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2010年3月19日金曜日

クルーシブル('96)   ニコラス・ハイトナー


<「負のスパイラル」の「非日常の日常化」という時間の破壊力>



序  「人類の歴史上最も不可思議な最も恐るべき出来事の一つである事件」



「今度の映画は舞台監督ニコラス・ハイトナーが当たっているが、彼は『ミス・サイゴン』の舞台演出家だ。しかしこれをみても、ハリウッドの監督がいかにこの作品の監督を逃げたかがわかる気がする」(産経新聞 97年4月1日「淀川長治の銀幕旅行」)

これは、マッカーシズムを指弾した、アーサー・ミラーの著明な戯曲の映画化に対する、淀川長治の言葉である。

淀川長治が言うように、天下のハリウッドが、この映画の監督を舞台の演出家に委ねざるを得なかったのは、そこに描かれているアメリカ史の二つのタブー(セイラム事件、マッカーシズム)に付き合わされることを回避したとしか思えないのだ。

「わたしは読者がここに、人類の歴史上最も不可思議な最も恐るべき出来事の一つである事件の本質を発見されることと信じる」(「アーサー・ミラー全集Ⅱ」アーサー・ミラー著 菅原卓訳 早川書房・「るつぼ」―『この劇の歴史的正確性に関する解説』より)

これは、アーサー・ミラー自身の言葉。

彼は、「人類の歴史上最も不可思議な最も恐るべき出来事の一つである事件の本質」に肉薄するために、史実に脚色を加えつつ、マッカーシズムへの警鐘を鳴らした全4幕の戯曲に結晶させていった。

当然、腕力のある戯曲の公演は演劇的成功を収め、アメリカ演劇の古典になっていったのである。

 アーサー・ミラーの秀逸な戯曲の忠実な再現を意図した本作は、それにも関わらず、映像によるエピソードの自在な切り取りによって、戯曲の演劇的縛りから解放された一定の映像構築を果たしていて、そこに「映画の嘘」を塗り込んだ臭い会話が散りばめられていたにしても、相当程度、リアリズム溢れる社会派の作品に仕上がったと言えるだろう。



1  「宴」の後の空気の変容



以下、史実に沿ったプロットの発端について、簡単に紹介する。

現在のセーラム市(ウィキ)
1692年、マサチューセッツ州セイラム。

黒人奴隷のテイテュバが主導する、「夜の集会」が開かれていた。

それは、自分の好きな男の名を告白することで願いを叶う呪術であったが、今で言えば、全裸の少女を含む軽躁な舞踏に酔う、妖しげな思春期の「ゲーム」と言ってもよかった。

その辺りの「ゲーム」の事情を、信頼に足るサイトから、一文を紹介する。

「チツバ(注1)の占いは、わびしく単調な彼女たちの生活に興奮をもたらした。しかし、それは危険な興奮であった。未来を占うことは、ピューリタンのニューイングランドでははっきりと禁止されており、運勢占いは悪魔の業につながり、永遠の呪いと地獄の業火を意味した。か弱い少女たちに対する呪術の影響は甚大であった。少女たちは秘法を見せられて気も動転し、奇妙な行動をとり始めたのである」(「Barbaroi! ・エッセイ セーレムの魔女裁判」参照)


(注1)前掲書のサイトによると、独立派の中心人物であるトマス・パトナムが、西インド諸島から連れて来た夫婦の奴隷の妻の名前であるらしい。映画字幕では、「ティテュバ」と紹介。


一切は、少女たちによる、この「夜の集会」というゲームから開かれたのである。

なぜなら、この「夜の集会」が、牧師のパリスに目撃されてしまったからだ。

運悪く、ティテュバは、そのパリスの家で働いていて、パリスの娘のベティも「夜の集会」に参加していたのである。

そして、その「夜の集会」の中心にアビゲイルがいたということ。

これが大きかった。

まもなく開かれるセイラム魔女裁判で、彼女は重要な役割を果たすからだ。

彼女は元々、働き者で評判の農夫、ジョン・プロクター家の召使いをしていて、そのプロクターと肉体関係を持ち、彼の妻エリザベスの恨みを買って追い出された経緯を持っていた。

