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2010年5月1日土曜日

小島の春('40)    豊田四郎


<情熱、慈悲の深さ、そして偽善 ―― 物語の心的風景として>



1  「過去の出来事の無慈悲な断罪」への倫理的視座 その①



私たちは今、本作を鑑賞するとき、様々に「問題性」を持つこの作品が、有効な化学療法剤としてのプロミンも開発されることなく、或いは、ハンセン病の感染力の弱さや、遺伝性と無縁な疾病であるという現実への広汎な認知、そして何より、「人権感覚」において遥かに隔たっていた時代に作られた映画であることを明瞭に認知せねばならない。

その点に関して、文化人類学者の学術論文があるので、本人のブログから一文を引用させて頂く。

「(略)これらの私の判断は、現時点での価値観にもとづく過去の出来事の無慈悲な断罪である。この判断が許されるのは、罪の有限性を確認し、処罰と赦しを含めた認識と実践を未来の生活に反映することを約束する者のみである」(『小島の春』断章 池田光穂)

全く異議のない論理的思考である。

彼は、こうも書いている。

「小川正子の生きた時代。それは〈健康〉の社会化が最も叫ばれた時代だ。それは自分へのケアのみならず、他人へのケアも見事に社会防衛との関連性を意識させた時代である。社会の大義を実践し、自分が救うべき存在であると錯認し、自己が救われるべき存在であったことを忘却し、そしてそれを追想の中でしか経験できなくなった時、小川の自己の病気からの救済の道は閉ざされてしまった。小川だけでなく我々もまた、同じ道を廻り巡っているような気がする」

ここで言う小川正子とは、言うまでもなく、後に、「小島の春現象」(軍国日本の銃後のモデルとしての、正子の偶像化)という造語が生まれるに至った、ベストセラー手記である「小島の春」の作者のこと。

当然、映画の主人公の「心優しき女医」の小山先生のモデルでもある。

また、「自己が救われるべき存在であったこと」とは、出版当時に、彼女が罹患していた肺結核のこと。

現在の長島愛生園
彼女が勤務した、「国立療養所長島愛生園」(岡山県)での医官としての疲労も重なったのか、35歳で肺結核を発病し、まもなく、郷里(山梨県春日居村)にて静養生活に入ることで医官を退職(1941年)し、1943年4月に死去するに至った。

享年41歳であった。

絶賛の嵐に包まれた(1940年度キネ旬1位)映画化から3年後であり、手記の文学的価値の高い評価も手伝って、「小島の春現象」の被浴を受けていた只中での病死であった。

ここで、前掲のブログから、彼女についての詳細な言及の部分を、三度引用させて頂くことにする。

些か長文だが、以下の通り。

「明治35(1902)年の生まれの小川の人生は当時の医師としては極めて特異的だった。しかし、別の意味では、当時の人たちが抱く典型的な人間主義的理想像を生きた人でもあった(もちろん小説から垣間見える彼女は聖人君子よりもむしろ仕事に真摯に打ち込む『誠実な人』である)。

小川は山梨の甲府高等女学校を卒業した後、結婚をしたが三年後に離婚し、東京女子医学専門学校に入学し昭和4(1929)年卒業している。『癩救済事業』には在学中から関心をもっていた。岡山にある長島愛生園は彼女の卒業の翌年に設立され、1931年には光田健輔が園長に就任した。

(略)医専卒業後も小川の救癩の情熱は冷めやらずハンセン病療養施設であった東京の全生病院への赴任を希望するが、光田の面接を受け、実地医学の一般研修を先に受けるように諭された。彼女は3年間、細菌学、内科、小児科の臨床経験を積んだ。

しかしながら全体主義的傾向が強かった内務省管轄の施設では、救癩の施設であるにもかかわらず女性医師の任官のチャンスは少なかった。小川は、全生病院(のちの全生園)で働いていた女医の西原蕾や五十嵐正のアドバイスに従い、岡山県の長島愛生園に『直接談判』に赴き、ようやく光田によって受け入れられた。昭和7(1932)年6月のことである。

現在も変わらぬ近代医療の最先端の現場、とくに国立の機関は男性中心主義に独占されており、未だ女性が活躍できる場はすくなかった。他方民間の救癩事業の現場では女性が多くが活躍してきた。癩病というスティグマ(社会的、身体的なハンディを持つ者への烙印・筆者注)を貼られた病者に対する慈愛の精神を体現するのは、洋の東西を問わず聖女たる女性であり、その中で治療と慈愛が女性の性役割に関連づけられていたと考えられる。

ハンセン病対策が、民間による慈善事業から国家による統治手段として位置づけられるようになった時、女性の領域と位置づけられてきた慈愛の精神と実践もまた、国家制度に組み込まれてゆくことになる。

赴任した彼女の仕事は、長島愛生園での収容者の診療の他に、その3年前に改定された癩予防法のプロトコルに従い、『祖国浄化』――収容政策は関係者の間ではこのように表現されていた――の理想に燃えて、中国四国地方の村々を定期的に巡回検診――より多く病者を発見――することであった」(『小島の春』断章 池田光穂/筆者段落構成)

