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2010年4月29日木曜日

ドイツ零年('48)   ロベルト・ロッセリーニ


<リアリズムとの均衡への熱意の不足 ―― 「葛藤」描写の欠損の瑕疵>



1  「零年」が開いた社会の二つのアポリア



どれほど支離滅裂であったとしても、曲がりなりにも国家理念を持ち、そこに拠って立つ人々の自我の安寧の基盤が保証されていた、極端に尖り切った時代が崩れ去ったとき、そこから開かれた地獄の様相こそ、何より、「零年」という厳しい時代の裸形の風景を主題にする映画が内包する世界であった。

生きるためには売春、盗みなど何でもありという時代の始まりは、それまで自我を支えてきた「大いなる物語」の決定的崩壊の中で、まさに「生き地獄」との折り合いを如何につけていくかという、人間のプリミティブな欲望が支配する時代の始まりでもあった。

これが、このような時代や社会の常として、「零年」が開いた一つのアポリアであった。

そして、「零年」が開いた社会の、もう一つのアポリア。

それは、尖り切った時代の推進力になった思想(ナチズム)がなお延長されていて、それが包含する極端な弱肉強食の観念との厄介な共存を余儀なくされる怖さである。

そんな社会に生きる者たちの裸形の自我の爛れの様態を、「生き地獄」のリアリズムを全身に感受して、必死に呼吸を繋ぐ「少年の悲劇」の内に描き出そうとした映像こそ本作だった。

しかし何度観ても、主題提起の問題意識のみが先行して、作り手が狙ったであろう「零年の風景」の活写に成功したかも知れないが、「零年の風景」を支え切る心理的風景の映像化には頓挫したという印象を拭えないのだ。

「自死」に流れゆく少年の「悲哀」、「不幸」、「犠牲」という、極めつけの構図
「零年の風景」を支え切る、心理的風景の映像化の頓挫。

本稿では、極めて評価の高い本作のプロット説明を省略して、この一点について言及したい。



2  リアリズムとの均衡への熱意の不足 ―― 「葛藤」描写の欠損の瑕疵



「自分の〈主義〉を守り、撮りたい主題で作品を実現できる機会を待って、苦節十年もいとわないタイプの作家ではなかったのだ」(訳者あとがき ロッセリーニに近づいて)

因みに、この言葉は、「ロッセリーニの〈自伝に近く〉」ロベルト・ロッセリーニ著ステファノ):ロンコローニ 朝日新聞社参照)からのもの。

ロッセリーニ特有の、この精神の自在性は、フランス文化に親しみ、経済的に豊かな家庭で育った環境の影響もあるのか、良く言えば思考は柔軟で、イデオロギーに囚われない映像作家という印象を定着させていると言える。

「私はいつも、とことんまで行く人間だ」(前掲書)

ロベルト・ロッセリーニ監督
これは、「戦火のかなた」(1946年製作)の後で、厳しい労働条件下でも、頑固に仕事をやり抜いた際の、ロッセリーニ自身の自負である。

上流家庭で自我を育んだとは思えない彼の馬力・腕力の凄みが、あまりに有名な「戦争3部作」からひしと伝わって来るのは紛れもない事実。

しかし私自身、常々感じるのだが、ロッセリーニには何かが足りないのだ。

それは、「いつも、とことんまで行く人間」の突破力の展開を顕示する自己運動の中で、何かが漏れ出てしまう類の欠損であるのかも知れない。

そんな風にも思えてならないのだ。

それを一言で要約すれば、フラットな「人物描写」の中で殆ど希釈化されてしまう、「葛藤」という中枢的な心理的風景である、と私は勝手に推測している。

この作り手には、裸形の自我の爛れの際(きわ)の様態を的確に表現する、「葛藤」という中枢的な心理的風景が描き切れないのだ。

或いは、「ネオレアリズモ」の名において描こうとしないのだ。

アンドレ・バザンの「カイエ・デュ・シネマ」に集合する若い批評家たちから、過分なる称賛の後押しの影響もあって、後に、彼自身の思惑とは無縁に、「ヌーベルバーグの父」という「大看板」を背負わされるという経緯は、自在な作家主義への変容の中でも検証されるだろう。

