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2010年1月25日月曜日

フル・モンティ('97)   ピーター・カッタネオ


 <日常と非日常の危ういラインで、困難な状況を突き抜けた者たち>



  1  肝心の局面で、本気の勝負に打って出た男たちの物語



 かつて、淀川長治が産経新聞のコラムで書いたように、「フル・モンティ」とは「すっぽんぽん」を意味するというのが定説である。

 また、「20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン株式会社」発売のビデオ「フル・モンティ」に添付された「イギリス的用語集」には、「裸、ヌード」という意味が紹介されていた。

 なお、「Full Monty」を英和辞書で検索すると、英俗語として、「(余すところなく)全部」と記されていた。

 更に、以下のような意味を含むという説もある。

 モンティ(Monty)の愛称で呼ばれた、英国陸軍の軍人である、バーナード・モントゴメリー将軍は、第二次世界大戦のエル・アラメインの戦い(北アフリカ戦線での、枢軸国軍と連合国軍の戦い)で、ドイツの誇るロンメル軍団を撃破したが、その持前の激しい性格によって、連合軍総司令部内で喧嘩が絶えないマッチョな性格の御仁。

 ついでに言えば、「空飛ぶモンティ・パイソン」というBBCのコメディ番組の名称も、モントゴメリーに因んで名づけられたもの。

 以上のマッチョ将軍のエピソードから、まさに、「フル・モンティ」という映像のタイトルには、毀誉褒貶(きよほうへん)相半ばするモントゴメリー将軍の軍役人生のように、「相手を恐れず、最後まで自分の持てる力を出し切って、完全に戦い切れ」というメッセージが、ダイレクトに主唱されているという見方も可能なのである。

 このような含意を重視する私が、「ハートフルコメディ」とも、「ポップコーンムービー」とも称される本作の中枢的メッセージを、「最後まで自分の持てる力を出し切って、堂々と完遂せよ」という意味合いで把握した次第である。

 人間は失うものがないとき、しばしば開き直って大勝負に打って出るが、決して失ってはならないものを持つときもまた、散々迷走し、紆余曲折しながらも、肝心の局面において、本気の勝負に打って出るという心理もまた真実であるだろう。

 本作は、そういうモチーフを持つ男たちの映画でもあった。



 2  単に面白いだけで終わらない、「人生論的メッセージ」を包含した映像




 シェフィールド大学に代表される学術都市として、今や工業都市から緑の街へ変貌したシェフィールド(画像は、映画の舞台となったシェフィールドの町)の片隅で、恐らく、低所得層向けの公共的コレクティブハウスに住む主人公のガズが、別れた女房への養育費を払えなくなった挙句、息子のネイサンとの定期的な面会も禁じられて、その窮地を脱するために考えた手段が、男たちによるストリップの公演。

 「一攫千金には、この方法しかない」

 そう考えた男が仲間を集めて、紆余曲折しながらも、最後は、「一回限りの完全ストリップ」を自己完結するまでの話である。

 考え抜かれた秀逸なシナリオによって、ユーモアとペーソス溢れる一級のヒューマンコメディが、20世紀も終わりに近い英国の映画界に誕生したのは、或いは、映画史にとって一つの画期かも知れないと思えるほどだ。

 「面白いだけの映画」なら掃いて捨てるほどあるが、作り手がそれを意図したか否かに関わらず、「単に面白いだけで終わらない、『人生論的メッセージ』を包含した映画」という作品はザラにないだろう。

 少なくとも本作は、私の中では「面白いだけの映画」ではなかったということだ。

 英国映画らしく、一切の奇麗事の言辞を吐かない見事な本作から読み取る、「人生論的メッセージ」の文脈を、私は以下のように簡潔に把握したいと思っている。

その1  生きるためには何でもやれ。男性ストリップ、大いに結構。

 その2  やるからには、最高のパフォーマンスを見せろ、或いは、自分の持てる力を全て出し切れ。

 その3  最高のパフォーマンスに向かうプロセスでの様々な右顧左眄、紆余曲折を経て、そこで自己完結した「自分の仕事」を存分に誇れ。

 その4  「自分の仕事」を存分に誇ったスピリットを捨てることなく、〈生〉を継続させるために、必死の覚悟で「自分の仕事」を探せ。

 その5  そのためには、何よりも、まず動け。動いて、動いて、動き切って、それでも駄目なら、死ねばいい。決して失ってはならないものを失う覚悟を持って、死ねばいいのだ。そこまでやれ。

 詰まる所、生活基盤が脆弱な状況下ながら、どれほど苦境に陥ったとしても、それを何もかも、安直に、「他者や社会の責任」に還元させることなく、自力で生きていくことを諦めるな、その思いを捨てるな。