プロクター(左)とアビゲイル(右)
プロクターを一途に愛するアビゲイルのエリザベスへの憎悪が、やがて魔女裁判で表面化するのである。

一方、牧師のパリスは、「夜の集会」が村人たちの不安を招き、自分の地位を危うくする危険を察知し、その難局を乗り越えるため、魔女狩りを利用して、自分の権力を強化する意志を持つに至った。

全ては、この牧師とアビゲイルの邪悪な感情が、見えない部分でリンクしたところから開かれたのである。

まもなく、悪魔学に詳しいヘイル牧師がセイラムにやって来て、ベティの様子を見ることになった。

彼の訪問は、村中を不安に陥れた。

魔女狩りの様相が濃厚になってきたからである。

「宴」の後の空気の変容は、殆ど突沸の如き現象を晒したのだ。



2  「氷のように冷たい神の風が吹き荒れるぞ」



姑息な自己防衛を図るアビゲイルによって、ティテュバがヘイル牧師に調べられた。

彼女は周囲の圧力で、悪魔の声を聞いたことを告白したばかりか、他の村人の名を出したのである。

その場にいた少女たちも、ティテュバに合わせた行動を取っていく。

マサチューセッツ州ボストンから、判事であるダンフォース副知事がセイラム村に入って来たことによって、いよいよ、「夜の集会」のゲームはポイント・オブ・ノーリターンの魔女裁判の様相を呈するに至った。

ダンフォース判事の前で、少女たちは「幼い犠牲者」として認知された。

この流れを作ったアビゲイルの、狡猾な自己防衛的な戦術が成功したのである。

「窓から入って来て、のしかかったんです。その重みで息が詰まりかけました。それなのに耳元で、“ルース、わしに不利な証言をしたら殺すぞ”と」

ルースという幼い少女の偽りの証言で、隣に住む、杖をついた一人の老人が告発され、あろうことか、悪魔の遣いにされてしまったのである。

アビゲイルの姦計によって、ジョン・プロクターの妻であるエリザベスの逮捕が迫っていた。

「告発する側はいつも神聖で、汚れがないのか?子供の言葉に踊らされ、復讐が法を作っている!」

これは、アビゲイルの命令で動く召使のメアリーに告発され、逮捕に赴いた官憲にプロクターが放った言葉である。

そのメアリーも、自分の身を守るために必死だったのである。

遂に、エリザベスが逮捕された。

以下、そのときのジョン・プロクターの言葉。

「天国と地獄の戦いだ。我々の装いは剥ぎ取られた。氷のように冷たい神の風が吹き荒れるぞ」

翻って、プロクターの妻らの拘束に対して、抗議の署名を渡したときのダンフォース判事の言葉。

「時代は変わった。物事は黒か白か。善と悪がもやもやと混じり合って、人々を混乱させた時代は過ぎ去ったのだ。神の恩寵で、善人と悪人が区別できる時代だ」

妻の赦免に動いたプロクターに、逮捕の危機が迫っていた。

プロクター(右)とアビゲイル(左)
今やは聖女扱いとなったアビゲイルらは、プロクターの不義の問題の発覚に端を発して、遂に彼を告発したことで、彼 もまた、他の無実の人々と共に逮捕されるに至った。

大量の石を乗せられた末の、拷問を受けた「魔女」の死。

コーリーと言う名の、83歳の老人であり、同時にプロクターの「同志」でもあった、気骨のあるパワフルな男だった。

そして、公開処刑の断行。

プロクターの処刑を目前に控えて、何とか彼の助命を果たそうと、ヘイル牧師がエリザベスに偽証を頼んだことで、夫婦の会話が実現した。

そんな沸騰した空気の中での、夫婦の会話。

「罪を認めたら許される。お前は、どう思う?・・・告白を?」
「あなたが決めて」
「お前の望みは?」
「あなたに任せます。でも生きて・・・」
「聖者のように処刑台に上る?そんな強い人間じゃない。あいつらに嘘をつくのが何だ。腐った連中だ」
「今まで耐えたのに?」
「意地で耐えたのさ。イヌに嘘の告白をするとは・・・お前の許しが欲しい」
「私でなく、あなたが自らを許して。問題は私の魂でなく、あなたの魂なのよ。決断がどうであれ、正しい人間の下す決断を。私にも罪はあります。夫を不義に追い遣った」
「バカを言うな」
「私の罪まで背負わないで」
「いいや、全て私の罪だ」