池田光穂教授
この説明によって、私たちは映画の原作者の時代背景と、彼女自身の人となりや、その個人的事情の難しさが把握できるだろう。

ここで出て来る、「光田健輔」、「全生園」という重要な固有名詞については、ハンセン病に関心を持つ人で知らない人はいないと思われる。

2では、光田健輔と強制隔離政策について、簡単に触れたい。



2  「過去の出来事の無慈悲な断罪」への倫理的視座 その②



光田健輔は、ハンセン病治療の第一人者であり、彼の影響下で、ハンセン病者に対する強制隔離政策が推進されたのは紛れもない事実。

1915年に、光田健輔が内務省に提出した「癩予防ニ関スル意見」によると、「絶海ノ孤島」へに隔離を主張していた事実が分っている。

そこで、彼が書いた一文には、「絶海ノ孤島ニ送リテ逃走ノ念ヲ絶ツニ如クハナシ」とある。

そして何より、由々しき問題は、ハンセン病特効薬であるプロミン開発(1943年にアメリカで合成された新薬だが、戦時下のため、日本では1947年に治験)後も、戦前からの患者隔離政策をを継続させた、「らい予防法」(1953年制定)に深く関与していた事実である。

たとえそこに、「差別からの保護」などという理由付けが行われようと、この行為は、先に引用した、「この判断が許されるのは、罪の有限性を確認し、処罰と赦しを含めた認識と実践を未来の生活に反映することを約束する者のみである」という倫理的枠組みから解放されている印象を受けるが、私から見れば、拠って立つ「体系的論理」の基盤の崩壊への、防衛的自我の堅持以外の何ものでもないように思えるのだ。。

国立療養所「長島愛生園」歴史館
そんな男の疑似科学的な「優生思想」の影響下にあって、国策としての強制隔離政策を推進した小川正子が果たした役割は、「典型的な人間主義的理想像を生きた人」である当人のヒューマニズムとは無縁に、「時代の制約」という縛りを突き抜ける倫理的枠組みの問題から完全に自由であったと言えるか否か、その「歴史のジャッジ」において確かに難しいところであるが、彼女の以下の手記を読む限り、「罪の有限性」を確認せずとも、「断種」(注1)という名の優生手術(1940年の国民優生法によって定着)による、妊娠中絶の強制的実施に対する倫理的責任については、依然として議論の余地を残すであろう。

以下、彼女の手記を引用する。

「癩が伝染でなかったら――この儘にしておいてもこの不幸がいつか世の中から自然と絶えるものであるならば――私は何もいわないでもよかった、よいのだけれども――可哀想だけれども、済まないけれども、もっともっと大きな目的の為に、もっともっと正しい広い人類全体の幸福のためには私は病気の父親から妻から、子から、その愛着から奪って連れて行かねばならなかった。そうして次の時代にはもう二度と、こうして泣く人達の無い国を善い世界を皆が持つ事のできる為に、この辛い仕事をして歩くのが私の小さい使命であったのだ・・・・・・」(「小島の春―ある女医の手記」小川正子著 長崎出版)

「文学的価値の高い評価」が疑われるようなこの一文によって、彼女が「典型的な人間主義的理想像を生きた人」である事実が了解されるものの、「小島の春現象」を必要とした時代的背景もまた、そこに垣間見えるに違いない。

最後に、「全生園」とは、東京都東村山市にある「国立療養所多磨全生園」のこと。

光田健輔
ここは、1909年に、光田健輔が全生病院医長として就任したハンセン病の施設として著名だが、後述するが、「いのちの初夜」の北条民雄の入所地でもあった事実を言い添えておこう。


(注1)1915年に、結婚の許可の条件として、光田健輔は、「断種」、即ち「精管切除」(生殖機能の除去)を実施したことを契機に、全国の療養所で普及するに至ったと言われる。



3  強制隔離政策を推進した時代の風景



池田光穂氏のブログによって、ハンセン病に対する当時の状況がよりリアルに把握されたが、ここにもう一つ、生々しい批評を引用する。

1941年時点での批評を寄せたその人物は、伊丹万作その人である。

ここに書かれている世界こそ、まさに、国策としての強制隔離政策を推進した時代の風景を検証するものだった。

以下、「映画と癩の問題」という一文を引用する。

「現在東京の銭湯に通っている癩患者は推定八十人もいるそうだが、政府の役人も、映画製作者も、観客もそのような現実に背を向けて夢のように美しい癩の映画を見て泣いているのである。

いったい癩はどこにあるのだ。決してそれは瀬戸内海の美しい小さい島にあるのではない。それは疑いもなく諸君の隣りにあるのだ。遠い国のできごとを見るようなつもりで映画を見て泣いてなんぞいられるわけのものではないのだ。

我々は個人の運命としての癩をどうすることもできない。ただ、もう偉大なるその暗黒的性格に、圧倒されるばかりである。それは客観的にはいかなる意味でも救いがない。そうしてこのようにいかなる意味でも救いのないものは所詮芸術の対象として適当なものとは考えにくいのである。

しかし、社会問題としての癩は、その解決が必ずしも至難ではない。先進諸国の例に見ても、隔離政策の徹底的遂行によって、癩はほとんど絶滅あるいはそれに近い状態に達している。