アンドレ・バザン
既に、「ネオレアリズモ」からの希釈化の印象を拭えない、「ドイツ零年」での尖鋭なる作家精神の自己顕示の内にも、その片鱗が窺える。

だからこそと言うべきか、「ドイツ零年」におけるロッセリーニの突破力の内実が気になってならないのだ。

「葛藤」描写の欠損の瑕疵は、リアリズムとの均衡への、本作の熱意の不足を印象付けてしまうのである。

本作において、愛する父を限りなく「自殺幇助」に近い流れ方によって、主人公の少年が遂行する「殺人」へのモチーフと、そのトリガー(契機)となる「ナチズム」との交叉を描いたつもりでも、そこに「葛藤」という中枢的な心理的風景が御座なりな描写で済ませてしまったとしか思えないのだ。

その辺りのシークエンスを、次に再現する。




3  心理描写を捨て切った映像の大いなる違和感



「明日、父が退院します。でも、食べさせる物がありません。父のために何をしたらいいでしょうか」

かつて「ナチズム」を教え込まれた元教師に、本作の主人公であるエドムント少年が相談したときの反応は冷淡なものだった。

エドムント少年と元教師
「何もできんさ。健康な者さえ楽じゃないんだ。運命には逆らえんよ」
「死んだら・・・」

少年がそう漏らしたとき、元教師は、今度はきっぱりと言い切った。

「誰でも死ぬ時は、死ぬ。共倒れはつまらんぞ。いいか?苦しい時に情けは無用なんだ。生存競争さ。パパでも同じだよ。弱い者は強い者に滅ぼされる。弱い者は犠牲にする勇気が必要だ。そして、生き延びるんだよ。エドムント、よく考えて行動するんだよ」

これだけの会話だが、その内実は「ナチズム」そのものだった。

その直後の映像は、多少思案気味のエドムントが、その足で、父の入院先を訪ねるシーン。

「4日間入院で来た。お前らも楽だったろう」と父。
「寂しかったよ」と息子。
「帰れば、またお前たちの負担になるだけだ。死ねばいいのにな。身投げを考えたこともあるが、勇気がなかった。惰性で生きているんだ。苦しみでしかないのにな」

「死ねばいいのにな」という父の言葉には、〈生〉との葛藤が見え隠れしているが、エドムントは、この言葉に含意された感情が読み取れない。

そして、父の退院。

ナチ狩りから逃げ回る長男は、生計をサポートすることすらできず、街娼で僅かな稼ぎを得ている長女と、弟であるエドムントに頼るのみ。

〈生〉への希望を断たれる不安を抱懐する父の、死への思いを汲み取るエドムント少年
この二人が、退院した父の世話を焼いていたが、会話の内容は暗鬱である。

「帰って来れば、皆の迷惑だ。何もできない身体が情けないよ。なぜ、わしは死ねないのか」
「何を言うの!」と長女。
「それが一番いいのだ、皆のためにも」

当然、この父の言葉にも、〈生〉への希望を断たれる不安の裏返しの心理が見え隠れする。

そんな父の屈折した感情は、官憲から逃げ回るだけの長男を、「働いて、余分の配給をもらってくれ」と嘆いている事実からも明瞭である。

そして、信じ難き描写が、その直後に開かれたのである。

以上の暗鬱な父子の会話の間に、エドムントが父を毒殺するための薬を煎じていたのだ。

「お前は優しい子だ。良い子を持って幸せだ」

そんな言葉を投げかけられたエドムントが、特段の反応することなく、「父殺し」をせっせと準備しているのだ。

そして、父の死。

長女の号泣と、その事実を後で知った長男の嗚咽。

そこに、淡々とした表情を崩さない少年の「確信的」な態度。

この一連のシークエンスで把握できるのは、既にエドムントが、「父殺し」の決断を元教師に唆されたと信じ、その場で決断したか、或いは、父の入院先に向かう行程の中で決断したか、その何れかでしかない事実である。