凄い会話である。

「あなたに任せます」というエリザベスの言葉は、「夫を想う優しき妻」という幻想で生きるナイーブな日本人には到底理解できないだろう。

「俺は告白するぞ!」

結局、この会話を通して、プロクターは「生きること」を選択したのである。



3  「私は魂を売った人間だが、名前は私にくれ!」



しかし、プロクターの前に大きな壁が待ち受けていた。

「さあ、お前が署名すれば、他の罪人も皆、見習う」

ダンフォース判事に署名を求められたプロクターに迷いが出来したが、追い詰められた挙句、彼は「悪魔との契約」を認めてしまったのである。

その「悪魔との契約」に他の逮捕者の同席があったことを迫られたプロクターは、「ノー」と断言した。

プロクターにとって、明け透けに仲間を売ることだけは回避したかったのである。

あとは全て、本人の署名の問題のみである。

「私は悪魔に会い、彼と契約したことを告白する」

この書面に、プロクターは自分の名を記した。

全てが終わった瞬間のように見えた。

「村人に見せる」

このパリスの言葉に、プロクターは反応した。

「なぜ、公にする必要があるのか?扉に張らなくても、神は私の罪を御存じだ!仲間を売ったことを、息子たちに何と言えばいいんだ!署名はどうしてもできない!」
「なぜ出来ない?」とダンフォース。

この問いに、プロクターは叫びを刻んだ。

「私の名前だからだ!私に、これ以外の名前はないからだ!私は魂を売った人間だが、名前は私にくれ!」

彼は、自分の手に持った誓約書を破り捨ててしまった。

「いいんだ、これでいい・・」

処刑台に連れて行かれる夫を背に、妻は、「命乞いを!」と求めるヘイル牧師に対して、一言、呟いた。

「彼は誇りを取り戻したのよ。それを、誰も奪うことはできない」

映像のラストシーン。

プロクター(右)
「魔女」とされた他の二人の婦人と共に、プロクターは聖書の一節を高らかに唱えながら、処刑台の露と消えていった。

「その後、多くが虚偽の告白を拒否。19人の処刑をもって、セイラムの魔女狩りは幕を下ろした」

これが、映像が閉じられた後のキャプション。

「魔女」とされた者は言うまでもなく、「魔女」を名指しし、それを受けて名指しされた者を裁判にかけ、有罪にした挙句、彼らを公開処刑した者に至るまで、その「負のスパイラル」の「非日常の日常化」という時間を延長させていくプロセスの中で、告発者としての少女たちの証言を疑う心証を得たにも関わらず、狂気に満ちた「負のスパイラル」を止められなかったという現実の怖さ ―― それこそ、何より震撼すべき事態であった。

裁く者も裁かれる者も、少女たちの偽証を察知してもなお、魔女裁判を止められない状況の凄惨さ。

裁く者は権力の維持に拘泥し、そこに関与する牧師たちも自己保身に雪崩れ込んでいく。

ただ一人、少女たちの偽証と付き合う欺瞞性に耐えられず、ヘイル牧師は自らの任務を捨てることを決意していたが故に、プロクターの命乞いに奔走した。

自分の「良心」の証を確保するためのヘイル牧師の行動には、当然、限界がある。

何より、自分の妻を特定的に狙われたばかりか、姦通罪の嫌疑をかけられたプロクターに残された選択肢が限定的だったからだ。

この映画が何より遣り切れないのは、絶望的な状況の中で、絶望的な闘いを強いられる者たちの、その凄惨な内的状況である。

人間はこんなとき、何ができるのか。

生存戦略の中枢である自我の機能が、殆どブラックアウトと化したとき、それでも人間は、その閉塞状況を穿つ覚悟の一撃がどこまで可能なのか。

殆ど絶望的であったというのが、この映画の帰着点でなかったのか。

「負のスパイラル」の渦中では、如何に人間は無力で、脆弱であるのか。痛感させられる思いだ。

この辺りについては、後述する。

セーレムの裁判風景・ブログより
(因みに、エリザベスは妊娠していたため、処刑は免れた。また、魔女裁判を疑う空気が村に充満しつつあったとき、身の危険を察知した事件の張本人、アビゲイルは失踪してしまい、後に「街の女」になったと言われる。更に、アビゲイルの叔父であった牧師のパリスは、職を追われた後、消息不明になったということ ―― アーサー・ミラーの原作、「るつぼ」参照)