したがって、現在のところ我々が癩問題に対する唯一の正しい態度は、隔離政策の徹底によって癩を社会的に解決しようとする意志に協力する立場をとる以外にはあり得ないと思う」(「映画と癩の問題 伊丹万作『映画評論』一九四一年五月号」/筆者段落構成)

これは、「数年来、映画をまったく見ていない私は、作品としての映画を批評する資格を持たない」と言いながら、「癩というものが、あのような仕方で映画にされ、あのような方法で興行されたという事実に対してはいまだに深い疑問をいだいている」とまで批評する厚顔さに驚かされるが、「偽善」を嫌う彼の精神には同感するものがあるが、肝心の「映画批評」については、4で言及する。

伊丹万作
ともあれ、「赤西蠣太」(あかにしかきた・1936年製作)という日本映画史上の傑作を放った屈指の映画監督が、「現在のところ我々が癩問題に対する唯一の正しい態度は、隔離政策の徹底によって癩を社会的に解決しようとする意志に協力する立場をとる以外にはあり得ない」とまで書いた事実にこそ、私たちは瞠目せねばならないのだ。

もう一つ、背景的説明に関わる、山根貞男の一文を引用させて頂こう。

如何に、本作の撮影が困難を極めたかについて言及されているからだ。

当然、「癩」に対する一般的日本人の差別と偏見の現実が検証されるだろう。

「『小島の春』には、瀬戸内海の美しい風景が随所に出てくる。そして、海や山や森の美しさと対比されるかのように、難病の悲痛さが際立ち、同時に、それと闘って負けない人々の心の清らかさ浮き立つ。

風景はここでは、まさにドラマの一部である。

けれども、風景だけのカットは瀬戸内海で撮影されたものの、俳優たちの出てくるドラマのくだりは、現地では撮ることができなかった。地元の人々がロケ撮影に強硬に反対したのである。

そこで、ドラマの部分は、伊豆や信州で撮影された。

このことは、当時、この映画の題材となっているハンセン病がどんなふうに思われていたか、患者の苦悩がいかなるものであったかを、象徴的にものがたっている。

そんな時代であったから、ハンセン病を扱った映画をつくること自体が、いわば一大冒険であった。はじめ、この映画の製作準備は極秘裡に進められたという」(「小島の春」東宝ビデオ解説「山根貞男のお楽しみゼミナール」より/筆者段落構成)



4  情熱、慈悲の深さ、そして偽善 ―― 物語の心的風景として



ここから、映画についての私の感懐を述べたい。

「ハンセン病治療に、生涯を捧げたある女医の手記」

これは、近年発刊された「小島の春 復刻版」(長崎出版 2009年5月)のサブタイトルの言葉。

「・・・に生涯を捧げた」などという表現と出会っただけで、もう強制終了させてしまうほど、私の最も厭悪する記号の集合の偽善性。

本篇の中で、繰り返し再現される描写。

それは、ハンセン病者探しに必死に奔走する主人公の小山先生が、周囲を優しき言葉で包み込んで、病者と思しき者を訪ね歩くシークエンス。

そう、この映画は、ハンセン病者を長島愛生園に強制隔離するために、「中国四国地方の村々を定期的に巡回検診――より多く病者を発見――すること」(前掲ブログ)を使命にする、一人の女医の物語であった。

そんな女医が、嫌がる相手に向かって語りかける、常套的な言葉がある。

「びっくりさせて、ご免なさい。私のいる病院は、あなたのような気の毒な方たちがいる病院なんですの。あなたもいらっしゃればいいと思って」

「あなたのような気の毒な方たち」という表現である。

これは、「可哀想だけれども、済まないけれども、もっともっと大きな目的の為に、もっともっと正しい広い人類全体の幸福のため」という、原作手記の一文に照応する表現であると言っていい。

この日もまた、彼女は「気の毒な方たち」の一人を「発見」しに行った。

そして彼女は、家族によって裏山の小屋に隔離されている女性の元に足を運び、優しい口調で説得していくのだ。

そしていつものように、ここでも嫌がる相手からの強硬な反発と、防衛的拒否反応が待っていた。

「帰ってけれ!ここはわしのウチじゃ。ここだけがわしのウチじゃからの」

こんなことを言われることは、小山先生にとって疾(と)うに計算済み。

だから彼女の反応は、常に冷静で、穏健なもの。

「寂しいでしょうね・・・」と小山先生。
「うちら、何も寂しいこと、ありゃせしませな」とハンセン病者と目された女性。
「でもね、こんな所に一人でいるより、大勢で楽しく暮らした方がいいでしょ」
「これでいいんじゃ。うちら、これで楽しいんじゃからな」

相手の、この常套的な防衛的拒否反応に対する女医の次の言葉も、殆ど予約されたものである。

長島愛生園のある山県瀬戸内市の俯瞰風景
「あたしが勤めている長島の病院には、あなたのような人が1200人もいて、一つの村を作って住んでるの」

なお拒絶する相手の女性は、最後にこう結ぶ。

「うちら、どうなっても仕方がありませな」

そして、相手の女性の家族は、決まったようにこんなことを言うのだ。

「わしら、人から笑われて暮らしてきたが、世間の人に迷惑かけたこととは思うとりゃせん・・・あねえな、業病に取り憑かれたもんが、不幸せなんじゃ。あの上、病院なんか行って、色んな人に恥晒すより、隠れて一人で暮らす方がマシだからのう」

