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2010年6月6日日曜日

終電車('80)       フランソワ・トリュフォー


<トリュフォーの、トリュフォーによる、ドヌーヴのための映画>



1  モンマルトル劇場で交叉する人間模様



簡単に、物語のプロットを書いておく。

「パリ。1942年9月。2年来、独軍はフランス北部を占領し、占領区と非占領区は境界線で南北に二分された。占領区は11時以降、外出禁止で、パリ市民は地下鉄の終電車を逃したら大変だった。彼らは食料を買うために列を作り、寒いので、毎晩劇場へと急いだ。映画館、劇場は満員で、予約が必要だった。モンマルトル劇場は稽古中だったが、座主のルカは国外に逃れた。窮余の策だった」

こんなナレーションでドラマが開かれた。

ところが、座主のルカは国外に逃れていなかった。

モンマルトル劇場の地下に隠れ住んでいたのである。

「隣人や義兄弟まで告発し、警察へのユダヤ人密告状が1日に1500通も来る」(マリオンの言葉)中で、妻のマリオンは地下に隠れ住むユダヤ人のルカを助けつつ、ジャン・ルーの演出による「消えた女」の舞台を成功させるべく、本来の女優の仕事にも熱心に取り組んでいた。

「消えた女」で、マリオンの相手役に選ばれたのが、新進俳優のベルナール。

読書三昧の時間潰しにストレスを溜めていたルカは、毎晩会いに来るマリオンを通して、自らが翻訳したノルウェーの戯曲である「消えた女」の演出にも関与し、間接的にアドバイスした効果もあって、「消えた女」の公演は劇場に足を運ぶパリ市民から好評を持って迎えられた。

マリオンとベルナール
しかし、ナチ占領下の時代状況は緊迫し、レジスタンスの闘士でもあったベルナールは、マリオンとの愛を確認した後、地下に潜っていく。

ゲシュタポによる抜き打ち的な劇場地下の捜査の急難を逃れて、劇場はパリ解放の日まで上演を続け、遂に自由を勝ち取って、新たな公演の成功によるカーテンコールの中で、それを演出したルカが、初めて劇場に足を運ぶパリ市民の前に顔を出し、熱狂の内に迎えられた。

そして、その俳優の中に、マリオンもベルナールもいた。



2  ラストシーンの劇中劇に集約される男と女の物語



この映画のエッセンスは、ラストシーンの劇中劇に集約されるだろう。

以下、その際の男と女の会話を再現してみる。

「あなたを忘れたかったの。あなたの自尊心が私を遠ざけたの」
「あなたは新しい嘘を考えて、ここに来る」
「嘘?何のため?あの人は死んだわ」
「あなたには仕事がある」
「違うわ。もう仕事には興味はないわ。何もかも捨てたわ。私は、唯一つだけを願っているの。あなたをここから出すことよ。私たちはやり直せるわ」
「いや。やり直すことなんか何もない。僕らに真実は何もなかった。愛の演技はしたが、愛したことはない。頭の中の愛だけだった。僕自身それを信じたから、あなたも信じた」
「あなたのことを考えない日は、一日もなかったわ」
「僕だって。だが、それも次第に遠くなって、今ではあなたの苗字が思い出せない。名前も忘れたよ。あなたの顔が、すっかりぼやけていくようだ。帰ってくれ。帰ってくれ!」
「聞いて頂戴、お願い。二人がいれば愛せるわ。憎み合いもよ。私はあなたを愛すわ。あなたを思って、胸が高鳴ることが私の命よ・・・さようなら」

女は負傷した男の病院に駆けつけて、自分たちの愛を取り戻そうと、その思いを吐露していく。

「もう遅い」と男は拒む。

女はなお未練を残しつつ、男の病室を去っていく。

ここで劇中劇が閉じられ、カーテンコールの大団円に流れ込んでいった。

長い間、待ち望んで駆けつけたパリ市民の熱狂が、モンマルトル劇場で炸裂する。

ここでルカが登場するに及んで、劇場の観客たちに響(どよめ)きが起こり、「ルカの生還」を祝福し、歓声が勢いよく劈(つんざ)いた。

観る者は、ここで初めて、この劇中劇を演出したのがルカであることを知る。

予想もしない展開の中で閉じていく映像の余韻は大きく、両サイドに居並ぶ二人の男(ルカとベルナール)の手を結ぶ中央の女、即ち、マリオンの満面の笑みをアイリスショットの技法の内に映し出すのだ。