4  魔女狩りの背景



ここでは、物語から離れて、15世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパで猛威を振るった魔女狩りの背景について簡単に整理してみる。

その1 

超自然的信仰体系 ―― 「悪魔が人間に悪さをする」という素朴な観念の形成(神に対峙するものとしての、悪魔という観念への恐怖感→悪魔が憑依して「魔術」=「サバト」を駆使する「魔女」という概念形成)、一般の物質的精錬に留まらず、人間の霊魂の変容をも包含する錬金術は、異端者への弾圧にも利用。

その2  

スペインの異端審問(ウキ)
閉鎖的共同体下(地域のの普遍性が乏しく、特定的傾向あり)での宗教(キリスト教圏に限定できず)的価値観の存在 ―― 異端審問所ではなく、寧ろ、民衆法廷の存在の重要性。

その3

社会的・文化的・気候的・宗教的変動による精神不安の広がり ―― 宗教改革による火刑裁判、合理主義を信奉するルネッサンス人も魔女裁判に関わる歴史の制約性、近世ヨーロッパの気候変動と飢饉の発生、農村荒廃、等々。

以上、大雑把に整理してみたが、近年の研究では、幻覚作用を惹起させるキノコの一種、マジックマッシュルームと、「魔女の集会」との関係が指摘されているが、なお不分明である。

参考までに、マジックマッシュルーム説についての報告を紹介する。

「メソアメリカの先住民などで宗教的儀式に使われてきたことが分かっています。有名なマヤ文明の遺跡跡からキノコの形をした小型の石像がいくつも発見されています。このことから当時何らかのキノコが重宝されていたことが窺い知れ、それが儀式に使われたマジックマッシュルーム(注2)ではないかと思われています。

また、15世紀から18世紀にかけてヨーロッパ各地で行われた魔女裁判について、裁判が行われた地域の多くが麦角の発生しやすいライ麦に依存していた地域であり、特に裁判数が増加した年の春と夏は湿度が高く、気温が低く麦角の生育にてきした環境であったこと、魔術や覚醒によって引き起こされたとされる症状や体験が麦角の症例に似ていること等から魔女裁判が麦角中毒として引き起こされたとする説もあるようです。

マジックマッシュルーム・沖縄地区税関HPより

効能としては特に色彩感覚に関する幻覚症状が現れるため、世界のいたるところで宗教的儀式に使われ、特にキノコは崇拝の対象となり、その作用である酩酊状態から神話の題材が生まれたり、それが民話になり、受け継がれてきたと言われています」(「水海道ロータリークラブ・THEWEEKLYREPORT」より/筆者段落構成)


(注2)現在、我が国では、「麻薬、向精神薬及び麻薬向精神薬原料を指定する政令」の2002年の改正によって、マジックマッシュルームは幻覚作用を惹起させるキノコの一種として、非合法ドラッグに指定され、規制対象になっている。



5  セイラム魔女裁判の構造



セイラム魔女裁判(ウイキ)
ここからは、セイラム魔女裁判をテーマにした本作の構造について言及していく。

「悪魔を殺せ」

これが、本作の中枢にある情感文脈である。

それを、時系列で整理してみる。

①閉鎖系の共同体社会の形成 ②堅固な価値観の共有→③このコミュニティを支える価値観を撹乱、紊乱する状況の出来→④自浄能力を発揮できないことによる外部権力の導入(ここに、法的拘束力を持った権力関係が発生)→⑤作為的な「敵味方論」が突沸する→⑥終わりなき内部粛清の嵐

以下、内部粛清を出来させたセイラム魔女裁判の経緯について、本作に則って具体的に検証していく。

①に関しては、前掲のサイトからの、以下の文章で把握できるだろう。

「問題のセーレム・ヴィレッジは、現在のマサチューセッツ州ダンバーズ町に当たるが、セーレム港から内陸へ数キロメートル入った小さな集落にすぎなかった。もともとセーレム・タウンの一部に過ぎなかったが、1672年、『セーレム村』として独立した。1692年当時、そこに住むピューリタンの住民は、神を敬い、悪魔を恐れる真面目で勤勉な人たちだった」(「Barbaroi! ・エッセイ セーレムの魔女裁判」参照)