こんな拒否反応を受けても、執拗に説得する女医の粘り強さを支えているのは、明らかに、前述した彼女の大いなる使命感以外の何ものでもないだろう。

前掲のブログの御仁は、彼女の内側に住む、「理念の成就に賭ける情熱という〈純粋〉さ」、「慈悲の深さという〈純粋さ〉」と、本人が自覚し得ない「偽善的な〈妖しさ〉」に注目した上で、以下のように言及していた。

「小川の巡回の様子やそこで出会うさまざまなハンセン病者との邂逅のエピソードは、今日の我々にとって共感と違和感が相半ばするだろうと書いた。それは『小島の春』が『正しい』啓蒙的知識の普及を通して癩の国家的撲滅という理念の成就に賭ける情熱という〈純粋〉さと、悲惨な人々への慈悲の深さという〈純粋さ〉と、それらが放つ偽善的な〈妖しさ〉の不気味な混成物だからである」(池田光穂)

小川正子
では、そんな彼女の献身的努力を描く本作を、一体、どのように評価すべきなのか。

5では、それに言及していく。



5  「社会派」の主題提起力をも希釈化させた、お涙頂戴の「ヒューマン映画」



当時、伊丹万作は、辛辣に本作への批評を書いている。

「いきなり癩患者(むろん初期)が出てきて抒情的な風景の中で家族と別れる場面などをやってみせれば、それだけで我々は無条件に泣かされてしまう。

なぜならばこの場合においては、癩患者が癩患者であるということだけで泣くにはすでに十分なのであって、それは癩者個々の運命とは必ずしも関係を持たない。したがってかかる場合の観客の涙はその理由を作者側の努力に帰し難い部分が多い。

しかし、映画の癩者を見て泣いた人が現実の癩者を見て泣くかどうかは非常に疑問であり、芸術の世界と現実の世界とのこのような喰い違いは、一般にはほとんど問題にならないが、この種の作品においてはかなり重要な問題であると思う。

私がかつて漂泊の癩者を何人となく見てきた経験によると、現実の癩者を見て同情の涙をもよおすような余裕は、いっさいこれを持ち得ないのが凡人としてはむしろあたりまえだともいえる。こざかしい理智が何といおうと、私の感覚はあまりにも醜い彼らを嫌悪した。そうして伝染の危険を撒きちらしながら彼らが歩きまわっているという事実を恐怖し、憎悪した」(「映画と癩の問題 伊丹万作『映画評論』一九四一年五月号」/筆者段落構成)

前述したように、作品を観ることなく映画批評するその厚顔無恥さに呆れるが、恐らく、当時、彼の知り得た情報のみで一気呵成に書き上げたのだろう。

それにしても、「映画の癩者を見て泣いた人が現実の癩者を見て泣くかどうかは非常に疑問であり、芸術の世界と現実の世界とのこのような喰い違いは、一般にはほとんど問題にならないが、この種の作品においてはかなり重要な問題であると思う」という指摘は的を射ていると言える。

実際、作品の内容をフォローしていくと、「映画の癩者を見て」泣く人が多く生まれることを殆ど予約する映画作りになっていたのは事実である。

その極めつけは、ラストシーンの別れの場面にあった。

小山先生の粘り強い説得によって、ハンセン病者である横川を長島愛生園に隔離することを承知させながらも、家族への深い未練を残す横川は、船着き場にやって来なかった。

結局、叱咤と励ましが相半ばする村長の説得に応じた横川は、後ろ髪を引かれる思いで家を出て、船に乗り込んで行ったのである。

離れ行く船。号泣する妻と娘。(トップ画像)

遠ざかる船と、その船に乗って首(こうべ)を垂れる横川。

映像より
そして、巡回検診によって「発見」された患者たち。

このとき、父を慕う一人息子の少年はひたすら走って、走って、走り抜いて、船が見える入江までやって来た。

そこで少年は、思い切り叫んだのだ。

「村長の禿げ頭!村長のバカやロー!」

映像の括りとして、これ以上ない感動的シーンであり、この場面で多くの観客が嗚咽を漏らしたであろうことが容易に想像される。

伊丹万作が憤慨するのは、抒情的な音楽に乗せた、このようなあざとい描写の連射に対してであろうが、それは、現実の癩者を見て嗚咽を漏らすことがない実体験を踏まえたリアルな視座である。

彼が非難の矛先を向けるのは、「人間の度し難き偽善性」という一点にあるだろう。

そんな伊丹のシビアな視座の稜線上で本作を考えるとき、確かに看過し難き「映画の嘘」と出会うことになるのは事実。

原作に忠実な描写を必要以上に配慮した典型例として、何より気になったのは、映画への短歌のふんだんな挿入である。

それは、単に映像的バランスへの配慮と言うより、寧ろ、優生思想を根柢にするハンセン病者の壮絶な現実を希釈化させ、人類愛の使命感に燃える女医のヒューマニズムを強調する効果に収斂されていくだろう。

意地悪く言えば、抒情的な音楽に乗せた、あざといラストシーンが齎(もたら)す決定的な効果によって、ハンセン病者の強制隔離の問題を、「千切れゆく家族愛の悲哀」という問題にすり替えてしまったのである。

