クリューガーの60年」とは、パーソナルスペースを限りなく狭めた彼女の人生を、殆ど惰性によって繋いできた時間だった。

それ故にこそ、ジェニーとの「奇跡的邂逅」が、彼女の半眠状態の自我を揺さぶり、魂の深いところを強烈に刺激され、その「最晩年の人生の括り」として、彼女を初心に帰らせて、真に優秀なピアノ教師としての立ち上げを可能にしたのである。

彼女にとって、「才能なき生徒」であるミュッツェに象徴される一群のピアノ愛好者は、ジェニーとの「奇跡的邂逅」を果たしたまさにそのとき、彼女の中で特定的に切り捨てられる類の対象人格だったと言えるだろう。

蛇足だが、ミュッツェがクリューガーの意を受けて、「ピアノ教室」に自己基準で参加しようとしたジェニーを戻そうとしたとき、彼女の体に触れた瞬間、ジェニーから不意打ちの暴行を受けた事件の際に、傍らにいたクリューガーが、この暴行を止めるための一切の行動を放棄したその非行為もまた、彼女の「ナチス体験」に淵源するトラウマを引き摺っていることの証左でもあったと言えるだろう。

コミュニストの同性愛者を裏切った「否認行為」、即ち、ナチ将校の取り調べの際に、同性愛者であるハンナとの関係を全面否認した行為が、彼女の脳裡に過ぎったのである。

次に、その「『才能なき生徒』としてのミュッツェの悲哀」というテーマについて簡単に言及する。



7  「才能なき生徒」としてのミュッツェの悲哀



ミュッツェの嫉妬と才能の問題に関わる描写の意味は、「才能がある者は、その才能を磨く義務がある」という信念を固く持つクリューガーによって、「才能がある者は、その才能を磨く義務がない」と暗に言わしめる、格好の対象人格として設定されたということにある。

要するに、ミュッツェに関わる描写において、作り手の思惑の如何に関わらず、本作は、「一握りの天才」と「それ以外の圧倒的多数の凡才」という二分法的発想を持つクリューガーの、その芸術至上主義にも似たキャラクターを浮き上がらせる副産物を生み出したのだ。


天才的ピアニスト、クリューガーを尊敬するミュッツェは、何とか彼女に気に入られようと、嫌がる娘に絵を描かせてそれを見せに行くが、クリューガーは「お辞儀が出来ない」という理由のみで、幼女の思いを平気で踏み躙(にじ)ってしまうのだ。

ところが、この天才ピアニストのお辞儀どころか、平気で悪態の限りを尽くし、暴力を振るうジェニーを、「才能がある」という理由でだけで受容し、その人間性については、「個人的な関心は持たない」などと言って、芸術と人間性を分ける例外的な個人ルールを追認するのである。

詰まる所、クリューガーという女は、「天才は天才を知る」快楽を、「功なり名遂げた天才が、功なり名遂げるであろう天才」を、個人教授する快楽=個人的趣味に読み替えてしまう性格傾向を持つ、充分過ぎるほど喰えない女なのだ。

ジェニーは許せても、そのジェニーに姦計を仕掛けたミュッツェを、心の底では決して許さないのである。

その本音は、彼が凡人であり、凡才であり、「看守」という職業の内にしか自らの才能を見い出せない男である、と決め付けているように思われる。

確かにこの女は、本作の中で刑期を終えた殺人犯から慕われる側面を描いているが、その本音は、ミュッツェに対する意識と変わるところがないだろう。女は、彼らを利用することしか考えていないからだ。

ミュッツェに関して、こんな描写がある。

姦計によってジェニーを窮地に追い遣ったミュッツェは、クリューガーが辞任することを知って、彼女の前に現れたときのこと。

「どうして私に冷たいんです?アバズレがピアノを独占した・・・投げ出さないで下さい」

なお、関係の継続を求めるミュッツェ。

しかしクリューガーは、ミュッツェが事件を仕組んだことを知っていて、非難するばかり。

「所長に事実を言いなさい」
「私には家族がある。できません」
「“私の自由を返して”」

かつてミュッツェが贈った詩の一節を、クリューガーは当人に突きつけるだけだった。

ここで見えてくる文脈には、「芸術表現の自由を奪う者は全て権力であり、それは全ての芸術家の敵であって、そこには許すべき一片の価値すらない」という声高な信念であると言ったら語弊があるだろうか。