そして、この「内陸へ数キロメートル入った小さな集落」の中で、「セーレム・タウンの衛星的状態」に不満を持つ牧師グループが、村の完全独立を目指す活動の延長線上にセイラム魔女裁判が出来したということだ。

「当時、この小さなセーレム・ヴィレッジはすでに問題の村だった。セーレム・タウンから名実ともに完全独立を念願するグループと、セーレム・タウンの衛星的状態に満足するグループとが対立していたのである。この主導権をめぐって2派が争い、この争いを避けようとした牧師が、すでに二人までも相次いで村を離れていた」(前掲サイトより)

閉鎖系の共同体社会の中の空気は、漸次、閉塞感を深めていったのである。

ニュー・イングランド(ウキ)
②については、17世紀前半、ニュー・イングランド(ピューリタンが最初に入植した、米国北東部の6州のこと)に脱出したピューリタンは、「アメリカ例外主義」という名の、エスノセントリズム(自民族中心主義)の精神的基盤であったピューリタンの世界観によって、自らを神の選民であると考える、「ピューリタン・エクソダス」を真摯に実践躬行(きゅうこう)することに誇りを持っていた。

現在は、多文化主義の広がりの中でサラダボウル化しつつあるが、それでもピューリタンの深い道徳的価値観は、その後も永く、「アメリカ」という国家に呼吸する人々のアイデンティティになっていた事実を否定できないだろう。

「原理主義の宗教国家」としてのアメリカの、拠って立つ精神的基盤がそこに胚胎した所以である。

彼らは紛れもなく、「神を敬い、悪魔を恐れる真面目で勤勉な人たち」だったのだ。

神を敬う精神が強化されていくほど、その存在の証を仮構し、それを屠る行為が必然化され、結局、「悪魔の心を宿す『人間』」の存在を消滅させねばならなくなるだろう。

「魔女」という名の「悪魔の心を宿す『人間』」に対する抹殺が、宗教的倫理観に則って内的に要請されてくるのである。

③については、ブードゥー教(動物の生贄などで知られる、ベナン、ハイチなどで盛んな民間信仰)の呪いなどに詳しいとされる黒人奴隷の召使い、ティテュバによって、アフリカから持ち込んだ妖術のゲームを、コミュニティに集う何人かの娘たちが、満月の夜に森の中で「集会」を開いていて、それが牧師によって発覚され、問題化したということ。

ベナンのブードゥーの祭壇(ウキ)
全ては、そこから始まっていく。

このコミュニティを支える厳格なピュ―リタリンにとって、それを破壊する悪魔の存在が仮構されるのは、或る意味で必然的だったと言えるだろう。

拡大的に定着していったキリスト教文化(必ずしも、キリスト教にあらず)の中で、「悪魔が人間に憑依して悪さをする」という観念もまた、歴史的な継続力を保持してきたからである。

とりわけ、ニューイングランドに脱出を図ったピューリタンたちにとっては、自分たちの健全な倫理観、生活観を破壊する悪魔の存在は、魔女裁判が殆ど終焉していたヨーロッパに比べて、なお堅固に張り付いていたと思われる。

④悪魔の仕業によると信じる、娘たちによる「夜の集会」の問題を解決できないコミュニティは、マサチューセッツ州のダンフォース判事や、悪魔学に詳しいヘイル牧師という外部権力を導入することで、前述した内部対立がそこに重厚に絡みつつも、それまでコミュニティを支配していた緩やかな権力関係をかなぐり捨てて、全面的に委託するに至った。

⑤については、アビゲイルのイニシアティブによって、コミュニティ内部の敵を指名し、指名された彼らを悪魔の手先として篩(ふる)い分けていくという、いつの時代でも変わらない「敵味方論」の突沸現象が発生したのである。