その意味で、この種の作品は、「一日経てば忘れる映画」の典型的な一篇であった。

なぜなら、この種の作品による感動譚の多くが、「シーン」という映画の「点」だけで勝負する欠陥を晒しているからである。

それを観た者の自我記憶には、「シーン」という映画の「点」だけが残り、結局、「時間限定」の束の間のカタルシスで浄化されてしまうような安直な自己完結を、時間に繋げない閉鎖系の内に処理されてしまうのである。

ラストシーンのみの「感動」の押し売りに拠った作品には、一定の完成度を持つ映像的な構築性が見られないからだ。

詰まる所、「社会派」の主題提起力をも希釈化させた、数多のお涙頂戴の「ヒューマン映画」の範疇から全く逸脱できていないのである。

これは、「時代の制約」の問題に収斂される限定性とは無縁である。

豊田四郎
本作は、暑苦しい「文芸派」の豊田四郎にしては、それなりに抑性を効かせたた作品になっているが、映像総体を見る限り、ラストシーンの過剰な情感描写や、短歌のふんだんな挿入に見られるように、やはり豊田特有の「あれもこれも、ごった煮で包括させたがる癖」は、戦後の一連の文芸作品同様に暑苦しかった。

科学的裏付けの希薄な原作(有吉佐和子)を映画化した、「恍惚の人」(1973年製作)の無茶苦茶な描写の暴走(痴呆症の症例の典型化されたかの如き、「痴呆ぶり」の過剰な強調)を見ても判然とするように、この作り手には、「社会派系」の映画を描くのは荷が重そうである。

やはり彼は、「夫婦善哉」(1955年製作)という作品のように、この国の男の「依存性人格」を特徴づける、しごく身近な男の駄目さ加減を描くのに最も相応しい監督であるということだろうか。



6  差別の助長に陥るリスクを冒してまで映像化する、新たな表現の切り開きの有効性。



本作のヒューマニズムを辛辣に批判してきたが、ここで、「過去の出来事の無慈悲な断罪」の問題を省察してみよう。

確かに、本作を全否定するのは簡単だが、では何が可能か。

当時、何が可能だったのか。

「映画の癩者を見て泣いた人が現実の癩者を見て泣くかどうかは非常に疑問である」

前述したように、伊丹もまた辛辣に批判するが、彼のケースは当時の状況下での批判であった。

しかし、伊丹が指摘した対象人格は、まさに「普通の感覚」を持つ、「普通の人間」の範疇であることを認知せねばならないだろう。

「『とにかく、癩病に成りきることが何より大切だと思います』と言った。

不敵な面魂が、その短い言葉に覗かれた。

『まだ入院されたばかりのあなたに大変無慈悲な言葉かもしれません。今の言葉。でも同情するよりは、同情のある慰めよりは、あなたにとっても良いと思うのです。実際、同情ほど愛情から遠いものはありませんからね。それに、こんな潰れかけた同病者の僕がいったいどう慰めたら良いのです。慰めのすぐそこから嘘がばれて行くに定まっているじゃありませんか』」

これは、後掲するが、北條民雄の「いのちの初夜」の一節。

多磨全生園
多磨全生園に入院初日の、主人公の尾田(北條民雄)に対して、いつ果てるとも知れない恐怖の日常を生きるハンセン病者の佐柄木(さえき)が語った言葉である。

まさに佐柄木が喝破したように、「同情ほど愛情から遠いもの」はないのである。

ハンセン病者の視点による、ハンセン病の壮絶な日常の風景の壮絶さは、とうてい「普通の感覚」を持つ、「普通の人間」の範疇で了解し、感涙に咽ぶ感情文脈によって受容し切れる何かではないのだ。

それでも映像作家が、この壮絶な現実から逃避せずに映像表現するとしたら、相当な覚悟なしに済まないだろう。

然るに、差別の助長に陥るリスクを冒してまで映像化する、新たな表現の切り開きが果たして有効か。

ハンセン病の映像化には、常にこんなアポリアが内包されているのだ。

それは、お涙頂戴の偽善性を突き抜けて、ハンセン病の闇の奥に肉薄し、且つ、差別の助長を生むことなく、完成度の高い映像構築のアポリアである。

だからこそ、相当な覚悟が求められるのだ。

繰り返すが、その冷厳な現実を考えるとき、当時、何が可能だったのか。

当時、「小島の春」のような感傷的ヒューマニズムではなく、「いのちの初夜」のような名作短編の映像化が可能だったか。

「深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない」

私が最も好きな言葉だ。

明石海人
本作でも小山先生が触れた、沼津出身のハンセン病詩人として有名な明石海人(あかしかいじん)の、この言葉のようなハンセン病患者たちの文学世界を、ダイレクトに映像化することが、果たして、当時において可能だったのか。

残念ながら、不可能であるか、或いは、相当に困難な行為であったに違いない。

先の伊丹万作の例を挙げるまでもなく、ハンセン病の実態について殆ど無知であり、且つ、国策的な強制隔離を断行された時代下にあって、認識基準が顕著に非科学的で低レベルだった社会の中では、「いのちの初夜」の映画化は、差別の助長に陥るリスクを高める逆効果になったであろう。