このような劇中劇を作り上げ、成功させたルカには、マリオンとベルナールの関係の本質を見抜いていたのである。

既に映像後半で、劇場の地下室を捜索しに来たゲシュタポの手から、そこに隠れ住んで、「消えた女」という戯曲の演出をサポートするルカを守ろうと、必死に行動する男と女が描かれていた。

言うまでもなく、女の名は、ルカの妻のマリオン。

そして男の名は、この劇の相手役に抜擢された新進俳優のベルナール。

そのときベルナールは、地下室に隠れ住ルカと初めて顔を合わせるが、レジスタンス活動に挺身しているベルナールは、当然の如く、ルカの救出劇に一役買った。

そのベルナールに、ルカが放った一言。

「私の妻は奇麗だろう?あんたに一つ尋ねたい。妻はあんたを愛しているが、あんたはどうだ?」

この時点で、ルカは既に、妻とベルナールの関係の本質を見抜いていたのである。

観る者は、このルカの言葉に驚かされるだろう。

なぜなら、ベルナールに思いを寄せるマリオンの心情の伏線となり得る、1人称的なナレーションを含む一切の描写を、映像は全く拾い上げていなかったからだ。

ともあれ、このルカの指摘に何も反応しないベルナールの沈黙によって、この関係がルカの指摘通りであることを暗黙裡に検証するに至る。

そして映像は、占領末期のナチスへのレジスタンスに身を投げ入れていくベルナールが、別離の際(きわ)になって、初めてマリオンと愛を確かめ合うシーンが挿入された。

ベルナールが別れていくときの、二人の会話を再現してみよう。

「あんたは怖かった。僕を見る目が冷酷でさえあった」
「冷酷?」
「そう。人を裁くように」
「全く反対だわ。私があなたに心を乱されていたのよ。それが顔に出はしないかと思い、頑なになって、あなたの憎しみを買ったのよ」
「嘘だ。憎んだことは一度もない」
「私の中に、女は二人いない」
「二人の女がいる。夫を愛さぬ妻と・・・」
「違うわ!」

この会話の直後、二人は求め合うように愛し合う。

そして、この男女の睦みの後に開かれた映像は、占領末期の混乱の中で、パリ市民が騒然とするさま。

そこにルカとマリオンがいることで、観る者は夫婦の関係が延長されていることを知らされる。

その後、前述した劇中劇が開かれるに及ぶのだ。

物語としての巧みな映像構成に脱帽するところである。



3  トリュフォーの、トリュフォーによる、ドヌーヴのための映画



ところで、ルカはなぜ、妻とベルナールの関係の本質を見抜いていたのだろうか。

舞台劇の様子を、地下室の通風孔の管を使って得る情報だけで、彼はその関係を把握したのである。

恐らくルカは、「消えた女」のステージの状況などから、ベルナールに対して必要以上に拒否的反応を示す妻の反応を感受することで、若い俳優に思いを寄せる妻の感情を読み取ったに違いない。

ルカは妻の人間性や、その感情の深い機微を知り尽くしているのだ。

そんな妻に対して、全く不満を漏らさないルカには、自分を命懸けで守ってくれる思いと同時に、女としての妻の包括力に対して、彼女を占有する能力を持ち得ていないことを感受したのかも知れない。

女としてのマリオンの包括力。

これが、映像の全てであると言っていい。

この難しい役どころを、トリュフォーはかつて恋人であったカトルーヌ・ドヌーヴに委ねた理由は分るような気がする。

ドヌーヴなしに、この難しい役どころを、観る者に厭味を抱かせることなしに表現することは困難であると思ったのだろう。

ここに、トリュフォー研究の第一人者、山田宏一の一文を引用する。

トリュフォーによるカトリーヌ・ドヌーヴ論が掲載されているからだ。

「『カトリーヌ・ドヌーヴはいつも不思議な、割り切れない、一種の〈あいまいさ〉をもたらす女優だ。

どんなシチュエーションも、どんなストーリーも。彼女がそこに入りこんできたとたんに、二重の意味を持つことになる。その背後には何か秘密が隠されているに違いないという印象をずっと与えずにはおかない存在なのだ。そうした〈あいまいさ〉〈二重性〉がしだいに形をなして映画の風土をつくっていくのである。