ここでは、外部権力の役割は、アビゲイルによって名指しされた悪魔の手先を召喚し、その罪状を明らかにしていく機関となっていく。

⑥ ⑤の結果、名指しされた者たちは次々に縛り首に遭うが、興味深いのは、使命の順番が、「十戒」を満足に答えられない身寄りのない物乞い老婆であったり、満足に自分の足で歩けない老人であったりした事実である。

これは、ヨーロッパのケースと同じである。

「敵味方論」の突沸の中での人間の所業は、普遍的なのだ。

そして、内部粛清の最後には、少女と一時(いっとき)の関係があり、妻に疑われながらも、ピュ―リタシズムを誠実に実践しているピューリタンであったということ。

即ち、本作の主人公である。

これは実話をベースにしたドラマであるが、最も手強い「敵」への攻撃が最後になるのも、狡猾な者たちの所業にあって、ほぼ必然的な流れであると言えるだろう。

ところで、この魔女裁判の経緯は、20世紀に出来したマッカーシズムと酷似するものがある。

真実の瞬間(とき)」より
真実の瞬間(とき)」(1991年製作)や「グッドナイト&グッドラック」(2005年製作)で描かれていたように、「お前は原爆反対運動の集会に参加したか」などという理由をつけ、その集会に参加した者たちを共産主義の手先と断定して裁いた構造は、セイラム魔女裁判と同質性を持つと言っていい。

それを先導したマッカーシーは、本作の登場人物で言えば、ダンフォース判事(マサチューセッツ州副知事)に当たるが、「魔女」の指名者としてのアビゲイルにも人格分化しているとも言えるだろう。

そして何より重要なのは、ジョン・プロクターにダンフォース判事が署名を強いた後、「悪魔との契約」に他の逮捕者の同席があったことを迫られた場面である。

このシーンは、下院非米活動委員会での査問委員会に召喚させ、仲間の名前を権力的に吐かせる手法と同じものだ。

本作では、プロクターは、「ノー」と断言したが、「真実の瞬間」でも描かれていたように、「君の名を挙げさせてくれ」などと依頼することで、多くの「良心的知識人」が「友好的証人」になっていった卑屈さが、マッカーシズムの澎湃(ほうはい)たる波浪の中では常態化されていたのである。

人間の最も脆弱な様態を、執拗に晒させることの残酷さ。

真昼の決闘」より
真昼の決闘」(1952年製作)がそうだったように、直接的な弾劾という方略を回避した物語の形式をなぞりつつも、セイラム魔女裁判に題材を取った本作が、明らかに、マッカーシズムへの抗議を企図した作品であることは明瞭だった。




6  「負のスパイラル」の「非日常の日常化」という時間の圧倒性



「下院の非米活動調査委員会は1938年からあったが、ローズヴェルトとその新規巻き直し(ニューディール)政策は、社会主義を思わせる大胆な方策をしばしば取っていたから、罪とする火種はあまりなかった。

ところがセイラムとおなじく、ある時点に達し40年代も後半になると、社会関係が急に変り、あるいは変えられ、単に反資本主義=反体制というだけで不遜だ、けしからんということになり、反逆罪でないまでも、それに近い目で見られた。

アメリカはいつも宗教的国家であった。

長いあいだ、悲劇的主人公を求め続けたが、今やっとそれを見つけた。もはやこのセイラムの物語をやめるわけにはいかない。仕事を進めれば進めるほど、信じられないかもしれないが、個人の良心が世界を転落から救う道だと確信するようになった。

夏の中頃までに、プロクターがつまらない罪悪感を捨て『聖者のように絞首台に登ろう』と言いきり、告白書を破って法廷に抗し、処刑に甘んじるところまでいった。これで劇の決着はついた。偶然の結果として、私のギリシア悲劇観が変り、あれは治療的効果を持っていたにちがいないと思うようになった。

アーサー・ミラー(ウキ)
つまり、残虐な取りかえしのつかない暴力に対する集団社会の能力には限りがあることを悟らせ、女神アテネが原始的連鎖的な血の復讐を鎮める掟を作ったように、新しい制度による純化と抑性をはかったのである」(「アーサー・ミラー自伝 下」アーサー・ミラー著 倉橋健訳 早川書房/筆者段落構成)