だから仕方なかったとまで言わないが、それでも、豊田四郎の果たした仕事を全否定することなどできようがないのだ。

然るに、なおハンセン病差別(注2)が終わらない現代にあっては様子が違うだろう。

寧ろ、相当な覚悟を持って、患者の内側から疾病の現実とそれに怯える不安、葛藤、恐怖、生と死の振れ具合という視座で描き切ることが可能であり、それを具現すべきであるとも思えるのである。

単に、他者の苦難に対する一定の「共感的感情」であるだろう、「同情」のレベルでは済まない包括的感情が内側から生まれたとき、そこに病気それ自身の破壊的攻撃力に震撼し、交通事故に遭っていない者が、まるで「スケアードストレート」(注3)にも似た心理的効果を惹起することが可能となるだろう。

そのときこそ、お涙頂戴の感傷的ヒューマニズムとは少しでも距離を置く、理知的で真に人間学的な了解点が生まれるだろう。

そのような作品を創り抜ける相当の覚悟なしに、映像構築の成功はない。

そう思うのだ。

「砂の器」より
例えば、野村芳太郎監督の「砂の器」(1974年製作)では、ハンセン病をサスペンスに利用することで、物語としての「人間ドラマ」の奥行きを表現する技巧のツールの内に、「ヒューマニズム」の衣裳を被せただけの作品として処理されてしまったことを想起するとき、その本質は、お涙頂戴の感傷的濃度を深めた効果以外になく、却って、「ハンセン病の不気味さ」を強調する「名作」に堕してしまったと言わざるを得ないのである。

これは、「死の谷」に隔離された家族の不幸を主人公のエピソードの一つに包摂した、ウィリアム・ワイラー監督の「ベン・ハー」(1959年製作)もまた同じ。

また、熊井啓監督による「愛する」(1997年製作)という作品は、ハンセン病と誤診された「純粋無垢」の女性を主人公にして、北アルプス山麓のハンセン病療養所での罹患者体験を描いた、直球勝負に最近接した作品に仕上がっていたが、ここでもまた熊井啓監督の宿痾(しゅくあ)の如き、「純粋無垢」の主人公の不安な自我を癒す、「善なるハンセン病者」vs「悪徳性に充ちたハンセン病専門医」という構図が無前提に作られていて、且つ、「純粋無垢」の主人公の交通事故死という「殉教」の定型の内に収斂されることで、結局、殆ど「純愛ドラマ」の感傷的濃度を深めた凡作に終始してしまったと言える。

「愛する」より
以上の例を見ても判然とするように、ハンセン病についての映画化のハードルの高さが窺えるだろう。

とりわけ、我が国には、「清潔の美学」というような薄気味悪い文化が横臥(おうが)していると思えるので、余計厄介な印象を拭えないのだ。

「清潔の美学」の本質は、「異物への拒否感」である。

それは、フリークス(異形)への生理的拒否反応が強いということである。

外観的に全く見分けが付かない「特殊部落民」と異なって、末梢神経系が冒され、皮膚症状、脱毛、顔面変形の症状を現出しやすい、かつてのハンセン病罹患者の存在は、自宅牢に閉じこもる女性を描いた本作のように、丸ごと「清潔の美学」から弾かれたフリークスそのものだったと言えるだろう。

プロミンの画期的な発見がなかったら、恐らく、「人権」を主唱しつつも、「乞食谷戸」(注4)に象徴される見えない世俗の奥で、今でも劣悪な環境下に置かれる事態が予測されるのである。

これが現実であるということを認知すべきなのだ。

主題だけが暴走することなく、精緻なシナリオと、細心な配慮による演出によって、完成度の高い映像構築を具現することの困難さを感受する次第である。

プロミン
そして、ハンセン病患者の内側からの視座によって、そのリアルな現実の凄惨さを炙り出していくような映像の立ち上げこそ望まれるであろう。

「自らが燃えなければ何処にも光はない」という壮絶な世界の本質に迫ることのない、ファジーなフェイク映像を突き抜けた作品を、堂々と世に問うべきなのである。

「厄介な疾病の作品」であることによって、優れた「人間ドラマ」に昇華した映像をこそ真に求められるのだ。

今日でもなお、前掲の「いのちの初夜」のような純文学の短編が映像化される可能性は低いだろうが、それでも私は未だに、「厄介な疾病」を主題にした文学のカテゴリーの中で、この抜きん出て秀逸で、読む者の心の琴線に深く触れる作品を凌駕する表現世界と出会ったことがない。

「発病以来三ヶ年の間、一日として死を考えなかったことがあるか、絶え間なく考え、考えるたびにお前は生への愛情だけを見て来たのではなかったか、そして生命そのものの絶対のありがたさを、お前は知ったのではなかったか、お前は知っているはずだ、死ねば生きてはいないということを!