「ナチズム」の影響力の凄みが、そこになお息づいていることを強調する検証描写であったとしても、「父殺し」に向かう少年の心情世界が全く挿入されていない不自然さは、本作が心理描写を確信的に捨て切った映像であることを認知する外ないということになる。

いずれにせよ、「ナチズム」の影響力の凄味を示す描写を、少年の一挙手一投足によってフォローする絵柄も必要ではないのか。

しかし、この一連のシークエンスには、その類の絵柄も含めて何もないのである。

心理描写を捨て切った映像への大いなる違和感。

この薄気味悪さに閉口するのが、仮に私だけであったとしても、どうしても言及せざるを得ない描写の不自然さだった。

「父殺し」という、およそ常識では考えられない行動を選択する少年の心理の内に、その行動を「父への慈悲」の表れであると見ることも充分可能だが、しかし、だったらなおのこと、その辺りの描写が完全に欠落してしまっているのは腑に落ちないと言わざるを得ないのだ。

残念ながら、本作の作り手は、少年の忌まわしき行為のモチーフを「父への慈悲」の表れというよりも、「ナチズム」の影響力の凄味の強調を狙ったものであることが、元教師への「行動報告」のシーンによって検証されたのである。

この点に関しては、次稿で言及する。



4  主題提起の底を抜くパワーが削られて



ピエトロ神父の殉教・「ネオレアリズモ」の傑作と言われる「無防備都市」より
ともあれ、本作においても、「ネオレアリズモ」の致命的な瑕疵が見られたと考えるべきか、それとも既に、主観重視の尖鋭な作家主義の手法によって、「ネオレアリズモ」を希釈化させた映像の提起だったのか、一切不分明である。

少なくとも、これだけは言えるだろう。

ドキュメンタリー性の強調によって作り出そうとするリアリズムの映像には、「葛藤」というような、人間の中枢的な心理的風景を希釈化せざるを得ないという矛盾から逃れられないようである。

なぜなら、ズブの素人に演出することの限界が絶えず付きまとうからだ。

仮定形で言えば、本作の少年の表現力の限界は、まさに「葛藤」という中枢的な心理的風景を演出し得ない限界でもあった。

その描写が典型的に露呈されたのは、「ナチズム」を延長させているかつての教師に「殺人」を報告しに行ったシーン。

そのときの会話。

「片付けました。父を」とエドムント。
「殺したというのか?」と元先生。
「ご命令で」
「そんなこと命令してないぞ、バカ!」

かつての教師に頬を張られて、泣き崩れていく描写の粗雑さは、一貫して本作を貫く致命的な瑕疵と言っていい。

殆ど学芸会のような芝居を演出せねばならないほど、その瑕疵は観る者の無前提な肯定的協力なしには成立しない粗雑さだった。

何より、「父殺し」の一連のシークエンスにおいて、「葛藤」、「後悔」というような、人間の中枢的な心情世界を描き切れない(或いは、描かない)映像が、「自死」に流れゆく少年の「悲哀」、「不幸」、「犠牲」という、映像の勝負を賭けた描写による主題提起の底を抜くパワーを持ち得るというのか。

決定力を持つ描写を欠いた映像が、作家主義の主観性の中で声高に叫んでも、もう充分に「ネオレアリズモ」からすらも切れた、極めてプロパガンダ性の濃度の深い作品以外ではないだろう。

それが、本作への私の評価の全てである。

(2010年4月)

1 件のコメント:

ルミちゃん さんのコメント...

『子供の人権についての認識が高まるなら、制作者の労も報いられる』
冒頭の字幕の最後の言葉です.ロッセリーニは子供の人権擁護を訴えるための作品であると、はっきり言っています.
デ・シーカの『靴みがき』、清水宏の『蜂の巣の子供たち』、どの作品も、戦後の混乱した社会の中で子供の人権が歪められて行く実態を描き、子供の人権擁護を訴えました.
『無防備都市』で神父が処刑される前に、『死ぬのは簡単だ.生きるのが難しい』、と言ったのですが、『生きるのが難しい』とはどの様なことか、その一つが描かれたと言ってもよいでしょう.