本作は、以上のアーサー・ミラーの言葉に即した戯曲の映像として、「緊張感溢れる力作」という評価を否定する何ものもないと言えるだろう。

「個人の良心が世界を転落から救う」

どうやら、ここにミラーのメッセージがあるようだ。

しかし、「人生論的映画評論」の視座で物語を捉えたとき、果たして、一つの閉鎖系の共同社会で出来した集団ヒステリーが、終わりなき「負のスパイラル」の様相を呈した状態下にあって、「個人の良心」によって「状況」と対峙することがどこまで有効であるか疑問である。

理想を持つのは一向に構わないが、しかしそれが限りなく実現困難な理想であったら、却って人間の選択し得る合理的行動の方法論を封印して、言葉のゲームで終わってしまうリスクをも抱える現実の認知を忘れてはならない。

「国家レベルで吹き荒れた魔女狩り」であるとも言える、中国の「文革」の渦中で、「個人の良心」が丸っ切り機能し得なかったように、人間が開いた集団ヒステリーが、「負のスパイラル」の「非日常の日常化」という時間のピークアウトの状況に呑み込まれてしまったら、「個」としての人間の圧倒的な脆弱さを晒す以外にないだろう。

「負のスパイラル」の「非日常の日常化」という時間が荒れ狂った渦中で、「個人の良心」が自己閉鎖系のナルシズムを超えられると言うのか。

「グッドナイト&グッドラック」より
ジョージ・クルーニー監督による「グッドナイト&グッドラック」の実在のヒーロー、CBSのエドワード・マローによる、マッカーシズムとの闘いが有効性を持ち得たのは、彼をサポートするクルーたちの存在があり、且つ、マッカーシーへの不信が高まりつつあった空気の後押しがあったからである。

確かに、エドワード・マロー個人の尽力によって、マッカーシーへの不信の世論形成に多大な影響力を持ち得た功績を否定するつもりは毛頭ないが、それでも彼の闘いが、マッカーシズムが終息に向かう1954年段階でのものであった事実を認知せざるを得ないのだ。

完全にお手上げであると断じないが、しかし、「負のスパイラル」の「非日常の日常化」という時間のピークアウトの状況下で、「個人の良心」の全面展開によって、その泥濘の時間を清浄にする行為がどこまで有効であるか、一貫して私には疑問が残るのである。

ニコラス・ハイトナー監督

 これは、「連合赤軍事件」や「オウム真理教事件」の内部粛清でも同じことだった。


集団ヒステリーが、「負のスパイラル」の「非日常の日常化」という破壊的な時間を延長させていくとき、そこに集団圧力が働くことで、危うい「グループシンク」(集団思考の弊害)が惹起し、多くの者の「リスキーシフト」(集団内で、極端な言動に走る)が暴れまくって、「個人の良心」が入り込む余地は相当に難儀であるか、或いは、不可能であるに違いない。


「個人の良心」がナルシズムの枠組みの内で自足するなら、殆ど言うべき言葉を持たないが、エドワード・マロー個人が多分にそうであったように、せいぜい人間ができるのは、「負のスパイラル」の「非日常の日常化」という時間のピークアウトの状況を巧みに遣り過ごしながらも、その破壊的な時間を無化し得る合理的戦略・方略・戦術を組織的に構築することであり、そのための必要最低限の熱量供給を確保しておく努力ではないのか。

エドワード・マロー(ウキ)

そこにおいてこそ、安直な英雄待望論を超えるリアリズムの真骨頂が試されるのだ。

有限なる頭脳を最大限に駆使する闘争論のリアリズムに、僅かばかりの状況突破の可能性を見い出すことである。

尤も、英雄待望論を不要とする社会が、最も良い社会であるのは言うまでもない。

人並み外れて熱量を自給できる者が、その能力を最大限に発揮して状況突破し得る社会は、内実の豊富な「個人の良心」による実践が有効な社会であると言っていい。

それは、言いたいことが存分に吐き出せて、言い過ぎることを反省できる、極めて自浄性の高い社会であるからだ。

ともあれ、「巧みなる遣り過ごし戦略」以上に賢明な選択肢は、その類の「非日常」の危うさを「日常化」しない恒常的努力以外に存在しないだろう。

残念ながら、それが人間であり、人間の本質的な脆弱性であるという外ないのである。

(2010年3月)

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