このことを心底から理解しているはずだ。死ねばもはや人間ではないのだ、この意味がお前には判らんのか。人間とは、すなわち生きているということなのだ、お前は人間に対して愛情を感じているではないか。自分自身が人間であるということ、このことをお前は何よりも尊敬し、愛し、喜びとすることができるではないか。――夜になって、床にはいるたびに私はこういうことを自問自答するのであった」(「青空文庫」より)

北條民雄
以上の一文は、北條民雄の「眼帯記」の一節である。

やがて盲目に至る恐怖を抱えながら、療養生活の限定された時間の中で必死に読書する作者の心理をテーマにした一篇であるが、「自分自身が人間であるということ」を認知するが故に〈生〉を弄(まさぐ)る青年の心情が伝わって来て、読む者の胸を痛烈に打つ。

「牢獄を背負つて歩いてゐるやうなものです。かつて親しかつた人も、病院にゐた頃に同情を示してくれた人もみな敵です。敵は自分の体内にゐるといつた兄のお言葉も正しいが、しかしまた体外にもゐるのです。内も外も、みな敵ばかりです。癩者はボロ靴のやうに療養所といふごみ箱に捨てるのが人類の正しい発展となるのでせう。自分がボロ靴であることを意識しました」(「青空文庫」より)

これも、北條民雄の「外に出た友」の一節

「外に出た友」(退院したY)が、私(北條民雄)に送って来た手紙の一文であるが、「癩者はボロ靴」と覚悟せねばならない、娑婆におけるその壮絶な差別の現実に震撼させられる。

その手紙を読む「私」もまた、「眼帯記」にあるように、いつの日か訪れるだろう盲目の恐怖の中で、「充血した眼は、読み終るとジンジンと痛んだ」と書いているのだ。

本稿の最後(7)に、そんな北條民雄が「命」を振り絞って書き上げた名作短編である「いのちの初夜」の、その突き抜けた純文学の表現世界の一部を掲載したい。


(注2)最も有名な差別事件は、1951年、「無らい県運動」の只中で起こった藤本事件(F事件)。熊本県合志市にある国立療養所菊池恵楓園への入所を拒んだ、藤本松夫が起こしたとされる爆破事件、及び、殺人事件のこと。

以下、ハンセン病への取り組みに熱心な「毎日新聞」(2007年1月23日)の社説の一部を掲載する。

「多くの関係者が猛省を迫られたハンセン病問題も、裁判所は無縁ではない。1951年に熊本県で起きた『藤本事件』と呼ぶ、ハンセン病元患者が死刑に処せられた爆破・殺人事件の裁判も尋常ではなかった。

感染の恐れはないとされたのに、裁判官はハンセン病療養所内に特別法廷を設置し、白い予防服にゴム手袋姿で、証拠書類をピンセットでつまみながら訴訟を指揮した。当然、審理は不十分だったと批判されており、冤罪(えんざい)の可能性が指摘されている。厚生労働省が設置した『ハンセン病検証会議』の報告書でも『憲法が要求する裁判ではなかった』と指弾されている。

ハンセン病の強制隔離政策については熊本地裁が違憲とする判決を下した後、政府をはじめ関係各界が検証作業を進め、反省の意を表したが、潮流を変えた司法府自体は過去に向き合おうとしていない。同様に、戦中戦後の人権侵害についても口をつぐんだままだ」

アイレディース宮殿黒川温泉ホテル
また、近年では、2003年11月に、熊本県にある「アイレディース宮殿黒川温泉ホテル」で起こった、「ハンセン病元患者宿泊拒否事件」は各メディアも積極的に取り上げたので知る人も多いだろう。

他にも、「多磨全生園医療過誤訴訟」では、療養所に於いて、非常に杜撰な医療行為が行われていたことを明らかにしたことで注目。(「ハンセン病ニュース」より)

ついでに書けば、中国五輪委員会が、ハンセン病患者の入国規制を発表した出来事はあまり知られていない由々しき「事件」と言えるだろう。


(注3)「交通実験再現体験」のように、恐怖と対峙し、それを直視することで効果をあげる教育方法のこと。


(注4)「こじきやと」と読む。ハンセン病患者も多く生活していたと言われる、「貧民街」に対する蔑称のこと。「寿地区」というドヤ街で有名な横浜市の南区に、かつて史上最大の貧民街としての「乞食谷戸」が存在したと言われる。



7  深海に生きる魚族のように ―― 「いのちの初夜」の根源的な世界



それは優れて、「厄介な疾病の作品」であると同時に、「自らが燃えなければ何処にも光はない」という壮絶な世界の本質に迫る一篇だった。

「いのちの初夜」(注5)の有名な会話を、以下に紹介する。

「いのちの初夜」の主人公である尾田と、佐柄木の会話の根源的な世界が、そこに開かれていた。

小説の最後の件である。

「『盲目になるのはわかりきっていても、尾田さん、やはり僕は書きますよ。盲目になればなったで、またきっと生きる道はあるはずです。あなたも新しい生活を始めてください。癩者に成りきって、さらに進む道を発見してください。僕は書けなくなるまで努力します』

その言葉には、初めて会った時の不敵な佐柄木が復っていた。

『苦悩、それは死ぬまでつきまとって来るでしょう。でも誰かが言ったではありませんか、苦しむためには才能が要るって。苦しみ得ないものもあるのです』

そして佐柄木は一つ大きく呼吸すると、足どりまでも一歩一歩大地を踏みしめて行く、ゆるぎのない若々しさに満ちていた。

あたりの暗がりが徐々に大地にしみ込んで行くと、やがて燦然(さんぜん)たる太陽が林のかなたに現われ、縞目を作って梢を流れて行く光線が、強靭な樹幹へもさし込み始めた。佐柄木の世界へ到達し得るかどうか、尾田にはまだ不安が色濃く残っていたが、やはり生きてみることだ、と強く思いながら、光の縞目を眺め続けた」(「青空文庫」より)