 少なくとも私にとって、そういう映画だったのだ。



 3  日常と非日常の危ういラインで、困難な状況を突き抜けた男たち




 確かに二番煎じだったが、男性ストリップ・ダンサーを商品価値にするだけの発想を信じる男たちには、それを身体化する勇気があったこと。

 何より、それが重要だったのである。

 色男の若いマッチョが演じた、巡回ショーのストリップ劇場のトイレの中で、件のマッチョ等に絡むスラングを存分に捨てていた女房たちがそうであったように、決して色男とは言えない冴えない中年の失業者もまた、世の女性連中たちに、男性ストリップ・ダンサーへの需要がある事実を検証してしまったのだ。

 彼女たちにもまた、男性ストリップによって性欲を惹起させ得るかも知れないという、男冥利に尽きる果敢な事柄を、堂々と表現する世俗文化が形成される可能性を垣間見せてくれたのである。

 その非日常のスポットには、肥満と不能のコンプレックスを持つ大男、元妻から子供を取り返すことに必死だが、言行不一致の脆弱さを垣間見せる顔立ちの良い痩身の小男、禿頭寸前のブレイクダンスの名人だが、薬中毒の初老の黒人、社会的地位の高さを矜持する、社交ダンスが得意の喰えない中年、リズム音痴という致命的欠陥を、特大ペニスを商品価値にすることで勝負に出た果敢な男、更に、老母を抱えて自殺未遂を図った末に、セラピー代わりに「男祭り」に参加した孤独な男など、多士済々のメンバーが揃っていた。
 
 その中で、「あいつら(巡回ショーの若いマッチョのストリップ/筆写注)にできるのに俺たちだって」と言い切った、そんな大胆な勇気を持つ男たちに、今や、失業の悲哀で嘆いている暇などないはずだ。

 だからもう彼らは、どうしようもなく駄目な大人たちなどではない。


 養育費を払えなかったガズは、結果的に大好きな息子を泣かせなかったではないか。

 確かに彼は、男たちや自分の元女房が会場に来ている事実を知って、ステージに向かう仲間に向かって、「頑張って」と言って、敵前逃亡を図ろうとした。

 「俺はやらない」

 更にそう言った後、ぐずぐずしながら、ウィスキーを呷(あお)る父に向かって、息子のネイサンは、父子の関係が逆転したかのようなコメディラインの中で、きっぱりと言い切った。

 「だらしない奴は嫌いだ。パパが言い出したんだ。度胸を決めて、やって来いよ」
 「これが息子の言葉か」
 「行けよ!」

 それでもなお、まるで説教する者の口調で言い切るネイサンの強い意志が、ダッチロールする父親の背中を後押しした。


 そこまで言われて、ガズは逃げられなくなった。

 彼にとって、息子との関係の継続だけが全てだったからだ。

 しかし、この解釈のみではガズに可哀そうだろう。

 彼は敵前逃亡する様子を垣間見せながらも、どこかで自分の意志を強く押し出す契機を待っていたのだ。

 息子の言葉は、その決定的な契機になったに過ぎないが、それでも結果的に、「状況逃避」せず、その状況下での「恐怖支配力」に打ち勝ったガズの「状況突入」こそが、何よりこの男に最も肝心な何かであったと言えるだろう。

 そんな男にとって、今や、「前線」への「状況突入」以外に選択肢が残っていなかったのだ。

 舞台を指差す息子に、ガズはウィスキーを一口呷るや、既に演技が始まっているステージに、意を決してその痩身を預け入れたのである。

 そして、ここにもう一人、「前線」への「状況突入」を遂行した男がいた。

 肥満コンプレックス故に、男性ストリップへの出演をを躊躇していたデイヴである。

 彼は、物分かりのいい奥さんの後押しもあって、肝心の局面で、「前線」における一番バッターとして活躍する男に変貌していたのだ。

 「一度きりだ。やるなら、とことんやろう!」

 デイヴはそう言って、いの一番に「前線」に立って、この「男祭り」の開始を告げる堂々とした宣言を結んだのである。

「今晩は!まさかこんな盛況とは!我々は若くないし、美男でもありません。でも今夜、たった一度だけ、全て脱ぎます!」

 如何にも喜劇仕立ての、ユーモアが存分に溢れる一連のシークエンスだったが、この地方に住む多くの男たちがそうであるように、彼らが背負う人生の重さを逆手に取って、軽妙に捌(さば)く脚本の構成力は抜きん出ていた。


 ともあれ、そういう愉快な「人生論的メッセージ」の文脈を、凛として放った映画だったのである。

 従って本作は、日常と非日常の危ういラインで、困難な状況を突き抜けようとする究極のパフォーマンスによって、本来的であると信じる日常性を、自らの手に奪回せんとする男たちの物語でもあった。

 男たちの物語はまた、かつての鉄鋼の町、シェフィールドの一画に住む者たちのコミュニティが、束の間、生命の躍動感を復元させたかのような共同幻想の中に踊っていたのである。

(2010年1月)

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