紛う方なく、それはクリューガーの「ナチス体験」に淵源するものである。

だから、「看守」という権力の番人であるミュッツェが、その権力を恣意的に行使した不法行為を、クリューガーは決して許容しないのだ。



8  最初にして最後の「表現爆発」 ―― 4分間のピアニスト



「恋人にも言ったことないけど、好きよ。あんたは?私が好き?・・・意味が分った?」

これは、ピアノレッスンが一定の達成点を得たときに、ジェニーがクリューガーに求めた「愛」の確認の言葉。

「聞こえてるわ」

クリューガーは含羞(はにか)むのみ。

その表情を肯定的に受容したジェニーは、矢庭に手錠を嵌められた両手の輪の中にクリューガーを引き寄せ、愛情交歓の如きダンスを求めたのである。

どうやら反権力の振舞いを辞さないジェニーの自我の隙間には、「許容できる大人」という観念が生まれてきたようだった

その情景を遠望するミュッツェは、ここでも捨てられるだけの対象人格として、惨めな時間を過ごすのみだった。

しかしクリューガーとジェニーのハネムーンは、堅固な継続力を持つまでには至らない。

この関係の紆余曲折の大きさは、2人がその内側に抱える矛盾の大きさだった。

本選を一週間後に控えても、ポップミュージックを弾くばかりのジェニーへの苛立ちを、クリューガーは「低俗な音楽」と切り捨てるのみ。

「低俗な音楽?」とジェニー。
「あなたのテクニックを台無しにしたくないの。本選は一週間後」とクリューガー。
「3日も無駄にした。言いつけは守ったよ。シューマンが良きゃ、耳が痛くなるまで弾いてやる。だから好きな曲を弾く」
「騒音よ」
「私のもの、私の音楽。分った?」
「また弾いたら、お終いよ」
「私にもお辞儀させたい?あんたの望みは、皆にお辞儀させること。私は絶対にしない。誰にも」

「お辞儀」を「大人=権力」への白旗掲揚という、言わば、「武装解除の身体表現」としか考えないジェニーにとって、たとえ60歳も年上の「ピアノの恩師」であったとしても、一切の関係を対等にみる彼女にとって、強要された「お辞儀」を身体化することは認知できないのだ。

その後、ミュッツェの策略でジェニーの右手が火傷させられた挙句、ジェニーを憎む団体部屋の女囚たちに襲われる事件が女子刑務所内で出来した。

このとき、ジェニーは自分の身を守るために2人の女囚に重傷を負わせ、その悔しさの思いを込めて、クリューガーの前で嗚咽した。

逸早く事件を知った刑務所長は、スタッフ会議の中で自分が辞任に追い込まれる不安を感じ取って、「ジェニーを監禁室に閉じ込める」ことを決め、直ちに実行に移されたが、その監禁室から脱出した経緯については前述した通りである。

決勝コンクールが開かれた、ドイツ・オペラ座。

「彼は何も知らない。選曲したのは私よ」

これはジェニーの身分証明のために、クリューガーが彼女の養父を呼んでいて、その養父との思わぬ出会いにジェニーが苛立っている気分を解(ほぐ)すために、クリューガーが静かに諭すように、凛として言い切った言葉。

クリューガーがジェニーの養父からシューマンの選曲を依頼されたかどうか、映像は曖昧にしたが、クリューガーのこの言葉には嘘はないと信じられる何かがあった。

自分の心を懸命に整理するように小さく立ち回るジェニーが、そこにいた。

「2分後よ」

オペラ座のスタッフからの連絡が入ったとき、ジェニーは、その表情に堅固な意志を結んだ。

それは予選会の場で重圧感に苛まれて、自傷行為に走った「遅れて来た天才ピアニスト」とは無縁な、堅固な意志を堂々と身体表現する者の態度であった。

クリューガーは、優しくジェニーの上着を脱がせていく。

前線と化したステージに通じる小さなスポットに、晴れのドレス姿のピアニストが見事に立ち上げられたのである。

「幸運を。きれいな手」とクリューガー。
「ありがとう」とジェニー。

それだけの会話だが、二つの魂が、今まさに溶融する時間を作り出したのだ。

まもなく満員の観客が待つステージの中枢に、ジェニーは迷いなく立った。

その直後の映像は、娘の演奏を聴くこともなくオペラ座から立去る養父と、そこに物々しく侵入して来た大勢の警察官たちの騒音が記録された。

「では皆さん、拍手を。ジェニー・フォン・レーベン、シューマン。『ピアノ協奏曲 イ短調』です」

本選のステージの司会者から、ジェニーのフルネームと演奏曲目が紹介された。

「私がやったの」とクリューガー。
「我々は破滅だ」と刑務所長。
「4分だけ待って」とクリューガー。


これは、女子刑務所からのジェニーの脱出を遂行したクリューガーが、警官と共にオペラ座に踏み込んで来た刑務所長に対して、ジェニーの演奏が終わるまで、彼女に手錠を掛けるのを待ってほしいという達ての懇願だった。