「盲目になればなったで、またきっと生きる道はあるはずです」という言葉の、何という凄味か。

「僕は書けなくなるまで努力します」という言葉の、何という覚悟の括りか。

「苦しむためには才能が要る」という言葉の、何という人生観か。

人間の根源的テーマに肉薄する、「癩」を病む二人の青年の根源的な会話。

後にも先にも、内面世界が呻吟するような、これほどに壮絶な風景を切り取った小説を読んだことはない。

「深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない」

作者(北條民雄)の分身である佐柄木こそ、このハンセン病詩人の言葉の体現者だったのである。

「脊損者」という人生を生き始めてから10年になる私にとって、ハンセン病詩人の体現者の言葉にどれほど救われることか。

私自身、この短編を、これまで何度となく読み返してきたが、今ほど、この小説の凄味を感じたことはないと言っていい。

大手新聞系の週刊誌もまた、この短編を、「一般の人にとっても、生きることとは何かを考えさせられる作品である」と書いていた。

少し長いが、ハンセン病の宣告を受けた一人の青年(北條民雄)の1週間の出来事をまとめた私小説、「いのちの初夜」の簡単なプロットをも説明した一文を、以下に掲載して擱筆(かくひつ)したい。

「尾田高雄はハンセン病の宣告を受け、半年後に東京郊外の病院に収容された。それまで何度も自死をはかったが、いずれも未遂に終わった。

病棟に入ると、佐柄木という青年に紹介された。尾田と同じ病室の付き添い人で、五年前に入院した。

夜になっても、佐柄木は忙しく室内を行ったり来たりして立ち働いた。手足の不自由な病人には包帯を巻いてやり便を取ってやり、食事の世話をしたりした。

病人たちの耐え難い苦しみを目の当たりにして、尾田は恐怖のどん底に陥り、病棟から抜け出し、再び自殺しようとした。しかし、今回も死にきれず、むしろ生命の強靱さに驚かされた。

病棟に戻ると佐柄木は話しかけてきた。

すべてを見抜いたように、彼は自らの体験を明かし、『人間』が死んで、『いのちそのもの』になったことの重みについて尾田と語り合った。

『苦しむためには才能が要る』という佐柄木の言葉を聞いて、尾田は生きていく決意を新たにした。

作家の実生活を題材にする私小説は苦手だが、この作品は例外だ。

その迫力はやはり実際の体験がないと、書けないであろう。ハンセン病患者にとどまらず、一般の人にとっても、生きることとは何かを考えさせられる作品である。

内容の重量感もさることながら、物語の構成や描写は作家の才能をよく示している。主人公の絶望と希望、重症患者を見たときの衝撃、自殺の衝動に駆られたときの心情は五感の激しい共振として表現され、強烈な印象を与えている。

佐柄木も尾田も作者の分身であろう。

ハンセン病の恐怖に打ちのめされた尾田が罹患直後の作家ならば、病に蝕まれながらも、力強く生きようとする佐柄木は作者の理想像であり、自らに課した手本であろう」(「サンデー毎日 2009年10月18日号」より/筆者段落構成)


(注5)この純文学の名作が「改造」に発表されたのは、「小島の春」の映画化の4年前に当たる1936年のこと。


(2010年5月)

2 件のコメント:

マルチェロヤンニ さんのコメント...

なかなか軽々しく感想を書けない心境ではありますが、心の風景「深海で交叉するそれぞれの〈生〉」を興味深く読ませていただいた後、「いのちの初夜」を幸いにも読む事が出来、こちらの「小島の春」の返信に書かせていただいている次第です。
正直に言って遠い存在というか、ニュースなどでの機会がなければ、ほとんど考える事もなかった病気の事ですが、少し分かりかけてきた気がします。
菅直人が謝罪した時は、「遅かったとはいえ、良かったな」と単純に思いましたが、考えてみたら、それほど昔の事ではないですし、現在進行形で語られるべき事も多々あるのかと思いました。
偶然にも今は「火花」という小説が話題に上っていますが、読書好きな友人にあえて今もう一つの「火花」を呼んでみたらと進めてみようと思います。
私は来年は多摩の全生園に桜を見に行こうと考えておりますが、小さい子供を伴って大丈夫なのだろうかと、私自身つい疑問を抱いてしまうところが、やはりこの問題の根深さなのだろうと考えさせられました。
所沢には、仕事の関係で毎月数回は行きますので、資料館へは年内に赴こうと思っているところです。

Yoshio Sasaki さんのコメント...

コメントをありがとうございました。
全生園のお花見には毎年近くの園児や子供連れがたくさん来ています。
2012年より園内の敷地に保育園も作られ、入所者さんたちとの交流もあるそうです。
いずれ私も観ると思いますが、今年公開された河瀨直美監督の「あん」では全生園も映像になったようです。
機会がありましたら、是非お訪ねください。