カトリーヌ・ドヌーヴのこの多義性は、おそらく、彼女のまなざしの鋭さにもよるだろう。彼女がどんなに表情をやわらげているときでも、そのまなざしだけはきつく、何か鋭く見つめ、明瞭にみきわめているかのようだ』という1969年に書かれたトリュフォーによるカトリーヌ・ドヌーヴ論は、『暗くなるまでこの恋を』の失敗を言葉で批評的に補い、弁解しているというよりは、むしろ、『終電車』に映画的に生かされ、実現されているのである」(「トリュフォー ある映画的人生」山田宏一著 平凡社/筆者段落構成)

「彼女のまなざしの鋭さにもよる」という「カトリーヌ・ドヌーヴのこの多義性」こそ、この映像を根柢から支配している。

そういう指摘だろう。

これは、「トリュフォーの、トリュフォーによる、ドヌーヴのための映画」だったのである。



4  極めて人間的な感情前線を騒がす物語の鋭角的な交叉



この映画に緊迫した状況のリアリズムがあまり感じられないのは、映画本体を三人の男女の物語としての骨子で固め、それぞれの心理の微妙な綾を描き出す映像構成を貫流させてしまったからである。

占領下に置かれた見知らぬ男女の心理を根源的に掬い取った映像に、イシュトヴァーン・サボー監督による「コンフィデンス 信頼」(1979年製作)という秀逸な作品があるが、この作品が占領下の異常な緊迫と、そこに潜む微妙な心理の振幅をテーマにした作品であるのに対して、どこまでも本作は、フランス映画の伝統的な物語への回帰が濃厚に感じられる作品になっていた。

「カイエ・デュ・シネマ」の誌上で、フランス映画の巨匠連の伝統的な「詩的リアリズム」を酷評し続けてきた、ヌーベル・バーグの一方の旗手である、この、「フランス映画の墓掘り人」の変節への批判が起こったのは当然であるだろう。

以下、その批判文の一例を紹介する。

1983年に刊行されたジャン=リュック・ドヴァン編の「二十五年後のヌーヴェル・ヴァーグ」に収録された、「ルネ・プレダルによるインタビュー」がそれである。

演出中のトリュフォー
「フランソワ・トリュフォー氏は『アール』紙でわたしたちのつくる映画が反動思想を世にばらまいているなどと非難したものだが、見当はずれもいいところだ。小生意気な映画ジャーナリストが大向こうをうならせるようとして企んだあざとい論争にすぎない。

何もかも嘘っぱちだ。

わたしは映画はすべて、反動どころか、異議申し立ての映画だ。同じナチ占領下のパリをあつかった映画でも、わたしの『パリ横断』とトリュフォー氏の『終電車』を比較してみれば、それはすぐわかることだ。

トリュフォー氏の映画は当時の世相について間違いだらけであるばかりか、紙クズのように無気力な映画だ。それとは逆に『パリ横断』は怒りと反逆の映画だ。毒のある映画だ。だから、けっして古びることはないだろう。

ヌーヴェル・ヴァーグの若い連中は、じつはわたしよりもずっと保守的だったんだ。やつらはただわたしたちの地位がほしかっただけだと思うね。若さの反逆だなんて、笑わせちゃいけない。わたしたちを映画監督の座からひきずりおろして、その後釜にすわろうとしただけなのさ」(「トリュフォー ある映画的人生」山田宏一著 平凡社/筆者段落構成)

「終電車」を「紙クズのように無気力な映画だ」とまで言ってのける、とても痛快な批判文である。

「カイエ・デュ・シネマ」でのトリュフォーの酷評や弾劾を、「若さの反逆」とすら認めない痛罵こそ、「ずっと保守的だった」と断じるヌーベル・バーグへの当然のリバウンド現象であるとも言えるだろう。

フランソワ・トリュフォー監督
他者を批判するにはそれだけの覚悟を持つべきなのだが、「政治の季節」に対して無関心だったトリュフォーにその覚悟がどれだけあったか、私には知る由もない。

思うに、50代の若さで逝ったトリュフォーを、今なお許さない巨匠連の恨みが集合する、極めて人間的な感情前線を騒がす物語の鋭角的な交叉こそ、限りなく映画的だった。

容易に自己完結に向かえない、この映画的な被写界深度の包括力の内に、映像フィールドのブルーな前線が這っているのである。

まさに、私たちの一人一人の固有の人生こそ映画的であるからだ。

(2010年6月)

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