ジェニーの演奏が開かれた。

普通に弾き始められたシューマンの協奏曲は、すぐにジェニーの言う「私の音楽」にアレンジされて、クリューガーや満席の聴衆たちの度肝をに抜いていく。

それはまさに、シューマンを現代に蘇らせたポップ調の音楽であり、ジェニー自身のオリジナルな表現世界が大きく弾かれていったのだ。

ステージの床を蹴り、グランドピアノの鍵盤や、弦や響板(ピアノの弦の下に張ってある板)まで叩きつけ、ステージ狭しと自らを回転させて、自らの完璧な律動の内に閉じていったのである。

一瞬、静寂が生まれた。

まもなく、聴衆からの万雷の拍手が沸き起こり、それを淡々と視認するジェニー。

ワインを口に含んでいたクリューガーは、演奏を成し遂げたジェニーに祝福のキスを贈った。


天才が、もう一人の天才を明瞭に認知した瞬間だった。

ジェニーはステージの前方の観客に向かって歩を進め、クリューガーを見つめながら、両手を大きく開いて深々とお辞儀をしたのである。

彼女の両手に手錠が掛けられたのは、その瞬間だった。

静かにフェイドアウトした映像は、「ゲルトルート・クリューガーに捧ぐ(1917年-2004年)」というキャプションに繋がれていった。

(なお、クリューガーは実在の人物であり、60年間、刑務所内でピアノ教室を開いていたのは事実だが、「ナチス経験」については不分明である)



9  「表現爆発」に至る物語加工の大いなる違和感   まとめとして



一切は、「最初にして最後の『表現爆発』」の描写を描きたいための映画だった。

ほぼ完璧な描写だった。

何より、映画史上に語り継がれるであろうこの描写の価値は、相当程度、破綻しかかった映像を、勝負を賭けたシークエンスによる括りによって見事に蘇生させた点にある。

この描写によって、作り手の狙った主題が鮮明になり、一定の自己完結を見たと言えるからだ。

逆に言えば、この描写なしに、明瞭なテーマ性を持った映像が自己完結を果たすことが叶わなかったであろう。


前述したように、本作の欠陥は、「4分間のピアニスト」という「表現爆発」に流れていくプロット展開において、相当に強引な物語加工が施されていて、それが映像のテーマ性を拡散させてしまった点にある。

要するに、テーマ性を集約させた「表現爆発」に至る物語加工の大いなる違和感は、無意味なサスペンスドラマの技巧を挿入させることで、映像構築の不均衡を作り出し、それがテーマ性の拡散を招来させてしまったのだ。

だから、本作は社会派的なメッセージを含む問題作であったかも知れないが、決して抜きん出た秀作であると評価できないのである。

ナチスの時代を引き摺り出す数多の手法の限界がほぼ見えてきた現代社会の物語に、本作はテーマ性を溶かしてまで、「暗黒の歴史」を人工的に繋いでしまったのである。

ジェニーに始まり、ジェニーよって閉じる映像であったにも拘わらず、「ナチス体験」のトラウマを抱え込むクリューガーの一方的な視座で、物語の中枢を転がしていったこと自体に無理が生じているのだ。

社会派的なテーマ性の、その映像化の難しさを考えるとき、ジェニーと養父の関係と、その爛れ方にもっと焦点を当てて、物語を構築していくという方法論も可能であったのではないか。

以上のシナリオ構成を選択すれば、クリューガーの「ナチス体験」の挿入の意味は、全くないと言えるだろう。

どこまでも、「表現爆発」に至る過程の主人公の心理の微妙な振れ方を、丁寧にフォローしていくことで、社会派的なテーマ性を包含する人間ドラマの構築が立ち上げられたと思うのだ。

本作のように、養父の「暗躍」を、ジェニーのトラウマの説明として利用するだけの描写に限定せずに、その関係の爛れた様態をこそ、最低限必要な回想シーンによって挿入すべきではなかったのか。

まさに、そこにこそ、「芸術表現と自由」の問題の深い掘り下げが可能となったように思われるからだ。

もういい加減に、「暗黒の歴史」という固定化された観念が特定的に集中される「ナチスの時代」を、ハイパー近代の中の表現世界に、合理的で説得的な文脈なしに、人工的に繋いでいく安直な映像作りから解放させたらどうか。そう思うのだ。


(2010年1月)

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